林「情報法」(53)

A型企業とJ型企業(その1)

 近代法において、私たち人間(自然人)が法律に定められた権利を享受する資格があるのは当然として、それ以外の有資格者(法的主体)として認められてきたのは、法人だけです。ところが自動運転車やロボット・AIなどが高度の知識を持つようになると、これらの者も主体になり得るか否かが問題になってきます。これは全く新しい議論のように思われがちですが、実は19世紀前半において法人に関する激しい論争(法人本質論)があったときも、類似の議論が交わされています。法学における議論が沈静化してからも、20世紀中葉以降の経済学において「法人とは何か」「法人のあり方に文化の違いがあるか」「どのような法人組織が効率的か」などの議論が展開されています。

 日本的企業を客観視するために、そのエキスを紹介したいのですが、1回では説明しきれないので、年をまたいで2回に分けました。後半は「お年玉」としてお待ちください。

・法学における法人本質論

 私が法学部で学んだ頃は、ドイツ流の法学が主流であったこともあって、「法人実在説」「法人擬制説」の違いについて随所で説明を受けました。前者は「法人は自然人と同様実在のもの」と考えるのに対して、後者は「法人は特に認められた場合に限り自然人に擬制することが許される」ものと考える点で対照的です。法解釈の実務でも、前者であれば法人設立の自由度と活動範囲は広く、また個人の行為か法人の行為かを比較的平等に割り振るのに対して、後者の考えに立てば法人の設立そのものが制限され、その行為の範囲も狭くなり個人の行為として扱われることが多くなります(その極限は、法人否定説になります)。

 資本主義経済の発展に伴って企業の役割が増し、また大企業の存在が無視できなくなるとともに、この概念論争ともいえる議論は次第に衰え、過去の議論になったかに見えます。事実、法の運用においても、大きな変貌がありました。かつては「法人擬制説」の見方が強く、法人格を得られない「権利能力なき社団」(同窓会やNPO的組織など)が、事務所や運転資金の借り入れで苦労する(代表者である個人名義でしか借りられない)などの苦労がありましたが、2006年の一般社団法人及び一般財団法人に関する法律の制定によって、これらの懸念はかなり緩和され、「法人実在説」に近付いたかに見えます。

 しかし従業員が企業目的を達成するために行なった行為が他者に損害を与えた場合に、それを個人の行為と見るか企業の行為と見るかは、現在でも問題になり得ます(個人の不法行為と法人の使用者責任の両方が認められているので、実行上deep pocketである企業の責任を追及する場合が多いでしょうが)。また税法の分野では、企業に対する法人税と個人に対する所得税が併存するのは妥当か、という議論があり得ます。法人税を認めることと、法人が政治資金を支出することを認める最高裁の判例とは整合的のように見えますが、法人に選挙権を認めるべきかとなると、考え込む人が多いでしょう。特許の原始的取得者は自然人ですが、会社が発明者(多くは従業員)から権利の譲渡等を受けることが多い現状をどう考えるべきでしょうか?(往々にして、見返りとしての「相当の利益」について争いが生ずることがあります)。

 このように民事法の分野では「法人実在説」に近い解釈が一般化していますが、刑事法の分野で、「法人が犯罪の行為者になり得るか」という設問をすれば、大方の学者はかなり否定的に答えるでしょう(特に、個人の行為がなく法人だけが処罰される可能性に関して)。現在頻発している組織不祥事に対する対策も、この点を考慮に入れて検討すべき時期ではないかと思います。

・法人の設立し易さ

 このような変化、特に民事法分野における変化にもかかわらず、どの国の法律が法人の設立に易しいかと言えば、少なくとも日本ではないと思われます。わが国の民法が33条において「法人は、この法律その他の法律の規定によらなければ、成立しない」と規定し、何らかの法的根拠を要請していること(「法人法定主義」)も影響しているかもしれません。

 この点に関して、私はこんな経験もしています。1980年代初頭にNTTの民営化に携わっていたころ、各国の動向を探ろうとAT&TやBTなどの代表的事業者の、社内経済学者と交流を始めました(どこの国でも電話料金は認可制だったので、規制当局を説得するため社内に経済学者がいたのです)。その交流はやがて国際学会の設立に至ったのですが、どの国で学会を設立するかで迷いました。

 最初は電気通信の国際機関であるITUの本部があるジュネーブが良いという意見が多く、発起人一同のサインまで集めたのですが、手続きが煩瑣なうえ、寄付に対して税控除を受けるのはほぼ不可能という情報が入りました。すると、米国の規制機関であるFCC出身の学者(彼はすでに学者専業になっていました)が、米国なら法人の設立は簡単だといって、あっという間に米国法人化し税控除も可能にしてくれました。米国では法人の設立は「結社の自由」として憲法で保障された権利なのだという感を強くしました。

 また、その10年ほど後にニューヨークに勤務することになった際、個人が好みの法人に寄付をした場合に税控除してくれる制度は、内国歳入法(IRS=Internal Revenue Act)501条 (c) (3) に規定されている有名な条項であることを知りました。時あたかも日本経済が曲がり角にあり、雇用調整が不可避になったため「転職後の年金の継続」が大問題となり、米国の年金ポータビリティ制度(勤め先が変わっても年金は継続する制度)が同法401条 (k) 項にあるため、「401 k」として有名になったころです。私はメディアへの出稿を依頼された場合、「501 (c) (3) もお忘れなく」と訴えたのですが、未だに実現していません。

 私の推測では、最大の反対者は財務省ではないかと思います。彼らの発想では、反社会的勢力を筆頭に、「税金逃れ」「節税」をしたい人はわんさといるので、501 (c) (3) をわが国に導入したら、税収が著しく減ってしまうことを恐れているのではないでしょうか。「ふるさと納税」の不適切な運用からすれば彼らの心配は分かりますが、わが国がデフレから脱却するには個人資産を流動化するしかないので、米国的「寄付文化」を移植するのが最適ではないかと思うのですが、読者の皆さんはいかがお考えでしょうか?

・法人に関する経済学の3つの見方

 ところで、経済学における法人の見方は、法学とは全く異なります。この分野の権威者でノーベル経済学賞候補ともいわれた故青木昌彦によれば、そこではエージェンシー理論、取引費用の経済学、協調ゲーム理論の3つが代表的説明だとされます(以下の記述は、最も分かりやすい『日本企業の組織と情報』東洋経済新報社、1989年、に拠っています)。

 エージェンシー理論は、法人を設立し所有するPrincipalは自ら企業を経営する時間と能力がないので、Agentとしての経営者に任せるのが一般的ですが(所有と経営の分離)、両者の利害は対立する場合が多いと見ます。そこでこの理論では、この対立を回避し如何に経営効率を上げるかを論ずるのが、経済学(特に「企業の経済学」)の役割だというのです。

 これに対して取引費用の経済学は、「個人ではなく企業が市場の主たるプレイヤーになったのはなぜか」という素朴な疑問から出発し、市場取引にはコストがかかるが、それを内部化する(例えば、職員を日々更新で雇うのではなく終身雇用とする)ことによってコストが削減されるなら、企業の方が有利になるからと答えます。もっとも、これは最初期の「取引費用の経済学」の答えで、現在では「契約の経済学」へと変質している面があります。それによれば、「企業は数多くの契約の束」という見方に近付き、「ブロック・チェーンによるスマート契約を絶えず更新し続けるのが企業の実態」だという見方になります。

 最後の協調ゲーム理論による見方とは、青木自身と彼の共同研究者がその後 CIA(Comparative Institutional Analysis)として体系化した方法論のはしりで、もし従業員が企業に特有の資産となるのであれば、企業の超過利潤の配分とそれにかかわる意思決定は、投資家と従業員の協調により決定されるのが効率的かつ組織的均衡である、という見方です。これはエージェンシー理論や取引費用の経済学が、「企業の生むレント(超過利潤)はresidual rightsとして最終的には株主に帰する」という点で一致しているのに対して、真向から反論するものです。

 ここで、2つの点に注意を喚起しておきたいと思います。まず第1点は、青木はもちろん自説である「協調ゲーム理論」を推奨しているのですが、それは先行するエージェンシー理論と、取引費用の経済学の成果をも踏まえていることです。そしてその源流が「コースの定理」で有名な R. Coaseの画期的な論文 ‘The Nature of the Firm’ (Economica, N.S. 4、1937年)にあることは、容易に推測できることです。つまり青木の理論は、米国の主流派経済学と親和性があると認められているのです。

 もう1点は、その当時における日本経済の位置づけです。「失われた30年」しか知らない不幸(?)な世代の方には想像できないでしょうが、本書を構成する英文論文は1980年代かそれ以前に執筆されたものであり、日本経済は光り輝いていました。Ezra F. Vogel の『Japan as Number One: Lessons for America』 がハーバード大学出版局から世に出たのが1979年のことですから、当然かもしれません。そのように注目されていた日本経済のことを知る米国の学者は少数派です。そこへ青木が「米国流の経済学の手法で異質とも思われる日本経済を解剖する」理論を展開したのですから、大いに注目を集めたことは容易に想像できます。

 お気づきになったかも知れませんが、先の「協調ゲーム理論」のプレイヤーとして、「企業の特有の資産となる従業員」という表現がありましたが、これが「熟練」や「終身雇用」といった日本企業の特質を連想させるのは、青木が両国の事情に明るいことを暗に示しています。さて前置きが長くなりすぎましたが、次回はいよいよ「J型企業とA型企業」の本質に迫ります。

 良いお年を。