新サイバー閑話(54)平成とITと私④

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊤

・小田嶋隆君の思い出

 軽妙洒脱な文章で世相を鋭利に切り取ることで人気があったコラムニスト、小田嶋隆さんが2022年6月24日、65歳で病没され、7月1日に送別会が行われ私も出席した。『アサヒグラフ』のあと出版局大阪本部に異動になり、そこでメディアとしてのパソコンをテーマとする新雑誌を構想、1986年から出版局プロジェクト室で準備を始めたが、そのとき小田嶋君(当時の呼び方に習い、以後「君」呼びさせていただきます)に会ったのだった。

 テクニカルライターふうではあるが、後年を思わせる達意の文章を書いているのに興味をもち、都内のアパートの一室に尋ねた35年前を今でもよく覚えている。たしか友人と同居していたが、アップルの最新機種、マッキントッシュSEが畳の上に無造作に転がっていた。

 <平成とITと私>はずいぶん間隔があいてしまったが、第4回は小田嶋君の死で突然蘇った辛く、懐かしく、また楽しかったムックの思い出を書くことにする。私よりははるかに年少の小田嶋君に先立たれるとは思ってもみなかったことである。

 アサヒグラフでコンピュータ取材をしたことをきっかけに私は「メディアとしてのパーソナル・コンピュータ」を対象とする新雑誌を構想、出版局プロジェクト室で同僚となった三浦賢一君(ずいぶん前に亡くなった)と2人で、『科学朝日』別冊として、5冊のムックを出すことになった。新しい分野にいきなり進出するよりは、まずムックを数冊つくって、販売、広告など業務も含めて、ならし運転しようというわけである。

 そのタイトルと刊行月日は以下の通りである。

『ASAHIパソコン・シリーズ』①おもいっきりPC-98(別冊科学朝日1987年5月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』②おもいっきりネットワーキング(別冊科学朝日6月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』③おもいっきりワープロ(別冊科学朝日7月号)
『ASAHIIパソコン・シリーズ』④おもいっきりデスクトップ・パブリッシング(別冊科学朝日10月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』⑤おもいっきり電子小道具(別冊科学朝日12月号)

・『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』

 これをたった2人で1987年4月から同年11月までの間に出した。社内にはパソコンに詳しい記者は皆無と言っていい状態だったから、私たちは編集者に徹して、執筆はほとんど社外のフリーライターに依頼することにした。このライターの1人が小田嶋君だった。

 このムックの売り上げが好調だったことが翌1988年からの『ASAHIパソコン』創刊に結びつくのだが、すでにマックに親しみパソコン通だっただけでなく、優秀な編集者にして科学ジャーナリストだった三浦君とシャカリキになって過ごした多忙な1年間はことさら思い出深い。先に記した熊沢正人さんも、このとき助っ人として参加してくれた。小田嶋君にまつわるほろ苦くも感動的な思い出は、4冊目の『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』をめぐってだった。

 いまはスマートフォンで音も映像も簡単に扱えるので、当時の状況はもはや想像するのも難しいが、1986年当時のパソコンは文字を編集するのが精いっぱいで、ようやく画像処理ソフトが市販され始めていた。パソコンにはまだ内臓ハードディスクがついておらず、画像ソフトもフロッピーディスクで提供されていたから、デスクトップ・パブリッシング(DTP、机上出版)という言葉はあったけれど、画像をそれなりに扱うためには大型コンピュータが必要だった。

 それでもパソコンの将来は画像処理が主役になるだろうという考えから、ムックの一環にデスクトップ・パブリッシングを取り上げたのだが、時代を先取りしすぎていたかもしれない。当時の有名な電子編集システムとしてEZPS(イージーピーエス、キアノン)を紹介しているが、パソコンより大型のワークステーションとレーザーコピア(レーザープリンタとイメージスキャナ)の組みあわせで598万円だった。

 さて、ムックをつくるにあたっては、市販のマシンやソフトを使って何ができるか、そのDTPサンプル集を目玉にすることにした。その作業を誰にまかせるか。いろいろ検討した結果、私たちが白羽の矢を立てたのが小田嶋君だった。彼はわりと簡単に「いいですよ。おもしろいですね」と請け合ってくれた。

 24ページの大特集を予定し、締め切り1か月前に発注した。私たちはそれで安心して他の作業に没頭していたのだが、締め切り日になっても原稿は来ず、電話すると、「1ページも書けていない」と言う。私は大いに慌てた。「すぐ社に来てほしい。これから24ページ作るのだから、1人じゃ無理だ。誰でもいいから、仲間を数人連れてくるように」。

 こうして小田嶋君は、3、4人の仲間を連れて編集部にやってきた。例によって、夜を撤しての突貫作業が始まったのである。ワイワイガヤガヤと話し合って、「一太郎と花子で作った短歌同人誌『蒼生』」、「EZPSで作った『足立銀河総合開発』会社案内」、「OASYSで作った『愛犬のDCブランド』広告企画書」、「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」、「NEWSで作った『ハイパーシャープペンシル』ユーザーズマニュアル」の5作品を、それぞれのシステムを紹介しながら作ることにした。

 仲間は入れ替わりがあったので正確な人数は覚えていないが、私は小田嶋君グループを「逃がさない」ことを第一義に、全員に社の簡易宿泊施設(2段ベッド)に泊まり込んでもらった。仮眠するときも警戒を怠ることなく(^o^)、3日ぐらい作業を続けたと思う。いまならブラック企業と批判されるところである。作業終了後、小田嶋君たちは不精ひげをはやしたまま、げっそりして帰っていったが、私たちとて同様だった。

  そして出来上がった作品は――、いずれもすばらしいものだったのである。私は小田嶋君およびその仲間の実力に心底感心した。本文の創作は言わずもがな、美しいカットやグラフ、写真、表をあしらった、立派なDTP文書が完成したのである。

 小田島君は「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」を担当してくれたが、本文、囲みインタビュー、イラストなどすべてに工夫が懲らされ、飲んべいの先輩記者が登場したり、怒ってばかりいる会長が登場したり、それは本人ふうであったり、編集者へのあてつけふうだったりしたが、なかなかの出来栄えでもあった。

・短歌同人誌『蒼生』

 私が感心したのは友人のK君が作った短歌同人誌『蒼生』だった。最初のページには、入道雲に朝顔をあしらったカットの下に「『蒼生』発刊の辞」がある。

   墨痕鮮やかという形容があります。私などは悪筆の方なので、人様から立派な書を見せて頂くのは大変嬉しいのですが、一筆お願いしますなどと頼まれると赤面せざるを得ません。
 歌は自身の内より湧き出てくるものですが、できればそこに詠み込んだ心のありかたというものを、人様にも知って頂きたい。そうすることで自らの感興をより深め、また歌として定着させることができる。
 今回、最先端技術であるデスクトップ・パブリッシングを採用して、町田短歌会同人誌『蒼生』を発刊しましたのは、より深く短歌を味わい、歌の心を知るためなのです。
 新しいモノ好きのお調子ものかもしれませんが、美しい文学、楽しい絵、美しい言葉を求めるのは当り前のことなのです。新しきを温ねて古きを知るというのも、決して無茶な話ではない。文化という範疇は広いですが、心と切り離して語ることはできないものなのです。

 いかにも短歌同人誌の主宰者が書きそうな文章で、しかもデスクトップ・パブリッシングという「課題」をうまく取り入れている。続いて、○○○○○選、▽▽▽▽▽選、歌枕再発見などが続くが、いずれも歌と選評が書かれている。その中の5首の項を紹介する。

五首 阪本耕平
 八月二十二日、勤めより帰りて深夜に読む。
 故郷ではもう草取りは終わりだと端末にむかい虫を取っている
 ぬばたまの闇夜となりて停電に書きかけの文の失われし
 ハンカチを濡らして瞼に乗せて冷やす熱暴走の葉月を過ぎて
 蝉の声にかぶさるようにディスク読む指先は湿るキーの固い冷たさ
 プログラム飛びし夕暮れ火もつけず我はひとつの80286となりぬ

選評 島原白山子
 藪入りは打ち水の道一人往く蝉しぐれにのみ送られて往く
 作者の阪本君は、大手コンピュータ会社のソフトウエア開発部門に勤務する弱冠二十三歳。当会には四カ月前より参加と、まだ経験は浅いが、歌に対する真摯な態度には古株の会員達からも好意が寄せられている。まだ歌の形を成していないと、彼の作首を切って捨てることは簡単だが、五音七音にはおさまらぬカタカナ言葉に囲まれた生活、日本語の外にある仕事と、日本人であるおのれとの溝を三十一文字によって埋めんと欲する創作態度には、歌上手の先輩達の失ってしまった必死の心が感じられる。
 ここで取り上げた五首は、納期の遅れのために盆休みも取れなかったという阪本君が、墓参り代わりに詠んだというもの。
 最初の一首を除いては、故郷への思いは直截には歌われず、仕事道具であるコンピュータとおのれとの間にふと生じる隙間を直視することで、その違和感の闇を故郷まで透視しようとしている。まだ十分に成功しているとは言えないが、刻苦勉励の跡を見るという意味で、今回取りあげた。これを励みに、より一層の努力を望みたい。
  なお最後の歌の80286は、コンピュータの中央演算処理装置の型番である由。破調もまた歌である。

   見事な芸に、私はほとほと感心してしまった。最後の編集後記はこうである。

 本誌は、老体に鞭打って、デスクトップ・パブリッシングなる手法を用いて、完璧なる編集実務OA化のもとに発刊を行うことと相成った。短歌が上代より時代の節目には必ず新たなる冒険を必要とした如く、同人誌も常に新たなる冒険に望まねばならない。また、これで今迄、何かと行き違いの多かった田中印刷所の面々にも、恩返しができたというものである。

 この横溢する遊び心。私は、DTPサンプル集の扉に「ご注意 サンプルの内容は、フィクションです。実在の個人、あるいは団体とはいっさい関係がありません」との断り書きを入れたが、発売後、編集部に「『蒼生』編集部の連絡先を教えてほしい」との問い合わせがあって、私を喜ばせたのだった。 そんなわけでムックづくりは、ほかにもハラハラドキドキの連続であり、体力的にはずいぶん辛い日々だったが、新しいことを始める創造的楽しさにも満ちており、たった2人の編集部ながら、社内外の多くの人びとに助けられ、何とか無事に乗り切ったのだった。他のムックについては次回に記す。

 小田嶋君の送別会の席で、奥さんに「『ASAHIパソコン』の初代編集長」と名乗ると、よく覚えていてくださり、「矢野さんにはたいへん迷惑をかけた、とよく言っていました」とのことだった。私は持参した『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』を見せながら思い出話をしたのだが、小田嶋君が「迷惑をかけた」と言ったのはこのムックのことではなく、その後創刊した『ASAHIパソコン』のことだと思う。

 月2回刊の『ASAHIパソコン』でも毎号コラムを書いてもらい、その秀逸な文章に見出しをつけるのが私の大いなる楽しみだったが、締め切りは基本的に守られなかった。そのたびに電話をかけて厳しく催促していたのである。そのため休載は一度もなかったけれど、私としてもいささか気になっており、後年、彼が有名になり朝日新聞紙上で大きく取り上げられたとき懐かしくなって思わず電話、「激しい催促で申し訳なかったねえ」と言うと、「何でこんなに怒られるのかと思ったが、今ではあれもよかったと思う」と言ってくれた。これが最後の対話になった。

 奥さんに『蒼生』の話をすると、Kさんは明日の葬儀に来るとかで、会えないのはちょっと残念だった。

 小田嶋隆のその後の活躍は多くのファンの知るところで、私も『わが心はICにあらず』、『仏の顔もサンドバッグ』、『ポエムに万歳!』など、単行本が出るたびに購入しては、にやにやしながら読んでいた。最近では『日経ビジネス』連載、<小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明>が秀逸だったが、2011年から20年に至る10年間のツイッター発言を集めた『災間の唄』(2020)」は、本人があとがきに書いているように、「芥川龍之介先生の『侏儒の言葉』以来の‣‣‣大傑作」だと、「今回ばかりは言わせてもら」っても、だれも文句は言わないだろう。私はツイッターをほとんどやらないが、ぱらぱらとページをめくるたびに、往年の朝日新聞夕刊の傑作コラム『素粒子』(筆者・斎藤信也)のような、「山椒は小粒でもピリッと辛い」冴えに感心しきりだった。本人はこれからもツイッターを続け、続集を刊行する予定だったらしい。反骨を小脇に抱え飄々と生きた名コラムニストの早すぎた死に、あらためて深く哀悼の意を表します。