新サイバー閑話(38)<よろずやっかい>⑤

「良識派」がネットから撤退するやっかい

 ここで「良識派」というのは、ものごとをまじめに考えようとしている人びとという程度の意味である。リベラルな人もいるし、保守的思考の持ち主もいる。要はまっとうな人生を生きようとしている人びとである。

 そういう人びとが、かつてインターネットに希望を見出した。彼らにとってネット上のサイバー空間は現実世界のかなたに広がるフロンティアであり、ユートピアだった。よく言及されるロックバンドの作詞家、ジョン・バーロウの「サイバースペース独立宣言」(A Declaration of the Independence of Cyberspace、1996)はその記念碑的文書である。サイバー空間は現実世界と離れた別の世界と思われていたが、インターネットの飛躍的発展によって、両者は分かちがたく結ばれるようになった。本サイトに掲載している「サイバー空間と現実世界の交流史」はそれを時系列で図示したものである。

 そして、インターネットの可能性を高らかに歌いつつ、その明るい未来をも唱導しようとしたのが2000年ごろから活発化したWeb2.0の動きである。合言葉は「誰もが情報発信できる」ということであり、ウェブの世界は「見る」ものから「使う」ものに変わった。象徴的ツールはブログであり、ケータイだったし、グーグル、アマゾン、アップルといったIT企業がこれを牽引した。それはシリコンバレー躍動の時でもあった。

・梅田望夫の失望と退場

 日本においてWeb2.0を唱道した典型的書物が梅田望夫『ウェブ進化論』(2006、ちくま新書)である。彼はシリコンバレーの熱気にふれて感激、この本を書いた。「米国が圧倒的に進んでいるのは、インターネットが持つ『不特定多数無限大に向けての開放性』を大前提に、その『善』の部分や『清』の部分を自動抽出するにはどうすればいいのかという視点で、理論研究や技術開発や新事業創造が実に活発に行われているところ」である、と彼は羨望の念をこめて書いた。根底にはアメリカ人特有の技術楽観主義が流れており、彼は同じような動きを日本の若者に期待したわけである(「彼はシリコンバレーに行って、結局アメリカ人になった」というのが私の読後感だった)。

 そして、期待は完全に裏切られたようである。彼は2009年、ITmediaのインタビューで「日本のWebは『残念』」という言葉を残して以降、少なくとも日本のネットでの発言を控えているように思われる。

 こんなことを話している。「残念に思っていることはあって。英語圏のネット空間と日本語圏のネット空間がずいぶん違う物になっちゃったなと」、「英語圏の空間というのは、学術論文が全部あるというところも含めて、知に関する最高峰の人たちが知をオープン化しているという現実もあるし。……。頑張ってプロになって生計を立てるための、学習の高速道路みたいなのもあれば、登竜門を用意する会社もあったり。そういうことが次々起きているわけです。……。日本のWebは、自分を高めるためのインフラになっていない」。

 彼はどちらがいいとか悪いとか言っているわけではないが、日本のウェブのあり方に失望した様子が随所に読み取れる。日本のネットが英語圏のものとはずいぶん違うものになっているのは事実だと私にも思われる。

・東浩紀の深い徒労感

 東浩紀もまたネットの可能性に強く期待し、それを育てるために積極的に行動してきた人である。私はウェブ2.0が喧伝されていた2005年に彼にインタビューしているが、当時まだ33歳の若手哲学者で、グローコムを拠点にサイバー空間の制度設計や情報倫理の確立にエネルギッシュに活動していた。

 インタビュー冒頭で彼はこう語っていた。「いまの情報社会をめぐる論議はビジネスと政策が中心で、あとは技術的な視点が加わるぐらいで、人文科学的もしくは社会学的視点が少ないと感じています。僕としては従来の社会学、哲学、思想の文脈の上に、いままでの情報社会論の蓄積をうまく接続し、過去との差異を明らかにしつつ、情報社会論という学問領域の輪郭をはっきりさせたいと思っています。例えば『情報倫理』と言ったとき、いままで言われてきた倫理とどこが違うのかということですね」。

 「情報がネット上にないと、存在しないと同じになってしまう」というラディカルな発言もあった。

 彼のその後の活動は多くの人が知るところで、2011年には「この国の情報社会の経験を生かして、民主主義の理念を新しいものへとアップグレード」することを夢見た『一般意志2.0』(2011、講談社)という意欲的著作も世に問うている。その東が2017年には雑誌『AERA』で「ユーストリームが終了 『ダダ漏れ民主主義』の曲がり角」という原稿を書くに至った。

 動画にかぎらず、情報技術はつねに社会改革への希望と結びついてきた。WWWもブログもSNSも、出現当初は新たな公共や民主主義の担い手として期待を集めていた。しかし普及とともに力を失い、単なる娯楽の場所に変わる。いまやネットはフェイクニュースと猫動画ばかりだ。
 昨年の米大統領選は、まさにネットの限界を感じさせた出来事だった。その翌年にユーストリームの名が消えることは、じつに象徴的に思える。ぼくたちはそろそろ、ネットが人間を賢くしてくれるという幻想から卒業しなくてはならない。

 最後の「ネットが人間を賢くしてくれるという幻想から卒業しなくてはならない」という箇所に彼の深い徒労感と失望が表明されているだろう。

 何が起こったのか。

 ここには、いまの(日本の)ネットではまっとうな議論ができにくいという彼の気持ちが表明されている。この辺の心境の変化は、それより少し前に出版された小林よしのり、宮台真司、東浩紀『戦争する国の道徳 安保・沖縄・福島』(2015、幻冬舎新書)という、一見インターネットとは無関係なタイトルの本に興味深く記されている。

 この本は東が主宰する「ゲンロンカフェ」が小林、宮台という従来なら保守とリベラルを代表する論客を招いて、東が司会をした記録をもとに出来ている。ここでかつて論敵だった小林と宮台は完全に共闘モードに入っているが、そういう歴史的推移もまた興味深い。いまの日本でまともにものごとを考えようとすれば、自然に同じ土俵に乗ってしまうということだろう。

 3人に共通しているのが、インターネットが日本社会にもたらした負の側面を強く意識していることである。東だけの発言を拾えば、「人びとは共同体から剥ぎ取られ、都市に集められ、流動するアトム化した個人と化した。その状況を土壌として、いまや大衆迎合的なポピュリズムや全体主義の危険が無視できないレベルにまで高まっている」、「この数年で、インターネットというものに対する希望がかなりなくなってしまいました」、「いまの若い人は、とにかく、なにか問題がおきるとすぐにネットに書いちゃうんですね。『ネットで騒げば勝ち』という発想が刷り込まれている。……。内容が正しければまだいいけれど、さんざん膨らませて書く。こちらがそれに反応すると、また騒ぐ。『最近の若者は』的な愚痴にしかならないけれど、苦労してます」。

 同じような感慨は他の2人からも聞かれるが、3人が異口同音に「これからの社会を維持していくためにはインターネットと離れたコミュニケーションが大事」だと言っているのは少し意外な感じがする。もちろん、サイバー空間と現実世界の共存の道を探ってきた私としては同感するところがあるけれど、インターネットの旗手とも目されてきた東、宮台両氏にして、こういう感慨を抱くに至ったというのが興味深い。

 宮台はユーチューブでの動画配信などの啓蒙活動は続けているが、ネットでのコミュニケーションにはやはり愛想をつかし、現実世界に回帰しようとする気持ちが強くなっているようである。

 今度は宮台の発言を拾おう。「意味のある仲間との深い関係を築こうとするなら、ネットから見えないようにするほかはない」、「ネットでは議論をしてもしょうがないと思います。ツイッターでもブロックばかりしている」、「マクロにはもうどうにもならないと思う。そうであれば、マクロなこういう劣化現象から、自分の周囲にいる子どもたちを守るべく、インターネットから自立した『見えないコミュニティ』を作った上、子どもを『立派な人』―先生だったり先輩だったり近所の人だったり―の影響下に置くほかない」、「いまはネットでバカが大手を振る。『摩擦係数が小さい』がゆえに万人が平等な発言権を持って参加できるネット空間を、再構造化して、権威の階層システムをつくり直さなくちゃダメだと思うな」。

・「ネット上の争いでは、リベラルは99%負ける」

 もう一つ、ネット上の議論に関して言えば、いわゆるリベラルより保守の方が攻勢に出やすい面もありそうである。これもネット上で活躍してきたジャーナリストの津田大介はこの点に関して、「ネット上の争いでは、リベラルは99%負ける」と言っている。

 彼はネット上の言論でリベラルが守勢に立たされがちな理由として、①保守の人のほうがマメで、自分たちはどういう思想で、何を目指しているのかをちゃんと主張する、②本来は「革新」であるにも関わらず、リベラルな人のほうがスマホ率やSNS利用率が低い。日本の労働運動はテクノロジーを敵視してきた一面があった、③中道的な意見は左右両方から叩かれ、過激な意見を持つ人に支持が集まっていく結果、普通の人が発言をしなくなっていく、などを上げている。「リベラルが『多様であることがいい』、『多文化であることがいい』と訴えると、保守派の言っていることも認めなきゃいけないが、保守派はリベラルの主張を認めないから、その点がそもそも非対称なんです」とも言っている。

 フランスの思想家、ボルテールではないが、ネット上で「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」などと悠長なことを言っていれば、「お前の言っていることは間違いだ」と一刀両断する言論には歯が立たないわけである。

 これは、わずか140文字(英語などでは280字に拡大)のツイッターのつぶやきやスマートホンの小さな画面でのやりとりが多いというメディアの制約にも大きく関係している。マーシャル・マクルーハンにならえば、「メディアはメッセージである」。あるメディアを使うことが伝えるメッセージのありように影響を与える。

 宮台が最後にいった発言は<よろずやっかい>②「1人1票のやっかい」そのものだが、現在のネット上の言論が大きなバイアスを加えられているのは明らかだろう。もっとも、グループによって、あるいはジャンルによって、そして国際的なオンライン会議などでは、有益な議論が積み重ねられているはずだし、そのことを否定しているわけではもちろんない。

 一時(2008年ごろ)、生まれながらにインターネットに親しむ世代として「デジタルネイティブ」という言葉が話題になった。これら若者たちが、金儲けのビジネスではなく、国際的な社会貢献にインターネットを駆使している姿も報道された。ここにはインターネットの大きな利点が示されている。

 また、欧米はさておき、韓国でもユーチューブ上の政治番組が大流行しているというニュースを聞いた。日本でも自らの主張を直接ユーザーに届けるやり方として動画配信が盛んになりつつあり、それなりの効果を上げているように思われる。ただ、本シリーズの意図は現下のネット状況にはやっかいな問題があることを指摘するところにある(蛇足ながら、私自身「インターネット徒然草」と自認するほどの拙文をここにアップしているのは、見知らぬ誰かがひょっとして読んでくれるのではないかと期待してのことである(^o^))。

・サイバー空間の再構築と現実世界の復権

 私はサイバーリテラシーの課題として以下の3点を上げている(『サイバーリテラシー概論』2007、知泉書簡)。

①デジタル技術でつくられたサイバー空間の特質を理解する
②現実世界がサイバー空間との接触を通じてどのように変容しているかを探る
③サイバー空間の再構築と現実世界の復権

 いま大事なのは③ではないだろうか。サイバー空間再設計の努力であり、現実世界の重要さを見つめ直し、それを復権することである。言葉を変えて言えば、現実世界に軸足を置きつつ、インターネットを便利な道具として使う知恵を紡ぎ出すことだと思われる。

 ところで、この原稿を書いているまさに最中、ニュースサイト・BLOGOSのコメント欄が2020年1月をもって廃止される(正確には匿名コメントができないようにする)という報に接した。まともな意見、反論より、匿名による誹謗中傷、罵詈雑言が氾濫しているからである。

 今年(2019年)暮には、多くの人に利用されてきたフリーウェアのML(メーリングリスト)サービス、freemlも閉鎖した。ジャンルごとに息の長い議論を積み重ねていく仕組みや、書いたメールの内容を送稿前にチェックできる機能なども用意されたすぐれものだった。私も多くの恩恵を受けてきたが、実際の参加者はあまり議論することには使わず、ただの連絡用に重宝することが多かった。閉鎖の報を聞いたとき私は、インターネット上のコミュニケーションのあり方が大きく変わり、メーリングリストそのものが役目を終えたのだと悟らされた。

こんなはずではなかった、やっかい