A型企業とJ型企業(その2)
前回に続いて、日本企業の特質を「現場で即応すべき情報に対して自律的権限を認める一方、人事管理を集中処理する」点に求める、故青木昌彦の理論を紹介します。これは西欧諸国特に米国に典型的な企業運営方法である「人事は分散処理だが、情報は集中処理」というタイプ(A型企業)とは違った、日本企業(J型企業)の特徴であるというのが、青木の主張ですが、それは今日でも有効でしょうか?
・NTTアメリカ社長としての私の経験
私は1992年にNTTの100%子会社であるNTTアメリカ(ニューヨーク州法人)の社長に任命され、ニューヨーク市に赴任しました。シリコン・バレーにもオフィスがあったし、その後重要性を増したのですが、当時の最大の任務は日米貿易摩擦解消の一環として、NTTの調達を「内外無差別」にすることでした。平たく言えば、米国政府から非関税障壁などの不公正取引の嫌疑で睨まれないことだったので、政府機関のあるワシントンD.C. に近い必要があったのです。
当時はまだバブルの余韻も残っていて日本企業の鼻息は荒く、米国企業から学ぶものは吸収し尽くしたので、米国子会社であっても経営の面で特段変わるところはないだろうと高をくくっていました。しかし着任早々、その考えは甘いことを知りました。驚きは2つに分かれます。
1つは、社員を現地採用する際にjob descriptionがいかに大切か、しかもそれはワーカー・クラスの採用にとどまらず、将来重要なポストを任せようとするオフィサー(執行役)候補者についても必要なことを、教えられたことです。当時の日本企業は(現在でもその傾向はかなり残されていますが)、可塑性に富んだ優秀な若手を終身雇用の前提で採用し、いろいろな仕事を任せながら能力と適性を見極めていく、という人事制度を採っていました。私もそのプロセスを経る、いわゆる「本社採用組」でしたので、準幹部候補生にもjob descriptionが必要という事態に戸惑ったものです。
もう1つの驚きは更に大きく、「米国企業は70年代の最悪期を脱し、80年代に製造業の生産性を回復させた上、新分野であるIT産業を発展させている。しかも、それをすべての産業の生産性向上に活用しつつある」という現状認識に至りました。これは「米国から学ぶべきものはない」という甘い認識を一転させるもので、何としても日本側に伝える必要があると考え、それなりの努力をしたのですが(「ITS資本主義による米国の優位」『季刊アスティオン1995 Spring』TBSブリタニカ」、「情報エコノミーに適応した新しい米国方式」『世界』1998年7月号などの論稿を参照)、力及ばず、日本経済がその後の「失われた30年」に陥落していったのは、悔やんでも悔み切れません。
当時の米国企業の経営者は、日本に負けた製造業の生産性競争で盛り返すだけでなく、インターネットなどITの活用によってホワイトカラーの生産性で日本を引き離すことができると、直感的に信じたものと思われます。彼らにとって追い風だったのは、日本バッシングの風潮があったことに加えて、従業員を解雇するのが制度的に容易であるばかりか、それで業績が上がれば経営者には「巨額の報酬と名声」が約束されていたことかと思われます。
・90年代前半に委員会設置会社の役員に
という訳で、日米企業の発想の違いを実感したつもりでいたのですが、1994年にNTT本社がNextelという新興企業に出資したのを機に、同社(NASDAQ上場の委員会設置会社、デラウェア法人)の8人の取締役の1人に加わったところ、日米のガバナンス構造に決定的ともいえる差があることを改めて認識させられました。当時日本には委員会設置会社はなかったと思われるので、私が稀有の体験で戸惑ったのも無理はないでしょう。
この会社は、全米各地でタクシー無線などを運営している小規模の無線会社を買収して、全国ネットワークを構築しようというユニークな作戦を採っていました。取締役は創業者が2人、最大の出資者だったComcast(現在では全米最大のCATV会社)から2人、買収された会社の社長経験者が2人、松下通信とNTTという出資者から各1人という構成で、全員が指名・監査・報酬の3委員会のいずれかに属します。私は報酬委員になり、同社のofficerかその候補者以上に対するストック・オプションの制度を作ったことを、懐かしく思い出します(私自身にもオプションの権利があったのですが、行使しませんでした。その裏話をするとおもしろいのですが、脇道に逸れるので別途にします)。
委員会設置会社は、わが国にも2002年の商法改正で導入され、2005年の会社法に取り込まれましたが、採用しているのは日産やソニーなど、グローバル展開を積極的に実施している企業に限られるようです。その理由は、委員会設置会社とそうでない会社の間で、取締役の役割が180度違ってくるからです。委員会設置会社の取締役は先のNextelの例にあるように、業務執行をしない者がほとんどであり、仮に監査委員にならないにしても、主たる任務は業務執行の監督ですから、旧来の日本企業の常識からすれば監査役相当になります。
一方、わが国には世界に稀な監査役の制度があり、その機能に期待して組織を設計すれば、取締役は自ら執行業務に携わるプレイイング・マネジャーになります。もちろん、一部取締役は外部から来る「独立取締役」の場合もありますが、それは例外と考えられます。最近は欧米流のcorporate governanceが優勢とはいえ、完全な欧米型には抵抗があり、2014年に導入された監査等委員会設置会社は、両者を折衷するものとして採用が増えています。もっとも、いずれの場合も外部取締役が必要で、候補者の奪い合いが顕著なようです。
つまり、日本企業では取締役は経営者であり、大株主のご機嫌を損ねなければ大きな裁量権を持っている。一般株主の権利は弱く、株主総会での発言の機会は少なく、経営状況に不満なら株を売るのが手っ取り早い(Hirschman [1970] “Exit, Voice, and Loyalty” Harvard Univ. Pressの軽妙な譬えによれば、voiceではなくexitが優先)。M&A(Merger & Acquisition)により会社が売買の対象になることは稀で、その場合でさえ解雇は例外とされており、労働者保護が厚いといった特徴を持っていると考えられます。
これに対して、米国企業での取締役は監査役に近く、Principalである株主(voice型の「モノ言う株主」が大部分)に代わってAgentである経営者のパフォーマンスをチェックし、結果が芳しくなければ交代させる。また株主価値最大化のためならM&Aも考える。従って執行役を兼務する取締役は稀で、ほとんどが外部取締役で占められる。取締役の採用には、独自の外部労働市場があり、人事委員会は市場からふさわしい経営者を選任するといった具合に、前回紹介したエージェンシー理論を教科書通りに運用しているように見えました。
・A型企業とJ型企業
このような経験をした後に帰国して学者に転じた私は、自身が慣れ親しんできた「日本的経営」とは何だったのか、それに対してNextelで得た経験は何だったのか、学問的な説明はできるのか、に関心を持ち続けていました。以前から付き合いのあった伊丹敬之の、日本的経営を「資本主義」(資本を中心に組織化される)ではなく「人本主義」(従業員を中心に組織化される)だと捉える考え方は、ユニークさに惹かれつつも日米をあまりに対比的に見る点で、得心するには至りませんでした。
そこへ青木昌彦の業績を知り、また当の著者とも面識を得る機会があったことから、日米の企業経営の差を「A型企業とJ型企業」と類型化する考えに、深い感銘を受けました。
青木の考えは、なお若干の「ゆらぎ」を持っていたように見えますが、『日本企業の組織と情報』で見る限り、以下のように要約することが許されるかと思います。
ますA型企業の特徴として、以下の3点を摘出します(p.29 の記述を私流に再編集)
① 組織は明確に定義された「専門的」機能のもとに結集している
② 組織内の構成単位は、報告を受けるべき唯一の上司を持ち、2以上の構成単位間の調整は、彼らに共通の上司を経由してのみなされる、
③ すべての構成単位に対する上司である唯一の中央機関が存在する。
これは私が経験した米国企業(A型企業)の組織上の特徴を簡潔に説明したもので、J型企業の特徴は、正反対のものと考えれば間違いないでしょう。
その上で、こうした基本構造が企業経営にどのように反映されるかを考えるため、人材(従業員 = P)と情報(経営全体ではなく、現場レベルの意思決定 = I)という2つの経営資源の活用方法に関して、それぞれ中央集権的な管理(C)と分散的な管理(D)を想定し、どの組み合わせがA型企業とJ型企業にフィットするかを考察します。すると理論的にはCP、DPとCI、DIをどのように組み合わせても良いはずで、4通りの組み合わせがあるにもかかわらず、「西洋、とくにアメリカの事業組織(A企業)は、どちらかというと組織モードのスペクトラムのCI-DP側の方向に傾斜しており、他方、DI-CPの組合せは日本の事業組織により顕著である」(同上書p.118)というのです。
確かに経営の意思決定とは別に、現場で起きた事故対策のようなオペレーショナルな意思決定の場合、A型企業では「必ず上司の指示を仰げ」というマニュアルに従わないと叱られる(情報の集中管理)のに対して、J型企業ではライン全体を止めるという大決断さえ現場の判断に任されているといいますから、情報管理が自律・分権的です。
それではJ型企業で、会社全体のヒエラルキーをどう保っているかといえば、人事管理を一元化していて、どの社員にどの程度の権限を任せられるかを、社内資格を基準に標準化しているからだとされます。つまり人材を全社的に集中管理しており、これは事業部単位で採用・昇進を決めるA型企業と対照的です。
このように青木理論は私の現場感覚にぴったりだったのですが、実は理論的にも、効率的であるのは、この組み合わせだけで、他のCI-CPとDI-DPは非効率になるというのです。つまり「組織的に有効であるためには、雇用契約は情報側面とインセンティブの側面において、双対的に分散化と集中化を結合する必要がある。この要請を満たす2つのパターンがCI-DPのA型と、DI-CPのJ型である」(p.149の第1双対原理を私流に読み替え)というのが青木理論のエッセンスです。
・青木の分析のその後
このような理論の含意は何でしょうか? 青木とともにスタンフォード大学と縁が深かった故林敏彦が、書評で次のように述べているのは、核心をついています(『経済研究』42巻1号、1991年)。
企業組織にとって最も重要なことは、個別要素を組織化するによって要素価値の単純和を超えるレントを生み出すことであり、その組織レントの分配は、経営者が仲介する株主と従業員との間の協力ゲームの解として、利潤と従業員福利に加重された目的関数を最大化するように行われる。こうして著者は、株主利益(株価)の最大化を目指す新古典派的企業と労働者一人当たりの付加価値を最大化する労働者自主管理企業の中間的存在として日本企業を位置づけ、企業に参加する資本の提供者、経営者、従業員の3者の間の協力ゲームの安定的均衡としてその企業行動を理解しようとする。
これは当時の日本企業の内部分析として出色と思われましたが、その後の変化で色あせてしまったのは、残念なことです。その原因は、どこにあるのでしょうか? 著者が亡くなったため、日本企業のパフォーマンスが落ちたため、インターネットが経済のルールを変えたため、あるいはソ連の崩壊によって純粋の「資本主義」が優位に立ったため? 学問には終わりがないようです。