林「情報法」(60)

<よろずやっかい>解決に貢献できるか?

 このブログが間借りしている「サイバー燈台」主宰者の矢野さんは、ご自身のブログ「新・サイバー閑話」の中で、「インターネットよろずやっかい」を連載しています。間借り人として大家さんに若干の貢献がしたいので、前2回で紹介したポズナーなどの提言が「厄介」の解消に幾分でも役立つのか、勝手に想像してみました。

・テーマの選定

 矢野さんがこれまでの9回にわたる連載で挙げた<やっかい>は、具体的には次のようなものでした(テーマの表記を私流に変えた部分があります)。第1回は「2015年ごろ以降はインターネットの抱える潜在的問題点が顕在化しつつある時代と言える」といった全体の問題視角を述べる回だったので、個別の事例としては以下の8点が指摘されたことになります。

  2)「1人1票」の厄介
  3)情報発信が金になる厄介
  4)「人間フィルタリング」が効かない厄介
  5)「良識派」がネットから撤退する厄介
  6)既存秩序の崩壊とアイデンティティ喪失の厄介
  7)ネットの行動様式が現実世界に逆流する厄介
  8)日本社会に特有の「タテ社会」と「世間」が弱体化する厄介
  9)加速化する時間という厄介

 このうち、ポズナー流の Radical Markets が寄与しそうなのは、さし向き3)と9)かと思いますので、今回と次回でその2つの話題を取り上げましょう。

・情報発信が金になる厄介

 まず3)の情報発信が金になる厄介は、以下のような点が<やっかい>の根源だと思われているようです。

インターネットの登場以前(Before Cyber = BC)は、言論を広く伝播するにはそれなりの投資が必要だったため発信者の数は限られ、それで生計を維持している人は「作家」「ジャーナリスト」などと呼ばれる、その道のプロフェッショナルでした(「先生」という敬称あるいは蔑称もありました)。ところが、インターネットという安価で操作が簡単な言論発信装置が登場したことで、「誰でも表現者」になれる時代が到来し、プロとアマの区別が薄れてしまいました(矢野さん流のインターネットの3大特徴のうち、「インターネットには境目がない」を反映するものです)。

 加えて、両者を仲介するプラットフォーマーと呼ばれる事業者が、「言論と広告を組み合わせる」というビジネス・モデルを発明したため、従来なら「文士は食えない」と思われていた職業でも、十分「食っていける」可能性が生まれました。ケータイ小説・ユーチューバー・ピコ太郎などという象徴的な例を経て、アルファ・ブロガーやフォロワー100万人などというヒーローが現れ、子供が「将来なりたい職業」に入るケースもあります。

 しかし、長くジャーナリズムの世界に身を置いてきた矢野さんからすれば、以下のように目を覆いたくなる事例も散見(あるいは日常化?)されるようになりました。

・広告のために事実をあっさり曲げる:どうしても表現は過剰になり、極端な場合、嘘でもいい。フェイクニュースが頻発する原因はこういう事情にもよる。
・キュレーションサイト(まとめサイト):2016年にDeNAが閉鎖した10サイトの実態を見ると、インターネット上で書くことがいかに事実、あるいは真実からかけ離れた行為だったかがよくわかる。 

 ここでは、かつてメディアというものが持っていた「正しい事実を伝える」といった姿勢そのものが消えているだけでなく、コミュニケーション(すなわち人間同士の交流の在り方)まで歪めているのではないか、と矢野さんは心配しています。

ケータイやスマートフォンの書き込みは、書き言葉ではなく話し言葉で、文章は短く、断片的、断定的になりがちである。その極限が絵文字で、隠語めいたものもある。書くという行為の内実がずいぶん変わってきたわけで、こういうやりかたでコミュニケーションしていれば、思考方法もまた変わってくるだろう。そこに安易に金が稼げるという事情が覆いかぶさり、表現をめぐる状況自体が大きく変わってきた。

・「情報発信が金にならない厄介」もあったのではないか?

 矢野さんの指摘は核心を突いていますし、ジャーナリストの衰退は放置できない、という心情も良く分かります。しかし経済学の視点から見ると、「情報発信が金になる厄介」以前には、「情報発信が金にならない厄介」があったのではないか、という疑問も生じます。具体的には、上述した「文士は食えない(武士は食わねど高楊枝)」現象です。

 これは「産業化」一般に言えることで、経済の世界(特に資本主義経済)では、「その仕事で生計が維持できるかどうか」は、決定的に重要な意味を持っています。どんなに社会的に大切な機能だと主張しても、一人前と見られるには「それで食っていけるか」ということにならざるを得ないからです。「衣食足りて礼節を知る」のが順序ですから、「食っていけない」人に道を説いても、残念ながら無意味です。

 逆に、どんなに倫理的に非難に値する仕事であっても、それで悠々食っていけるものは、法律で禁止しても生き延びます。世界最古の職業とされる売春が無くならないのは、その故でしょう。かつて、レーガンとサッチャーが主導した市場主義の流れの中では、「個人」が「市場」で独り立ちすることを強いられ、「社会」という緩衝材はないものとされました(Covid-19から奇跡の復活を果たしたジョンソン首相が、「やはり社会はあるのだ」と発言して話題になっているようです。宗旨替えでしょうか?)。

 「だから経済学は嫌いなんだ」と言って、ここで立ち止まらないでください。実は、私が経済学から法学に回帰したのも、経済学者の中には倫理観ゼロや、あっても極端な功利主義を信ずる学者がいて、これ以上付き合っていられないと思ったからなのです(この嫌悪感は、トランプ大統領に対しても持ち続けています)。  

 それでも私は、経済学は「マネーという単位で見ればどうなるか」という視点から物事の本質を教えてくれる、便利な手段だと思っています。つまり「バカとハサミは使いよう」で、経済学の有用性と限界を理解した上で「手段として」使うのです。そのためにも、経済学一本やりではなく、「法と経済学」という形で批判的に使うのが、バランスを取る上で有効だというのが、私の信条です。

 さて、その上で矢野さんの指摘を私流にパラフレイズすれば、産業化以前からあった言論ビジネスを産業化して、多くの人が生計を維持できるようにした点では、インターネットは過去の厄介を解消しました。しかし、それがあまりに安易に使えるようになった結果、新たな厄介が生じたので、これを軽減あるいは緩和するにはどうしたら良いか、というのが「法と経済学者」としての私に期待される任務である、ということになるでしょう。

・「独り勝ち」の原因を経済学はどう捉えるか?

 そこで現実論として、矢野さんの指摘のような弊害を避けるにはどうしたら良いかを考えるには、インターネットが可能にしたビジネスが持つ、メリットとデメリットを見極めるのが早道です。

 メリットは言うまでもなく、ビジネスとしては成り立ちにくい仕事を手助けして、産業化したことです。私はかつてメディアの研究者でしたので、メディアが契約料でどれだけ稼ぎ、広告料にどれだけ依存しているかに関心を持っていました。当時は、いわゆるニューメディアの勃興期で、新しいビジネス・モデルの模索が続いていたことを懐かしく思い出します。

 ところが、ここで「ネットワーク効果」という新しい現象が生まれました。これは「どのシステムに入るか」という意思決定が購買者の選好だけでは決まらず、「どのシステムに入っている人が多いか」という外部の事情に依存するということです。1990年代半ば以降は「なぜWindowsを買うのか?」と問われれば、「性能が良いから」ではなく「誰もが使っていて便利だから」という回答をする人が圧倒的になりました。

 つまりWindowsというOSが優勢になると、それに対応したアプリが多数かつ早期に開発され、この良循環が更にWindowsに有利に働き、遂には「独り勝ち」(winner-take-all)になったのです。これはOSの市場とアプリの市場が相互作用した結果ですので、従来の独禁法では対応できません。独禁法は単一市場を前提にしており、まず「市場を画定する」作業をし、その市場の中の支配力で「独占」かどうかを判断するのに対して、ここで生じているのは2つの市場にまたがる相互作用が独占の源泉だからです。

 「ネットワーク効果」がより鮮明に出ているのが、情報サービスと広告の組合せです。この点を独禁政策が専門の小田切宏之さんの図(「プラットフォーム市場の集中と競争:2つの螺旋効果と競争政策の役割」『情報通信学会誌』Vol.37、No. 4)を借りて、私なりに脚色して説明すれば、以下の3ステップになります。

 まず第1ステップの「(直接)ネットワーク効果」(図の左側)は、単一の市場で「ユーザ―数が多い」ことが、そのまま「ユーザーの効用が大きい」ことを言います。極端な例は、20世紀初頭の米国の電話ビジネスで、2つのシステム間の相互接続交渉が挫折したので、「どちらが優勢か」をめぐって、し烈な顧客獲得競争が行なわれました。

 これが上述のWindowsのような例では、「ハードの市場」と「ソフトの市場」が相互に影響し合うように発展し(図の右側)。ここで第2ステップの「間接ネットワーク効果」が生じました。図の「市場S」は、例えばオンライン・ショッピング・モールの出店者の市場、「市場C」は、その顧客の市場と考えてみましょう。

  Sの出店者が多いことは、同じ市場の同業者に(プラスの)影響はしませんが、モールで買い物をする市場Cでは、顧客の効用を増大させます。ここでプラットフォームがSとCをつなぐと、Cの市場でユーザー数が多いことは、他の買い物客に影響しませんが、Sの出店者の効用を増大させます。つまりここでは、ネットワーク効果が2つの市場をまたいで出現しているのです。

 ここで終わっていれば、さほどの議論にならなかったかもしれませんが、情報という商品は伝統的な有体物とは違っていました。従来はSとCの市場は独立したものと捉えられていましたが、プラットフォーマーというビジネス形態が生まれ、この仲介者が両市場を統合的に支配するような変化が生じたのです。経済学はこれを「両面市場」(two-sided market)として議論していますが、世間的には「プラットフォーマー独占」の問題と呼ぶのが一般的かと思います。

 彼らの独占力の源泉は、2つあります。1つは「情報」という価格をつけにくい財貨に、1つ1つ価格をつけるという難題を回避して、「広告収入」で賄うことで無料にするか、せいぜい「定額制」で販売することを可能にしたビジネス・モデルの成功です。もう1つは、従来「広告効果は測定が難しい」ことを隠れ蓑にしてきたマスメディア等と違って、ビッグ・データを活用して効果を「見える化」したことで広告主の信頼を得たことです。

 しかし、このような大成功には、光と影があります。前者の影は矢野さんの指摘にあるように、「言論が広告に服従する」現象を生みやすいことです。後者の影は「データが価値を生む」ことが明らかになったにもかかわらず、その対価が支払われていないことです。ポズナー達が後者について、厳しい指摘をしていることは前回指摘したとおりですが、いずれにせよプラットフォーマーが「両面市場」の支配力を強めていることは疑いなく、EUを始め各国はその対応を余儀なくされています。

・「見えないもの」を中心にシステムを考え直す

 しかし私は、彼らの指摘に対して「(他の)3つの提言では、冷徹な分析を披露したポズナーとワイルも、このテーマには有効な提言が難しかったようです」といった厳し目の評価をせざるを得ませんでした。それは「情報の経済学」が、これまでの経済学を延長するだけでは解けない面を有していることを表しています。

 経済システムが変わった後に、それを追いかける形でしか制度を設計することが難しい法学においては、その困難は想像を超えるものがありそうです。しかし私たちは、否応なくその世界に足を踏み入れているのです。やや誇張であることを承知で敢えて言えば、ペストという感染症が中世から近代への移行を促進したように、Covid-19という感染症が近代から脱近代への移行を促しているようにも思えます。