人間至上主義の勃興と凋落
サピエンスの進化を推進してきた「人間至上主義(humanism)」を突き進めることが皮肉にも人間至上主義そのものを突き崩し、ホモ・デウスの誕生、あるいはデータ至上主義の社会へ行き着くというのが本書の主題である。
「人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える」、「人間至上主義を実現する試みが、なぜその凋落につながりうるのか?不死と至福と神性の追求が、人類への私たちの信頼の基盤をどうして揺るがすことになるのか?この激動にはどのような前兆があり、私たちが日々下す決定に、それがどう反映しているのか?そして、もし人間至上主義が本当に危機に瀕しているのだとしたら、何がそれに取って代わられるのか?」
議論の中心はアルゴリズムである。
彼は「アルゴリズムとは、計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用できる、一連の秩序だったステップ」と説明したうえで、「生物学者たちは過去数十年間に、ボタンを押して紅茶を飲む人もアルゴリズムであるという確固たる結論に至った」、「生命科学では、生命とはデータ処理に尽きる、生き物は計算を行って決定を下す機械である、と考えられている」と述べる。
ひとことで言えば、生命とはデータ処理だとする生命科学の考え方が、コンピュータ科学と結びついて、そこに他の経済的、政治的要因も重なり、いまや「自由主義」や「個人主義」という人間至上主義の信念を突き崩しつつある。
「この流れ全体を勢いづかせているのはコンピュータ科学よりも生物学の見識であるのに気づくことがきわめて重要だ。生き物はアルゴリズムであると結論したのは生命科学だった」。
本書によって、2つの例を上げよう。
まず21世紀に自由主義の信念を時代遅れにしかねない3つの実際的な進展があった。
①人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため経済と政治の制度は人間にあまり価値を付与しなくなる。
②経済と政治の制度は、集合的に見た場合の人間には依然として価値を見出すが、部類の個人としての人間には価値を認めなくなる。
③経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口の大半ではなくアップグレードされた超人という新たなエリート層を構成することになる。
また「人間がアルゴリズムには手の届かない能力をいつまでも持ち続けられると思うのは希望的観測にすぎない」とする現在科学の考え方をこう説明している。
①生き物はアルゴリズムである。ホモ・サピエンスも含め、あらゆる動物は膨大な歳月をかけた進歩を通して自然選択によって形作られた有機的なアルゴリズムの集合である。
②アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されない。
③有機的なアルゴリズムにできることで、非有機的なアルゴリズムにはけっして再現したり優ったりできないことがあると考える理由はまったくない。
というわけで、「人間をコンピュータアルゴリズムに置き換えることはますます簡単になっている」。そのあとで「それは、アルゴリズムが利口になっているからだけではなく、人間が専門化しているからでもある」と書いているが、専門化とは別に、私たちの回りにどんどんマニュアル人間が増えているのも確かである。「外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能」になれば、「個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへ移る」。
そして、個人主義に対する従来の信念、①私は分割不能の個人である。②私の本物の自己は完全に自由である。③私は自分自身に関して他人には発見しえないことを知りうる、という前提は、①生き物はアルゴリズムであり、人間は分割可能である。②人間を構成しているアルゴリズムは遺伝子と環境圧によって形づけられており、自由ではない。③外部のアルゴリズムは、私が自分を知りうるよりもはるかによく私を知りうる、という科学的知見によって駆逐されてしまうだろうと著者は言う。
・テクノ人間至上主義とデータ至上主義
人間至上主義に代わって登場するのが、テクノ人間至上主義(techno-humanism)とデータ至上主義(dataism)である。
前者は連載④でふれたカーツワイルの考え方に近いが、テクノ至上主義に関してこう書かれている。「この宗教は依然として、人間を森羅万象の頂点とみなし、人間至上主義の伝統的な価値観に固執する。テクノ人間至上主義は、私たちが知っているようなホモ・サピエンスはすでに歴史的役割を終え、将来はもう重要でなくなるという考え方には同意するが、だからこそ私たちは、はるかに優れた人間モデルであるホモ・デウスを生み出すために、テクノロジーを使うべきだと結論する」、「最初の認知革命による心の刷新で、ホモ・サピエンスは共同主観的な領域へのアクセスを得て、地球の支配者になった。第二の認知革命では、ホモ・デウスは想像もつかないような新領域へのアクセスを獲得し、銀河系の主になるかもしれない」。
ここで著者は人間の心を改造しようとする試みの危険性について、さまざまな懸念を記している。
人間の心のベクトルはまだよく解明されておらず、とんでもない方向に脱線する恐れが強く、「テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない」。さらに著者が警告するのは、体制や権力(エリートであり、ホモ・デウスでもあろう)に順応的な人間が作られる可能性である。「私たちは何百万年にもわたって、能力を強化されたチンパンジーだった。だが、将来は、特大のアリになるかもしれない」。
データ至上主義では、人間の心そのものが無視される。非有機的生物の誕生とも関係するが、「より大胆なテクノ宗教は、人間至上主義のへその緒をすぱっと切断しようとする。最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する」、データ至上主義は「動物と機械を隔てる壁を取り払う。そして、ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える働きをすることを見込んでいる」、「つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピュータアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ」。
いよいよ議論はクライマックスを迎えるが、このデータ至上主義こそ現在インターネットが推進しつつある巨大グローバルシステムの誕生であり、すでに身の回りで急速に進んでいる事態とも言える。
「グーグルやフェイスブックなどのアルゴリズムは、いったん全知の巫女として信頼されれば、おそらく代理人へ、最終的には君主へと進化するだろう」、「自分しか読まない日記を書のはこれまでの世代の人間至上主義者にとっては普通のことだったが、多くの現代の若者にはまるで意味がないことのように思える。『すべてのモノのインターネット』がうまく軌道に乗った暁には、人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑み込まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない」、「21世紀の新しいテクノロジーは、人間至上主義の革命を逆転され、人間から権威を剥ぎ取り、その代わり、人間ではないアルゴリズムに権限を与えるかもしれない」。