林「情報法」(55)

『知財の理論』を読んで

 暮れも押し迫ったころ、田村善之さんから新著の『知財の理論』(有斐閣)を贈呈いただき、年末始の長い休みを使って、全巻を通読することができました。私が著作権の考察を足掛かりにして、「情報法」へと対象を広げてきたことはしばしば述べましたが、ここへきて「原点回帰」の機会をいただいたような気がして、感謝しています。という訳で今回は、私にとっての原点は何だったのか、を自問自答します。

・知的財産は、なぜ財産なのか?

 私は33年間という長いビジネス経験を経て、1997年に56歳にして学者に転じました。「少年老い易く、学成り難し」ですから、ピンポイントで焦点を定めなければ、学者らしい成果は出せそうにありません。そこで考えたのは、ビジネス経験の延長上に研究テーマを絞ることと、それを補う最適な学問分野を選定することでした。その結果、幸い情報産業はまだ成長の余地があり学問の対象になり得ること、コンテンツに縁が薄かった私にも、著作権を勉強すれば付加価値をつけることができそうだ、という理解に達しました。

 そこで、著作権を中心に知的財産の研究を始めたのですが、法学部出身ながら独学で経済学を学んだ私がまず違和感を持ったのは、概説書のほとんどが知的財産の定義はするものの、なぜそうなるのかを説明してくれなかったことです。これは現在でも残っている疑問で、例えば知的財産基本法2条1項の定義は、それに応えてくれません。

この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。

 このような中にあって、田村さんの『著作権法』(現在は第2版、2001年、有斐閣)は、唯一といえるほど、私と問題意識を共有するものでした。同書は、所有権と著作権の違いはもとより、「隅田川の花火を見る権利が成り立つか」、「成り立つとすれば所有権以外を根拠にできるか」といった問題設定で、知財の法的性格とその限界を描いています。要は、知的財産というものは、それがなければ「ただ乗り」が横行して創作や発明による文化や技術の発展に支障があるから、インセンティブとして政策的に付与する権利だというのです。

 このような発想は、一時代前の著作権研究者の理解(自然権論といい、人格の発露である知的生産物そのものが保護に値すると説く)とは対照的で、経済学を先に学んでおり米国在住の経験もあった私には、「しっくり」くるものでした。そのころ、偶々ローレンス・レッシグと知り合う機会があり、田村さんも私もクリエイティブ・コモンズの動きに少なからぬ貢献をし、影響も受けました。しかし法学のみを根拠に著作権を論ずる人たち(こちらの方が数も多く「主流派」と思われます)は、こうした「亜流」の発想を受け入れる気はなかったようです。

・情報法アプローチと知的財産法政策学アプローチ

 このような発想の差は、「知的財産として保護すべき情報はどこまでか」をめぐって先鋭化します。主流派からすれば、「知的財産を保護することが経済を活性化させる」と信じたいところでしょうが、経済分析の結果がそれを支持するとは限りません。そういう場合もあるでしょうが、ある情報に排他権を与えると、次の創作や発明を制約する面があるので、経済を停滞させるかもしれないからです。

 この点は、「言論の自由」を重んずる憲法論において、著作権がどのように扱われてきたかを知ると、より理解が深まるでしょう。2005年に出した拙著『情報メディア法』で私は、上記のような「著作権の二面性」を指摘しましたが、これは憲法学者にある種の刺激になったようです。長谷部恭男さんのような権威者が、その後「憲法学者も著作権を学ぶべし」と説いてくれたほどで、今日では「言論の自由と著作権の関係」は、憲法研究のサブ・テーマに昇格した(?)ように思われます。

 さて、ここまでは田村さんと私はかなり近い位置に居たのですが、その後私は「著作権をモデルに情報法を構想する」方向に進み、田村さんは「法解釈論よりも、その立法過程の歪みなどを研究する」方向を志向したので、やや疎遠になりました。田村さんは、その方法論を「知的財産法政策学」と称し、ジャーナル(『知的財産法政策学研究』)の発行等を通じて精力的に自ら論陣を張り、また多くの寄稿者に最新の研究成果発表の機会を提供したことは、わが国の知的財産研究史において特筆すべき貢献であったと言えるでしょう。

 その方法論の基礎にある考えを私流に要約すれば、「法を、妥協の産物である法文の解釈論で語るだけでは、不十分である」「法制定の過程で、権利者は団体を作ってロビーイングするので、その声は反映されやすいが、利用者は多数であるが分散しているので、その利害はまとまらず反映されにくい」「しかしインターネットが開いた道は、誰もが利用者でもあり創作者にもなれる世界なので、上記のバイアスは修正されるべきである」といった視点になると思われます。

 このような新しいアプローチには、新しい方法論が必要になりますが、田村さんは私のように苦労し挫折する(実は、私が経済学を諦めて法学に回帰したのは、トランプの出現まで預言することはできませんでしたが、経済学の「効率性第一主義」の危うさを直感的に感じたからです)ことなく、各種方法論の「良いとこ取り」を楽々と達成しているようです。つまり、もともと知的財産法学者としての研鑽と実績を基礎に、「法と経済学」とわざわざ銘打たなくても、そのエクスを十分吸収し、更には行動経済学や経済心理学の知見を自在に活用しているのは、羨ましい限りです。わが国で「法政策学」を最初に掲げた平井宜夫氏と、これを批判する星野英一氏の間で、激しい論争が繰り広げられたことが嘘のように思われます。

 米国の有名ロー・スクールでは、これらの知識が会計や金融の知識などとともに、裁判でも有用とされているようですから(ハウエル・ジャクソン他著、神田秀樹・草野耕三訳『数理法学概論』有斐閣、2014年)、当然のこととも思われますが、私自身は上述の挫折の経験から、「若い人はいいな」という羨望を拭えません。

・客体としての知財+関係的権利?

 さて全体的な評価よりも、実質的に私が今後の研究のためのヒントを得た具体的ポイントを紹介しましょう。まず田村さんが、従来から拠って立つインセンティブ論を維持しつつ、自然権論にも補足的役割を付与して両者を統合したことが印象的でした。両説の対立があまりに先鋭であったためか、田村さんは従来インセンティブ論だけを強く支持してきました。しかし本書では、インセンティブ論だけでは説明できない部分に、自然権論による説明が有効な場合があることを示しています。この点は、私も異論ありません。

 第2点は、法学における伝統的な発想は、「主体と客体」二分論でした。知的財産を「客体」とし、それに対して権利を有する者(主体)を想定し、その「権利の内容」を考えるというアプローチです。この点に関して彼は、従来から「機能的知的財産法」を志向し、「知的財産という客体がまず存在する」という発想を排除してきました。私が見る限り「権利の内容」が先に決まるべきだ、という発想に近かったと思われます。

 本書において、その発想はいよいよ洗練され、「知的財産は客体に関する権利ではなく、人々の行動の自由を制約する仕組みである」という「自由統制型知的財産法」の考えが前面に出ています。実は私も、情報法の基礎には「情報は本来自由に流通すべきものであり、それに規律を加えるのは、知的財産・秘密情報・違法(有害)情報の3つのパターンに該当する場合に限る」という着想を得て、同様の議論を展開しています(『情報法のリーガル・マインド』特に、第2章)。

 しかし私は、なおそのような「法的規律の対象としての情報」という概念から抜けきれないでいます。これは「客体論」を払拭できないことと同じです。ただし、客体の存在を認めることと、その権利内容が一意に決まることとは同義ではないとして、「主体と客体の関係性」の中に、その解を求めようとしているのですが、まだまだ模索中です。

 これに対して田村さんは、法律は文字情報による人々の行動の規律ですから、私流の「規律の手段としての情報」、特にメタファーによる影響を受けやすいとして、「知的創作物」(「物とは有体物をいう」という民法85条の規定に引きずられて、自然に有体物アナロジーになる)といった定義には、注意が必要だとしています。そうすると、本来の知的財産法は「知的創作に伴う利用行為の規律に関する法律」とすべきことになるのでしょうか? そして、そうした「純粋の行為規律」としての制定法は、「主体・客体」を中心に形成されてきた、わが国の法制の中に「座り心地良く」定着するのでしょうか?

 私は田村さんの主張に共感する点が多く、「わが意を得たり」という感触もある中で、なお検討すべき点が多いようにも感ぜざるを得ません。それは、本連載第21回「主体と客体に関する情報法の特異性」や第25回「馬の法か、サイバー法か、情報法か」で述べたような分析を続けていけば、「関係性の法」として同じ目的を達成できるのではないか、という淡い期待があるからです。私が10歳若ければ、田村さんと競い合うのですが、残念です。

 と言いつつも第3点として、田村さん自身がmuddling through(田村さんは「漸進的試行錯誤」と訳していますが、私は「難局を何とか切り抜ける」ではどうかと思っています)が不可避としていることに、学者としての良心を感じました。この分野はまだまだ「未開の荒野」であり、多くの参入者を得て開拓を進める余地があると信じています。

 なお最後に、一言だけお詫びを。実は田村さんのこの論文集は、過去に単独論文として発表済みのものをまとめたもので、多くは前述の『知的財産法政策学研究』が初出です。このジャーナルをいただいていながら、初出時に読み飛ばすか、積読したおいた怠惰をお許しください。なお田村さんご本人には、お礼とともに怠惰を直接お詫びしました。