林「情報法」(59)

オークションは世界を変えるか?

 前回に続いて、ポズナーとワイルの論議を紹介します。共著者は、オークションについて一般人が「最高価格を付けた人が、その入札価格で財貨を手に入れることができる」という誤った理解をしていると指摘します。正しくは「私的財の標準的なオークションでは、私が落札すると、この『外部性』によって、別の入札者が財を手に入れられないため、落札した最高額入札者は、落札できなかった第2位の入札者の入札額を支払わなくてはいけない」(邦訳書、p. 59)。こう考えると、「この原理は、私的財の経済的市場だけでなく、公共財を創出する集合的決定を組織する方法も示唆している」というのです(邦訳書 p.59)。果たして本当にそうか、以下の事例を見ていきましょう。

・2次の投票(Quadratic Voting)というRadical Democracy

  資本主義国で生活していると、経済における市場原理と政治における民主主義は、一体不離のものと考えがちですが、「資本主義でも民主主義でもない市場主義」を目指す国が出てきました。また、資本主義がポピュリズムに陥りがちなことは、多くの論者の指摘する通りです。そもそも「多数決原理」で物事を決めること自体が、ある種の「不可能を強いている」ことは、アローの「不可能性定理」の指摘以来通説になっています(単純な例として、3種の提案に対してA > B > C 、B>C>A、C>A>Bという選好順位を持つ3者が、2者択一の投票をすると3すくみとなり、投票順で結果が変わってしまう)。

 しかし多くの人々は、チャーチルが言ったとされる「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」という言葉に、なんとなく納得してきたようです。民主主義に代わる有効な代替案を、提示した人がいないからです。ところがポズナーとワイルは、このテーマに果敢に挑戦しました。彼らの案は、監訳者の安田准教授によれば、以下のようなものです。

具体的には、ボイスクレジットという(仮想的な)予算を各有権者に与えた上で、それを使って票を買うことを許すという提案だ。これによって、有権者は自分にとってより重要な問題により多くの票を投票することができるようになる。その際に、1票なら1クレジット、2票なら4クレジット、3票なら9クレジット——という具合に、票数の2乗分のボイスクレジットを支払う仕組みを提唱し、「2次の投票」(QV)と名付けている。ここで登場する「2乗する」というルールは、単なる著者たちの思い付き、というわけではもちろんない。現在までに購入した票数と追加的に買い足すために必要なボイスクレジットが比例的な関係になる、という二次関数の性質がカギを握っているのだ。その上で著者たちは、一定の条件の下で、QVによって公共財の最適供給が実現できることを示している。

 このような仕組みも、一種のオークションという理解でしょうか。ポズナーとワイルは、2016年の米国大統領選挙でQVを使ったらどうなっていたかのシミュレーションを行なっています。「有力とされていた候補者の中では、穏健派とされていた共和党の候補が勝っていた可能性が一番高い。最終的に勝利したドナルド・トランプは全候補者の中で最下位になっていた。」(邦訳書p.186)と聞けば、QVがどんな効果をもたらすのか、もっと知りたくなります。

・VIP(Visas between Individuals Program)により移民労働者の市場を創設する

 米国でも(不法)移民問題は、論争を招きがち(controversial)な政治テーマです。しかし移民の国だけあって、H1-Bというvisaによって、IT企業を支えるエンジニアなどの技術者を外国から呼び寄せることに成功しています。雇用主が移民労働者の「身元引受人」になることで、米国内に3年間(更新すれば6年間)滞在でき、家族の呼び寄せも可能です。

 ポズナーとワイルは、この制度を拡張し、企業ではなく一般市民が「身元引受人」になれるようにすべきだ、期限もなくて良い、という大胆な提案をしています。ただし、2つの調整が必要であるとします。1つは、移民労働者が最低賃金未満の賃金で働くことを認めること。2つ目は、移民法の執行強化で、既存の不法移民に対しても、市民権を取得する道を開く1回限りの恩赦・身元引受人の選定・強制送還といった措置を組み合わせて、新しいシステムに適合させなければならない、としています。

 米国民の大多数が反対しそうですが、彼らは反対も織り込み済みのようで、2つの反論を用意しています。モデルとしたH1-Bプログラムそのものに反対がないことと、類似のオペア(Au Pair Care、ビザの種類はJ-1。1~2年間、住み込みで育児や家事を手伝いながら現地の言葉や文化を学ぶプログラムで、ほとんど若い女性が対象)の成果を見ると、一般国民でも外国人労働者を身元引受人として管理できるはず、というのです。

 このような提案は、新制度で移民としてやってくる非常に貧しい移民労働者が「新しい下層階級」になる(新しい搾取)という反対に会うことでしょう。それでも共著者は、以下のような反論を準備しています(邦訳書、pp.221~222)。

 

いま、OECD諸国が十分な量の移民を受け入れて、人口が3分の1増えたとしよう。また、平均的な移民のビザの入札額は年間6,000ドルだとする。(中略)OECD諸国の1人当たりの平均GDPは3万5千ドルなので、この提案が受け入れられれば、典型的なOECD加盟国の一般市民の国民所得はおよそ6%押し上げられる。これは過去5年間の1人当たり実質所得の伸び率に匹敵する水準だ。(中略)
移民にもたらされる利益は、それ以上に劇的なものになる。大半の移民は典型的な年間所得が数千ドル以下の国から来ることを考えると、移民によっては所得が5千ドル増えれば(1万1千ドルの利益から6千ドルの入札額を差し引いた額)、所得が何倍にも増える可能性がある。このシナリオの下では、1ドルの利益のうち、約半分がOECD諸国のところに回り、約半分が移民と移民が送金する相手のところに回る。OECD諸国は世界所得の半分を占めるため、グローバル経済もおよそ6~7%成長する。

 それでもなお、反対論は消えないでしょうが、彼らは ① 移住が格差を生み出すのではなく「格差を見える化」するだけで、② ほとんどが恒久的な移住ではなく短期循環型になる、③ 米国内の格差は広まるかもしれないが、米国民間の格差も、世界全体の格差も縮小する、④ 不法移民による地下経済を地上に引き上げ、規制と監視が可能になる、と強気です。

・機関投資家による支配を解く

 初期の資本主義は、文字通り創業者でもある資本家が経営するものでした。しかし次第に資本家は経営から手を引き、20世紀以降の会社運営は「経営者」という専門家に委ねられました(資本と経営の分離)。ここで発生したのが、資本家と経営者の間の利害が一致するとは限らないことから、principalである資本家が、agentである経営者をどうモニターし、意に沿った経営をさせるかという、エイジェンシー問題でした。

 しかも、20世紀前半の資本家は彼自身も事業者でしたが、20世紀後半には大規模な資産運用会社や年金基金などの機関投資家が優勢になってきました。彼らは、ポートフォリオ理論に基づく分散投資をすると同時に、配当や会社価値の最大化(株価値上がり)を期待して、「モノ言う株主」として企業を実質的に支配しています。つまり「所有と経営の分離」が「経営者の時代」を経て反転し、再び「機関投資家(=所有)支配」の時代になったのです。

 機関投資家支配の害として、共著者は「価格の引き上げ」と「賃金の引き下げ」の2つをあげ、それぞれについて実証分析を紹介しています。特に後者は、伝統的な「売り手独占(monopoly)」とは違う「買い手独占(monopsony)」と呼ばれ、賃金の停滞と密接な関連があるとされています。わが国の状況も、この分析の正しさを証明しているように思えますが、わが国には強力な機関投資家もいないので、賃金抑制の結果生じた余剰は企業にため込まれ、マクロ経済の停滞を加速しているように思えます。

 どうしたら良いのでしょうか。共著者は「機関投資家が同じ業界内で多くの企業の株式を保有することを禁止すると同時に、業界が異なる多くの企業の株式を保有することを認める」(邦訳書、pp.275~276)のが決め手だとします。しかし、わが国よりも厳格な運用で知られる独禁法を有する米国では、既にそのような方向性は確保されているのではないでしょうか?

 確かに、米国独禁法の重要部分である「企業結合」を律するクレイトン法7条では、「競争を実質的に減殺し,又は独占を形成するおそれがある株式その他の持分(Stock or OtherShare Capital)又は資産(Assets)の取得は禁止され」ています(邦訳書の訳は厳密さに欠けるので、公正取引委員会のホームページによる)。しかし、これは事業会社が他の事業会社を吸収・合併する(具体例として、DuPontによるGM株の買い占め)など、従来型の「企業結合」に関する規定で、機関投資家に対する規制ではありません。

 そこで共著者は、以下の新ルールを提案します。「寡占状態で1社以上の実質支配企業の株式を保有し、コーポレートガバナンスにかかわっている投資家は、市場の1%以上を保有することはできない。」果たしてこれは有効か、また十分か、議論は尽きないと思われますが、共著者が「独占を嫌う」市場主義の信奉者であることだけは、痛いほど伝わってきます。また、企業もM&A市場という場で取引される状況では、オークションの発想が一定の有効性を持つことも、理解できます。

・データの提供者に適正な対価を払う

 さて最後の提案は、デジタル経済における「データ」の重要性に着目して、「データを生み出している人にしかるべき対価が支払われるべきだ」というものです。「ユーザーがデータの生産者と販売者として情報経済で重要な役割の担っている」(邦訳書p.298)にもかかわらす、「データ生産者として人々が果たしている役割は、公正に扱われているわけでも、適正に報酬が与えられているわけでもない」(p.299)からです。

  どうしてこのような事態になったかといえば、情報は「囲い込み」できないから個々の情報の生産者にはバーゲニング・パワーがない反面、ビッグ・データになれば価値が高まることを知ったIT企業は、あの手この手で情報を安価あるいは無料で手に入れているからです。その一例がURLと呼ばれる作戦で、これは「usage, revenues later」(まずは客集めに集中し、収益モデルは後で考える)の略だといいます。

 この原理は情報経済の初期から指摘されてきた「ネットワーク効果」(富める者がますます富む)、「独り勝ち(winner-take-all)現象」「収穫逓増(increasing returns)」など、情報財の取引が有体物の取引とは違った特性を持つことを、ビジネスモデルに転換した工夫です。そして、URLを上回る最大の発明は、情報財の取引市場と広告の市場とを背中合わせ(両面市場)にすることで、「タダ」というエサでサービスを提供する代わりに、利用者をデータ生産者に変えてしまうことです。

 しかし、これは発明と呼ぶよりも、結果論にすぎないのかもしれません。「収益モデルを模索する中でやむを得ず無料サービスの提供者としてスタートし、その後、広告プラットフォームになった会社は、今度はデータ収集会社へと姿をかえつつあり」(p.313)と見るのが当たっているかもしれないからです。いずれにしても、こうして巨大企業になったGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)に対する風当たりが強くなるのは当然と言えるでしょう。

 市場を信奉し、独占や既得権益を嫌う共著者も、その姿勢に変わりはありません。それどころか、昔懐かしいマルクスまで持ち出して、「万国のデータ労働者よ、団結せよ」と叫ばんばかりの記述には驚きました。上記の3つの提言では、冷徹な分析を披露したポズナーとワイルも、このテーマには有効な提言が難しかったようです。私としては最も期待したテーマだったので残念ですが、それだけ「情報財」の扱いに関する分析が未開拓であることをも示しているともいえ、ほっとした面もあります。