忘れられつつある「レイテ島」の悲劇
大岡昇平の『レイテ戦記』では、太平洋戦争の末期、フィリピン南部のレイテ島で日米両軍が激しく戦った戦場におけるおびただしい死が克明に描かれている。小説とされるが、大岡は日米両国に残された戦争の記録や軍人の日誌など膨大な資料を渉猟し、生還した元兵士の聞き取りもした。執念とも思える緻密さで資料を突き合わせ、戦争を生きた日本人の真実に迫った他に類を見ない記録だ。
太平洋戦争の帰趨を決めたレイテ島の戦いは、昭和19年(1944年)10月20日、水平線を黒く埋め尽くした米艦からの絨毯爆撃で始まる。それから5か月余、静岡県より少し大きい島で日本軍8万4千人が、最終的には20万人を超えたアメリカ軍と戦い、極限の恐怖と過酷な肉薄戦の果てに悲惨な死を重ねた。生還できたのは2500人、実に97%が死を強制され、武器、食糧も尽きる飢えの中で命を落とした。
戦艦「武蔵」が沈没し、日本海軍の命運が尽きる海戦もレイテ湾周辺で始まり、若者が爆弾を抱えて敵艦に体当たりした特攻もこの戦いから開始された。最後の「武蔵」艦上では人の四肢が飛び鉄板に肉片と血が張り付いた。子供っぽい少年兵が裂けた腹から出た腸をふるえる両手で戻そうともがく姿も紹介されている。20本の魚雷と17個の爆弾を受けた不沈戦艦は多くの命を船底に抱いて艦首から沈んだ。千人余の死であった。
この惨状がなぜレイテ島周辺に集中したか。ここを日本国家が敗色を挽回する決戦と決めたからだ。南方軍の山下奉文司令官が反対するのも押し切って大本営が命令を下した。そのレイテ島に上陸したアメリカ軍は初日で6万人の兵と10万7千トンの武器、弾薬、物資を揚陸したが、待ち構えた日本軍は2万人余りでしかなかった。島の裏側で泥縄式の補給が続いたが、補給船のほとんどは潜水艦と空からの攻撃にさらされ、上陸できたのは6万人余、大事な武器、糧食はわずかだけに終わる。
敵の自動小銃は1分間に400発発射でき、日本兵の三八銃は15発だった。目を覆いたくなる圧倒的な戦力、物量の差で苦戦と後退を続けながらも、将兵は地形と雨期の雨も味方にしてよく戦う。しかし、日が経つにつれ10人、20人、200、300と死体の数は増える。首を飛ばされ、手足を失う、あっけない死の連続。『レイテ戦記』では、その死が1兵卒の知りえない日米両国の戦略と政治、そこに軍人の思惑もからむ大きな構図として描かれている。
・私を突然襲った死の恐怖
読み進んで人の死にほとんど無感覚になっている時に、突然、その死の恐怖が襲ってきた。圧倒的な力で迫ってくるM8戦車を阻止するため、自分一人が入る蛸壺を掘って、作動後4秒で爆発する手榴弾を手に敵兵の接近を待つ兵士。それは後退した仲間のために一人死を待つ姿であった。多くは戦闘にも慣れていない若い兵士に命じられた。その絶対的孤独の心情を思い、身を貫く恐怖にしばらく本を置いたまま動くことが出来なかった。
その死によって戦果を上げることもあったが、ほとんどが蛸壺に入ったまま火炎放射器で焼かれたり、銃弾を浴びたりして死んだ。彼らの死は仲間のため祖国のためであったが、これは、人であれ何であれ、命が自由に生きることを至上のものとする自然農とは究極的に相いれない姿である。大岡昇平は戦後20年以上たった民主主義の日本でこの戦場の有様を1,000ページ、百万字に及ぶ言葉で世に出した。
大岡昇平もまた「大本営」の目詰まりを克明に描いている。当時、海軍は台湾沖航空戦のあやふやな視認から戦果を誤認して誇大妄想の大戦果を天皇に奏上、発表した。その大戦果が実は微々たるもので味方航空機の損害は甚大と気付いた大本営海軍部は驚くべきことにその事実を陸軍に伝達しなかった。虚報の戦果に勢い込んだ陸軍指導部はルソン島決戦の既定方針を覆し、それに反対する現地判断を押し切ってレイテ決戦へ舵を切ったのである。
この泥縄の作戦変更は輸送、護衛、情報を軽視してきた日本軍の弱点をさらけ出すことになった。兵員はぎりぎり送り込んだものの丸腰同然で、しかも飢える兵士たちに投降、撤退を許さなかった。白兵戦と突撃を繰り返す明治以来の無反省で非理性的な戦略、戦術――。そのつけは一線の兵士たちに情け容赦なく降りかかった。私を恐怖させた蛸壺のあの兵士は肉弾となって戦車に立ち向かい、傷病兵は自爆するほかなくただ放置された。
こうした犯罪的な不都合、作戦の失敗が記載されたはずの軍事記録は、敗戦直前にことごとく焼却され、仲が悪かった陸海軍が戦後は一転協力して多くの事実をひた隠しにした。死線を超えた軍隊仲間の親睦とされる戦友会も、上官の威圧で兵卒による真相の暴露を封じるのが真の目的だったといわれる。不合理を最も知る戦死者は何も語れず、生還した多くの軍人、将官の話には保身や自慢による粉飾、虚偽が多く、このことを知った大岡の戦記取材はますます執念がこもった。
彼自身はレイテ島より北、ルソン島の西南に接するミンドロ島にわずか数十人の部隊で駐屯する35歳の補充兵だった。アメリカ軍が上陸してきたときマラリアの発熱で動けず敵前に一人放置されたために俘虜となって生き残り、彼を残して山へ退却した仲間は誰も生還できなかった。彼は俘虜収容所のあるレイテ島へ送られ、レイテの激戦がマッカーサーの予定を狂わせ、ミンドロ島は素通り同然となって、結果的に彼が救われたことを知った。
鎮魂の戦記は、敗戦も遠くなった昭和42年(1967年)1月から2年半、『中央公論』で連載された。連載中に戦跡慰問をした大岡は「もうだれも戦争なんてやる気はないだろうと思ってきたが、甘かった。おれたちを戦争に駆り出した奴と、同じひと握りの悪党どもが、うそとペテンでおれたちの子どもに(戦争を)やらせようとしている」と地下に眠る戦友に語りかけた。第2次安保闘争で騒然となった時期、BC級戦犯の靖国合祀と政治家の参拝など戦前回帰の動きが目立ち始めたころで、執筆の動機には怒りが込められていた。
・愚劣さと非情を隠蔽する体質
新型コロナで国民の外出がままならぬ生活を強いられている5月3日の憲法記念日、安倍首相が改憲派のインターネット集会にビデオメッセージを送り、「緊急事態で国家や国民がどんな役割を果たすかは極めて重く大切な課題であるか改めて認識した」と語り、憲法に緊急事態条項を創設する意欲を表明した。感染から国民を守る対策の稚拙さをアベノマスクと嘲笑されながら、彼の関心はもっぱら国家統治の容易さと、国民を従わせ協力させる権限に向いていたようである。
2次にわたり在職8年を超す安倍内閣は「戦争ができる国にする」ことを標榜してはばからない。まず教育に国の関与を強める教育基本法を改定した。防衛、警察などの情報に強いガードをかける特定秘密保護法、歴代の自民党政権も認めてこなかった集団的自衛権の行使を容認する安全保障法案を、それも憲法を勝手に解釈する欺瞞で成立させた。情報の軽視どころか隠蔽、改竄の体質は戦前と少しも変わらない。これまで取材で自由に出入りできた中央官庁のオフィスも、いまカギがかけら記者は締め出された。
その政権下で急速に進んだ格差社会。自己責任で切り捨てられる貧困層の若者を代弁するフリーライターの赤木智弘氏は、新型コロナに怯える「恐怖の平等」が社会の平等を実現するきっかけになるよう願うという一文を新聞に寄せた(2020年5月1日付毎日紙)。彼は「丸山眞男をひっぱたきたい 希望は戦争」という刺激的な記事(2007年「論座」1月号)で批判と注目を浴びた。絶望的な分断と閉塞を解消するのはもはや「国民が平等に苦しむ戦争しかない」と今でも考えている。
しかし、それが如何に戦争の現実から遠い誤りであるか。大岡は国民の命が軍人、政治家の野心や思惑でもてあそばれるのを日米双方から描いている。上層司令官は、俘虜になっても、敵前逃亡同然の転身をしても、大目に見られてかばい合う日本軍の体質。米軍側でも、大統領選への出馬を胸に作戦スケジュールを進めるマッカーサーと最初の上陸用舟艇で日本兵の銃弾に倒れる黒人兵の対比として描かれている。
ビンタを張った方も張られた方も特権階級とは無縁で、死の最前線を担わされたのは農民や庶民である。「軍隊とは愚劣で非情な行動が行われ、それを隠匿する組織である」ことを忘れてはならない、と大岡昇平は遺言の様に書き残している。
戦争への道の大きな曲がり角になるかもしれない安保関連法が未明の国会で可決、成立した2015年9月19日、日本人と戦争を見つめてきた作家の半藤一利氏は、特攻を作戦化し命じた指揮官が戦後のうのうと生きた構造よりも、戦争が美談や物語にされる風潮の方をより憂え、戦争体験者がいなくなって戦争、軍隊の怖さを意識しなくなった危機感を新聞に語っている。
未来の原因は未来にあるわけではなく、過去に積み重ねられた事実が原因となって未来が現れる。新型コロナウイルス騒ぎの今も日々過去になってその体験の積み重ねから新しい生活や社会の在り方が探られるのだろうが、死の恐怖だけでなく私たちは戦争の悲惨さを間近に覗くことができる『レイテ戦記』を大事な宝物として抱えてこの国を歩まなければならないのではないだろうか。