古藤「自然農10年」(17) 命と死③

死ぬことは、生きることと見つけたり

田植えは畔の手入れから

 レイテ島で日本の将兵たちが累々たる屍となって折り重なっていたころ、それらの戦場に赴くため平岡公威、後の三島由紀夫は学徒出陣を前に遺書をしたためていた。美学とも称される文学を打ち立てる才能は幼少期、暗い書斎に幽閉されて感性のみを研ぎ澄ましていた。後年、その三島が強靭な肉体を持つ兵士としてついに斬り死にして果てる「奇怪な文豪」の生涯へ私を誘ったのは『葉隠』であった。

 私が住む福岡の隣県、佐賀の旧鍋島藩士、山本常朝が言い残した言葉を後輩藩士が集録した本である。『レイテ戦記』を読み死の恐怖がまだ胸に震えているころふと買ったのが三島由紀夫の『葉隠入門』だった。そして常朝の言葉よりもその言葉を生涯の友とした三島由紀夫という精神が次第に私を捉えていった。何より命を大事にする自然農と最も対極にあるようでいて、そのひたむきで命を燃やし尽くす人生は、どこか自然農が求める生き方に通じるものがある様に思われてならなかったからである。

 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」。常朝の言葉は、死地で迷わず死ぬ覚悟を示した象徴的なフレーズだが、それは逆説的な表現でしかない。三島はその裏にある「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり」という理念こそ「葉隠」の真の哲学だと説いていた。好きに暮らすといっても「常住死身(しにみ)」の境地で得る自由な生き方は、生やさしいものではない。葉隠の真髄を一つひとつ汲み取る『葉隠入門』の克明な解釈が、そのまま人間三島が何を善悪とし、何を文学思想の原点としたか、彼の生き方と精神へ案内する入門書にもなっていた。

 三島由紀夫は、剣道とボディービル、そして俳優、異常な人生の終わり方など私には余りに遠い存在だったが、『葉隠入門』 から思いもしない天才作家の心の真奥部へ導かれていったのである。

 三島が本書(文庫本)を上梓したのは死の3年前である。彼は山本常朝の心得を常に人生の手本とし、その書を唯一の友として机近くに置いていたと告白している。「わたしの文学の母体、永遠の活力の供給源だった」とまで書いている。

・三島由紀夫と『葉隠』

 大正14年生まれの三島は昭和の年数がそのまま満年齢になる。レイテ戦の時は19歳、学習院高等科を首席で卒業、天皇隣席の卒業式で総代として銀時計をもらい、父の希望で心ならず東大法科へ進む。徴兵検査は虚弱な体ながら乙種合格。戦況が激化する昭和20年2月、学徒動員で赤紙が届き死を覚悟した。遺髪を添えた遺書を残し入隊地へ向かうが、髪振り乱して泣く母から風邪をもらい気管支炎で高熱を発した。入隊検査でそれが結核による肺浸潤と誤診され、即日帰郷となった。

 彼の入るはずだった部隊はフィリピンに派遣され、ほぼ全滅した。レイテ島では島の北西海岸部へ追い詰められ日本兵が1万人近くが残っていたが、米軍も去った後にとどめを刺したのは島民のゲリラ部隊であった。生き残り兵たちは終戦まで密林の中をさまよい、段々と消耗し消えていった。

 母の愛か、神のわざか、三島を死地から救い、彼に膨大な文学作品を生ませることになった誤診。その時、父親はその幸運に歓喜し逃げ帰るように息子の手を引いたが、息子三島には、彼が死に場所を選ぶ伏線の一つとして長く残り続けたように思う。

 そして敗戦、三島が愛してやまなかった日本の伝統と文化は一夜にして全否定され、復興し泰平ムードになる新日本が彼には荒廃する闇の様に見えた。マッカーサーに会った天皇がなぜ衣冠束帯でなかったかと三島は心から憤った。天皇はなぜ人間になったかと嘆いたのである。戦争中にもてはやされた「葉隠」も同様な本として「荒縄でひっくくられて、ごみためへ捨てられた」。しかし、逆説の書は闇の中でかえって光を放ちだし、三島は行動の指針としてますます大事にした。

 恋愛では「忍ぶ恋の一語に尽く」と教える。一生打ち明けないなら最も気高いとして恋愛自由の世とはまさに反対の極地であるが、「葉隠」を鏡とするとき爽やかな青空を見るようにその言葉が光りだして力を与えると三島は言う。「葉隠は永遠の活力の供給源」とまで言ったが、その言葉に続いて「すなわちその容赦ない鞭により、氷のような美しさによって」と続けている。

・今を透視していた三島由紀夫

 自然農は時に自分より他を先にする思いやりを大切にするが、常朝の人への配慮は驚くべき繊細さだ。意見を相手が受け入れねば恥をかかせる悪口、自分のうっぷん晴らしと切り捨てる。その気配りは自然農の師、川口由一さんも真っ青になると思わせるほどである。

 相手が聞き入れてくれそうかを探り、まずはじっこんになって平素から信用されるようにし、趣味で誘うなど様々に工夫し、時節を考え文通や雑談の終わりに自分の欠点、悪事を言いながら、直接言わずとも相手が思い当たるようにするか、相手の長所を誉めあげてその気に乗せるか、要は「渇く時水を飲む様に請合わせて、疵を治すが意見なり」なのである。

 「葉隠」が嘆く世相は元禄の世だが、若侍が寄れば「金銀の噂、損得の考え、内証事の話、衣装の吟味、色欲の雑談ばかり」と例をあげ「是非なき風俗になり行き候」と侍の社用族化や「すりの目遣い」になって理想のかげが薄れる青年のひとみを嘆く常朝が描かれる。

 三島はその文化や歴史、伝統を最も大事なものとした。マルクスの「共産党宣言」は一切の社会秩序を強制的に転覆して目的を達成するとした点において、日本の文化と歴史、伝統の破壊者、生涯の敵としたのである。同時にマッカーサー進駐軍の強制が去った後も自己保身と偽善の政治が続き、経済的な繁栄のかげで根本を失った国民精神への憂いを深めた。そして、国の根幹となるはずの憲法が現実に違背することを嘘とごまかしですり抜けた日本国家の欺瞞を何よりも憎んだ。

「今に日本はとんでもない国になるよ、って言ってたんですね」。26歳の三島に出会って長く親交があった三輪明宏さんの記憶がサイトに紹介されている。「親が子を殺し、子が親を殺し、行きずりの人を刺し殺したり、そういう時代になるよって、いってたわけじゃないですか。そのとおりになりましたよね。」

 私には奇怪としか思えなかったあの「決起」の前に三島が三輪さんに残した言葉だった。それは50年たった今を悲しいほど正確に言い当てている。