ども。某酒席で、「サイバーリテラシー的な問題点って、映画じゃ昔からテーマになってるんですよねー」なんて言ったら、(当サイト主宰者から)「じゃあそれ書け」と命じられた kik です。余計なこと言わなきゃ良かった…。
まあ、そんなこんなで始まった当コラム。 『映画史に見る~』なんて仰々しいタイトルも頂いちゃいましたが、要は、古い映画をサイバーリテラシーにこじつけて…もとい、サイバーリテラシー的な視点で、(極私的に)考察してみようという気楽なコラムです。気楽にお付き合い頂ければ幸いです。
さて。いきなりですが、どんなテクノロジーも諸刃の剣なんです。
て、いきなり大上段に構えてみましたが、実際そうだと思います。インターネットだって、使い方によっては自由とか民主主義を拡散するテクノロジーになり得ますが、同時に、それらを阻みたい権力者にとっても便利なツールになりますからね。
そして、テクノロジーを効率的に使うことに長けているのは、いつの時代も、権力者側じゃないのかな、と。
SF映画黎明期の傑作として知られる本作でも、テクノロジーが、使う側の意図次第で、いかようにも変化することが描かれています。裕福な支配者階級と、貧しい労働者階級に二極化した未来社会で、支配者が用いるテクノロジーはアンドロイド=マリアでした。ちなみにマリアは、アンドロイドだけど見た目は超美人。さすが権力者、その辺(どの辺か知りませんが)よく分かっていらっしゃる。労働者たちは、たちまち虜になります。
権力者側の目的は、マリアを使い、ストライキを企てている労働者たちの団結を崩すことでした。今で言うところの情報操作ですね。インターネットなんてない時代から、権力者ってのは情報をコントロールしたがるもんです。
しかし、マリアを作った科学者の真の目的は、階級闘争を扇動し、国家に混乱をもたらすことにありました。今で言えばサイバーテロですね。高度なテクノロジーってのは、悪意を持った技術者が一人いるだけで、エラいことになります。
かくして、マリアに扇動された労働者たちは、やがて暴徒と化して街を破壊していきますが…。
映画史的に見どころの多い本作ですが、個人的にモヤモヤしたのは、暴動によって自らの子どもたちを危険にさらした労働者たちが、支配者階級の青年に助けられる終盤シーンでした。青年が悪の科学者を倒し、支配者階級と労働者階級を和解させる…というエンディングは、どうにもスッキリしません。だって、階級格差はちっとも解消されないんだもの。
その原因は、本作監督(フリッツ・ラング)の妻であった、テア・フォン・ハルボウの脚本のせいです。ラングは労働者側の勝利で終わる話にしたかったんですが、ハルボウは当時、ナチス思想に傾倒しており(それが原因でユダヤ人のラングとは離婚)、支配者階級をエリートとして礼賛こそすれ、一方的な悪者として描く気はなかったわけです。
彼女に限らず、昔から映画はプロパガンダとして使われてきました。それは現代も変わりませんが、この時代は特に露骨というか、各国の権力者が、映画を「国策宣伝」のために利用していました。つまり、当時は映画こそが、最新のテクノロジーだったわけですね。
ちなみに、本作に登場する映画史上初の(そして映画史上最も美しい)アンドロイド=マリアは、後に『スター・ウォーズ』のC3-POのモデルになったことでも有名です。(Kik)
監督 フリッツ・ラング
出演 アルフレッド・アベル 他