新サイバー閑話(19) ホモ・デウス⑩

岐路に立ちながら気づかぬサピエンス

 ハラリの『ホモ・デウス』『サピエンス全史』両著は、私にとっても衝撃だった。

 私たちは人間こそかけがえのない存在だと思い、その驕りのために、自然や動物を虐待してきたし、そのふるまいのつけで地球温暖化の危機も招いているけれども、にもかかわらず「われ思うゆえに我あり」、人間としてのアイデンティティが失われる日が来るとは考えてもみなかった。そこへ、ハラリはサピエンス→ホモ・デウスという座標軸を突きつけた。間違いなく私たちは歴史の大きな曲がり角に立っている。

『サピエンス全史』でハラリは、フランケンシュタイン神話に言及しつつ、私たちは将来、自分と同じような人間が恒星や宇宙を飛び交う夢を見がちだが、そのとき宇宙船に乗っているのは、私たちのような感情とアイデンティティを持った生き物ではない、まるで別の生命体になっている可能性が強いと言っている。

 そして肝心なのは、私たちがその未来を直視できていないことである。『サピエンス全史』の最後はこういう言葉で終わる。「私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何になりたいのか?』ではなく、『私たちは何を望みたいのか?』かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう」。

・電子書籍と「注文の多い料理店」

 身近なところでも、ハラリの主張を裏付けるような出来事はいくらもある。人工臓器としては、すでに心臓ペースメーカーや人工膀胱を使っている人は多い。豊胸手術や頬へのヒアルロン酸注入などは珍しくもない。アンジェリーナ・ジョリーの場合、まだ予防治療だと考えることが可能だが、現代医学の最先端は患者を治療する段階から部分的な人間改造へ徐々に向かいつつある。米軍の経頭蓋直流刺激装置はまだ脳に直接電極を埋め込んでいないようだが、カーツワイルなどのテクノ人間至上主義者は、むしろ積極的に機械と人間を合体させようとしている。本連載①でゲームを通して見たように、バーチャル・リアリティの昨今の進歩は驚異的である。

 またインターネットの発達は、「かけがえのない個人」をミクロなデータに分割し、マクロな消費動向を占うようになっている。フェイスブックの「いいね!」から私たちの消費傾向、政治的思考まで分析されるし、フェイスブックを舞台にロシアがアメリカ大統領選挙に干渉した疑惑も浮上した。人びとはインターネット上の記事を容易に信じるし、そもそも自分好みの記事しか見えないように仕向けられている。アマゾンのサイトが購読商品から女性が妊娠していることを突き止め,お祝いメッセージを送ったとき、夫を含めた家族や友人のだれもそのことを知らなかったという話もある。ネット上にはフェイクや露骨な誹謗中傷が飛び交い、自ら「人間性」を貶めている。

 巨大IT企業はすでに私たち以上に私たちのことを知っている。

 最近、スマートフォンを使う時間が増えたからなのか、先日、立ち上げたとき「あなたが画面を見る時間が先月より8%減っています」というお知らせが現れた。「ほっといてくれ」と思いつつ、なるほどスマートフォンは1カ月の間、私がどのウエブを見たり書いたりしたとか、メールの送受信にどのくらいの時間を使ったかなどをすべて知っているのだと思った。メール内容もグーグルのサーバーに保管されている。私はGPS機能をオフにしているが、そうでない妻の場合、「あなたがこの店に来るのは一昨年に続き2度目です」といったことまで教えてくれるそうである。

 本書にアマゾンの電子書籍を読むときの話が紹介されている。

 アメリカでは印刷された本よりも電子書籍を読む人の方が多いそうだが、「キンドルのような機器は、ユーザーが読んでいる間にデータを収集できる」、「あなたがどの部分を素早く読み、どの部分をゆっくり読むかや、どのページで読むのを中断して一休みし、どの文で読むのをやめて二度と戻ってこなかったかをモニターしている」、「キンドルがアップグレードされ、顔認識とバイオメトリックセンサーの機能を備えれば、あなたが読んでいる一つひとつの文が、心拍数や血圧にどのような影響を与えたかを読み取れるようになる。……。あなたが本を読んでいる間に本があなたを読むようになる。そして、あなたは自分が読んだことをすぐに忘れるのに対して、アマゾンは何一つけっして忘れない」。

 山里の料理店に入ったら、服を脱ぎシャワーを浴びろ、体に塩をかけろ、などと指示され、すんでのところで自分が料理される羽目になる宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」を思い出させる現代の〝怪談〟だが、時代はここまで来ているということである。

 ちなみに、私が連載していた雑誌記事で「新年は『ビッグデータ』という言葉が流行語になるかもしれない」と書いたのは2013年1月号(「ミクロなデータからマクロな傾向を探る」だった。わずか5年前のことである。

・ハラリの「歴史家の目」

 しかし、問題はもっと先にある。

 私たちの人間としてのアイデンティティが危機に瀕しているということである。「危機に瀕している」という捉え方が間違いかもしれない。ハラリは「18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない」と書いている(人間至上主義と訳されているのはヒューマニズムhumanismのことである)。

 私たちはサピエンスに見切りをつけてホモ・デウスへの道を歩みたいのか。あくまでも〝人間らしい〟サピエンスに止まりたいのか。だとすれば、ホモ・デウスによる支配を免れる方法は何か。一番いいのはホモ・デウスを誕生させないことではないのか。ホモ・デウスをめざす人には、アップグレードに向かうとしてかえってダウングレードしてしまったり、極端な場合、怪物になったり壊れてしまったりする危険も待ちかまえている(この点で、これもずいぶん昔に書かれたオルダス・ハックスリイ『すばらしい新世界』の先駆性に舌を巻く)。

 ハラリは、幾何学で言えば、鋭い補助線を一本引いて、歴史上の今を私たちに見せてくれたと言っていい。そして、私たちと言えば、未曽有の岐路に立たされていながら、それに気づきもせず、したがって真剣にも考えていない、というのがハラリのいらだちだと思われる。

 著者はサピエンス→ホモ・デウスへの動きにブレーキをかけるのは難しいと考えているようである。まずブレーキがどこにあるのか、誰も知らない(いろんな分野で起こっているシステムの変化を全体として見ている人はいない)、仮にだれかがブレーキを踏むことに成功したら、経済は崩壊し、社会も運命を共にするだろうと。

 しかし、手をこまねいているしかないと、言っているわけではない。ポーの「メルシュトリームの大渦」の話で言えば、渦に翻弄されながらも周囲を冷静に観察し、自らの生き方を決断すべきなのである。ハラリによれば、それこそが「歴史」を研究する意味である。

「歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ」、「新しいテクノロジーの使用に関してある程度の選択肢があるからこそ、今何が起こっているのかを理解して、自ら決断を下し、今後の展開のなすがままになることを避けるべきなのだ」。

 彼の意図は以下に明確に示されている。

「本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい」、「データ至上主義の教義を批判的に考察することは、21世紀最大の科学的課題であるだけでなく、最も火急の政治的・経済的プロジェクトになりそうだ。生命をデータ処理と意思決定として理解してしまうと、何かを見落とすことになるのではないか、と生命科学者や社会科学者は自問するべきだ。この世界にはデータに還元できないものがあるのではないだろうか?意識を持たないアルゴリズムが、既知のデータ処理課題のすべてにおいて、意識を持つ知能をいずれ凌ぐことができるとしよう。その場合、意識を持つ知能を、意識を持たない優れたアルゴリズムに取り替えることによって、失われるものがあるとしたらそれは何だろうか?」

 未来に、人種差別や性差別から解放され、動物をはじめとする自然と共生する、それこそ人間らしい生活を築き上げるためには、まさに待ったなしで英知を結集すべき時だということだろう。

オルダス・ハックスリイ『すばらしい新世界』(早川書房、原著1934)
すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

新サイバー閑話(18) ホモ・デウス⑨

ホモ・デウスはサピエンスを動物のように扱う

 ハラリは『サピエンス全史』および『ホモ・デウス』で人類(サピエンス)がもともとは仲間とも言える動物をいかに残酷に扱ってきたかを縷々述べているが、その実態をつぶさに観察すれば、来るべき時代でホモ・デウスがサピエンスをどう扱うかがはっきりするというのが著者の考えらしい。

「私たちも動物であることは動かしがたい事実だ。そして自らを神に変えようとしている今、自分の由来を思い出すことはなおさら重要になる。私たちが神になる未来を研究しようというのなら、動物としての自らの過去や、他の動物たちとの関係は無視しようがない。なぜなら、人間と動物の関係は、超人と人間の未来の関係にとって、私たちの手元にある最良のモデルだからだ。超人的な知能を持つサイボーグが普通の生身の人間をどう扱うか、みなさんは知りたいだろうか?それなら、人間が自分より知能の低い仲間の動物たちをどう扱うかを詳しく調べるところから始めるといい」。

 サピエンスが動物にしてきたことを、ホモ・デウスはサピエンスにするだろう、ということである。

 動物の虐待については立ち入らないが、麻酔なしに実験動物を切り刻んだり、豚や牛、ニワトリなどの家畜を狭いスペースに閉じ込め、自然環境から完全に隔離して、食肉や牛乳や卵の生産機械に落としめたりしている実態は、だれもが知って(黙認して)いることである。

 参考までに、両書に掲載されている豚と牛の写真に添付されている説明のみ紹介しておこう。少しは暗澹たる気分になるかもしれない。

「妊娠ブタ用クレートに閉じ込められたメスブタたち。この非常に社会的で知能の高い動物は、まるですでにソーセージででもあるかのように、このような境遇で一生のほとんどを過ごす」、「工場式食肉農場の現代の子牛。子牛は誕生直後に母親から引き離され、自分の身体とさほど変わらない小さな檻に閉じ込められる。そこで一生(平均でおよそ4カ月)を送る。檻を出ることも、他の子牛と遊ぶことも、歩くことさえ許されない。筋肉が強くならないようにするためだ。……。子牛が初めて歩き、筋肉を伸ばし、他の子牛たちに触れる機会を与えられるのは、食肉処理場へ向かうときだ。進化の視点に立つと、牛はこれまで登場した動植物のうちでも、屈指の成功を収めた。だが同時に、牛は地球上でも最も惨めな動物に入る」。

新サイバー閑話(17) ホモ・デウス⑧

人間至上主義の勃興と凋落

 サピエンスの進化を推進してきた「人間至上主義(humanism)」を突き進めることが皮肉にも人間至上主義そのものを突き崩し、ホモ・デウスの誕生、あるいはデータ至上主義の社会へ行き着くというのが本書の主題である。

「人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える」、「人間至上主義を実現する試みが、なぜその凋落につながりうるのか?不死と至福と神性の追求が、人類への私たちの信頼の基盤をどうして揺るがすことになるのか?この激動にはどのような前兆があり、私たちが日々下す決定に、それがどう反映しているのか?そして、もし人間至上主義が本当に危機に瀕しているのだとしたら、何がそれに取って代わられるのか?」

 議論の中心はアルゴリズムである。

 彼は「アルゴリズムとは、計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用できる、一連の秩序だったステップ」と説明したうえで、「生物学者たちは過去数十年間に、ボタンを押して紅茶を飲む人もアルゴリズムであるという確固たる結論に至った」、「生命科学では、生命とはデータ処理に尽きる、生き物は計算を行って決定を下す機械である、と考えられている」と述べる。

 ひとことで言えば、生命とはデータ処理だとする生命科学の考え方が、コンピュータ科学と結びついて、そこに他の経済的、政治的要因も重なり、いまや「自由主義」や「個人主義」という人間至上主義の信念を突き崩しつつある。

「この流れ全体を勢いづかせているのはコンピュータ科学よりも生物学の見識であるのに気づくことがきわめて重要だ。生き物はアルゴリズムであると結論したのは生命科学だった」。

 本書によって、2つの例を上げよう。

 まず21世紀に自由主義の信念を時代遅れにしかねない3つの実際的な進展があった。

 ①人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため経済と政治の制度は人間にあまり価値を付与しなくなる。
 ②経済と政治の制度は、集合的に見た場合の人間には依然として価値を見出すが、部類の個人としての人間には価値を認めなくなる。
 ③経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口の大半ではなくアップグレードされた超人という新たなエリート層を構成することになる。

 また「人間がアルゴリズムには手の届かない能力をいつまでも持ち続けられると思うのは希望的観測にすぎない」とする現在科学の考え方をこう説明している。

 ①生き物はアルゴリズムである。ホモ・サピエンスも含め、あらゆる動物は膨大な歳月をかけた進歩を通して自然選択によって形作られた有機的なアルゴリズムの集合である。
 ②アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されない。
 ③有機的なアルゴリズムにできることで、非有機的なアルゴリズムにはけっして再現したり優ったりできないことがあると考える理由はまったくない。

 というわけで、「人間をコンピュータアルゴリズムに置き換えることはますます簡単になっている」。そのあとで「それは、アルゴリズムが利口になっているからだけではなく、人間が専門化しているからでもある」と書いているが、専門化とは別に、私たちの回りにどんどんマニュアル人間が増えているのも確かである。「外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能」になれば、「個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへ移る」。

 そして、個人主義に対する従来の信念、①私は分割不能の個人である。②私の本物の自己は完全に自由である。③私は自分自身に関して他人には発見しえないことを知りうる、という前提は、①生き物はアルゴリズムであり、人間は分割可能である。②人間を構成しているアルゴリズムは遺伝子と環境圧によって形づけられており、自由ではない。③外部のアルゴリズムは、私が自分を知りうるよりもはるかによく私を知りうる、という科学的知見によって駆逐されてしまうだろうと著者は言う。

・テクノ人間至上主義とデータ至上主義

 人間至上主義に代わって登場するのが、テクノ人間至上主義(techno-humanism)とデータ至上主義(dataism)である。

 前者は連載④でふれたカーツワイルの考え方に近いが、テクノ至上主義に関してこう書かれている。「この宗教は依然として、人間を森羅万象の頂点とみなし、人間至上主義の伝統的な価値観に固執する。テクノ人間至上主義は、私たちが知っているようなホモ・サピエンスはすでに歴史的役割を終え、将来はもう重要でなくなるという考え方には同意するが、だからこそ私たちは、はるかに優れた人間モデルであるホモ・デウスを生み出すために、テクノロジーを使うべきだと結論する」、「最初の認知革命による心の刷新で、ホモ・サピエンスは共同主観的な領域へのアクセスを得て、地球の支配者になった。第二の認知革命では、ホモ・デウスは想像もつかないような新領域へのアクセスを獲得し、銀河系の主になるかもしれない」。

 ここで著者は人間の心を改造しようとする試みの危険性について、さまざまな懸念を記している。

 人間の心のベクトルはまだよく解明されておらず、とんでもない方向に脱線する恐れが強く、「テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない」。さらに著者が警告するのは、体制や権力(エリートであり、ホモ・デウスでもあろう)に順応的な人間が作られる可能性である。「私たちは何百万年にもわたって、能力を強化されたチンパンジーだった。だが、将来は、特大のアリになるかもしれない」。

 データ至上主義では、人間の心そのものが無視される。非有機的生物の誕生とも関係するが、「より大胆なテクノ宗教は、人間至上主義のへその緒をすぱっと切断しようとする。最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する」、データ至上主義は「動物と機械を隔てる壁を取り払う。そして、ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える働きをすることを見込んでいる」、「つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピュータアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ」。

 いよいよ議論はクライマックスを迎えるが、このデータ至上主義こそ現在インターネットが推進しつつある巨大グローバルシステムの誕生であり、すでに身の回りで急速に進んでいる事態とも言える。

「グーグルやフェイスブックなどのアルゴリズムは、いったん全知の巫女として信頼されれば、おそらく代理人へ、最終的には君主へと進化するだろう」、「自分しか読まない日記を書のはこれまでの世代の人間至上主義者にとっては普通のことだったが、多くの現代の若者にはまるで意味がないことのように思える。『すべてのモノのインターネット』がうまく軌道に乗った暁には、人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑み込まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない」、「21世紀の新しいテクノロジーは、人間至上主義の革命を逆転され、人間から権威を剥ぎ取り、その代わり、人間ではないアルゴリズムに権限を与えるかもしれない」。

新サイバー閑話(16) ホモ・デウス➆

アンジェリーナ・ジョリーの決断

ウィキペディアから

 ハラリは本書で、実際には乳癌を発症していなかったが、母親が乳癌で早死にするなど家系的にがんになる恐れを抱いていた米女優、アンジェリーナ・ジョリーが、現段階では何の異常もない両乳房をあえて切除する決断をした事例を特筆している。

 彼女は2013年5月に米紙ニューヨーク・タイムズに「私の選択」と題する記事を投稿した。

 それによると、母親をはじめ親族で乳癌で死亡した人が多く、彼女自身もいつ乳癌になるのか心配する日々を送っていた。そこで遺伝子検査を受けたところ、遺伝子に危険な変異を抱えていることがわかった。この変異を持っている女性は乳癌になる確率が87%あるという。そこで彼女は、いまはなお健康な自分の両乳房をあえて切除する手術に踏み切った。その後に人工乳房整形を施している。

 以前なら、その危険を恐れながらも家系からくる「運命」と〝諦め〟、それがわが身に起こらないことを念じ、できるだけの養生をするしかなかった。ところが現代医学は彼女の遺伝子変異を計測することができる。乳癌になる確率87%。

 さて、そのときあなたならどうするだろうか。

 アンジェリーナ・ジョリーは医学的データを信じ、それに賭けた。すでに子育てをひととおり終えていたという事情もあっただろうが、ふつうの人にはなかなかできない「決断」である。

 しかも彼女は、同じような状況下の他の女性たちの参考のためだとして、そのことを公表した(ちなみに彼女は、最初の調査ですでに黄信号だった卵巣と卵管についても、複数の炎症マーカーの数値が上昇したとして、おそらく本書執筆後の2015年に切除手術を受けている)。

 この事例をハラリは、以下の2点において注目した。

 1つは、彼女が自分のDNAの声を聴いたということである。著者はこう書いている。「ジョリーは自分の人生にまつわるこれほど重要な決定を下さなければならなくなったとき、大海原を見下ろす山の頂上に登って、波間に沈む太陽を眺め、自分の心の奥底の気持ちと接触しようとはしなかった。その代わり、自分の遺伝子に耳を傾けた」。

 さらにこうも言っている。「人々が自分のDNAとしだいに緊密な関係を育むにつれて、単一の自己というものはなおいっそう曖昧になり、本物の内なる声は途絶え、やかましい遺伝子の群れが残るだけかもしれない」。

 医学が進歩すればするほど、人びとは運命に従うことをやめ、提示される医学的データを信じ、そのもとに自らの決断をするようになるだろう、というのが著者の予測である。

「あなたも自分の健康にかかわる重要な決定を、アンジェリーナ・ジョリーとまったく同じ形で下す可能性は、きわめて高い」。

 医学は長い間、ごくふつうの風邪から伝染病、手ごわいがんに至るまで、人びとの病気を治癒すること、あるいは通常人より劣った身体機能、いわゆるハンディキャップを克服する技術として発達してきた。それは人びとの福音でもあった。

 ところが治療のために開発された技術は、当然、通常以上の能力を求める身体機能増強にも利用されることになる。著者はバイアグラの効用や整形美容の普及などを例示しているが、治療と増強の間に明確な線を引くことは難しい。しかも医学はどんどん進歩し、人々は内心の声に従うことをやめつつある。

 これがいずれは「ホモ・デウス」が誕生するだろうという予測の底に横たわる著者の怜悧な認識である。

・新しい階級の誕生

 もう1つは、アンジェリーナ・ジョリーが受けた遺伝子検査および切除手術の費用である。遺伝子検査だけで3000ドル以上かかったという。切除手術や予後などの費用はさらに高額なものになったはずである。

 3000ドルは「1日当たりの稼ぎが1ドル未満の人が10億人、1ドルから2ドルの人がさらに15億人いる世界での話だ」。かくして先端医療の恩恵に預かれる層とそれがかなわない層では、格差がどんどん広がる。その結果として、サピエンスとホモ・デウスという新たな階級が成立するだろうと著者は言う。

「豊かな人々は、歴史を通して社会的優越や政治的優越の恩恵にあずかってきたが、彼らを貧しい人々と隔てるような巨大な生物学的格差はなかった。……。ところが将来は、アップグレードされた上流階級と、社会の残りの人々との間に、身体的能力と認知的能力の本物の格差が生じるかもしれない」、「もし誰かが(通常人の)基準を下回ったら、その人を『他の誰とも同じ』になるのを助けるのが医師の仕事だった。それに対して、健康な人をアップグレーとするのはエリート主義の仕事だ」、「21世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。……。21世紀には進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ」。

 アンジェリーナ・ジョリーの例を一つの試金石と考えているわけである。

「とはいえ、パニックを起こす必要はない。少なくとも、今すぐには。……。ホモ・サピエンスは一歩一歩自分をアップグレードし、その過程でロボットやコンピュータと一体化して行き、ついにある日、私たちの子孫が過去を振り返ると、……、(これまでの)種類の動物でなくなっていることに気づくということになるだろう」。そう言われて、安心していていいいのかどうか……。

新サイバー閑話(15)

小林龍生氏の連載、いったん終止符

 プロジェクト欄連載の小林龍生「梅棹忠夫『情報産業論』1963/2017」が10回でいったんピリオドを打った。

 私もまた梅棹忠夫の「情報産業論」という〝珠玉のレポート〟に舌を巻いた一人である。『文明の生態史観』もそうだが、既存の学問の枠を超えて新しい現象に鋭い目を向けた彼の発想の秘密はどこにあったのだろうか。

 私は『ASAHIパソコン』時代(1989年)にインタビューしたことがあるが、彼は国立民族学博物館創設にあたって関係分野を説得するのにずいぶんエネルギーを使ったらしい。

「これから作るのは『博物館』ではなく、『博情館』だと私は言ったんです」、「文化の研究所になぜコンピュータがいるんだとよく言われました」、「そんなもの作ってもだれも見に来ないとも。だけど作れば、みんな喜んで利用する。需要が供給を呼ぶのではなく、供給が需要を呼び起こすんです。新しいものはすべてそうです」などなど。

『ASAHIパソコン』を創刊するとき、社内でよく「矢野さんはパーソナル・ユースに的を絞ったパソコンガイド誌を出すと言うけれど、そんな雑誌がどこにあるんですか。需要があるなら、どこか他社が出しているはずだ」と言われたことを思い出しながら、思わず膝を打ったものだが、思うに梅棹さんの斬新な発想は、『知的生産の技術』で紹介している「こざね法」に起因するのではないだろうか。

 話がそれた。

 小林さんは梅棹忠夫が1963年という早い時期にテレビ会社の広報誌に書いた「情報産業論」というレポートを高く評価し、それを連載開始の2017年の時点で振り返りつつ、時代をはるかに先駆けた梅棹忠夫の独創と、やはり影を落とさざるを得なかった「時代精神」について記したもので、たいへん興味深い論考になったと思う。

 本人は「平成のうちにけりをつける」という口実であっさり店じまいしてしまったけれど、編集者としては、いずれそのうちに、2019年、あるはそれ以降の時点における彼自身の情報社会論を期待している。ともかく連載ご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。

・辺境の人―挑戦する人―種蒔く人

 サイバーリテラシー研究所のウエブを「サイバー燈台」としてリニューアルしたとき、私はこれを「適時刊オンライン総合誌」にしたいと思っていた。個人でもそれなりの「メディア・プラットホーム」が作れることを立証したいという意気込みもあった。

 このためプロジェクト欄に「客員コーナー」を設けることを思いついたが、なにせ年金生活者がほそぼそと運営しているサイトだから、若い人に手伝ってもらっているメインテナンスもすべてボランティアである。原稿を頼もうにも稿料は出せない、というわけで、とりあえず旧知の小林龍生、林紘一郎、名和小太郎の3氏を口説いて始めたのが実情である。御3人がそろって快諾してくれたのをたいへん嬉しく、かつありがたく思っている。

 この3人には共通の特徴がある。

 IT社会が花開く時代の最先端で、それぞれの分野で活躍し、しかも立派な業績をあげた方々である。名和、林、小林の順でそれぞれ10歳ほど年長になるが(私は林さんとほぼ同年代である)、ともに実務の世界からしだいにアカデミズムへと軸足を移していった。未開拓な「情報」という学問分野が実務経験者の知恵を必要としたという事情もあっただろう。

 その先達はなんといっても名和小太郎さんである。

 小林さんのコラム最終回で『情報社会の弱点がわかる本』というブックレットが紹介されているが、これもまた慧眼の書である。彼は技術者として情報化社会にふれ、業界の「情報倫理綱領」策定にあたったり、情報のコンピュータ化で脚光を浴びる著作権問題で議論をリードしたり、その後国立大学法学部教授にもなった。

 私は、ユニークでどこかユーモアをたたえ、複雑なテーマをやさしく解き明かす平易な文体に大いに感心していたが、彼は「やりたいのはアカデミック講談」と語ったことがあった。現役を退いたあと「在庫一掃大セール」と銘打って『ディジタル著作権』、『情報セキュリティ』、『著作権2.0』などの大作を矢継ぎ早に刊行したのには大いに驚いた。

 名和さんが歩んだ情報化社会から高度情報社会への道を書き残してもらいたいというのが私の願いだったが、タイミングが「休筆宣言」をした後だったこともあり、体調の許す範囲で身辺雑記を寄せていただいている。

 私の目論見を超えて、精力的な論考を書いてくれているのが林紘一郎さんである。

 2017年に彼の学問の総決算ともいうべき『情報法のリーガル・マインド』を出版したこともあり、そのエキスを時局的なトピックスにふれつつ平易に解説してもらえればと、「情報法のリーガル・マインド その日その日」というタイトルを考えたが、実際は「情報法のリーガル・マインド その後」という装いとなり、堂々たる論考がすでに30回を超えている。

 最近は、彼が指摘してきた論点が現実の混乱や紛争となって顕在化しており、時局的なテーマが取り上げられることも多い。情報セキュリティ大学院大学学長として大学運営の実務に携わるほか、数多くの政府審議会委員なども頼まれている激務のなかで、情報法という新しい分野開拓に挑戦する迫力には敬服するしかない。

 その林さんもこの春にはいよいよ最終講義を行うとか。

 林さんはNTTアメリカ社社長を経てアカデミズムの世界に入った。それで経済学博士と法学博士である。取り組んだのは著作権問題であり、情報法だった。常にアグレッシブで、ローレンス・レッシグのクリエイティブ・コモンズの影に隠れてしまったとはいえ、よく似たオリジナル構想を先駆けて提案している。

 林さんが学問的にたどった道は、辺境の人→新しい学問の挑戦者、だった。変革の時代にあっては、中央はむしろ時代に取り残され、辺境から新しいものが生まれる。というわけで、彼は情報法の大家になった?

 いや、そうではあるまい。この分野はなお発展途上である。解決すべき問題は次から次へと起こっている。『情報法のリーガル・マインド』の記述からも、彼は若い研究者を育てるために「種蒔く人」になったのだと思われる。

 この「辺境の人」→「挑戦する人」→「種まく人」という道は、おそらく名和小太郎、小林龍生ご両人にも妥当するだろう。

 小林さんの実録とも言える『ユニコード戦記』、『EPUB戦記』には、ジャストシステムという一民間企業から派遣された彼が、世界を拠点とする多くの仲間たちとともに、文字コードなどの国際標準作りに挑戦する姿が描かれている。

・執筆者ただいま募集中

 最後にサイバー燈台について少し。

 当面、客員コーナーは資金的制約から、現役の人にはなかなか執筆を頼みにくい状況です。だからいまのコンセプトは「功成り名とげた人のボランティア」、最後にひと花咲かせようとする人の「土俵際の踏ん張り」といったものに限定せざるを得ません。旧友の森治郎さんに「日本国憲法の今」の短期集中連載をお願いしたのは、時局的なテーマも取り上げたいとの思いからです。

 連載でなくても、一発提言を「徳俵」というタイトルで掲載するのはどうかとも考えています。何人か声をかけたいとご尊顔を頭に浮かべつつ、遠慮が先に立って踏ん切りがつかない人もいます(^o^)いずれは、政治、経済、社会、文化とさまざまなジャンルから、若い人、女性にも筆者を広げたいと思っていますが、現状ではかなわぬ夢で終わりそうです。

 と言いつつも、自薦他薦含めて、奇特な筆者を募集しております(^o^)。

名和小太郎『著作権2.0:ウェブ時代の文化発展をめざして』(NTT出版、2010) /『情報セキュリティ:理念と歴史』(みすず書房、2005)
著作権2.0 ウェブ時代の文化発展をめざして (NTT出版ライブラリー―レゾナント) 情報セキュリティ―理念と歴史

林紘一郎『情報法のリーガル・マインド』(勁草書房、2017)/ 『セキュリティ経営: ポスト3.11の復元力』(共著、勁草書房、2011)
情報法のリーガル・マインド セキュリティ経営: ポスト3・11の復元力

小林龍生『EPUB戦記 電子書籍の国際標準化バトル』 (慶應義塾大学出版会、2016)/『ユニコード戦記 文字符号の国際標準化バトル』 (東京電機大学出版局、2011)
EPUB戦記―― 電子書籍の国際標準化バトル ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

新サイバー閑話(14) ホモ・デウス⑥

蝸牛角上の大坩堝

 かつて米国の作家、マーク・トゥエインは、地球全史をエッフェル塔の高さに例えれば、人類の歴史はてっぺんに塗られたペンキの薄皮の厚さぐらいなのに、その人類が塔全体(地球)は自分のためにあると自慢していることのこっけいさを皮肉った。

 ハラリの『サピエンス全史』はその地球史におけるサピエンスの歴史を俯瞰したものである。冒頭に掲げられた年表の一部を再掲しておこう。

45億年前 地球誕生
38億年前 有機体(生物体)出現
600万年前 ヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先
7万年前 認知革命
1万2000年前 農業革命
500年前 科学革命
200年前 産業革命

 生物学では、科―属―種というふうに生物を体系分類しているが、ヒト科ホモ属にはいわゆるホモ・サピエンス(ハラリの言うサピエンス)以外にも、ネアンデルタール人、ホモ・エレクトス、デニソワ人などがいた。ネアンデルタール人が3万年前に滅んで、1万3000年前にはホモ・サピエンスが地球で唯一生き残った人間種となった。

 サピエンスがなぜ地上の王者になり得たか。重要なのは認知革命と農業革命、科学革命だと著者は言う。

「伝説や神話、神々、宗教は、認知革命によって初めて現れた。……。虚構、すなわち架空の事物について語る能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている」、「1万年ほど前にすべてが一変した。それは、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾け始めたときだった。……。これは人間の暮らし方における革命、すなわち農業革命だった」、「科学革命以前は、人類の文化のほとんどは進歩というものを信じていなかった。人々は、黄金時代は過去にあり、世界は仮に衰退していないまでも停滞していると考えていた」、「解決不可能のはずの問題を科学が一つまた一つと解決し始めると、人類は新しい知識を獲得して応用することで、どんな問題もすべて克服できると、多くの人が確信を持ちだした。貧困や病気、戦争、飢餓、老齢、死そのものさえもが、人類の避けようのない運命ではなくなった」。

 ここで、農業革命以前の狩猟採集時代が数百万年も続いていたことを想起する必要がある。それにくらべ農業革命以後は〝わずか〟1万年でしかない。その短期間にサピエンスは宗教、貨幣、帝国、資本主義という共同主観的な虚構を生み出し、それによって文明を進化させてきた。現在の私たちが生きている社会の基本構造を作った科学革命、産業革命は、サピエンス全史から見れば、これまたほんの短期間に過ぎない。

・メルシュトリームの大渦

 デジタル・コンピュータが登場したのは1945年前後であり、インターネットは1960年代後半のARPAネットから始まった。サピエンス全史から見れば、いずれ100年にも満たないきわめて〝瞬時〟の出来事である。このわずかな時間に、人類(サピエンス)は自らを改造しホモ・デウスに向かおうとしていると著者は言う。

 遼遠の歴史と現代という瞬間における大変動。これをカタツムリの角の上の大激動、言ってみれば、「蝸牛角上の大坩堝」と呼んでいいかもしれない。

 私はサイバーリテラシーにおいて、人類史をインターネット出現以前のBC(Before Cyberspace)と出現後のAC(After Cyberspace)に二分して、現在の未曾有の激動期を生き抜くためには、時代を冷静に観察する目とそれを乗り切る才覚、そして勇気が求められると書いたことがある。その点でハラリの「ホモ・デウス」という発想に度肝を抜かれる思いをした。以後で著者の「歴史家の目」について考えてみたい

 それはともかく、当時、私の念頭に浮かんだのは、推理小説の祖、エドガー・アラン・ポオの『メルシュトレームの大渦』という短編だった。

 北欧のノルウェイ沖に、漁師たちに「メルシュトレームの大渦」と恐れられている海域がある。恰好の漁場にもかかわらず、だれも近づかないが、勇敢な兄弟漁師3人だけは命を賭けて出漁、大渦が発生する間隙をぬって多くの漁獲を得ていた。ある日、漁に出た後に台風がやってくる。70トンほどの2本マストの漁船は台風に翻弄され、一番下の弟はマストもろとも海に放り出された。直後に漁船は、折り悪く発生した大渦に巻き込まれてしまう。
 渦の中で旋回する漁船の上で、弟の方の漁師は、絶望的な恐怖にとらわれながら、周囲を冷静に観察、小さな破片ほど、そして円筒形をしたものほど、海底めがけて沈んでいくスピードが遅いことに気づく。そこで彼は漁船を捨て、積荷の水樽に体を巻きつけて海に飛び込んだ。逆に、兄が振り落とされないように自分をマストに巻きつけた漁船は、樽より早いスピードで渦に巻き込まれ、1時間後に海底に消えていくが、樽に乗り移った弟は、渦がおさまった海峡から無事に生還する。

  ハラリは冒頭の年表を以下のように締めくくっている。

 今日 人類が地球という惑星の境界を超越する
    核兵器が人類を脅かす
    生物が自然選択ではなく知的設計によって形作られることがしだいに多くなる。
 未来 知的設計が生命の基本原理となるか?
    ホモ・サピエンスが超人たちに取って変わられるか?

 そして『サピエンス全史』の最終章を「超ホモ・サピエンスの時代へ」と題してこう記している。

「サピエンスは、どれだけ努力しようと、どれだけ達成しようと、生物学的に定められた限界を突破できないというのが、これまで暗黙の了解だった」、「ホモ・サピエンスを取るに足りない霊長類から世界の支配者に変えた認知革命は、サピエンスの脳の生理機能にとくに目立った変化を必要としなかった。……。どうやら、脳の内部構造に小さな変化がいくつかあっただけらしい。したがって、ひょっとすると再びわずかな変化がありさえすれば、第二次認知革命を引き起こして、完全に新しい種類の意識を生み出し、ホモ・サピエンスを何かまったく違うものに変容させることにかもしれない」。

矢野直明『サイバーリテラシー概論』(知泉書簡、2007)
サイバーリテラシー概論―IT社会をどう生きるか

新サイバー閑話(13) ホモ・デウス⑤

アナトール・フランスとイサベラ・ダンカン

 固い話が続いた。ちょっとひと息。

 本書にこんな逸話が挿入されている。1923年にノーベル賞受賞者のアナトール・フランスと才能に恵まれた美しいダンサー、イサドラ・ダンカンが出会った。当時人気のあった優生学運動について論じていたダンカンが、「私の美貌とあなたの頭脳を兼ね備えた子どもが生まれたらどんなに素晴らしいでしょう」と言うと、フランスが「ごもっとも。だが私の容貌とあなたの頭脳をもった子供を想像してみてください」と応じた。

 著者も「有名だが出所の怪しい」話として紹介しているのだが、このバリエーションはいろいろある。私が最初に知った話は、コリン・ウイルソンの本だった気がするが、登場人物はバーナード・ショーとマリリン・モンローだった。さもありなん。

 フランス、ショーともノーベル賞受賞者で、女性はいずれ劣らぬ魅力的なスターである。男性にアルベルト・アインシュタイン、女性にサラ・ベルナールを配し、それぞれがそれらしいセリフを発するいろんなバージョンがあるが、日本版はなさそうである。女性役の起用が難しいが(この種のタイプはいるのだろうか)、男性役は夏目漱石を置いてほかにないだろう。

 夏目漱石にはこんな逸話がある。

 一高で教えていたころ、教室の前方で片腕をポケットに突っこんだまま聞いている学生がいた。その日は朝から気分がよくなかったのか、漱石は「腕を出して聞くように」注意した。本人は黙っていたが、近くの学生が「彼は先ごろの戦争で腕をなくしました」と言った。そのとき漱石先生、少しも騒がず、こう応じたという。「僕もない知恵を絞って授業をしているのだから、君もない腕を出して聞き給え」。

 閑話休題。

 著者は「有性生殖は籤引きに等しい」例証として、この挿話に言及した。しかし、これからはただ運命の選択に身をゆだねている必要はなくなる。美貌と知性の組み合わせが採用され、そうでないものは排除される運命にあるかもしれないと。

新サイバー閑話(12) ホモ・デウス④

カーツワイルとシンギュラリティ

「ホモ・デウス(Homo Deus)」とよく似たイメージとして「ポスト・ヒューマン(Post Human)」という言葉がある。その考えはレイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生(原著‘The Singularity is Near : When Humans Transcend Biology’)』によく表れている。カーツワイルのあまりにあっけらかんと、しかも自信に満ちた主張について、ハラリは正面からは論じていないが、上巻と下巻で各1回、カーツワイルへの言及がある。

 最初は不死の研究者としての紹介であり、「昨今はもっと率直に意見を述べ、現代科学の最重要事業は死を打ち負かし、永遠の若さを人間に授けることである、と明言する科学者が、まだ少数派ながら増えている。その最たる例が、老年学者のオーブリー・デグレイと、博学の発明家レイ・カーツワイル(アメリカ国家技術賞の1999年の受賞者)だ。カーツワイルは2012年に、グーグルのエンジニアリング部門ディレクターに任命され、グーグルはその1年後、『死を解決すること』を使命として表明するキャリコという子会社を設立した」と書いている。

 カーツワイルは、コンピュータの知能が人間を上回る「特異点(singularity)」は2045年だと預言している。サイボーグ、あるいはアンドロイドの全面肯定であり、さまざまな限界をもつ人間の現状にとらわれる必要はないと言う。

 彼は遺伝子工学(G)、ナノテクノロジー(N)、ロボット工学(R)の3分野で相互補完的に急速な(指数関数的な)変化が生じ、生物と非生物(コンピュータ)が共生する時代が来る、そのときはナノテクノロジーで作り出された小さなコンピュータが、体内の血管や脳のシナプスの中を動き回り、内臓の欠陥を修復したり、脳の記憶容量を拡大したりするという。「21世紀の前半には、怪物のような機械の知性が、機械の生みの親である人間の知能と区別がつかないほどになる」、「われわれには自分自身の知能を理解して―その気さえあれば自分自身のソースコードにアクセスして―それを改良し拡大する能力がある」。

 コンピュータは人間と共生し、人間のために働くというイメージだが、そのとき、コンピュータの知能はすでに人間を上回っている。

 彼によれば、「テクノロジーが急速に変化し、……、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような、来るべき未来」が特異点であり、「特異点を理解して、自分自身の人生になにがもたらされるのかを考え抜いた人を特異点論者(singularian)と呼ぼう」と宣言している。

・人間と機械の区別はなくなる

 特異点という考えは、数学や物理学の世界で使用され、「特異点は、ある基準 (regulation) の下、その基準が適用できない (singular な) 点」とウィキペディアにある。

「本書では、これから数十年のうちに、情報テクノロジーが、人間の知識や技量を全て包含し、ついには、人間の脳に備わった、パターン認識力や、問題解決能力や、感情や道徳に関わる知能すらも取り込むようになると論じていく」、「特異点とは、われわれの生物としての思考と存在が、みずからの作りだしたテクノロジーと融合する臨界点であり、その世界は、依然として人間的ではあっても、生物としての基礎を超越している。特異点以後の世界では、人間と機械、物理的な現実とバーチャル・リアリティとの間には、区別が存在しない」、「特異点―人間の能力が根底から覆り変容するとき―は、2045年に到来すると私は考えている」。

 1948年生まれのカーツワイルは2045年には100歳近いが、そのときまで生き抜く覚悟のようである。

 GNRは同時進行する3つの革命であり、「ナノテクノロジーを用いてナノボットを設計することができる。ナノボットとは、分子レベルで設計された、大きさがミクロン単位のロボットで……、人体の中で無数の役割を果たすことになる。たとえば加齢を逆行させるなど」、「ナノボットは、生体のニューロンと相互作用して、神経系の内部からバーチャル・リアリティを作りだし、人間の体験を大幅に広げる」、「脳の毛細血管に数十億個のナノボットを送り込み、人間の知能を大幅に高める」、「GとNとRの革命が絡み合って進むことにより、バージョン1.0の虚弱な人体は、はるかに丈夫で有能なバージョン2.0へと変化するだろう。何十億ものナノボットが血流に乗って体内や脳内をかけめぐるようになる。体内で、それらは病原体を破壊し、DNAエラーを修復し、毒素を排除し、他にも健康増進につながる多くの仕事をやってのける。その結果、われわれは老化することなく永遠に生きられるようになるはずだ」など、勇ましい言葉が続く。

・「ミクロの決死圏」の世界

「ひとたびこの道を進み始めれば、テクノロジー恐怖症の人が『ここまではいいが、ここから先に行ってはいけない』ともっともらしく言えるような停止点はどこにもない」といった他の研究者の発言も紹介されているが、本コラム第2回で概観したように、かつて強いAIが喧伝された時、やはり肉体こそが必要だという意見が多く、私自身もそう考えていた。しかし、いま進みつつあるコンピュータと人間との共生が、まったく新しい時点に到達しつつある。「コンピュータには肉体がない」という次元の話でないことは確かである。ふたたび映画のたとえで言えば、これは「ミクロの決死圏」の世界である(こちらも1966年公開とずいぶん古い)。

 本書によれば、先に言及したロドニー・ブルックスは、「AIは1980年代に衰退したと主張する人々は今も存在するが、それは、インターネットは2000年代初頭のネットバブルととともに破綻したと言い張るようなものだ」と言っているらしい。

 さて、ハラリ本人だが、下巻でカーツワイルのいかにも予言者めいた語り口にふれて、「実際、シリコンヴァレーではデータ至上主義の予言者は、救世主を想起させる伝統的な言葉を意識的に使っている。たとえばレイ・カーツワイルの予言の著書のタイトル『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』(邦訳『ポスト・ヒューマン誕生』のこと)は、『天の国は近づいた』という洗礼者ヨハネの叫びを真似ている」と書いているが、ここにはハラリの、『ホモ・デウス』は歴史的予測の書であり、政治的なマニフェストではないという歴史家としての目がある。

 ちなみに「特異点」に関しては、『サピエンス全史』下巻に以下の記述がある。「物理学者はビッグバンを特異点としている。それは、既知の自然法則がいっさい存在していなかった時点だ。時間も存在しなかった。したがって、何であれビッグバンの『前』に存在していたと言うのは意味がない。私たちは新たな特異点に急速に近づいているのかもしれない。その時点では、私、あなた、男性、女性、愛、憎しみといた、私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが、意味を持たなくなる」。

 老年学者、オーブリー・デグレイにも少しふれておこう。

 アメリカのピュリッツァー賞受賞科学記者が長命科学の最先端をルポした『寿命1000年』によると、老化は生物に避けられない「宿命」ではなく、ただの「病気」だという。病気なら直せるわけで、本書に主役級で登場するオーブリー・デグレイは、「老化は基本的には体の細胞にゴミがたまることで起きる。だからそのゴミを除去することができれば、969歳まで生きたとされる旧約聖書メトセラの夢を実現できる」と言っている。

 ミトコンドリアが大きなカギを握っているらしいが、彼はコンピュータ科学の出身である。

レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』(NHK出版、2007。原著‘The Singularity is Near : When Humans Transcend Biology’2005)
ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき
ジョナサン・ワイナリー『寿命1000年』(早川書房、2012、原著2010)
寿命1000年―長命科学の最先端
リチャード・フライシャー監督「ミクロの決死圏」(公開1966)
ミクロの決死圏 [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]

新サイバー閑話(11) ホモ・デウス③

人間を神にアップグレードする

 人類はこれまでの歴史で、①飢饉、②疫病と感染症、③戦争、という3つの大敵をほぼ克服してきた、という大胆な宣言から話は始まる。

 これは『サピエンス全史』の結論を踏襲するものだが、スタンリー・キューブリック監督のSF映画の古典、「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンを思わせる迫力である。

 類人猿が敵との戦いのさなか、手にした木片を怒りにまかせて地面に激しく打ち付けた時、これを道具(武器)として使えることを発見する。そして、木片は空中高く舞い上がり、次の瞬間、それは宇宙船ディスカバリ―へと変貌する。リヒァルト・シュトラウスの「ツアラトゥストラはかく語りぬ」の壮大な音楽は、宇宙船登場と同時にヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」に変わった――。

 このわずかな冒頭シーンを検証したのが『サピエンス全史』全編と言ってもいい。著者は書いている。「飢饉と疾病と戦争はおそらく、この先何十年も膨大な数の犠牲者を出し続けることだろう。とはいえ、それらはもはや、無力な人類の理解と制御の及ばない不可避の悲劇ではない。すでに対処可能な課題になった」。

 そして、こう続ける。「成功は野心を生む。……。前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、過去の記録や現在の価値観を考えると、次に不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い。飢餓と疾病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。……。そして、今度は人間を神にアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウスに変えることを目指すだろう」(33)。これが『ホモ・デウス』のテーマである。

「人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている。それは、至福と不死が神の特性だからであるばかりでなく、人間は老化と悲惨な状態を克服するためにはまず、自らの生化学的な基盤を神のように制御できるようになる必要があるからでもある。……。これまでのところ、人間の力の増大は主に、外界の道具のアップグレードに頼ってきた。だが将来は、人の心と体のアップグレード、あるいは、道具との直接の一体化にもっと依存するようになるかもしれない」。

・生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学

 その道具としてあげられているのが、生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学である。順に、著者の言うところを聞こう。

 生物工学。「私たちは、アメーバから爬虫類、哺乳類、サピエンスへと進化した。とはいえ、サピエンスが終着点であると考える理由はない。遺伝子やホルモンやニューロンに比較的小さな変化が起こっただけで、……、ホモ・エレクトスが、宇宙船やコンピュータをつくるホモ・サピエンスへと変容した。それならば、私たちのDNAやホルモン系や脳構造にあといくつか変化が起これば、どんな結果になるか知れたものではない。生物工学は、自然選択が魔法のような手際を発揮するのを辛抱強く待っていたりしない。そうする代わりに、生物工学者は古いサピエンスの体に手を加え、意図的に遺伝子コードを書き換え、脳の回路を配線し直し、生化学的バランスを変え、完全に新しい手足を生えさせることすらするだろう。彼らはそれによって新しい神々を生み出す。そのような神々は、私たちがホモ・エレクトスと違うのと同じくらい、私たちサピエンスとは違っているかもしれない」。

 サイボーグ工学。「サイボーグ工学はさらに一歩先まで行き、有機的な体を、バイオニック・ハンドや人工の目、無数のナノロボットと一体化させる。そうしてできたサイボーグは、どんな有機的な体もはるかに凌ぐ能力を享受できるだろう」。

 非有機的生命工学(非有機的な生き物を生み出す工学)。「とはいえ、サイボーグ工学でさえ、有機的な脳が司令統制センターであり続けるという前提に立っているから、割に保守的だ。一方、有機的な部分をすべてなくし、完全に非有機的な生き物を作りだそうという、より大胆なアプローチがある。神経ネットワークは知的ソフトウェアにとって代わられ、そのソフトウェアは有機化学の制約を免れ、仮想世界と現実世界の両方を動き回れる」。

・ボーマン船長とレイチェル

 いわゆる改造人間のことを意味するサイボーグ(Cyborg)はCybernetic organismのことである。アンドロイド(Android)も、より人間に近づいたイメージとして使われるが、いまではグーグルのモバイルOSの名としても知られている。

 サイバー(Cyber)はアメリカの科学者、ノーバート・ウィーナーが提唱した「生物と機械における通信、制御、情報処理の問題を統一的に取り扱う総合科学=サイバネティクス(Cybernetics)」に由来する。その主著『サイバネティクス』(1948)はその後の情報理論およびコンピュータの発達に大きな影響を与えたが、事態はついにホモ・デウスを生み出すまでになった。ちなみに「サイバースペース(Cyberspace=サイバー空間)」はSF作家のウィリアム・ギブスンが1984年に発表した『ニューロマンサー』で流布させた言葉である。

 さて、著者はそのような最先端の研究をいろいろ紹介しているが、サイボーグに関しては、「サイボーグの医師は、オフィスを一歩も出ることなく、東京やシカゴや宇宙基地で緊急手術を行うことができる」、また非有機的生命の誕生に関しては、「有機体の領域を抜けだせば、生命はついに地球という惑星からも脱出できる」と書いている。

 映画「2001年宇宙の旅」のボーマン船長は、一人で木星に突入、時間と空間のねじれた試練の果てに、エネルギーとして宇宙を飛び回る「星の子(Star Child)」になった。この映画はもう50年前の公開だが、その卓越した発想(SF作家、アーサー・C・クラークとの共作)は、斬新な制作手法とともに、まさにSF映画の金字塔である。

 ところでもう一つ、私が好きなSF映画は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を原則にしたリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」である。レイチェルは、この映画に登場する美しきアンドロイド(レプリカントと呼ばれていた)の名前だった。

スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」(公開1968)/リドリー・スコット「ブレードランナー」(公開1982)
2001年宇宙の旅 (字幕版) ブレードランナー ファイナル・カット(字幕版)

ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス』(岩波書店,原著1948)
ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(ハヤカワ文庫,原著1968)/ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫,原著1984)
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229)) ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

新サイバー閑話(10) ホモ・デウス②

「等身大精神」と「経頭蓋直流刺激装置」

 私が「等身大精神の危機」という表現を使ったのは2005年に起きた、みずほ証券株誤発注事件だった。

 東京証券取引所の新興企業向け株式市場であるマザーズに人材派遣会社株が新規上場された際、顧客から「61万円で1株売り」の注文を受けたみずほ証券担当者が「1円で61万株売り」と金額と株数を逆に入力、あわてて取り消し作業をしようとしたが東証のシステムが受け付けず、わずか数分の間に株が乱高下、この騒ぎでみずほ証券は407億円の損失を蒙った。

 だれにも起こりがちなケアレスミスで、あっという間に会社に莫大な損害を与えてしまった社員は、どう責任をとればいいのか。ここでは会社にかけた損害を賠償するという、ある意味でまっとうな考えはまったく意味をなさない。

 このことに関して、エコロジーの世界で言われていた「等身大の技術」の類推で、コンピュータという精神機能拡張の道具が、私たちを途方もない世界につれて行き、そこでは「等身大の精神(人間本来の考え方)」が危機に瀕しているととらえたわけである。私は『IT社会事件簿』で、「従来の倫理を支えてきた社会システムに地すべり的変動が起こっている。こういうシステムに支えられていると、コツコツものを作り上げるといった仕事のありようが、どうにも馬鹿らしくなってくるのを否みようがない」と書いている。

 コンピュータの力があまりに強力になり、人間精神がそれについていけない驚愕と当惑が表明されているとも言えるが、いまふりかえると、この感想はいささか牧歌的に過ぎたようだ。

『ホモ・デウス』下巻に「経頭蓋直流刺激装置」という米軍が取り組んでいる実験の話が出ている。ヘルメットにはいくつもの電極がついており、それを頭皮に密着させると(倫理的な制約があるため、いまは人間の脳に電極を埋め込むことはしていない)、ヘルメットは微弱な電磁場を生じさせ、特定の脳の活動を盛んにさせたり抑制したりする。兵士の集中力を研ぎ澄まし、任務遂行能力を高めるのが目的である。

 科学誌の記者がその実験の体験談を書いている。

 最初はヘルメットをかぶらずにVRの戦場シミュレーターに入ったら、自爆爆弾を装着し、ライフル銃で武装した覆面男性20人が彼女めがけてまっしぐらに向かってきた。「なんとか1人撃ち殺すたびに、新たに3人の狙撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった」。そのあとヘルメットをつけると、「20人の襲撃者を前に、私は落ち着き払って自分のライフル銃を向け、間を取って深呼吸し、最寄りの敵を狙い撃ちにしたかと思うと、そのときにはもう、静かに次の標的を見極めていた」。ほんの一瞬の出来事のように思われたが20分が過ぎ、彼女は敵20人全員を倒していたという。

 コンピュータの力を人間の内部に取り込んで、その能力を高めようという実験である。

・「思考のための道具」から「ホモ・デウス」まで

 コンピュータ黎明期には、「思考のための道具」としてのコンピュータが期待をもって語られた。そのうちコンピュータがもつ危険な側面への関心が高まり、いろんなコンピュータ、人工知能、さらにはインターネットへの批判が現れた。

 初期のコンピュータ批判として有名なのが、コンピュータの世界的権威でもあったジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(原著1976)である。

 彼は「本書における主な論点は、……第一に、人間と機械の間には差があること、第二に、コンピュータにあることができるかどうかは別として、コンピュータにさせるべきでない仕事がある、ということである」と明快に述べている。

 彼は、「近年多くの心理学者は、人間もコンピュータも『情報処理システム』と呼ばれる、より抽象的な属に属する二つの異なった種にすぎないということを、当然だと考えるようになってきた」、「人間が、それよりもっと広い『情報処理システム』属の一種であるとする見方は、われわれの関心を人間のある一面に集めることになる。その結果、人間の残りの部分は、この見方が照らすことのない暗闇に押しやられることになる。この犠牲を払って、いったい何を購うことができるのかを聞く権利がわれわれにはある」とも述べている。

 情報処理システム属人間種という考えは、ホモ・デウスの捉え方と通じている。

 哲学からの反論としては、ヒューバート・ドレイファスの『コンピュータには何ができないか』(原著1972)があった。ドレイファスは、対象についての経験を組織化し統一する際には「身体」が、行動が規則によらずに組織化されうるためには「状況」が、状況を組織化する際には、「人間の意図や欲求」がそれぞれ重要な役割を果たすとして、とくに「強いAI」を批判した。

 知能と不可分の肉体の重要性についての指摘も多く、MITのAI研究者、ロドニー・ブルックスは1986年、「体を持たない人工知能の限界」を感じて昆虫ロボットを作っている。

 これらの見解を整理した『情報文化論ノート』(2010)で、私は「コンピュータとつき合う上で大事なのは、人間が具体的経験によって得たさまざまな知識、体で覚えている知恵、あるいは長い歴史の中で培ってきたさまざまな観念を、誰がどのようにしてコンピュータに入力するのか、ということである。コンピュータ自らが思考するようになるにしても、それはあくまでもコンピュータの思考であって、人間の思考ではない。ただその思考が、人間の能力をはるかに超えたものになる可能性ももちろんある」と書いている。

 つい最近の20世紀までは、コンピュータにさせていいこと、させてはいけないことの区別が真剣に議論されていたのである。そこにはコンピュータ対人間という捉え方があったが、21世紀に入り事態はまさに急転、コンピュータと人間の相互協力、合体が大きなテーマになってきた。

 著者はこの点に関して、「何千年もの間、歴史はテクノロジーや経済、社会、政治の大変動で満ちあふれていた。それでも一つだけ、常に変わらないものがあった。人類そのものだ。……。ところが、いったんテクノロジーによって人間の心が作り直せるようになると、ホモ・サピエンスは消え去り、人間の歴史は終焉を迎え、完全に新しい種類のプロセスが始まるが、それはあなたや私のような人間には理解できない」(63)と書いている。

ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(パーソナルメディア、1987、原著1985)/ ジョセフ・ワイゼンバウム『コンピュータ・パワー』(サイマル出版会、1979) /ヒューバート・ドレイファス『コンピュータには何ができないか』(産業図書、1992) /ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』(みすず書房、1994、原著1989)

思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか? コンピュータ・パワー―人工知能と人間の理性 コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判 皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則

矢野直明『IT社会事件簿』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013、携書版2015)/『情報文化論ノート』(知泉書簡、2010)
IT社会事件簿 (ディスカヴァー携書) 情報文化論ノート: サイバーリテラシー副読本として