東山「禅密気功な日々」(5)

禅密気功のすすめ

禅密気功鎌倉教室を訪れる人はけっこういるけれど、2、3度顔を出したきりやめてしまう人も多い。せっかく宝の山の前まで来て、そこに入らず、Uターンしてしまうわけで、まことにもったいない気がする。

 気功には他の習いごとと違って、具体的目標というか、習得すべきカリキュラムがあるわけではない。ただ体を揺するだけである。だから2、3度、教室に来ただけで、その良さを実感するのはむつかしい(禅密気功にもいろんな功法があるけれど、基本はあくまで築基功である)。

 習うべきポーズの型が具体的に用意されているヨーガや太極拳ともちがい、気功がとっつきにくいのは確かである。しかし、ただ体(背骨)を揺するだけという単純な動作にこそ、実は深い知恵、精神と肉体の健康を維持するための工夫が込められている。それを実感するためには、最低半年は通うのがいいだろう。私などは、そしてかなり多くの人が、10年以上も修行を続けているのである。教室だけでなく自宅で毎日実践するようになると、その良さがいよいよはっきりわかってくる。しかも、そのために、何の道具もいらない。必要なのは時間と意欲だけである。

・不立文字という言葉

 「不立文字(ふりゅうもんじ、文字に立たず)」。「悟りの内容は文字・言語では伝えられず、師の心から弟子の心へ直接伝えられる」(新明解国語辞典)という禅宗の教えだが、一般には、大切なものは言葉で言い表されないというふうに使われる。

 中国の古典『荘子』には、書に親しんでいる殿さまに向かって、車大工が「書には先人の粕しか記されていないのではないか」と皮肉る話が出ている。一流の車大工としての自分の腕(技術)は他人には(弟子にも)伝えられず、彼一代で終わるものである。だから書に記されたものも先人の知恵の粕でしかないのではないか、と。

 これは「身体知」とも言われるが、言葉には表現できない(えも言われぬ)知恵を体で感じるようになるのが気功修行と言ってもいい。

 話が少しそれるが、サ=テグジュペリの『星の王子さま』に、「大切なものは目では見えない」という言葉もある。

It is only with the heart that one can see rightly, what is essential is invisible to the eye.

 目(eye)ではなく心(heart)で見る、頭ではなく肉体で感じることを心がけるのは、IT社会を生き抜く知恵でもあるだろう。