「情報産業論」とその時代(1)
10年近くにわたり、毎年、梅棹忠夫の「情報産業論」を読んでいる。ここ数年は、毎年、2度ずつ、非常勤で出講している大学で、学生たちと。何度読んでも、何かしら新しい発見がある。学生たちに教えられることも少なくない。「情報産業論」を読むことを通して、ぼくが得たことどもについて、書き綴っていきたい。「情報産業論」そのものについてはもちろんだが、梅棹忠夫が、「情報産業論」を書いた時代についても、また、ぼくが「情報産業論」に出会った経緯についても、触れることになるだろう。
「情報産業論」は、まごうことなく情報と社会との関わりを論ずるときに欠かすことのできない、古典中の古典だ。しかし、どのような古典も、いや古典となって受け継がれる文章だけではなく、あらゆる文書が、ある時代精神のもとで書かれ、書かれた時代と同じと否とにかかわらず、ある時代精神のもとで読まれる。そして、時代を超えて読み継がれてきた文書のみが、古典となる。
ぼくは、「情報産業論」がどのような時代に書かれ、ぼくが「情報産業論」を読んでいる時代がどのような時代なのか、ということについてもどうしても書いておきたい。「情報産業論」を読み継いでいくであろう、次の世代のささやかなよすがとなることを願って。
・それはどんな時代だったか
「情報産業論」を論ずるためには、自ずから「情報産業論」そのものの引用が不可欠となる。引用には、手元の中公文庫『情報の文明学』(1999年4月18日発行、2010年7月15日第7刷)を用いる。最初の引用は、梅棹本人による解説。
一九六二(昭和三七)年晩秋、わたしはこの「情報産業論」という論文を執筆した。これは『放送朝日』の翌年の一月号に掲載された。『放送朝日』のこの号には、関連する問題をめぐって、大宅壮一氏ほかの諸氏との座談会が掲載されている。
その直後、中央公論社から転載のもうしでがあり、わずかに手をいれたものが、そのまま『中央公論』の三月号に掲載された。ここには、『中央公論』掲載のものを採録した。一九八九(平成元)年になって、この論文は『中央公論』六月号の巻末付録「『中央公論』で昭和を読む凹」に再録された。それには関沢英彦氏による解説が付されている。(p.38)
ときに、梅棹42歳。助教授として大阪市立大学で教鞭をとるとともに論壇でも刮目される気鋭の研究者だった。
このころ、1951年産まれのぼくは、まだ、小学生。「情報産業論」を知るのは、ずっと、後になってのこと。しかし、ぼくも、梅棹と同じ時代の空気を吸い、肌に感じていた。
だれもが、記憶している時代の記憶がある。例えば、三島由紀夫の自害、浅間山荘事件、サリン事件など。そして、その記憶の多くは、映像とともに、その情報を自分が得た場所の記憶と深く結びついている。
このころの、ぼくの記憶といえば、何と言っても、1964年の東京オリンピック。そして、少し遡るが平成天皇明仁の皇太子としての婚姻。
ちょっと、年表風に書き出してみよう。
1956年:大阪朝日放送開始
1958年:『女性自身』創刊
1958年〜1959年:ミッチーブーム
1960年:時の内閣総理大臣池田勇人、所得倍増論を発表
1960年:カラーテレビ本放送開始
1963年:『女性セブン』創刊
1963年:通信衛星によるJFK暗殺画像の送信
1964年:東海道新幹線開通
1964年:東京オリンピック
今の平成天皇明仁が皇太子として、正田美智子嬢と結婚したのが1959年、その前年には、光文社から『女性自身』が創刊され、ミッチーブームを牽引し、週刊誌ジャーナリズムの時代を画した。長く対抗誌となる小学館の『女性セブン』創刊が1963年。
「情報産業論」初出誌の栄誉を担った『放送朝日』誌を発行していた大阪朝日放送がテレビ放送を開始したのが、1956年。1960年には、カラー放送を開始している。
そして、1964年の東京オリンピック。ぼくは、中学生となり、ブラスバンド部の活動に夢中になっていた。皇太子成婚の際に、団伊玖磨によって作曲された祝典行進曲や、古関裕而作曲のオリンピックマーチなどの小太鼓パートは、体に染み込んでいた。自宅の洋間に鎮座していたカラーテレビでオリンピックの入場行進を見ながら、体が自然にリズムを刻んでいた。そんな時代だった。
しかし、メディアの歴史という意味で、何よりもこの時代を象徴するのは、 東京オリンピックでの衛星中継の下準備として行われたアメリカからの送信テストの際に送られてきた、ダラスにおけるJFK暗殺その瞬間の映像ではなかったか。幾度となく繰り返し放映されたJFK暗殺の瞬間の映像は、脳裏に焼き付いている。
1960年に時の首相池田勇人が発表した所得倍増計画。東京オリンピック直前に開通した東海道新幹線。
ぼくが、大学に入学した1970年の万国博覧会は、所得倍増計画の掉尾を飾った。そして、1950年の朝鮮戦争に始まる日本の敗戦後の復興と経済成長は、1990年のバルブの崩壊まで続くことになる。
梅棹忠夫が「情報産業論」を書いたのは、そんな時代のまっただなかだった。