ひとまずの終止符
わたしは、こういう方向で、未来の外胚葉蚕業時代の経済学を構想したい。(p. 63)
先般、最終回のつもりで、原稿を矢野さんに送ったら、「なんだか尻切れとんぼだねえ」というお叱りを頂戴した。お言葉を返すようでありますが、矢野さん、梅棹の「情報産業論」そのものが尻切れとんぼなのですよ。よく言うと、壮大なオープンクエスチョンで終わっている。
梅棹のお布施理論は、その未来の経済学への補助線として語られている。そして、前回触れたように、それは歴史が未来への補助線であるという意味で、梅棹の文化人類学/民俗学への知見/懐かしさを伴った憧憬に彩られている。
であれば、梅棹が構想した外胚葉時代の経済学は、具体的にはどのようなものだったのだろうか。残念ながら、梅棹自身は、その具体的な姿を示すことなく他界した。しかし、梅棹自身が、『情報の文明学』の中でも記しているように、多くの論者が、この「情報産業論」について、様々に論じている。《情報産業》という言葉そのものが、いまだに梅棹の影響下にある。
もう一度、梅棹の「情報産業論」の大筋を振り返ってみよう。
「情報産業論」は、大きくは、3つの部分から構成されている。最初に、シンボル操作のプロフェッショナルとしての、情報業者をくくりだし、ついで、内胚葉産業、中胚葉産業、外胚葉産業という形で、産業構造の変遷の中に、情報産業を位置づけ、最後に情報の価格決定メカニズム解明への方向性を、お布施理論という形で提示する。
この3つの部分のうち、もっとも多く論じられたのは、当然ながら第2の部分であり、それもアルビン・トフラーの「第三の波」との対比でその慧眼と先見性に注目した論述が多数を占めたことは、ぼくのこの一連の駄文も含め、当然のことといえば、当然のことだった。
それにひきかえ、お布施理論については、言葉そのものは広く流布したが、その内実についての深い議論が多く展開されたようには、見られない。梅棹自身の、『情報の文明学』が単行本として刊行された際、1988年2月に書き下ろした「四半世紀のながれのなかで」で振り返ったお布施理論に関わる部分を見てみると。
「さきにあげた稲葉論文では、お布施原理に対して、労働価値説の立場から、それは現象的なとらえかたにすぎず、『本質にせまろうとすると、労働市場における需給の法則が価格決定原理であることに気づくし、その価格の底にあるものとして労働力の価値を問題にせざるをえない』と論じている。またさきにあげた城塚氏も『より一般的に価値の問題として』とらえるべきであるとしている。」
と、否定的な論調を引用し、さらに、今井賢一氏の情報の価値についての論文の一部を引いて、「『このお布施の原理というのは、経済学的にみてもかなり本質をついたもの』としながら、「格」というものが一般的な市場理論になじみにくい点を論じて、『情報材の特殊性を考慮して、市場理論を再検討する必要に迫られる』としている。情報の価値および価格決定については、今後もさまざまな議論が展開しうるであろう。」と結んでいる。
世上の議論の大勢は、梅棹が構想した方向に、そのまま展開していったわけではなさそうである。
・名和小太郎<情報産業ゲートウェイ論>
こうした中で、異彩を放つのが、名和小太郎の《情報産業ゲートウェイ論》である。
名和さんは、このホームページでも健筆をふるっておられるし、なによりも、矢野さんを介して知遇を得た貴重な大先達なので、名和さんを俎上に乗せるのは、恐れ多い限りなのだが、まさに、蛮勇を奮って。
矢野さんを通して、名和さんの知遇を得たときのこと、というよりも、矢野さんと名和さんの知遇を得たのは、同じ機会だったのだけれど、そのことについては、以前、書いたことがある(『EPUB戦記』p.18)。
その後、折に触れて、矢野さんの後ろにくっついて名和さんを訪ね、お二人の談論風発を身近に拝聴する機会を得てきた。
もう10年以上も前になるだろうか、京都の佛教大学で「情報ビジネス論」と題する集中講義を担当したことがある。ぼくにとっては、単発の講演や講義を除くと、まとまった形で大学での授業を担当した最初の機会だった。
このとき、初めて、梅棹の「情報産業論」をテキストとして用いた。
迂闊なことに、このときまで、ぼくは、お布施原理が梅棹のものではなく、名和さんオリジナルのものであると勝手に思い込んでいた。
きっかけは、名和さんの名著『情報社会の弱点がわかる本』(当時のJICC出版局、今の宝島から出ていたブックレット)。96ページというブックレットでありながら、そこには名和さんの慧眼が詰め込まれている。
ぼくは、このブックレットを、ジャストシステムに入社した直後に読んでいる。そして、大いに啓発された。その折、名和さんが情報産業ゲートウェイ論への補助線として紹介された梅棹のお布施原理を、てっきり名和さんオリジナルのものだと思い込んでしまっていたのだった。
佛教大学での集中講義の準備のために、名和さんのブックレットを読み返そうとしたら、どこかに散逸してしまっていて、手元に見当たらない。名和さんに、コピーの提供を依頼したら、早速署名までして原本を一冊送ってくださった。
読んでみて、愕然とした。そして、梅棹の「情報産業論」について初めて知った。
近所のフェリス女学院大学の図書館に行って、梅棹忠夫著作集の『情報と文明』の巻を借り受け、夢中になって読んだ。
爾後、「情報産業論」は、まさに座右の書となった。
三上喜貴さんに頼まれて、長岡技術科学大学で「情報と職業」の夏期集中講義を始めた時も、矢野さんの後任として明治大学で「情報と社会」の授業の担当を始めた時も、「情報産業論」をテキストに使うことに、何のためらいもなかった。
「情報産業論」を学生とともに読み直す作業は、ぼくに、古典を読むという営為がどのようなものであるか、ということを実感させ続けている。
しかし、そもそも「情報産業論」を古典として読み直すことの、大切さとその要諦のようなものを教えてくれたのは、名和さんの『情報社会の弱点がわかる本』と、このブックレットともに送っていただいたエコノミスト誌1988年11月1日号に掲載された『ポストモダン時代に自立する?情報産業 梅棹忠夫「お布施原理を読みなおす」』ではなかったか。
もう1回分何かを書くのであれば、名和さんの「情報産業論」論以外にない、と即座に考えた。そして、今しがた、このエコノミスト誌への論考を読み直した。
この名和さんの論考そのものが、もう30年も前のものである。そして、その時点で、「情報産業論」が世に出てから、四半世紀が経過していた。
この時点での名和さんの梅棹批判は、ぼくがこのブログで書き連ねてきたことどもと、驚くほど重なっているとともに、名和さんご自身が優れた工学者であることを反映して、「要素還元論・数量還元論を奉じるシステム技術者」の立場から梅棹の有機体論的な装いを鋭く批判している。ぼく自身は、前回も書いたように、特にお布施原理の背後に、梅棹の民俗学・文化人類学的な世界観がすかして見えるように思えるのだが、名和さんは、おそらく、ぼくが感じたと同じことを、ポストモダンという言葉で指摘しているのではないか。
近代=工業化の時代を軸に、梅棹的前近代と名和さんの指摘されるポストモダンは、みごとなほどの鏡像関係にある。梅棹も名和さんも、そして、ぼくも、共に近代の超克を、情報論的世界観に託している。しかし、梅棹の「情報産業論」初出から半世紀以上、名和さんの「情報産業論論」から四半世紀たった今でも、未だ、近代が超克されたとはとても言えた状況にはない。もちろん、諸処各所に近代のほころびが見え隠れし、そのほころびが徐々に拡がっていることもまた確かなことではある。
ぼくは、このブログの一連の論考で、たびたび時代精神(ツァイトガイスト)という言葉を用いてきた。梅棹はその「情報産業論」を彼が生きた1960年代初頭の時代精神の中で書いた。名和さんは、その「情報産業論論」を、1988年というまさに世紀末の立ち入らんとする時代精神の中で読み、論じた。そして、今、ぼくは、2019年2月、平成という時代が幕を閉じようとする時代精神の中で、読んでいる。
矢野さんは、ぼくに、何を求めて、「もう一回何か書け」と求めたのだろう。前回が尻切れトンボだったからか。だがしかし、ここまで書き進めてきて、ぼくには尻切れトンボではない結論めいた言葉は、どうにも浮かんでこない。さまざまな思考の断片が、次々と浮かび上がり拡がるばかりだ。
名和さんがエコノミスト誌に寄せた論考は、梅棹の「情報産業論」が収められている「情報の文明学」が単行本として刊行されたことを契機として書かれたものだ。そして、この梅棹の単著の掉尾には、「中央公論」誌1988年3月号に掲載された『情報の考現学』が収められている。
この『情報の考現学』の「古典」と題された項のこれまた最後の部分を引いて、果てしなく続く「情報産業論」再読の作業に、ひとまずの終止符を打つこととしたい。
大気は地球をおおう普遍的な存在である。われわれは、歴史的所産としての大気を、人間個体としては、つねに新鮮なものとして呼吸する。全世界をおおう情報の体系は、歴史的に蓄積された、普遍的存在としてわれわれをとりまくが、人間個人は、つねにそれを新鮮な「空気」として呼吸するのである。こうして、古典は現在においても新鮮な意味をもつ。(p302)