新サイバー閑話(37)<よろずやっかい>④

「人間フィルタリング」が効かないやっかい

 2019年11月17日(日曜)、大阪市で行方不明になった小学6年生の女児(12)が約1週間後に栃木県小山市で保護された。この事件で印象深いのは、女児も、未成年者誘拐容疑で逮捕された容疑者A(35)も、先に容疑者宅に〝監禁〟されていた茨城県の家出女子中学生(15)も、いずれも周囲の環境から切り離されていた印象を受けることである。

 女児には兄姉がおり、母親との4人家族だった。彼女が家を出た午前中のひととき、姉も兄も家にいたというが、とくに気にもとめなかったらしい。母親は忙しい仕事の合間に仮眠していたようである。容疑者の方は立派な大人ではあるが、父親が早くに死亡、母親は親の看護で別居しており、一軒家に一人で住んでいた。3人兄弟で弟と妹がいるという。

 同月29日には東京・八王子市の会社員B(43)が愛知県内の女子中学生(14)を自宅に誘い出したとして未成年者誘拐容疑で逮捕されている。彼もまた一人暮らしだった。

・#(ハッシュタグ)家出少女

 少女と容疑者の中を取り持ったのはオンラインゲームやSNSだった。

 小学生とAはオンラインゲームで知り合い、その後の連絡は、ツイッターの当事者だけでメール交換できる(一般には非公開の)ダイレクトメッセージを使った。最初の接触から容疑者が少女を迎えにくるのに10日ほどしかたっていない。 

 A宅には先に中学生もいて、Aは彼女ともSNSで知り合った。その中学生の話し相手として小学生を誘い出したらしい。中学生の父親から出された行方不明届を受けて、茨城県警がA宅を訪れたことがあったが、その時、中学生は床に隠れていたというから、彼女の場合は監禁とは言い切れないようだ。小学生は、スマートフォンを使えなくされたり、脅されたり、1日1回しか食事がなかったりした環境に嫌気して逃げ出し、警察に駆け込んで事実が明るみに出た。

 八王子市の例では、各種報道によれば、中学生がまず「部屋を貸してくれる人いませんか」とツイッターし、Bが「のんびりしてください」、「ワンルームマンションなので一緒に寝ることになりますが大丈夫ですか」などと応答し、23日ごろに女子中学生を自分の部屋に住まわせたという。中学生と同居する祖母が行方不明届を出して保護されたが、彼女はB宅を自由に出入りしていたというから、これも監禁容疑で立件するのは難しいだろう。

 実はSNS上には家出少女の書き込みがいっぱいある。ツイッターのジャンル、たとえば#(ハッシュタグ)家出、あるいは#家出少女で検索すると、虚実とりまぜて、「家出したので(しようとしているので)誰か泊めてくれませんか」といったメッセージがたくさんあり、それに男たちが「とめよーか?」、「泊まる場所、決まっちゃいました?」、「お近くですけど、お助けしましょうか」などと答えている。その後に両者がダイレクトメッセージで交信すれば、あとはだれにも気づかれず話が進むわけである。

 ちなみに某日、ツイッターで検索してみると、「今日、家出しました。 誰か家に泊めてくださる方いませんか?1日だけでもいいので 性別問わないです。 盛って18歳の女子高生です。 助けてください。あと出来たらお酒を少々。つまみはなんでもいいです」などというのがあった。まじめな相談なのか、男を誘おうとしているのか、真偽は不明だが(盛ってはバストが大きいという意味)、こういう深刻度のあまりないメッセージがあふれているのが実態である。そして、子どもと大人が、女と男が気楽に会い、悲惨な事件が起き、あるいは犯罪とまではいかないようなアブノーマルな事態が発生している。

・フィルタリング&人間フィルタリング

 インターネットには危険がいっぱいだから、安易に異性と付き合わないように、知らない人にはついて行かないように、保護者はケータイにフィルタリングを設定するように、などと、かつては私も呼びかけたりしたものだが(『子どもと親と教師のためのサイバーリテラシー ネット社会で身につける正しい判断力』2007、合同出版)、スマートフォンが小学生の間でも広まり、フィルタリング機能を利用しないケースも多く、インターネットは子どもにとってまさに〝危険〟な道具になっている。

 今回の事件で思うのは、ケータイやスマートフォンの技術的なフィルタリング以前の問題、子どもたちを守るべき周囲の環境(人間フィルタリング)がほころびつつあることである。「人間フィルタリング」という言葉は、下田博次『ケータイ・リテラシー』(2004、NTT出版)から借用した。

 彼によると、インターネット以前は子どもの周囲に親、家族、学校、地域などがあり、大人たちが子どもに有害な情報をうまくより分けていた(フィルタリングしていた)が、いまは有害情報が子どもたちに直接入り込んでくる。

 いま有害情報のフィルタリング機能を強化することがあらためて叫ばれているわけだが、むしろ人間環境の側に大きな問題が生じている。人間フィルタリングが介在していないというより、フィルタリング機能を果たすべき、しっかりした大人が周囲にいない。「人間フィルタリングの不在」と言うより、「人間フィルタリングそのものの解体」である。

 それは言い古された表現ではあるが、家庭、地域、教育、あるいは会社という既存秩序の崩壊である。2つの事件を見てみても、子どもたちを取り巻く環境はまことにお寒い。大阪の女児はゲームにふけるようになって以降、不登校気味だったというし、周囲に「家も学校も嫌や」と話していたらしい。茨城の女子中学生も保護されたあと、「家には帰りたくない」と言ったという。容疑者の側にしても、2人とも一人暮らし、Aの場合は、父親の死をきっかけに生活の歯車が狂ったようである

 家庭の紐帯がゆるむ一方で、インターネットを通して外界との接触は容易になった。地に足がつかない状態の子どもたちは、大人たちの誘いにふらふらとさまよい出て行く。

・「第三の郊外化」

 家族の崩壊や教育現場の荒廃は、日本社会全体から見るとまだ一部で、その背後には健全な市井の社会が広がっているという見方もあるだろう。人気テレビ番組の「カラオケバトル」などを見ていると、家族ぐるみで参加者を応援する微笑ましい風景、親子の断絶とは無縁の世界が繰り広げられている。どちらが現在日本社会の縮図なのか、それを見極めるのは難しいが、両者の間に深い亀裂が存在するのは確かだろう。

 ここでこのシリーズの視点について、ふれておきたい。

 私は「小さな事実に注目しつつ、その裏に潜んでいる大きな問題を掘り起こす」手法を「一点突破豪華絢爛」と呼んで、ひとにも推奨してきた(『情報編集の技術、2002、岩波アクティブ新書)。新聞より雑誌向きだが、あえて1本の木を通して森全体を浮かび上がらせようとするものである。

 日本広報協会の月刊誌『広報』で12年以上、「現代社会に潜むデジタルの『影』を追う」という連載を続けてきた。デジタルの「光」の部分はむしろ他にまかせ、「影」の部分を追ってきたのも同じ考えからである(本サイバー燈台の「サイバー閑話」や「いまIT社会で」参照)。

 閑話休題。

 今夏は、かつて経験したことのないような集中豪雨が長野、千葉などを襲ったが、それが地球温暖化による天候異変のせいであるのは間違いないだろう。この地球全体の難題の被害が一部に集中して現れる。それと同じように、インターネットの抱える問題が「人間フィルタリングの解体」として目に見えるかたちで、ここに先駆的に現れているのではないだろうか(もちろん経済的、政治的、社会的な要因が絡んでいる)。

 社会学者の宮台真司は『日本の難点』(2009、幻冬舎)で、日本社会の「郊外化」について書いている。彼によれば、日本の郊外化は、1960年代の「団地化」と80年代の「ニュータウン化」の2段階に分けられる。団地化は専業主婦化に象徴され、その特徴は地域の空洞化と家族への内閉化(閉じこもり)だった。一方、ニュータウン化はコンビニ化に象徴され、ここでの特徴は家族の空洞化と市場化&行政化だという。

 宮台は郊外化の特徴を「<システム(コンビニ・ファミレス的なもの)>が<生活世界(地元商店的なもの)を全面的に席巻していく動き」だと述べているが、この言を借りると、ソーシャルメディア、スマートフォン、クラウド・コンピューティングと、パーソナルなデジタル機器が生活にすっかり浸透した現在は「第三の郊外化」と言っていいだろう(『IT社会事件簿』前掲)。

 第三の郊外化は、現実の都市の周辺に新たな物理的空間が出現する従来の郊外化とは違い、郊外は「サイバー空間」上にある。現実とサイバー空間が渾然一体となったことで、生活世界は根こそぎ空洞化し、社会そのものの風景が一変している。今回の事件はその象徴ではないだろうか。

・「データ至上主義」の予兆?

 サイバーリテラシー第3原則は「サイバー空間は『個』をあぶり出す」である。

 サイバーリテラシーの提唱では「水が水蒸気となって空中にただようように、私たちもまた既存の組織から解き放たれ、社会に浮遊する存在となる。家族の壁も、学校や企業の壁も、国境や民族の壁も突き破って、世界中の人びとと自由に交流できるようになるが、一方で、浮遊する自由のたよりなさは、人びとを困惑させ、孤独感や不安定さをも生んでいる」と書いたが、事態はいよいよ深刻になったとの思いが強い。

 やっかいなことに、今やその「個」が解体されて、個人のアイデンティティが喪失しかねない状況にある。ビッグデータは、さまざまな機会に個別に集められた個人のデータが、アルゴリズムで処理され、まったく別の用途に使われることだが、いつの間にかデータだけでなく、生身の個人がエキスを抜かれて腑抜けになっていく。だから、このような犯罪というか不祥事を解決するために、技術の力を借りて、スマートフォンのフィルタリング機能を強化しようとするのは、場当たり的な解決にすぎないだろう。

 現代社会の行く先に待ち受けているのは何なのか。それを鋭く洞察したのが世界的ベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』(㊤㊦、原著2015、河出書房新社)だったのだと私には思われる。

 ハラリは「外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能」になれば、「個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへ移る」と述べている。

 日本で個人主義が育っていたかどうかは大いに疑問で、この点については後にふれるつもりだが、日本人の伝統的な行動基準枠だった「世間」がインターネットによっていびつに変容しつつ、なお(かえって)根強く生き残っていることが、より一層、日本人のアイデンティティ喪失を早めているように見える。

 ハラリによれば、個人主義に対する従来の信念が揺らいだ後に待ち受けるものこそ「データ至上主義」である。そこでは、人間の心そのものが無視される。そういう観点で見ると、「人間フィルタリングの解体」をデータ至上主義の予兆、あるいはそれへの一里塚と見ることはあながち突飛なことではないだろう(ハラリのデータ至上主義に関しては<新サイバー閑話>(17)ホモ・デウス⑧を参照してください)。

やっかいなうえにも、やっかい