新サイバー閑話(61)平成とITと私⑨

私がインタビューした人びと

 創刊号から私は毎回、インタビューを続けてきた。パソコン発達に貢献した人びとの想像力と熱意あふれる話を聞いたり、パソコン使いの達人に極意を伺ったり、不自由な体でパソコンを駆使し新しい人生を切り開いた人の苦労話を聞いたり、パソコン通信を利用して二人三脚で小説を書く方法を尋ねたり、農家のパソコン利用について取材したりと、私自身がパソコンという道具について日ごろ考えていることを、その折々に来日した外国人も含めて、さまざまな分野の人に聞いたものである。有名人もいれば、無名の人もいた。

 写真を担当してくれたのは、かねてコンビの岡田明彦君である。かつて『アサヒグラフ』で全国の最先端技の現場を訪ねたように、私たちは月に2度、インタビューのために各地を回った。彼の人物の内面を映し出すようなすばらしい写真が紙面を飾ってくれた。この回に掲載した写真はすべて岡田君が当時撮影したものである。

・ニコラス・ネグロポンテが夢見た世界

 創刊号はかねて予定のニコラス・ネグロポンテ所長だったが、彼の「収縮する3つの輪」についてはすでに説明したので、ここではエピソードをいくつか紹介しておこう。

 彼はインタビュー前の講演で、こういう話をしていた。

 ウイズナー教授といっしょに、日本人実業家から箱根の別荘に招かれたとき、ウイズナー教授が、庭に飾られた彫刻を、その配置に触れながら具体的にほめたのに対し、当の実業家は「うーん」とだけ応えた。そうしたら通訳が、主人は、かくかくの点においてウイズナー氏の考えに賛成だといっております、とずいぶん長い英語に翻訳したので驚いた。コンピュータに「うーん」というと、私たちの感情をちゃんと解釈した言葉が出てくるようになることこそ、パーソナル・コンピュータの理想である、と。

  インタビューしたとき、彼はその話に触れて「通訳は主人のことがよく分かっていたので、発言の裏にある意味を汲み取って、具体的に相手に伝えた。パソコンはまだ月から突然やってきたみたいなもので、人間とは共通体験をほとんど持っていませんが、将来は、人間にとって親密な存在となり、通訳が会話の欠けていた部分を補ったように、あなたがコンピュータに『うーん』というと、そこに含まれた感情までも解釈して、相手に伝えてくれるようになるんですよ」と語った。

 私がテクノストレスなどの問題を持ち出して、コンピュータ社会の弊害に水を向けると、彼は「コンピュータが導入されると、人間が神経質になり、ストレスが増えるという考えも間違っています。現実はその反対で、コンピュータを使うことで生活を便利なものにし、そのおかげで、自分や家族のために使う時間を増やすことができるということなのです」と、いかにもコンピュータ伝道師らしい答えだった。

 彼は当時から、まだ重くはあったが、携帯パソコンを持ち歩いていた。コンピュータへの情熱がひと一倍強いからだろう、その将来にはきわめて楽観的だが、彼もまた明快なビジョンによって、メディアラボを引っ張り、パーソナル・コンピュータ発達史に大きな足跡を残した人である。雑誌『Wired(ワイアード)』創刊にも深く関わり、そこでコラムを書き続けている。

 ネグロポンテさんは、建築科の学生だったころ、よりよい設計のために建築家を助けるマシンがほしいと考え、アーキテクチャーマシン・グループを設立している。25歳でMIT教授に就任、メディアラボ所長になったのが32歳の時である。端正な顔立ち、スマートな物腰、やわらかな語り口、「先端的なコンピュータの仕事をしている科学者・学者というより、洗練され、成功したインターナショナル・エグゼクティブのよう」と言われていた。新分野に果敢に取り組む若い人たちの才能を見つけ出し、引き上げていく新人発掘の名手でもあった。

 後に『DOORS』時代、私はメディアラボ准教授である石井裕さんから、その具体例を聞いた。石井さんはNTTヒューマンインターフェース研究所でグループウエアを研究し、コンピュータとビデオと通信技術を利用した画期的な仮想共同作業システム「チームワークステーション」開発などで高い評価を受けていた。メディアラボに招かれる経緯はこうだった。

 94年に、それまで一面識もなかったアラン・ケイから電子メールで、コラボレーション(共同作業)をテーマにしたアトランタ会議への参加要請を受ける。会議にはネグロポンテ所長も来ていて、会議後、いきなり「メディアラボに来ないか」との誘いを受けた。アラン・ケイは口説き文句として、「メディアラボは、技術やシステムではなく、あなたのエステティックス(美学)を求めている」と言ったという。「日本では技術や開発だけが科学者の研究対象だとみなされて、コンセプトや美学・哲学の研究はあまり認められなかった。それをアラン・ケイが初めて評価してくれてたいへん感動した」。彼はこの申し出を受け翌95年、MITで面接試験代わりの講演をし、10月から准教授に就任した。

 MITは石井さんが発表する論文などを通して、その才能に目をつけ、デモをする機会を与え、合格となると、その場で彼を招聘してしまったのである。経歴重視や根回し本位の人事では、こういう芸当はできない。MITに多くの才能が集まる秘密の一端がそこにあるだろう。後にやはりネグロポンテさんの強い推挽でメディアラボ所長となった伊藤穣一君の場合は、本人から事情を聞く機会がなかったが、よく似た経緯だったのではないだろうか。

・梅棹忠夫「情報理論」の世界的先駆性

 創刊1周年を記念して満を持してインタビューしたのが、国立民族学博物館長だった梅棹忠夫さんである。専門の文化人類学はともかく、情報に関する分野で言えば、1969年に書いた『知的生産の技術』(岩波新書)が有名だが、それより前の1963年に発表した「情報産業論」は、短い論文ながら、世界に先駆けて情報社会の到来を予言した画期的なものである。

 そこにはこう書かれている。

 「情報産業は工業の発達を前提としてうまれてきた。印刷術、電波技術の発展なしでは、それは、原始的情報売買業以上には出なかったはずである。しかし、その起源については工業におうところがおおきいとしても、情報産業は工業ではない。それは、工業の時代につづく、なんらかのあたらしい時代を象徴するものなのである。その時代を、わたしたちは、そのまま情報産業の時代とよんでおこう。あるいは、工業の時代が物質およびエネルギーの産業化が進んだ時代であるのに対して、情報産業の時代には、情報の産業化が進行するであろうという予感のもとに、これを精神産業の時代とよぶことにしてもいい」

 梅棹さんは、農業の時代、工業の時代、情報産業の時代という「産業史の3段階」を、有機体としての人間の機能の段階的な発展と関連づけ、それぞれ内胚葉産業の時代、中胚葉産業の時代、外胚葉産業の時代とも呼んでいる。「農業の時代は、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官の機能充足の時代であり、その意味で、これを内胚葉産業の時代とよんでもよい」「工業の時代を特徴づけるものは、各種の生活物質とエネルギーの生産である。それは、いわば人間の手足の労働の代行であり、より一般的にいえば、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の拡充である。その意味で、この時代を中胚葉産業の時代とよぶことができる」「(最後は)外胚葉産業の時代であり、脳あるいは感覚器官の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける中心的課題である」。そして、コンピュータは「外胚葉産業時代における脳あるいは感覚器官の機能の充足手段」として位置づけられ、その役割が期待されていた。

 発表当時、大いに話題になったはずだが、トフラーの『第三の波』から遡ること20年というのはすごい。これらの論考を集めた『情報の文明学』『情報論ノート』(いずれも中央公論社)が1980年代末に出版されているが、いま読み返してみても、新鮮な驚きに打たれる(「情報産業論」の先駆性については、本サイバー燈台所収の小林龍生「『情報産業論』1963/2017」』の一読をお薦めしたい)。

 『知的生産の技術』は、発売当時ベストセラーになったから、多くの説明はいらないと思うが、今の若い人で知っている人は少ないかもしれない。知的生産とは「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報―を、ひとにわかるかたちで提出すること」と定義されている。これからは「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになる」との認識のもとに、その具体的技術を紹介したものだ。「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである」とも書いている。

 『ASAHIパソコン』創刊号の特集は「めいっぱいパソコン情報整理術」だった。あのころに私たちが見た夢は、いまはスマートフォンではすでに当たり前になっている。情報を扱う技術の発達には、まことに時代の進化を痛感させられる。

 梅棹さんは、1986年3月に突然視力を失うという不幸に見舞われ、不自由な生活を強いられていたが、杖をつきながら民族学博物館を案内してくださった。そこで「知的生産の巨大技術の開発と実行」でもあった民族学博物館づくりの苦労話を聞いたのだが、巨大コンピュータ・システムに支えられた博物館を作る際、「『文科系の研究所になぜコンピュータがいるんだ』とよく言われました。それに対して私は『考え方が反対で、需要に応じて機械を入れるのでなく、まず機械を入れれば、需要が出てくる』といったんです。博物館自体がそうで、世論調査をいくらやっても、博物館を作れというニーズなんか出てきません。だけど作れば、喜んで利用する。需要が供給を呼ぶのではなく、供給が需要を呼び起こす。新しいものはすべてそうです」と話してくれたのが、とくに印象的だった。

・木村泉・森毅・佐伯眸

 創刊前の1988年3月、木村泉『ワープロ徹底入門』(岩波新書)が出版され、たちまちベストセラーになったことが私に大きな自信を与えてくれたのだった。そのころすでに十数万部が売れていた。コンピュータという専門領域の話をやさしく語った文章、「とことん派」を自称する著者の徹底した実証精神が、多くの人に、この本を手にとらせたのである。

 冒頭で、木村さんは「ワープロは洗濯機や電子レンジと同じようなものでね。ま、食わずぎらいしないでつきあってやって下さいよ」と読者に呼びかけ、その気のある人には「若いもんにばかにされないように、ワープロとの具体的なつき合い方を伝授する」と約束していた。さらに著者としてやりたいこととして、「ワープロがわれわれの生活にさいわいをもたらし、災いをもたらさぬようにするための手だてをさぐりたい」と、社会的影響にも言及していた。「ワープロ」を「パソコン」に置き換えれば、私が『ASAHIパソコン』でやりたいと思っていることではないか。

  先輩に会いに行くようなワクワクした気分で東京工業大学に木村教授を訪ねた日が、つい最近のように思い出される。「パソコン徹底入門」のさわりを聞きに行ったのである。

 「パソコンはワープロと比べて、まだ前もって説明しなければならないお流儀が、傷口として残っています。いろんなことができるんだが、それをなめらかに行うための工夫がない」「エムエスドスは傷口だらけとも言えます」という木村さんに「現段階ではパソコンよりもワープロの方が便利ですか」と恐る恐るたずねると、「これは、何をおっしゃるウサギさんでありまして、実はパソコン入門の本を書きたい」との答えで、私は大いに意を強くした。

 いろんなキーボードの話、文章を書く道具としてのワープロの利点などを聞いたが、「ソフトの違法コピーはどうしたらなくせるか」という私の質問に対して、木村さんは「よくわからないんだけれど、いままでの日本の国民性の中ではあり得るように思います。宮沢賢治の『オッペルと象』の象ではないけれど、世間さまに対して、ひとつ生きてる間は耕してがんばろうと、安楽とはいわないまでもそこそこ食えて、働いて、『ああつかれたな、うれしいな、サンタマリア』とオッペルの像が言うわけでしょう。あんな感じの雰囲気が常識になればいいと思いますね」と答えた。ソフトウエアを作る人は楽しみながらも一生懸命働く、それにユーザーがきちんと応えるような社会を期待しての発言だったのだが、さて、日本の現状はどうだろうか。

 数学の森毅・京大教授には、1990年初頭に会っている。専門の数学を離れて、文学、評論の分野でも活躍、その飄々として、しかも歯に衣着せぬ発言で「森一刀斎」とも称されていた森さんに、パソコンよもやま話、情報社会とのつきあい方を聞いた。話は多岐にわたり、いずれもおもしろかったが、プライバシー問題にからんでの「情報社会とバグ」の発言を紹介しておく。まことに含蓄深いというべきだろう。

 「バグなしの情報というのは無理なんでね。こっちもバグがあると思いながら付き合うよりしょうがないんじゃないかな。コンピュータ科学者たちと話していて感心したことがあるんです。プログラムにはバグは、虫はいるんやと。虫はおってもええけれども、あまり暴れたら困るんで、なるべく小さな所に関門があって、遠くまで影響を及ぼさないようにしておく。虫が異常発生して変なことが起こると、遠くからでも分かるようになってるのがいいプログラムやというんですね。コンピュータの虫のエコロジーです。われわれだって、適当に虫を飼いながら健康に生きとるわけで、うっかり抗生物質を使いすぎて虫がいなくなると、逆に変なことが起こったりします。今の比喩で言うと、健康であるよりしょうがないんですね」
 「虫がいる方がたぶん自然なんでしょうね。情報の世界を変な清潔幻想と同じ感じでとらえるのは無理じゃないかな。いま、教科書が非常につまらないのは、虫がいたらいけないことになってるからでね。それで、しょうもないところにうるさいんですよ。だけど、間違いを見つけた方にしてみれば、楽しいですからね。間違いぐらいあったっていいと思うんですよ。大学の教科書ぐらいになると、図々しいのがたまにあって、この本にあるミスプリを発見するのは諸君の勉学になるだろう、なんて書いてあります。情報とのつきあい方というのは、本来はそういうものだと思うんです。相手の権威を信用してはいけない。自分で判断せんといかんわけですね。短期的には、いろいろ規制せざるをえないかも分からないけれど、規制することがいいことだということになったら、これはもう情報自身と矛盾しますね」

 『教育とコンピュータ』(岩波新書)の佐伯眸・東大教育学部教授には、コンピュータのシミュレーション機能を中心に話を聞いた。佐伯さんは、コンピュータが経験代行的なシミュレーションに使われていることに疑問を呈し、「シミュレーションといわれているものの何がおかしいかというと、シミュレーションを作ったプログラマーのコンセプト、目的意識、メタ理論などを隠すところです。舞台の前面だけを見せて、すべてを描き出しているがごとく見せて、われわれを受け身の観客にしてしまう。代行させようとしている人の意図が浅い場合、一見うまくいっているように見えても深まりがないし、またほんものそっくりになってしまったら、現実を力学の対象としてみるのか、美術の対象としてみるのか、それらが全部はいってしまい、ということは、結局、何にも見えなくなってしまう」と言った。

 「ある分子構造だとか流体力学だとか、実際に手で触れるような経験ができないものをシミュレーションしていくのは分かるけれど、そうだとすれば、ある構造をどう探索しようとしているのか、どういう方向で意味を抽出しようとしているのか、いつもユーザーとインタラクションできるような構えがなくてはいけない。そのとき重要なのが『略図性』という概念です。略図では、裏にある意図、目的、方向づけなどがはっきり見えるからこそ、ユーザーとのインタラクションできるのです」

 佐伯さんは、「コンピュータを経験代行的に使うのではなく、さまざまな活動を触発するために使うことが大切」といい、教育現場で実際に行なわれている例をいくつかあげてくれた。また、コンピュータをグループ・インタラクションの媒体として利用するグループウエアが、これから教育現場でコンピュータを活用するための一つの方法だと話してくれた。

・ハイパーテキストとネルソン、そしてアトキンソン

 テッド・ネルソンはパーソナル・コンピュータ黎明期に『コンピュータ・リブ』と『ホームコンピュータ革命』を出版し、いち早くその知的ツールとしての可能性を予言、多くの人々に強力な影響を与えた。1989年9月、国際シンポジウムに出席するために来日した「伝説の人」に会った。

 ジャケットにジーパンというラフな姿。しかし、ネクタイを締めていた。髪はふさふさと、足は長く、軽快そうな靴をはいて、とても50歳過ぎには見えなかった。目はやさしく、いたずらっぽく、笑っていた。ハワード・ラインゴールドは『思考のための道具』でネルソンについて「社会的おちこぼれで、うるさ型の自称天才である。……。野性的で活気があり、想像力が豊かで、神経過敏であるためか職につくのに問題を起こしがちで、同僚とトラブルが多い。彼こそ、数年前は10代前半で自作のコンピュータやプログラムに夢中で、現在はパーソナル・コンピュータ産業での立て役者である世代の隠れた扇動者である」と書いている。インタビューした感想で言えば、才気にあふれ、上品なユーモアセンスを身につけた、実に魅力的な人だった。父親は『ソルジャー・ブルー』などで有名な映画監督、ラルフ・ネルソンで、母親も女優だった。

  ハイパーテキストについて、ネルソンさん本人はこんなふうに語った。

 「ハイパーテキストの考え方は、さまざまな文書をいかにして相互に関係づけるかということです。あるテキストに出てくる言葉を知りたければ、すぐそちらに飛び、そこで出てくる動物を知りたいと思えば、またその絵が出てくるテキストに飛ぶ、といったふうに、一瞬にして相互に関連付けられるテキストです。ハイパーテキストは文章、映像、グラフィックスなど、どんな形式の情報でも取り込むことができるし、その情報を相互に関連付けることもできます」

 学生時代につけていた厖大なメモの山を前に、押しつぶされそうな気分になり、どうしたらそれらメモ同士を関連づけられるかを考える中で育まれたアイデアらしいが、「紙のメディアは文章を秩序だって整理するにはいいけれども、直線的で、硬直的である。もっと自由な発想、ひらめきがほしい」ということでもあった。

 ハイパーテキストという考えをはじめて提示した『コンピュータ・リブ』は、のちにアップデート版が市販され、私もそれを入手したが、その実験的試みとしてだろう、表紙が前と後の二つあり、どちらからでも読める、いや、本全体のどこからでも読めるという新しいテキスト形式の実験にもなっている。

 このハイパーテキストの考えを具体化するためのプロジェクトが「ザナドゥー(Xanadu)」である。人びとのさまざまな見方、考え方を一堂に集めた共通の場をつくるのがねらいで、「ザナドゥーでは、全世界の著作物をオンラインで結び、すべての人がそのシステムを利用して情報交換する」ことをめざした。ザナドゥーは、オーソン・ウエルズの映画『市民ケーン』に出てくる新聞王の大邸宅の名でもあるが、ネルソン氏によれば、「原典は、英国の詩人コールリッジの『クブラカーン』で歌われている桃源郷」なのだという。彼は「この詩はアメリカやイギリスではよく知られていて、表現が非常に美しいので、ザナドゥーという言葉を聞くと、みなが文学的響きを感じます」といって、その詩の一節を朗々と暗唱してくれた。

 ザナドゥーでは、著作権を保護するための仕組みも考えられ、全世界を情報ネットワークで覆おうという壮大なものだが、「世界で最も長いプロジェクト」とも呼ばれ、構想から4半世紀たった当時、なお実現のメドはたっていなかった。ネルソンさん自身、「このプロジェクトは、蒸気のような、上にのぼっていくけれど、どこに行くのかわからないベイパーウエア(Vaporware)です」と笑い、「アラン・ケイの『ダイナブック』、ニコラス・ネグロポンテの『アーキテクチャー・マシン』、私の『ザナドゥー』、この3つがベイパーウエアと呼ばれている」とつけ加えた。

 ハイパーテキストは、いくつかの枝分かれ構造と対話型の応答を基本にしているが、そういった考えを最初に商品化したソフトが、マッキントッシュ用の「ハイパーカード」だった。ハイパーカードの開発者、ビル・アトキンソンさんは、絵を描くソフト「マックペイント」の開発者でもある。

 私は、インタビューの前文で「ハイパーカードは、文書やグラフィックスばかりでなく、ビデオ、音声、アニメなどあらゆる情報を自由にコントロールできる新しい情報ツール・キットである。初心者が使いやすいように、さまざまな工夫もしている」と紹介している。ハイパーカードは、最初からマッキントッシュに標準装備(バンドリング)されており、すでにハイパーカードを使った「マルチメディアの新しい本」も発売されていた。

 アトキンソンさんは、「自転車のような道具が人間の肉体的な力を増大させたように、パーソナル・コンピュータは、創造力とか学習、記憶などの精神的な力を増大させてくれる。1984年に世に送り出したマッキントッシュのデザインの基本は、この『精神のための車(Wheels for the mind)』であり、わたしたちの夢の第2弾が、1987年に完成したハイパーカードだ」と語った。

 ハイパーカードを起動すると、ホームカードという最初のページが現れ、そこにカレンダー、予定表、住所録、電話帳といったアイコンが並んでいる。それぞれの項目に入力したデータは、「ボタン」によって相互に関連付けられるのが「ハイパーテキスト」的だったのである。

 私は「こういったシンプルで美しいプログラムは、どのようにして作られるのか」を聞いてみた。アトキンソンさんの答えは、なかなか感動的だった。

 「最初の一年間はたった1人の人間、すなわち、わたしが手がけました。アイデアを錬っていたんですね。その後で人びとが入ってきて約40人のチームになりましたが、プログラマーは5人程度です。あまり多くの人が1つのプログラムにかかわるとかえってだめになってしまいます。ビジョンを打ち立てるメインデザイナーは1人で、何人かのアシスタント・プログラマーと密接な関係をもって動くのが基本です」「ソフトウエアの開発は、自分のほしいもののおぼろげなアイデア、大きな霧のようなものからスタートします。それをしだいに雲のように輪郭を明らかにしていく。一歩下がって眺めているうちに、自分はこういうものを作っていたんだということを『発見』するのです。なるほどこれはあれだったのか、あれじゃだめだと、それを捨て去って、また最初から始めます。それを何度も繰り返す。作り上げたものを捨て去り、作りなおす過程で、作ろうとしているものがより明確に見えてくる。目指すものができあがると、テストしてもらう。予想通り動くかどうか調べてもらって、そこにいろんなものをつけ加えていく。それで形がデコボコになると、もっとシンプルなものに整えなおす。そうして、しだいによりシンプルになり、いよいよ本質に近づいていく。だからソフト開発はずいぶん時間がかかるし、試行錯誤が何度も繰り返されるのです」。

・知的生産の技術としてのパソコン―紀田順一郎・石綿敏男

 梅棹さんのところでふれたけれど、私の興味は知的生産の技術としてのパソコンだったから、文芸評論家ですでに『ワープロ考現学』、『パソコン宇宙の博物誌』などの著書もあった紀田順一郎さん、『電子時代の整理学』の著者で放送教育開発センター所長だった加藤秀俊さん、推理小説作家でパソコン通信をフル活用して作品を書き上げていた2人合作のペンネーム、岡嶋二人さん、能の権威ながら電子小道具の達人で『システム文具術』の著書もあった武蔵野女子大学教授、増田正造さん、『ウィザードリィ日記』、『怒りのパソコン日記』などで知られた翻訳家、作家の矢野徹さんなどにもインタビューしている。

 そのうち紀田順一郎さんと、横書きのカタカナ表記の基準を聞いた言語学者の石綿敏男茨城大学教授のさわりの部分だけ紹介しておこう。

 紀田順一郎さんは仕事に趣味にパソコンをフル活用し、「パソコンが文字通りパーソナルな道具になれば、個人の知的生活はより豊かになるだろう」と考え、実践もしていた「パソコンの達人」で、話を聞いて楽しく、また同感することも多かった。当時紀田さんが使っていたソフトは、ワープロが一太郎、データベースがdBASEⅢ、表計算がエクセル(マックⅡで使用)。ワープロ辞書についてとくに話がはずんだ。

 当時、ワープロの辞書については2つの考えがあった。1つは梅棹忠夫さんに代表される「ワープロは何でもかんでも漢字に変換してしまうから、文章に漢字が増えた。すぐに漢字に変換しないソフトを作れ」という意見。もう1つは紀田さんのように「推挽、杜撰、憂鬱、冤罪、隔靴掻痒、一瀉千里など、ちょっと特殊な文字になると辞書に入っていないことが多い。もっと辞書を充実すべきだ」という意見。

 紀田さんは「日本文化のためには旧仮名遣いで変換する辞書を作れば、研究者や図書館員が助かるから、モード切替でやれるようにしてほしい」と述べ、私も「紀田順一郎の辞書」とか「大阪弁の辞書」があっていいなどと述べているが、この辺もまた時代の進歩はすさまじく、コンピュータ能力と記憶容量の飛躍的増加で、いまではほとんど解決されている。たとえばWordで自前の辞書を作るのは当たり前になっている。

 もっともこれは辞書作りや文字コードづくりに懸命に取り組んだ文科系、技術系の先達が取り組んだ苦闘の歴史を背景としている。文字コードの世界標準、ユニコード策定に貢献した小林龍生さんとは後に知り合い、別の機会にインタビューしているが、それは後述したい。小林さんは一時、一太郎で有名なジャストシステムに在籍し、そこで紀田さんたちと辞書作りに取り組んだ人でもある。

 石綿さんは、『ASAHIパソコン』の表記基準策定にあたってのお知恵拝借インタビューだった。たとえば、『アサヒグラフ』では、朝日新聞でふつう使われているように、コンピューターと音引きを入れていたが、『ASAHIパソコン』では、専門誌の立場から、コンピュータ業界でふつうに使われるコンピュータと音引きなしに統一し、そのように表記していた。

 専門用語の扱い、とくに外国語のカタカナ表記は、常に頭の痛い問題で、エレベーターは音引きがあるのに、コンピュータがないのはどうしてか。メモリー、メーカー、メンバーはどうするか、スキャナ、ドライバは、となるとこれまた微妙で、5音以上は音引きなし、3音以下は音引きを入れる、4音は慣用による、などと校閲担当の大塚信廣さんと相談しながら「本誌のルール」を作ったりしたが、慣用の基準が時期がたつと変わったりで、なかなか始末が悪く、「最終的には編集長の気持ち次第」となったりもした。

 そこでコンピュータを使った自動翻訳のための自然言語辞書作りに取り組んでおられた石綿さんに、パソコン、ワープロなどの和製英語、フロッピーディスクドライブ、パブリックドメインソフトなどと3つの単語をつなげるときの・の入れ方、外来語と言語の意味のズレなどについて話を聞いたのである。

 結果は「基準を2つに分けた方がいいかもしれませんね。エスカレーターとかエレベーターとかいう、ふつうの言葉はふつうの表記法を尊重する。コンピュータ、ディレクトリなどは、専門知識を一般の人に伝える専門誌の立場として、専門用語、その述語の表記法を尊重する」という常識的な線におちついた。しかし、言葉は生き物である。コンピュータやインターネットの普及で、この種の専門用語もいつのまにか普通用語になっているし、言葉の基準作りはなかなか難しい。マイクロソフトのブラウザーは当初、エキスプローラと表記されていたが、後にエキスプローラーと変わったという具合である(もっともエキスプローラーは今ではエッジに変わっている)。

 インタビューしたのは総勢44人で、ほかにもこんな方々がいた。事故で手足の自由を失いながら持ち前のがんばり精神でパソコンに挑戦、CG(コンピュータ・グラフィックス)で作品を発表したり、パソコン通信で同じような仲間に夢を与えたりしていた上村数洋さん。金春流家伝の太鼓の手付きをワープロで表記していた金春惣右衛門さん。パソコン通信、琵琶COM.NETで活躍していた陶工の神崎紫峰さん、神崎さんは古信楽焼を再興した人で、私は その苦労話に大いに感激、誌面もそちらの話が多くなった。秋葉原電気街の知る人ぞ知る「本多通商」の本多弘男さん。「マイコン乙女」にして「UNIX解説者」の白田由香利さん。

 日本の電卓メーカーから米インテル社に派遣され、世界初のマイクロプロセッサ開発に大きな役割を果たした嶋正利さん。『思考のための道具』の著者で、その後もたびたび来日していたハワード・ラインゴールドさん。NECでパソコン事業部立ち上げに貢献した渡辺和也さん、彼は「物事を始めるベストタイミングは80%の人が反対している時だといいますよね」と思わず膝を叩きたくなるようなことを言った。当時放送教育研究センター助教授で、後に東京大学大学院教授となった浜野保樹さん、『ハイパーメディア・ギャラクシー』や『同Ⅱコンピュータの終焉』などの意欲作で、コンピュータが中心となって推し進める将来像を洞察しようとしていた。情報法の権威で、高度情報社会のプライバシー問題に取り組んでいた一橋大学教授の堀部政男さん、など。

 このインタビューをふりかえって思うことは、1つには『ASAHIパソコン』の仕事が、私にとって常に新しいことへの挑戦だったことである。もう1つはこの35年におけるコンピュータ、およびインターネットの発達のすさまじさである。かなりの人が話してくれた将来の夢は現在ではほとんどかなえられている。テッド・ネルソンさんが言っていたベイパーウエアがいつの間にかインターネットの現実になっているのである。一方で、当時は想像もしていなかった新しい事態がいま人類全体を深く覆っている。私は2000年ごろからIT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱するようになった。

 このインタビューは、のちに『パソコンと私』(福武書店、1991)として出版された。装丁は熊沢さんで、美しくかつ重厚な本に仕立ててくれた。私の本格的著作の第1号でもある。1991年8月2日、仲間が『パソコンと私』出版と『月刊Asahi』異動をかねたパーティを開催してくれ、インタビューした人びとも含め多くの知人、友人から祝福を受けた。