「真偽不明」と「情報の非対称性」
これまで数回にわたって、偽装やフェイク・ニュースといった故意の嘘、方便や無意識でつく(過失的な)嘘の両面を紹介し、情報はグレイで真偽不明の場合が多いため、故意に誤った情報を流したいと思っている人にとっては、「ヤリ得」の状況になっていることを指摘しました。このような事態が望ましくないことは、読者の皆さんも認めるところかと思いますが、事象を科学として分析し、その対策を曲がりなりにも考えたのは、経済学が最初だったと思います。そこで事例の説明は一旦止めて、「情報の経済学」が見出した理論的な知見について、考えてみましょう。
・「レモン」の市場
市場における取引は、当事者双方が十分な情報を持ち、また合理的な判断ができるという暗黙の前提に基づいています。しかし、世の中にはそれらの条件が満たされないものも多く、このような疑似市場は、やがて機能しなくなる運命にあります(市場の失敗)。
その代表例である「レモンの」市場について最初に取り上げたのは、ジョージ・アカロフです。彼は中古車市場で購入した車は故障しやすいといわれる現象のメカニズムを分析して、「情報の非対称性」という概念を経済学に根付かせました(Akerlof, George [1970] “The Market for Lemons: Quality Uncertainty and the Market Mechanism”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 84 No.3)。
Lemonとは「欠陥品」を指し、俗語では質の悪い中古車を意味しています。中古車のように、実際に購入してみなければ真の品質を知ることができない財が取引されている「レモンの市場」では、売り手は取引する財の品質をよく知っているのに、買い手は財を購入するまでその品質を知ることが難しい状況にあります(情報の非対称性)。そこで、売り手は買い手の無知につけ込んで、悪質な財(レモン)を良質な財と称して販売する傾向があるため、買い手は良質な財を購入したがらなくなり、結果的に市場に出回る財はレモンばかりになってしまうという問題が発生します。
そのメカニズムを単純な数値で説明すると、以下のようになります。いま市場には、高品質と低品質の2種の財しかなく、それぞれ半々の割合で存在しているとしましょう。売られている財の品質を熟知している売り手は、高品質の財は30,000ドル以上、低品質の財は10,000ドル以上ならば販売してもよいと考えているとします。
しかし買い手にとっては、売られている財の正しい品質を判断することが困難なため、半分の確率で財が低品質であると推測することになります。この場合、買い手にとっての財の価値は、高品質な場合の30,000ドルと低品質な場合の10,000ドルの平均である20,000ドルとなり、買い手はそれ以上支払いたくありません。このことを予想する売り手は、20,000ドルより高い財を市場に出すことを諦め、それ以下の財だけが取引されるようになります。
この結果、今度は買い手が支払ってもよいとする平均価格も15,000ドルまで低下し、売り手は15,000ドル以上の財を市場に出すことを諦めます。このような連鎖の結果、売り手は高品質の財を売ることができず、低品質の財ばかりが市場に出回る結果となり、社会全体の厚生が低下してしまいます。このような現象は、通常は良いものが選ばれ生き残るという選抜や淘汰の逆であるという意味で、「逆選抜」、「逆淘汰」と呼ばれます。
・逆選択とモラル・ハザード
情報の非対称性が存在する状況では、情報優位者(保有している情報量が多い取引主体)は情報劣位者(保有している情報量が少ない取引主体)の無知につけ込み、粗悪な財やサービス(レモン財)を良質な財やサービスと称して提供したり、都合の悪い情報を隠して保険サービスなどの提供を受けようとしたりするインセンティブが働きます。その結果、一般的に期待される市場機能が歪んでしまいます。
歪みの1つである「逆選抜」は元々保険市場で使われる用語で、保険加入者が幅広い層に行き渡らずに特定の層(多くの場合、保険金支払いの確率が高い層)に偏ってしまう現象を指します。医療保険を例にとると、保険会社としては自身の健康や安全を心掛け、病気や事故と無縁の人物と契約するのが望ましいでしょう。しかし保険会社が、ある人物が健康に気を配っているのか、それとも全く気にしていないのかを判別できるとは限りませんので、こうした事情を考慮しない一般的な提供条件を示す以外にありません。
そこで、保険会社が嫌がるような不健康な、あるいはリスクの多い生活を送る者は、その条件でも自分にとって得になると考え、その保険に加入するインセンティブを感じます。しかしそうではない人物、保険会社が本来想定するはずであろう人物は、加入しないかもしれません。このため保険会社の元を訪れる加入希望者は、本来保険会社が望まないであろう属性を有する人物らに偏っている可能性があります。
もう1つ、経済学が発見した重要なテーマとして、「モラル・ハザード」がありますが、そこには3つの問題が混在しています。1つは保険におけるモラル・ハザードで、保険に加入することにより、リスクをともなう行動が生じること(例えば、火災保険に入っていると、火の取り扱いに関して十分な注意を払わないなど)を言います。
2つ目は、経済学の言う「プリンシパル=エージェント関係」(「使用者と被用者の関係」など)において、情報の非対称性によりエージェントの行動についてプリンシパルが知りえない情報や専門知識がある(片方の側のみ情報と専門知識を有する)ことから、エージェントの行動に歪みが生じ、効率的な資源配分が妨げられる現象を言います。これは情報の非対称性に起因するものですが、時として「モラル・ハザード」とも呼ばれ、企業の不祥事を経済学的に説明する際の定本になっています。
なお第3の意味として、わが国では、より広い意味で「倫理観や道徳的節度がなくなり、社会的な責任を果たさないこと(「バレなければよい」という考えが醸成されるなど)」を指す場合がありますが、米国を中心に発展した経済学では、この意味で用いることは稀で、わが国の理解はmoralという英語を正しく理解していないことから生じたものと思われます。
因みに、著作者人格権の英語はmoral right ですが、ここでのmoralには倫理的な意味はありません。
・レモンの市場の是正策
レモンの市場が、望ましい経済効果をもたらさないとすれば、それを是正する方法はあるのでしょうか。保険サービスを例に取ると、逆選択に関して、売手の方が情報量が多い場合は、第三者機関が審査・検定を行ない、買い手に対して財やサービスの品質を保証する方法が考えられます。保険業界に伝統的に適用されてきた約款規制は、このような視点からは支持されるでしょうが、近代の規制緩和の流れには逆行することになります。
他方、買手の情報量が多い場合には、個人ではなく、企業やサークルなどの団体単位で保険への加入を促す方法があります。個人を中心に加入者を募集すると、早死にする確率の高い人が申請する可能性が高くなりますが、ある程度以上の規模を持つ企業やサークルに、病気がちな人ばかりが集まっているケースは極めて特殊です。全体の危険度は平均的な水準に落ち着くと予想されるので、保険会社は団体加入を優遇することによって、逆選抜の問題を回避できます。
これを更に発展させて、法律で加入を義務づけ、選抜そのものを双方に不可能にする「強制保険」も考えられます。医療保険や社会保障制度はその代表例ですし、自動車損害賠償保障法に基づく自賠責保険(共済)制度が、モータリゼーションに果たした役割は無視できないでしょう。
これらの動きを経済学では、シグナリングとスクリーニングと呼んでいます。 signalingとは、前者のように、私的情報を保有している者が情報を持たない側に情報を開示するような行動をとることを言い、情報を持たない者が情報を持つ者に情報を開示させるように選別を行うことをscreeningと言います。
これらの概念は、経済的な取引の対象となる情報、つまり「財貨としての情報」を分析する上ではある程度の有効性を示してきました。しかし、それ以外の情報、例えばフェイク・ニュースにも適用できるかとなると悲観的です。思想も市場で取引可能ではないかという「思想の自由市場論」は、日本の憲法学者の間でも人気がありますが、それを支えたいのであれば、「言論の自由を保ちつつ、フェイク・ニュースは排除する」新しい仕組みを考える必要がありそうです。
・品質表示の重要性と情報の経済学の限界
実は、今回紹介した記述は、本連載第12回「品質保証と『情報の経済学』」(2018年1月9日投稿)と第13回「品質保証の制度的枠組み」(2018年1月26日投稿)で述べたことと一部重複しています。重複を厭わず記述したのは、情報法における「品質表示の重要性」がそれだけ高い、と理解していただければ幸いです。
なお、この点に世間の関心を引き付けたという限りでは、経済学の貢献は高く評価されるべきですが、少なくとも今日現在での「情報の経済学」は、より広義の「取引費用」の経済学の一部ではあっても、「財としての情報」の経済学ではないように思えます。この点についても、上記2回分の記述をお読みください。