嘘の人文科学
前3回分の記述を読み返したら、「そもそも嘘とは何か」「嘘はいかなる場合も悪なのか」「嘘が許される場合があるとすれば、どのような場合か」といった疑問が湧いてきました。この問いに答えられる学問は、哲学か社会学でしょう。私は、シセラ・ボクの ”Lying: Moral Choice in Public and Private Life”(Pantheon Books, 1978年。古田暁(訳)『嘘の人間学』TBSブリタニカ、1982年)しか思い浮かびませんので、彼女の指摘を踏まえながら考え直してみました。
・シセラ・ボク(Sissela Bok)と “Lying”
まず著者のシセラ・ボクについて。ブックカバーにある著者紹介では、「ノーベル経済学賞受賞者ギュンナー・ミュルダールを父に、社会学者で元スウェーデン軍縮相アルバ・ミュルダールを母に持ち、夫はハーバード大学学長デレク・ボク」とあります。非の打ちどころのないサラブレッドのようです。因みに、母もこの本の刊行後の1982年に、ノーベル平和賞を受賞しました。
彼女はもともと医学上の倫理問題の研究者で、「プラシーボ(偽薬)は受け容れられるか」といった視点から研究を続けていたようです。そして嘘の根源に関する研究を始めてすぐ、「嘘」というテーマは「哲学の常としてギリシャ時代から議論されてきたことではあるが、他のテーマに対して著しく先行研究が少ないこと」(序文から)に驚いたといいます。
そこで彼女なりの分析を、以下のような構成で展開しています。まず「うその本性、それが人間の選択におよぼす影響、うそを評価するための基本的な方法」(同じく序文から)といった総論に当たる章として、1.「真実のすべて」の把握は可能か、2.真実さ、欺瞞、信頼、3.決してうそをついてはならないのか、4.(前3章の)諸結果を比較衡量する、の4章が置かれています。
その後は各論に入り、5.悪意のないうそ、6.言いわけ、7.正当化、8.危機に際してのうそ、9.うそをつく者に対するうそ、10.敵に対するうそ、11.同僚と顧客を守るうそ、12.公益のためのうそ、13.欺瞞を利用した社会科学研究、14.温情的なうそ、15.病人と瀕死の人に対するうそ、といった多くのケースが検討され、16.結論、に至ります。
こうした分析を通じて、彼女の基本的立場は「うそは無い方が良いが、必要悪の場合もある」という視点で貫かれているように思えます。倫理学者としては当然かもしれませんが、決して天才にありがちな硬直的な主張ではなく、世間の実態、とりわけ終末医療の現実を踏まえた柔軟な発想の持ち主と見受けました。第15章の末尾にある次の件が、その典型です。
治療を必要とする人の物の見方は、それを施す人のそれとははなはだ異なる。前者は、患者にとって最も基本的問題は治療に当たる人を信頼できるかどうかにあると考える。慎重な条件付けがなされた少数の場合を除いて、あらゆる場合に正直であることを厳しく要求している。後者は欺く自由の必要性、それもときにはまったく人道的理由のために必要であると考える。両者の間のずれを埋め合わせ、信頼を回復するには、2つの視点を明るみに引き出し、例外的な事例を率直に論じることが必要なのである。
・意識しないウソと「嘘も方便」
しかし読み終わって暫くして、ここで展開されている「うそ」が、故意の場合か、少なくとも意識的なものであることに気づきました。上述の各章のタイトルからも察しがつくように、うそをつく人が発言の状況やそれが及ぼす影響を知っている場合が大部分で、せいぜい第5章か第6章が「無意識的なうそ」に触れている程度です。
ところが、「本人が自覚しない嘘」という類型に、もっと注意を払うべきではないかと思われます。というのも、偶然テレビのインタビュー番組を見ていたら、書物を書くために4,000人以上もインタビューしたという保阪正康氏が登場して、「1:1:8の法則」を説いていたからです。言わんとするところは、インタビューに答える人のタイプは、どこまでも正直な人が1割、嘘が多い人も1割、残りの8割は「善意で自分を美化する人」だということです。
これには、読者の皆さんも思い当る「ふし」があるのではないでしょうか。就職の面接で「さも勤勉な働き手」だという印象を与えたい、授業参観の日には「いつも良く勉強している」風に装いたい、人間ドックの検診では「日頃から健康に気を付けている」と申告してしまう、アンケート調査で知り合いの講師の評価を聞かれたら「大変良かった」に○を付ける等々。
これらは、罪の度合いが軽いだけでなく、その後の人間関係を円滑にするという効果もあります。そのことは、多くの文学作品のテーマになっているほどで、ボク自身が引いているように、シェークスピアも次のように言っています。
「だから私は彼女に彼女も私に嘘をつく。人間の欠点として嘘で嬉しがる。」(シェークスピア、西脇順三郎(訳)「ソネット」『シェークスピア全集第8巻』筑摩書房)
むしろ問題は、日本人は西欧人よりも、このような性向を是とする度合いが強いかどうかです。そこで、「嘘も方便」というわが国のことわざを英語でどう表現するかを、英和辞典を中心に調べてみたところ、以下のような訳がありました。The ends justify (sanctify) the means. Circumstances may justify a lie. It’s sometimes necessary to tell a lie in order to achieve the goal. It’s sometimes necessary to stretch the truth. A necessary lie is harmless. 語感としては、前2者が英語的、次の2者が日本語的で、最後のものが意訳だが最も原文に近いように思えますが、いかがでしょうか?
これは言葉の遊びのように見えるかもしれませんが、実は『嘘の人間学』の訳者である古田暁氏も、「本書の底にある西欧特有のダイコトミー(二分法)的思考が読者にどこまで理解され、また受け入れられるか、危惧の念をいだかざるをえないことが一度ならずあった。」とされています。嘘という単純そうな現象には、奥深い何かがあるようです。
・嘘が優位の時代は困りもの
しかし、現代社会で心配すべきことは、別のところにあります。ロシアゲート事件の捜査が大詰めを迎えて、トランプ大統領の悪行が暴かれつつありますが、彼の最大の欠陥は「嘘を嘘とも思わない。気に入らないことは全部嘘だと片付ける」ことではないでしょうか? 誰もが日々目にする大統領自身が「嘘つき」だとしたら、国民が真実を追求する意欲も萎えてしまいます。
「嘘も方便」の趣旨は、「原則的には嘘をつくべきではない」ことを前提にして、「ごく例外的に嘘の効用が評価される場合がある」というに過ぎません。この原則と例外が逆転して、「大部分は嘘だが、ごく稀に真実が混じっている」のが常態の社会では、人々は「まず疑ってかかる」ことにならざるを得ず、社会生活を営むためのコストが増大するばかりか(社会学では「信頼とは社会的複雑性の縮減メカニズムである」という説が有力です)、ギスギスした社会になってしまいます。
ボクは、ニクソン大統領のWatergate 事件への関与に疑問を持って先の本を書いたとも聞きますが、現時点で全面改定するとすれば、どのような内容になるでしょうか? この間約40年の時代の変化と、米国の競争力と威信の低下を思わざるを得ません。