さび付いたインターフェース
前回はPCの設定画面が急激に変化することに老人は追いつけないと苦情を述べた。今回は逆にさびついたインターフェースもある、と指摘しておこう。
それは何か? 新聞紙面である。いまの大きさの新聞紙がいつできたのか、それを私は知らないが、私の少年期でもあった戦中、すでにそうであった。いま検索してみたら、明治時代からそうらしい。
この新聞の寸法は老人にとっては悩ましい。まず、大きすぎる。ページをめくるにも、全体を折りたたむのにも、小柄の老人にとっては、とくにその老人の筋肉が傷んでいる場合にはしんどい。くわえて、視力が衰えている場合には、拡げて見開きの全面をスキャンするのは厄介だ。とくに経済紙ともなると、フォントが小さい。全面のスキャンはまず不可能。
さらに加えて、近年の新聞には全面広告が多い。その部分は多くの読者にとってはノイズにすぎないだろうが、その部分のページのみが厚手の良質紙をつかっていることにも、老人は納得できない。
新聞紙の大きさを調べると、一般紙のそれをブランケット版というよし。その規格は、406.5mm×546mmだという。この数値はあきらかに本来の規格が英語圏にあったことを推定させる。たぶん、明治時代、最初に輸入した輪転機が英国製か米国製であったためだろう。それが鉄道のゲージ幅や電力のサイクル数のように、近代日本のなかに埋め込まれてしまった、ということかな。
新聞はいわば知的インフラといっても差し支えないだろう。それが明治の枠組みに束縛されている。現代が「ドッグズ・イヤー」と呼ばれるようになってからすでに久しいのに。似たようなインフラがないかな、と考えてみたら、そう。ありましたね。あの、QWERTY配列。こちらにはその功罪についていろいろな説があるようだが。
数年前だったかな。私は某紙の編集委員に会ったことがある。そのときに私はあらまし上記のような苦情を述べ、せめてタブロイド版にしたら、と提案した。その答えは明快なノーであった。そして付け加えた。タブロイド版はイエロー・ペーパーの使うものだ、と。
もうひと言。新聞は読みにくいばかりではない。おそらく他のメディアに比べて大量のエネルギーを消費しているはずだ。森林の伐採→輸送→パルプの生産→輸送→製紙→輸送→輪転機の運転→宅配――以上のすべてのプロセスでエネルギーを消費しているはずだ。
もうひと言、私が現役の企業人であった数十年前、中間管理者の出社後の最初の仕事は、新聞を数種よむことであった。かれらは、まず、競合会社の記事を探し、ついで、昇進記事や死亡記事をブラウジングすることであった。後者は取引先に幸不幸があったときにそれを見逃すことを恐れたからである。
さらにひと言。現在の新聞は他のメディアとの競争力を失った。だから、デジタル版を出すのだろう。残されたものはなにか。ジャーナリストの魂だろう。それを支えるのは誰か。後期高齢者という読者だろう。幸か不幸か、後期高齢者はデジタル版に乗り遅れている。ここがねらい目かな。