パソコン黎明期の熱気と『ASAHIパソコン』
ムックの好評を受け、1988年秋からパソコン誌が正式にスタートすることになったが、出版局内に編集部が発足するのは同年5月。それまでの間に三浦賢一君と2人で『ASAHIパソコン』の誌名、判型、刊行スタイル、基本コンセプトなどを検討する作業に入った。相談相手はムックに引き続いて雑誌のアートディレクターを担当してくれることになった熊沢正人さんであり、『アサヒグラフ』以来のカメラマン、岡田明彦君だった。朝日新聞社内のパソコン先駆者を訪ねたり、私が出版局に移る前に長く勤務していた西部本社の旧友にパソコン雑誌を出すことについての意見を聞いたりもした。
かつての親友が「記者がワープロで原稿を書くようになって、机に向かうばかりで足で取材をすることがおろそかになっている。農業における農薬と同じで、新聞記者にとってはパソコンはむしろ害である。お前は農薬雑誌を作りたいのか」と鋭い意見を述べて、なるほどそういう面は否定できないと思ったこともあった。
当時、ムックを作りながら、あるいは雑誌の準備の合い間に読んで、元気づけられた本が2冊あった。スチュアート・ブランド『メディアラボ』(室謙二、麻生九美訳、原著1987、福武書店、1988)と、ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(栗田昭平監訳、原著1985、パーソナルメディア、1987)である。
・「収縮する3つの輪」の予言
MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。
『メディアラボ』という本は、アメリカ・カウンターカルチャーの世界的ベストセラーとして有名な『ホールアースカタログ』の編集発行人でもあるスチュアート・ブランドが、パーソナル電子新聞、秘書の代わりをする留守番電話、パーソナル・テレビ、リアルタイムで動くアニメーション、バイオリンの伴奏をする自動ピアノなどなど、当時メディアラボで行なわれていた、活字、音声、映像、さらにはイベントといった、あらゆるメディアの領域に及んだ最先端研究を紹介したものだ。ここには黎明期のパーソナル・コンピュータをめぐる熱気が横溢していた。
私の興味を惹いたのは、この書に掲載されていた次の図である。
描かれた3つの輪は<放送・映画 Broadcast & Motion Picture>、<印刷・出版 Print & Publishing><コンピュータ Computer>からなり、これらは当初は独立した世界を築いていたが(1978年時点)、最近では相互に近付き、重なり合う部分が増えてきた。いずれは1つのメディアに統合され、その中心がコンピュータである、との説明がついていた。
このメディアラボのトレードマーク、「収縮する3つの輪(three overlapping circles)」は、ネグロポンテ所長がひんぱんに言及するので、「ネグロポンテのおしゃぶり」と言われていたが、当時のメディア状況を考えると、まさにこの予言通りに事態は進んでいた。コンピュータという技術が、自らの姿を背後に隠しながら、そのことでかえって全メディアを大きく呑み込んでしまうというイメージで、それはまさに現在の状況を的確に表していた。私はこの図を見たとき、自分がつくろうとしている雑誌のバックボーンを見つけたようで、実に力強く思ったものである(将来の区切りが2000年というのが興味深い)。
・コンピュータは「思考のための道具」
ラインゴールドの『思考のための道具』は、パーソナル・コンピュータを「人間の知性における最も創造的な局面を強化する」、「人びとがこれまで用いてきた思考、学習、および意思疎通の方法を決定的に変える」道具と位置づけ、「コンピュータとは数値の計算に用いられる装置」としか思われていなかった時代に、「人間とコンピュータを結びつける技術の創造に貢献した少数派」の思想を追った本である。スチュアート・ブランドと同じく、ラインゴールドもまたジャーナリストであり、偉大なる先達を足で訪ね、まとめ上げた取材力、構想力に私は舌をまいた。
この本には、チャールズ・バベッジ、アラン・チューリング、ジョン・フォン・ノイマン、ノーバート・ウィーナー、クロード・シャノンといったコンピュータや情報理論の巨人たち(開祖 patriarchs)も取り上げられているが、重点は、その後の「コンピュータを知的能力を飛躍させるための『てこ』にできないかと努力した」パーソナル・コンピュータのパイオニア(pioneers)と、現にいま、さまざまな試みに挑戦している若者たち(情報航海者 infonauts)に置かれている。
パーソナル・コンピュータ発達史に興味のある人ならほとんどの人が知っているロバート・テイラー、J・C・R・リックライダー、ダグ・エンゲルバート、アラン・ケイいった逸材たちが続々と登場し、それぞれの夢と汗と涙の織りなす開発秘話が、興味深い写真とともに、愛情をこめて記述されていた。
簡単に説明しておくと、リックライダーは、MITの実験心理学者から国防省の高等研究計画局(ARPA、アーパ)情報処理研究技術部長になり、人間とコンピュータの新しいコミュニケーションを可能にする「対話型コンピュータ」を実現すべく、多くの研究者に豊富な資金を提供し、コンピュータ・サイエンスを新たなレベルに持ち上げた先駆者である。
エンゲルバートは、リックライダーの資金援助を受けた1人で、早くから思考増幅装置に興味を持ち、マウス、マルチウインドウ、電子メールなど、現在のパソコンの重要なインターフェースを開発した人として知られる。
ロバート・テイラーは、リックライダーのあとを継いでアーパの情報処理研究技術部長になり、主流からは無視されていても、コンピュータ・システムの技術を飛躍的に押し上げるアイデアを持つ研究者の「ヘッド・ハンター」となった。そのため、多くのすぐれた人材がアーパに集まり、彼が責任者となって構築した「全国のコンピュータを接続する対話型コンピュータ・ネットワーク」システム、アーパネットは、のちのインターネットへと発展していく。
彼は、1970年には西海岸のゼロックス社パロアルト研究センター(PARC、パーク)に移り、ここでもトップレベルのコンピュータ・システム設計者を集めたから、パークは一時、パーソナル・コンピュータ研究のメッカとなった。「コンピュータはメディアである」ことをいち早く見抜き、「パーソナル・コンピュータ」という考えを定着させた人として知られるアラン・ケイが活躍したのもパークである。
アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。
いま見ると、これはまさに子どもがタブレット端末で遊んでいるありふれた姿である。アラン・ケイは、MITメディアラボに在籍したこともあり、アップル社の研究フェローもつとめた。「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」というのは、彼のいかにも天才らしい発言である。
・メディアラボやシリコンバレーを見て回る
私のパーソナル・コンピュータに対するイメージは、それらの本を読みながら、しだいにはっきりした形をとっていった。『ASAHIパソコン』創刊前の夏、ボストンで開かれたマッキントッシュのイベント「MACWORLD」に出席がてら、MITメディアラボを見学し、帰りに西海岸のシリコンバレーを駆け足で回った。
ボストンはハーバード大学とMITをかかえた静かな学園都市である。MITでは、当時朝日新聞社からメディアラボに派遣されていた服部桂君に案内してもらって、最先端の研究現場をまわった。瀟洒なラボの建物と同時に、教授や学生たちが和気あいあいと進めている自由な研究風景に心を奪われた。「ハッカー」とは、俗に言われるようなコンピュータ犯罪者ではなく、コンピュータを愛する技術者集団、魅力的な若者たちの総称だということを身をもって体験した。私は創刊号インタビューで、ネグロポンテ所長を取り上げることに決めた。
西海岸、サンフランシスコ湾の南に位置するシリコンバレーは、谷というよりも、小高い山に囲まれた平野だ。車で走ると、松林が続き、樫の木が茂る牧歌的な風景の中に、ハイテク企業群が蝟集していた。といって、狭い場所にひしめきあっているわけではない。クパチーノのアップル社などは、オフィスがいくつかの建物に別れていて、ビルもあるが、こじんまりした住宅のような建物も多く、それが新鮮な印象を与えていた。展示室で、小さなトランクにむき出しのワンボードマイコンが詰まった最初のアップル、ぐっとスマートになったアップルⅡ、そしてリサ、マッキントッシュと、さまざまなマシンやいくつかのデモビデオを見た
バレー西部に広大な敷地を有するスタンフォード大学があり、その近くの小高い丘に、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)がある。パークの果たした役割についてはすでに述べたが、ゼロックスはそこで培ったノウハウをオフィス用ワークステーション「スター(Star))」開発に振り向けたが、パーソナル・コンピュータ市場には進出していかなかった。
いま私たちがパソコンでやっている日常作業そのままが「スター」によって1981年の段階で提示されていたにもかかわらず、そのノウハウがパソコン開発へと進まなかったのは、それなりの理由があってのことだろうが、歴史の皮肉とも言えよう。企業経営の観点からすると、これは一種の「失敗」だと言っていい。パークが現在のパソコンを生み出したと言えなくもないのである。
・パソコン黎明期の天才、ジョブズとゲイツ
パークはアルトを公開し、多くの人にデモを見せたが、その中にアップルのジョブズがいた。アルトに啓示を得たジョブズは、さっそく自分がリーダーになって新しいマシン開発に乗り出し、パークから技術者も引き抜いて、1984年にマッキントッシュを発売する。「電話帳の上に乗るパソコン」というジョブズの希望に沿った縦型の斬新なデザインだった。ビットアップ・ディスプレイを採用して、マウスでディスプレイ上のアイコンを操作すれば、初心者でもパソコンを手軽に扱えるようになっていた。
このグラフィカル・ユーザーズ・インターフェース(GUI)は、まもなくビル・ゲイツのマイクロソフトが開発した基本ソフト、ウィンドウズにも採用される。私たちがムックで紹介したPC-98とはパソコンの姿が大きく変わったのである。とは言いながらウィンドウズ95が発売されるのは1995年であり、アップル・コンピュータは別にして、日本のパソコンは長らくMS-DOSの時代が続いた。
GUIに関するおもしろいエピソードを紹介しておこう。
ジョブズがウインドウズ・システムについて「アイデアをマックから盗んだ」と批判したとき、ゲイツは「いや、スティーブ、そうじゃないさ。むしろ、近所にゼロックスという金持ちがいて、そこに僕がテレビを盗みに入ったら、もう君が盗んだ後だったということじゃないかな」と言ったという。
『アサヒグラフ』の項で紹介したように、パソコンはこれまでIBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受けて登場したが、その黎明期の天才がスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツだった。
IBMも1981年にパーソナル・コンピュータに参入したことはすでに述べたが、そのときジョブズは「IBM、ようこそ(Welcome IBM Seriously)」と自信満々に迎え撃ったのだった。またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。
ジョブズはアップルを巨大なものにするために、東部エスタブリッシュメント企業からペプシコーラ社長、ジョン・スカリーを「あなたは人生の残りの日々を、ただ砂糖水を売って過ごすんですか。世界を変えようというチャンスに賭ける気はないんですか」という殺し文句でCEOにスカウトするが、その後、スカリーにアップルを追われる。しばらく教育用ワークステーション、ネクスト(Next)の開発などに携わっていたが、その後、マイクロソフトからすっかり水をあけられたアップルに呼び戻される。
ジョブズがやった復帰第1弾がしゃれたパソコン、アイマックiMAcの開発であり、CEOに返り咲いて以降、小型端末のiPod 、iPad、iPhoneを次々と市場に投入、パソコンからモバイル端末(スマートフォン)へとIT社会の歯車を大きく回転させる偉業を成し遂げる(これについては後にふれる機会があるだろう)。
私はネクスト売り込みに来日した1989年7月、ジョブスに会っている。前日に幕張メッセで一大デモンストレーションを行ったときは、タキシード姿をばっちり決め、まさに達者なエンターテイナーぶりだったが、インタビューでは、ネクストの販促に関連しない質問には一切ノーコメントを通す徹底ぶりで、これに手を焼いて(?)、私は記事を断念したのを思い出す。
よく言われるようにジョブズは、自らは技術者でなかったが、技術者を動かして自分の、そして彼らの夢を実現することができた「芸術家」だった。彼はパソコンを電話機の後釜的な存在だと考え、電話機をずっと見て暮らしたらしい。そして、電話機がたいてい電話帳の上に乗せられているのに気付き、ある日、技術者を集めて、「マックは電話帳に乗る大きさでなくてはいけない」と言ったのだそうである。
1991年5月にはゲイツにも会った。ウインドウズ95に先立つMS-WINDOWS(ウインドウズ3.0)の㏚にやってきたときで、その画期的機能について丁寧に説明すると同時に、パークに関する私の不躾な質問にも、嫌な顔をせずに答えてくれた。発言、大略、こんなふうだった。
「たしかにこの件でアップルと訴訟にはなっていますが、多くの面で協力しあっています。マイクロソフトがウインドウズ・システムを発表したのは1983年で、マッキントッシュより先でした。まあ類似点についていろいろ不平があったとしても、似ているところはすべてゼロックスから来ているわけです。彼の方が先に入っていろいろ取っていったとしても、あとから入った私に不満を言うとか、占有権を主張できるわけはないだろと言ったんですね。私はジョブズとは友好的な関係を保っていて、お互いにオープンでした」。彼もまたジョブズと同じように「技術者」ではないようだが、こちらはすでに才覚あふれる青年「実業家」の風貌を築きつつあった。
・『ASAHIパソコン』の基本コンセプト―パソコン誌の3段階理論
いろんな本を読んだり、多くの人にあったりして、私は『ASAHIパソコン』の基本コンセプトを固めていった。当時、日本でもグラフィックデザインや出版分野でマッキントッシュの人気は高かったけれど、日本語化の問題もあり、趨勢はまだコマンドをキーボードから打ち込んで動かすMS-DOSの世界だった。
雑誌としての定期化をめざす過程で、私が出版局内や広告代理店、取次などの書店関係者に新雑誌の構想を説明するとき、「ネグロポンテのおしゃぶり」よろしく繰り返していたのが、「パソコン雑誌の3段階理論」なるものだった。だいたい以下のようなことである。
パソコン誌は、パソコンの社会的あり様にともなって変わる。 1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。
『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。
そして『日経パソコン』から5年後の1988年11月、『ASAHIパソコン』創刊。本誌はこれからはじまる、誰もが文房具としてパソコンを使うようになる時代の、便利でやさしい使いこなしガイドブックである。ソフトやハードのガイドはもちろん、より大きな視野から情報社会のあり方にも目配りしていきたい。これを私は、「ホビー・ユース」から「ビジネス・ユース」を経て「パーソナル・ユースへ」と呼んだ(象徴的マシンとして、私は創刊ほどなく発売されたノートパソコンを想定した)。
もっとも、ムックから雑誌への道のりは、そう平坦ではなかった。パソコンのやさしいガイド誌というのが、ニュースを売り物にする新聞社の出版物としてはなじまない、と思われがちなのも事実だった。当時、社内はニュース週刊紙『アエラ』創刊の話で持ちきりだったし、『ASAHIパソコン』の直後には総合月刊誌『月刊Asahii』も創刊されている。
「氷海を行く砕氷船の如く、悪戦苦闘の6ヶ月が過ぎたが、ともかくも動き始めた船が、果たして氷海を脱出できるのかどうか、乗り込んだ2人の船員にもまだ確たる見当がついていない」。ムック制作中にはこんな感慨も漏らしている。
『ASAHIパソコン』創刊に反対する意見、あるいは態度の中で、私が興味深いと思ったのは、次の2つである。これも今となっては懐かしい思い出で、ことさら取り上げることもないのだが、おもしろいと思うので簡単に触れておこう。
1つはこういう声だった。「矢野さんはパーソナル・ユース、パーソナル・ユースと言うけれど、いまは『日経パソコン』のようなビジネス・ユースの雑誌が主流である。パーソナル・ユースのパソコン誌に対するニーズがあるのなら、すでにどこかの社が出しているはずだ。そういう雑誌がないことが、すなわち需要のないことを証明している」。
これだと、新しい雑誌は我が社からは永久に生まれない理屈だが、それでも、こういう意見を論破することは難しい。いや至難と言っていい。結果で勝負するしかないのだが、結果を出すのをあらかじめ拒否されているようなものだからだ。
もう1つは、広告関係者が正直にもらした感慨である。「私たちはいま『週刊朝日』の広告を一生懸命にとっている。何でこの上、パソコンなどという扱ったこともない雑誌のために広告をとらなくてはならないのか。誰も、そんな雑誌なんかほしくないですよ」。
私は、「これからもずっと『週刊朝日』に頼っていけるとは思えないから、頑張ってでも新しい雑誌を作ろうとしているのだ」と反論したけれど、彼らの本音は分からないでもなかった。
新聞社内の人間を説得するためにもう一つ、私が言ったのは「社会部が作るパソコン雑誌」だった。パソコンはまだ扱うのが大変で、パソコン雑誌も専門用語が多く、素人には取っつきにくかった。技術解説ではなく、使う人を重視したパソコン雑誌をアピールしたくて、「科学部ではなく、社会部が作る雑誌」という言い方をしたのである。
とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。
ちょっと『ASAHIパソコン』創刊前後のIT事情をふりかえっておこう。
ジョージ・オーウェルの有名なディストピア小説『1984年』が書かれたのは1949年という早い時期だったし、オルダス・ハックスリイの『すばらしい新世界』はそれ以前の1932年である。コンピュータが普及するにつれて、その弊害を指摘する声も多く、有名なジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(1976)は1977年には邦訳されている。
先にもふれたように、アルビン・トフラーの『第三の波』は1980年の発売、増田米二『原典・情報社会』は1985年だが、世界に先駆けて梅棹忠夫が「情報産業論」を書いたのは1963年だった。ダニエル・ベルは1973年に『脱工業化社会の到来』を書き、来るべき「情報化社会」の出現を予言した(物の生産から情報の生産へ)。
日本社会は、私たちが『ASAHIパソコン』を創刊した1980年代に情報社会から高度情報社会へと移行しつつあったと言える。当時は情報技術がもたらすバラ色の未来が喧伝されていたから、『ASAHIパソコン』はその波にうまく乗り、高度経済成長にも助けられて、高度情報社会を促進する役割を担ったと言えるかもしれない。
ちなみに任天堂の家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売されたのは1983年である。我が家もそうだったが、子どもたちは、そして大人も、タッカタッカタッタカタッタカのロードランナーやスーパーマリオなどのゲームに興じ始めた。
◇
この記録<平成とITと私>は私の後半生を振り返りつつ、IT社会がどのように変遷して今に至ったかをできるだけ客観的に叙述したいと考えている。あえて名づければ『私家版・日本IT社会発達史―ASAHIパソコンからOnline塾DOORSまで』である。第1回で書いたように、『ASAHIパソコン』の創刊後ほどなく時代は昭和から平成に移り、平成の30年間はくしくも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、IT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。当座のタイトルを「平成とITと私」としたのもそのためである。
Zoomサロン<Online塾DOORS>を主宰している2022年の時点から見ると、当初はアメリカ西海岸の若者たちのパーソナル・コンピュータにかけた熱気に深く同感しつつ、パソコンが切り開く未来に希望を求め、それをむしろ促進したいと夢見ていたと言えるが、その後のパソコンの歴史が必ずしもその夢のようにはならず、当時は思っても見なかった便宜、そしてそれとは裏腹の深い難題を人類に与えるようになった。私がIT社会を生きるための基本素養として「サイバーリテラシー」を唱えるようになるのは2000年初頭だが、IT技術の予想を上回る発展とそれに対する私見もおいおい述べていくつもりである。
記述になるだけ客観性をもたせるため、当時の関係者の発言も記録に残っているものはそれを参照していくつもりだが、そうはいかない部分も結構あり、筆が主観に走ることもあるかもしれない。関係者の実名を記している点も含め、諸兄姉のご寛恕をお願いしたい。関係者にはすでに他界された方も多いが、特別な場合以外、その後の人生についてはふれていない。
<平成とITと私>は本サイバー燈台の<新サイバー閑話>に収容されている。他の原稿との区別がなく時系列に並んでいるので、通しで見る場合は、サイトにアクセスした後、右側にあるサイト内検索の窓に「平成とITと私」と打ち込んでいただけると、記事一覧が表示されるので、そこから好みの項をお読みください。