新サイバー閑話(81)<折々メール閑話>㉚

選挙が機能していない政治と新しい息吹

B 4月に行なわれた統一地方選をふりかえるとき、最初に襲われるのは、結局、何も変わらなかった、というどうにもやるせない徒労感、倦怠感ですね。この国の政治において選挙というものがほとんど機能していない。
 投票率は41道府県議選の平均投票率41.85%、過去最低だった前回の44.02%からずいぶん下がりました。後半の市町村議員と町村長選でも過去最低、市長選と東京区長選、区議会議員選挙では前回を上回ったけれど、これも50%以下です。都道府県知事選の投票率は平均46.8%、やはり50%以下で前回を下回っています。町村議選では約3割が無投票当選だったとも言います。
 半数以上、場合によっては6割近い人びとが実質的に選挙に参加していないし、しかもその割合が多くのケースで前回より増えています。選挙前には統一教会がらみで自民党議員の票がぐっと減るだろうと予想されていましたが、そういうふうにも民意は動かなかった。

A 脱力感ですね。

B 社会思想家の内田樹氏が東京新聞のコラム「時代を読む」(2023.4.23付)で、<統一教会のことも、防衛費増強のことも、増税のことも、インボイス制度のことも‣‣‣みんな『政府が好きにしていいよ。オレは興味ないから』という有権者が60%近くを占めているのである。これはかなり深刻な病態と言ってよいと思う>と述べたうえで、これを「パワークラシー(powercracy)」が日本に定着した兆候だと見立てています。「パワークラシー」は貴族政治(aristocracy)、民主政治(democracy)などの類推による内田氏の造語で、これは<「権力支配」という意味である。ふつうは王政であれ、貴族政であれ、民主政であれ、主権者はおのれの地位を正当化する何らかの理由づけをする。「神から授権された」とか「民意を負託された」とか、あるいは端的に「賢明だから」とか。パヮークラシーは違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っていること」だからである。‣‣‣。「権力者は正しい政策を掲げたのでその座を得たのであり、その座にある限り何をやってもその政策は正しい」という循環構造がその特徴である。‣‣‣。パワークラシーには「出口」がない。私たちはそんな社会にしだいに慣れ始めている>と言うのだが、心情としてはよくわかりますね。
 徒労感の要因はもう1つあります。同時に行われた国政選挙、千葉5区、和歌山1区、山口2区と4区の各衆院補選と大分の参院補選で、自民が4勝、和歌山は維新が獲得しました。大分では立憲民主党が擁立し、共産、社民が推薦した元社民党首が自民党の新人、「銀座のママ」に敗れました。

・立憲民主党の背信とれいわ新選組の躍進

A 自民が圧勝したわけではなく、むしろ辛勝、立憲民主党のふがいなさだけが目立ちました。山口2区は立民が平岡秀夫を公認しなかったわけですね。一説によれば無所属で出ることで共産党の票を獲得出来ると読んでいたそうですが、また一説では原発反対派の平岡を公認すると連合のご機嫌を損ねるからだとも。立民のだらしなさ、無責任さのおかげで〝家系図候補〟で何の実績もない岸信千代が勝った。
 日本維新の会は関西を中心に大躍進ですね。大阪知事、大阪市長選で圧勝したばかりか、奈良県知事選でも自民候補を破っています。

B 維新の本質は自民党とあまり変わらないわけで、やはり特筆すべきは立憲民主党の惨敗です。そもそも候補擁立の段階からほとんど野党共闘が成立せず、勝たねばならない選挙区でも苦杯を喫しました。泉健太執行部の責任であることは明らかです。野党として闘う姿勢を喪失したことで多くの人の失望を買い、投票に行く意欲までも失わせたと言えるでしょう。この「背任」に対する総括をしない以上、立憲民主党の将来はないし、日本の政治の前途はいよいよ暗い。ユーチューブの動画「一月万冊」で佐藤章が立民は辻元清美を党首に立て、しっかりした野党として出直し、そのうえで共産党、社会民主党、れいわ新選組などとの共闘を考えるしかないと言っていたけれど、まったくそうだと思いますね。
 これも東京新聞の「本音のコラム」(4.27付)で青学大名誉教授、三木義一氏が投票率に関して、洒脱な問答を載せています。

「低投票率の原因は?」
「わしが思うに、政党が日本丸の航路を照らす灯標の役割を失ってきたのだ。特に左側の灯標の多くが壊れかけておる」
「なるほど。それで、右にしか進めなくなっているんだ!」

A れいわの山本太郎代表も本気で立民を乗っ取る行動に出てほしいです。

B 60%の有権者を枠外において行われている選挙は、いよいよ自民党や日本維新の会の思うがままです。この40%だけの政治が実際に世の中を動かしていることは指摘しておかないとね。

A つい最近の国会を見ても、27日の衆院本会議で60年超運転を可能にする「GX脱炭素電源法案」が自民、公明、日本維新の会、国民民主党などの賛成で可決、健康保険証を廃止してマイナンバーカードに一本化するマイナンバー法も同日、衆院を通過しました。また自民、公明、日本維新の会、国民民主党は入国難民法改正案の修正で合意しています。立憲民主党は法案に反対したりはしているようだけれど、形だけ反対しているにすぎず、何の迫力もありません。

B 選挙制度は落ちるところまで落ち、その中で政治は与党の思うがままに行われている、とまあ言えなくはないのだけれど、細かく見ていくと、新しい動きがないわけでもないですね。
 まず東京区長選や地方の議員選では女性の進出が目立った(女性の比率は14.0%、これでも1割台です)。自民党、公明党などは区議会議員選挙では票を減らしています。維新はここでも票を伸ばしましたが、れいわは区議選14、全国市議選25の公認候補を当選させました。

A 地方に40の拠点を得たことは、今後のれいわにとって大きいのではないですか。れいわは擁立した候補の半数以上が当選したようで、結党4年目でここまで進出できたことを良しとすべきだと思いますね。

・選挙に無関心の6割の内訳と新しい息吹

B 以下では、投票しなかった60%のことを少し考えてみたいと思います。なぜ投票しないか、それは選挙にも政治にもまったく無関心だというのが一つのグループです。日々の生活に追われて政治のことを考える余裕がないとか、「竹林の七賢」のように韜晦を決め込み、独自の世界を生きている人びと、それと、これがいちばん多いと思うけれど、内田樹氏の「パワークラシーにゆらぐ葦」とでもいう、なんとなく日々の生活を生きている人びとです。しかし政治はいやおうなくそれらの人をも巻き込んでしまう。山に籠っても、衛星やドローン、あるいは最新兵器で補足されてしまうわけだし、為政者にとっては、むしろありがたい人びとです。
 もう1つは政治そのものには関心も持ち、自らの人生のこともよく考えているが、現代政治そのものには絶望して参加意欲を失い、NPO法人とかボランティア活動、あるいは自分の身の回りで理想の社会を実現しようとしているグループです。むしろまっとうな人びとで、しかも、けっこうな人数がいるように思われます。とくに若者の中に。これらの人びとと政治をつなぐチャンネルになれるのは、立憲民主党ではなく、れいわ新選組だと我々は思い、また期待もしているわけですが、いまはまだ必ずしもリンクできていないですね。
 たとえば最近、友人に勧められて孫泰造『冒険の書  AI時代のアンラーニング』(日経BP、2023)を読みました。孫泰造氏はいろんなITベンチャー企業に投資してきた企業家で、ソフトバンク創業者、孫正義氏の弟です。本書は、思索としての冒険の書であると同時にAI時代の生き方指南書でもあります。
 AI時代にはこれまでの教育で培ってきた実務知識はコンピュータによって代替されるようになる。そこで生き抜くためには、もっと根源的な学びの哲学が必要になってきます。AIに脅かされている時代が、教育本来の意味を浮かび上がらせてくれるという逆説がここにあります。
 著者が古今東西の教育者、思想家を通して学んだことは、結局、「教育は本来の意図とは別に、まったき人間を育てることよりも産業社会、資本主義に都合のいい人材を育てるものになってしまった」、「子どもを保護しなくてはいけないという善意の考えが子どもを型にあてはめ、かえって子ども本来の可能性をそぎ落としてきた。学校教育そのものがいびつなものになり、だからいじめや不登校といった適応障害も起こっている」ということです。
 彼は「自ら『優秀な機械』になろうとする人間は、遅かれ早かれ『メリトクラシーの最終兵器』である人工知能にとってかわられる」とも書いています。メリトクラシー(meritocracy)は実力主義、能力主義といった意味です。アンラーニングとは、「自分が身につけてきた価値観や常識などをいったん捨て去り、あらためて根本から問い直し、そのうえで新たな学びに取り組み、すべてを組み替えるという『学びほぐし』の態度」であり、「『社会が自分を変えるための場』であった学校を『自分が社会を変えるための場』へと意味を逆転させるイノベーション」です。
 本の注目度から推測して、このラディカルな考え方を支持する若者がけっこういるのだと思います。この本で驚くのは、アニメの1シーンを思い出させるようなイラストの中に、タイトルが小さく配されている本の斬新なデザインでもあります。あとがきに多くの協力者の名前があがっていますが、この本を読みながら、ここに結集している若々しいエネルギーと現代日本の政治的停滞はどう関連するのだろうか、ということを考えたわけです。老人の余計なおせっかいと思われるのを覚悟して言えば、なぜれいわ新選組および山本太郎への支持へとつながらないのか、と。

A  僕も最近、上間陽子『海をあげる』(筑摩書房、2020)という本を読んで感激しました。著者は沖縄在住の琉球大学教育学研究科教授で、この本は2021年の「本屋大賞ノンフィクション本大賞」と第14回「(池田晶子)わたくし、つまりNobody賞」を受賞しています。池田晶子ファンとしてこの本に出合いました。「ここは海だ。青い海だ。珊瑚礁のなかで、色とりどりの魚やカメが行き交う交差点、ひょっとしたらまだどこかに人魚も潜んでいる」。いまその沖縄の海(辺野古)が米軍基地建設のために赤い土で埋められている。「この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる」。
 沖縄の人たちが、何度やめてと頼んでも、海に今日も土砂が入れられる。これが差別でなくてなんだろう。見たくないものを沖縄に押しつけて知らん顔。現在、上間さんは琉球大学で教えるかたわら、若年出産女性を調査、支援する活動を続けています。エッセイの中にも10代で母になった女性が登場しますが、問題の背後にあるのも本土との経済格差だと思います。いまの政治家は沖縄に誠実に向き合っているとも思えない。
 先の大戦で沖縄の人たちに大きな借りがある、申し訳ないという気持ちを強く持っていましたが、現状はそんな生易しいものではない。国が沖縄の地を、人たちをまた蹂躙している。

B ここには生活に打ちひしがれて政治に無縁な人びともいるし、辺野古の埋め立てに抗議してハンガーストライキをしている先鋭な人びともいます。前者は選挙には行かないだろうし、後者の人はもちろん行っているでしょうね。そういう人間模様を包み込みながら、全体では半分以上の人が選挙には行かない。
 以前にもインドの哲人、ガンジーの言葉を引用したことがあるけれど、『冒険の書』を読みながら、彼の別の言葉、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないためである」を思い出しました。
 <折々メール閑話・もともな人間を育てない「教育」>でも言及しましたが、いまの教育の基本がおかしくなっているために、高学歴者の中に人間的にどうかと思うような人がけっこう育っているわけです。孫さんの言葉を借りると、選挙を「自分が社会を変えるために行く」ものにしていきたいと思いますねえ。