東山「禅密気功な日々」(7)

日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ

 52歳で家督を息子に譲り隠居した三屋清左衛門は、「残日録」と題する日記を書き始めるが、その表題を垣間見た嫁の里江に「いま少しおにがやかなお名前でもよかったのでは」と言われて、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意味でな。残る日を数えようというわけではない」と答えた。隠居後の人生もまた大切にしたいという決意表明だっただろう。藤沢周平の名作、『三屋清左衛門残日録』冒頭の話である。彼はまた藩の道場に通い始める。

 いまや5人に1人が70歳以上。65歳をすぎないと年金ももらえない時代である。隠居という言葉自体、すでに死語に違いが、65歳ごろから人生を引き算で考えはじめ、しかもずるずると90歳、100歳まで生きてしまうとなると、これはやはり「迂闊」というべきだろう。

 「休息は死の床で」をモットーとして会社経営に、執筆に精力的に活動している友人がいるが、そこまでは無理としても、超高齢化社会を健康で前向きに生きていく心構えはやはり必要だろう。

 『残日録』の最後にこういう記述もある。「衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ」

あれをご覧よ 真っ赤な夕陽
落ちてゆくのに まだ燃えている

 福田こうへいの「南部蝉しぐれ」のこの歌詞を私は気に入っているが、高齢にしてなお矍鑠として生きようとすれば健康第一、そのためには本コラム第3回で書いたように、蠕動+筋トレが一番である。というわけで、このコラムでも折々に<老いと筋トレ>についても書いていきたい。

 インドの聖人、ガンジーにはこういう言葉もあるという。https://www.excite.co.jp/news/article/Mycom_freshers__gmd_articles_18852/など参照

明日死ぬと思って
生きなさい。
永遠に生きると思って
学びなさい。
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.