古藤「自然農10年」(3)

実りの秋を次々と襲う台風

 東海、関東から東北まで百人に迫る死者・行方不明者を出す甚大な被害となった台風19号は「サイバー燈台」へ送ろうとした私の原稿も吹き飛ばした(というわけで、今回は台風と農業の話である)。千葉県を中心に大被害を与えた台風15号が三浦半島に上陸した日から1か月後の10月9日、私は吉野彰氏のノーベル賞受賞より台湾の南、北緯20度線近くの洋上にあった台風19号の進路に気を取られていた。

 九州もうかがうコースに見え、中心気圧は何と916hPa、最大瞬間風速は70メートルに達するという圧倒的な巨大さに怯えていた。しかし、そのころから急に進路が西寄りから東寄りへ変わり、15号とほとんど同じコースへ北上することが次第にはっきりしてきた。台風15号は上陸の時、960hPa、直径も半分以下の小型だったが、最大風速40メートルで千葉県を中心に大被害をもたらした。

 大停電の陰に隠れがちだったが、農水被害は367億円、東日本大震災の被害額を上回ったと、9月26日に千葉県が発表している(産経新聞)。ハウスや水田などほとんどは農業被害だったから、19号の動きは他人事と思えずニュースを見続けた。伊豆半島に上陸した10月12日午後7時ごろ、中心気圧はまだ960hPa、恐れたのは実りの秋を直撃する風のことばかりで、まさかあれほどの雨量と広範囲な洪水になろうとは少しも予想できなかった。

 千曲川、利根川、阿武隈川…7県で52に及んだ河川の氾濫。日常を唐突に襲い情け容赦なく人命を奪い、家や生活の場を破壊した台風。呆然としている被災者の心情を思うといたたまれない気持ちになるが、その悲しみ、怒りを持っていく先がない。そして、その泥水の下にどれほどの田畑が広がっていることであろうか。

 昔から「ナミダヲナガシ オロオロアルキ」しかない農業者の声がすぐにニュースとなることは少ない。事態が少し収まるまで被害の全容がつかめないこともあろうが、倒れた稲や野菜、落下した果実を前に今、農業者は肉親を失った人たちと同じようにただじっとうつむいているだけであろう。

 九州沖から日本海へ抜けた台風17号の被害は19号に比べるとスケールが余りに小さい。9月22日午後8時ごろ玄界灘を通過した時、中心気圧は980hPaだった。とはいえ、最大瞬間風速は40㍍を超え、私の棚田は進行速度と風速が重なる東側で、15号における房総半島の鋸南町に似た位置に当たっていたのでかなり心配した。

 棚田へ向かう県道近くにある神功皇后ゆかりの宇美八幡宮で、幹回り7メートル、高さ26メートルのご神木(イチイガシ)が根こそぎ倒れ、沿岸部一帯で家屋や電柱の被害、倒木が相次いだが、幸いにも棚田の稲はお辞儀をしただけで倒れなかった。背振山系が風を弱める衝立の働きをしてくれたのかもしれない。

 お米は「つくった」と言ってはならない。幸運にも災害を免れ自然の力で作ってもらったのだから「とれた」と言わなければならない。ありがたくも台風被害を免れて稲田は黄金色をまし、今年も順調にとれそうである。野菜の方は、種まきから幼児、大人へ育つよう除草や間引きなど手を加え続けるから「育てた」感覚もある。しかし、この夏のトウガンは玉ねぎの後に苗を植えただけで田の作業に追われ放置同然だった。

 台風19号の進路を気にしながら腰の高さにのびた雑草を手刈りしている時、ゴロゴロころがっているのが見つかった。数キロが5個、最後に見つけたのは重さ7.2キロと9.9キロのでかさ。育てたとはいえず育っていた。お裾分けした人たちから笑顔をもらって老後農業の励みになった。自然は涙と喜びを脈絡なく運んでくる。

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 自然農に私をつないでくれた松尾靖子さんは2012年5月28日午前6時半、眠るように亡くなった。57歳。後に残った自然農の畑のそばで、彼女が好きだったエゴノキが可憐な美しい花をいっぱいに咲かせていた(撮影・西松宏)。次回は、彼女から研修生として自然農を学び、残された畑で営農を引き継いだ二人の青年のいまを紹介したい。