稲刈りに遠方から一族集い収穫祭
新天皇の即位に伴い皇居で行われた大嘗祭(だいじょうさい)が話題になったが、新穀を神にささげて五穀豊穣や国家安寧を祈る毎年の行事、新嘗祭(にいなめさい)が今は勤労感謝の祝日。11月23日、地域の神社でも収穫へのおごそかな感謝がささげられる。
我が棚田の稲刈りも、真新しい鎌を使い、晴天の日を選んで朝露が消えてから始めた。株元を左手で握りしめ、右手に持った手鎌の刃先を地面近くの稲株に当てて一気に引き切る。サクッと小気味よい音がなんとも良い。しかも周りは黄金色の実り、心の底からうれしさが湧いてくる。
古来、漢詩は、腹を手でうち足踏み鳴らす鼓腹(こふく)撃壌(げきじょう)と喜びをうたったが、今年は孫娘たち5人家族がやって来て初めての稲刈りを体験したので、夫婦2人暮らしの我が家も大いに賑わった。
稲刈りの前は竹の切り出しが一苦労。細めの竹を杭にして太い数メートルの竹を横棹にして持ち上げる。運動場の鉄棒を竹で作ると思えばよい。刈り取った稲束をこれに掛けて天日干しする。娘一家がやって来る文化の日の3連休までに杭100本余、横棹10本余を軽トラに積んで棚田に運びこんだ。
水田は離ればなれの3か所にある。自然農に出会った時、松尾靖子さんからそれぞれ広さ0.5畝(50㎡)の田と畑を貸してもらったことは既に紹介した。米と野菜の育て方はこの田畑で4年繰り返して学んだ。靖子さんの死がきっかけで米の自給を思い立ち、休耕田になっていた5反(5,000㎡)の棚田を見つけて借りた。田畑の規模は一気に50倍になったのだが、規模の拡大は意外に簡単。覚えた要領で作業の量を増やせばすむからだ。同時に新規就農者の申請もして、農業委員会と糸島市に認められた。
この時、自宅近くで耕作放棄地になっていた0.5反(500㎡)の田んぼも借りた。棚田だけでは新規就農に必要な条件5反にわずか足りなかったためだ。だから現在、水田は3か所の計2反。鍬、手鎌だけの自然農ではこの広さが限界だ。それでも600坪、1,200畳だからやはり広い。
稲刈りには1年前の稲わらも欠かせない。保存した昨年の稲わらで、刈り取った稲を束ねる。ワラ3、4本で稲束を括くる作業は指が痛くなったりワラがぷつんと切れたりで最初は難しかった。適度に湿らせて切れないようにし、今では10秒くらいで1束が括れる。
娘家族の稲刈り体験は結局、お弁当を囲んだお昼が中心で(写真)、実際に稲刈りを手伝ったのは娘婿と中学2年の長男だけ。娘と2人の孫娘は、妻の指導でもっぱらサツマイモ掘りに興じた。男組の体験でこの日夕方前までに終わらせた稲刈りは棚田の隅っこ30畳分ほど。それでも娘一家は軽トラの荷台で林道を走って大興奮するなど、自然を満喫して芋や米のお土産を積んだワゴン車で賑やかに大阪へ帰っていった。
・米からパンに変わる食生活
娘は家庭用の精米機を買って、私が送る玄米を1回分ずつ精米し孫たちも喜んで食べてくれるが、その消費量は少ない。一家の朝食は毎日パン、パスタの夕食も多いようだ。共働き夫婦なので朝は家事に追われ、ご飯とみそ汁の朝食は敬遠される。農水省の資料をネットで検索してみても、国民1人当たりの米の消費量はこの50年で半減した、とあった。
別のグラフを目にした時はもっと驚いた。2人以上世帯の家計調査で2010年から2013年にかけて米とパンへの出費が拮抗し、2014年から折れ線グラフが交差してパン購入代の方が多くなる。そのグラフの形は、専業主婦の家族数が次第に減って共働き夫婦の家族数に追い抜かれるグラフの交差とまったく同形だった。
専業主婦が減るにつれてパンへの支出が増え、共働き家族の方が多くなった2014年以降はパンへの支出が米を追い抜いた国の現状を示していた。朝6時前には起きて台所、洗濯作業をすませ、孫娘と保育園へ駆け出すように家を出る娘の日常が正にグラフの形、数字として現れていた。2,000年、米に馴染んだ日本人の食は急激に変貌しつつある。
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私たち夫婦には娘の下に2人まだ結婚しない息子がいる。長男は山形、次男は東京、大阪の娘ともども大学への進学で家を離れたままだ。都会に就職や進学で子供が出て行き、教育費の見返りもないまま後継者のない限界集落の家族状況と構図的には同じである。
しかし、山村支援で住むことになった尾花沢でスイカ農家として根付いた長男が娘家族と同じ日に帰郷、彼らが帰った後も1週間滞在して稲刈りすべてを手伝ってくれた。その長男が明日は帰るという前日、たまたま出張だという次男も帰郷して1夜だけ合流。次男のワインで思わぬ親子4人の収穫祭となった。それもこれも老後農業と稲刈りの恵み、ありがたく感謝するばかりである。