林「情報法」(41)

情報の「法と経済学」の可能性

「嘘」を巡って人文科学から出発して、経済学と法学の両面から種々の分析を加えてきました。この辺りで、「情報の人文・社会科学」を今一歩前進させるためのヒントについて、私が援用する方法論である「法と経済学」を前提にしながら、まとめてみましょう。

・「情報の非対称性」の分析だけでは「情報の経済学」にならない

 これまでに検討してきた各種の仮説の中で一番有用と思われたのは、「情報の非対称性」に関する経済学的分析だったかと思います。経済取引が当事者間の合意だけで成り立つためには、明確な権利の設定・公平な市場のルールなどの法整備が大前提になり、財の確定性・限界費用逓増・外部性のなさ等とともに、両当事者が取引に必要な情報を持っていることが条件となります。ところが実際には、これらの条件を完全に満たすことは稀で、特に売手と買手の間の情報量に差があることが、問題とされるようになりました。

 この点に着目した「情報の非対称性」の分析は、取引の前提になる「価格」などの情報(つまり「取引手段としての情報」)が、当事者間で偏在しがちなことや、それが取引結果にどのような影響を与えるかを説明できるので、便利な道具として使われてきました。その結果、一部では「情報の非対称性の分析」=「情報の経済学」という誤解が生じたほどです。

 しかし、良く考えて見れば分かる通り、これは「取引費用の経済学」に発展することはあっても、「財としての情報」(「取引対象としての情報財」)そのものについての分析ではないため、「情報の経済学」の一部でしかありません。「取引手段としての情報」から「取引対象としての情報」へと、分析の重点を変えることは大いなる飛躍であり、ジャンプするのは容易ではありません。「財としての情報」を扱う情報産業は、日々新しい技術を生み、シュンペーターの言う「イノベーション」を繰り返しているからです。

 20世紀末に、評価の高いミクロ経済学の標準的教科書の著者であるハル・ヴァリアンがカール・シャピロとの共著Information Rules: A Strategic Guide to the Network Economy(1998年。邦題:「ネットワーク経済」の法則)を公刊して、これこそ「情報の経済学」の最初の書物であると注目されました。ところが、その後彼は学界を去り、Googleのチーフ・エコノミストになってしまいました。ビッグ・データを持っている所に行かないと、学問が出来ないことを暗示するような出来事でした

・「価値の不確定性」等がある限り「法学のみのアプローチ」では限界がある

 それでは、経済学の助けを借りず、法学だけで情報に関する規律を調えることは可能でしょうか? それは情報という対象に「価値の不確実性」が付きまとう限り、不可能とは言いませんが、非常に困難なことだと言わざるをえません。なぜなら、法学が規律を考えるに当たっては、一種の平均値管理をせざるを得ないからです。既に述べたように「合理的人間」というモデル化においても、「社会全体から見て平均的な感受性と判断能力を持ち、社会通念に沿った合理的な判断ができる個人」というように「社会通念」や「平均的な感受性」といった概念を導入するしかないからです。

 ところが情報の価値は、時と場所と態様によって、同一人においても千変万化します。例えば同じ私が、ある時重要だと思ったことが、数日も経たないうちに役立たずになったり、ある場面では不必要だった情報が別の場面では必要になったり、使い道次第で効用が180度変わったり、といったことはあり得ることですし、それを非難することはできません。これこそ、情報に固有の「価値の不確定性」という特質だからです。

 このような対象(法学的には「客体」)を扱う仕組みを、「平均値管理」が不可避な法の世界で成り立たせることは、これまでも経験したことの無い「事件」であり「不可能」と言いたいところです。しかし「情報法」を考える以上は、この問題を検討しないまま、入り口で排除することは出来ないと思います。喩えてみれば、量子論のように「生きているか死んでいるかを事前に決定できない。それぞれ50%の確率で生きているか死んでいるかのいずれかである」という、「シュレディンガーの猫」状態を是認せざるを得ないと思います。

「そんな夢物語を法学に持ち込むな」というお叱りは、もっともです。しかし量子コンピュータや量子暗号が実用に近づいている現代において、こうした「夢物語まがい」の事象を「入り口で排除する」ことは、学問の自殺行為になる恐れがあります。その際有効なのは「自分一人で考え込まない」「他の学問分野の知見を遠慮なく活用する」ということではないでしょうか? その場合、学問分野として近いのが経済学であることは言うまでもありません。

・行動科学的「法と経済学」なら役に立つか

 しかし「情報価値の不確定性問題」は、伝統的な経済学において克服されていませんし、行動経済学においても同じです。homo economics(経済合理的個人)の前提を緩め、実験経済学やゲーム理論を活用して「ほぼ合理的だが、時として非合理な判断をする」個人の行動分析に多くの貢献をしたことで、行動経済学の評価は高まったと思われます。それに意を強くして「法と経済学」の方法論も、「行動科学的法と経済学」へと変化しています。

 このように「経済人仮説」を柔軟に解釈したことは、一定の評価を与えても良いかと思いますが、経済学が「情報財」を経済分析の対象として認知し、他の財と比べてどんな特性があるかを深掘りしたかと問われれば、残念ながら答えは「ノー」と言わざるを得ません。不確実性の経済学・カオス理論といった分析道具の面で、期待を抱かせる仮説もありましたが、法学における「占有できない客体に対する権利設定」に比較し得る程度に、経済学の検討が進んでいるとは思えません。

 しかも、先に触れたとおり、最先端を走っていたヴァリアンがビジネスに転じたことで、逆に「学者の限界」を知らしめることになりました。新しい分析結果が、ビッグ・データを自由に利用できるGAFAのような超大企業からしか出てこないとすれば、学者が追跡調査する術もなく、結果だけを真似するしかありません。それは学問の発展にとって、最大の障害となる恐れがあります。

・歴史に学ぶことはできる

 しかし、希望がない訳ではありません。どんなに技術が深化しようが、社会の変化が激しくなろうが、過去に学ぶことの意義はなくならないことから、歴史研究から得るものがありそうです。中でも、情報化社会の進展とともに、歴史を「情報が果たした役割」の視点から見直そうとするアプローチは、意外なことを教えてくれます。

 例えば、近代ヨーロッパ経済史が専門の玉木俊明は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、わが国では人気のある仮説ですが、実はカトリックも資本主義の発達に寄与しなかった訳ではない点を強調しています(『<情報>帝国の興亡』講談社現代新書、2016年)。それどころか、両派の間はもちろん、言語の壁を超えて中国人やユダヤ人とも取引が行なわれたと言います。

 なぜなら、グーテンベルグの印刷革命によって、聖書が安くまた自国語訳で読めるようになり、宗教革命につながったのと同程度に、『商人の手引き』といったマニュアル(その代表例はフランス人サヴアリにより著され1675年から1800年まで実に11版を重ねた『完全なる商人』だと言います)による契約書の標準化や、商業新聞や『価格表』の普及による市場情報の迅速・正確な伝達が可能になったからです。

 これまでグーテンベルグ革命といえば、宗教改革と結びつきが強いものと考えられてきました。入試問題に出れば、両者を結び付ける線を引けば正解となるほど、両者の紐帯関係は強固なものだと思われたのです。ところが、それと同程度にグーテンベルグ革命が商業資本主義(あるいは重商主義)のインフラを提供していたとすれば、世の中を見る目を大きく変えることでしょう。このように「情報」という視点から、世界理解を見直すことから、意外な展開が期待できるかもしれません。