東山「禅密気功な日々」(33)

10人に1人が80歳以上の「超高齢社会」

 健康な生活をめざして禅密気功に励んでいる日々ではありますが、日本社会、および世界の情勢はけっして健康とは言えない状況です。とくに日本の現状はひどい。2回にわたって、私たちの周りの情勢について考えておきたいと思います。

 2023年の敬老の日(9月18日)にあわせて総務省が発表した人口推計によると、80歳以上が総人口に占める割合が10.1%となった。なんと10人に1人が80歳以上となったわけである。

 65歳以上の人口が総人口に占める割合を老齢化率と呼び、7%以上を高齢化社会、14%以上を高齢社会、21%以上を超高齢化社会と呼ぶ習わしだが、日本の高齢化率は29.1%、ほぼ30%である。これは2022年の段階でモナコに次いで2位である(グローバルノート – 国際統計・国別統計専門サイト)。しかも国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、2040年には総人口の34.8%になるという。

 また2022年版の世界保健統計(WHO)によると、平均寿命(各年における0歳児の平均余命)が80歳を超えている国は世界中で31カ国あり、日本はもっとも高い。私は「超高齢社会」という呼び方を使っているが、日本は世界屈指の超高齢社会である。しかも同時に、急速に進む「少子化社会」でもある。

 内閣府によれば、「少子化とは出生率が低下し、子どもの数が減少すること」で、出生率には普通、「合計特殊出生率(その年における15~49歳の女性の各年齢別出生率を合計した数値)が使われる。日本の合計特殊出生率は、2022年が1.26で過去最低、しかも7年連続の下降となった(厚労省発表、人口を維持するためには2.07が必要と言われる)。要は、若い人が子どもを産まなくなっている。

 その結果として、人口構成を年少人口(0~14)、生産年齢人口(15~64)、老年人口(65以上)に分けて見ると、11.9、59.5、28.6(各%)となり、 老年人口が年少人口を上回っているし、世界平均の25.4、65.2、9.3(各%)に比べると、日本の高齢化、少子化傾向が際立つ(内閣府、令和4年版「少子化社会対策白書」)。将来的に、いよいよ高齢者は増え、若者の数は減る。これは高齢者だけの問題だけなく、若者の問題、いや社会全体で考えるべき大問題だろう。

 別のグラフを見ると、日本の高齢化は戦後急速に進んだことが明らかである。その過程には高度経済成長があったが、それも今は昔、ここ30年、日本経済はむしろ衰退しており、私たちの前途には大きな苦難が横たわっていると言っていい。

・前途に横たわるさまざまな問題

 ジェロントロジー(Gerontology)という言葉がある。一般に「老年学」と言われるが、日本総合研究所の寺島実郎が提唱するように、むしろ「高齢化社会工学」ととらえ、日本社会を今後どうするのか、そこで日本人はどう生きていくのかを大きな構想力をもって議論していくべき時だと思われる(『ジェロントロジー宣言』NHK出版新書)。

 本書によれば、たとえば、「現在、企業に就職した新卒者のうち3割が3年で転職していく」など、終身雇用制度はすでに崩れている。また、「戦前の日本で『大人になるために身につけるべき基本』とされた和漢洋の教養は、すっかり失われてしまった」という全体的な知的劣化も否定できないだろう。「高齢者ほど安倍政権の経済政策であるアベノミクスを支持する構図になっている」という気になる指摘もあった。

 超高齢社会にはちょっと考えただけで、以下のような問題がある。

・人口構成が「高齢化」することで、社会そのものの活力が奪われる。
・生産年齢人口減少による経済の一層の衰退。年金制度の崩壊と若者の閉塞感、および生きがいの喪失。
・政治や経済、社会の公的な役職に老人が居座るための「老害」。
・逆に弱者としての「老人切り捨て」。
・失われた「隠居」というライフスタイル。成熟、老成できない老人。

 最近は老後を快適に過ごすために海外に移住する人も出ているし、逆に日本に職を求める外国人も少なくない。世界中から多くの観光客もやって来る。日本を「捨てて」海外に出ていく若者もけっこういるようである。そういう若者が日本に帰ってくることはまずないだろう。世界中の社会的移動が活発になっており、これからは日本民族純潔主義的政策で国の将来を考えることは難しい。

 にもかかわらず、現自民党政権は全地球的視野でものごとを考えることができず、入管制度を厳しくするなど、外国の安い労働力だけ使おうという古い発想から抜け出ていない。女性登用にしても、男性社会に迎合するような人材や親譲りの世襲、選挙で勝てるタレントばかり集めるから、国会議員でも女性候補の数そのものが少なくなるし、とんちんかんな行動やひんしゅくものの答弁をする人も後を絶たない。

 こういうことでは、世界のトップを走り続ける超高齢社会の世界モデルを構築し、そのことで世界に貢献、あるいはリードするなどということはまず不可能である。こういう難題を抱えていることを前提にしつつ、私もその立派な一員である高齢者自身が健康に、そしてまっとうに生きていくための工夫や知恵を考えていきたいと思っている今日この頃かな(^o^)。

新サイバー閑話(98)<折々メール閑話>㊵

今日も孤軍奮闘するれいわ新選組

B 例のジャニーズ問題でジャニーズ側が10月2日に開いた謝罪の記者会見(写真、東京新聞から)にはマスメディア、フリーランスを含めて300人の記者が出席したけれど、この会見に特定の記者を指名しないための写真と氏名入りの「NGリスト」があったことがNHKの報道でわかりました。ジャニーズ側から記者会見の設営を任された外資系㏚会社(FTIコンサルティング)が作ったらしく、司会の元NHKアナウンサー、松本和也氏はそのリストを見ながら発言者を指名していたようです。

・ジャニーズ謝罪会見に「NGリスト」

 会見に出席していたフリーランスの尾形聡彦、鈴木エイト氏などは「会見が始まってからずっと挙手していたが、司会者と目が合っても指名されなかった」と述べています。謝罪のための記者会見としてはきわめて不誠実と言えるでしょう。

A FTIコンサルティングは5日にリスト作成を認め、謝罪しました。ジャニーズ事務所側は「NGリスト作成には関与していないし、特定の人を当てないでほしいなどというような失礼なお願いはしていません」と言っているけれど、詳しい事情はわかりません。その前の9月7日の記者会見が4時間にもおよぶ長時間になっためにコンサルティング会社と相談、質問は1社1問、時間も2時間に制限したわけですね。その過程でNGリストが作成されたらしい。

B 会見に参加したけれど指名されなかった東京新聞の望月衣塑子記者は、同紙上で「指名されなかった理由が、私もNGリストに入っていたからだと後でわかった。改めて記者会見を開き、一連の経緯を詳細に説明するべきだ」と署名記事で書いています。
 ここで思うのは、謝罪のための記者会見をなぜ㏚会社にまかせたのかということです。番組宣伝ならともかく、不祥事を起こしたことへの謝罪と今後の対策を説明するための記者会見なんですね。ここには芸能とジャーナリズムという区別がない。と言うか、以前にも安倍政権の特徴として書いた「報道機関より広告代理店」という現代の風潮が如実に反映しています(㉗「メディアの根底を突き崩した安倍政権」、『みんなで実現 れいわの希望』所収)。

A オリンピックも世界陸上選手権も、サッカーワールドカップも、広告代理店が運営を請け負う時代です。先の東京オリンピックでは、そのために大がかりな汚職事件まで起こっています。芸能一筋に生きてきたジャニーズ側の面々にはそれがいかに場違いな選択なのかがわからなかったんでしょうね。

B 現代社会のいびつさの反映とも言えますね。いまや一般に「記者会見」そのものが形骸化しているのは、政治の世界における総理大臣会見、官房長官会見などでも明らかです。発言は制限され、しかも回答に対する再質問ができない。これは記者会見というもののあり方からは大きくそれています。先の望月記者など、菅官房長官から「あなたに答える必要はない」などと言われ、他の記者がそれに抗議することもなかった。ジャニーズ会見ではジャニーズ側に拍手を送る記者もいたらしく、望月記者は「記者側が会見者に拍手を送るのを始めて見た。何のために会見に来たのか」と疑問を呈していたけれど、官房長官会見で黙っている記者と大差ないと言ってもいい。
 ひな型は国会にある。ある意味で世間ずれしていないジャニーズの面々が安易に㏚会社に仕切りを頼んだ。芸能プロダクションの記者会見ではあるが、そこには現代の記者会見の姿が拡大投影されていると思うわけです。ジャニーズ問題では、なぜこメディアはこれまで沈黙していたのかが問われたけれど、いま盛んにジャニーズを攻撃している記者に対してもいささかの感慨無きにしもあらず、ですね。
 ところで、また我田引水になるけれど、こういう全体状況にクサビを打ち込めるのは、やはり山本太郎とれいわ新選組だけだと思いますね。というわけで、最近のれいわの活動ぶりを紹介しておきましょう。

 ・「つまりはなにか」と街頭デモ作戦

 ユーチューブ上に『つまりはなにか』という「れいわ新選組拡大チャンネル」ができました。サイトの説明によれば、「日本の政治の危うさは、最近海外でも報道されています。つまりはなにかchでは、れいわ海外勝手連(れいわ新選組の海外ボランティアチーム)のご協力のもと、ネイティブチェック済の【ドイツ語字幕】と【英語字幕】付の動画配信を始めました。日本の腐った政治を海外から見守り、監視して頂きます。 皆様のご理解をよろしくお願いします」とあります。
 日本にもまっとうな政党があるということを海外の人に知ってもらうのはいいことですね。

A そこには「猛烈な野次を浴びながら何年間も私達の先頭に立ち続け、どれほど過酷でも”まだ努力が足りない”と言う。一般人には決定権が無くて、勝手に決まる悪法に絶望しそうになる度に『まだこの国には希望がある』と奮い立たせてくれる。私達の支え。いつもありがとうね」という投稿がありました。
 こういうのもありますね。
 「そっか・・・。自民党が最も恐れているのが政治に関心の無かった人達が政治に関心を持って投票に行くことなんだな。政党間の支持者の奪い合いなんてのはホントに些細なことなんだな。自分も絵にしか興味無くて政治に関心なんてほぼ無かったクチで、投票には行ってたけどむしろ自民党に投票していたような人間で、2019年の消費税増税でやっと目が覚めたという・・・。絵にしか興味がないとか、音楽にしか興味がないとか、スポーツにしか興味がないとか、そういう人が、なんかおかしいぞって目が覚めるきっかけはインボイスでも、消費税でも、保険証の廃止でも、処理水海洋放出でも、バラマキクソメガネでも、子ども食堂でも、カルト校則でもなんでもいいんだよね。絵だけ描いていたいけど、だまってる訳にいかない程、今は酷いと思った。自分みたいな人が増えれば、これはひっくり返せるんだってことも分かった」。

 B こういう投稿を見ていると、れいわの支持者がだんだん増えているようで希望が持てます。実際、れいわが最近、各地で始めた街頭デモ作戦には多くの人が参加しているようです。大石あき子議員の発案で、最初は大阪で始まったとか、いま全国で実施、あるいは計画されています。9月30日の渋谷デモをユーチューブの「ミもフタも愛」というサイトが終始撮影して投稿していますが、にぎやかなものです。
 予想以上に参加者が多かったために、4グループに分かれての行進で、警備の警察官もたくさん出ていましたが、とにかく見物人が多い。スマホで撮影したり、応援したり、飛び入り参加したり、ブラスバンドの演奏もあって、なかなか楽しいデモのようでした。昔懐かしい風景でもあり、これぞ街頭行動の典型ですね。

A れいわは今、衆院選に向けて全国でポスティング大作戦を各プロック毎に展開中です。愛知、岐阜、三重は東海ブロックに属し、各県支部にポスティングチームが編成されています、というか現在も参加者募集中です。三重でも、北部、中部、南部に分けられていまして、僕も南部のチラシ保管係を仰せつかりました。三重の割り当てチラシ枚数は75,000枚です。

B 岸田政権は相変わらず、一向に元気の出ない現状ですが、こういう少なからぬ人びとの地道な活動が実を結び、次期衆院選では、山本太郎が言うように、心ある野党議員を1つの塊として終結させるためのプラットホームになれるよう、最低20人の国会議員を誕生させたいですね。

 

 

新サイバー閑話(97)<折々メール閑話>㊴

ジャニーズ事件と「自浄能力」を喪失した日本

 A 今週号の『週刊文春』を購入して、隅から隅まで目を凝らしても、木原官房副長官の木の字もない! 文春が政権に忖度したとは思いたくないけれど、ネットでこの件に関して検索しても、さしたる記事はありません。一方で、岸田首相が木原を留任させるという記事は随所に見られます。政権の中枢にいる人物によって、木原問題の進展が押さえ込まれたの間違いないのでは。

B かつて山本太郎が国会で岸田首相に「あなたはなぜ政治家を志望したのですか」とズバリと質問したことがありました。多くの人が感じている、もっともな質問ですね。中学生の作文のような、まるで熱意の感じられない答弁をしていましたが、この人は何がやりたいのか、まったくわからない。政治家を家業とする2世、3世議員の喜劇と言うか悲劇と言うか。こういう議員が跋扈している今の政治がどうしようもないのは当然という気もしますね(<折々メール閑話>⑫「世襲議員の跋扈が日本政治をダメにする」参照、『山本太郎が日本を救う』所収)。

A 一方で、木原問題に関して勇気ある証言をした警視庁のレジェンド捜査官、佐藤誠さんに地方公務員の守秘義務違反として逮捕の手が伸びているとか。もうこの国はめちゃくちゃです(怒)。

B この国のダメさ加減は、いまテレビ、新聞などで大々的に取り上げられているジャニーズ問題でも言えますね。芸能事務所オーナーによる所属タレント(未成年男性)に対する性加害を長年にわたって黙認、そのことで被害を拡大してきたわけだけれど、問題は社会的不正義に対するこの国の自浄能力のなさです。同じように、殺人の疑いがある事件を木原官房副長官が政治の力で闇に葬ったのではないかという疑惑がかなりはっきりと存在するのに、それがきちんと議論もされず、それこそ「闇に葬られ」そうなわけです。
 ジャニーズ事件の経過を整理すると、ジャニーズ事務所のオーナー、ジャニー喜多川氏が半世紀におよんで、数百人の少年たちに性被害を加えてきた。このことに対して親族をはじめ多くの所属タレント、タレントを使ってきたテレビ局、スポンサー企業、ジャーナリズムを担うとされるマスメディアも、自分たちの利益だけを考え、あるいは「長いものには巻かれろ」と口をつぐんできたわけです。

A 実はこの事実も1999年に『週刊文春』が告発していました。しかしテレビも新聞も、多くの人気タレントを抱えている事務所に忖度して、ほとんど後追いもしなかった。事務所側が週刊文春を相手に起こした訴訟では、2審の東京高裁がセクハラ行為があったことを認め、最高裁もそれを認定していましたが、ジャニー喜多川氏の行為が止まらなかったのは、この忖度のせいでしょう。

B 今年2023年3月に、外国である英国BBC放送が大々的に報じました。それに支えられて勇気を出して告発する被害者も現れ、ようやく国内でも話題になった。7月には国連の「ビジネスと人権の作業部会」のメンバーが来日し、被害を訴える当事者らから聞き取り調査をした結果、「タレント数百人が性的搾取と虐待に巻き込まれる疑惑が明らかになった」とする声明を発表します。この作業部会は他の人権問題の調査もしており、ジャニーズ事件はその一部だったわけですが、事態はこれをきっかけに大きく動きます。同事務所が設置した「外部専門家による再発防止特別チーム」が9月29日、ジャニー喜多川氏の性加害の事実とそれを関係者が組織的に隠ぺいしていたことを認め、藤島ジュリー景子社長の辞任を提言しました。

A その結果が9月8日の会見となり、藤島社長は辞任、東山紀之新社長誕生となりました。正式に性被害を認めて謝罪、被害者の補償にあたると認めました。
 新社長になった東山さんは、事務所最古参の「長男」的存在らしく、これまでのしがらみも多く、抜本改革ができるのか危ぶむ声もあるようです。彼自身は俳優としての今後の「夢」をすっぱりと諦め、この問題に取り組むと言っており、これはこれで大きな決断ではありますね。

マスメディアの沈黙と人権意識の希薄さ

B この件に関しては、外部チームも言うように、「マスメディアの沈黙」が大きい。国連作業部会は「日本のメディア企業が数十年にわたりハラスメントのもみ消しに加担した」と糾弾しています。「人権意識の希薄化」も指摘されました。ジャニーズ事件は過去の話だけれど、木原事件は現在の問題です。共通しているのが「マスメディアの沈黙」という、なんとも情けない事実です。

A いちおう決着のついた事件を、今になって大きく報道するメディアには「恥を知れ」と言いたいですね。それより、なぜ木原事件を報道しないのか。

B これまで忖度を繰り返してきたテレビ局やメディアは、自己の行動への真摯な反省は置き去りに、今度は「地に落ちた権威」というか、「水に落ちた犬」を、これ幸いと叩こうとするでしょうね。一部企業はさっそく、ジャニーズ事務所のタレントを使わないことを明らかにしていますが、テレビ局もそうだけれど、極端な「手のひら返し」を繰り返すだけでは、事態はあまり変わらないと思います。ネットも同じで、「いまこそ告発のチャンス」とばかり、真偽とりまぜて、いろんな声が出てくるでしょう。

A オリンピックや各種スポーツの世界大会になるたびにジャニーズなどの若手タレントを起用して特別番組を作るという風潮もありました。集団でにぎやかに登場する彼らは、当該スポーツに通じているわけでもなく、まともな解説などできるわけがない。すべてをお祭りモードではやし立てるだけです。視聴者も視聴者で、そういう空っぽな話題に一喜一憂、タレントの出番がなくなると、テレビも見ないという状態だったとも言います。テレビ局はそういう情けない番組作りに狂奔してきたわけで、安易な番組制作態度こそ反省してほしいです。

B この「手の平を返す」ような対応は、いまさら驚くことではないとも言えますね。そのいい例が敗戦後の日本です。「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」と叫んでいた人びとが、急に「アメリカさん(マッカーサー)ありがとう」、「民主主義万歳」と叫ぶようになった。いまはまた逆転し、先祖返りのように民主主義を否定しようとしています。自分の考えや行動を律する基準が自己の内にないから、その場を支配する「空気」に流される。戦後、政治学者の丸山真男が「超国家主義の論理と心理」、「軍国支配者の精神形態」などで、天皇制ファシズムを支えた精神構造を鋭く分析しましたが、その日本的構造は、基本において今も変わっていないようです。

A これからの被害救済は大事だけれど、むしろ外圧に弱く、自分では問題を解決できない、というか自浄作用の働かないない状況をどうすれば変えられるかですね。
 折りしも7日、国連ユネスコの諮問機関、イコモス(国際記念物遺跡会議)が、東京・明治神宮外苑の再開発事業をめぐり、「文化的資産が危機に直面している」として、事業者や認可した東京都に計画の撤回を求めたというニュースがありました。

B 8日になって小池東京都知事が「適切な手続きを経て進めている」と反論したようですが、問題の本質にはふれていない。外苑地区は元国有地で、これがいくつかの条件をつけて明治神宮に払い下げられたものです。再開発計画では1000本近い樹木が伐採されるほか、市民が気軽に参加できる施設を大幅に削り、プロスポーツを優遇するなどの基本計画にも批判が出ています。

A そもそも樹齢百年を超える樹木を何百本も伐採して、高層マンションを建てるという発想が信じられない。樹々も生きているという当たり前の事実に全く気がついていないですね。その目的は一にも二にも金。ジャニーズ問題以上に醜悪だと思います。

B これを図式化すると、国有地の格安払い下げ→企業による「より儲けるための」再開発→市民の公有財産ともいうべき「憩いの場(コモン)」の縮小、となります。前々回にふれた花火大会で有料席を設けて、そのために市民を締め出すような話です。
 この外圧が計画変更へと結びつくのはもちろん歓迎だけれど、今の日本の政治状況を「外圧」で変えようとするのは無理ですね。なんといってもアメリカ追随だから。事態はむしろ逆に動いており、放射能汚染水放出で反対派を説得するために、政府の方がIAEA(国際原子力機関)のお墨付きを仰ぐ形で「外圧」を利用しようとしている。そういう意味では、これからは一層、自律した精神が大事になってきますね。
 われわれが山本太郎とれいわ新選組に期待するのは、日本政治にようやく自浄能力をもった政党が登場してきたのではないかと思うからです。政治を永田町の論理で考えるのではなく、市民の立場で変えていくという重要な戦いを山本太郎とれいわ新選組はしているのだと思います。だからこそ、その支持はまだ思うように広がっていないけれど、これからの日本を救うのはれいわ新選組しかない。れいわとともに、我々も変わっていかないといけないわけです。
 れいわの考えは、櫛渕万里議員が国会で懲罰委員会に抗弁した「櫛渕万里の弁明」によく表れています(<折々メール閑話>㉞「れいわによって守られた国会の品位)」、『山本太郎が日本を救う』第2集所収)。それを全文活字に掘り起こしたところに、我々の思いをくみ取っていただけるとありがたいですね(^o^)。

新サイバー閑話(96)<折々メール閑話>㊳

原発汚染水放出と鎌倉市庁舎移転

 A 岸田政権が福島原発汚染水の海中放出を決め、8月24日から実際に放出を始めました。これに関連して野村哲郎農水相が記者団に説明するとき、「処理水」というべきところを〝誤って〟「汚染水」と言ったことが話題になっています。岸田首相は農水相を厳しく叱責、発言の撤回と謝罪を求め、農水相は大いに恐縮したようだけれど、放射能汚染水を「汚染水」と言って何が悪いのか。海外報道では、ふつうにcontaminated water(汚染水)と呼んでいるわけですね。ジャーナリストの青木理氏も「欧米のメディアの書き方が一番正確で、『処理水』なんて生ぬるく書いてるメディアはない」と語っていました。
 微妙な問題に対する配慮を失した政治家のセンスに疑問を投げかけるのはわからないでもないが、局地戦での敗戦を「転戦」と言いくるめた戦前の政府発表を思い出させる話です。福島原発の放射能汚染水をALPSという多核種除去設備で「浄化」、それを薄めて海に放出するわけで、専門家によれば、話題になっているトリチウムはもちろん、他の放射性物質も完全に除去できるわけではない。漁民の反対の声を「聞き置いた」だけで、実際には無視して放出を決めたというのが実情です。
 それを知ってか知らずか、立憲民主党の泉健太代表を始め多くの政治家が「放出に反対している中国側をいたずらに刺激する発言で、農水省は自覚が足りない」と批判、テレビのバラエティ番組でもタレントが訳知り顔に「風評被害を心配している福島の人びとに失礼」などと言っているのは、さらに奇妙なことです。「汚染水」と言うと現地の人に迷惑がかかるということのようだけれど、海洋放出には地元漁民は反対しているわけですよ。「汚染水」などという刺激の強い表現を使うべきでないという「配慮」自体がおかしい。放射能汚染水をなぜいま海に流してしまうのかという基本的な議論が忘れられていることが、この国の政治のレベル、さらに言えば、知的レベルを疑わざるを得ない。そのことをそっくり同じ論調の中で報道しているメディアもどうかと思いますね。

B トリチウムの毒性は比較的弱いようだけれど、ALPS処理水には他の放射能もかなり含まれているわけですね。ALPS処理水=トリチウム水=薄めれば無害、といういい加減な方程式で海水放出を正当化していますが、いくら薄めても大量に放出すれば、その影響は無視できないでしょう。その辺の説明もおざなりです。原子力専門家の小出裕章さんはユーチューブの動画で、日本が進めている原子力基本計画ではトリチウムを大量に海水に放出することになっており、その前提からしても放水せざるをえない、要するに日本が現在の原子力政策を続けている以上、放射能汚染水を「処理水」と強弁してでも放出せざるを得ない、と言っていました。
 日本が長年取り組んできた核燃料再処理とか、取り出したプルトリウムを再利用して夢の原子炉をつくろうという動力炉開発計画は、東日本大震災での東電福島第一発電事故を経て頓挫しています。また動力炉「もんじゅ」はたびたびの事故の末に廃炉になるなど、日本の原子力政策は暗礁に乗り上げていると言ってもいい。
 岸田政権は、そういう全体状況はいっさい枠外において、福島原発事故の教訓をほとんど忘れたように、原発推進、再稼働に舵を切っているわけですね。最近、山口県上関町長が原発の使用済み燃料の中間貯蔵施設設置のための調査を受け入れる見解を表明しましたが、これなど過疎県が補助金(原発マネー)という飴に釣られた結果です。たとえ中間貯蔵施設がもう1つ増えたとしても、最終的な処分への道は示されていない。こういう全体計画があいまいなままにことが進む状況が、無謀な戦争にあれよあれよと突き進んだ戦前にいよいよ似て来ています。

A 岸田首相には、まともな政治を行おうという気構えがまるでない。しかも全漁連との話し合いで、「漁業者が安心してなりわいを継続できるよう、たとえ数十年にわたろうとも全責任をもって対応することを約束する」などと歯の浮くようなことを平気で言う。安倍元首相の「アンダーコントロール」発言と同じで、無責任この上ないですね。

B 岸田首相は就任時に「聞く力」を強調したけれど、それは「反対意見も含めて、他人の話を真剣に聞いて、よく考えたうえで、自らの責任で決断する」というような力ではない。仲間の政治家、官僚、さらにはバイデン米大統領などごく一部の人間の言うことを「そのままうのみにして従う」わけで、そういうことを「聞く力」とはふつうには言わないですね。

A しかも、今回の汚染水放出にあたっては、原子力推進のための国際機関、IAEA(国際原子力機関)のお墨付きまで仰いだ。訪米前の岸田首相にインタビューした米誌『タイム』の記事(折々メール閑話㉜『山本太郎が日本を救う』第2集、アマゾンにて販売中)がまさに正鵠を得ていたと思うけれど、日本のメディアにはその役割を期待することはもはや無理ですね。

B 福島原発事故を経験した日本は、あらためて原子力政策について考えなおすべきなのに、そういう空気が日本全体に希薄なのが情けない。国会審議で言えば、やはり頼りになるのはれいわ新選組の山本太郎で、6月の参議院環境委員会では、汚染水放出に反対しつつ、プランクトンから小魚、そして大魚へと放射能が体内濃縮されながら、最終的に人間の口に入る危険性を考え、それに対応する検査体制が出来るまでは、「海洋放出しない選択肢がもっとも賢明な、リスクを減らす環境政策」ではないかと厳しく追及していました。西村明宏環境長官の紋切り型の答弁に対しては、「まったく話がかみ合ってない。ゼロ回答っていうんですね。そりゃそうですよ。心から、というか大臣のお立場で答えてないから。それも作られた作文を読んでるだけなんですね」と大いに落胆していました。

A 最近の与党協議で、他国と共同開発した武器を日本から直接第三国に輸出できるように見直すことなども決めています。岸田政権になって、戦後日本が大切にしてきた平和主義の精神はかなぐり捨てられたと言っていい。一方で、岸田首相は広島出身であることを強調して「核なき世界を実現するのが悲願」などと平気で言うわけです。知的レベルというか、人間としての誠実性を疑われてもしょうがないと思いますね。
 後藤田正晴いま在りせば!と思う気持ちがいよいよ強まります。中曽根首相のイラン・イラク戦争への自衛隊派遣の閣議決定署名を拒否した。こういう骨のある政治家は見当たらなくなりました。後藤田氏はたしか戦争経験者が国会からいなくなる日の事を危惧されていたと記憶します。それが現実になった。
 自公は多数を頼んでやりたい放題、確実に戦争する国になろうとしている。しかも、それは強固な信念に基づくものでもなんでもなく、ただただ対米従属。情けないの一言です。

・成熟した人間がいなくなったのにはワケがある

B 岸田政権の支持率はいろんな不祥事で最近は低迷気味とは言え、それでも世論調査をすると、30%程度の人びとは支持するわけですね。このところ選挙もないということで、岸田首相は汚染水問題だけでなく、国民無視のやりたい放題です。安倍、菅、岸田と続く自民党政権はもっての外として、野党も、メディアも、そして政権を支持する国民も含めて、成熟した政治のあり方とはとても思えない現実です。しかもこういう状況は国レベルだけでなく、地方自治体でも、まったく小型化した形で起こっており、いよいよ絶望的な気持ちにさせられます。

A 今だけ、金だけ、自分だけの新自由主義にどっぷりつかり、国民は分断されて格差は広がる一方です。

B 僕が住む鎌倉市ではいま市庁舎移転が大きな話題になっています。鎌倉駅のすぐ近く、昔から市の中心部だった御成町にある市庁舎が老朽化したのと、現在地が材木座海岸などから比較的近く、津波の危険性があるというような理由から、これを西部の深沢地区に建て替えようというものです。
 なぜいま市庁舎を他に移転、建て替える必要があるのか、現在地で震災などの補強工事をすることでいいのではないかという根強い反対があり、昨年暮れには鎌倉市議会でこの市庁舎移転に伴う位置条例が否決されました。賛成3分の2に足りなかったためです。これで移転問題は蹴りがついたかと思われましたが、松尾崇市長はいまだに市庁舎移転を諦めず、再度位置条例を議会に提出する意向です。
 その手法が福島原発の汚染水の海洋投棄を決めた岸田政権のやり方とまったく同じなんですね。議会で条例案が否決されても、「まだ考えの揺れている人がいるのでもう一度提出したい」と議員の決断を尊重しない傍若無人ぶりです。国でも地方自治体でも民主的な政治が機能していない。そして税金を使って自説を㏚する広報誌を出して、市民の考えを都合のいいように誘導しようとしています。それらの文書は、広告代理店が作成したような、それこそ歯の浮くような美辞麗句で埋められています。
 鎌倉の市庁舎移転は深沢地区の再開発という民間デベロッパーもからむ大プロジェクトの一環であり、その中には消防署や図書館、体育館などの統廃合も含まれています。これらの施設は統廃合するよりも分散している方が住民サービスの観点から言えば、むしろ合理的なわけです。
 僕は市庁舎近くにある中央図書館や鎌倉体育館に自転車で出かけてこのサービスを快適に受けていますが、これが廃止され、遠方に一本化されれば、もう行くことはないわけですね。だれのための統廃合なのかと考えると、それはその事業の建設や運営を請け負う一部企業の利益のためとしか考えられない。まさに逆転した地方自治です。これは、東京・明治神宮外苑地区の再開発計画とまったく同じ構造です。
 前回もふれたけれど、すべてを食いつぶす新自由主義が古都、鎌倉でも猛威を振るっている。先日、市長と市民の連絡会というのに出かけてみましたが、今の政治状況は地方から変えていく姿勢が大事なのだと痛感しました。
 松尾市長は岸田首相の真似をしているのか、一応、市民の意見を聞いているようで、ほとんど何も聞いていない。というか、岸田首相同様、基本的な「聞く力」を喪失しており、しかもそのことに無知だという印象でした。小池百合子都知事も含めて、これが現在の多くの為政者に共通する精神構造ということでしょう。

A 市民、あるいは国民の側がしっかりした批判精神を持たないといけないということでしょうが、首相、都知事、鎌倉市長、いずれも選挙で選ばれているわけですね。

B 連絡会には30人ほどの市民が集まり、なぜいま市庁舎を移転する必要があるのかについて多くの反対意見が出ていましたが、残念ながら、やはり若い人の姿がほとんど見えませんでした。
 以前、現代社会ではまっとうな大人が育ちにくくなっているとして、教育のあり方を話題にしましたが(<折々メール閑話>⑨「まともな人間を育てない教育」。『山本太郎が日本を救う』第1集、アマゾンで販売中)、すでに大人になった人もそうだが、とくに若者に危惧すべきことが多いように思います。
 社会学者の白井聡は「大学における『自治』の危機」(斎藤幸平+松本卓也『コモンの「自治」論』集英社、所収)で、「いまや大学は若年層の市民的成熟を実現する場として成立しえなくなっています。学園 紛争の反動であらゆるリスクを排除し、学生を保護した結果、逆説的に市民的成熟の機能が失われてしまつたのです」と嘆いています。
 ある私立大学のゼミでは、安倍政権を肯定する意見が7割を占め、学生からは「そもそも、総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか」、「(政権に批判的な学生に対しては)空気を読めていない。かき乱しているのが驚き、不愉快」などの発言があるといった〝悲惨〟な実情報告も紹介されています。
 大学自体、教授会の自治が失われ、文科省からの支配が強まっているけれど、大学教育において「まっとうな人間」がすでに育てられなくなっている、というか、そうして育てられた(育てられなかった)大人がいま社会の中枢を占めている。資本主義の価値観を完全に内面化して、自己というものを失った人間が続々と生まれているようなのです。こうなると問題の根はきわめて深いけれど、この現象は他国に比べて、とくに日本で顕著であることを示す同書添付のは、大いに考えさせられますね。

A れいわ新選組の次期衆院選公認候補に決まった辻恵氏が記者会見で「今の日本は、国破れて山河あり、城春にして草木深しではなく、その山河が残っているのか、草木はちゃんと育っているのか!」と悲痛な叫びを発していました。こういう状況を選挙だけで変えられるわけではもちろんないけれど、次期衆院選では、何としてもれいわに躍進してもらいたいと思いますね。これは「悲願」です(^o^)。

新サイバー閑話(95)<折々メール閑話>㊲

花火を「商品化」して地元民を締め出す倒錯

  A 国会休会中も、相変わらず腹立たしい出来事が続きますね。木原誠二官房副長官の2018年における捜査介入疑惑に関しては、『週刊文春』のスクープが続きます。僕は9週連続で文春を買いしましたよ(^o^)。他のメディアはほとんど報道していませんが、2006年段階における木原副長官の妻の元夫変死事件に関して、露木康浩警察庁長官が改めて「事件性なし」と表明したのに対し、2018年段階で捜査にあたった現場の刑事が実名で反論、後には記者会見までしました。根の深い問題だと思いますね。他の自民党大物政治家も登場して、松本清張の推理小説を読んでいるようです。

B 自民党女性局長の松川るい参院議員や局長代理の今井絵理子参院議員が、7月下旬に研修旅行としてフランス・パリを訪問した際に、はしゃいでエッフェル塔前でポーズ写真を撮り、それを自分のSNSにアップしたことも非難されました。実態はほとんど観光で、松川議員は〝研修中〟、娘を大使館に預けていたようです。昨今の政治家の「公私」混同は岸田首相を筆頭に目を覆いたくなる惨状です。こういう議員を選んで恥じない国民にも問題があるけれど、半数近くは棄権しているわけですね。政治を選挙だけで考えるのはもはや無理ではあるとしても、やはり「有権者」としての権利行使はきちんとしないと、こういう高学歴ながら人間的には非常識な政治家が誕生するわけです。木原副長官、松川議員ともに東大法学部卒、その後も、財務省や外務省の主流を歩いてきた人です。そうであるからこそ、日本の現状に対するみじめな感じが強まります。

A マイナカードの混乱も目に余ります。デジタル化の利便性、と言ってももっぱら政府にとっての話だけれど、それだけを強調して、何のために個人情報をデジタル化するのか、その危険性を最小化するにはどうすればいいのか、ということがまったく議論もされていない。河野太郎デジタル相が政治家として失格であることがわかったのはよかったかもしれないけれど、それに代わる人材が自民党にも、主だった野党にも見当たらないところが大いに問題です。もちろん、山本太郎を別にして(^o^)。

B 腐敗は国レベルにとどまらないですね。それを強烈に見せつけたのが花火大会の高額有料席設置です。花火は地元のお祭りであり、みんなで楽しむものなのに、有料席を多数用意して、金を稼ぐことが優先された。そのために金を払わない一般人には見えないように2キロにわたって幕まで張った。
 この滋賀の「びわ湖大花火大会」はコロナ禍で中止されていたのが今年4年ぶりに開催されたようですが、有料の観覧席が設置された会場の周辺約2キロにわたって目隠しとなるフェンスが張られ、地元民はその隙間から覗くという情けないことになりました(写真)。さすがに地元の自治連合会が開催反対を求める決議文を提出するなどしたようですが、これは「公私」混同というより、本来「公」のものである花火大会を自治体が「私」的に囲い込み、金を払わない地元民を「排除した」ものです。
 地元民が反乱を起こして幕などはがしてしまってもいいくらいですが、こういう騒ぎも起こっていない。もっとも騒ぎを起こせば、今度は警察の出番となって、逮捕者が出る恐れもある。祭りが「商売の手段」となり下がり、本来の姿を失っています。フェンスはコロナ以前にも張られていたというのも不思議です。

 A 琵琶湖花火の異常さには暗然たる気持ちになります。やはり4年ぶりに開催された地元、宮川の伊勢神宮奉納花火大会と大淀花火大会を見てきました。みんな、思い思いの場所で楽しんでおり、同行の友人が「花火は平和でいいですね~」と言った言葉が耳に残っています。聞くところによると、青森のねぶた祭りも京都の祇園祭りも、四国の阿波踊りも有料観覧席が設けられ、あっと言う間に売り切れたとか。世も末ですねーっ!

B この「公私逆転」と木原・松川議員の「公私混同」の根っこは同じです。資本主義が行きつくところまで行って、本来はみんなの公共財産(コモン)である祭りまでも商品化されているけれど、その資本主義のいびつな精神を内面化させられた(飼いならされた)人びとは、それを批判しない。「お金出しても、いいところで見られた方がラッキー」と思うわけです。お金を出せない人が締め出されることに痛痒を感じるという、ごく普通の倫理観もなくなっている。この倫理観の欠如は、木原、松川ご両人とほとんど同じです。恵まれた自分たち以外の人びとへの想像力が欠けた人びとが政治家をしているわけで、社会的格差はこういうところまで進んでいるとも言えますね。もっとも地元見物客のマナーの悪さという別の倫理観欠如の問題もあるようです。
 観光立国という言葉自体が危うい側面を持っています。世界から観光客を呼んで金を落としてもらおうというわけだから、商品化できるものはすべて商品化し、そのためにコモン的なもの(祭りとか共同体とか自然環境とか)が失われても意に介さない。ブラジルのカーニバルも同じです。観光用の形骸化した祭りだけが残るというか、肥大化するというか。いまや貧しい人ばかりでなく、自然環境、地球そのものが破壊されるという危機的状況だと思います。
 若いマルクス経済学者、斎藤幸平が力説しているように、私たちはもはや資本そのものから離れることを考えるしか将来の展望はないと思いますね。と言って、暴力革命だとか、前衛一党独裁とかいうような化石話を思い出す必要はない。祭りは地元の共有財産なのだから、みんなで管理運営して、みんなで楽しもうという当たり前のことでいいわけです。そのためには金にならないことでも奉仕するという相互扶助精神が大事だけれど、これって、昔はどこの地域でもやっていたことで、何も難しいことではないですね。
 斎藤によれば、コモン主義(コミュニズム)は中国やロシアの「社会主義」=「国家資本主義」体制とは無縁です。新自由主義は、ショック・ドクトリン(災害便乗型資本主義)に象徴的なように、人間の不幸も含めて、あらゆるものを商品化するけれど、今や地球そのものが搾取されて疲弊化、適度のバランスを失い、各地で災害を起こしている現状です。
 また彼は、物事を「構想する」人と「実行する」人の分離が資本主義を極端に推し進めたと言っています。本来、大工は家を構想し、同時にそれを作る人だったけれど、いまは設計する人、販売する人、作る人と分離され、大工はいまや「作る人」でもないですね。
 最近、大手建設会社の請け負った新築工事を近くで見る機会がありましたが、外見は立派な大きな住宅が積み木細工のように、部品を張り合わされるようにして作られて行きます。建築現場には、大工がカンナで見事に木を削る姿も、乾燥した槌の音も、釘すらもない。棟上げの儀式はもちろん、大黒柱もありません。家を作る人としての大工職人は、とっくに死んでいます。
 物質ばかりでなく、自然を、さらには私たちの精神までも「商品化」して狂い咲く末期の資本主義社会を抜本的に改革するためには、彼の言うように、「コモン」と「アソシエーション」の再興が不可欠だと思いますね。

A 最近、日本維新の会の馬場伸幸代表が「共産党は日本からなくなった方がいい」と発言して共産党から強い抗議を受けているけれど、馬場代表は古い共産主義のイメージに踊らされているんでしょうね。

B 不見識というより不勉強ですね。こんなことを言って平気な人がいまや日本の政治家で、メディアがこれをからかうということもない。この知的レベルの低さは、岸田首相、木原官房副長官、松川参議院議員、共通して言えるんじゃないでしょうか。日本共産党こそ、新しいコモン主義を敢然と打ち立てるべきだと思いますが、どうなんでしょうね。そういう意味でも、僕は「れいわ新世党」に賭けたいわけです。

 というわけで、ちょっとコマーシャル。<折々メール閑話>も少し期間があきましたが、この間のコラムを『山本太郎が日本を救う』第2集『みんなで実現 れいわの希望』としてまとめました。前著同様、1300円(税込み1450円)でアマゾンで購入できます。興味のある方はどうかご購入ください。見出しは以下の通りで、「櫛渕万里の弁明」全文書き起こしが目玉です。

PART<山本太郎発言集>
<1>いっしょにやらなきゃ変えられない
<2>コロナ行政をめぐる質疑
<3>「闘わない野党」への檄
<4>広島サミットは残念な集まり
<5>入管法改正案に体を張った

PART<折々メール閑話>
『山本太郎が日本を救う』新春発売!
れいわ新選組の新体制に期待㉒
新春を揺るがす奇策「議員連携の計」㉓
『山本太郎が日本を救う』への思い㉔
訪れた春を愛でつつ、つれづれ閑話㉕
なお安倍政権の腐臭漂う高市問題㉖
メディアの根底を突き崩した安倍政権㉗
小西議員の発言は「サルに失礼です」㉘
『通販生活』の特集に納得しました㉙
選挙が機能しない政治と新しい息吹㉚
76年目の憲法記念日に想う日本の針路㉛
タイムの「慧眼」とれいわの「本気」㉜
踏みにじられた「広島」 (核廃絶)の心㉝
れいわによって守られた国会の品位㉞
虐げられるれいわ新選組へのエール㉟
「連帯を求め孤立を恐れぬ」山本太郎㊱

PART<補遺>
<1>生成型AI、ChatGPTとサイバー空間
<2>この際の憲法読書案内

 

新サイバー閑話(94)

<平成とITと私①『ASAHIパソコン』そして『DOORS』>8月8日発売

 本新サイバー閑話で連載していた「平成とITと私」が<平成とITと私①『ASAHIパソコン』そして『DOORS』>としてサイバー燈台叢書第4弾として8月8日に発売予定です。アマゾンおよび三省堂本店など一部書店で購入できます。定価1350円(税込み1485円)です。

 私がパソコン黎明期にパソコンのやさしい使いこなしガイドブック、『ASAHIパソコン』を創刊したのはすでに35年前、1988年10月でした。翌1989年から元号の平成が始まります(1989年はベルリンの壁崩壊の年)。インターネット台頭期にその情報誌、『DOORS』を創刊したのは1995年、平成7年でした。
 私は2000年代には、IT社会を生きるための基本素養、サイバーリテラシーを提唱し、その後もIT社会を継続的にウオッチしてきましたが、本書は「私家版・日本IT社会発達史」として『ASAHIパソコン』および『DOORS』の経過を記したものです。
 日本の平成はひと口に「失敗の時代」として総括され、それはたしかに日本が経済的にも、政治的にも衰退していく時代でしたが、コンピュータの視点から見ると、パソコンがだれもが親しむ「文房具」になり、ノートパソコンからスマートフォンへと端末は高機能化、小型化、しかも低価格化していき、インターネットが社会を激しく変えた時代でした。1995年に普及し始めたインターネットはその後、爆発的に発達、今では社会の基本インフラになっています。インターネットのない社会はもはや考えられないですね。
 この間に私が何をしてきたかを記録しつつ、その間のパソコンやインターネットの発達史を振り返る形になっているので、あのころのパソコンはどんな形でいくらしたのか、どんなソフトが使われていたのか、コンピュータ、およびインターネットの発達に貢献したのはどんな人だったのか、などIT社会進展の生きた記録になっていると自負しています。
 目次は以下の通りです。

PARTⅠ 『ASAHIパソコン』まで
<1>熊澤正人さんを悼む
<2>『アサヒグラフ』のコンピュータ特集
<3>最先端技術の世界に挑む

PARTⅡ 『ASAHIパソコン』の栄光
<4>ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊤
<5>ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊦
<6>パソコン黎明期の熱気と『ASAHIパソコン』
<7>『ASAhIパソコン』創刊、即日増刷
<8>相棒にして畏友、三浦賢一君の思い出
<9>私がインタビューした人びと
<10>いざ鎌倉、源氏山大花見宴

PARTⅢ 『DOORS』の不運
<11>インターネット誌『DOORS』創刊
<12>『DOORS』は3Dメディア
<13>短命の中の豊穣
<14>突然の強制終了

 本書にご登場いただいた方は120人を超えます。折々に話を聞いたこの道の権威、『ASAHIパソコン』などで協力いただいた多くの先達・仲間、その間、続けてきた花見の常連客―。「私家版・日本IT社会発達史」と名乗りはしても、きわめて個人的な懐旧談に名前を記載させていただいたご無礼をどうかご寛容ください。すでに鬼籍に入られた方々、いまは連絡もできない方々も含め、みなさん、いろいろお世話になりました。また、本来ならあらためてご挨拶するなり、送本させていただくなりすべきでしょうが、これもコロナ禍など諸般の事情で思うにまかせぬ状況です。この点もよろしくご推察ください。

 私が朝日新聞出版局に在籍した平成の前半3分の1の出来事が本書に収録されており、その中心が『ASAHIパソコン』と『DOORS』の創刊でした。その後も朝日新聞総合研究センター、明治大学や情報セキュリティ大学院大学、サイバー大学などを経つつ、持論のサイバーリテラシーを通して、IT社会の出来事をウオッチしてきました。令和に入ってからは、コロナ禍を契機にZoomサロンOnline塾DOORSを主宰、2023年夏までに65回を数えました。この<平成とITと私>シリーズは平成末年まで続ける予定です。

 

東山「禅密気功な日々」(32)

真夏の夜にお奨めする本2

 連日の猛暑ですが、みなさん、禅密気功に励みつつ、元気にお過ごしのことと存じます。気功の神髄と無関係とも思えない2冊の本を、真夏の夜にお楽しみください。ともにかなり以前の出版なので、ご存知の方も多いかと思いますが、まだ読んでいない人は――。

 政木和三さんが25年前に書いた『この世に不可能はない』(サンマーク出版、1997)は、気功愛好者必読だと思われる。政木さんはすでに故人だが、彼によると、人はだれでも「肉体」と「生命体」からなっている。生命体はエネルギーで、一つではなく、精神的に成長すると次々に新しい生命体ができてくるらしく、肉体が滅びると生命体は肉体を離れ、いずれ別の肉体に宿ることになる。輪廻転生である。

 政木さんは大阪大学工学部で電気、建築土木、航空、造船学から醸造学まで学部の全学科を収め、そのあとさらに7年、医学部で学んだ。その知識を生かして、生前に3000件ほどの特許を得たが、すべて無料で公開した。瞬間湯沸かし器、自動炊飯器などみなそうらしい。金儲けにはほとんど興味がなかった人である。

 ・私たちは「肉体」と「生命体」の合体

 根っからの科学者である政木さんが超常現象といったものを信じるようになったのは50歳を超えてからということだが、彼によると、この世の中には人間の知らないもうひとつの未知のエネルギーが確実に存在するという。そしてこのエネルギーは、実は人間の肉体の内側にも潜んでいて、ある状態のもとにおかれると、それが前面に出てきて、とうてい信じられないような力を発揮できるようになる。

 彼は言っている。「私は、科学者でありながら、神の存在を信じている。神といっても、天のどこか高いところにいるわけではない。人間の肉体の中に宿っているだけである。それを私は『生命体』と呼んでいる」、「生命体の存在を自覚することは、非常に大事なことだと思う。生命体とは、別の言い方をすれば、魂であり、私たちの中にある神もしくは守護神であり、あるいは宇宙そのものであるといっていい。それはすべての人間の心の奥深くに潜んでいる。だからこそ私たちは誰もがみんな尊いのである。その生命体を自らの内側に自覚し、その声に耳を傾けることは、無限の可能性に道を開く第一歩となるだろう」。

 禅密気功では、慧中を開いて無限の宇宙を見ることを奨めている。「慧中が開けてはじめて、自然と『微笑み(歓び)は心の底からとめどなく湧き上がる』という状態になれます。慧中が真に開けば、心身は改善され、悟りが開け、智慧が湧いてきます」(朱剛先生の言葉。東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』サイバーリテラシー研究所刊、P86)。

 私たちは生命体のエネルギーにふれると、信じられないような能力を発揮できるようになる。神は自分自身であり、同時に宇宙である。それは臨済宗中興の祖、白隠禅師の坐禅和讃冒頭の「衆生本来仏なり」を思い出させるし、「私たちの体内には地球(星)のリズムが流れている」という以前紹介した解剖学者、三木成夫の考えにも通じる。孟子が言った「浩然の気」もそうだろう。

 また前回とりあげた『死は存在しない』で田坂広志が強調していたのは、現代科学の最先端はミクロレベルでは「物質は存在しない、あるのは波動エネルギーだけである」という地点に到達、逆にマクロのレベルでは、「量子真空が大爆発を起こして、そこから銀河系も、太陽系も、地球も、そして人類そのものも誕生した」ということだった。そこでは物質と精神、ミクロとマクロの境界そのものがあいまいになると同時に、それら先端科学の知見は、古くからの神話、宗教、民俗信仰、心理学、哲学などが言及してきたさまざまな神秘現象とも関係がある。政木さんは、過去、現在、未来の記録がすべて蓄えられているゼロ・ポイント・フィールド、あるいはアカシック・レコードにもアクセスしていたと言う。

・プレアデス星ですばらしい文明を見てきた

 もう1冊は上平剛史『プレアデス星訪問記』(たま書房、2009)である。Online塾DOORSで情報通信講釈師、唐澤豊さんが紹介してくれたのだが、上平さんは16歳のとき、プレアデス星人に迎えられ、宇宙船に乗って銀河系内のプレアデス星を訪問したという。プレアデス星は地球よりはるかに文明が発達しており、科学技術を賢明に利用し、理想的な生活を営んでいる。いわく、「我々の宇宙科学は波動と光の科学であると言っても過言ではないでしょう。物質世界と非物質世界を徹底的に解明し、これ以上できないレベルまで細分化しました。そして、波動と光の科学を駆使し、元の原子、分子に科学の力を加え、新たな物質を創り、物質を自由にコントロールするところまで科学を進めたのです」、「宇宙には宇宙開闢以来の記録『アカシック・レコード』があり、それを見れば過去がすべてわかることを発見したのです。過去の場面は映画のフィルムのひとコマを見るようなものです」。

 貨幣経済とは無縁の、争いのない、弱いものほど助け、足りないものほど補うという「愛の奉仕活動を基本とする社会」をつくっており、肉体と霊魂(精神)が進化をとげ、思考力でモノを作り出せるから、飲み物や食事も瞬時にできるし、宇宙船はテレポーテーションで広大な宇宙を自由に飛び回っている。輪廻転生、死は新しい生であり、人びとは死ぬことを悲しまない。

 一方で、地球は貨幣経済に毒され、利己主義に凝り固まり、自然を搾取し続けたために、地球はすでに悲鳴を上げている。上平さんはその地球人を目覚めさせるための使徒としてプレアデス星に招かれ、この書を書いたのだという。「もし地球人類がプレアデスの科学を手に入れたいのなら、まず心のありかたを変えなければなりません。‣‣‣。『他人を愛し、奉仕を基本とする社会にしなければなりません。人間が知識を得ることも必要ですが、それ以上に『心のあり方』が重要なのです。その心のありかたが、地球人はあまりにも幼稚でありすぎるのです」。

 このコラムの文章をまとめて、サイバー燈台叢書第1弾として東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』を刊行したのは2021年9月である。朱剛先生への禅密気功入門編、および動功篇のインタビューを終え、その後、静功編に移る予定だったが、コロナ禍や私自身の準備も整わないうちに2年が過ぎた。今度こそ、秋には瞑想教室に参加し、その後に朱剛先生に静功編(瞑想編)インタビューもお願いし、年内には『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』Ⅱも刊行したいと思っている。

新サイバー閑話(93)平成とITと私⑭

『DOORS』突然の強制終了

 先にも書いたが、『DOORS』は1997年5月号で突然休刊になった。有無を言わせずの強制終了である。最終号の目次が「休刊」のお知らせで、表紙には「ゼロから始めるウエブサーバー作り」の記事紹介もある。牧野さんの「今月の怒る弁護士」は「社会は変動する。かつての経済先進国日本は今急速に凋落する。未来を展望できない国家は、大きく衰退するのが歴史的必然だ」と書いている。私には『DOORS』休刊決定そのものが朝日新聞凋落の予告のようにも思われた。今は亡き三浦賢一君が「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれたのは、突然の休刊を告げられた夜のことである。

 敗軍の将、兵を語らずと言う。『DOORS』休刊の責任は編集長にあり、それを認めるにやぶさかではない。しかし、その背後にあった社のメディア政策との確執、突然、降って湧いたような花田問題の波紋についてはきちんと記録しておきたい。

 『DOORS』は私が小世帯の出版局でインターネットに取り組んだ最初のプロジェクトだったが、その直後に社が電子電波メディア局という新たな組織をつくり、インターネットに向けて全社的な取り組みを始めたのが『DOORS』にとっての不運だった。先行プロジェクト『DOORS』は邪魔者として排除されたのである。電子電波メディア局を立ち上げる前に、デジタル出版部をその一部に取り込もうとする考えがあったのはたしかで、実際に私は社幹部からその打診も受けていた。幹部の某氏は「君のやりたいことは所帯の小さい出版局では無理だから」とも言ってくれた。だが私には電子電波メディア局がやろうとしているasahi.comの事業がどうしてもうまく行くとは思えなかった。先にもふれたが、小さな組織でいろんな実験に挑みながら、成功しそうなプロジェクトを伸ばしていくのがいいと思っていたのである。

 今にして思えば、あのとき電子電波メディア局に編入されたうえでasahi.comとOPENDOORSを併存させつつ『DOORS』プロジェクトを遂行する方法もあったかもしれない。大組織に抗って潰されるよりは良かったとも言えるが、成否は私の政治的手腕次第で、その点で自信がなかっということでもある(当時、社のメディア政策に関与していた友人の話では、そういう併存の目はもともとなかったらしい)。山本博出版局次長の考えもあり、出版局独自の路線を選ぶことになったのである。

 ここは微妙なところで、当時の出版局は桑島久男担当、山本局次長という体制で、局長は担当兼務だった。後に担当の意向でK局長が着任したが、桑島、K、山本いずれも編集局社会部の出身で、だから団結力があったわけではなく、むしろ個性の強い社会部記者の三すくみに近い状態だった(出版局の植民地支配の典型と言ってもいい)。

 私は雑誌づくりに憧れ、自ら希望して編集局から出版局にやってきた。出版局は編集局に比べて辺境だと思われていたから、「デスクになって天下りするまで辛抱しろ」などと言われたりもしたが、そういう考えが私には理解できなかった。皮肉なことに、そのことで出版局側からは奇妙な人事と思われたりもした。最初は新聞とは違う雑誌というメディアになじめず苦労したが、平池芳和、木下秀男、大崎紀夫など個性的で魅力的な編集者がたくさんいた。最先端技術特集をしながら、周りの仲間にいろいろ教わり、『ASAHIパソコン』創刊までこぎつけたのである。だからレイトカマーではありながら、出版局への愛着はひときわ強かった。『アサヒグラフ』時代には、ローテーションとして朝日新聞労組書記長に担ぎ出されたりもしている(労組時代の1年は、それこそすばらしい仲間に恵まれ、貴重な経験をし、同窓会は今でも健在である)。

 ここで山本博氏について少し説明しておこう。彼は北海道新聞からスカウトされた途中入社組ながら、横浜支局デスク時代のリクルート報道で名をはせた朝日新聞社会部きっての特ダネ記者だった(平和相互銀行事件、KDD事件、談合キャンペーンなどの調査報道に携わり、新聞協会賞も2度受賞している。『朝日新聞の調査報道』=小学館=の著書がある)。柴田鉄治さんは朝日新聞改革案として「山本博君をリーダーとする調査報道部門を作るべきだ」と常々言っていたが、ともに編集局中枢から外されていた。朝日新聞という会社は、特ダネ記者を名古屋社会部長、販売局次長と適当に処遇しながら、次いで出版局次長にしたのである。

 私が接した山本さんは、特ダネ記者とは別の進取の気性に富む良き管理者で、インターネットにも興味をもち、よく「矢野さん、いまメールしたから」とわざわざ局長室から伝言しに来たりした。彼とはウマが合い、いろいろ相談しながら対応していたが、後に聞くところによると、局内からはYY路線と揶揄されていたらしい。

 DOORSとasahi.comとの路線対立が、結局、『DOORS』廃刊に結びつく。彼らにとって『DOORS』は目の上のたんこぶだったのである。

 1つのエピソードがある。

 OPENDOORSが日本のマスメディア最初のホームページとして新聞協会のパンフレット『1997日本の新聞』に記されていることはすでに述べた。時代は突然、現在に飛ぶが、主宰しているOnline塾DOORSで友人、森治郎さんのミニコミ誌『探見』との共催で阿部裕行・多摩市長の話を聞いたことがある。

 阿部さんは当時たまたま新聞協会事務局に勤務しておられたが、OPENDOORSの認定に関しては、asahi.comの関係者から「あれは出版局がやっているもので朝日新聞の正式のものではない」と異論が出たらしい。小さな手柄を誇示するようだが、この出来事に当時の電子電波メディア局の『DOORS』を〝敵視〟する様子がうかがえるので、記しておく。

 『DOORS』廃刊にはもう1つ、伏線があった。先にふれた『ウノ』創刊(花田問題)である。新雑誌を創刊するのはいい、外部から編集長を招くのは、局員としては不満だが、これもあっていいだろう。しかし、なぜ花田氏なのか、というのが問題だった。

 社内でも、私の組合時代の畏友、社会部出身の鈴木規雄氏などは公然と批判していたが、当の出版局部長会ではっきりと抗議の意思を表示したのは私だけだった。部長会が終わったあと、某氏がそっと近づいてきて「いい発言だった」とつぶやいたが、当の本人は部長会の席ではだまっていたわけである。

 『ウノ』問題を機に着任してきたK局長が私の総合研究センター送りを画策したのである(K氏と山本氏は社会部以来の犬猿の仲で有名だった。山本氏は当時、私にこんなことを言った。「Kと私はふだん顔をあわせても挨拶しないが、桑島さんの前だと、Kは私に百年の知己のように話しかけてくる。私はそれに対して1000年の知己のように答える」)。もちろん私は異動を拒否した。と言うより、総研センター自体はかつて論説委員並みの待遇で、優秀な記者が処遇されて行くところでもあったから、行くにあたっては「自分は何をやりたいか」の提案書が前提だと聞かされ、私はそれを書かないことで抵抗していたのである。

 ところが私のあずかり知らぬところで私の研究レポートが出されたために、人事が発令されてしまった。K局長になってから局次長が増員され、雑誌編集の実績がほとんどなく業務関係の部長だったN氏が出版局懐柔策として局次長に一本釣りされたが、そのN氏が私に無断で代作したのだった。後に私が詰問したところ、彼はこれを認め、「K局長には局次長にしてもらった恩義がある」と言った。

 実は、私の総研センター行きはM社長や当時のH総研担当役員から「一時的だから、しばらく好きなようにしていればいい」と言われていた。しかし、しかし。私も含めて出版局再生のためにポスト桑島として着任を要請して実現した、これもN新担当は、思惑に反して、私を出版局に戻さなかった。彼は「君を戻せば自分の身が危ういと、上層部の先輩から言われている」と言った。出版局プロパーに裏切られたという苦々しさが残った。

 総研センター時代、私はときどき、中島敦の小説『李陵』を思い出した。

 まだ紀元前の中国、漢の武帝の時代。匈奴征伐の際に、善戦およばず捕虜となった李陵は、匈奴単于(ぜんう)に厚遇される。李陵は自己弁護をせず、漢民族の誇りも失わず、匈奴の軍事指南は拒否した。ところが不運なことに、同じ李を名乗る別の人物が匈奴に迎合、それが武帝の耳に達する。怒った武帝は李陵の家族、一族をことごとく殺した。李陵は匈奴と一定の友好を保ちつつも、悲運のうちに異郷の地に没する。一方、匈奴に順うのを潔しとせず僻地に放逐されていた蘇武は、苦節19年の末、祖国に戻った。

 高校の教科書で読んだとき、「襤褸をまとうた蘓武の目の中に、時として浮かぶかすかな憐憫の色を、豪華な貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王李陵は何よりも恐れた」という簡潔で凛とし、しかも深い憂愁をかかえたこの名文が妙に記憶に残った。

 ちなみに、武帝の前で李陵の行動をただひとり弁護、そのために宮刑(去勢)という恥ずべき刑を受けたのが有名な『史記』の作者、司馬遷だった。中島敦は司馬遷に関して、「彼は、今度程好人物というものへの腹立を感じたことは無い。これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。少なくとも側から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、一層けしからぬのだ。弁護もしなければ反駁もせぬ。心中、反省もなければ自責もない」。

 すでに社を離れていたと思うが、柴田さんが何かの折に、「戦国時代なら戦いに敗れれば、首をはねられてもしょうがないところだ」と妙に慰めてくれたことを思い出す。

 総研センターは、さすがに往年の面影が残り、気心の知れた友人もいて、台頭するインターネットの現場を取材したり、共同レポートを書いたり、それはそれで楽しく過ごした。同時に、ここでもインターネットに翻弄される新聞社の混乱ぶりを見ることになった。朝日新聞社は2008年、出版局を朝日新聞出版として分社化したが、それは2023年6月の『週刊朝日』廃刊へと結びつく。私が総研センターで見たのは出版局が滅びに向かうみじめな姿でもあった。

 それはともかく、私が総研センターに行った1997年は平成9年で、平成という時代は3分の1を経たところだった。インターネット史で言えば、まだWeb2.0以前である。

新サイバー閑話(92)平成とITと私⑬

『DOORS』短命の中の豊穣

 『DOORS』のタイトルについても思い出がある。雑誌『アエラ』の命名者、コピーライターの真木準さんに知恵を借りに出かけた時、真木さんはこう話してくれた。

 タイトルの要諦は、明・短・強である。

 明るく、短く、強い。これが条件なのだという。コピーライターたちはタイトルを考えるとき、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語など、あらゆる辞書を最初から1ページずつ丁寧に読んでいき、ふさわしい言葉を探すらしい。私も休暇を利用して南の島に国語辞典、漢和辞典、英語辞典、ことわざ事典などを携帯、それを読破しつつ、DOORSのタイトルを考えついた。

 それを商標登録しようと、刊行部で調べてもらったら、すでに登録されていた。ソニー・ミュージックエンタテインメントがロックバンドの「ドアーズ」関連書籍を出そうとしたことがあるらしく、10年近く前に商標登録していたのである。私は、『DOORS』という誌名をどうしても諦めきれず、ソニー・ミュージックエンタテインメントに出かけて趣旨を説明したら、先方でもインターネットやマルチメディア関連の雑誌を出す可能性はいくらもあるのに、気持ちよく譲ってくださった。学生時代の寮の先輩がその会社の幹部をしていた幸運もあったが、先方の関係者の実に爽やかな対応は、今でもありがたく、また嬉しく思っている。

 創刊当初、「なぜDOORSなんですか」とよく聞かれた。「ロックバンドの名にあやかった音楽雑誌かと思ったら、インターネットの雑誌なんでびっくりしました」と言ってきた若い女性もいる。実際、『DOORS』が音楽ジャンルの書棚に置かれたこともある。私は「オルダス・ハックスリの『知覚の扉』からとったんですよ」と答えたり、Windows95にからめてDOORS are bigger than Windowsと笑ったりしていたが、その『DOORS』をきちんと育てられなかったのは、まことに心苦しい。

・伊藤穣一・村井純・浜野保樹

 さて、本題である。わが社にとっても、また私たちにしてもまだインターネットをよく知らなかったわけで、社外の何人かに助言を頼んだ。それは相当たる顔ぶれだった。

 すでにインターネットの寵児と目されていた伊藤穣一さんは当時まだ30歳になっていなかったと思うが、『DOORS』創刊前にデジタルガレージという会社も立ち上げ、林郁社長とともに、インターネット・ビジネスを牽引しつつあった。

 彼は両親とともに幼少時代に渡米、米国タフツ大学でコンピュータ・サイエンス、シカゴ大学で物理学を専攻、インターネット関係の事業をいくつか立ち上げると同時にインターネット関連のイベントなどをプロデュースしていた。日本語よりも英語が得意の、どちらかというとアメリカ人で、日本のインターネット爆発と同時に、一躍、時の人となった。エレクトロニック・コマースやデジタル・キャッシュの将来を熱っぽく、しかも理論的に説く彼自身の存在が、インターネットの体現者と思われた面もある。各方面から執筆や講演依頼と引っ張りだこだったが、創刊号からChaos(混沌)とOrder(秩序)を組み合わせた造語「ChaOrdix(ヒエラルキーからネットワークへ)」というタイトルで連載してもらった(後年、彼はMITメディアラボ所長になった)。

 林さんも30代半ば、穣一君の言わば兄貴分で、もともとの専門である広告やイベントの分野で協力してもらった。彼らはインターネットには詳しいがメディア(雑誌)には不慣れ、私たちは雑誌のプロだがインターネットには不慣れ、というわけで、デジタルガレージと〝二人三脚〟で、インターネットの荒波に漕ぎ出したのである。編集部員も彼らの会社を訪問、新しい息吹に直接ふれる経験をした。林さんには創刊イベントなどで協力していただいたころが懐かしい。デジタルガレージにはサーバー管理をお願いしたし(当時はエコシスとも名乗っていた)、OPENDOORSやCOOLDOORSの中味(コンテンツ)を、ともに試行錯誤しながら作った。若い人たちとの共同作業は、教えられたり、教えたり、楽しい思い出である。

 日本でのインターネットの父とも言われる村井純さんには、当然のことながら、さまざまにお世話になった(伊藤、村井両氏の写真は1996年のインターロップで)。

 彼については、説明の必要もないだろう。日本のインターネットを牽引してきた人であり、『インターネット』、『インターネットⅡ』、『インターネット新時代』(いずれも岩波新書、1995、1998、2010)などの著書もある。彼はインタビュー(1996年6月号)で「これからは技術者ではなく、社会の第一線で活躍している実務のプロがインターネットを始めるときである」と、インターネットの伝道師らしく、熱っぽく語っている(当時は慶応義塾大学助教授だったが、その後教授になり、現在は内閣官房参与、デジタル庁顧問なども努めている)。

 浜野保樹さんはメディア論を専攻している研究者(国立放送教育開発センター助教授)だったが、象牙の塔の人と言うより、マルチメディア関係のイベントにコーディネーターとして関わったり、各種の研究会に引っ張り出されたり、この業界ではすっかり「顔」だった。にもかかわらず、利害渦巻く業界の垢にまみれぬ、毅然としたと身の処し方が、きわめてさわやかな印象だった。オーソン・ウエルズとスタンリー・キューブリックを敬愛する元映画青年は、時代の最先端で忙しく動き回りながら、メガネの奥に光る柔和な目で、メディア社会の行く末を見つめ、すでに『ハイパーメディア・ギャラクシー』(福武書店、1988年)などを世に問うていた。

   浜野さんには、創刊号からインターネットの歴史に関する連載をしていただいたし(後に『極端に短いインターネットの歴史』=晶文社、1997年=として出版された)、折々の特集などでも知恵をお借りした。彼はその後、東大教授になったが、2014年に62歳で夭折したのはまことに残念である(写真は『ASAHIパソコン』インタビュー時のもの)。

 そのほか、「ゼロから始める入門講座」担当の吉村信さん、創刊号以来、「オープン&クローズ」を連載していただいた哲学者の中村雄二郎さん、インターネットの現状に対する不満を投稿してくれたのを機に「今月の怒る弁護士」というコラム連載をお願いすることになった弁護士の牧野二郎さんなど、多くの人が懐かしく思い出される。牧野さんは当時、インターネット弁護士協議会設立に奮闘していた。

・メディアとしてのCD-ROM

 情報のデジタル化で大部の本1冊分の情報が1枚のロッピーディスクにまるまる入り、そのためにムック制作中に遭遇した思わぬトラブルについてはすでに述べた。フロッピーディスクの容量は約1MB(メガバイト)だが、CD-ROM1枚にその500倍、500MB以上の情報が入る。そのCD-ROMを雑誌の付録につけることで、より多くの情報を読者に提供しようというのが『DOORS』プロジェクトのねらいでもあった。

 当時、パソコンの処理能力だけでなく、回線速度も、記憶容量も猛烈な勢いで進化していた。これはひとえにパソコンを構成している半導体の集積度の高まりにより、1枚のチップに組み込まれる回路もIC(Integrated Circuit,集積回路)、LSI(Large Scale Integration,大規模集積回路)、超LSIという具合に稠密になり、コンピュータパワーは増強,逆に価格は安くなっていた。

 ICの進化については、半導体メーカーのインテル社社長,ゴードン・ムーアが1965年の時点で,「一定のシリコン上にエッチングできるトランジスタの数は18カ月ごとに倍になる」という予測をし、ムーアの法則と言われている。一般に「コンピュータパワーは1年半で2倍になる」というふうに言われていたが、物理的制約はやはりあり、最近ではムーアの法則の限界もささやかれている。もっとも、2006年4月の段階でインテルは「ムーアの法則は生きている」と発表した。1995年時点はまさにすべてが高機能化、低価格化するという激変の時代だった(ちなみに今、小さなUSBでもMBの1000倍の㎇、さらにその1000倍のTBの情報が入るが、主流は記憶媒体を離れてネットワークに移っている)。

 そういう中でメディアとしてのCD-ROMが脚光を浴びていたのである。『DOORS』1997年4月号では浜野さんに選考委員長をお願いし、「CD-ROMベスト100」を選んでいる。

内訳は、

①ゲーム(25) MYST日本版、GADGET、Dの食卓、The Tower、DOOM、ジャングルパーク、Sim Cityなど。
②エンターテイメント(25) Alice、L-ZONE、世界の車窓から、笑説・大名古屋語事典、Sesame Street、The Manholeなど。
③アート・文藝(15) YELLOWS、A Hard Day’s Night、南伸坊の顔遊びなど。
④教養(13) ヒロシマ・ナガサキのまえに、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ハイパー京都ガイド、書を捨てよ町へ出ようなど。
⑤実用(22) キネマの世紀、The Complete OZU、デジタル歌舞伎、Microsoft Encarta、世界大百科事典、理科年表、マルチメディア人体、新潮文庫の100冊、朝日新聞記事データベースなど。

 草創期以来の膨大なタイトルの中から厳選したものだが、各種プロダクションや出版社、新聞社まで、CD-ROMを使って何ができるか、さまざまに実験していた熱気が感じられるラインアップである。「笑説・大名古屋語事典」は名古屋出身の作家、清水義範が名古屋弁普及に取り組んだもの、「The Complete OZU」は映画監督、小津安二郎紹介。

 だいたい1万円未満だが、1万円以上のものもある。岩波書店の『広辞苑』は第4版で1万4420円、平凡社の『世界大百科事典』は31巻の大百科事典が検索ソフトを含めて数枚のCD-ROMに収められ、14万5000円だった(私は1998年に発売された『広辞苑第5版』1万1100円と、同年発売の『世界大百科事典』第2版、5枚組で5万9000円を買った。『世界大百科事典』まさに高機能化、低価格化していたが、結局、あまり使わず、紙の『世界大百科事典』と同じ運命をたどった)。

 CD-ROM製作の仕掛け人として、青空文庫で有名なボイジャーの萩野正昭さん、シナジー幾何学の粟田政憲さんが登場しているのも懐かしい。粟田さんは後に述べる「GADGET」をプロデュースした人である。

・インタビュー「ポスト日本人」

 私は『DOORS』でも毎号、インタビューを続けた。伊藤穣一、村井純さんにもご登場いただいているから当然、インターネットの将来、およびそれが社会に与えるインパクトが最大の関心事だったが、そのほかに2つ、私の興味を引いていたテーマがあった。1つはメディアとしてのCD-ROMの威力と効能であり、もう1つはコンピュータが新しいタイプの若者を生み出しているという発見だった。両者は微妙に重なり合い、「ポスト日本人」の人選にも影響していた。

 タイトルを「ポスト日本人」としたことについて雑誌でこういうことを書いている(福井コンピュータ『cyber Architect』 1996年秋号)。

 最初にインタビューしたのがフューチャー・パイレーツの高城剛さんで、彼がそのとき「ポスト日本人」という言葉を使った。「パスポートの色で識別される、世界が見る日本人ではなく、自分のアイデンティティを持った新しい日本人」という意味で、この言葉を使い、「僕もそういうポスト日本人でありたい」と言ったのである。
  パソコンの発達が新しい創造活動を可能にしたことで、グローバルな活躍を始めた若者が続々誕生しつつある、という問題意識でスタートした連載にぴったりの登場者を得て、私は「ポスト日本人」をタイトルに借用し、以来、独占的に使用している。
 「ポスト日本人」の特徴は、偏差値教育と無縁なことである。村井純・慶応大学環境情報学部助教授、石井裕・MIT准教授などの学者・研究者や服部裕之・BUG社長など実業家の一部を除くと、ほとんどの人がいわゆる有名大学を出ていない。受験勉強などしたことがないという人が多いし、大学もきわめていいかげんに受けている。
 高城氏にしてからが、高校時代にロサンゼルスに出かけて2年ほどブラブラした後、ふらりと日大に入ったのだし、今、東大教養学部で「国際おたく大学」なるゼミを持っている元ガイナックス代表の岡田斗史夫氏は小学生の頃からSFに凝って、SF研究会のある大学を選び、授業には一切出ないまま退学している。25歳にしてゲーム『Dの食卓』を世に問うた飯野賢治氏は、高校時代にすでに落ちこぼれた。
 音楽好きというのも共通で、独自の画像圧縮技術開発で脚光を浴びるゲン・テック代表の宮沢丈夫氏は、一時はプロのドラマーをめざした人である。飯野氏、格闘技ソフト「バーチャファイター」で有名なセガ・エンタープライゼズ取締役の鈴木裕氏など、皆、バンド活動をやっている。「ガジェット」で世界的にCD-ROM作家として有名になった庄野晴彦氏はメカ少年だった。
 皆、お仕着せの受験教育から自然にはみ出て、好きなことを好きなようにやってきた。ひと昔前なら確実に社会から落ちこぼれてよさそうなのに、そうならなかったのはパーソナル・コンピュータのおかげである。
 20万円も出せば一式がそろう今のパソコンが、つい最近までは何億円もした大型コンピュータ並みの機能を持ち、その中に独自の世界を作り上げられるようになった。こういった分野で活躍する若者たちが、大会社に入り出世階段を登っていくことを前提に作り上げられた偏差値教育とはまるで違う社会の片隅から誕生しつつあるのは、きわめておもしろい現象といえるだろう。「ポスト日本人」の”冒険”とその意味を、近く一冊の本にまとめたいと考えているところである。

 残念ながら本にするチャンスは逸した。ここではその中の庄野晴彦、飯野賢治のご両人のみ紹介しておく。庄野晴彦さんは『ガジェット(GADGET)』、飯野賢治さんは『Dの食卓』と、それぞれの代表作を世に問うた直後に話を聞いている。

  『ガジェット』は、日本よりも海外で高い評価を受けた。ユーザーがマウスを操作しながら、インタラクティブな物語の中に入っていく点では、たしかにゲームだが、より深い一つの世界を築き上げている。ゲームは、7人の科学者が発明した洗脳装置センソラマをめぐって、帝国と共和国、その双方のスパイが暗闘を繰り広げる形で展開する。プレーヤーは、帝国のスパイの役割を与えられ、科学者たちの身辺を探りながら、いつしか不思議な狂気の世界へ迷い込む。最後にどんでん返しも仕組まれており、海外で6万枚、日本で5万枚を売るヒットとなった。この作品は93年度のマルチメディアグランプリ通産大臣賞を受賞した。アメリカの各メディアで激賞され、95年2月27日号の『ニューズウィーク』誌は、彼を「未来を動かす50人」の1人に選んだ。
 『ガジェット』はCD-ROM作品にとどまらない広がりを持ち、物語の全貌を記したビジュアルブック(すなわち紙の本)『Inside Out with GADGET』、物語の中核をなす装置センソラマの体験を映像化したビデオ&レーザーディスク『GADGET Trips』を合わせた3部作が、全体としての『ガジェット』の世界である。1997年4月にはアメリカのSF作家による小説『GADGET THIRD FORCE』も発刊されている。CD-ROMから小説が生まれたのである。
  1960年、長崎県生まれ。九州産業大学芸術学部デザイン科を卒業したあと、筑波大学大学院へ。「映画ではスタンリー・キューブリックやリドリー・スコットなどが好きです。子どもの頃はハリウッドの分かりやすいエンターテインメント映画を見ていましたが、学生になると、興味はヨーロッパ映画に移り、タルコフスキーや実験映画にのめり込んでいきました。コミックでは大友克洋のような絵のうまい人が好きで、かなりコミックの影響を受けているかもしれません」、「テクノロジーがあって、僕の表現が成り立っているのは確かですね。コンピュータがなかったら、グラフィック・デザインのような分野に進んでいたかもしれません。僕たちはコンピュータを使って作品を作り始めた最初の世代で、いわばビデオとコンピュータの中間に位置しています。音楽にも映画にもビデオにも興味があって、それをテクノロジーやコンピュータが埋めてくれる。だからいろいろなことができるんです」。

 飯野賢治さんは、インタビュー当時、まだ25歳だった。処女作のアドベンチャーゲーム『Dの食卓』で脚光を浴びていたころで、大きな体、いかつい風貌、それに似合わぬやさしい笑顔、同じ25歳で映画『市民ケーン』を作ったオーソン・ウエルズを彷彿させるところがあった。
『Dの食卓』は、95年に家庭用ゲーム機のソフトとして発売され、たちまち評判を呼んだ。セガのサターン版、ソニーのプレイステーション版などがあり、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツでも発売され、合計80万本は売れたとか。
 95年度のマルチメディアグランプリ通産大臣賞を受賞している。その後、発表した『エネミーゼロ』、絵のないゲーム『リアルサウンド』は、いずれも評判を呼んだ。最近『ゲーム Super 27years Life』(講談社)という本を書いた。
 『Dの食卓』の舞台はロサンゼルス。名医として知られたリクター・ハリスが突然、殺人鬼と化し、自らが院長を務める病院内で大量殺人を引き起こす。入院患者を人質に院内に立てこもるリクターの謎を解明するために、一人娘のローラが単身、病院に乗り込んでいく。ローラを待っていたのは父親の想念が作り出した異世界。プレーヤーは、ローラとともに、中世ヨーロッパふうの屋敷を徘徊しながら、暖炉の隅などに隠されている扉の鍵や、必要な道具を見つけ出して、謎解きを進めていく。プレーは2時間の制限つきで、その間にすべての謎が解けなければ、プレーヤーの負けだ。高品質のグラフィックスが不思議な雰囲気をかもし出しており、ポリゴン(三次元CGを描くための微少な多角形の画素)で作られた主人公ローラが、プレーヤーの指示通りに行動して、さまざまな表情を見せる。
 1970年、東京生まれ。ゲーム制作会社で働いたり、ソフト受注会社を経営したりしたあと、94年にソフト開発会社ワープを設立した。『Dの食卓』では企画、シナリオ、監督、作曲と、ほとんどすべてを担当した。  「物語の舞台はロサンゼルスですが、裏側に流れる悪魔の血の物語はヨーロッパが舞台です。イタリア、ルーマニア、フランス、ドイツなどを取材しましたが、そこでの最大の収穫は『空気』です。僕らがイメージする中世の城・屋敷と現実は違うということを思い知らされました。例えば、本物の屋敷にはすべての部屋に暖炉があります。暖炉がなければ冬場は使えないですから。何も知らないと、CGで暖炉なしの部屋を描いてしまう。煉瓦の積み方一つとっても、ドイツとフランスでは違います。ドアのノブや開き方、天井の高さなど、実際に見なければ分かりませんね。映画でも絵画でも現場を取材するのだから、ゲームでもディテールにこだわるのは当然です」、 「デジタル世代は人生にリセット・スイッチがあると思い込んでますから、ゼロからスタートして自分たちが格好いいと思うソフトを作り、自分たちで発売まで手がけてしまおうと、ワープを設立したのです」、「コンピュータの世界は年齢も、身分も関係ないということです」、「僕の中には国境はまるでありません。社員たちも、次の作品が売れなかったら、会社がつぶれることは分かっている。会社の全員14人がバンドの構成員だと思うんです。それぞれが曲を持ち寄って、音を合わせて、手直ししていく。お互いのいいところを取り込んで曲を作り上げていくんです。バンドなんだから、次の曲が売れなければ解散という気持ちは、みなが自然に持っていると思いますよ」

 映画制作は、多くの人と、大きな設備と、莫大な費用を投じて初めて可能で、監督になるまでには、それなりの修行時代も必要だった。それと同じような世界を、いまは、才能さえあれば、パソコンと向かい合うだけで、一人でも作り上げることができる。すべてがコンピュータ・グラフィックスだから、俳優も自前である。パーソナル・コンピュータの発達が、個人に強力なメディアを与えたのである。

 もはやゲームは、ただのゲームではない。庄野晴彦さんにとっては、一つの壮大な作品世界だし、斎藤由多加さん(プレーヤーがオーナーになってビルを建設、運営管理し、最終的に百階建ての超高層ビルをつくりあげる、The Towersの作者)にとっては、世の中のしくみを明かす装置でもある。

 CD-ROMというメディアは、私たちの創造活動のあり方を大きく変えた。音と映像を取り込み、双方向性を活用した新しいメディアが誕生したともいえる。それはまた、いまは回線容量などの制約で、画像や音を十全には扱えないウエブがいずれ行きつく姿でもあった。

  東京大学社会情報研究所の水越伸助教授(当時、後に教授)は、「新しいメディア表現者の登場と日本のジャーナリズム」という論考の中で、「虚実入り交じったメディアの星雲の中で、私が、唯一といってよいほどリアリティを持つことができるのは、新しいメディアとの関係において立ち上がりつつある人間の存在である。マス・メディアのオーディエンスでしかなかったこれまでの自らのあり方から踏み出て、コンパクトな高度情報機器を携え、メディア・リテラシーを身につけ、自らの意見や思想、感覚を表現することの意義や効用に覚醒した人々が、社会のさまざまな領域から現れはじめている。ここでは、彼らのことをメディア表現者と呼ぶことにしたい。メディア表現者は、情報を享受もする。しかしこれまでほとんどの市民が端からあきらめていた表現活動に自らのアイデンティティをかけ、受容と表現の循環性を回復する中で、結果としてコミュニケーション活動をめぐる全体性を再獲得するような営みを行っている」と期待を込めて語っていた。

新サイバー閑話(91)平成とITと私⑫

『DOORS』は3Dメディア

 1995年3月10日、朝日新聞出版局のホームページ、OPENDOORSが店開きした。日本の大手マスコミが開設した初めてのホームページだった。私は編集長挨拶として、ホームページの冒頭で以下のように述べた。

 ギリシャ神話に題材をとったジャン・コクトーの映画『オルフェ』では、鏡がこの世と黄泉の国を結ぶ扉でした。詩人である主人公オルフェは、死んだ妻を取り戻すために、不思議な手袋の助けを借りて鏡を通り抜け、黄泉の宮殿にたどりつきます。
 いまパソコンのディスプレイは、私たちを未知の世界へと誘ってくれる鏡、新しい扉です。マウスやプログラムの力を借りて、インターネットで結ばれた多くの扉を次々に開けば、瞬時に世界中を飛び回ることができます。いずれは個人個人が自分たちの扉を作って相互に情報を交換することができるでしょう。「生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける」とわが国の歌人はうたいました。「おぼしき事いはぬははらふくるるわざなり」と書いた人もいます。みなが自分のメディアを持って、自由に歌をうたい、ものをいうためのツール、それがインターネットです。新しいメディアの実験『OPENDOORS』の扉を開いてみてください。

 その少し前、OPENDOORS開設を知らせる社告が朝日新聞本紙の一面に大きく載った。初めての横組み社告だったはずである。全体が3段組みで、「OPENDOORS10日開設」の横カットがあり、縦に「初の本格的『ネットワーク・マガジン』」のカット、真ん中に「DOORS」のロゴが入った。骨子はこんな内容だった。

 新しい情報インフラとしてのインターネットの普及を受けて、朝日新聞社は今秋9月、インターネットとマルチメディアを対象とする月刊誌『DOORS』を創刊します。また、それに先立ち3月10日からインターネット上にホームページOPENDOORSを立ち上げます。
 雑誌のコンセプトは「情報社会の賢いナビゲータ」。OPENDOORSはそのネット版で、「わが国初の本格的ネットワーク・マガジン」として、ホームページの標準スタイルを築き上げたいと思っています。http://www.asahi-np.co.jp/経由で、どうぞアクセスしてみてください。

  お分かりのように、OPENDOORSは秋に発売される雑誌DOORSと連動したホームページだった。これから進展するマルチメディア化に対応するために、祇の雑誌、インターネット上のホームページ、雑誌の付録CD-ROM、の3つのDOORSのメディアミックスこそが、当プロジェクトのねらいだったが、それについては後述する。紙のメディアより先にホームページを開設する、それも日本マスコミ業界の先陣を切って、というのが私のねらいだった。

加速する時間に悪戦苦闘

  『DOORS』は『ASAHIパソコン』の土台の上に築き上げられるべきメディアだったが、実際にはふたたび「ガレージからの出発」となった。

 今度の相棒は、MITへの留学経験もある服部桂君と社外から来てもらった京塚貢君、後に林智彦、角田暢夫、久保田裕君などが加わった。多くは例によって社外協力者に頼った(『ASAHIパソコン』以来の知己、西田雅昭さんの紹介で加藤泰子さんが、今でいえば、契約社員として編集部に常駐してくれた。学生アルバイトの諸君にはたいへん助けられた)。とくに今回は大日本印刷に制作をお願いするにあたって、大日本印刷の社員2人(K、S君)が編集部に常駐するという破格の対応をしてくれた。

 5月には出版局の組織改革でデジタル出版部長が置かれることになり、私がデジタル出版部長兼ドアーズ編集長になった。したがって、私に才覚があれば、デジタル出版部全体を束ねるきちんとした組織にできたはずだが、新設された電子電波メディア局との対応や日々の誌面作りに忙殺され、『DOORS』さえ成功すれば道が開けるという思いも強く、当面の組織づくりはおろそかになった。最終的には『DOORS』廃刊、私自身の出版局更迭という事態に終わり、関係したすべての人びとにまことに申し訳ない結果になった。とくに加藤さんや大日本印刷の2人には、苦労ばかり強いて何の好結果も産めず、まことに慚愧に絶えない(桑島出版担当は『DOORS』創刊にあたって、私の要請を受けて、編集局科学部から服部桂君を引き抜く剛腕も発揮してくれた。その意味で当初の出版局の期待に応えられなかった非力は認めなくてはならない)。

 それはともかく、 私の構想は以下のようなものだった。

  これからはメディアミックスの時代である。紙のメディア、ホームページ、CD-ROM、そういった異なるメディアを組み合わせて新しいメディアを作り上げていかなければ、マスメディアの前途は多難である。最初は、紙のメディア「雑誌」で収支をとりながら、ホームページやCD-ROMを育て上げる準備をしたい。編集局とは違って小世帯で小回りがきく上に、印刷会社、取次、各種プロダクションなど外部組織とのつきあいも深い出版局は、これからのメディア開発のパイロットとして、勇猛果敢に新規プロジェクトに取り組んでいくべきである。

 その主力の紙のメディアがさっぱり売れなかったのが最初にして最大の躓きだった。

 『DOORS』創刊号(11月号)は、1995年9月29日に発売された。A4変形判、136ページ、今度は無線綴じで、CD-ROM付きで定価1480円だった。売りものは「3Dメディア」である。雑誌『DOORS』、CD-ROMのCOOLDOORS、ホームページOPENDOORSの三位一体であり、3つのDOORSという意味で、3Dメディアと呼んだ(3D=Three Dimensionでもあった)。創刊直後のある会合で、私は『DOORS』のコンセプトを敷衍して次のように話した。

 創刊号の特集は「デジタル・キャッシュの衝撃」。インターネットの普及につれてネットワーク上でのビジネスが盛んになりつつありますが、そこでの決済手段として電子のお金が使われます。欧米で進められているデジタル・キャッシュの先駆的実験を紹介しつつ、貨幣の本質にも迫ろうという企画ですが、DOORS創刊と同時に模様替えするOPENDOORSでも、この特集を全面展開します。
 雑誌に掲載した記事や写真をオンラインで流すのをはじめ、取材で撮影した8ミリビデオの映像も取り込みます。双方向メディアの特性を生かして、読者の意見を聞いたり、雑誌本体の定期購読の申し込みを受け付けたりもします。余力があれば、英語版も製作し、世界に向けて情報発信していきたいと思っています。
 インターネットは、回線容量やソフトウェアの関係で、実際には、映像や音を快適に受発信できるようになるのはまだ先の話です。その点をカバーすべく、映像などはむしろCOOLDOORSに収録することにしました。本誌の「ゼロから始める入門講座」で取り上げたソフトウェアの一部やWWWサーバーを見るためのブラウザー「ネットスケープ」日本版も期限付きながら収録することができました。入門講座につける用語解説もCOOLDOORSやOPENDOORSに収録し、これらは回を追うにしたがって増やしていく積み上げ方式で、いずれは立派な用語事典にするつもりです。 
 創刊号のCOOLDOORSには、週刊朝日編集部が製作した『’96大学ランキング』のデジタル・データも採録しました。検索できるので、紙のメディアとは一味違った利用ができるはずです。

 いま振り返っても、その意図や良し、というべきだが、小規模所帯である立場をわきまえず、あれもこれもに手を出して、いずれも中途半端だったと、正直に認めざるを得ない。それよりも私たちにとって誤算だったのは、冒頭でも述べたように、インターネットの普及ぶりがあまりに急激だったことである。

 ジム・クラークはインターネットの未来にかけて、ブラウザー開発者、マーク・アンドルーセンに接触し、短期間で新ブラウザー、ネットスケープを提供、脚光を浴びた人である。『DOORS』を創刊したころは、マイクロソフトのインターネット・エキスプローラと熾烈なシェア争いを続けていたころで、毎月、無料で提供される新しいアドインソフトを付録COOLDOORSに収録する作業だけでも大わらわだった。こうしてブラウザーは日に日に使いやすく便利なものになり、インターネットが拓く世界はそのたびに大きく姿を変えていった。

 そのクラークが前半生を振り返って書いた自伝がNETSCAPE TIME(邦題『起業家ジム・クラーク』(日経BP社、2000)である。彼は「わが社は全プロジェクトを3カ月で見直す」と言ったが、まさに「加速するスピード」こそがネットスケープタイム=インターネットタイムだったのである。このスピードは当時、「ドッグイヤー」とも呼ばれていた。

 私たちはそのスピードに負けたと言っていい。コンセプト上の混乱もあった。「デジタル・キャッシュの衝撃」という特集が象徴しているように、紙面作りの中心は、インターネットをめぐる欧米最先端事情の掘り下げた紹介・解説に置かれていた。「ゼロからはじめる入門講座」も用意していたから、これからインターネットを始めようとする初心者を対象にしていなかったわけではないが、日本でインターネットをやるのは、まだ一部の限られた人である、という認識が強く、当初の想定読者は、どちらかというと、一部専門家の方にシフトしていた。だから表紙も、専門誌的だったし、雑誌の価格も、他の雑誌と同じように、高かった。

 ここには、インターネットにはガイド誌より、メディアとしての本質を掘り下げた記事が求められるのではないかという私の思いが反映していた。だから、創刊前に発行したムックは『インターネットの理解(Understanding Internet)』だった。MIT時代にインターネット最先端を精力的に取材、人脈も築いていた編集委員、服部桂君が全身全霊を打ち込んだ、インターネットの解説本としては他に例を見ない傑作だったと今でも思っている。タイトルがマー シャル・マクルーハンの『メディア論』(Understanding Media)をもじっているように、インターネット黎明期のアメリカの最新事情を丁寧に紹介すると同時に、インターネットの預言者と呼んでもいいマクルーハンについても詳しく紹介した。巻頭ではジム・クラークやマーク・アンドルーセンなどにもインタビューし、アメリカでのインターネットの熱気について伝えている。

 ところが、このムックが予想に反してまったく売れなかったのである。

 アメリカではインターネットが切り拓く新しい社会や文化を紹介した雑誌『Wired』が評判になっていたが、日本の読者はそういう記事より、やはり初心者向けガイドを求めているのだろうか。しかし、ハードウェアとしてのパソコンにはガイド誌が成立しても、ソフトウェアとしてのインターネットにはガイド誌は成立しないのではないか。というわけで、インターネット事情とそのガイド情報という両天秤をうまく塩梅できないままに、『DOORS』は廃刊に追い込まれていったとも言えるだろう。インターネットというオンラインメディアと紙のメディアを共存させようとする試みそのものが、とくに日本においては、難しいということだったかもしれない。

 ムック刊行直後から、さまざまに軌道修正を試みたが、作り上げた仕掛けを直すのに戸惑うわ、釣り糸はこんがらがるわ、餌はなくなるわ――、初心者ガイドに力を入れると、今度は当初の最先端情報への目配りが足りなくなるといった悪循環で、日々のあまりの多忙さもあって、軌道修正はスムーズに進まなかった。一方、世の中は降って湧いたようなインターネット雑誌の創刊ブームで、1996年6月には、初心者向けガイドに撤した『日経ネットナビ』(日経BP社)も創刊された。老舗の『インターネット・マガジン』(インプレス)と新手の『ネットナビ』に挟まれて、『DOORS』はずっと苦戦を強いられたが、「3Dメディア」としての実績は、少しづつ築かれつつあったとも自負している。主なものを整理すると、以下のようになる(写真は1996年7月号の3DOORS案内)。

①出版業界の先陣を切っての出版案内開設(96.2)
  出版局発行の各種雑誌の案内や書籍の新館案内などをOPENDOORSで行い、ASA(朝日新聞販売店)、取次につぐ第3の販売ルート開拓をめざした。『週刊朝日』連載と連動した村上春樹の『村上朝日堂』ホームページはたいへんな人気だった。
②OPENDOORS及びCOOLDOORSでの「プロバイダー・パワーサーチ」の開始(96.9)
  全国で続々誕生しつつあったプロバイダーの紹介は、当初は本誌で行っていたが、その数が増えるにつれて、誌面の制約が生じ、それをCD-ROMやホームページ上に移し、かつサービス別、地区別などで検索できるようにした。
③「進学の広場」開設(97.4)
  出版局内の大学班と協力して、朝日新聞の強みを生かした教育ホームページのたち上げをめざした。
④イベントへの協力
  広告局の企画するイベント、「インターロップ」や事業開発本部の「朝日デジタル・エンターテインメント大賞」など、朝日新聞社主催のイベントにも協力して、マルチメディア部門への進出をめざした。

 めくら蛇に怖じずで、よくもまあ、いろんなことをやろうとしたものだと、列記しつつ、その〝蛮勇〟に我ながら恐れ入るが、 OPENDOORSは1ヵ月に200ヒット近く、出版業界のホームページとしては屈指のアクセス数を得た。そして、創刊1周年を迎えたころには、編集部態勢も整い、DOORSらしい誌面作りも軌道に乗り出した。部内にはシステムエンジニア、編集者、デザイナーなどからなるOPENDOORS作業班もできて、いよいよこれからという時、『DOORS』は突如として休刊を宣告され、1997年5月号という中途半端なタイミングで、短い命を終えた。