連載の途中ですが、去る4月20日に情報セキュリティ大学院大学で「最終講義」の機会をいただきましたので、「情報を生業にして56年:何が分かったか」と題して、1時間ほど漫談調の話をさせていただきました。この3月に修士課程を修了したばかりの若江さんに、レポートを書いていただきましたので、ご紹介します。
「情報を生業にして56年」を聴講して
卒業生・若江雅子(読売新聞編集委員)
「Eureka(エウレカ)」とは、発見を意味する古代ギリシャ語で、「Eureka Situation」 は、これまで解くことのできなかった問題を突然、理解した時の歓喜の状態を指すという。情報セキュリティ大学院大学で4月20日に開かれた、林紘一郎教授の最終講義で教えて頂いた。
アルキメデスが入浴中、浴槽に入ると水位が上昇し、その上昇分の体積はお湯に浸かった自分の身体の体積と等しいと気づいて、「Eureka!(私は見つけたぞ!)」と叫んだという逸話からくるそうだ。ウィキペディアによると、アルキメデスはこのとき、喜びのあまり浴槽から飛び出して裸のまま町中を走り回ったという。林先生はこのような発見の歓喜をご自分でも何度か体験されたそうだ。もっとも先生が裸で走り回られたかどうかは定かではない。
その発見の一つが、通信と放送の融合である。通信事業と放送事業の相互参入の動きは、今年になってNHKのインターネット常時同時配信の解禁が閣議決定されるなど、今でこそ当然の流れとして受け止められているが、林先生が「インフォミュニケーションの時代」(中公新書)の中でこの動きを「予言」されたのは、電電公社(現・NTT)在職中の1984年。まだインターネットの前身であるJUNETが一部の大学間でつながったばかりで、車載電話もようやく実用化が始まった頃であるから、驚くばかりだ。朝の4時頃に突然、目が覚めて思いついたとのことで、心の中で「Eureka!」と叫ばれたに違いない。
「予言力」とでもいうのか。先を見通すその力は、NTT退職後、慶応大学で法学博士を取得された後、まず著作権法に狙いを定めたところでも発揮されたように感じる。無体財である「情報」に対して、有体物を前提にした所有権のアナロジーを適用するのは無理があり、全く別なアプローチが必要になるーーと考えた先生は、まずはそのモデルを著作権法の世界に求められたのだという。
情報財は「排他性(他人の利用を排除することができる)」と「競合性(自分が使っていると他の人は使えない)」を欠き、「公共財」に近い面がある。さらに、デジタル化により容易かつ安価に、しかも劣化することなく複製・拡散され、一度流出したら取り戻すことができないなどの特徴をもつ。これに対し著作権制度は強硬に従来型の所有権アナロジーで対抗しようとしており、いずれ混乱がくると予想した林先生は、その衝突の構図の中に情報法の抱える問題が浮き彫りになると判断されたのであろう。先生の予測から十数年を経て、現行の著作権制度が抱える矛盾と困難は、海賊版サイトを巡るブロッキングやダウンロード違法化・刑事罰化の騒動で露呈したのはご承知の通りである。
最終講義で先生は繰り返し、ご自分が「実学」の研究者であることを強調されていた。「働きながら考え、仕事で吸収したことを書いてみてもう1回考え、理論化してまた仕事にフィードバックするというやり方をしてきた」。先を見通す卓越した能力は、実学の人ならではのものなのかもしれない。
特に印象的だったのは、1947年にハーバート・サイモンが「Administrative Behavior」で提唱した「限定合理性」の概念を引用して、「人間が合理的に考えるとの前提は大間違い」として、それがサイバー・セキュリティ分野の理論構築の極意であるとおっしゃった点である。経済学と法学で博士号をもつ先生だが、「『人間は合理的な存在である』という経済学も、『人間は合理的な判断ができる』という法学も、近似解を与えるにすぎない」とされる。人間は「最適解」ではなく、「次善解」でやりくりすることで辻褄を合わせているもので、とりわけセキュリティ分野では、この「良い加減さ」を理論に組み込んでいかなければ現場に適用できないというのである。情報セキュリティ大学院大学で林先生の授業を受けた学生の多くは、サイバー・セキュリティの第一線で奮闘する社会人学生が多いが、腑に落ち、勇気づけられる言葉だったのではないだろうか。
ところで、先生はこの日の最終講義のために、これまで発表した自身の著書、論文を洗い出してみたところ24本あり、その内訳は、経済学3、企画・経営学8、法学9、そしてセキュリティが4だったと披露された。セキュリティ分野での論文は2011年以降の共著の論文4本で、その比重が小さいことはご自身も意外だったようで、「セキュリティ分野の研究はまだまだやり足りない。この分野はまだ開拓可能である」と力強く抱負を述べられた。この先も先生がたびたび「Eureka!」と叫ばれるであろうことは間違いない。教え子である我々も、先生の後塵を拝しながら精進し、せめて1回ぐらいは「Eureka!」の快哉を叫びたいものである。