東山「禅密気功な日々」(2) 会報から②

背骨ゆらゆら、身も心もすっきり

 気をスムーズに流すにはどうすればいいか。体を揺するのが一番である。朱剛先生は「背骨で体全体の気をかき回す」と言われたことがあるけれど、禅密気功の築基功は体を揺することに特化したすぐれた功法と言えるだろう。そして、ただひたすら背骨を揺する築基功には、禅密気功の精髄が詰まっている。背骨(脊柱)はまさに体のバックボーンであり、中心であり、ここには内臓諸器官の神経も集まっている。背骨こそ滓がたまりやすい場所のようにも思われる。

 縦に揺するのが蛹動(ようどう)、横に揺するのが擺動(ばいどう)、回す、と言うより体を絞るのが捻動(にゅうどう)、すべてを組み合わせて体全体の気を動かすのが蠕動(じゅうどう)である。そのやり方は教室で朱剛先生の直接指導を受けつつ、テキストのCDやDVDを参考にしてほしい。事前に整えるべき態勢としての、密処を緩める(緩密処)、彗中を開く(展彗中)、三七分力(体重の7割を踵に)、三点一直(天中―密処―両踵を結ぶ線の真ん中が一直線上に来る)は守る。

 動きはいずれの場合も、「円緩軽柔」、「ゆっくり、柔らかく、なめらかに、そして速度は一定」でなくてはならない。導引として手を動かすけれど、蛹動の場合、その手が体の両脇で円を描きながらゆっくり、なめらかに、同じ速度で動くように意識する。ゴツゴツと角ばったりしない。イメージとしては、今はあまり言わないようだけれど、やはり「蛇のように」体を動かすのがいい。あのしなやかで強靭な動きを見よ。体は前に思いっきり出し、後にはぐっと押し出す。蛹動も擺動も体をどちらかというと「くの字」型にする。私も昔は「反り(そり)がたりない」とよく言われた。

・背骨を使って気を動かす

 動かす箇所に意念を集中する。「気を動かす」ためにはそれが不可欠である。気を動かすといっても、最初はよくわからないと思うけれど、たとえば、地下鉄のホームの黄色い帯を想像してみよう。列車が入ってくるとランプが点滅するが、目には黄色い信号がホームの端から端へ走っていくように見える。運動会の組体操の波づくりも同じ理屈だけれど、細胞一つひとつの気が活性化して、それが動いていくのを意識する。あるいは見る。

 気を前後左右天地に動かしながら流れを整え、スムーズに流れるようにする。前にも書いたけれど、体の一部がゴツゴツしてスムーズに動かないとすれば、そこに滓がたまっている。ゆっくり丁寧になぞりながら、スムーズに動くようになるのを「待つ」。最初は背骨を「揺らし」ていても、いずれは自然に「揺れる」ようになるのが理想である。

 建長寺の修行僧に「坐禅とは何か」と聞いた時、間髪を入れず「丹田を練る、としか言いようがない」との答えが返ってきた。「練る」というのは言い得て妙である。そば打ちのように、筋肉や内臓をこねて粘りを生み出す。

 禅密気功にはいろんな功法があり、築基功はどちらかというと体内の気の流れを整えることに重点があり、陰陽合気法、吐納気法などは体内の気と外気との交流を重視すると言えるようだ。彗功には緩密処、展彗中の重点的な修練もある。ただいずれも相対的な違いであり、さまざまな功法の中では築基功が基本の基本だと思う。ある先達も「築基功からはじめて、最後はやはり築基功に戻っていく」と言っていた。

 鎌倉教室ではもっぱら築基功の習得に時間が割かれている。あるとき先生が蠕動の指導をしながら、「これをやっていれば、腰もくびれて、すっきりした体になりますよ」と言った。その後で、「なぜそのことを強調しないかというと、安っぽく聞こえるから」と。何という高潔、なんという奥ゆかしさ(^o^)。

 蠕動を続ければ、贅肉も取れ、腹や腰が締まるのは事実である。1日30分以上の蠕動を続ければ、若いころのズボンやスカートがはけるようになる。ここを強調してPRすれば、若い女性会員も増えるだろうが、それは気功の本筋ではないと言えば、たしかにそうである。ちょっともったいない気もするが……。

 逗子市で鍼灸室を運営しており、一時は鎌倉教室にも参加していた山本エリさんに診察を受けた時、「滓と贅肉はどう違うのか」聞いてみた。彼女は即座に「無駄なエネルギーということでは同じ」と言ったのだが、なるほど。滓は骨、筋肉、内臓およびその周辺にたまり、贅肉は腹周辺にたまるということかもしれない。蠕動で滓がほぐれれば、贅肉が取れないわけはない。

・大山元動ぜず、白雲おのずから去来す

 体を動かすのが動功、坐って静かに瞑想するのが静功である。動功は究極的には静功をめざすのだと言う。精神の安定をはかりつつ、最終的には至高の境地に到達するのが目的と言われるが、瞑想に関しては、道なお遠しのわが身である。

 静かに坐って、緩密処、展彗中を実現する。大事なのはリラックスである。リラックスと一言でいうけれど、言うは易く行うは難し。リラックスしようしようとしてかえって全身を、あるいは体の一部を緊張させていることはよくある。まことに心は天邪鬼である。

 静功では椅子に坐っても、床に座り込んでもいい。私はむしろ坐禅を好んでいる。その方が緩密処を実現しやすいように思うからである。

 坐禅は結跏趺坐が理想的とされるが、私はどうしてもこれができず、半跏趺坐でやっている。この場合も両膝を必ず床につけることが大事である。腰に座布団や坐蒲(ざふ)を敷くのがいい。両膝と臀(密処)を結ぶ三角形で上半身を支える。肩と首をゆったりさせ、最初は少し前かがみになっている背骨をしだいに伸ばす。天中を頂点とする三角錐が気の安定した姿だと思われる。調身、調息、調心である。

 坐りばなは、邪気や雑念がむしろ湧いてくる。これは体が清められていると考えて、湧いてくるにまかせるのが正解である。無理に抑えようとするのはよくない。坐禅では「大山元動ぜず、白雲おのずから去来す」と教えている。雑念も邪気も自然に抜けていくのを「待つ」。雑念を追いかけない。たとえて言えば、車窓に映る風景をぼんやり見ている。ふりかえってその景色を追わない。

 あるとき、えらい坊さんが弟子を連れてリヤカーを引いていた。傍らを流れる川から「助けて―」と溺れる人の声が聞こえ、2人はあわてて川に飛び込み、浴衣姿の妙齢の女性を助け上げた。やわらかい腿にさわった弟子はすっかり興奮してしまい、リヤカーを押しながらも、心は千々に乱れた。そのとき師匠は「お前はまだ女の体に触っているのか」と言ったという。恐らくこれが煩悩の本質だろう。

 雑念を払い、気の流れがスムーズになると、自律神経や免疫機能が働きやすくなるのは確かである。これも坐禅・瞑想の大きな効果である。ふだん私たちは、この生理機能を妨害するようなことをしている。生理の働きに介入するのはよくない。カエサルの物はカエサルに、である。朱剛先生はよく「気にしない」ということを言われるが、「見ない」にこしたことはないのである。

 木下順二の戯曲『夕鶴』では、貧しい農民、予ひょうに助けられた鶴の化身、つうが恩返しに毎夜、部屋に閉じこもり、立派な織物を作ってくれるが、予ひょうがある夜、「見ないように」言われていた部屋をのぞくと、彼女は鶴になって飛び立ってしまう。象徴的な話である。そう言えば、ギリシャ神話の竪琴の名手、オルペウス(オルフェ)は冥界に落ちた愛妻、エウリディケーを助け出すべく冥界に赴くが、「地上に戻るまでは後に着いてくる妻をふり返ってはならぬ」との教えに背いて、帰還直前に振り向いたために、妻はまた冥界に引き戻された。

 瞑想では目をつむり、彗中で無限の宇宙を見るようにする。坐禅の場合は1~2メートルほど先の床に目を落とし、見るとも見ないとも言えない状態で一点を見る。目に力を入れる必要はないが、たしかにそこに目を落としていることが大事である。瞑想の展彗中に相当するように思われる。

 陰陽合気法の集中コースの時にもらったテキストに、彗中を広げることと密処を緩めることの大切さが書いてあった。「彗中は気功に対する特別感知器官の一箇所であるとともに、また、内外の気が往来する通路でもある。密処は、内気の通らなくてはならないルートなので、ターミナルのような存在である」とあり、「注意事項」として、「彗中を広げ、密処を緩めるとき、いずれも〝点着〟(穴を守ること)しないで、〝面顧〟(全体意識)すること。でないと、結果はよくならない」とも。

 密処も彗中もその周辺を含めてリラックスする。力むのは最悪である。無限の宇宙は暗いというより、ほのかに明るく、彗中が開くと、宇宙との一体感が生まれ、体をさわやかな風が吹き抜ける気がする。色や光も見えてくる。

 密処は「鉄の門」とも呼ばれるくらい、緩めるのは難しい。私には、それは「硬い蕾」のように思われる。先生の本には、密処が緩むと「尿意があるような、ないような」感じがすると書いてある。密処は、深くは地殻のマグマに達する道であり、また富士山の忍野八海、柿田川などの湧泉のような、気の泉ではないだろうか。

 密処と展彗中は同時に実現するようにする。そうしてこそ、体内の気は活発に動き出し、宇宙の気との交流も促進される。密処が緩めば(たとえわずかでも)、実際に尿意を催す。と言うより、股間全体が緩むことで、これまで尿を体内に押しとどめていた緊張がほぐれ、驚くほど快適に排尿できるようになる。「安っぽくなる」のは本意ではないけれど、年配の男性にとっては、排尿効果だけでも気功をするに十分値するのではないだろうか。

 若い女性にも、高齢の男性にも、もちろん若くない女性にとっても、ありがたい気功の功徳である。一時というか今でもマインドフルネスという健康法が話題になっているが、先刻承知のことのように思える。まさに、故きを温ねて新しきを知るということではないだろうか。