コモンの喪失とIT社会の暴走
明治神宮外苑の再開発問題は、もちろん樹齢100年もの樹木1000本近くを伐採しようという暴挙にあるだろう。開発関係者の無神経は理解に苦しむところだが、ことの本質はもっと深いところにあると思われる(写真は神宮外苑のイチョウ並木、ウィキペディアから)。
神宮外苑の森は国有地を戦後に明治神宮などに払い下げられ、同時に都民の憩いの場になっていたのだが、今回はこれを再開発し、老朽化したスポーツ施設などを新設しようと計画されている。これによって古い樹木が伐採されるだけでなく、市民が憩いの場として利用していた空間(共有財産=コモン)が失われ、金儲けのための娯楽施設に切り替えられる。
要は都民が散歩したり、遊戯をしたりしていた無料の憩いの場が消え、より多くの利潤を生む巨大なスポーツ施設などに変貌する。神宮および開発者にとっては歓迎すべきことだろうが、都民にとっては無形の財産が消えることでもある。ここには、土地の所有者だからと言って、何をやってもいいのか、その時、経済の外に置かれることになる「環境」はどう変遷するのか、という大問題が横たわっている。
・すべてが「儲け」のために
ウイーンの社会科学者、カール・ポランニーは戦後ほどなく、「社会に埋め込まれた経済」が「経済に埋め込まれた社会」に「大転換」しつつあると述べたが(『大転換』、東洋経済新報社)、ソ連の崩壊で世界全体が高度資本主義の渦中にある現在、その最新形態である新自由主義はいよいよ経済を社会のくびきから引きはがして、あらゆる場面で資本の論理を貫徹させ、すべてのものごとを金に、儲けを生む商品、施設などに変えている。そのために起こっているのが市民の共有財産とも言えるコモンの喪失である。
その典型は最近話題になった琵琶湖の花火大会だろう。花火大会が市民のお祭りから観光客相手に利潤を生む観光事業、営利事業に変質したために、入場料を払って観覧席に入らない人は見えないように、会場の周囲2キロにわたって柵がつくられた。本来、市民全般の祭りで会った花火大会を、一般の人びとは柵の隙間から見ている。「公」のものであるべき花火大会を、自治体が「私」的に囲い込み、金を払わない地元民を「排除した」わけである。
利用できるものはすべて金儲けの手段に変えようとする新自由主義は、おそらく社会主義を標榜する陣営も含めて、いまや水や空気のような自然の恵みすら金で買う商品に変質させている。ジャーナリスト、ナオミ・キャンベルは『ショック・ドクトリン』という本で、惨事をも自己の利益に結びつけようとする資本の飽くなき「惨事便乗型資本主義」の正体を暴いた。今回のコロナ禍でもワクチン製造業者は大儲けしたらしい。
東京大学大学院准教授(経済学)、斎藤幸平は初期マルクスの手稿などを丹念に読み込み、マルクスの環境への関心を掘り起こして、「いま必要なのはコモン(共有財産)の再生である」と言っている(『ゼロからの資本論』NHK出版)。これとよく似た考えは、早くはわが国が生んだ屈指の経済学者、宇沢弘文(写真)によって「社会的共通資本」として提起されている。
社会的共通資本は、広い意味での「環境」を経済学の対象にすることを意図して、宇沢がつくりだした概念で、佐々木学(『資本主義と戦った男』講談社)によれば、「近代経済学は市場の分析に注力してきたが、宇沢は『環境』を含めた社会そのものを分析しようとした。自然と人間の関係をも射程に入れた経済学の構築に挑んだ」ものだった。
宇沢の説明によれば、社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の3つの大きな範疇にわけて考えることができる。「自然環境は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などである。社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど、ふつう社会資本とよばれているものである。‣‣‣。制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度をひろい意味での資本と考えようとするもの」で、「社会的共通資本は、 一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。社会的共通資本は、 一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を支え、市民の基本的権利を最大限に維持するために、不可欠な役割を果たすものである」と述べている(『社会的共通資本』、岩波新書)。
彼は「社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理され、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない」とも述べている。ここは地域住民など関係者を広く集めた「アソシエーション」を重視する斎藤とは少し違うが、資本の論理がいよいよ激しく貫徹している現状に対する鋭い批判と言えるだろう。
かつてマイケル・サンデルが『それをお金で買いますか』で例にあげたように、こどもに読書の習慣をつけさせたいと、1冊読めばいくらかのお小遣いを与えると、それは読書欲を刺激する効果よりも金儲けの手段となり、かえて読書本来の楽しみを奪ってしまう。お金が介在することで人々の倫理感が微妙に変わる。
斎藤幸平や政治学者の白井聡は、資本主義が高度化するにつれて、資本主義の論理を内面化したような人びとが現れると警告している。それはたとえば、花火大会で締め出された人がいることには思いが至らず、「私たち有料席で立派な花火を見られてラッキー」と思う若者に象徴的だが、今やそういうふうに育った人々が社会の中堅を占めるようになっている。
・ITの想像を絶する発達が拍車
この高度に発達した資本主義と不即不離の関係で、私たちに大きな影をなげかけているのがITの想像を絶する発達である。ダグラス・ラシュコフ『デジタル生存競争』(ボイジャー)によると、デジタル技術を開発した億万長者たちは、自分たちの利益のためには地球がどう危機に瀕しても、貧しい人びとがどうなってもお構いなしで、自分たちだけが地上 の楽園、あるいは地球外に避難所を求めて、そこで生き延びようとしている。
パソコン黎明期にBASICやMS-DOSで世界一の大富豪になったビル・ゲイツは比較的早くに隠退、いまは世界規模の慈善事業に乗り出しているが、本書によれば、この低開発国援助などを標榜する慈善事業こそが最先端ビジネスらしい。
私たちを取り巻く「クラウド」について考えてみよう。いまや自分の個人的感想やプライベートなデータもすべて大手IT企業の巨大なサーバーに蓄えられ、それらのデータは、私たちの購買意欲、嗜好、さらには思考、生き方まで分析する材料に使われ、新しい製品開発に利用されている。
パソコンのOSやアプリケーションソフトを利用者が自ら管理することは難しい。パソコンをつないでおけば自動的にバージョンアップしてくれるし、またそうしてもらえなければ、快適なパソコンライフを送るのは不可能にまでなっている。この至れり尽くせりのサービスの代価が個人情報の提供である。OSやアプリは頻繁に更新され、そのたびに「個人情報に関する扱いの変更」などが提示されるが、これは個人情報をより広く、より詳細に、効率的に集めるためなのは間違いない。と言って、一般ユーザーにその更新をしないという選択肢はほとんどない。ソフトを更新しつつ、個人情報を防衛するためにはかなりの技術が必要で、そう努力していたとしても、専門家の方がはるかに上手で、いつの間にか彼らの軍門に下ることになる。
アプリもそれで生成したデータもすべて自分のパソコン内ではなく、クラウドの上に置かれ、ということは、結局は個人情報を惜しげもなく差し出すとことになっている。この趨勢はもはや止められないだろう。個人情報ばかりでなく、一国の重要秘密も、パソコンを使って生成している以上、もはやGAFASなどの大手IT企業の思うがままである。最近話題のChatGPTやメタバースにしても、たしかに著作権上の問題は喫緊の課題だとしても、もっと深いところに憂慮すべき問題がある。デジタル化した情報を収集分析して的確な答えを提示してくるのをありがたがって、お伺いを立てていると、私たちの思考そのものが、大きく変えられる恐れがある。
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そういう時代の中で、自分を客観視するためにこそ瞑想が不可欠だと、私は思っているのである。瞑想は紀元前、釈迦の時代から面々と伝わってきた。それは朱剛先生が言うように、自己を陶冶し、いい方向へ変えていくものだと思うが、一方で、このような社会によって自分本来の姿が変えられないようにするためにも不可欠だと思われる。
花火大会を有料席で見て、一般人が締め出されていることに何の想像力も働かないのは、やはりやさしさに欠けるのではないだろうか。花火大会はみんなで楽しんだ方がいい。また政治学を学びながら、「時の首相の言うことに反対すること自体、おかしいのではないか」という学生は、大学で何を勉強しているのであろうか。なぜ思想信条の自由、表現の自由という人権感覚を喪失してしまっているのだろうか。そう言えば、以前、やはり白井聡がどこかで「現代の若者は『寅さん』映画がなぜおもしろいのかがわからなくなっている」と書いていた。庶民感覚からすでに切り離されているわけで、こういう生き方は果たして豊かと言えるのだろうか。
社会の激しい波に巻き込まれないためにも、一人静かに自分と向き合う時間が貴重なものになる。それは社会をより客観的に眺める訓練にもなるだろう。まさに現代社会で正気を保つためにこそ、瞑想が必要になっていると思われる。(注:この原稿は近く刊行を予定している東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』の続編(瞑想編)のために書いたものです)