古藤「自然農10年」(19) 命と死⑤ 完

人生の不思議さと厳しさ

田植えが終わった棚田

 農業には「苗半作」という言葉がある。自然農を教えてくれた故松尾靖子さんの実父、故家宇治守さんの口癖だった。丈夫な良い苗を育てたら収穫の半分は確保したのも同然。種をまき芽が出て苗になるまでの手助けが大事、そこが勝負だ。そうすれば、命は自然に育ち、よい命を全うする、と。

 三島由紀夫(本名、広岡公威=きみたけ)は美学といわれるほどの華麗な文学世界を創造し、人にやさしく自分にも誠実に向き合った人だが、なぜ壮絶な自決をして自然な命、自然な死を全うすることが出来なかったのか。そこには普通とは異なる育て方をされた影響が多分にあったと思われてならない。

 異常なほど感受性が鋭い子が、生まれるとすぐ母親から引き離された。時計を持って授乳時間を計るような祖母に見張られながら、わずかな時間だけ母の懐に抱かれた。母の倭文重(しずえ)は加賀前田家に仕えた儒学者の家系。父の梓(あずさ)は兵庫県の豪農の出で、東京帝大法科から内務官僚へ親子2代で同じコースを歩んだ。倭文重ら夫婦は東京四谷の女中6人と下男がいる広い屋敷に、梓の両親と同居、1階に祖父母、2階に夫婦が住んだ。公威は2階の両親と暮らさず、生まれるとすぐ1階の祖母に引き取られている。

 祖母、夏子は気位が高く気性も激しかった。酒豪で家庭を顧みない夫の暴力でひどい坐骨神経痛を持ち、臥せってなければ、ヒステリックに平岡家を支配した。2階は危ないというその祖母の一声で両親から引き離されたのである。

・孤独で過酷な「苗の時代」

 両親が会えるのは4時間ごとの授乳の時だけ。物差し、はたきを振り回して遊ぶようになると、危ないと没収された。育児の主導権は常に「お祖母様」であり、公威が「お母様」の方を大事にしたら、祖母の機嫌を損ねて叱られた。祖母が選んだ女の子とままごとや折り紙をし、男の子の遊びはいっさい許されず、書斎を埋める本だけが喜びになった。

 祖母は言葉づかいなど厳しくしつける一方、好きな歌舞伎に連れて行ったりして孫をかわいがった。三島は幼時をほとんど語らないが、3歳にしてすでに、母親に会える時は思いきり甘えても、祖母の機嫌を損ねて母を困らせる言動はしなかったという。そのためか5歳の正月、自家中毒で危篤状態になった。祖母の強権は両親が転居する12歳まで続く。

 終戦から間もなく、3歳下の妹が井戸水で腸チフスにかかった。三島は試験勉強のノートを病院に持ち込み、ベッド横の床に胡坐をかいてノートと妹の顔を見ながら看病を続けた。「お兄様アルガトウ」という細い声を残して死んだ妹に三島は号泣した。妹の死も生涯、陰を落としたようだ。

 詩は5、6歳から書き始め、真っ先に母に読んでもらうのを何より喜んだが、縦横な空想力の詩を学習院初等科の先生は全く理解できず、欠点をつけた。役人に育てようとする父親も文学に興味はなく、中等科になって初めての小説『花ざかりの森』を書き始めたころ、徹夜して書き上げた原稿と白紙の原稿用紙を父親が破り捨てた。三島は涙でじっと耐えた。

 それから間もなく、軍国日本は三島に戦場で死ぬ覚悟をさせたうえ、土壇場で彼を学徒動員の列からいわば、のけ者にした。その混乱、虚脱のまま価値観がひっくり返る自由と民主主義の戦後へ投げ出されたのである。真夏の悪夢のような感覚が敗戦から2、3年続いたと三島は告白している。

 普通なら腕白な子どもとしてまず体が備わり、その肉体に知識や精神が育まれていく。しかし、三島の場合は、肉体がないまま理性、それも天才的な感受性と精神が育ち、成人になって初めて、肉体という怪奇な存在が立ち現れた。驚愕とともにそれを受け入れる葛藤を正直に告白したのがエッセイ『太陽と鉄』である。そこには彼がなぜ壮絶な自決を遂げたのかをうかがわせるものすらある。

・太宰治と川端康成

 その三島と火花を散らすように交差した太宰治と、三島を世に送り出し生涯の恩人とされた川端康成の2人も、三島と前後し自死によって命を絶っている。

 太宰と三島の初対面は、三島の文学仲間が当時、評判の新進作家である太宰に会わせようと連れ出して実現した。しかし三島は、亀井勝一郎の横に座る太宰に向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言って、座を凍らせている。三島は太宰の才能を認めながらも、露悪的な作風や自堕落な生活ぶりを生理的に嫌悪していた。

 太宰治(本名、津島修治)の生家は北津軽郡金木村(現・五所川原市)の大地主。父の源右衛門は県会議員から衆議院議員になった「金木の殿様」。修治は6男、11人兄妹の10番目で何不自由なく甘やかされて育った。

 しかし、母親が病弱だったため生まれるとすぐ乳母に預けられた。3歳から小学校へ上がる6歳までは子守奉公に来ていた女中が世話をした。母の胸からは離され、忙しい父は遠い存在だった。三島の厳格なしつけとは正反対の放任状態で「苗の時代」を過ごしている。

 長じて結婚後、かつて交流があった愛読者の歌人と妻に隠れて会う仲となり、3月には美容師と深い関係になる。そして1年後にこの最後の女性と玉川上水で入水自殺した。この1年余の間に、酒と不眠で結核を悪化させながら『斜陽』、『人間失格』などの代表作を書いた。

 三島が川端康成と会ったのは太宰より1年ほど早い。既に文壇の大御所的存在だった川端を、新作の短編などをもって鎌倉の私邸に訪ねている。川端は初対面の三島に親身な力添えをして、これが三島が本格的に世に出ていく転機になった。三島が生涯の恩人と大事にした人で、結婚式の媒酌人をつとめ、皮肉なことに葬儀委員長も引き受けた。川端の幼少期もまた孤独で過酷な「苗の時代」だった。

 1歳7か月の時、大阪・天神橋で開業していた医師の父親が結核で死んだ。母もほどなく結核で死に、康成は父方の祖父母に、姉は母の妹に預けられ、姉弟は引き離された。祖母は康成を真綿でくるむ様に育てたが、康成が小学校に入学した秋に亡くなり、姉も翌年病死した。ただ1人の肉親となった祖父も病没、康成は15歳のときに天涯孤独の身となった。

 作家を志し親戚の世話で勉学に励む少年に周囲は同情を寄せたが、川端は「心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した」と語っている(自伝『葬式の名人』)。そんな川端は三島だけでなく多くの文学者を世に送り出し、不遇の人にやさしく接したという。その一方で、どこか人を寄せ付けない冷徹さと蔑視と誤解される沈黙の凝視で人を恐れさせた。

 三島の割腹から1年半後の昭和47年(1972年)4月、川端はガス自殺で人生を閉じている。日本人初のノーベル賞作家の寂しい72歳の死だった。太宰は、最後も女性に抱かれながら死に、川端はたったひとりで人生を閉じた。

 文学界に偉大な業績を残した3人の作家に対して、川口自然農はためらわずダメ出しするだろう。奔放な女性遍歴ゆえにピカソ芸術を否定し、「私の母は仏のみ」と母親を追い返したブッダに対してすら、自然な人の道に反すると断ずるからである。仏も悪魔も棲む人の内奥に怯まず迫る作家の苦行の人生を論ずる力は、私にはない。そろって不遇だった幼少期に、「苗半作」の言葉を思い出すばかりである。

 ・あらためて振り返る三島の自決

 なぜ最後があの制服、制帽だったのか。戦争で死んだ人たちへの強い共感があったからだと私は思う。三島は悲痛さを垣間見せた「わだつみのこえ」より、片鱗の私情も見せず、ただ黙って祖国を背負って死地に向かった同世代に、限りない愛着を示した。「経済繁栄にうつつをぬかし、ごまかしと自己保身の政治」と書き連ねた檄文は、彼らの声を代弁して、今を糾弾している様にも思える。

 自決の前夜、三島はいつもの通りにお休みのあいさつを言いに父母の部屋にやって来た。「明日は早いからやすみます」と言葉少なに自室に戻る三島が寂しげに見え、母はじっとその後姿を見続けた。梓は煙草を少し控えるように注意した。それが今生の別れとなった。

 築地本願寺で行われた三島の本葬には1万2000人から3000千人が参列したが、会葬者の多さが両親を驚かせた。喪服、正装は少なく仕事服、背広にノーネクタイ、下駄履き、サンダル履きの人たちが、悲しみながら焼香と献花をしてくれる姿に、父の梓は感涙にむせんだ。「赤ん坊を背負う下町のおばちゃんが目にいっぱい涙をためて合掌し、祭壇に千円札、5百円札を投げる中年男性がいた」と『伜・三島由紀夫』に書き留めている。

 三島が武士のような最期を遂げたのに対し、彼が生涯の手本にした『葉隠』の常朝は切腹も切り死にもせず、畳の上で自然な死を全うした。仕えた藩主、鍋島光茂が、背けば家名を断絶すると厳しく殉死を禁じて死んだからだが、42歳で剃髪出家、隠棲して61歳の命を全うした。

 6月は田植えの季節。この半月は毎日、朝から日暮れまで田植えに明け暮れた。一本ずつの手植えは時間がかかる。この原稿は寝る時間を削って書き継いだ。自分の力で生きているようで、どこか生かされている命。個々別々のようで全てがつながり一体にめぐる宇宙と過去から未来へ刻々と流れる時間。そして、人は常に分かれ道とどれか一つの選択を迫られる。ただ一筋の人生しか歩めない人生の不思議さと厳しさを改めてかみしめている。

古藤「自然農10年」(18)命と死④

作家三島は、「なぜ死にたまいし」

「命の惜しくない人間がこの世の中にいるとは、ぼくは思いませんね。だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです」。三島由紀夫が自決の1週間前に語った言葉である。場所は自宅、午後8時から2時間のインタビューに答えた。

 相手は、三島の著作をほぼすべて読む一方で、「戦後」を敵視する三島を批判し続ける文芸評論家の古林尚(ふるばやしたかし)。この夜も、「天皇制賛美や『盾の会』は軍国主義」と歯に衣着せず迫る古林に、三島は戦後観、文学論を笑いながら、心を開いて話した(「三島由紀夫最後の言葉」、初出は「図書新聞」)。

 海軍小学校から早稲田露文科へ進み戦争体験を持つ1年後輩のこの広島県人に三島がことのほか好意を持っていたことは間違いない。自決の計画を胸に秘め、まだ『豊饒の梅』第4巻を書き上げていない夜に、彼はなぜこの対談を受けたのか。マルクス主義、戦後民主主義を信奉するこの生真面目な高校の国語教師に向かって胸襟を開いた言葉は、現在の私たちに向かって遺言するための対談だったとすら思える。

「敗戦で僕も一時は非常に迷いました。でも政治はノンポリというか盲目でしたから一種の逃げ道として芸術至上主義を気どることにしたんです」「そのうちにだんだん、十代に受けた精神的な影響、一番感じやすい時期の感情教育が次第に芽を吹いてきて、いまじゃあ、もう、とにかく押さえようがなくなっちゃたんです」と笑いながら話している。

「ぼくの内面には美、エロティシズム、死というものが一本の線をなしている」「ぼくのやろうとしていることは、人には笑われるかもしれないけれども、正義の運動であって…吉田松陰の生き方ですよ」「芸術は生きて、生きて、生き延びなければ完成も、洗練もしない。もうトシをとっていくということは、苦痛そのもので、体が引き裂かれるように思えるんです。だから、ここらで決意を固めることが、芸術家である生きがいなんだと思うようになったんです」

 19歳にして天皇陛下バンザイという趣旨の遺書を書いたし、それが今も生きていると語って「遺書は何通もかけないから死ぬとき、もう遺書を書く必要はない」「戦後は余生」と語った。「チンドン屋ということになりませんか」と古林が盾の会を批判すると「あなたにはっきり言っておきます。いまにわかります。そうでないということが」と答えた。

 古林が退かず「悪用しようとする連中が心配」と重ねると、三島は「敵は政府、自民党、戦後体制の全部」「連中の手にはぜったい乗りません。いまに見ていてください。ぼくがどういうことをやるか」と大笑いした。古林が感覚のもっと鋭い人なら何か気づいたかもしれないが、彼はこともなげに美学や小説の話題に移った。

 狂おしい真夏の炎天と敗戦を境に、山本常朝の「葉隠」を心のよりどころにして戦後を歩み始めた三島由紀夫。日記風に描いた評論『小説家の休暇』の最後の日付、昭和30年(1955年)8月4日の時点では「混乱の極限的な坩堝の中から日本文化の未来、世界精神の試験的なモデルが作られつつある」とまだまだ期待をよせていた。

 この翌年に最高傑作とされる『金閣寺』の連載が開始され、小説、エッセー、評論、戯曲など超人的な作家活動を繰り広げながらボディービルを始め、剣道にも本格的に打ち込む。ギリシ旅行に出かけた4年前から日光浴を始め、戦前の入隊検査で誤診された青白い体は日焼けした逞しい体に変貌しつつあった。

 バーベルで筋肉を鍛え続けて14年、「盾の会」の軍服に身を固めた三島由紀夫は、昭和45年(1970年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、バルコニーから演説する衝撃の決起を起こす。

・縦の会会員とともに市ヶ谷駐屯地へ

 その日、三島、森田必勝(25歳)ら盾の会の一行5人は、東部方面総監部の益田兼利総監を表敬訪問することになっており、正午少し前、市ヶ谷駐屯地の正門をフリーパスで通過した。旧日本軍の大本営陸軍部だった東部方面総監部のバルコニーの下の玄関から総監室へ丁寧に案内された。

 話題が持参の日本刀になり、総監にそれを見てもらうのが行動開始の合図で、計画通り、総監を手拭いでさるぐつわし、ロープで後ろ手に縛った。間もなく自衛官らが異変に気付きバリケードのドアをこじ開け突入してきた。三島は太刀を振るい3人を押し返し、代わって突入してきた幕僚ら7人も乱闘の末、退散させた。剣道5段の三島は深手を負わせない太刀遣いだったという。

 総監の安全を考えて退散した幕僚らは窓を割って三島を説得しようとしたが、三島は「この要求をのめば総監の命はたすける」と、自衛官を集合させて演説させるとの要求書を投げた。

 こうして白手袋、日の丸の白鉢巻をした三島が、バルコニーで演説するあのニュース映像になる。荒唐無稽なクーデターは混乱の中で終わり、三島は益田総監に丁寧に詫びた後、45歳の生涯を閉じる。ヤアと気合を発し両手で短刀を左わき腹に突き立て右一文字に割腹。途中、「まだまだ」と介錯を待たせた後、「よし」と森田の介錯を受けた。

「武士道は死に狂いなり」とする行動哲学の葉隠は、「芸能」をお国を背負って生きる覚悟からほど遠い「何の益(やく)にも立たぬもの」と軽蔑する。その言葉のせいかどうか、三島は有り余る才能と芸術に挑戦する妥協なき精神力、驚くべき執筆量の作品を残しながら、その全てを排せつ物と一蹴するかのように血みどろの終末を選んだ。

・決起へ加速した5年の坂道

 一つはやはり19歳の遺書に遡る。昭和36年(1961年)、「二・二六事件」を題材に短編小説「憂国」を書き、4年後に自ら監督、主演して映画化した。反乱に加わった親友を勅命で討伐する立場になった中尉が悩んだ末に妻と心中する物語だ。三島が演じた中尉の切腹シーンは凄まじく、白無垢を血で染め、死に化粧へ歩む妻の妖艶さが世に衝撃を与えた。

 翌昭和41年、高度成長が本格化する元日、日の丸を飾る家がまばらになった風景を嘆き、この年6月には二・二六事件で銃殺刑になった青年将校と特攻隊の兵士が霊媒師によって語る『英霊の声』を発表。神として兵に死を命じながら天皇はなぜ人間となってしまわれたのかと恨む様を能の表現で描いた。

 8月下旬には奈良・桜井の三輪山で滝に打たれ、その足で学習院時代の国語教師、清水文雄を広島に訪ねる。最初の小説『花ざかりの森』を読んですぐ天才を認めてくれたペンネームの名付け親である。恩師の案内で江田島へ向かい特攻隊員の遺書を読み、恩師に見送られて熊本へと旅を続ける。

 訪ねたのは蓮田善明(はすだぜんめい)の未亡人である。蓮田は、天才の出現を一緒に喜んでくれた清水の親友である。文武両道のこの詩人を三島は深く慕い、常朝に対するように私淑した。しかし、蓮田はマレー半島で終戦を迎えた直後、天皇を愚弄した連隊長を射殺して自決した。昭和18年の出征の間際に「日本のあとのことをおまえに託した」と言い遺した蓮田の言葉が三島の胸中深く刻まれていた。

 昭和42年から翌年にかけては自衛隊へ体験入隊したり、祖国防衛隊として「盾の会」を結成したりした。昭和44年(1969年)2月11日には、佐賀の乱で斬首された江藤新平のひ孫(23歳)が工事現場でひっそり焼身自殺した。建国記念日の国会議事堂前に置かれた遺書には、混沌の世に覚醒を促す「大自然に沿う無心」「神命により不生不滅の生を得む」とあった。三島の胸を揺さぶったと思われる死であった。

 もう一つは、『太陽と鉄』である。バーベルの鍛錬だけでなく、自衛隊の訓練と駈足で体を鍛え続けた。その逞しい肉体が彼の思考、精神にどのような作用を及ぼしたかが、その長いエッセーで著されている。その文章は極めて難解で、自我を家屋とするなら肉体はそれをとりまく果樹園のようなもので「たえざる日光と、鉄の鋤鍬が、私の農耕のもっとも大切な二つの要素になった」と書き始めている。

「書物によっても、知的分析によっても、つかまえようのないこの力の純粋感覚に、私が言葉の真の反対物を見出したのは当然であろう。すなわちそれは徐々に私の思想の核になった」「肉体的勇気とは、死を理解して味わおうとする嗜欲の源」「文武両道とは散る花と散らぬ花を兼ねること…死の原理の最終的な破綻と、生の原理の最終的な破綻とを、一身に擁して自若としていなくてはならぬ」

 夭逝を夢見ていた若き三島に死はまだ浪漫であったが、無縁であった強靭な肉体を持つに至った三島は、つまり生から死へ跳躍する力を備えたということなのだろうか。「あれ(著作の文章)を本当にわかってくれた人は、僕がやることを全部わかってくれると信じます」「僕が死んで50年か100年たつと、ああ、分かったという人がいるかもしれない。それで構わない」と『太陽と鉄』の英訳をしたジョン・ベスター氏に対談で語っている。

 死の1週間前、三島は論敵を相手に楽しそうに会話をしたが、絶対者の秩序を欠く自由主義の弊害、とくにフリー・セックスの世になって、近いうちに一夫一婦制が崩壊するだろうと心配した。『宴のあと』裁判で体験した裁判、司法については「実にマヤカシモノ」と大きな失望を隠さなかった。

 黒船や敗戦がなければ維新や農地改革ができなかったという改革への内発性を持てない国情を憂え、天照大神まで遡る日本の伝統や歌舞伎の行く末を心配し「やっぱりどこも出口がないなァ」と慨嘆した。「そんな意気地のないことでは困りますね」と思わずいった古林が「あれッ、おかしいな。あなたを激励するつもりなんか全然なかったのに…」という言葉をもらして深夜の対談は終わっている。

 コロナウイルスが国の在り方や人の生活の仕方を根底から問い直している今、壮絶な三島の死は、国家とは、人生とは、人の命と死とは、と同じように鋭く問い続ける。三島が愛した「源氏物語」と同じように三島文学とその死は長く命脈を保ち、人々を魅了し続けるだろう。扇を撃ち落とした場面だけで那須与一は千年、生き続けている、と三島が書いたことも合わせて想起させられる(写真は、自然農の初夏、命の一コマ。撮影・西松宏)。

 

 

 

古藤「自然農10年」(17) 命と死③

死ぬことは、生きることと見つけたり

田植えは畔の手入れから

 レイテ島で日本の将兵たちが累々たる屍となって折り重なっていたころ、それらの戦場に赴くため平岡公威、後の三島由紀夫は学徒出陣を前に遺書をしたためていた。美学とも称される文学を打ち立てる才能は幼少期、暗い書斎に幽閉されて感性のみを研ぎ澄ましていた。後年、その三島が強靭な肉体を持つ兵士としてついに斬り死にして果てる「奇怪な文豪」の生涯へ私を誘ったのは『葉隠』であった。

 私が住む福岡の隣県、佐賀の旧鍋島藩士、山本常朝が言い残した言葉を後輩藩士が集録した本である。『レイテ戦記』を読み死の恐怖がまだ胸に震えているころふと買ったのが三島由紀夫の『葉隠入門』だった。そして常朝の言葉よりもその言葉を生涯の友とした三島由紀夫という精神が次第に私を捉えていった。何より命を大事にする自然農と最も対極にあるようでいて、そのひたむきで命を燃やし尽くす人生は、どこか自然農が求める生き方に通じるものがある様に思われてならなかったからである。

 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」。常朝の言葉は、死地で迷わず死ぬ覚悟を示した象徴的なフレーズだが、それは逆説的な表現でしかない。三島はその裏にある「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり」という理念こそ「葉隠」の真の哲学だと説いていた。好きに暮らすといっても「常住死身(しにみ)」の境地で得る自由な生き方は、生やさしいものではない。葉隠の真髄を一つひとつ汲み取る『葉隠入門』の克明な解釈が、そのまま人間三島が何を善悪とし、何を文学思想の原点としたか、彼の生き方と精神へ案内する入門書にもなっていた。

 三島由紀夫は、剣道とボディービル、そして俳優、異常な人生の終わり方など私には余りに遠い存在だったが、『葉隠入門』 から思いもしない天才作家の心の真奥部へ導かれていったのである。

 三島が本書(文庫本)を上梓したのは死の3年前である。彼は山本常朝の心得を常に人生の手本とし、その書を唯一の友として机近くに置いていたと告白している。「わたしの文学の母体、永遠の活力の供給源だった」とまで書いている。

・三島由紀夫と『葉隠』

 大正14年生まれの三島は昭和の年数がそのまま満年齢になる。レイテ戦の時は19歳、学習院高等科を首席で卒業、天皇隣席の卒業式で総代として銀時計をもらい、父の希望で心ならず東大法科へ進む。徴兵検査は虚弱な体ながら乙種合格。戦況が激化する昭和20年2月、学徒動員で赤紙が届き死を覚悟した。遺髪を添えた遺書を残し入隊地へ向かうが、髪振り乱して泣く母から風邪をもらい気管支炎で高熱を発した。入隊検査でそれが結核による肺浸潤と誤診され、即日帰郷となった。

 彼の入るはずだった部隊はフィリピンに派遣され、ほぼ全滅した。レイテ島では島の北西海岸部へ追い詰められ日本兵が1万人近くが残っていたが、米軍も去った後にとどめを刺したのは島民のゲリラ部隊であった。生き残り兵たちは終戦まで密林の中をさまよい、段々と消耗し消えていった。

 母の愛か、神のわざか、三島を死地から救い、彼に膨大な文学作品を生ませることになった誤診。その時、父親はその幸運に歓喜し逃げ帰るように息子の手を引いたが、息子三島には、彼が死に場所を選ぶ伏線の一つとして長く残り続けたように思う。

 そして敗戦、三島が愛してやまなかった日本の伝統と文化は一夜にして全否定され、復興し泰平ムードになる新日本が彼には荒廃する闇の様に見えた。マッカーサーに会った天皇がなぜ衣冠束帯でなかったかと三島は心から憤った。天皇はなぜ人間になったかと嘆いたのである。戦争中にもてはやされた「葉隠」も同様な本として「荒縄でひっくくられて、ごみためへ捨てられた」。しかし、逆説の書は闇の中でかえって光を放ちだし、三島は行動の指針としてますます大事にした。

 恋愛では「忍ぶ恋の一語に尽く」と教える。一生打ち明けないなら最も気高いとして恋愛自由の世とはまさに反対の極地であるが、「葉隠」を鏡とするとき爽やかな青空を見るようにその言葉が光りだして力を与えると三島は言う。「葉隠は永遠の活力の供給源」とまで言ったが、その言葉に続いて「すなわちその容赦ない鞭により、氷のような美しさによって」と続けている。

・今を透視していた三島由紀夫

 自然農は時に自分より他を先にする思いやりを大切にするが、常朝の人への配慮は驚くべき繊細さだ。意見を相手が受け入れねば恥をかかせる悪口、自分のうっぷん晴らしと切り捨てる。その気配りは自然農の師、川口由一さんも真っ青になると思わせるほどである。

 相手が聞き入れてくれそうかを探り、まずはじっこんになって平素から信用されるようにし、趣味で誘うなど様々に工夫し、時節を考え文通や雑談の終わりに自分の欠点、悪事を言いながら、直接言わずとも相手が思い当たるようにするか、相手の長所を誉めあげてその気に乗せるか、要は「渇く時水を飲む様に請合わせて、疵を治すが意見なり」なのである。

 「葉隠」が嘆く世相は元禄の世だが、若侍が寄れば「金銀の噂、損得の考え、内証事の話、衣装の吟味、色欲の雑談ばかり」と例をあげ「是非なき風俗になり行き候」と侍の社用族化や「すりの目遣い」になって理想のかげが薄れる青年のひとみを嘆く常朝が描かれる。

 三島はその文化や歴史、伝統を最も大事なものとした。マルクスの「共産党宣言」は一切の社会秩序を強制的に転覆して目的を達成するとした点において、日本の文化と歴史、伝統の破壊者、生涯の敵としたのである。同時にマッカーサー進駐軍の強制が去った後も自己保身と偽善の政治が続き、経済的な繁栄のかげで根本を失った国民精神への憂いを深めた。そして、国の根幹となるはずの憲法が現実に違背することを嘘とごまかしですり抜けた日本国家の欺瞞を何よりも憎んだ。

「今に日本はとんでもない国になるよ、って言ってたんですね」。26歳の三島に出会って長く親交があった三輪明宏さんの記憶がサイトに紹介されている。「親が子を殺し、子が親を殺し、行きずりの人を刺し殺したり、そういう時代になるよって、いってたわけじゃないですか。そのとおりになりましたよね。」

 私には奇怪としか思えなかったあの「決起」の前に三島が三輪さんに残した言葉だった。それは50年たった今を悲しいほど正確に言い当てている。

 

 

 

古藤「自然農10年」(16)命と死②

忘れられつつある「レイテ島」の悲劇

 大岡昇平の『レイテ戦記』では、太平洋戦争の末期、フィリピン南部のレイテ島で日米両軍が激しく戦った戦場におけるおびただしい死が克明に描かれている。小説とされるが、大岡は日米両国に残された戦争の記録や軍人の日誌など膨大な資料を渉猟し、生還した元兵士の聞き取りもした。執念とも思える緻密さで資料を突き合わせ、戦争を生きた日本人の真実に迫った他に類を見ない記録だ。

 太平洋戦争の帰趨を決めたレイテ島の戦いは、昭和19年(1944年)10月20日、水平線を黒く埋め尽くした米艦からの絨毯爆撃で始まる。それから5か月余、静岡県より少し大きい島で日本軍8万4千人が、最終的には20万人を超えたアメリカ軍と戦い、極限の恐怖と過酷な肉薄戦の果てに悲惨な死を重ねた。生還できたのは2500人、実に97%が死を強制され、武器、食糧も尽きる飢えの中で命を落とした。

 戦艦「武蔵」が沈没し、日本海軍の命運が尽きる海戦もレイテ湾周辺で始まり、若者が爆弾を抱えて敵艦に体当たりした特攻もこの戦いから開始された。最後の「武蔵」艦上では人の四肢が飛び鉄板に肉片と血が張り付いた。子供っぽい少年兵が裂けた腹から出た腸をふるえる両手で戻そうともがく姿も紹介されている。20本の魚雷と17個の爆弾を受けた不沈戦艦は多くの命を船底に抱いて艦首から沈んだ。千人余の死であった。

 この惨状がなぜレイテ島周辺に集中したか。ここを日本国家が敗色を挽回する決戦と決めたからだ。南方軍の山下奉文司令官が反対するのも押し切って大本営が命令を下した。そのレイテ島に上陸したアメリカ軍は初日で6万人の兵と10万7千トンの武器、弾薬、物資を揚陸したが、待ち構えた日本軍は2万人余りでしかなかった。島の裏側で泥縄式の補給が続いたが、補給船のほとんどは潜水艦と空からの攻撃にさらされ、上陸できたのは6万人余、大事な武器、糧食はわずかだけに終わる。

 敵の自動小銃は1分間に400発発射でき、日本兵の三八銃は15発だった。目を覆いたくなる圧倒的な戦力、物量の差で苦戦と後退を続けながらも、将兵は地形と雨期の雨も味方にしてよく戦う。しかし、日が経つにつれ10人、20人、200、300と死体の数は増える。首を飛ばされ、手足を失う、あっけない死の連続。『レイテ戦記』では、その死が1兵卒の知りえない日米両国の戦略と政治、そこに軍人の思惑もからむ大きな構図として描かれている。

・私を突然襲った死の恐怖

 読み進んで人の死にほとんど無感覚になっている時に、突然、その死の恐怖が襲ってきた。圧倒的な力で迫ってくるM8戦車を阻止するため、自分一人が入る蛸壺を掘って、作動後4秒で爆発する手榴弾を手に敵兵の接近を待つ兵士。それは後退した仲間のために一人死を待つ姿であった。多くは戦闘にも慣れていない若い兵士に命じられた。その絶対的孤独の心情を思い、身を貫く恐怖にしばらく本を置いたまま動くことが出来なかった。

 その死によって戦果を上げることもあったが、ほとんどが蛸壺に入ったまま火炎放射器で焼かれたり、銃弾を浴びたりして死んだ。彼らの死は仲間のため祖国のためであったが、これは、人であれ何であれ、命が自由に生きることを至上のものとする自然農とは究極的に相いれない姿である。大岡昇平は戦後20年以上たった民主主義の日本でこの戦場の有様を1,000ページ、百万字に及ぶ言葉で世に出した。

 大岡昇平もまた「大本営」の目詰まりを克明に描いている。当時、海軍は台湾沖航空戦のあやふやな視認から戦果を誤認して誇大妄想の大戦果を天皇に奏上、発表した。その大戦果が実は微々たるもので味方航空機の損害は甚大と気付いた大本営海軍部は驚くべきことにその事実を陸軍に伝達しなかった。虚報の戦果に勢い込んだ陸軍指導部はルソン島決戦の既定方針を覆し、それに反対する現地判断を押し切ってレイテ決戦へ舵を切ったのである。

 この泥縄の作戦変更は輸送、護衛、情報を軽視してきた日本軍の弱点をさらけ出すことになった。兵員はぎりぎり送り込んだものの丸腰同然で、しかも飢える兵士たちに投降、撤退を許さなかった。白兵戦と突撃を繰り返す明治以来の無反省で非理性的な戦略、戦術――。そのつけは一線の兵士たちに情け容赦なく降りかかった。私を恐怖させた蛸壺のあの兵士は肉弾となって戦車に立ち向かい、傷病兵は自爆するほかなくただ放置された。

 こうした犯罪的な不都合、作戦の失敗が記載されたはずの軍事記録は、敗戦直前にことごとく焼却され、仲が悪かった陸海軍が戦後は一転協力して多くの事実をひた隠しにした。死線を超えた軍隊仲間の親睦とされる戦友会も、上官の威圧で兵卒による真相の暴露を封じるのが真の目的だったといわれる。不合理を最も知る戦死者は何も語れず、生還した多くの軍人、将官の話には保身や自慢による粉飾、虚偽が多く、このことを知った大岡の戦記取材はますます執念がこもった。

 彼自身はレイテ島より北、ルソン島の西南に接するミンドロ島にわずか数十人の部隊で駐屯する35歳の補充兵だった。アメリカ軍が上陸してきたときマラリアの発熱で動けず敵前に一人放置されたために俘虜となって生き残り、彼を残して山へ退却した仲間は誰も生還できなかった。彼は俘虜収容所のあるレイテ島へ送られ、レイテの激戦がマッカーサーの予定を狂わせ、ミンドロ島は素通り同然となって、結果的に彼が救われたことを知った。

 鎮魂の戦記は、敗戦も遠くなった昭和42年(1967年)1月から2年半、『中央公論』で連載された。連載中に戦跡慰問をした大岡は「もうだれも戦争なんてやる気はないだろうと思ってきたが、甘かった。おれたちを戦争に駆り出した奴と、同じひと握りの悪党どもが、うそとペテンでおれたちの子どもに(戦争を)やらせようとしている」と地下に眠る戦友に語りかけた。第2次安保闘争で騒然となった時期、BC級戦犯の靖国合祀と政治家の参拝など戦前回帰の動きが目立ち始めたころで、執筆の動機には怒りが込められていた。

自然農 休憩のひととき

・愚劣さと非情を隠蔽する体質

 新型コロナで国民の外出がままならぬ生活を強いられている5月3日の憲法記念日、安倍首相が改憲派のインターネット集会にビデオメッセージを送り、「緊急事態で国家や国民がどんな役割を果たすかは極めて重く大切な課題であるか改めて認識した」と語り、憲法に緊急事態条項を創設する意欲を表明した。感染から国民を守る対策の稚拙さをアベノマスクと嘲笑されながら、彼の関心はもっぱら国家統治の容易さと、国民を従わせ協力させる権限に向いていたようである。

 2次にわたり在職8年を超す安倍内閣は「戦争ができる国にする」ことを標榜してはばからない。まず教育に国の関与を強める教育基本法を改定した。防衛、警察などの情報に強いガードをかける特定秘密保護法、歴代の自民党政権も認めてこなかった集団的自衛権の行使を容認する安全保障法案を、それも憲法を勝手に解釈する欺瞞で成立させた。情報の軽視どころか隠蔽、改竄の体質は戦前と少しも変わらない。これまで取材で自由に出入りできた中央官庁のオフィスも、いまカギがかけら記者は締め出された。

 その政権下で急速に進んだ格差社会。自己責任で切り捨てられる貧困層の若者を代弁するフリーライターの赤木智弘氏は、新型コロナに怯える「恐怖の平等」が社会の平等を実現するきっかけになるよう願うという一文を新聞に寄せた(2020年5月1日付毎日紙)。彼は「丸山眞男をひっぱたきたい 希望は戦争」という刺激的な記事(2007年「論座」1月号)で批判と注目を浴びた。絶望的な分断と閉塞を解消するのはもはや「国民が平等に苦しむ戦争しかない」と今でも考えている。

 しかし、それが如何に戦争の現実から遠い誤りであるか。大岡は国民の命が軍人、政治家の野心や思惑でもてあそばれるのを日米双方から描いている。上層司令官は、俘虜になっても、敵前逃亡同然の転身をしても、大目に見られてかばい合う日本軍の体質。米軍側でも、大統領選への出馬を胸に作戦スケジュールを進めるマッカーサーと最初の上陸用舟艇で日本兵の銃弾に倒れる黒人兵の対比として描かれている。

 ビンタを張った方も張られた方も特権階級とは無縁で、死の最前線を担わされたのは農民や庶民である。「軍隊とは愚劣で非情な行動が行われ、それを隠匿する組織である」ことを忘れてはならない、と大岡昇平は遺言の様に書き残している。

 戦争への道の大きな曲がり角になるかもしれない安保関連法が未明の国会で可決、成立した2015年9月19日、日本人と戦争を見つめてきた作家の半藤一利氏は、特攻を作戦化し命じた指揮官が戦後のうのうと生きた構造よりも、戦争が美談や物語にされる風潮の方をより憂え、戦争体験者がいなくなって戦争、軍隊の怖さを意識しなくなった危機感を新聞に語っている。

 未来の原因は未来にあるわけではなく、過去に積み重ねられた事実が原因となって未来が現れる。新型コロナウイルス騒ぎの今も日々過去になってその体験の積み重ねから新しい生活や社会の在り方が探られるのだろうが、死の恐怖だけでなく私たちは戦争の悲惨さを間近に覗くことができる『レイテ戦記』を大事な宝物として抱えてこの国を歩まなければならないのではないだろうか。

 

古藤「自然農10年」(14)

季節はひたすら廻り、田植えの準備

 サクラが去って目を洗うような若葉色が山を染め、棚田にそそぐ陽光はすでに初夏の勢い。私の棚田はコロナ騒ぎをよそに季節が廻り、田植えの本格準備が始まった。

 まずは苗を育てる苗床づくり。私たちの暦では4月20日から1週間が適期で、場所決めから作業が始まる。毎年、所を変えて田んぼの一角を定め、モグラが入らぬよう周囲に溝を掘る。今年は日当たりのよい上段の畝に1.5メートル幅、長さ10メートルを仕切った。撒くのは昨年収穫したモミ米。稲刈りの前に種にする稲を先に刈って保存していた。大きい稲や小さいのは避けて中くらいの稲束を種籾にする。中くらいの方が安定した収穫になると教えられた。

 耕さないので年寄りにも楽な自然農だが、苗床づくりは溝を掘り表土を剥いで軽く耕すなど重労働。苗が元気に育つ環境にするためで力に加え辛抱もいる。手のひらのモミを指の間からこぼしながら撒くが、均等にばらまけるわけはない。後でひと粒ずつ動かして間隔を出来るだけ均等にする。

 溝を掘った土をモミにかぶせるのも力仕事。モミが土になじむよう手でしっかり押さえた後、乾燥しないよう草を厚くかぶせて完成だ。1か月半で苗が育ち田植えができる。草を刈ったり運んだり1日がかりの作業は農閑期でなまった体にこたえる。妻と仲間に手伝ってもらったが10メートルに4日かかった。

最初に溝を掘って苗床を囲う(左)、モミをまき終わって土をかぶせる

 作業が終わって夕方の風呂が一段と有難い。足腰を思い切り伸ばすと寿命が延びる心地になる。苗床作業のお陰か、このごろ気になりだした耳鳴りも消えていた。世間の騒ぎも無縁に見える自然農の暮らしだが、コロナの影響が少しずつ迫っている。

 人口9万6千人余の糸島市で感染者数はいま20人、うち2人が亡くなった(4月27日現在)。微々たる数字ではあるが、マスク姿の糸島市長が市のホームページに登場して連休中は海や山への観光もやめてほしいと近隣に訴えた。図書館や公共施設はもう2か月近く閉じたまま、仲間内の飲み会、反原発グループの集まりもすべて中止。炭焼き仲間は、焼きあがった窯からの取り出し作業を自粛して、窯が密閉されたまま今シーズンを終わろうとしている。

・自給自足の生活に不安はないが……

 前回、北海道の鈴木知事が果敢な対応でウイルス感染者を抑え込んだ成果を取り上げたが、その北海道で感染者数がまた増加し始めた。緊急事態宣言と外出自粛で収まったかに見えた感染も気が緩んで人が動き出せばぶり返して、前にも増す感染者数になる。北海道は今、当面の抑え込みに懸命な東京や大阪の今後の困難を先取りしているのかもしれない。新型コロナウイルスとの戦いは長期戦の様相を深めている。

 当面の対策に追われる国や自治体がこの先、コロナ禍の耐乏が半年、1年と続いた時にどうするのか。5月の連休明けまでを区切った緊急事態宣言は延長の方向だが、休校や外出自粛の後をどうつなぐのか長期戦略を問われ始めた。正体が見えないウイルス相手とは言え先が見えない状況が続けば、感染者が差別を受ける世情がいっそうとげとげしいものになりかねない。

 それでなくとも打つ手なく国は数十年に及ぶ人口減少の中にある。百兆円を超える規模に膨らんだ国家財政の3分の1は借金で賄う赤字体質。この30年で借金は1,000兆円を突破した。いろいろ理屈をつけて問題がないと説明しているが、抑制的な欧米主要国とまるでかけ離れた財政破綻は決して健康体と言えない。

 とくに安倍政権は高齢化が進み膨らむ医療費を減らそうと保健所を減らし、公立病院の赤字対策に躍起だった。患者の入院日数を減らして回転率を上げるよう尻を叩き、昨年9月には再編・統合の対象にする400余の公立病院名を一方的に公表、今年1月には都道府県に実行を促す通知をした途端にこのコロナ禍だ。再編作業はいま先送り状態にある。

 都市の過密と限界集落に象徴される地方の疲弊、マスク騒動で露呈された外国の安いコストに頼る輸入国家の弱点。国民の命に直結する食糧自給率も4割の低い水準のまま。いわば様々な既往症を抱えて新型コロナに襲われているのだ。まさに感染者の中で肺炎が重症化するケースと同じではないか。

 悪い時に悪いことが重なるたとえは多い。新型ウイルスに重なって食糧危機が起きたらどうなるか、同じ時期に災害や原発事故に襲われることだってあり得るのだ。豊かさを謳歌してきた都市生活の衣食住はどれ一つをとっても安心とは程遠い。自然農で自給自足をする私の暮らしには、それらの不安が一つもない。今こそ老いも若きも山野に戻り自然農を始めてみてはいかがか、と声を大にしたい思いだが、コロナとの共存を主張しながら私も難しい立場に立たされている。

 自然の恵みをもらってウイルスに負けない自信があるが、妻はそうではない。大変怖がっている。普通の風邪をこじらせて2、3年前に肺炎で入院し苦しんだ経験があるから、コロナウイルスに感染すれば必ず死ぬと決め込んでいる。同居の私が軽率に動いて保菌者になるわけにもいかない立場なのだ。新型コロナウイルスはなかなか一筋縄ではいかない。自然農に励みながらもうしばらくコロナ禍を考えてみたい。

 

 

 

古藤「自然農10年」(13)

政治家の質もあぶりだす?新型コロナウイルス

 父子3人会が新型コロナウイルスでお流れになって私ひとりが札幌へ出かけた3月6日(2020年)、まさか世界中がこんな様相を呈するとは爪の先ほども想像していなかった。地球規模の感染拡大は経済への打撃にとどまらず国際政治、社会生活にまで激変をもたらし人類史の転換点、これは戦争だとする評論さえ出る事態である。

 首相による全国小中高の休校要請や北海道知事による緊急事態宣言が出される中、これが原因で一人旅になったと恨みがましく書いたが、不明を恥じて反省している。鈴木直道知事の素早い政治判断で2月末から週末の外出を控えるよう全道民に発したメッセージが感染抑制にいかに絶大な力を発揮したか、経過を見れば明らかだ。安倍首相が遅まきながら法に基づく緊急事態宣言を出した4月7日、感染者数1位だった北海道が8都府県より少ない感染者数に落ち着いていた。感染者が急増して首相から緊急事態の対象とされた首都圏、大阪、福岡の7都府県に比べ鎮静化ぶりは際立っている。

 埼玉出身で東京都の職員だった鈴木知事は、都の猪瀬直樹副知事(当時)の声がかりで炭鉱の火が消えて赤字財政に苦しむ夕張市に派遣された。これが北海道との初めての縁だったそうだ。その後、都を退職して2011年4月、自公推薦の候補を破って夕張市長になり、その2期8年の実績で2019年4月、参院議員へくら替えした高橋前知事の後継をめざして自公の推薦を希望、野党統一候補を破って北海道知事となった。

 母子家庭、高卒で都庁入りした後、夜学で法政大を卒業、平明な物言いも合わさって道民の信頼感は厚いという。都の衛生研究所(後の健康安全研究センター)など保健政策、疾病対策が仕事だったそうだから、新型コロナウイルスに襲われた北海道にとっては知識と決断力を持った頼もしいリーダーといえる。

 安倍首相は小中高の休校要請こそ指導力を見せたものの、これも北海道がいち早く公立1665校で1週間の臨時休校に踏み切ったのを受けての決断。その後は、感染対策や窮状の医療支援に照準を合わせた有効な政策は出せないまま経済対策、休業補償で腰が定まらぬ迷走。各方面からの不満が溜まって、その付け払いを迫られた様な国民1人10万円という究極のばらまき政策だ。税金を使って有効な手を打ってこそ政治ではないか。これでは政権が役割を果たせず、ばんざい状態に等しい。

 北海道が感染者数39人で果敢に動き出した時、イタリアの感染者数は300人を超え死者は12人だった。3月10日に全土で外出禁止とされたが対応の遅れから感染者は4月16日現在、16万5155人で死者2万1645人(米ジョンズ・ホプキンス大集計)。アメリカは同じ2月末、死者はゼロ、カリフォルニア州では感染経路の不明な患者が初めて確認されたが、トランプ大統領はただ漫然と楽観論のツイート続けワシントン・ポスト紙が「脅威を小さく見せようとしている」とかみついた。

 アメリカの感染者数はいま63万9664人、死者は3万人を超え(同集計)ともに世界最大である。そんな中、トランプ大統領は自らの責任を棚上げしてもっぱらWHO(世界保健機関)が中国寄りだと攻撃し拠出金を止めると脅している。

 新型コロナウイルスは現代生活が抱える様々な弱点を攻撃する一方で政治家の質まであぶりだしている。治療法はなくウイルスの振る舞いさえ掴めないのだから対策が手探りになるのは仕方がないが、各国が発表する数字でさえ実態を正確に反映しているのか疑念も拭えない。

 騒ぎが収まったかに見える中国だが昨年末から何が起き、どんな対策が取られたのか情報はなお限られている。日本でも肺炎で死亡する高齢者がコロナ判定をしないまま感染を防ぐ名目で家族の対面も許されず火葬されている。今後数年にわたって死因別の統計を見ないと感染死の実態は分からない可能性もあるのだ。

・ウイルスは生命にとって不可避

 生物学者の福岡伸一さんが新型コロナウイルスの振る舞いについて4月3日付けの朝日新聞に興味深い寄稿をしている。見えないテロリストの様に恐れられているが、ウイルス表面にあるたんぱく質が人の細胞膜のたんぱく質とまるで呼び合うように融合する。それは宿主である人の細胞が極めて積極的にウイルスを招き入れているかのような挙動で、双方のたんぱく質がもともと友だち関係にあったと解釈できるという。

 構造は原始的だが、進化の過程からいえばウイルスは高等生物の一部がいわば家出をしてどこかさ迷った後、また宿主へ帰りやさしく迎えられている。それは親から子への垂直的な遺伝だけでなく、場合によっては種を超えて遺伝情報を水平方向へ伝達することが動的平衡を揺らして、免疫システムを改善するなど生物進化に有用だから温存されたプロセスではないかというのだ。

 また文化人類学者の上田紀行さんは中屋敷均著『ウイルスは生きている』を取り上げ(3月17日付の毎日夕刊)、哺乳類の誕生に欠かせない胎盤は、母親と胎児の血液型が異なっても共存できるという特殊な膜のおかげで、その膜で重要な役割を果たすシンシチンというたんぱく質はウイルス由来の遺伝子によることを紹介している。ウイルスに感染していなければ哺乳類も人類も生まれなかった、そう解釈できるというのだ。

 ウイルスは病気や死をもたらすけれども、私たち生命の不可避的な一部であるから根絶したり絶滅したりすることは出来ないと、福岡さんは結論づけている。

 自然をありのままに受け入れる自然農は虫や草と同じようにウイルスも敵とせず共存する相手と考える。家と田畑を往復する日常だからマスクは要らないし、奈良の漢方学習会は外出の自粛要請の中で開かれている。

 ただ、スーパーなど買い物へ出かける時はマスクをする。しないと白い目でにらまれるからだ。

 奈良漢方学習会の帰りの3月31日早朝、伊勢神宮に参拝したが、参道はほとんど人気がなく、私たち4人で広い参道を独り占め状態だった(写真)。

古藤「自然農10年」(12)

不公平ただす頂門の一針か 続ウイルス考

3月7日の札幌市中心市街の道

 世界の富豪2153人が2019年に独占した資産は、最貧困層46億人の持つ資産を上回った(国際非政府組織「オックスファム」)。これほどの不公平が史上あったのかどうか私は知らない。しかし、新型コロナウイルスはその不遜な不公平を刺す頂門の一針の様に世界経済と株価に冷水を浴びせている。北海道の一人旅から無事帰宅できた私は、なお周囲を死に至らしめる可能性を持つ保菌容疑者として自宅に閉塞させられている。そこから見る混乱の世界風景は、ヒトや生き物が住む地球を、より生きやすい環境にするための自浄作用の一つのようにも思える。広がり続ける新型ウイルス騒ぎを棚田からながめ、不遜を恐れず再び考えてみたい。

 自然農は自然への負荷を少なくしようとつとめる。肥料、農薬を使わず、耕さず虫や草を敵とせず、機械、ガソリンの使用を最小にする。鍬と手鎌で育てる米や野菜は大量生産など望むべくもないが、世の人たちがほとんど手に出来ない豊かさを得ている。それが収穫する米や野菜の健康な生命力である。

・「普通の田んぼとは違うとたい」

 私に自然農を教えてくれた故松尾靖子さんの実父、家宇治守さんは私が広い棚田で自然農を始めるとき畝づくり、水深を一定にする土の均し方、水路づくり、水のため方まで親身に教えてくれた。戦前、戦後を小作農で苦労したお百姓は最初、娘の自然農を小馬鹿にした。しかし、娘の後を追うように亡くなったころは自然農を誰より信奉する人に変わっていた。「もっと早う知っとけば良かった」、「(自然農するのに)忙しゅうして死ぬる暇がなか」と周囲を笑わせていた。ある時、私の棚田をしげしげとながめ「美しか。葉が光っとるやろうが。普通の田んぼとは違うとたい」と感に堪えたように言った。

 その時はよく分からなかった。味や香りの違いは認識できても、姿や色の違いが分かるには少し時間がかかった。人は栄養で命をつなぐといわれるが、何より重要なのはその元気な命。放射能の様に何も見えない力だが、その命の力でしか免疫力、病気を治す抵抗力を体に取り込むことは出来ないと、いま信じて疑わない。

 利益、効率一辺倒に経済発展をひたすら目指す現代社会は決して人類を幸せにしてくれないとも思う。そのように説く川口自然農は欲望の社会の「むさぼる心」を強く否定する。いま新型コロナウイルスは、あたかもその自然農の方向を世界に強要するかのように働き、利益の追求や物、人の自由な動きにストップをかけ国際経済に激しく待ったをかける。

 また、川口自然農は、たとえ正しいと信じても、自然農に興味を持って近づいてこない人に説得、強要してはならないと戒める。自分の生き方を変えるだけでよい。後は自然に任せ、その結果を甘んじて受け入れる。自然に添い従う自然農の哲学である。

・激しく人を責めるコロナウィルス

 とはいえ、この経済、科学の急膨張と現在の繁栄はすべて人類が懸命に命をつなぎ、家族や仲間の豊かな暮らしを求めて歩いた結果でもある。サイトを主宰する矢野氏が時々とりあげるユヴァル・ノア・ハラリの人類史によれば、38億年前に生まれた細菌のような生命が気が遠くなる長い年月をかけて7万年前に噂話と陰口ができるヒトへと認知革命を成し遂げ、約1万2千年前の農業革命で豊かさへの流れを加速させた。そして500年前、それまで神の教えによって真理のすべてを知っているとした認識をなげ捨てて、ヒトがいかに無知であるかを悟った科学革命が大飛躍の原動力になったとする。

 1784年、ジェームス・ワットが蒸気機関を発明して産業革命が始まって以来、それまでとはまるで異なる速さで経済が発展し人口増は爆発した。その中で大変貌を遂げたのが人類の命を支える農業である。大量で多種多様な薬剤を使い、肥料と大型機械の導入によって農業者の数は激減したのに生産力は増大し続けた。この200年間で世界の人口が10億人から73億人に増えたそうだから、農業生産もざっと7倍に増えてたことになる。その陰で家畜は機械化、工場式生産方式で毎年、500億頭が最小のスペースの囲いと最小の生存期間で殺される。膨大に生産される食べ物は大事な生命力をしっかり持っているのか。

 ヒトにとってさらに切実なのが⑨回目で書いた大気汚染である。地球大気の99.9%以上が地球温暖化に影響しない窒素、酸素、アルゴンである事実が、ごく微量の二酸化炭素ガスが原因であるはずがないとする反対派の大きな根拠になり、トランプ米大統領もその尻馬に乗る。しかし、そのわずかな二酸化炭素ガスこそ地球の温暖化と密接につながっていることが南極の深い氷床コアに閉じ込められた気泡の分析で明らかにされたのである。

 気象学者のレイモンド・ブラッドレーが温暖化を虚偽とする勢力から非難の矢面に立たされたことは⑨回に紹介したが、彼の著書によれば、アメリカの研究チームが掘り出した南極の氷床コアで85万年間の気温の変化と二酸化炭素の変化がたどられた。その全期間を通じて二酸化炭素ガスの濃度は180ppmを下回ることがなく280ppmを超えることがなかった。地球の大気は何らかのバランス作用で平衡を保ったと考えられる。その二酸化炭酸ガスが現在、400ppmを超えている。

 ブラッドレーのさらに怖い警告は、地球大気の自然な状態では二酸化炭素ガス量が長い年月をかけ緩やかにしか変化しないという所見である。たとえ今、膨大になった化石燃料の使用をすべて止めたとしても二酸化炭素ガス量が100ppm減るのには1000年かかると彼は警告している。

 いかに猛威を振るおうと新型コロナウイルスは所詮、宿主である人間がいなくなれば自らの存続も保てない。今後も新たなウイルスがヒトを攻撃し、そのたびに人類は危機に立たされるが、緩やかに時間をかけてヒトとウイルスが共存する道しか双方の安泰はない。それが学者、専門家の一致した見解だ。進化と文明発展の速度を上げ続ける人類、その歩みを緩めるのか緩めないのか。自然農とは異なって激しくヒトを責める新型コロナウイルスはヒトにそう問いかけているように思えてならない。

 

古藤「自然農10年」(11)

新型コロナウイルスの札幌へ一人旅

 新型コロナウイルスが「フリーズ!」の警告を発したように日本中の自由な動きを止めている。そんな3月6日(2020年)、感染者が群を抜いて増える北海道へ3泊の旅へ出た。幸い異状なく帰宅したが、妻からみれば要警戒の保菌容疑者。当分は家でもマスク、仲間の集まりにも出席がはばかられる身になった。

 何故そんな旅になったか、1年前、元上司の偲ぶ会に出席して上京したことに始まる。折角の機会だと東京の次男だけでなく山形の長男にも声をかけて都内で飲んだ。わが家の男だけで飲むは初めてだが意外に盛り上がった。

 気をよくして農閑期の行事にし、今年の会場は札幌に決めた。長男は札幌生まれだが、生後間もなくの私の転勤以来、再び北海道に戻る機会がなかった。それで、雪まつりの混雑を避けて3月最初の週末、すすきの集合にした。

 そこに、この新型コロナ騒ぎだ。直前の2月27日に全国の小中高はすべて休校せよと安倍首相が要請した。その翌日、道知事は緊急事態宣言を出して3人会を予定した週末は外出を控えよと全道民に要請したのである。

 長男は周りの主婦たちから何でこの時期に札幌へ、と迫られて楽しむ気分も萎えたのか、最初に降りた。保菌者で帰れば確かに迷惑をかける。次男も後に続いて、3人会は中止になった。

 札幌の人口は190万人、北海道の感染者数が国内で一番多いとはいえ、道内あちこちに66人の散在だ(当時)。行けば即感染というわけでもなかろう、キャンセルなしの早割航空券を捨てるのも勿体ないと、一人出かけることにした。

 福岡から新千歳に向かう飛行機はがらがら。とくに年寄りは私だけだった。前日までの寒波が去ったすすきの繁華街は、汚れた雪解け道を歩く人がまばら。小樽では観光客が9割減と人力車の脇で客待ちのお兄さんがあきらめ顔だった。

 有難くも昔の仲間が集まってくれて賑やかな5人会が開けたが、わが家の男だけ3人会はこうして消し飛んだ。

3月7日、人もまばらな小樽運河

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 前回、人類がウイルスなどの微生物の世界をいかに知らないか、を書いた。集団感染が新型コロナウイルスによるものと中国が1月9日に公表したことにもふれたが、中国の感染対策が本格化するのは、人から人への感染を正式に認めて、習近平国家主席が直接、陣頭指揮に乗り出した1月20日からのようだ。

 これ以降は、延べ20億人が動くといわれる春節(旧正月)の移動に大ブレーキが掛けられた。武漢は封鎖状態になり国内外への団体旅行が禁止された。中国の感染拡大はその後も続くが、日本の観光地に大打撃を与えたこの封じ込め強硬策が結果的に日本への飛び火を救ったと思われる。

 周辺国では陸続きの北朝鮮が真っ先に動き、1月22日から中国観光客の入国をすべて拒否、台湾も同日、武漢からの団体客を受け入れないと発表した。しかし、奈良の観光バス運転手と添乗員が国内での感染者となった1月29日、日本政府はまだ動かない。運転手らは出国が禁止される前の武漢からのツアー客を乗せていた。

 WHOが1月30日、新型肺炎は世界的拡大と緊急事態宣言を出した。その翌日、日本政府は湖北省滞在者に限定して入国を拒否すると発表、渡航は抑制というゆるい要請だった。アメリカは同じ日、中国全土への渡航禁止を勧告した。

 2月13日には神奈川の80歳女性が新型肺炎で死亡したが、中国への渡航歴はなく感染経路は全く不明だった。死亡の前日にウイルス検査を受け、陽性と確認されたのは死亡後だった。渡航歴がなく肺炎患者との接触も確認されない感染者が他にも3人見つかり、水際防疫がすり抜けになっていることは明らかになった。

 結局、中国からの入国者はウイルス潜伏期間の14日間、指定場所に待機させるという事実上の入国阻止を発表したのは、国賓として4月に迎える習主席の来日を五輪以降と正式に延期した同じ3月5日だった。

 こうして見てくると、安全保障の強化を旗印に憲法改正へ前のめりの安倍政権だが、国民の命と健康に直結する防疫、感染症対策では危機管理の体制や十分な備えを用意しているとはとても思えない。首相周辺の場当たり的な判断で迷走したように思う。

 自然農の農業者としては、食の安全や食糧自給率も心配だ。欧米に比べ無いに等しい農薬、添加物の使用基準。種子は国際企業に独占され、一朝ことあればどうなることか。国民の命と健康に直結する問題として新型ウイルスと同じくらい心配している。

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 上の原稿をサイトの主宰者、矢野直明さんへ送ったら「なぜ、こうまで北海道にこだわったのかを書き加えて」とメールをいただいた。

 私は1978年(昭和53年)夏、朝日新聞西部本社から北海道支社へ交流人事で転勤した。それまで西部整理部で4年間ご一緒だったのが矢野さんである。私はきれいに忘れていたが、フェリーで旅立つのを見送った思い出があると、同じ矢野さんのメールにあった。

 読みながらジーンと胸が熱くなった。ミスばかりする拙い部員だった私を先輩たちが温かく見守ってくれていたことが改めて思い出された。

 そうだった。車に妻と幼い長女を乗せ、小倉の港からフェリーを乗り継いで札幌へ向かった。今回、原稿につける写真を何気なく小樽運河の風景にしたが、敦賀から日本海を渡って最初に足を踏み入れたのが小樽港だったのだ。

 根っからの九州人にとって初めての北海道は毎日が楽しい別天地。その札幌で長男を授かったが、わずか2年で東京整理部に転勤、3年後にそこで次男が生まれた。ろくに子育てをしていない父親が息子との3人会を札幌で、とふっと思いついたのは、はるか昔の深いご縁につながっていた。頭が下がるばかりだ。

古藤「自然農10年」(10)

2家族にドラマチックな暮らしを聞く

 天文学的数字とはもっぱら宇宙の数字と思っていたが、足元にもそのような数字の世界があるそうだ。地球に住む微生物の総数は10の30乗とされ1の後に0が30個つく。1京が10の16乗だから想像を絶する数字だ。その種類は、森林土壌1g中の存在数から控えめに見積もっても地球に10億種が存在し、そのうち人類が正確に把握している種は0.0005%に過ぎないという。(札幌・産業技術研究所 鎌形洋一氏)

 中国の武漢で始まった肺炎の集団感染が新型コロナウイルスによるものと分かった日(2020年1月9日 新華社通信)から大騒動が続いているのも未知への恐怖心がベースにあるからだろう。細菌、ウイルスなどこれらの微生物に含まれる炭素量は地球上の全植物が取り込み固定している炭素量にほぼ匹敵しているそうだから、地球の気候環境にも深くつながっている。

 川口由一さんが耕さない農業へ転換したのは、耕さない田畑の方が豊かなことに気づいたからである。彼が微生物の天文学的数字に言及したことはないし、多分そこまでは知らなかっただろう。慧眼というほかはない。気候変動を防ぐという点でも自然農は最も進んだ農法といえる。

 この1月、糸島で開かれた福岡自然農塾で自然農を実践する2家族に「その暮らしと生き方」を聞く機会があった。ともにドラマチックな人生の軌跡だった。

石黒夫妻(右側のふたり)と中村夫妻

・電気、ガス、水道のない30年

 風の盆で知られる富山市八尾の棚田と山林に囲まれた一軒家で暮らす石黒完二さん(63)は、その師を超える自然農に徹した暮らしをしている。石黒家は電気、ガス、電話も水道もない。自然農だけの暮らしを30年続ける。本やウエッブでも紹介されることの多い自然農の有名人だ。

 ランプの灯りと薪ストーブだけの調理、シャワーがない五右衛門風呂にたらいを持ち込んで洗濯する生活を妻の文子さん(61)が紹介した。息子4人と娘1人の義務教育も自給自足で、両親が先生になった。小中学校はそれを認めて無償の教材と卒業証書を届けている。

 長男は漁師、次男は大工、今年20歳の末っ子はゴルフ場勤務とみんな大好きな道に進み、自分たちより上手な社会人ぶりに両親は安心している。厳冬は雪に埋まる暮らしだったが、家族が力を合わせて自給自足を分担、いっしょに学び遊んだ日常は苦労より楽しい記憶ばかりが残ると話した。

 完二さんは長身で筋肉質、自信満々に響く声は大きく、口元には黒いひげ。妻の倍の1時間余を費やして彼が語ったのは30年たっても師から諭された「絶対界に立つ大安心の境地」になかなか立てきれないという内省の言葉ばかり、自慢話は一つもなかった。

 狭い庭の虫や自然だけを眺めて命と宇宙を描ききったとされる画家、熊谷守一のように、川口さんも自然農で野菜や人の命を見つめ続け、そこで得た宇宙観から自然の営みに寄り添って暮らす自然農の生き方を説いた。

 私たちが認識する宇宙、森羅万象は自然の力によって生じた現象であり、大事なのはその奥にあるすべての現象と命を存在させ巡らせている力、その宇宙本体、本源を体感する絶対界の境地に立つことである。そうすれば、個々別々でありながらすべての命が一体でつながり、自分がいかに大事な存在であるかを確信する安心の境地に立てる。それが川口自然農の教える生き方と宇宙観、「絶対界に立つ境地」である。

 石黒さんは大阪のサラリーマン暮しに飽き足らず、有機農業を目指して愛知に住む文子さんに巡り合い、川口さんの田畑に感動して今に至るが、川口さんの宇宙観は完二さんにとって最初は外国語の様に聞こえた。頭では分かっているが、まだまだ体で納得できているわけではないと、会場でも話した。

・阪神淡路大震災が転機

 同じ学びの会に招かれた中村康博さん(61)も元はごく普通の会社員暮らし。妻の洋子さん(53)と西宮のマンション5階に住んでいた25年前、阪神淡路大震災に遭った。もろくも一瞬に崩れた都会暮らしに2人とも環境や生き方に関心を向けるようになった。震災から4年後、洋子さんに連れられて初めて赤目を訪れた康博さんだったが、川口さんの田畑に感動して熱中したのは彼の方だった。

 黙々と取り組む姿が信頼を得たのか2年でスタッフに加えられた。体調を崩して歩けない川口さんを車で運んでいたある日、赤目自然農塾の代表を自分に代わってほしいと突然に告げられて頭が真っ白になった。7年前のことである。

 「あのー」、「ええっと」、「自然農に出会って生き方に納得と安心感を得ました」。石黒さんより時間がかかる話し方で、毎月開く1泊2日の見学会を一人で主宰する大役を何とか頑張って自分も成長したい、そのために相手の話を聞くことに心をくだいていると語った。

 長女が生まれたのを機会に会社勤めもやめ、川口さんの田畑から遠くない棚田に移住して自給自足の暮らしである。だから石黒さん同様ほとんど無収入だが、中学生になった娘も加わって昨年は家族3人の稲刈りだったと喜ぶ。

 中村さんと石黒さんの周辺には彼らを慕って自然農の仲間たちが集まってくる。地上の命と同じように地中の微生物にも寄り添う2人だが、たとえ新型ウイルスに寄りつかれたとしても、うまく共存するだけで、絶対負けることがない人たちだ、と私は妙に確信している。

 なお福岡自然農塾にはウエブもある。興味のある方はのぞいてみてください。

 

 

古藤「自然農10年」(9)

空が輝き、壱岐が見えた元日の「奇跡」

 穏やかな快晴で明けた2020年、元日はゆっくり起きて屠蘇と雑煮。賀状を買ってもいなかったのでお昼過ぎ、窓口が開いているはずの前原郵便局へ出かけた。妻の運転で唐津街道へ。その国道202号を20分余走った糸島市の中心部に本局がある。しばらく走ると妻が大声を出し始めた。空の色がとんでもなく青く澄み渡っているという。

 屠蘇酔い気分で頭を上げると、フロントガラス越しに異次元の様に透明感のある景色が広がった。遠い山の木一本一本がくっきりと見え、畑の麦、野菜、草原の緑色はしたたるように光っていた。

 糸島は西に唐津湾、東に博多湾を抱いて玄界灘に突き出た半島である。2013文字の漢字で記録された魏志倭人伝は古代から壱岐、対馬と島伝いに中国と行き来した伊都国を最多数の113文字で特筆している(森浩一『倭人伝を読みなおす』)。むかし大陸文化の玄関口だった糸島半島はいま、中国の大気汚染が海を越えていち早く流れ着く所となった。

 山は年中、霞がかかったようにぼやけ、人家も電線もない自然に囲まれた私の棚田も、年中、靄の中にある。ところが元日、その空のベールがとれ、すべてが澄み渡って間近に見えた。飛来するPM2.5は正月休みになったのか。

 郵便局は開いていなかった。興奮気味の妻は海へドライブしようという。玄界灘が見渡せる海岸へはさらに20分近くかかる。新年の北岸道路はサーフィンに興じる人や若いカップル、グループでにぎわっていた。車を止めて美しい海と水平線に目をやると、視界の西側に横たわる島影がはっきりと見え、それが壱岐であるとすぐに分かった。糸島に住み始めて10年余、こんな近さで壱岐が見えるのかと初めて知った。

 後日、福岡管区気象台に聞くと、元日の視程は30キロ、雲ほぼゼロ。糸島から35キロ以上離れた壱岐が見えた話をすると、職員は「視程は福岡市中央区からの視認です。海ではもっと見えたかもしれません」という。福岡のふだんの視程は良くて20キロ、10から15キロが多い。翌2日朝はその20キロに戻り、午後には15キロに下がったと教えてくれた。

 同じ正月、地球温暖化論はうそ、化石燃料の消費やCO2の影響というのは間違いで、地球は寒冷化に向かっているという主張に2度出会う。どちらも生真面目でよく勉強する人のメールと話だったから驚いた。県立図書館まで出かけて地球温暖化をキーワードに検索すると、国内の専門家を名乗る人たちが「騙されるな」「暴走」「狂騒曲」といったタイトルの著書で、地球温暖化のCO2原因論をさかんに非難していた。

 産業革命の前、大気中の二酸化炭素の濃度は275PPMだったが、化石燃料の使用で急カーブに上昇し、現在は400PPMを超えている。その結果、過去に例を見ない気温上昇が起こり、地球規模の異常な気候変動を引き起こしていると警告するのが地球温暖化論だ。

 しかし反対論者は、地球の大気の99%は窒素と酸素が占め、CO2の占める体積はわずか0.04%、毎年増えているといってもCO2が1~1.4PPM程度増えるに過ぎず、慌てふためく必要はないと主張している。太陽光線の強さなど他に原因がある、小氷期から回復している過程、近いうちに寒冷化する説まである。

 今年は、気候変動を抑制するため、京都議定書(1997年)を発展させたパリ協定で、参加各国が自ら定めた温室効果ガスの削減対策に取り組み始める最初の年である。しかし、トランプ米大統領は就任早々、協定の不公平を理由に離脱を表明、協定上それが可能になった昨年11月、正式に離脱を宣言した。彼も寒冷化説に乗っている。

 パリ協定は、国連の気象機関につながるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が科学的知見を集約した現状と予測報告書を根拠としている。その知見の一つを発表した米国の気象科学者レイモンド・ブラッドレー(マサチューセッツ大学特別教授)は、米国議会の族議員から届けられた詰問状をきっかけに激しい攻撃にさらされた。

 2012年に翻訳出版された同教授の『地球温暖化バッシング―懐疑論を焚きつける正体』によれば、標的になったのは「最近数十年の気温上昇は過去1000年の歴史にない」という結論だった。共和党の政治家が学者の科学知見を攻撃する異様さは、経済的痛みを伴う温室効果ガスの排出規制に対する抵抗がいかに大きいかを物語る。

 私はこの10年余、田畑で温暖化が確実に進んでいると体で感じ、増え続ける化石燃料の消費と大気汚染を心から心配もしている。棚田は世界経済や地球温暖化と否応なくつながっているのだ。しかし、温暖化対策をめぐるこうした論争の真偽や攻防に切り込んだ新聞、テレビの報道に接したことは一度もない。

 キラキラ輝いた元日から20日、亡くなった山仲間をしのぶ山登りに高校の同窓5人で出かけた。山といっても母校の校歌にでてくる福岡市東区の400メートル足らずの立花山。風もなく陽光が降りそそぐ頂上から福岡市の街並み、背振山系と博多湾が一望されたが、すべてはすっぽりともやに包まれている(写真)。わが棚田のある方向、糸島富士ともよばれる可也山もやっとわかる程度におぼろげだった。