林「情報法」(46)

多元化と相対化を急いで要約する「○か×か」

 お盆休み中に本棚の整理をしていたら、私の恩人の一人である庄司薫(福田章二)氏が早くも1973年(つまり約半世紀前)に、なぜ「ぼくたち」が二者択一に走るのかを喝破していたことを再発見しました(庄司薫『狼なんてこわくない』中公文庫、pp.167-168)。ここで「恩人」と言ったのは、「成長とは自らの持つ可能性が結局は不可能性にしか過ぎない」(福田章二『喪失』あとがき、中央公論社、1959年)ことを教えてくれた、と私が「片思い」しているだけの話で、他にも存在する多くの「恩人」と同じく、直接の面識はありません。

・約半世紀前の指摘

 ○×式が持つ社会的な意味を「多元化と相対化を急いで要約するため」と、半世紀も前に的確に記述していたのは、庄司氏以外にいないと思います。

(前略)価値基準が多元化し相対化していく一方で、選択処理しなくてはならない情報が洪水のように増大するという、本来なら「要約」することの最も困難な状況の中で、そのあまりの困難のゆえにかえって不安に耐えきれず、性急な「要約」を、○×式要約を求めるという風潮が、現代の矛盾した社会全体の「方法」になっている。おかしいことは分かっていても、「他にしょうがないじゃないか」というその瞬間瞬間の「必要悪」としての「要約」が、歯どめを持たぬままどこまでも浸透しつつある。

 そして「恩人」のすごい所は、この現象の背後にある人間の本性にも触れていることです。前の文章には、直ちに次の分析が続きます。

しかもこの場合注目すべきことは、これがたんなる時代の「風潮」というのではなく、ぼくたち人間の本能的ともいうべき欲求に基づいている、という点にある。すなわちぼくは、民主主義という最大の知的フィクションを含むおよそあらゆる価値の相対化は、根本的にぼくたちの本能に反する性格を持っていると考える。たとえば、自分の「正しさ」を信じられる場合にも、なお無数の他者の「正しさ」を寛容に許すなどということは、ぼくたちにとって極めて不自然な「抑圧」とならざるを得ないのだ。そしてその不自然さは、言いかえれば、ぼくたち人間は、およそ敵味方がはっきりしない状況の中では本能的に不安でたまらない、という事実に対応するのは明らかにちがいない。ぼくたちは、明確な○×に代わる無数の「?」には本能的に耐えがたい。ぼくたちは、一刻でも早く敵味方を識別したい、少なくとも敵だけでも知っておきたい。たとえ粗雑な○×式に拠ろうとも、そしてまたそれが多くの誤解や偏見を含む危険があろうとも、ぼくたちはとにかく○と×を、いや×だけでもさっさとつけて自分の不安から逃れたい——。

 この分析は、現代の主要国リーダーの多く(あるいはほぼ全員)に当てはまることに驚きます。そして彼の直感から出た分析が、その後の学問的実験で証明されたことに、改めて驚きます。シーナ・アイエンガ―は、リーダーではない一般人においても、「選択肢が多いことが必ずしも歓迎されるとは限らない」ことを発見しました(桜井裕子訳『選択の科学』文春文庫、2010年)。

 その実験では、「24種類のジャムの売り場と、6種類のジャムの売り場では、前者は後者の10分の1しか売れなかった」といいます。科学的証明までは成されていないものの、チームやグループの構成メンバーは、最大でも7人、できれば5人か6人が良いという経験則とも合致します。

・情報の不確定性と「あれかこれか」の危険性

 恩人の指摘は「デジタル・トランスフォーメーション」が避けがたい現代では、さらに深刻になっているようです。デジタル世界では、1か0かを単位(bit = binary digit)として情報を表現するのが基本です。これは、情報の「意味」を考えることをとりあえず止めて、ビットで計算可能な「情報量」に基づいて、「形式」面だけに着目して情報を伝達・処理しようという、シャノンの「情報理論」に基づくものです。

 このようなデジタル的発想には、何でも「あれかこれか」の二者択一で考える誘因が潜んでいますが、世の中の事象がすべて「1か0か」で分類できるわけではありません。特に「言論の自由」が係るような「多元性の世界」では、「あれかこれか」の危険は常に強調しリマインドしておく必要があります。

 直近の例を見ても、漫画村に代表される著作権侵害サイトをネット上から削除(その実はアクセス不能化)すべきか否か、「言論の不自由展」といった企画を誰がどのように運営すべきかといった「際どい」事案については、慎重な判断が求められます。

 繰り返すようですが、情報の価値は時と場所と態様によって変化するもので、その「不確定性」こそ情報の本質なのですから、これを一刀両断に切り分けるのは至難の業であることを忘れないで欲しいと思います。

・「秘密保護のあり方」に適用した場合

 以上の懸念を情報法に適用した場合、わが国において秘密の保護法制が未整備の中で、EUの個人データ保護規制が先行するため、「バスに乗り遅れるな」とばかり、プライバシー保護優先主義が、無意識のうちに醸成されていることが心配です。さらに、その方法論がEUの影響を強く受けて「自己情報コントロール権」といった「基本権」あるいは「絶対的排他権」として議論されていて、英米法的プラグマティズムから離れていくことも懸念材料です。そこには、複雑に入り組んだ「二値的発想」の弊害が見て取れます。

 まず、人格権のような「不可侵の権利」と捉えれば、人格権の一種→絶対的排他権→差止命令、といった具合に、手持ちの法技術で問題が簡単に解決できる(ように見える)自己陶酔に陥る危険があります。ここでは、人格権から始まったはずなのに、前回紹介した所有権から始まる三段論の場合の、所有権類似→絶対的排他権→差止命令、といった三段論法と「うり二つ」になっていることにお気づきでしょう。

 第2の「二値的発想」は、プライバシーの保護がそれ以外の秘密の保護とは異質なものとされ、「特別な保護に値する」ものとされていることです。具体的に言えば、秘密の保護法制においては、a) 私人のプライバシー保護に資する「個人データ」の保護法制、b) 企業の秘密を保護する営業秘密の保護法制、c) 国家の機密を保護する特定秘密保護法制、の三者が適度のバランスをもって整備されるべきところ、a) だけが突出していることに警鐘を鳴らす人が少ないのです。

 営業秘密の3要件(① 非公知性、② 有用性、③ 秘密管理性)は、a) ~ c) の三種の秘密にほぼ共通ですが、特に② の「有用性」は「保有者が秘密だと思う情報はすべて保護される」のではなく、「保護されるには有用な情報であるという客観性が必要」という要件を課す点で重要です。つまり「主観秘」は保護の対象ではなく、「客観秘」であることが必要で、そのためにも ③ の管理性が必須になってきます。

 営業秘密と特定秘密はこうした要件を備えているのが普通ですが、プライバシーだけは主観的要素が強いので、より複雑な処理が必要になるのは避けられません。ところが現実は、そのプライバシー保護に「二者択一」を適用しているように見えます。私が「二者択一から三択になっただけでも大ジャンプ」と言うのは、こうした現象を念頭においてのことです。