新サイバー閑話(102)<折々メール閑話>㊹

岸田政権崩壊で加速する政局の「液状化」

B 地震の激しい揺れで地面がドロドロになり、地上のビルが倒壊するような「液状化」現象が、いま政局で急速に進んでいるようです。
 岸田政権は内閣支持率がどんどん下がる中で、去就定まらぬ大阪万博の費用をさらに840億円上乗せするという〝暴走〟ぶりですが、足元の自民党も、派閥が政治資金収支報告書を偽装して「裏金」を作っていた疑惑が噴出するなど混迷を深めています。

A 検察当局は政治資金規正法違反(不記載・虚偽記載)の疑いで捜査を始めていますが、どういうわけか、最大派閥の旧安倍派と二階派に焦点が絞られているようです。ユーチュブのSAMEJIMA TIMESは、これは政局の主導権争いにからんだ国策捜査だというクールな見方をしていますね。

B この政治資金規正法違反は自民党の「裏金」づくりとして厳しく糾弾してもらいたいと思いますが、問題はそれらの金が政治資金を集めるパーティー券売りさばきにからむものだということです。自民党政治家は資金作りのためにパーティを主催し、企業などから多額の金を集めています。自民党政権が企業有利の政策を推進しつつ、かえってマイナンバーカードやインボイス制度導入、消費税増税など一般庶民に不利な政策を強行しているからくりがここにあるわけですね。
 また岸田政権がアメリカ一辺倒の日米安保一体化のもとに軍備増強を進め、「平和国家日本」の名に背いて、ウクライナ問題、イスラエルのガザ侵攻についても独自の発言、行動をすることができず、一方で「気候温暖化」対策を原発推進の口実にするなど、日本国、およびその国民の将来に禍根を残すような政策を続けている背景でもあります。
 岸田政権の内実自体、政治の空洞化、「液状化」を象徴するとも言えますが、今回は、各政党内部の空洞化と政党そのものの離合集散という、政局の動きに見る「液状化」について気づいたことを列記してみましょう。政党政治の構図そのものが溶融しつつあるのではないでしょうか。

A たしかに自民党派閥も旧安倍派に見られるように群雄というより群小跋扈して混乱しているようですが、野党もひどい状況です。このような争乱の中にあって、野党第一党の立憲民主党、泉健太代表は「次期衆院選では政権交代をめざさない」と政治家とは思えない〝迷言〟を吐いています。また、一時は立憲を抜いて野党第一党をめざすと宣言していた維新は、大阪万博の迷走が影響して急速に人気を失墜しています(ついでに言えば、東京オリンピックを強行した背景が結局は金まみれ、汚職まみれの利権構造だった教訓から考えても、大阪万博はすでに歴史的使命を終えた壮大な「幻想」プロジェクトであることは明らかですね)。
 自民党もダメ、野党もダメという状況のなかで、一人気をはいているのが山本太郎とれいわ新選組です。次期衆院選をめざして、すでにやはた愛(大阪13区)、奥田ふみよ(福岡3区)、三好りょう(神奈川2区)など有力な候補を決め、公表しています。山本太郎代表は次期衆院選では国会議員20議席の獲得をめざしたいと言っていますが、ようやくここに来て、れいわの支持率も上昇気流にあるので、大いに期待したいです。

・泉房穂前明石市長が「救民内閣」構想

B 我田引水ですが、長年立憲民主党の支持者だった女性から「『山本太郎が日本を救う』や<折々メール閑話>のおかげで、山本太郎支持へと鞍替えし、友人の立憲支持者にもれいわを推薦しています」というメールをいただきました。中高年層へのれいわ支持を推進している我々としては、望外の便りでした。
 それはともかく、この政局液状化の中で前明石市長の泉房穂氏が「救民内閣」のスローガンを掲げたのは興味深いですね。東京新聞11月26日のインタビューで、「国民負担増から国民を救う政治へと転換する『救民内閣』発足に向け、政権奪取構想を練り始めた」と述べています。

A 泉氏は2011年から今年4月まで兵庫県明石市長を務め、18歳までの医療費や中学生の給食費無料化など、市独自の子育て政策を実施、注目を集めた行政のプロです。乱暴な物言いが玉に傷というか、失言が原因で市長をやめたり、再選されたりと、いろいろ話題の多かった人でもあります。市長退任後は各地の市長選で「非自民」候補を支援しており、最近の立川市および所沢市長選で応援した候補が相次いで当選するなど実績を重ねてもいます。かねがね今後は国政を考えたいと言ってきましたから、東京新聞インタビューで、その腹をいよいよ固めたのだと思います。

B 彼はこういうことを言っています。「仮に岸田首相が退いても生活不安は変わるはずはなく、国民は劇的な方針転換を求めている」、「次期衆院選ではこれまでのような右や左の対決ではなく、『国民の味方』対『国民の敵』の戦いに持ち込み、救民内閣創設を訴え、流れを一瞬で変える」。
 またこうも言っています。「岸田首相は首相をやりたかっただけで、国民に対する愛も、国家に対する責任感もない。そんな人が長期政権を敷いているのが今の日本の不幸である。野党も体たらくで、国民には選択肢がない」、「明石市の成功事例を他の自治体に広げる『横展開』だけでなく、その施策を国政に広げる『縦展開』、さらに自分の命には限りがあるから未来につなげる『未来展開』がある。そのために考えているのが救民内閣創設で、これ以上の国民負担増はせず、子ども予算と教育予算を倍増させる。食料品の消費税率はゼロにする」。
 具体的な政権移行構想については、「既存政党とは別の新党を立ち上げるよりも、全ての既存政党を壊すイメージ。衆院選は小選挙区制だから、今はいずれの政党に属していても、『国民の味方』が勝てると思えば、こちらに流れてくる。国民の負担増を許さない勢力を一つにまとめるのか、連合軍で戦って勝つのかは、いずれでも良い」、「自分が国会議員の1人になるかどうかに意味はい。政治映画を製作すイメージで言えば、主演ではなく、シナリオを書いてキャスティングもした上で、総監督として、政治の夜明けを国民に届けたい」とのことで、具体策は今後の各政党の対応にもよるでしょうが、非自民勢力をまとめ上げる大きな花火を打ち上げたわけですね。

A 「国民に対する愛も、国家に対する責任感も無い人物がこの非常時に首相である不幸」というのは間違いないですね。山本太郎は政権交代の核になれるように、まずれいわ新選組の数を増やそうとしており、その核のもとに、心ある同士と連携していこうというスタンスだけれど、泉氏は「救民内閣」という大きな旗印のもとに同調者を糾合しようとしているわけですね。

B 山本太郎が救民内閣構想に飛びつく可能性はむしろ少ないかもしれません。泉氏がれいわをどう見ているか、また山本太郎代表が泉氏の構想をどう受け取るかはわかりませんが、同じ目的に向かって連携できれば、大きな勢力になりそうな気もします。泉氏は「2005年の郵政選挙で自民党が大勝した時、4年後に民民主党政権が誕生するのは誰も想像しなかった」とも言っていました。液状化する政局再編の監督として泉氏は適任だという気もしますね。

A ここで主役を演じるのは山本太郎しかない(^o^)と思うけれど、泉構想がそういう役割を彼にふるかどうかという問題もありますね。

B たしかに、非自民政権はできたが、政策面で核のない寄り合い所帯ではしょうがないとも言えます。一方で、ただいま現在、政局液状化の兆候はいくつか見られるのも事実です。
 10月26日に都内で「政権交代を実現する会」の結成大会が開かれました。立憲民主党の小沢一郎議員を支持するグループが音頭を取ったようですが、市民代表も参加し、京都精華大学教員の政治学者、白井聡氏もゲストとして顔を見せました。他党かられいわ新選組のたがや亮(国会対策委員長)、日本共産党の穀田恵二(国会対策委員長)、社民党の服部良一(元衆院議員)といった人たちも集まっていました。小沢氏によれば、立憲民主党議員の中でも57人が政権交代をめざして頑張るとの意思表示をしているとのことです。

A 政党の離合集散も加速していますね。まず作家の百田尚樹氏が日本保守党を立ち上げました。岸田首相に飽き足らない旧安倍派の友軍のような政党だけれど、百田氏の人気はけっこう高いようです。そこに加わった河村たかし名古屋市長が「2世議員排除」を訴えているように、旧来の自民政治に対するアンチの考えもあるようです。
 また国民民主党の前原誠司議員が離党し、国会議員5人からなる新党「教育無償化を実現する会」を結成すると表明しました。非自民、非共産が旗印で、維新とのつながりが深そうです。これも政局液状化の一端と見られなくもないけれど、彼にどれほどの求心力があるか。

・政治家は石橋湛山の道義に学ぶべき

B 以前紹介したけれど、石丸伸二安芸高田市長の動きも、旧来の政治地図を塗り替えるものだし、このところ非自民候補の活躍が目立つ地方選での動きも含めて、日本全国で政治地図が流動している感じがあります。
 少しさかのぼるけれど、今年6月に日本外交の道筋を考える超党派の議員連盟「超党派石橋湛山研究会」が立ち上がったというニュースがありました。向米一辺倒の外交から転換すべきだとの意味を込めているらしい。
 石橋湛山は日本にはめずらしいほどのまっとうな保守政治家だったと思います。吉田茂の政敵で、所属する自民党から除名されたりもしましたが、ジャーナリスト出身者として常に筋を通し、アメリカ一辺倒の吉田政治を批判しました。にもかかわらず米軍司令部から追放処分にされたり、念願の首相になったのに病により2カ月余で辞職するという「不運の政治家」でもありましたが、彼の道義を重んじる政治は日本政治史に輝くものです。
 石橋湛山には岸田首相が所属する宏池会の先輩、池田勇人、宮澤喜一なども薫陶を受けたと言われます。その末裔が岸田首相や木原誠二議員であることも今昔の感に絶えないですね。
 これは評論家の佐高信が書いた『良日本主義の政治家 いま、なぜ石橋湛山か』(東洋経済新報社、1994)からの孫引きですが、湛山はこういうことを言っていたらしい。「政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、最もつまらないタイプは、自分の考えを持たない政治家だ」、「政治家にだいじなことは、まず自分に忠実であること、自分をいつわらないことである。また、いやしくも、政治家になったからには、自分の利益とか、選挙区の世話よりも、まず、国家・国民の利益を念頭において考え、行動してほしい。国民も、言論機関も、このような政治家を育て上げることに、もっと強い関心をよせてほしい」。
 こういった発言を今の政治家から聞けるでしょうかね。液状化へと動きつつある政局がこれからどう展開するかは素人の予想外だけれど、少しはまともな政治が実現してほしいと思います。石橋湛山の所説後段は、メディアや国民自らも噛みしめるべき点ですね(写真は、東京新聞記事およびウィキペディアからトリミングして借用。一部敬称略、悪しからず)。

 

東山「禅密気功な日々」(35)

『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』発売

 前著『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』の続編、『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』が11月末に発売になりました。前著の禅密気功動功編に続く静功編で、朱剛先生の瞑想理論の真髄をやさしく解説しています。瞑想に興味があるがまだ始めていない人ばかりでなく、現に本部道場などで習得につとめておられる方にも参考になると自負する禅密気功の瞑想ガイドです(静功の前提となる動功については、ぜひ前著を参照してください。動功+静功=瞑想です)。

禅密気功の瞑想は動功とセットである
体をゆする動功と座位での静功を交互に繰り返すことで
身と心の滓がほぐれて消えて
穏やかな気持ちに導かれる

 先生が力を入れておられる「気の瞑想」、「光の瞑想」、「心の瞑想」についてもその違いを説明しつつ、瞑想で得られる「穏やかな生活」、「悟り」の世界とはどういうものなのか、先生の40年に及ぶ修業の到達点についても、会報の中から珠玉の3編を選んで掲載しました(先生の横顔も紹介)。

 前著と同じ1200円+税で、アマゾンで購入できます。前著に比べるとやや薄手ですが、中身は充実していると、これも自負してます(^o^)。PARTⅠはウエブ未掲載、目次は以下の通りです。

PARTⅠ 先生に聞く<瞑想編>
<1> 瞑想を通して穏やかな気持ちになる
<2> 禅密気功の瞑想、3本の柱
<3> 個人的覚書&蛇足的コメント

PARTⅡ 瞑想と現代社会
<1> 瞑想すれば人間が変わる
    突然起こる悟りも、長年の訓練の成果
    瞑想すると、自然に人間性が出てくる
    正念の禅は健康になれる瞑想法
<2> 自分を守るための瞑想.

PARTⅢ 禅密気功な日々
<1> 細胞と和気あいあい
<2> Years of Practice
<3> 「病邪の実を瀉す」
<4> 蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな
<5> オンライン瞑想教室に参加
<6> 傘寿を迎えて老年について考える
<7> 「ゼロ・ポイント・フィールド」と気功
<8> 真夏の夜にお奨めする本2冊
<9> 10人に1人が80歳以上の「超高齢社会」

 注:PARTⅡの補遺として、「活在当下について」、「『小周天』について」、「道教の思想について」を収録しました。

 

 

新サイバー閑話(101)<折々メール閑話>㊸

寒暖差激しい秋の夜長のだらだら閑話

A 先日の日曜日に知人と鈴木宣弘東大教授(農業経済学)の講演会に行って来ました。鈴木教授は以前から日本の食料危機に警鐘を鳴らし、「今だけ、金だけ、自分だけ」の情けない風潮を強く危惧されています。志摩市出身なので親近感もあります(^o^)。講演の中で「MTNが新自由主義の三悪人」と言われたので、質問タイムに真っ先に「Nとは誰のことですか?」とお聞きしたら、新浪剛史サントリー社長とのことでした。Mはオリックスの宮内義彦、Tは言わずもがな、竹中平蔵氏のことですね。
 後に質問した方が「この食料危機の現状を打破する政党はどこだと思われますか?」と聞かれたので、思わず「れいわ!」と大きな声で叫んだのですが、鈴木先生もれいわの農業政策を高く評価されていて、我が意を得たり、でした。さらに、「れいわ新選組は他の野党とは違い、与党と裏で手を結んだりせずに真正面から与党に挑んでいる」ともおっしゃいました。講演終了後に名刺交換させていただきました(^o^)。

B 講演会の主催はどこですか。

A 三重県教職員組合で、聴衆は約30人、男女同数という感じでしたが、やはり若い人は少なかったですね。

B 鈴木教授は農業問題における国の姿勢を厳しく糾弾していますね。国の安全保障の根幹である農業政策に、この国のダメさ加減が集中的に表れていると言っていいでしょう。現在の食料自給率は38%という情けない事態ですが、ここに鶏や牛、豚の飼料や野菜の種の自給率などを勘案すると、自給率はぐっと下がるようです。昼食にも事欠く児童がいる一方でコメの減反が進められ、酪農行政の矛盾の表れとして、生乳が無残に廃棄されるという事態が進んでいます。
 彼は、種子法の廃止、農業競争力支援法など一連の政策変更は、「公共政策や共助組織により維持されてきた既存の農林漁業の営みから、企業が自由に利益を追求できる環境に変える」ことだと言っています(『農業消滅 農政の失敗がまねく国家存亡の危機』平凡社新書、2021)。
 私たちの財産でもあった自然環境が企業が儲かる商品に変えられていく神宮外苑再開発と軌を一にする動きで、極端に言えば、自動車輸出のために農業が犠牲になっている。アメリカには、自国農業を保護し育成し世界に進出させるという大きな戦略があるわけですが、日本は情けないことにその戦略に唯々諾々として従い、自国に不利な条件を率先して呑むという、まさに政治家たちの「国家私物化」とも言うべき事態が進んでいるわけです。
 また『食の戦争 米国の罠に落ちる日本』(文春新書、2013)には「目先の自分の利益だけしか目に入らない人々が多すぎる。しかも、国民の幸せではなく、目先の自分の利益しか見えない政治家や、人の命よりも儲けを優先する企業の経営陣が国の方向性を決める傾向が強まっている。‣‣‣。皆、自分たちの目先の利益のみに目を奪われ、支え合う気持ちを失い、 やがては、全体が沈んでいって、そこで初めて気づくのかもしれない」とも書いています。ここには、安くさえあればいいと、輸入農産物に飛びつく消費者の問題もありますね。「消費者にも、食の本物の価値をしっかりと認識して、それに正当な対価を支払うことが当然だという価値観を持ってもらうことが大事だ」という指摘はもっともだと思います。

A まことに昨今のこの国の政治はお粗末すぎる。岸田首相はこれまで増税を叫んでいたのに、支持率低下を気にして減税を打ち出した。政策の柱がない場当たり的な人気取りに過ぎず、国民からも、さらには政権与党や財務省当たりからも不興を買う始末です。首相としてこの国をよくするために自分は何をやるのだというビジョンがまったく見えてこない。と言うより、何もないと考えるしかない。自民党、公明党、野党を見渡しても、どんぐりの背比べ、骨のある政治家はいないですね。政治家ばかりでなく、官僚、企業人、メディア人も同じような印象です。

・国益を守る→自分の政治生命を守る

B  『農業消滅』には、「建前→本音の政治・行政用語の変換表」というしゃれた付録がついていて、「国益を守る→自分の政治生命を守る。アメリカの要求に忠実に従い、政権に結びつく企業の利益を守ることで、国民の命やくらしを犠牲にする」、「自主的に→アメリカ(発のグローバル企業)の言うとおりに」、「ウィン・ウィンの日米貿易協定→日米ともに利益を得たという意味ではなく、日本から農産物も自動車も両方勝ち取った、アメリカの一人勝ち」などと辛辣な指摘があります。

A いつから日本はこんな体たらくになったんでしょうね。高度経済成長真っ盛りのころ、日本経済を牽引しようと奮闘した通産官僚の姿を描いた城山三郎『官僚たちの夏』などを読むと、当時の官僚には省益ばかりでなく、日本全体の利益という大きな目標もあったようだけれど‣‣‣。

B 政治家もダメ、企業人もダメ、官僚もダメ、メディアもダメと、まさに「ダメダメ日本」ですねえ。

A われわれとしては、だからこその山本太郎とれいわ新選組ですが‣‣‣。

B これも『週刊文春』で知ったのだけれど、最近、朝日新聞の中堅記者が朝日新聞経営陣の姿勢に「絶望」し、沖縄の地方紙に転職したらしい。社をやめた記者がフリーになったりする例はこれまでも多かったけれど、他の地方紙に移ったのが印象的です。少なくとも彼は新聞記者という職にまだ意義を見出しているのだが、それが朝日新聞ではもはや無理だと言っているわけですね。OBとしては、まことに感慨深い出来事です。

A 日本人全体の知的レベルの劣化というのを感じざるを得ないですね。われわれの身の回りの市井の人々の中には、いまでも立派だと思う人がたくさんいるわけで、日本人全体というと語弊があるけれど、少なくとも知的職業と思われてきた政治家、企業経営者、官僚、メディア関係者というふうにくくると、その劣化は覆うべくもない気がします。

B その原因の一つに、日本人が漢籍や古典を読まなくなった、あるいはそれらの教育が重視されなくなったという事情があるように思いますね。大学でも人文科学が軽視されているように、人間として備えておくべき基本的なバックグラウンドが枯渇しつつあるのではないかと。
 鈴木先生が上げた新自由主義の信奉者や、昨今話題になった自民党議員の中にも、日本の一流大学を出て、ハーバード大学などのアメリカの名門で勉強し、語学も堪能、学力としては超エリートな人がけっこういるわけですね。だけど、経営などの技術・知識は抜群かもしれないけれど、人間としての資質はどうなのか、というと怪しい人がけっこう多い。以前にもふれたけれど、高等教育を受けると、かえって人間的にダメになるという傾向も見られますね(「まともな人間を育てない教育」、『山本太郎が日本を救う』所収、アマゾンで販売中)。「反知性主義」はここまで来た、というか。
 子どものころから塾や寺子屋で論語などの四書五経を意味もわからずに暗唱し、成長するにつれて、身にしみついたその言葉の真意を噛みしめるというような教育が日本人のバックボーンを育てていたのだと思わざるを得ないですね。
 ここで誤解を避けるために付言すれば、一時、自民党筋から修身教育復活などの声が上がったけれど、ここで言おうとしていることは、古い忠君愛国道徳を刷り込もうという発想とは違いますよ。だいたいそういうことを言いつのる人間は、自分をその枠外に置いているし、どちらかというと道徳観念の薄い人が多いですね。ここにはIT社会の進展という別の要素も大きく影響していると思います。

A 人間としてのバックボーンはどうなのか、まさにそれですね! 漢籍や古典は読まなくなり、一方では効率一点張り。廉恥と言う言葉を知っている国会議員が果たして何人いるのか? 何でもかんでもコ・ス・パ。世の中住みにくくなるはずです。
 日常の言語空間でも漢籍的表現で語られる言葉など聞いたことがない。あるのはカタカナ英語とアルファベット大文字連語の氾濫。自らの国の言語をおろそかにする国は滅びる、と池田晶子さんも語ってました。
 その昔、次男と甥の高校受験の家庭教師をやらされたのですが、その時に国語の勉強ということで、中島敦の「李陵」を音読させたことがあります。狙いは漢文調の文章の持つ魅力を感じさせることでしたが、見事に奏功しました(^o^)。

・支局は新聞記者の学校だった

B 「李陵」はいいですね。 僕も高校の教科書で接して以来、愛読しています。李陵については<平成とITと私>⑭『DOORS』突然の強制終了(『<平成とITと私>①『ASAHIパソコン』そして『DOORS』』所収、アマゾンで販売中)で苦い思い出とともにふれています。ご笑覧ください。
 当時から朝日新聞は駄目になって行ったというのが僕の持論で、その点は<平成とITと私>シリーズの続編でフォローしていくつもりです。ついでに思い出話をすると、我々の若いころは、これは他社も同じだと思うけれど、新人の4~5年の間に配属される支局が「新聞記者の学校」だったんですね。僕も2度目の佐世保支局時代に田中哲也支局長の薫陶を受け、少しはまともな記者になれたかと思っています。その思い出を書いた「これが新聞記者だ 反骨のジャーナリスト田中哲也」という論考にもリンクを張っておきます(写真は「正装」で任侠三部作を謳う故田中哲也さん。『追悼 田中哲也』から)。

A 今日は8人の仲間で構成するボランティア活動、恒例の「さくら苑に歌声花束を!」の日でした。さくら苑というのは伊勢市のデイサービスセンターで、訪問するのは今回が3度目、僕は十八番の「旅の夜風」を歌いました。ちなみに貴兄の尊敬される田中哲也氏の任侠三部作も好きで、よく歌います。中でも「流転」が好きですね。仲間のHさんはギター担当、Tさんはハーモニカ担当、これがプロ級でハーモニカも何本も持っています。おかげさまで好評、皆さん喜んでくださるので張り合いがあります。 

B 老々慰問かな。花も嵐も踏み超えて、仲間とともに講演会やボランティア活動に参加する充実した老年生活を送っておられますねえ。貴兄にはなんといっても、得意の裕次郎ばりの声があるからなあ。羨ましい(^o^)。

新サイバー閑話(100)<折々メール閑話>㊷

岸田首相と石丸安芸高田市長の器について

 B これまで「軍備増強」、「増税、増税」、「原発、再稼働、再稼働」と叫んでいた岸田首相が、どんどん下がる内閣支持率におびえてか、突然、10月23日の衆参両院本会議の所信表明演説で「経済、経済、経済」と連呼しました。「減税」とも言いましたね。

A 彼は何を考えているのか。

B 何も考えていないようですね。彼のメガネの奥に国民はいないし、国や世界に対する関心も、実はない。ただ仲間の利害だけがある。これは安倍元首相と同じだけれど、岸田首相の場合、安倍首相ほどにはその隠れた真意を表に出さなかった。しかし、安倍前首相が少なくとも仲間のことは考えていたのに対して、彼はどうも自分、あるいは家族のことしか考えていないようにも見えますね。最大の関心はいかにして首相の任期を維持するかだけのようです。

A 岸田首相の所信表明演説に関して、れいわの山本太郎が胸のすくような批判をしています。

 ひとことで言うなら、厚顔無恥、ポエムの連続、中身なしです。彼が一番力強く訴えたかったの経済の再生だっだと思うんですけど、三位一体の改革をやる、って言ってるんですよ。労働市場の改革、企業の新陳代謝の促進、物流改革――、労働市場の改革って、これいわゆる流動化でしょ。不安定な仕事をより広げていくってことですよ。企業の新陳代謝の促進は、中小企業潰しです。経済的に不安定な状況のとき、不況のときには、企業を守らなきゃダメなんですよ。でもそういうものをどんどんばらしていくっていうのは、失われた30年を作ってきた戦犯である自民党のやり方を一切変える気が ないってことです。それを、より拡大していくって訴えてるってことですね。だまされちゃいけない。よくそんなこと恥ずかしげもなく、大声で言えてるな、っていうことです。それに対して自民党席はやんやの大喝采です。劇団自民党と岸田さんと一席設けたみたいな光景を私たちずっと見せられてる状況だったということです。

 まさに一刀両断、痛快この上なしですね。これをツイッターにアップした人が「岸田総理の経済政策、平たく言えばこんなことだったんだね。こう言ってくれたら誰も投票しないよね」とコメントしていました。

B 付け焼刃の減税政策、しかも後には増税路線が控えているような状況で内閣支持率が上がるとはさすがに思えないけれど、定見なし、首尾一貫しない首相の態度にはうんざりです。25日の参院本会議では、自民党の世耕弘成参院幹事長までが「(内閣)支持率が向上しない最大の理由は、国民が期待するリーダーとしての姿が示せていないことに尽きるのではないか。残念ながら現状において岸田総理の『決断』と『言葉』にはいくばくかの弱さを感じざるを得ません」と批判したくらいです。
 最近、興味をもって見ているのが、岸田首相とは対照的な広島県安芸高田市の石丸伸二市長です。この人と市議会の対立をめぐって、最近ではユーチューブでもたくさんの動画が上がっているのでご存知と思うけれど、石丸市長のやっていること、あるいはやりたいことは首尾一貫しています。

A 市政に取り組む姿勢がはっきりしていますね。私利私欲でもない。

B ちょっと石丸市長登場に至る経緯を整理しておきます。
 石丸氏が安芸高田市長になったのは3年前の2020年です。安芸高田市は岸田首相のおひざ元、広島県の広島市からやや北方に位置する人口2万7000人の市です。ちょっと因縁話めくけれど、2019年の参院選広島選挙区で、自民現職の溝手顕正議員を敬遠した安倍首相が対抗馬として河井克之衆議院議員の妻、案里氏を担ぎ出しました。溝手氏は岸田派の重鎮だったけれど、岸田氏は安倍首相のなすがまま、結果は河井案里氏の勝利となりました。この選挙が実は金まみれで、結果的に河合夫妻が公選法違反で逮捕されますが、そのとき安芸高田氏の市長、市議会議長がともに、河井陣営から金をもらっていたことが判明、市長は辞職し、そのための市長選が2020年に行われました。
 石丸氏は安芸高田氏の出身で、京都大学経済学部卒、三菱UFJ銀行に就職し、ニューヨーク駐在の経験もあるエリートビジネスマンだったのだけれど、安芸高田市長選で前市長の後釜として副市長だった人が立候補、対立候補はいないという記事を新聞で読み、いきなり会社に退職届を出し、立候補を決めたと言われています。「故郷への恩返し」というのが出馬の動機だったらしいですが、「新しい政治を始めよう」というスローガンを掲げて当選しました。当時、石丸氏は37歳でした。

A おもしろい経緯ですね。

B 話が〝面白く〟なるのは、彼が市長になってからです。初登庁後の市議会一般質問で、市議の1人がいびきをかいて寝ていたので、彼はいきなりツイッター(今はⅩと名を変えているが、以下ツイッターの旧名を使用)で、それを公開します。これが市長vs市議会のスタートですが、市議会でツイッターをやってる市議はほとんどいなかったらしく、ツイッターを見た報道陣がこの件について市議会議長に問い合わせると、議長は「居眠りがどうした?」と言ったかどうかはともく、居眠り議員を擁護すると同時に、議会内の出来事をSNSで発信した行為に対して市長不信を強め、徹底抗戦の姿勢を取り始めます。議会は本来公開されているものだから、それをツイッターで書いたから問題だということはないんだけれど、議員連中が驚いたのはわからないでもないですね。

A これがきっかけで市長と市議会のけんかが始まるわけですか。

B そうです。まず市長が空席の2人目の副市長ポストを公募して人選まで終えたのに、市議会はこれを否決、さらに副市長の定数を2人から1人に減らす条例改正案を可決して、新たな副市長設置を不可能にしました。それに対し市長が議員定数を半減する条例案を提出し、これを議会が否決、市長が市活性化のために道の駅への「無印良品」の出店を計画すると、それも拒否するという大騒ぎになっていきます。市長側は議会に提案するとき、古いしきたりである根回しを一切しない。市議会の方では、「俺は聞いてないぞ」と従来の慣習無視という理由でこれに反対するわけです。市長のやり方は、なあなあ政治の旧弊を打破し、合理的な政治確立をめざすものだったと言えますが、市長が制度上可能な専決処分を繰り出すのも気に入らなかったようです。

A  言い分としては市長に分がありますね。

B 市議会保守系の清志会が中心になって、政策論論争そっちのけで、とにかく市長に徹底抗戦という状態になり、市長問責決議を可決しました。ところが他の議員が出した市長不信任案は否決されます。市長けしからんと叫びながら、なぜ不信任案は否決なのか。不信任案を可決して市長が議会を解散するのを恐れたわけです。ともかく、こういう具合に市長と市議会の対立は2023年まで延々と繰り広げられ、大手メディアでは報道されないけれど、ユーチュブでは「人気コンテンツ」に育っていきます。
 最初にもふれたように石丸市長の初心は「故郷に対するご恩返し」です。まっとうな議会運営を目指しているだけで、市長の職に汲々としているわけでもない。自分の地盤を固めたいわけでもない。記者会見では「そんなことはダサい」とも言っています。頭脳明晰、論理明解、冷静な口調で繰り出す追及に市議側はアップアップの状態でもあります。

A 石丸市長の舌鋒は鋭い。市議会運営としては、あえて波風を立てるようなやり方に不満があるとしても、発言内容はむしろまっとうです。言っている内容より態度が気に入らないという心理的反発があるようですね。

B  その最高潮が7月、いまから3か月前の市長定例記者会見です。市長案件を説明する中で、地元の中国新聞記事を取り上げ、事実関係の記述があいまいだと中国新聞記者を問い詰めました。このことにより、第三者を標榜している新聞メディアが当事者として引き出され、石丸市長の鋭い追及に新聞社側はタジタジの事態となりました。

A マスメディアが議論の俎上に乗せられ、舞台は市長vs市議会&中国新聞へと転回したわけですね。新聞記事は、市長には市議会との調整という責任もあるのではないか、と対立の中には入り込まず、市議会混乱の責任は市長にもあるという形で、結果的に議会寄りになった。「紛糾の原因は市長方針を聞こうともせずやみくもに反対する議会にあるのに、なぜその事実を報道しないのか」というのが市長の言い分ですね。

B ここにはマスメディアのいわゆる「客観報道」の問題点が凝縮しているとも言えます。古くは 60年安保当時の7社共同宣言が反対デモによる死傷者発生を機に「暴力を排し議会主義を守れ」との見出しを掲げ、「その事の依ってきたる所以は別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった」と、結果的に安保闘争を鎮静化させた例があるけれど、やはり「事の依ってきたる所以」を捨象して「混乱する議会」の正常化を叫んでも、解決にはならないですね。若い市長によって大手新聞社が批判されたと言うので、この安芸高田市制作の動画が再生回数100万回というヒットになりました。

A 痛快でもありますね。何をやりたいのかさっぱりわからない岸田首相と比べると、同じ広島出身でありながら、こうも器が違うものかと思います。方や一地方の首長、方や一国の首相です。地方だからできるとも言えるけれど、そうであれば、他の地方も見習うべきだと思いますね。国レベルでは山本太郎とれいわ新選組が頑張っているけれど‣‣‣。

B 岸田首相の広島サミットに関して、地元中国新聞の社説を紹介したことがあるけれど(㉝踏みにじられた「広島」の心、『みんなで実現 れいわの希望』所収)、ブロック紙としての中国新聞はけっこうまっとうだと僕は思っているんですね。これはマスメディア共通の問題です。私鉄ストなどの社会面原稿はともすると、「ストで失われた市民の足」みたいなものになりがちなわけです。

A 若い市長によって、メディア報道が批判された例として興味深いと思います。

B 石丸市長はトランプ前アメリカ大統領ではないけれど、ツイッターを駆使しています。政治をめぐるメディアのあり方も、これから大きく変わるでしょうね。これだけ再生回数が多いと、ユーチュブも無視できないでしょう。
 実はこの記事では中田敦彦氏のユーチューブ動画に多くを教わりました。ユーチューブには他にもすぐれた動画がありますね。政治とITの関係では、最近こういうニュースもありました。
 東京地裁は10月16日、ツイッターの匿名アカウント「Dappi」による虚偽の投稿で名誉を築づけられたとして、立憲民主党の小西洋之議員らが東京都内のIT関連企業「ワンズクエスト」と社長らに損害賠償を求めていた訴訟で、「投稿が会社の業務だった」と認め、計220万円の支払いと問題の投稿の削除を求めました。
 Dappiに関しては、早くから自民党との関係が取りざたされ、自民党から金が流れていたこともわかっています。判決も「自民によるネット操作の一環ではないかとの疑いは排除できない」としています。だれもが好きなことを投稿しているように見えるツイッターを政党や企業が大金を投入して操作できる余地があるというのも、新しいメディアの問題点です。直接関係のある話題ではないけれど、気になる出来事として追記しておきます。

新サイバー閑話(99)<折々メール閑話>㊶

統一教会・ジャニーズ・大阪万博

B 埼玉県議会に10月4日に提出された「虐待禁止条例改正案」にはびっくりしましたねえ。

A 何故こんなアナクロニズム以外の何ものでもない条例が起案されるのか💢

B 統一教会の亡霊を見た思いでした。統一教会(本欄では一貫して、旧統一教会と現世界平和統一家庭連合のことをこう表記している)に関しては、「⑬自民党&日本に深くたくみに潜行した統一教会」で詳しくふれましたが(『山本太郎が日本を救う』第1集参照、アマゾンで発売中)、統一教会は安倍政権下で国レベル、地方レベルを問わず、自民党内に深く浸透、自らの信条である古い国家間、家族観を自民党の政策に反映させようとしてきました。その〝成果〟が埼玉県議会の舞台を借りて躍り出てきたというか。

A 条例案の中身は、まず小学低学年(3年生以下)の子どものみで留守番させることを「虐待」だと禁じています。小学高学年(4年~6年生)の場合もそうさせないよう努力すべきだととし、さらにそのような児童を見つけた県民は「速やかに通告又は通報をしなければならない」と定めているんですね。罰則はありません。
 条例案は6日に県議会福祉保健医療委員会で自民公明の賛成で可決しました。NHKニュースによると(写真は反対運動のビラ)、自民党県議団が議会で説明した虐待にあたる行為には以下のようなものが含まれるようです。

・子どもを車の中に置き去りにすること
・子どもたちだけの自宅での留守番
・未成年の高校生に小学生などのきょうだいを預けて買い物に出かける行為
・子どもだけ家に残してゴミ捨てに行く行為
・子どもたちだけで公園などで遊ぶこと
・子どもたちだけでの登下校
・子どもにおつかいさせる行為

 自民党県議団は、子どもが車内に取り残されて熱中症などで死亡した事件などを念頭に置いていたようですが、なんともグロテスクな内容です。

B 保護者などから「現実の子育ての中でとても守れない内容だ」との批判が殺到、自民党県議団は10日に、そそくさと条例案を撤回しました。しかし、その時の記者会見で田村琢実団長が「説明が不十分だったが、法案そのものには瑕疵(かし、欠陥)がない」と、これまた驚くような発言をしたわけです(13日に正式撤回)。
 子どもをめぐる事故が多発、親が虐待している例が目立つのも確かですが、こういう悲惨な出来事が起こらないような社会の改善を図るべきなのに、まるで共稼ぎを否定し、母親は専業主婦として家庭に止まるのがいいと言わんばかりの、現実から遊離した家族観を臆面もなく露呈しています。
 しかもそれを法律で強制しようというのはアナクロニズムでもあり、グロテスクでもあり、それより何より「法は家庭に入らず」という近代法の理念からも外れています。ちょっと現実を見るだけで、こういうことでは事態を改善できないのは明らかでしょう。子どもをめぐる現状は長い自民党政権が引き起こした事態なのに、そのことが自民党県議団に見えていない。これは驚くべきことです。一方で、こういう議員を選んできた県民にも問題があると言わざるを得ないですね。
 東京新聞によると、オンラインで9万筆を超す反対署名を集めた東松山市の黒山湖子さんは11日、こども家庭庁を訪れ、子どもや子育て当事者の意見をよく聞くよう要望書を提出しましたが、その後の記者会見で「現実世界を生きている私たちと、議会の中で生きる議員との間に乖離がある。県民の声を反映するのが議会。こうなったのは大変残念な気分だ」と語ったようです。

A たしかに主婦たちが置かれている現実と自民党県議団の頭の中がまったく乖離していますね。

B こういう議員が当選した背景には、やはり統一教会の影があるように思います。以前も話したけれど、地方議会にこそ統一教会の影響は深く潜行していたわけです。統一教会と関係する議員もいますし、自民党保守派の考えと統一教会のそれとがきわめて近いという問題もあります。
 ひるがえって考えると、国会議員、とくに自民党議員と国民との乖離も大きいですね。多くの国民が反対していた安倍首相国葬は強行され、アメリカの意向を忖度した安保政策が大手をふって横行している。相次ぐ値上げに多くの人が悲鳴を上げているのに、武器調達のための増税を押しつけようともしてきました。
 ここでもなぜこのような議員を国民が選んでいるのかという問題があります。埼玉県議会は国会の相似形ではないか。自民党県議団、自民党国会議員団、いずれも県民や国民から浮き上がった別世界(まさに「ムラ」)を構成し、自分たちの都合のいいように政治を動かし、あるいは動かそうとしているけれど、それを結局は有権者が支持している(あるいは投票権を行使していない)という、どうにもやるせない現状ですね。

A 統一教会をめぐって文部科学省は12日、宗教法人審議会を開き、13日には統一教会への解散命令を東京地裁に請求しました。請求そのものが危ぶまれていたことを考えると一歩前進と言えるけれど、裁判所がはたして解散命令を出す決定をするのかどうか。岸田内閣には依然として統一教会との関連が指摘された人も入閣しているし、今回の解散命令請求は問題解決へのスタートにしか過ぎないですね。
 折りしもすでに衆院議長辞任を表明している細田博之議長が13日、議長公邸で記者会見、そのとき初めて統一教会との関係について説明しましたが、「会合に呼ばれたら出るという程度で、特別な関係はない」と釈明しただけです。統一教会の会合で挨拶、「安倍首相にも伝える」などと発言したことが「特別な関係ではない」というのはまさに強弁です。自民党と統一教会の関係は依然、ヌエ的なままだということでしょう。

B 一般社会から遊離したムラ的支配が浸透しているということでは、ジャニーズ問題も同じですね。謝罪のための会見に記者のNGリストを用意したことで批判が高まりましたが、いろんな情報を懸案すると、ジャニーズ側は記者会見をまるで株主総会と見立てて、なるべく異説(強硬意見)を排するためのさまざまな工夫を巡らしていたらしい。NGリストもその一環だけれど、そのリストに載っていたために発言できなかったジャーナリストの鈴木エイトさんは「後方で大きなヤジを上げながら、自分は質問しなかった人がいた。一見してメディアの人とは思えなかった」と言っていました。
 日本の芸能界に大きな影響をもった事務所が企業の社会的責任という考えを持たず、会社としてのシステムすら不十分で、それこそ大きな「ムラ」でしかなかったことが露呈しています。彼らもまた世の常識とは無縁のようですが、そういう一企業にテレビ界もメディアも翻弄されてきた。それが可能だったということが、まさに問題の核心だと言えます。

・大阪万博を推進する維新政治と大阪府民の支持

A 2025年春から秋にかけて開かれる予定の大阪万博(正式には2025日本国際博覧会)問題も同じ構図ですね。大阪府知事および大阪市長の二大ポストをおさえて大阪で絶大な支持を得ている日本維新の会が進めてきたプロジェクトですが、同時に構想されているカジノ計画も含めて、最近いろんな問題が指摘されています。

(写真上は万博会場完成予想図、下左は夢洲の開発区分図、下右は2023年7月時点の進捗状況、上は大阪万博ウエブから、下2枚はデモクラシータイムス2023.7.20から)

B 会場の予定地、夢洲(ゆめしま)は元ゴミ処理場で地盤が弱い上に環境汚染という問題もあります。そこへきて、まず当初予算の1250億円が2020年に1850億円に増額され、2023年には2300億円となりました。当初予算の8割増です。世界各国の参加状況も開幕まで2年を切った現段階でなお不透明で、パビリオン建設もほとんど進んでいない。隣接するカジノ建設も地盤の関係で難題山積という状況です。

A 「ゴミの島を夢の島へ」を売りものに大阪維新が進めたカジノ誘致、万博推進に関しては、れいわ新選組の大阪選出国会議員、大石あき子が終始厳しい批判を続けています。一見夢を呼ぶような派手な企画に税金を大量につぎ込み、国威を発揚、あわせて客を呼んで景気浮揚につなげようという発想が古いんじゃないですか。東京五輪は金まみれに終わり、その影響もあって札幌五輪の30年開催は断念することになりました。おわこん(時代遅れのすでに終わったコンテンツ)とも揶揄されているようですが‣‣‣。

B 万博開催は1年延期となり、しかも規模も縮小するのではないかとの憶測もあります。その上でカジノも挫折ということになると、この計画を推進した日本維新の会の幹部、松井一郎(元大阪府知事、元大阪市長)、吉村洋文(現大阪府知事、元大阪市長)両氏の責任はどうなりますか。地盤の弱い夢洲を会場候補地に選んだ構想そのものが、今となっては大向こうの人気取りだけをねらった、いかにも軽率な印象を受けます。その陰で本当にやらなくてはいけない問題から目をそらしているとも。最近では、思うにまかせぬ進捗状況を背景に、国と大阪の間で責任のなすりつけをしているとの報道もあります。
 写真を援用させていただいたデモクラシータイムスの動画でジャーナリストの西谷文和さんは、この計画は「当時の安倍首相、菅幹事長、日本維新の会の橋下、松井両氏の4者会談で決まったのではないか」と推測していましたが、それが事実とすると、ここにも安倍首相の負の遺産があります。大阪の維新勢はそれこそ大きなムラを構成しているようですが、少なくとも大阪府民には圧倒的に支持されてきました。ここが悩ましいところだと思います。

A 大阪での維新人気の背景には、それ以前の自民府政がひどすぎたという指摘もありますね。

B なるほど。しかし現状を見ると、埼玉県の黒山さんが言った「現実世界を生きている私たちと、議会の中で生きる議員との間に乖離がある。県民の声を反映するのが議会。こうなったのは大変残念だ」という声を大阪府民に届けたい気がします。

東山「禅密気功な日々」(34)

コモンの喪失とIT社会の暴走

 明治神宮外苑の再開発問題は、もちろん樹齢100年もの樹木1000本近くを伐採しようという暴挙にあるだろう。開発関係者の無神経は理解に苦しむところだが、ことの本質はもっと深いところにあると思われる(写真は神宮外苑のイチョウ並木、ウィキペディアから)。

 神宮外苑の森は国有地を戦後に明治神宮などに払い下げられ、同時に都民の憩いの場になっていたのだが、今回はこれを再開発し、老朽化したスポーツ施設などを新設しようと計画されている。これによって古い樹木が伐採されるだけでなく、市民が憩いの場として利用していた空間(共有財産=コモン)が失われ、金儲けのための娯楽施設に切り替えられる。

 要は都民が散歩したり、遊戯をしたりしていた無料の憩いの場が消え、より多くの利潤を生む巨大なスポーツ施設などに変貌する。神宮および開発者にとっては歓迎すべきことだろうが、都民にとっては無形の財産が消えることでもある。ここには、土地の所有者だからと言って、何をやってもいいのか、その時、経済の外に置かれることになる「環境」はどう変遷するのか、という大問題が横たわっている。

・すべてが「儲け」のために

 ウイーンの社会科学者、カール・ポランニーは戦後ほどなく、「社会に埋め込まれた経済」が「経済に埋め込まれた社会」に「大転換」しつつあると述べたが(『大転換』、東洋経済新報社)、ソ連の崩壊で世界全体が高度資本主義の渦中にある現在、その最新形態である新自由主義はいよいよ経済を社会のくびきから引きはがして、あらゆる場面で資本の論理を貫徹させ、すべてのものごとを金に、儲けを生む商品、施設などに変えている。そのために起こっているのが市民の共有財産とも言えるコモンの喪失である。

 その典型は最近話題になった琵琶湖の花火大会だろう。花火大会が市民のお祭りから観光客相手に利潤を生む観光事業、営利事業に変質したために、入場料を払って観覧席に入らない人は見えないように、会場の周囲2キロにわたって柵がつくられた。本来、市民全般の祭りで会った花火大会を、一般の人びとは柵の隙間から見ている。「公」のものであるべき花火大会を、自治体が「私」的に囲い込み、金を払わない地元民を「排除した」わけである。

 利用できるものはすべて金儲けの手段に変えようとする新自由主義は、おそらく社会主義を標榜する陣営も含めて、いまや水や空気のような自然の恵みすら金で買う商品に変質させている。ジャーナリスト、ナオミ・キャンベルは『ショック・ドクトリン』という本で、惨事をも自己の利益に結びつけようとする資本の飽くなき「惨事便乗型資本主義」の正体を暴いた。今回のコロナ禍でもワクチン製造業者は大儲けしたらしい。

 東京大学大学院准教授(経済学)、斎藤幸平は初期マルクスの手稿などを丹念に読み込み、マルクスの環境への関心を掘り起こして、「いま必要なのはコモン(共有財産)の再生である」と言っている(『ゼロからの資本論』NHK出版)。これとよく似た考えは、早くはわが国が生んだ屈指の経済学者、宇沢弘文(写真)によって「社会的共通資本」として提起されている。

 社会的共通資本は、広い意味での「環境」を経済学の対象にすることを意図して、宇沢がつくりだした概念で、佐々木学(『資本主義と戦った男』講談社)によれば、「近代経済学は市場の分析に注力してきたが、宇沢は『環境』を含めた社会そのものを分析しようとした。自然と人間の関係をも射程に入れた経済学の構築に挑んだ」ものだった。

 宇沢の説明によれば、社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の3つの大きな範疇にわけて考えることができる。「自然環境は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などである。社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど、ふつう社会資本とよばれているものである。‣‣‣。制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度をひろい意味での資本と考えようとするもの」で、「社会的共通資本は、 一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。社会的共通資本は、 一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を支え、市民の基本的権利を最大限に維持するために、不可欠な役割を果たすものである」と述べている(『社会的共通資本』、岩波新書)。

 彼は「社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理され、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない」とも述べている。ここは地域住民など関係者を広く集めた「アソシエーション」を重視する斎藤とは少し違うが、資本の論理がいよいよ激しく貫徹している現状に対する鋭い批判と言えるだろう。

 かつてマイケル・サンデルが『それをお金で買いますか』で例にあげたように、こどもに読書の習慣をつけさせたいと、1冊読めばいくらかのお小遣いを与えると、それは読書欲を刺激する効果よりも金儲けの手段となり、かえて読書本来の楽しみを奪ってしまう。お金が介在することで人々の倫理感が微妙に変わる。

 斎藤幸平や政治学者の白井聡は、資本主義が高度化するにつれて、資本主義の論理を内面化したような人びとが現れると警告している。それはたとえば、花火大会で締め出された人がいることには思いが至らず、「私たち有料席で立派な花火を見られてラッキー」と思う若者に象徴的だが、今やそういうふうに育った人々が社会の中堅を占めるようになっている。

・ITの想像を絶する発達が拍車

 この高度に発達した資本主義と不即不離の関係で、私たちに大きな影をなげかけているのがITの想像を絶する発達である。ダグラス・ラシュコフ『デジタル生存競争』(ボイジャー)によると、デジタル技術を開発した億万長者たちは、自分たちの利益のためには地球がどう危機に瀕しても、貧しい人びとがどうなってもお構いなしで、自分たちだけが地上 の楽園、あるいは地球外に避難所を求めて、そこで生き延びようとしている。

 パソコン黎明期にBASICやMS-DOSで世界一の大富豪になったビル・ゲイツは比較的早くに隠退、いまは世界規模の慈善事業に乗り出しているが、本書によれば、この低開発国援助などを標榜する慈善事業こそが最先端ビジネスらしい。

 私たちを取り巻く「クラウド」について考えてみよう。いまや自分の個人的感想やプライベートなデータもすべて大手IT企業の巨大なサーバーに蓄えられ、それらのデータは、私たちの購買意欲、嗜好、さらには思考、生き方まで分析する材料に使われ、新しい製品開発に利用されている。

 パソコンのOSやアプリケーションソフトを利用者が自ら管理することは難しい。パソコンをつないでおけば自動的にバージョンアップしてくれるし、またそうしてもらえなければ、快適なパソコンライフを送るのは不可能にまでなっている。この至れり尽くせりのサービスの代価が個人情報の提供である。OSやアプリは頻繁に更新され、そのたびに「個人情報に関する扱いの変更」などが提示されるが、これは個人情報をより広く、より詳細に、効率的に集めるためなのは間違いない。と言って、一般ユーザーにその更新をしないという選択肢はほとんどない。ソフトを更新しつつ、個人情報を防衛するためにはかなりの技術が必要で、そう努力していたとしても、専門家の方がはるかに上手で、いつの間にか彼らの軍門に下ることになる。

 アプリもそれで生成したデータもすべて自分のパソコン内ではなく、クラウドの上に置かれ、ということは、結局は個人情報を惜しげもなく差し出すとことになっている。この趨勢はもはや止められないだろう。個人情報ばかりでなく、一国の重要秘密も、パソコンを使って生成している以上、もはやGAFASなどの大手IT企業の思うがままである。最近話題のChatGPTやメタバースにしても、たしかに著作権上の問題は喫緊の課題だとしても、もっと深いところに憂慮すべき問題がある。デジタル化した情報を収集分析して的確な答えを提示してくるのをありがたがって、お伺いを立てていると、私たちの思考そのものが、大きく変えられる恐れがある。

 そういう時代の中で、自分を客観視するためにこそ瞑想が不可欠だと、私は思っているのである。瞑想は紀元前、釈迦の時代から面々と伝わってきた。それは朱剛先生が言うように、自己を陶冶し、いい方向へ変えていくものだと思うが、一方で、このような社会によって自分本来の姿が変えられないようにするためにも不可欠だと思われる。

 花火大会を有料席で見て、一般人が締め出されていることに何の想像力も働かないのは、やはりやさしさに欠けるのではないだろうか。花火大会はみんなで楽しんだ方がいい。また政治学を学びながら、「時の首相の言うことに反対すること自体、おかしいのではないか」という学生は、大学で何を勉強しているのであろうか。なぜ思想信条の自由、表現の自由という人権感覚を喪失してしまっているのだろうか。そう言えば、以前、やはり白井聡がどこかで「現代の若者は『寅さん』映画がなぜおもしろいのかがわからなくなっている」と書いていた。庶民感覚からすでに切り離されているわけで、こういう生き方は果たして豊かと言えるのだろうか。

 社会の激しい波に巻き込まれないためにも、一人静かに自分と向き合う時間が貴重なものになる。それは社会をより客観的に眺める訓練にもなるだろう。まさに現代社会で正気を保つためにこそ、瞑想が必要になっていると思われる。(注:この原稿は近く刊行を予定している東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』の続編(瞑想編)のために書いたものです)

東山「禅密気功な日々」(33)

10人に1人が80歳以上の「超高齢社会」

 健康な生活をめざして禅密気功に励んでいる日々ではありますが、日本社会、および世界の情勢はけっして健康とは言えない状況です。とくに日本の現状はひどい。2回にわたって、私たちの周りの情勢について考えておきたいと思います。

 2023年の敬老の日(9月18日)にあわせて総務省が発表した人口推計によると、80歳以上が総人口に占める割合が10.1%となった。なんと10人に1人が80歳以上となったわけである。

 65歳以上の人口が総人口に占める割合を老齢化率と呼び、7%以上を高齢化社会、14%以上を高齢社会、21%以上を超高齢化社会と呼ぶ習わしだが、日本の高齢化率は29.1%、ほぼ30%である。これは2022年の段階でモナコに次いで2位である(グローバルノート – 国際統計・国別統計専門サイト)。しかも国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、2040年には総人口の34.8%になるという。

 また2022年版の世界保健統計(WHO)によると、平均寿命(各年における0歳児の平均余命)が80歳を超えている国は世界中で31カ国あり、日本はもっとも高い。私は「超高齢社会」という呼び方を使っているが、日本は世界屈指の超高齢社会である。しかも同時に、急速に進む「少子化社会」でもある。

 内閣府によれば、「少子化とは出生率が低下し、子どもの数が減少すること」で、出生率には普通、「合計特殊出生率(その年における15~49歳の女性の各年齢別出生率を合計した数値)が使われる。日本の合計特殊出生率は、2022年が1.26で過去最低、しかも7年連続の下降となった(厚労省発表、人口を維持するためには2.07が必要と言われる)。要は、若い人が子どもを産まなくなっている。

 その結果として、人口構成を年少人口(0~14)、生産年齢人口(15~64)、老年人口(65以上)に分けて見ると、11.9、59.5、28.6(各%)となり、 老年人口が年少人口を上回っているし、世界平均の25.4、65.2、9.3(各%)に比べると、日本の高齢化、少子化傾向が際立つ(内閣府、令和4年版「少子化社会対策白書」)。将来的に、いよいよ高齢者は増え、若者の数は減る。これは高齢者だけの問題だけなく、若者の問題、いや社会全体で考えるべき大問題だろう。

 別のグラフを見ると、日本の高齢化は戦後急速に進んだことが明らかである。その過程には高度経済成長があったが、それも今は昔、ここ30年、日本経済はむしろ衰退しており、私たちの前途には大きな苦難が横たわっていると言っていい。

・前途に横たわるさまざまな問題

 ジェロントロジー(Gerontology)という言葉がある。一般に「老年学」と言われるが、日本総合研究所の寺島実郎が提唱するように、むしろ「高齢化社会工学」ととらえ、日本社会を今後どうするのか、そこで日本人はどう生きていくのかを大きな構想力をもって議論していくべき時だと思われる(『ジェロントロジー宣言』NHK出版新書)。

 本書によれば、たとえば、「現在、企業に就職した新卒者のうち3割が3年で転職していく」など、終身雇用制度はすでに崩れている。また、「戦前の日本で『大人になるために身につけるべき基本』とされた和漢洋の教養は、すっかり失われてしまった」という全体的な知的劣化も否定できないだろう。「高齢者ほど安倍政権の経済政策であるアベノミクスを支持する構図になっている」という気になる指摘もあった。

 超高齢社会にはちょっと考えただけで、以下のような問題がある。

・人口構成が「高齢化」することで、社会そのものの活力が奪われる。
・生産年齢人口減少による経済の一層の衰退。年金制度の崩壊と若者の閉塞感、および生きがいの喪失。
・政治や経済、社会の公的な役職に老人が居座るための「老害」。
・逆に弱者としての「老人切り捨て」。
・失われた「隠居」というライフスタイル。成熟、老成できない老人。

 最近は老後を快適に過ごすために海外に移住する人も出ているし、逆に日本に職を求める外国人も少なくない。世界中から多くの観光客もやって来る。日本を「捨てて」海外に出ていく若者もけっこういるようである。そういう若者が日本に帰ってくることはまずないだろう。世界中の社会的移動が活発になっており、これからは日本民族純潔主義的政策で国の将来を考えることは難しい。

 にもかかわらず、現自民党政権は全地球的視野でものごとを考えることができず、入管制度を厳しくするなど、外国の安い労働力だけ使おうという古い発想から抜け出ていない。女性登用にしても、男性社会に迎合するような人材や親譲りの世襲、選挙で勝てるタレントばかり集めるから、国会議員でも女性候補の数そのものが少なくなるし、とんちんかんな行動やひんしゅくものの答弁をする人も後を絶たない。

 こういうことでは、世界のトップを走り続ける超高齢社会の世界モデルを構築し、そのことで世界に貢献、あるいはリードするなどということはまず不可能である。こういう難題を抱えていることを前提にしつつ、私もその立派な一員である高齢者自身が健康に、そしてまっとうに生きていくための工夫や知恵を考えていきたいと思っている今日この頃かな(^o^)。

新サイバー閑話(98)<折々メール閑話>㊵

今日も孤軍奮闘するれいわ新選組

B 例のジャニーズ問題でジャニーズ側が10月2日に開いた謝罪の記者会見(写真、東京新聞から)にはマスメディア、フリーランスを含めて300人の記者が出席したけれど、この会見に特定の記者を指名しないための写真と氏名入りの「NGリスト」があったことがNHKの報道でわかりました。ジャニーズ側から記者会見の設営を任された外資系㏚会社(FTIコンサルティング)が作ったらしく、司会の元NHKアナウンサー、松本和也氏はそのリストを見ながら発言者を指名していたようです。

・ジャニーズ謝罪会見に「NGリスト」

 会見に出席していたフリーランスの尾形聡彦、鈴木エイト氏などは「会見が始まってからずっと挙手していたが、司会者と目が合っても指名されなかった」と述べています。謝罪のための記者会見としてはきわめて不誠実と言えるでしょう。

A FTIコンサルティングは5日にリスト作成を認め、謝罪しました。ジャニーズ事務所側は「NGリスト作成には関与していないし、特定の人を当てないでほしいなどというような失礼なお願いはしていません」と言っているけれど、詳しい事情はわかりません。その前の9月7日の記者会見が4時間にもおよぶ長時間になっためにコンサルティング会社と相談、質問は1社1問、時間も2時間に制限したわけですね。その過程でNGリストが作成されたらしい。

B 会見に参加したけれど指名されなかった東京新聞の望月衣塑子記者は、同紙上で「指名されなかった理由が、私もNGリストに入っていたからだと後でわかった。改めて記者会見を開き、一連の経緯を詳細に説明するべきだ」と署名記事で書いています。
 ここで思うのは、謝罪のための記者会見をなぜ㏚会社にまかせたのかということです。番組宣伝ならともかく、不祥事を起こしたことへの謝罪と今後の対策を説明するための記者会見なんですね。ここには芸能とジャーナリズムという区別がない。と言うか、以前にも安倍政権の特徴として書いた「報道機関より広告代理店」という現代の風潮が如実に反映しています(㉗「メディアの根底を突き崩した安倍政権」、『みんなで実現 れいわの希望』所収)。

A オリンピックも世界陸上選手権も、サッカーワールドカップも、広告代理店が運営を請け負う時代です。先の東京オリンピックでは、そのために大がかりな汚職事件まで起こっています。芸能一筋に生きてきたジャニーズ側の面々にはそれがいかに場違いな選択なのかがわからなかったんでしょうね。

B 現代社会のいびつさの反映とも言えますね。いまや一般に「記者会見」そのものが形骸化しているのは、政治の世界における総理大臣会見、官房長官会見などでも明らかです。発言は制限され、しかも回答に対する再質問ができない。これは記者会見というもののあり方からは大きくそれています。先の望月記者など、菅官房長官から「あなたに答える必要はない」などと言われ、他の記者がそれに抗議することもなかった。ジャニーズ会見ではジャニーズ側に拍手を送る記者もいたらしく、望月記者は「記者側が会見者に拍手を送るのを始めて見た。何のために会見に来たのか」と疑問を呈していたけれど、官房長官会見で黙っている記者と大差ないと言ってもいい。
 ひな型は国会にある。ある意味で世間ずれしていないジャニーズの面々が安易に㏚会社に仕切りを頼んだ。芸能プロダクションの記者会見ではあるが、そこには現代の記者会見の姿が拡大投影されていると思うわけです。ジャニーズ問題では、なぜこメディアはこれまで沈黙していたのかが問われたけれど、いま盛んにジャニーズを攻撃している記者に対してもいささかの感慨無きにしもあらず、ですね。
 ところで、また我田引水になるけれど、こういう全体状況にクサビを打ち込めるのは、やはり山本太郎とれいわ新選組だけだと思いますね。というわけで、最近のれいわの活動ぶりを紹介しておきましょう。

 ・「つまりはなにか」と街頭デモ作戦

 ユーチューブ上に『つまりはなにか』という「れいわ新選組拡大チャンネル」ができました。サイトの説明によれば、「日本の政治の危うさは、最近海外でも報道されています。つまりはなにかchでは、れいわ海外勝手連(れいわ新選組の海外ボランティアチーム)のご協力のもと、ネイティブチェック済の【ドイツ語字幕】と【英語字幕】付の動画配信を始めました。日本の腐った政治を海外から見守り、監視して頂きます。 皆様のご理解をよろしくお願いします」とあります。
 日本にもまっとうな政党があるということを海外の人に知ってもらうのはいいことですね。

A そこには「猛烈な野次を浴びながら何年間も私達の先頭に立ち続け、どれほど過酷でも”まだ努力が足りない”と言う。一般人には決定権が無くて、勝手に決まる悪法に絶望しそうになる度に『まだこの国には希望がある』と奮い立たせてくれる。私達の支え。いつもありがとうね」という投稿がありました。
 こういうのもありますね。
 「そっか・・・。自民党が最も恐れているのが政治に関心の無かった人達が政治に関心を持って投票に行くことなんだな。政党間の支持者の奪い合いなんてのはホントに些細なことなんだな。自分も絵にしか興味無くて政治に関心なんてほぼ無かったクチで、投票には行ってたけどむしろ自民党に投票していたような人間で、2019年の消費税増税でやっと目が覚めたという・・・。絵にしか興味がないとか、音楽にしか興味がないとか、スポーツにしか興味がないとか、そういう人が、なんかおかしいぞって目が覚めるきっかけはインボイスでも、消費税でも、保険証の廃止でも、処理水海洋放出でも、バラマキクソメガネでも、子ども食堂でも、カルト校則でもなんでもいいんだよね。絵だけ描いていたいけど、だまってる訳にいかない程、今は酷いと思った。自分みたいな人が増えれば、これはひっくり返せるんだってことも分かった」。

 B こういう投稿を見ていると、れいわの支持者がだんだん増えているようで希望が持てます。実際、れいわが最近、各地で始めた街頭デモ作戦には多くの人が参加しているようです。大石あき子議員の発案で、最初は大阪で始まったとか、いま全国で実施、あるいは計画されています。9月30日の渋谷デモをユーチューブの「ミもフタも愛」というサイトが終始撮影して投稿していますが、にぎやかなものです。
 予想以上に参加者が多かったために、4グループに分かれての行進で、警備の警察官もたくさん出ていましたが、とにかく見物人が多い。スマホで撮影したり、応援したり、飛び入り参加したり、ブラスバンドの演奏もあって、なかなか楽しいデモのようでした。昔懐かしい風景でもあり、これぞ街頭行動の典型ですね。

A れいわは今、衆院選に向けて全国でポスティング大作戦を各プロック毎に展開中です。愛知、岐阜、三重は東海ブロックに属し、各県支部にポスティングチームが編成されています、というか現在も参加者募集中です。三重でも、北部、中部、南部に分けられていまして、僕も南部のチラシ保管係を仰せつかりました。三重の割り当てチラシ枚数は75,000枚です。

B 岸田政権は相変わらず、一向に元気の出ない現状ですが、こういう少なからぬ人びとの地道な活動が実を結び、次期衆院選では、山本太郎が言うように、心ある野党議員を1つの塊として終結させるためのプラットホームになれるよう、最低20人の国会議員を誕生させたいですね。

 

 

新サイバー閑話(97)<折々メール閑話>㊴

ジャニーズ事件と「自浄能力」を喪失した日本

 A 今週号の『週刊文春』を購入して、隅から隅まで目を凝らしても、木原官房副長官の木の字もない! 文春が政権に忖度したとは思いたくないけれど、ネットでこの件に関して検索しても、さしたる記事はありません。一方で、岸田首相が木原を留任させるという記事は随所に見られます。政権の中枢にいる人物によって、木原問題の進展が押さえ込まれたの間違いないのでは。

B かつて山本太郎が国会で岸田首相に「あなたはなぜ政治家を志望したのですか」とズバリと質問したことがありました。多くの人が感じている、もっともな質問ですね。中学生の作文のような、まるで熱意の感じられない答弁をしていましたが、この人は何がやりたいのか、まったくわからない。政治家を家業とする2世、3世議員の喜劇と言うか悲劇と言うか。こういう議員が跋扈している今の政治がどうしようもないのは当然という気もしますね(<折々メール閑話>⑫「世襲議員の跋扈が日本政治をダメにする」参照、『山本太郎が日本を救う』所収)。

A 一方で、木原問題に関して勇気ある証言をした警視庁のレジェンド捜査官、佐藤誠さんに地方公務員の守秘義務違反として逮捕の手が伸びているとか。もうこの国はめちゃくちゃです(怒)。

B この国のダメさ加減は、いまテレビ、新聞などで大々的に取り上げられているジャニーズ問題でも言えますね。芸能事務所オーナーによる所属タレント(未成年男性)に対する性加害を長年にわたって黙認、そのことで被害を拡大してきたわけだけれど、問題は社会的不正義に対するこの国の自浄能力のなさです。同じように、殺人の疑いがある事件を木原官房副長官が政治の力で闇に葬ったのではないかという疑惑がかなりはっきりと存在するのに、それがきちんと議論もされず、それこそ「闇に葬られ」そうなわけです。
 ジャニーズ事件の経過を整理すると、ジャニーズ事務所のオーナー、ジャニー喜多川氏が半世紀におよんで、数百人の少年たちに性被害を加えてきた。このことに対して親族をはじめ多くの所属タレント、タレントを使ってきたテレビ局、スポンサー企業、ジャーナリズムを担うとされるマスメディアも、自分たちの利益だけを考え、あるいは「長いものには巻かれろ」と口をつぐんできたわけです。

A 実はこの事実も1999年に『週刊文春』が告発していました。しかしテレビも新聞も、多くの人気タレントを抱えている事務所に忖度して、ほとんど後追いもしなかった。事務所側が週刊文春を相手に起こした訴訟では、2審の東京高裁がセクハラ行為があったことを認め、最高裁もそれを認定していましたが、ジャニー喜多川氏の行為が止まらなかったのは、この忖度のせいでしょう。

B 今年2023年3月に、外国である英国BBC放送が大々的に報じました。それに支えられて勇気を出して告発する被害者も現れ、ようやく国内でも話題になった。7月には国連の「ビジネスと人権の作業部会」のメンバーが来日し、被害を訴える当事者らから聞き取り調査をした結果、「タレント数百人が性的搾取と虐待に巻き込まれる疑惑が明らかになった」とする声明を発表します。この作業部会は他の人権問題の調査もしており、ジャニーズ事件はその一部だったわけですが、事態はこれをきっかけに大きく動きます。同事務所が設置した「外部専門家による再発防止特別チーム」が9月29日、ジャニー喜多川氏の性加害の事実とそれを関係者が組織的に隠ぺいしていたことを認め、藤島ジュリー景子社長の辞任を提言しました。

A その結果が9月8日の会見となり、藤島社長は辞任、東山紀之新社長誕生となりました。正式に性被害を認めて謝罪、被害者の補償にあたると認めました。
 新社長になった東山さんは、事務所最古参の「長男」的存在らしく、これまでのしがらみも多く、抜本改革ができるのか危ぶむ声もあるようです。彼自身は俳優としての今後の「夢」をすっぱりと諦め、この問題に取り組むと言っており、これはこれで大きな決断ではありますね。

マスメディアの沈黙と人権意識の希薄さ

B この件に関しては、外部チームも言うように、「マスメディアの沈黙」が大きい。国連作業部会は「日本のメディア企業が数十年にわたりハラスメントのもみ消しに加担した」と糾弾しています。「人権意識の希薄化」も指摘されました。ジャニーズ事件は過去の話だけれど、木原事件は現在の問題です。共通しているのが「マスメディアの沈黙」という、なんとも情けない事実です。

A いちおう決着のついた事件を、今になって大きく報道するメディアには「恥を知れ」と言いたいですね。それより、なぜ木原事件を報道しないのか。

B これまで忖度を繰り返してきたテレビ局やメディアは、自己の行動への真摯な反省は置き去りに、今度は「地に落ちた権威」というか、「水に落ちた犬」を、これ幸いと叩こうとするでしょうね。一部企業はさっそく、ジャニーズ事務所のタレントを使わないことを明らかにしていますが、テレビ局もそうだけれど、極端な「手のひら返し」を繰り返すだけでは、事態はあまり変わらないと思います。ネットも同じで、「いまこそ告発のチャンス」とばかり、真偽とりまぜて、いろんな声が出てくるでしょう。

A オリンピックや各種スポーツの世界大会になるたびにジャニーズなどの若手タレントを起用して特別番組を作るという風潮もありました。集団でにぎやかに登場する彼らは、当該スポーツに通じているわけでもなく、まともな解説などできるわけがない。すべてをお祭りモードではやし立てるだけです。視聴者も視聴者で、そういう空っぽな話題に一喜一憂、タレントの出番がなくなると、テレビも見ないという状態だったとも言います。テレビ局はそういう情けない番組作りに狂奔してきたわけで、安易な番組制作態度こそ反省してほしいです。

B この「手の平を返す」ような対応は、いまさら驚くことではないとも言えますね。そのいい例が敗戦後の日本です。「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」と叫んでいた人びとが、急に「アメリカさん(マッカーサー)ありがとう」、「民主主義万歳」と叫ぶようになった。いまはまた逆転し、先祖返りのように民主主義を否定しようとしています。自分の考えや行動を律する基準が自己の内にないから、その場を支配する「空気」に流される。戦後、政治学者の丸山真男が「超国家主義の論理と心理」、「軍国支配者の精神形態」などで、天皇制ファシズムを支えた精神構造を鋭く分析しましたが、その日本的構造は、基本において今も変わっていないようです。

A これからの被害救済は大事だけれど、むしろ外圧に弱く、自分では問題を解決できない、というか自浄作用の働かないない状況をどうすれば変えられるかですね。
 折りしも7日、国連ユネスコの諮問機関、イコモス(国際記念物遺跡会議)が、東京・明治神宮外苑の再開発事業をめぐり、「文化的資産が危機に直面している」として、事業者や認可した東京都に計画の撤回を求めたというニュースがありました。

B 8日になって小池東京都知事が「適切な手続きを経て進めている」と反論したようですが、問題の本質にはふれていない。外苑地区は元国有地で、これがいくつかの条件をつけて明治神宮に払い下げられたものです。再開発計画では1000本近い樹木が伐採されるほか、市民が気軽に参加できる施設を大幅に削り、プロスポーツを優遇するなどの基本計画にも批判が出ています。

A そもそも樹齢百年を超える樹木を何百本も伐採して、高層マンションを建てるという発想が信じられない。樹々も生きているという当たり前の事実に全く気がついていないですね。その目的は一にも二にも金。ジャニーズ問題以上に醜悪だと思います。

B これを図式化すると、国有地の格安払い下げ→企業による「より儲けるための」再開発→市民の公有財産ともいうべき「憩いの場(コモン)」の縮小、となります。前々回にふれた花火大会で有料席を設けて、そのために市民を締め出すような話です。
 この外圧が計画変更へと結びつくのはもちろん歓迎だけれど、今の日本の政治状況を「外圧」で変えようとするのは無理ですね。なんといってもアメリカ追随だから。事態はむしろ逆に動いており、放射能汚染水放出で反対派を説得するために、政府の方がIAEA(国際原子力機関)のお墨付きを仰ぐ形で「外圧」を利用しようとしている。そういう意味では、これからは一層、自律した精神が大事になってきますね。
 われわれが山本太郎とれいわ新選組に期待するのは、日本政治にようやく自浄能力をもった政党が登場してきたのではないかと思うからです。政治を永田町の論理で考えるのではなく、市民の立場で変えていくという重要な戦いを山本太郎とれいわ新選組はしているのだと思います。だからこそ、その支持はまだ思うように広がっていないけれど、これからの日本を救うのはれいわ新選組しかない。れいわとともに、我々も変わっていかないといけないわけです。
 れいわの考えは、櫛渕万里議員が国会で懲罰委員会に抗弁した「櫛渕万里の弁明」によく表れています(<折々メール閑話>㉞「れいわによって守られた国会の品位)」、『山本太郎が日本を救う』第2集所収)。それを全文活字に掘り起こしたところに、我々の思いをくみ取っていただけるとありがたいですね(^o^)。

新サイバー閑話(96)<折々メール閑話>㊳

原発汚染水放出と鎌倉市庁舎移転

 A 岸田政権が福島原発汚染水の海中放出を決め、8月24日から実際に放出を始めました。これに関連して野村哲郎農水相が記者団に説明するとき、「処理水」というべきところを〝誤って〟「汚染水」と言ったことが話題になっています。岸田首相は農水相を厳しく叱責、発言の撤回と謝罪を求め、農水相は大いに恐縮したようだけれど、放射能汚染水を「汚染水」と言って何が悪いのか。海外報道では、ふつうにcontaminated water(汚染水)と呼んでいるわけですね。ジャーナリストの青木理氏も「欧米のメディアの書き方が一番正確で、『処理水』なんて生ぬるく書いてるメディアはない」と語っていました。
 微妙な問題に対する配慮を失した政治家のセンスに疑問を投げかけるのはわからないでもないが、局地戦での敗戦を「転戦」と言いくるめた戦前の政府発表を思い出させる話です。福島原発の放射能汚染水をALPSという多核種除去設備で「浄化」、それを薄めて海に放出するわけで、専門家によれば、話題になっているトリチウムはもちろん、他の放射性物質も完全に除去できるわけではない。漁民の反対の声を「聞き置いた」だけで、実際には無視して放出を決めたというのが実情です。
 それを知ってか知らずか、立憲民主党の泉健太代表を始め多くの政治家が「放出に反対している中国側をいたずらに刺激する発言で、農水省は自覚が足りない」と批判、テレビのバラエティ番組でもタレントが訳知り顔に「風評被害を心配している福島の人びとに失礼」などと言っているのは、さらに奇妙なことです。「汚染水」と言うと現地の人に迷惑がかかるということのようだけれど、海洋放出には地元漁民は反対しているわけですよ。「汚染水」などという刺激の強い表現を使うべきでないという「配慮」自体がおかしい。放射能汚染水をなぜいま海に流してしまうのかという基本的な議論が忘れられていることが、この国の政治のレベル、さらに言えば、知的レベルを疑わざるを得ない。そのことをそっくり同じ論調の中で報道しているメディアもどうかと思いますね。

B トリチウムの毒性は比較的弱いようだけれど、ALPS処理水には他の放射能もかなり含まれているわけですね。ALPS処理水=トリチウム水=薄めれば無害、といういい加減な方程式で海水放出を正当化していますが、いくら薄めても大量に放出すれば、その影響は無視できないでしょう。その辺の説明もおざなりです。原子力専門家の小出裕章さんはユーチューブの動画で、日本が進めている原子力基本計画ではトリチウムを大量に海水に放出することになっており、その前提からしても放水せざるをえない、要するに日本が現在の原子力政策を続けている以上、放射能汚染水を「処理水」と強弁してでも放出せざるを得ない、と言っていました。
 日本が長年取り組んできた核燃料再処理とか、取り出したプルトリウムを再利用して夢の原子炉をつくろうという動力炉開発計画は、東日本大震災での東電福島第一発電事故を経て頓挫しています。また動力炉「もんじゅ」はたびたびの事故の末に廃炉になるなど、日本の原子力政策は暗礁に乗り上げていると言ってもいい。
 岸田政権は、そういう全体状況はいっさい枠外において、福島原発事故の教訓をほとんど忘れたように、原発推進、再稼働に舵を切っているわけですね。最近、山口県上関町長が原発の使用済み燃料の中間貯蔵施設設置のための調査を受け入れる見解を表明しましたが、これなど過疎県が補助金(原発マネー)という飴に釣られた結果です。たとえ中間貯蔵施設がもう1つ増えたとしても、最終的な処分への道は示されていない。こういう全体計画があいまいなままにことが進む状況が、無謀な戦争にあれよあれよと突き進んだ戦前にいよいよ似て来ています。

A 岸田首相には、まともな政治を行おうという気構えがまるでない。しかも全漁連との話し合いで、「漁業者が安心してなりわいを継続できるよう、たとえ数十年にわたろうとも全責任をもって対応することを約束する」などと歯の浮くようなことを平気で言う。安倍元首相の「アンダーコントロール」発言と同じで、無責任この上ないですね。

B 岸田首相は就任時に「聞く力」を強調したけれど、それは「反対意見も含めて、他人の話を真剣に聞いて、よく考えたうえで、自らの責任で決断する」というような力ではない。仲間の政治家、官僚、さらにはバイデン米大統領などごく一部の人間の言うことを「そのままうのみにして従う」わけで、そういうことを「聞く力」とはふつうには言わないですね。

A しかも、今回の汚染水放出にあたっては、原子力推進のための国際機関、IAEA(国際原子力機関)のお墨付きまで仰いだ。訪米前の岸田首相にインタビューした米誌『タイム』の記事(折々メール閑話㉜『山本太郎が日本を救う』第2集、アマゾンにて販売中)がまさに正鵠を得ていたと思うけれど、日本のメディアにはその役割を期待することはもはや無理ですね。

B 福島原発事故を経験した日本は、あらためて原子力政策について考えなおすべきなのに、そういう空気が日本全体に希薄なのが情けない。国会審議で言えば、やはり頼りになるのはれいわ新選組の山本太郎で、6月の参議院環境委員会では、汚染水放出に反対しつつ、プランクトンから小魚、そして大魚へと放射能が体内濃縮されながら、最終的に人間の口に入る危険性を考え、それに対応する検査体制が出来るまでは、「海洋放出しない選択肢がもっとも賢明な、リスクを減らす環境政策」ではないかと厳しく追及していました。西村明宏環境長官の紋切り型の答弁に対しては、「まったく話がかみ合ってない。ゼロ回答っていうんですね。そりゃそうですよ。心から、というか大臣のお立場で答えてないから。それも作られた作文を読んでるだけなんですね」と大いに落胆していました。

A 最近の与党協議で、他国と共同開発した武器を日本から直接第三国に輸出できるように見直すことなども決めています。岸田政権になって、戦後日本が大切にしてきた平和主義の精神はかなぐり捨てられたと言っていい。一方で、岸田首相は広島出身であることを強調して「核なき世界を実現するのが悲願」などと平気で言うわけです。知的レベルというか、人間としての誠実性を疑われてもしょうがないと思いますね。
 後藤田正晴いま在りせば!と思う気持ちがいよいよ強まります。中曽根首相のイラン・イラク戦争への自衛隊派遣の閣議決定署名を拒否した。こういう骨のある政治家は見当たらなくなりました。後藤田氏はたしか戦争経験者が国会からいなくなる日の事を危惧されていたと記憶します。それが現実になった。
 自公は多数を頼んでやりたい放題、確実に戦争する国になろうとしている。しかも、それは強固な信念に基づくものでもなんでもなく、ただただ対米従属。情けないの一言です。

・成熟した人間がいなくなったのにはワケがある

B 岸田政権の支持率はいろんな不祥事で最近は低迷気味とは言え、それでも世論調査をすると、30%程度の人びとは支持するわけですね。このところ選挙もないということで、岸田首相は汚染水問題だけでなく、国民無視のやりたい放題です。安倍、菅、岸田と続く自民党政権はもっての外として、野党も、メディアも、そして政権を支持する国民も含めて、成熟した政治のあり方とはとても思えない現実です。しかもこういう状況は国レベルだけでなく、地方自治体でも、まったく小型化した形で起こっており、いよいよ絶望的な気持ちにさせられます。

A 今だけ、金だけ、自分だけの新自由主義にどっぷりつかり、国民は分断されて格差は広がる一方です。

B 僕が住む鎌倉市ではいま市庁舎移転が大きな話題になっています。鎌倉駅のすぐ近く、昔から市の中心部だった御成町にある市庁舎が老朽化したのと、現在地が材木座海岸などから比較的近く、津波の危険性があるというような理由から、これを西部の深沢地区に建て替えようというものです。
 なぜいま市庁舎を他に移転、建て替える必要があるのか、現在地で震災などの補強工事をすることでいいのではないかという根強い反対があり、昨年暮れには鎌倉市議会でこの市庁舎移転に伴う位置条例が否決されました。賛成3分の2に足りなかったためです。これで移転問題は蹴りがついたかと思われましたが、松尾崇市長はいまだに市庁舎移転を諦めず、再度位置条例を議会に提出する意向です。
 その手法が福島原発の汚染水の海洋投棄を決めた岸田政権のやり方とまったく同じなんですね。議会で条例案が否決されても、「まだ考えの揺れている人がいるのでもう一度提出したい」と議員の決断を尊重しない傍若無人ぶりです。国でも地方自治体でも民主的な政治が機能していない。そして税金を使って自説を㏚する広報誌を出して、市民の考えを都合のいいように誘導しようとしています。それらの文書は、広告代理店が作成したような、それこそ歯の浮くような美辞麗句で埋められています。
 鎌倉の市庁舎移転は深沢地区の再開発という民間デベロッパーもからむ大プロジェクトの一環であり、その中には消防署や図書館、体育館などの統廃合も含まれています。これらの施設は統廃合するよりも分散している方が住民サービスの観点から言えば、むしろ合理的なわけです。
 僕は市庁舎近くにある中央図書館や鎌倉体育館に自転車で出かけてこのサービスを快適に受けていますが、これが廃止され、遠方に一本化されれば、もう行くことはないわけですね。だれのための統廃合なのかと考えると、それはその事業の建設や運営を請け負う一部企業の利益のためとしか考えられない。まさに逆転した地方自治です。これは、東京・明治神宮外苑地区の再開発計画とまったく同じ構造です。
 前回もふれたけれど、すべてを食いつぶす新自由主義が古都、鎌倉でも猛威を振るっている。先日、市長と市民の連絡会というのに出かけてみましたが、今の政治状況は地方から変えていく姿勢が大事なのだと痛感しました。
 松尾市長は岸田首相の真似をしているのか、一応、市民の意見を聞いているようで、ほとんど何も聞いていない。というか、岸田首相同様、基本的な「聞く力」を喪失しており、しかもそのことに無知だという印象でした。小池百合子都知事も含めて、これが現在の多くの為政者に共通する精神構造ということでしょう。

A 市民、あるいは国民の側がしっかりした批判精神を持たないといけないということでしょうが、首相、都知事、鎌倉市長、いずれも選挙で選ばれているわけですね。

B 連絡会には30人ほどの市民が集まり、なぜいま市庁舎を移転する必要があるのかについて多くの反対意見が出ていましたが、残念ながら、やはり若い人の姿がほとんど見えませんでした。
 以前、現代社会ではまっとうな大人が育ちにくくなっているとして、教育のあり方を話題にしましたが(<折々メール閑話>⑨「まともな人間を育てない教育」。『山本太郎が日本を救う』第1集、アマゾンで販売中)、すでに大人になった人もそうだが、とくに若者に危惧すべきことが多いように思います。
 社会学者の白井聡は「大学における『自治』の危機」(斎藤幸平+松本卓也『コモンの「自治」論』集英社、所収)で、「いまや大学は若年層の市民的成熟を実現する場として成立しえなくなっています。学園 紛争の反動であらゆるリスクを排除し、学生を保護した結果、逆説的に市民的成熟の機能が失われてしまつたのです」と嘆いています。
 ある私立大学のゼミでは、安倍政権を肯定する意見が7割を占め、学生からは「そもそも、総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか」、「(政権に批判的な学生に対しては)空気を読めていない。かき乱しているのが驚き、不愉快」などの発言があるといった〝悲惨〟な実情報告も紹介されています。
 大学自体、教授会の自治が失われ、文科省からの支配が強まっているけれど、大学教育において「まっとうな人間」がすでに育てられなくなっている、というか、そうして育てられた(育てられなかった)大人がいま社会の中枢を占めている。資本主義の価値観を完全に内面化して、自己というものを失った人間が続々と生まれているようなのです。こうなると問題の根はきわめて深いけれど、この現象は他国に比べて、とくに日本で顕著であることを示す同書添付のは、大いに考えさせられますね。

A れいわ新選組の次期衆院選公認候補に決まった辻恵氏が記者会見で「今の日本は、国破れて山河あり、城春にして草木深しではなく、その山河が残っているのか、草木はちゃんと育っているのか!」と悲痛な叫びを発していました。こういう状況を選挙だけで変えられるわけではもちろんないけれど、次期衆院選では、何としてもれいわに躍進してもらいたいと思いますね。これは「悲願」です(^o^)。