熊澤正人さんを悼む
私が1988年にパソコン使いこなしブック『ASAHIパソコン』を創刊した際のアートディレクターで、それ以来の良き友であり、かけがえのない仕事仲間でもあった熊澤正人さんが2019年1月にがんのために亡くなり、彼の71歳の誕生日にあたる(はずだった)6月29日に家族、親族、デザイナー仲間、編集者などが集い「しのぶ会」が開かれた。 思えば、『ASAHIパソコン』創刊の翌年1月から平成が始まり、彼が去ったのは平成が終わる半年ほど前だった。彼とともに歩んだ平成という元号の区切りは、折しも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、まさにIT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。
しのぶ会で挨拶する機会があり、その弔辞を読みながら、『ASAHIパソコン』創刊以来ずっとIT社会の変容を見つめてきた私自身の記録を残しておくのも、少しは意味があるように思われた。というわけで、この<新サイバー閑話>でも折々に「平成とITと私」と題するコラムを書きつけておこうと思う。
・<弔辞>
熊澤正人さん、こと熊さんにはじめてお会いしたのは、私が朝日新聞出版局でムック『ASAHIパソコン』シリーズを創刊するためのアートディレクターを探していた時でした。たしか出版局プロジェクト室の先輩に紹介していただいたのだと思います。
1987年初めでしたから、かれこれ30年も前のことです。そのときの熊さんのやさしい笑顔、穏やかな物腰は、その後の年月を通じて、がんに冒されて辛い闘病生活を続けた後年においても、ほとんど変わりませんでした。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
最初はムックの第1号だけを引き受けてもらうことになっていたのですが、無理を言って5巻全部を担当してもらい、さらには、ムック成功を受けて創刊することになったパソコン使いこなしガイドブック『ASAHIパソコン』のデザイン全般もお願いすることになりました。その後、『月刊Asahi』、『DOORS』とおつきあいはずっと続いて、私が朝日新聞を去ってからも著書の装丁などでお世話になりました。
『ASAHIパソコン』創刊の気勢を上げるために自宅裏の源氏山ではじめた花見宴も30年続きましたが、そこでも世話人として参加していただきました。その間に桜の木も参加者も老齢化し、花見は去年ではおしまいになりましたが、最初の年に熊さんが持って来てくれた紅白の垂れ幕が花見のシンボルとなり、今でも大事に保管してあります。
さながら
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
というふうな面倒見のいい熊さんを、朝日新聞社の雑誌部門や書籍部門の人も頼りにするようになり、朝日新聞での輪もずいぶん広がったようでした。がん発症を聞いたのは8年半前で、すでに末期的だというのでたいへん驚きましたが、それからは果敢にがんと向き合うと同時に、オフィス、パワーハウスの運営にあたって来られました。ここでもイツモシヅカニワラッテヰル姿が印象的でした。
装丁の最後の仕事は平成天皇御即位30年記念記録集『道』でしたが、2019年(平成31年)3月20日の刊行になっています。『ASAHIパソコン』創刊は1988年(昭和63年)11月1日号で、翌1989年1月から平成が始まりました。
折しも神田川の桜が満開のころ、仏前にご挨拶にお伺いしたとき、身内の方が書かれたたという詩句が捧げられ、そこに「最も田舎の心を持つ弟」とあるのが目に止まりました。まったくそうだったと思います。「都会のマンションに住んでいる」とも書かれていましたが、そのマンションの外でも満開の桜が風に舞っていました。
それにしても、長い闘病生活でした。いまは安らかな地で安住しておられることでしょう。ほぼ平成の期間とダブった30年をともに歩んだ思い出を噛みしめつつ。
2019年6月29日
サイバーリテラシー研究所代表(元『ASAHIパソコン』編集長) 矢野直明
・目黒の旧宅に65人が集う
会は目黒に残る旧宅を借りて、約65人の参加のもとに行われた。
そこには『ASAHIパソコン』や『月刊Asahi』、『DOORS』の表紙ばかりでなく、熊さんが装丁した多くの書籍の写真が並べられていた。奥さんやご子息、親族、パワーハウスの面々も列席され、あるいは忙しそうに働いていたが、オフィス、パワーハウスは奥さんを中心として今後も活動を続けていかれるという。
会場には歴代の『ASAHIパソコン』編集長や当時、世話になったデザイナー、イラストレーターなどの懐かしい顔もあり、熊さんの穏やかな人柄があらためてしのばれた。