新サイバー閑話(31) 平成とITと私③

最先端技術の世界に挑む

 『アサヒグラフ』のコンピュータ特集が好評だったことに気をよくした私たちはその後も、躍進するバイオテクノロジーの世界、コンピュータで武装するサイボーグ、進化するバーチャルリアリティとコンピュータ・ゲーム、巨大技術としてのロケット開発や核融合技術、がん治療最前線などの最先端技術の世界を立て続けに特集した。当時、ニュー・テクノロジーとかハイ・テクノロジーとかう言葉が盛んに喧伝されていた。

 全国の大学や民間の研究室、ロケット打ち上げ現場、国立がんセンターなどの病院をいろいろ取材したから、私と岡田カメラマンは一年中、全国を歩き回っていた。種子島宇宙センターにNⅠロケット打ち上げの取材に行って台風に遭遇、車を借りて〝強行取材〟、台風の写真で誌面を飾ったこともある。

 旅の先々でおいしそうなラーメン屋を勘で見つけて、ラーメン&餃子を食べるのが私たちの楽しみだった。しゃれた店構えや店頭に自動券売機を設置している店は避け、小さくて古い佇まいながら、これは良さそうだと思う店を選んで、それが成功したときは嬉しかったものである。

 巻頭カラーだけでなく、モノクロページでも、コンピュータ達人になった少年たち、町工場に進出しはじめたヒューマノイド・ロボット、土を忘れて〝翔ぶ〟農業(水耕栽培)、建設が急ピッチで進められる東北新幹線上野地下駅など、技術が変えていく社会の風景も取材した。

 これらの仕事は後にカラー版の旺文社文庫に『コンピューターの衝撃』(1983)、『現代医学の驚異』(同)、『巨大科学の挑戦』(1984)の三部作としてまとめられた。


 この取材を通して私は多くのことを学んだ。

 まず技術の目覚ましい躍進ぶりである。しかも技術現場のシステムは巨大化し、個々の技術者が全体を見ることはどんどん不可能になっていた。『巨大科学の挑戦』のあとがきでは「科学技術の営為が巨大プロジェクト化すればするほど、プロジェクト全体を掌握することは難しいし、また実際に現場の技術者たちは、自分たちに与えられた職務にのみ忠実で、その計画全体に思いをいたすことが少なくなっているようである」と書いている。

 当時、国家予算600億円を投じた原子力船「むつ」が放射能漏れ以来十年、東北―九州間を漂流したあげく廃船になるとのニュースが流れていた。

 もう一つは、技術の進歩は果たして人間を幸せにするだろうかという疑問だった。『現代医学の驚異』のあとがきで、がん取材でお会いしたある教授の言を紹介している。

「がんは簡単には撲滅できませんが、それでいいのかもしれません。もしがんが克服され、寿命が延びたとして、人類の未来はバラ色ですかね。ひとびとはますます子どもを産まなくなり、社会はそれだけ高齢化し、いよいよ活力がなくなるでしょう。それは灰色の世界かもわかりませんよ」

・日本情報社会の進展とパソコン

 最先端技術の世界を取材していたころは、日本が高度経済成長を謳歌していた時期であり、同時に社会が情報化へと向かう転換期でもあった。

 先にアルビン・トフラーの『第三の波』(1981)がコンピュータ取材を始めたきっかけだったことにふれたが、日本でも1980年以降、「高度情報化社会」という言葉が脚光を浴びるようになっていた。

 1980年には通産省(当時)産業構造審議会情報産業部会中間報告が「S家の一日」というエッセイ風の文書で、バラ色の情報社会の青写真を提示していたし(「団地」に代わって「ニュータウン」という言葉が登場していた。下図はそのイラスト)、雑誌『日経ビジネス』が「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集を組んだのは1982年だった。

 パソコン、ワープロ、電卓、軽自動車、携帯用ヘッドホンステレオ、ミニコンポステレオなど、当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという、鋭い洞察だった。

 日本情報社会論の古典とも言える増田米二『原典・情報社会 機会開発者の時代へ』(TBSブリタニカ)は1985年に出ている(サイバー燈台プロジェクト欄で小林龍生さんが梅棹忠夫『情報産業論』を読み解いているが、その1963年という発表年がいかに時代を先んじていたかは驚異的である)。

 情報社会出現を推進したのがコンピュータだったから、最先端技術シリーズの取材対象の中心には常にコンピュータがあった。特集「コンピューター」でもワープロ、パソコン、電卓を取り上げているが、パソコンはNECの8ビットマシン、8801シリーズであり、ワープロは小型化してきたとは言え、まだ50万円以上した。

 ちなみに私は1983年4月に富士通のワープロ、マイオアシスを86万1200円で買っている。「ザ文房具」というキャッチコピーで大相撲の高見山が宣伝していた機種である。これを月々1万5500円、ボーナス月6万5500円のリースにしていたのだが、ワープロもどんどん小型化、価格も安くなって、たしか85年ごろには1台10万円台の小型ワープロが登場、しかもより多機能になっていた。そのとき私のローン残高は20余万円、さすがに馬鹿らしくなって残金を一括で支払ってケリをつけた。コンピュータの小型化、それと同時の高機能化、低価格化を身をもって知った最初の出来事だった。

 さて海の向こうに話を移すと、世界最初のパーソナル・コンピュータは1974年に開発されたアルテアだと言われる。当時のアメリカは、ベトナム戦争をめぐって激しい反戦運動が巻き起こっていたころで、この小さなマシンは、IBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受け、そこからいくつかの成功物語が生まれた。

 学生だったビル・ゲイツと友人のポール・アレンは、アルテアを見て大いに驚くと同時に、大型コンピュータで使われている言語、BASICをアルテアでも使えるようにするビジネスを思いつく。同じころ、カリフォルニアのスティーブ・ウオズニアックとスティーブ・ジョブズという「2人のスティーブ」は、ガレージで「アップル」というパソコンを作り、1976年に同名の会社を起こした。

 大型コンピュータの雄、IBMも1981年にパーソナル・コンピュータIBM-PCを売り出し、時代はパソコンの時代へと移っていく。日本にも伝わっていたその一端を私は取材していたことになる。

・最先端技術シリーズとデスクの大崎紀夫さん

 ところで『アサヒグラフ』は週刊誌である。その1回の特集を作るために私たちは1カ月以上をかけて全国を取材した。当時のメディア業界、さらには朝日新聞という会社の鷹揚さを考えると隔世の感があるが、デスクにして名編集者だった大崎紀夫さんの存在なしには考えられない企画だった。

 彼はすでに大物編集者として社内外に知られた存在だったが、私たちのコンピュータ特集に巻頭25ページをあてがい、しかも大胆なレイアウトをしてくれたのである。社内モニターで高く評価されるなどの事情もあってシリーズ化へと結びついたけれど、いまでも彼には深く感謝している。

 編集局の出稿部(社会部)、整理部を経て、出版局『アサヒグラフ』にやってきた私は、希望して異動してきたとは言え、当初大いに戸惑った。新聞でももちろん写真は大きな力だが、やはり記事が中心だった。それがグラフでは「写真がつまらなければそれで企画は没」というふうに、記事と写真の関係は逆転した。大崎さんは常々「いい写真が撮れたらカメラマンの手柄。つまらない写真しか撮れなかったら編集者の責任」と言っていたが、写真と記事の関係ばかりでなく、私は大崎さんはじめアサヒグラフの先輩同僚から雑誌編集の基本を学んだ。

 記者と編集者とではまるで違う役割があることに気づかされたし、雑誌というメディアをどう作り上げていくかという編集ノウハウも学んだ。編集者としての私はアサヒグラフで、最先端技術シリーズで培われたのだった。

 日大全共闘の猛者だった岡田明彦カメラマンはずっと頼もしい相棒だった。「腰が痛い、腰が痛い」と言いながら、個々の対象物に鋭く迫って、豊穣なイメージを切り出す(紡ぎ出す)彼の写真が私は好きだった。シリーズ後半のころ、写真家団体の賞の新人賞候補になったと聞いたが、受賞を逸したのは少し残念だった。彼は無冠の帝王を標榜していたけれど……。

 こうして私は「メディアとしてのコンピュータ」をテーマにする雑誌を構想するようになる。