地に落ちて破綻したリテラシーの復権
A 毎日ホント、殺人的猛暑ですね! 7月末から最近まで暑い最中の現場打ち合わせや機械のトラブルで振り回されていました。お盆休みに入ってホッとしています。何もしないでいい時間がホントにありがたいです。
暑い暑いという話になると、いつも「地球が怒ってるんやよ」と答えています。涼を求めるにしても、身近の緑陰はほとんどなく、エアコンがなけれはどうしょうもない。母子家庭ではそのエアコンもつけられないとか。学生時代の寮生活では、炬燵でよもやま話の記憶はありますが、涼を求めて苦労した思い出はないですね。うちわがせいぜい。「神は天にいまし、すべて世はこともなし」(ロバート・ブラウニング)という世の中は来るのでしょうか?
B たしかに暑い。今年はセミの鳴き声をほとんど聞きませんね。とくにアブラゼミのあのいかにも夏を思わせるジージーという声を聞かない。裏の源氏山のセミは死に絶えたかと思うほどです。一説に35度以上の暑さになるとセミ鳴かないとか。セミが姿を消したのではなく、鳴かないということだと、これはこれで哀しい夏ですねえ。去年からあまり聞かなくなった。
閑さやとんと聞こえぬ蝉の声
長いレンジで見ると、地球は「冷却化」に向かっているらしいけれど、その周期に異変が起こっているのかな。この暑さの中、その年で、現役の野外作業というのは大したものです。あまりの暑さに線路がゆがんだり、信号機が故障して列車の運行にも支障が出ている中でねえ。
A こちらでもまったくセミの声が聞こえません。朝の洗顔で水道の蛇口をひねると、高温?の湯が出てきてびっくりします。
さて、岸田首相が総裁選に出ないと14日にようやく決断しました。「悪の安倍」に対して「無能の岸田」だったけれど、この3年で安倍路線を加速し徹底させ、対米従属を一層強めたことで、安倍首相に勝るとも劣らぬ悪い役割を果たしました。何のために政治家になったかわからない人が最高権力を握ることの怖さを思い知りました。
・読み書き能力の急激な凋落
B 岸田退陣で秋には誰が自民党総裁になるのか。同時期に予定されている立憲民主党の代表選も含めて、前回都知事選での「石丸現象」がどう影響するか興味がないわけではないけれど、あまり変わったことにはなりそうもない。大山鳴動して鼠一匹かな。
ところで、7月28日の東京新聞「時代を読む」というコラムに、江戸文化の研究家(法政大学名誉教授)、田中優子さんが、我が意を得たりの文章を書いていました。
東京都知事選の結果の背後には、この25年ほどの間に起こった、日本人のリテラシー、つまり読み書き能力の、急激な凋落があったのではないかと思っている。たとえば、人々は政策を読めない、理解できない、ということを前提に、政策を説明せずに経験談を語って共感を呼ぶ。真剣な議論をしない。質問されると別の話題にそらす。あるいは冷笑して質問し返す。街頭演説は短く発信の言葉も短く、数は多く、という手法を徹底するなど、「ともに学び考える」のではなく、できるだけ考えずに投票できるように導く。そういう候補者に票が集まった。
A 記者の文章力のむごさも含め、このままだとさらにリテラシーは凋落するのでは?
B 田中さんの念頭にあったのは、石丸候補および彼に投票した若者層の心理だと思うけれど、「真剣な議論をしない」、「質問されると別の話題にそらす」、「できるだけ考えずに投票できるように導く」というような態度は、じつは国会の大臣や閣僚答弁、あるいは小池都知事答弁などで繰り返されてきたものであり、一時は「正論には弱い(正論には一目置く)」とされていたジャーナリズムですら、筋を通す考えを放棄しているありさまです。
日本人のリテラシーは経済衰退と軌を一にするように、ここ30年来凋落し続けており、ほとんど回復不能です。と言うより、ここにあるのは明らかにリテラシーの破綻です。たとえば岸田首相、あれだけ在任中は軍国主義化を推し進めながら、敗戦記念日の8月15日に行われた全国戦没者追悼式では「人間の尊厳」とか「不戦の誓い」とかいう言葉を平気で使う。しかも時に「自分は被爆地広島の出身である」と臆面もなく言う。言行不一致の最たるものだが、本人はそのことに気づいているのかいないのか。メディアも発言をただ掲載するだけで、その矛盾を突いたりはしないですね。「恥を知れ、恥を」と言いたい(^o^)。
A 大学生が漫画を読んでいると騒がれたのも今は昔の話ですね。
B 石丸候補に投票した人びとには危うい側面があると思いますが、それでは何も考えずに既得権擁護のためだけに小池氏に投票した、その倍近い人びとはどうなのか。
A 十数年前、2011年の都知事選の獲得票を見ると、タレントの東国原英夫氏が石丸氏とほぼ同じ169万票を獲得している。そのときの169万票と今回の165万票の質的差異は何なのかですね。
B 今回注目されたのは、田中さんが書いているように石丸氏の街頭演説手法であり、それに共鳴して投票した無党派層の心理です。SNSによる情報発信の影響が大きく、立候補者、投票者ともに既存選挙の枠外からなだれ込んできて旋風を起こしたメカニズムが関心を呼んだ。2011年から劇的に変ったわけでもないのに大いに話題になったのは、以前からのリテラシー欠如の風潮が一気に顕在化したからでしょう。そういう意味で石丸氏はトリックスターだった。そこに我々が何度も言及してきた、日本に広がる「明るい闇」が介在しているのは確かです。
だから今回の新しい動きは「危うさ」もはらむけれど、保革ともに、何も考えずに既存組織の思惑に身をゆだねてきた「沈滞モード」から見ると、動きがある分、可能性がないわけでもない。今後の課題は、その動きをどうすればまっとうな政治の方向に変えていけるのか、危うさがが新たな混沌を生むことにならないためにどうすればいいのか、ということだと思います。
A そのためには、ものごとの理非を考えて投票する態度が必要です。それがリテラシーの復権ですね。政治をまっとうなものにしようと奮闘しているのが山本太郎とれいわ新選組であり、だから我々としては石丸現象をきっかけに、無党派層がれいわ支持に一層傾くことを期待したいです。
・山本太郎と石丸伸二の違いは何か
B 山本太郎の演説と石丸伸二のそれを比べてみると、その差は明瞭です。たとえば以下は和歌山市での山本太郎の街頭演説です(2.18)。
維新は私から見てどう見えるかってお話ですね。維新は新自由主義を煮詰めたような政党、人でいうならば竹中平蔵さんみたいな政党だと思うんですよ。もうちょっと柔らかく言うと、弱肉強食が極まった政党だなと。民間なら、たとえばある部門が不採算で、このままいくとマイナスが余計広がって本体に影響が出るから、この部分を切り捨てようかみたいな話は一般にあることですね。でも、国や行政が弱肉強食みたいなことをやっちゃったら、行政の意味がなくなっちゃうんですよ。社会から人間を退出させることはできないっていうのが基本なんですよ。
彼らはいろんな無駄があるって言ってるんだけれど、彼らがやっていることが一番無駄なんですよ。なんでいまさら万博? コロナで一番住民の命を失わせたのは大阪の行政です。それだけじゃない、カジノとかね。どっちむいて政治をやってるんですか。
もっと言うと、大きな政府と小さな政府。大きな政府というのは、たとえば私たちが行っているような話です。教育費は無償にすべきだとか、基本的に生きる上で絶対必要なことに関しては、コストは国が持とうと。だって30年不況が続いて賃金上がらない中で、みんな生活するだけでももう精いっぱいだから、とにかく負担を減らしながら、ちゃんと社会におカネが回るってことをやっていかなきゃいけない。人間として当然生きていくということが、尊厳をもって生きていけるっていうことを担保するために、それが必要なんですね。
たとえば水道。民間はだれの利益のために働くかって考えたら、株主のために働くんですよ、これは世界でもある話です。水道を民営化する、その結果、水道の水質が悪くなっちゃった。水質上げていくためにはコストかかるでしょ、今の料金のままで利益を上げようと思ったら水質落とすって言うか、仕事を減らすしかないんですね。水道管の交換が必要になっても、ぎりぎりまで変えませんよ、オーバーしても変えないかもしれない。世界で水道が民間に売り飛ばされた後に何が起こったかって言ったら、不透明な会計や不正です。いまこの15年間で水道事業が再公営化された事例は世界で35カ国、少なくとも180件あります。それなのに日本ではこれからそれをやろうとしている。賛成しているのがおそらく維新なんでしょう。公を売り飛ばして金儲けの道具にしているんですよ。
A わかりやすい山本太郎の「辻説法」ですね。
B 山本太郎の演説を聞いて、大いに感心して、れいわ支持者になって行く人も少なくないけれど、石丸伸二氏が都知事選のわずかの期間に160万票も集めるというような劇的なことは起こらない。石丸候補のアジテーションには感応するが、山本太郎の演説に共鳴する人は相対的に少ない。ここに日本人のリテラシー能力の低下が反映している。じっくりものごとを考えないわけですね。今回の都知事選における無党派層の票がれいわに向かうために何をすべきかを考えなくてはいけません。
ある母親に「子どもには本を読ませた方がいいよ」と言ったら、その母親は「今はゲームとかアニメとか読むものがいっぱいあるし、学校では専門書なんかも読んでいますから」と言った。明らかに小説とか社会科学、哲学などの人文科学の本は念頭にない。政府が「人文科学より手っ取り早く金の儲かる技術系の知識を」、「資本計画は投資で」と言ってきたことが立派に実を結んでいる。日本企業から創造的な開発がほとんどなくなったのもそういう教育の〝成果〟です。
戦後すぐのころは雑誌や本も少なく、「活字中毒」なんてことも言われましたが、いまは漫画、アニメのみならず、ゲーム、ユーチューブなどがあふれ、子どもたちが接するメディアは無尽蔵にあります。だから分厚い小説などは読まなくなっています。
A 従来なら、表面的な情報ばかり追いかけていても、そのうち飽きるか、友人の一言とかほんのちょっとしたきっかけで、こんなことではいかんと思いなおすことも起こり得たけれど、今ではスマホを通して、次々と目先の新しい情報が飛び込んでくるから、飽きるということもない。深く考える習慣はどんどん死に絶えている。ここに社会のIT化が濃い影を落としているわけですね。
・「文字の文化」から「電子の文化」へ
B リベラルアーツなどの一般的リテラシーが軽視される中で社会のIT化が進み、いよいよリテラシーが衰退している。インターネットなど「電子の文化」は書籍中心の「文字の文化」とは違う影響を人類に及ぼす。これからはIT社会を生きるための基本素養である「サイバーリテラシー」が必要だというのが20年来の持論です。
たとえば「サイバーリテラシーの提唱」では、「書くとは、言葉を空間にとどめることであり、文字によって言語の潜在的な可能性が無限に拡大し、思考は組み立てなおされた。その特徴をより強固なものとし、同時に変えていったのがグーテンベルクによる活版印刷術の発明である。そして情報のデジタル化は、言葉を埋め込まれた文脈から解き放ち、受け手が自由に再構成することを可能にした。印刷術が、近代という時代を用意したように、いま進みつつあるデジタル情報革命は、これからの人類の歴史を、私たちの感性、思考、行動様式を大きく変えていくだろう。大きなうねりだけに、かえって見えにくい歴史の転換点をしっかりと見据え、電子の文化がもつ本質を見きわめる努力をしていきたい」と書いています。
これに関連して、最近、たいへん興味深い本を読みました。ダグラス・ラシュコフ『デジタル生存競争』(原題 Survival of the Richest、境屋七左衛門訳、ボイジャー、2023)で、こういう恐ろしいことが書いてあります。
一握りのIT起業家などの億万長者は、自分たちのせいでこの地球が破壊されようと、そういうことにはまったく関心がなく、ただ自分たちだけが生き残るにはどうすればいいかのみを考えている。それは砂漠や大平原の中の宮殿だったり、広大な地下シェルターだったり、太平洋に浮かぶ孤島に築かれた要塞だったり、さらには他の惑星だったり――。ノアの箱舟のように自分たちだけが生き残るための資材を確保すると同時に、その「城」が一般大衆に襲撃されないために防御(警備)にも気を使っている、と。
彼らは地球がどうなろうと、自分たちだけが隔離された別転地で生きながらえれば良しとしているらしい。それは決してパラダイスではなく、むしろ地獄だと思うけれど、世の中がここまで苛烈になっていることに多くの日本人はほとんど気づいていない。と言うより、何が起こっているかの理解力や想像力を喪失しているように思いますね。
ただの読み書き能力だけでなく、IT社会の本質を見通すサイバーリテラシーが必要だと言えるでしょう。以下は余談だけれど、この本には中国の「タンピン(躺平)運動」も紹介されています。
タンピン運動というのは「寝そべり族」、「寝そべり主義」と言われるものらしく、ウイキペディアでは<中華人民共和国において若者の一部が競争社会を忌避し、住宅購入などの高額消費、結婚・出産を諦めるライフスタイルであり、具体的には、”住宅を買わない、車を買わない、恋愛しない、結婚しない、子供を作らない、消費は低水準(不買房、不買車、不談恋愛、不結婚、不生娃、低水平消費)〟を貫き、「最低限の生活を維持することで、資本家の金儲けマシーンとなって資本家に搾取される奴隷となることを拒否する」ポリシー>だと説明しています。
国家資本主義の最先端では、こういう生き方も出ている。さすがに「竹林の七賢」の伝統を持つ中国ならではの話です。日本にもよく似た傾向がないわけではないが、精神の持ちようというか覚悟が違う。
とりあえず日本の現状としては、せっかく眠っていた人びとが石丸候補によって呼び覚まされ、投票に向かう気になったのだから、それをさらに覚醒させるように努力すべきだと思いますね。