新型コロナウイルスの札幌へ一人旅
新型コロナウイルスが「フリーズ!」の警告を発したように日本中の自由な動きを止めている。そんな3月6日(2020年)、感染者が群を抜いて増える北海道へ3泊の旅へ出た。幸い異状なく帰宅したが、妻からみれば要警戒の保菌容疑者。当分は家でもマスク、仲間の集まりにも出席がはばかられる身になった。
何故そんな旅になったか、1年前、元上司の偲ぶ会に出席して上京したことに始まる。折角の機会だと東京の次男だけでなく山形の長男にも声をかけて都内で飲んだ。わが家の男だけで飲むは初めてだが意外に盛り上がった。
気をよくして農閑期の行事にし、今年の会場は札幌に決めた。長男は札幌生まれだが、生後間もなくの私の転勤以来、再び北海道に戻る機会がなかった。それで、雪まつりの混雑を避けて3月最初の週末、すすきの集合にした。
そこに、この新型コロナ騒ぎだ。直前の2月27日に全国の小中高はすべて休校せよと安倍首相が要請した。その翌日、道知事は緊急事態宣言を出して3人会を予定した週末は外出を控えよと全道民に要請したのである。
長男は周りの主婦たちから何でこの時期に札幌へ、と迫られて楽しむ気分も萎えたのか、最初に降りた。保菌者で帰れば確かに迷惑をかける。次男も後に続いて、3人会は中止になった。
札幌の人口は190万人、北海道の感染者数が国内で一番多いとはいえ、道内あちこちに66人の散在だ(当時)。行けば即感染というわけでもなかろう、キャンセルなしの早割航空券を捨てるのも勿体ないと、一人出かけることにした。
福岡から新千歳に向かう飛行機はがらがら。とくに年寄りは私だけだった。前日までの寒波が去ったすすきの繁華街は、汚れた雪解け道を歩く人がまばら。小樽では観光客が9割減と人力車の脇で客待ちのお兄さんがあきらめ顔だった。
有難くも昔の仲間が集まってくれて賑やかな5人会が開けたが、わが家の男だけ3人会はこうして消し飛んだ。
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前回、人類がウイルスなどの微生物の世界をいかに知らないか、を書いた。集団感染が新型コロナウイルスによるものと中国が1月9日に公表したことにもふれたが、中国の感染対策が本格化するのは、人から人への感染を正式に認めて、習近平国家主席が直接、陣頭指揮に乗り出した1月20日からのようだ。
これ以降は、延べ20億人が動くといわれる春節(旧正月)の移動に大ブレーキが掛けられた。武漢は封鎖状態になり国内外への団体旅行が禁止された。中国の感染拡大はその後も続くが、日本の観光地に大打撃を与えたこの封じ込め強硬策が結果的に日本への飛び火を救ったと思われる。
周辺国では陸続きの北朝鮮が真っ先に動き、1月22日から中国観光客の入国をすべて拒否、台湾も同日、武漢からの団体客を受け入れないと発表した。しかし、奈良の観光バス運転手と添乗員が国内での感染者となった1月29日、日本政府はまだ動かない。運転手らは出国が禁止される前の武漢からのツアー客を乗せていた。
WHOが1月30日、新型肺炎は世界的拡大と緊急事態宣言を出した。その翌日、日本政府は湖北省滞在者に限定して入国を拒否すると発表、渡航は抑制というゆるい要請だった。アメリカは同じ日、中国全土への渡航禁止を勧告した。
2月13日には神奈川の80歳女性が新型肺炎で死亡したが、中国への渡航歴はなく感染経路は全く不明だった。死亡の前日にウイルス検査を受け、陽性と確認されたのは死亡後だった。渡航歴がなく肺炎患者との接触も確認されない感染者が他にも3人見つかり、水際防疫がすり抜けになっていることは明らかになった。
結局、中国からの入国者はウイルス潜伏期間の14日間、指定場所に待機させるという事実上の入国阻止を発表したのは、国賓として4月に迎える習主席の来日を五輪以降と正式に延期した同じ3月5日だった。
こうして見てくると、安全保障の強化を旗印に憲法改正へ前のめりの安倍政権だが、国民の命と健康に直結する防疫、感染症対策では危機管理の体制や十分な備えを用意しているとはとても思えない。首相周辺の場当たり的な判断で迷走したように思う。
自然農の農業者としては、食の安全や食糧自給率も心配だ。欧米に比べ無いに等しい農薬、添加物の使用基準。種子は国際企業に独占され、一朝ことあればどうなることか。国民の命と健康に直結する問題として新型ウイルスと同じくらい心配している。
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上の原稿をサイトの主宰者、矢野直明さんへ送ったら「なぜ、こうまで北海道にこだわったのかを書き加えて」とメールをいただいた。
私は1978年(昭和53年)夏、朝日新聞西部本社から北海道支社へ交流人事で転勤した。それまで西部整理部で4年間ご一緒だったのが矢野さんである。私はきれいに忘れていたが、フェリーで旅立つのを見送った思い出があると、同じ矢野さんのメールにあった。
読みながらジーンと胸が熱くなった。ミスばかりする拙い部員だった私を先輩たちが温かく見守ってくれていたことが改めて思い出された。
そうだった。車に妻と幼い長女を乗せ、小倉の港からフェリーを乗り継いで札幌へ向かった。今回、原稿につける写真を何気なく小樽運河の風景にしたが、敦賀から日本海を渡って最初に足を踏み入れたのが小樽港だったのだ。
根っからの九州人にとって初めての北海道は毎日が楽しい別天地。その札幌で長男を授かったが、わずか2年で東京整理部に転勤、3年後にそこで次男が生まれた。ろくに子育てをしていない父親が息子との3人会を札幌で、とふっと思いついたのは、はるか昔の深いご縁につながっていた。頭が下がるばかりだ。