新サイバー閑話(61)平成とITと私⑨

私がインタビューした人びと

 創刊号から私は毎回、インタビューを続けてきた。パソコン発達に貢献した人びとの想像力と熱意あふれる話を聞いたり、パソコン使いの達人に極意を伺ったり、不自由な体でパソコンを駆使し新しい人生を切り開いた人の苦労話を聞いたり、パソコン通信を利用して二人三脚で小説を書く方法を尋ねたり、農家のパソコン利用について取材したりと、私自身がパソコンという道具について日ごろ考えていることを、その折々に来日した外国人も含めて、さまざまな分野の人に聞いたものである。有名人もいれば、無名の人もいた。

 写真を担当してくれたのは、かねてコンビの岡田明彦君である。かつて『アサヒグラフ』で全国の最先端技の現場を訪ねたように、私たちは月に2度、インタビューのために各地を回った。彼の人物の内面を映し出すようなすばらしい写真が紙面を飾ってくれた。この回に掲載した写真はすべて岡田君が当時撮影したものである。

・ニコラス・ネグロポンテが夢見た世界

 創刊号はかねて予定のニコラス・ネグロポンテ所長だったが、彼の「収縮する3つの輪」についてはすでに説明したので、ここではエピソードをいくつか紹介しておこう。

 彼はインタビュー前の講演で、こういう話をしていた。

 ウイズナー教授といっしょに、日本人実業家から箱根の別荘に招かれたとき、ウイズナー教授が、庭に飾られた彫刻を、その配置に触れながら具体的にほめたのに対し、当の実業家は「うーん」とだけ応えた。そうしたら通訳が、主人は、かくかくの点においてウイズナー氏の考えに賛成だといっております、とずいぶん長い英語に翻訳したので驚いた。コンピュータに「うーん」というと、私たちの感情をちゃんと解釈した言葉が出てくるようになることこそ、パーソナル・コンピュータの理想である、と。

  インタビューしたとき、彼はその話に触れて「通訳は主人のことがよく分かっていたので、発言の裏にある意味を汲み取って、具体的に相手に伝えた。パソコンはまだ月から突然やってきたみたいなもので、人間とは共通体験をほとんど持っていませんが、将来は、人間にとって親密な存在となり、通訳が会話の欠けていた部分を補ったように、あなたがコンピュータに『うーん』というと、そこに含まれた感情までも解釈して、相手に伝えてくれるようになるんですよ」と語った。

 私がテクノストレスなどの問題を持ち出して、コンピュータ社会の弊害に水を向けると、彼は「コンピュータが導入されると、人間が神経質になり、ストレスが増えるという考えも間違っています。現実はその反対で、コンピュータを使うことで生活を便利なものにし、そのおかげで、自分や家族のために使う時間を増やすことができるということなのです」と、いかにもコンピュータ伝道師らしい答えだった。

 彼は当時から、まだ重くはあったが、携帯パソコンを持ち歩いていた。コンピュータへの情熱がひと一倍強いからだろう、その将来にはきわめて楽観的だが、彼もまた明快なビジョンによって、メディアラボを引っ張り、パーソナル・コンピュータ発達史に大きな足跡を残した人である。雑誌『Wired(ワイアード)』創刊にも深く関わり、そこでコラムを書き続けている。

 ネグロポンテさんは、建築科の学生だったころ、よりよい設計のために建築家を助けるマシンがほしいと考え、アーキテクチャーマシン・グループを設立している。25歳でMIT教授に就任、メディアラボ所長になったのが32歳の時である。端正な顔立ち、スマートな物腰、やわらかな語り口、「先端的なコンピュータの仕事をしている科学者・学者というより、洗練され、成功したインターナショナル・エグゼクティブのよう」と言われていた。新分野に果敢に取り組む若い人たちの才能を見つけ出し、引き上げていく新人発掘の名手でもあった。

 後に『DOORS』時代、私はメディアラボ准教授である石井裕さんから、その具体例を聞いた。石井さんはNTTヒューマンインターフェース研究所でグループウエアを研究し、コンピュータとビデオと通信技術を利用した画期的な仮想共同作業システム「チームワークステーション」開発などで高い評価を受けていた。メディアラボに招かれる経緯はこうだった。

 94年に、それまで一面識もなかったアラン・ケイから電子メールで、コラボレーション(共同作業)をテーマにしたアトランタ会議への参加要請を受ける。会議にはネグロポンテ所長も来ていて、会議後、いきなり「メディアラボに来ないか」との誘いを受けた。アラン・ケイは口説き文句として、「メディアラボは、技術やシステムではなく、あなたのエステティックス(美学)を求めている」と言ったという。「日本では技術や開発だけが科学者の研究対象だとみなされて、コンセプトや美学・哲学の研究はあまり認められなかった。それをアラン・ケイが初めて評価してくれてたいへん感動した」。彼はこの申し出を受け翌95年、MITで面接試験代わりの講演をし、10月から准教授に就任した。

 MITは石井さんが発表する論文などを通して、その才能に目をつけ、デモをする機会を与え、合格となると、その場で彼を招聘してしまったのである。経歴重視や根回し本位の人事では、こういう芸当はできない。MITに多くの才能が集まる秘密の一端がそこにあるだろう。後にやはりネグロポンテさんの強い推挽でメディアラボ所長となった伊藤穣一君の場合は、本人から事情を聞く機会がなかったが、よく似た経緯だったのではないだろうか。

・梅棹忠夫「情報理論」の世界的先駆性

 創刊1周年を記念して満を持してインタビューしたのが、国立民族学博物館長だった梅棹忠夫さんである。専門の文化人類学はともかく、情報に関する分野で言えば、1969年に書いた『知的生産の技術』(岩波新書)が有名だが、それより前の1963年に発表した「情報産業論」は、短い論文ながら、世界に先駆けて情報社会の到来を予言した画期的なものである。

 そこにはこう書かれている。

 「情報産業は工業の発達を前提としてうまれてきた。印刷術、電波技術の発展なしでは、それは、原始的情報売買業以上には出なかったはずである。しかし、その起源については工業におうところがおおきいとしても、情報産業は工業ではない。それは、工業の時代につづく、なんらかのあたらしい時代を象徴するものなのである。その時代を、わたしたちは、そのまま情報産業の時代とよんでおこう。あるいは、工業の時代が物質およびエネルギーの産業化が進んだ時代であるのに対して、情報産業の時代には、情報の産業化が進行するであろうという予感のもとに、これを精神産業の時代とよぶことにしてもいい」

 梅棹さんは、農業の時代、工業の時代、情報産業の時代という「産業史の3段階」を、有機体としての人間の機能の段階的な発展と関連づけ、それぞれ内胚葉産業の時代、中胚葉産業の時代、外胚葉産業の時代とも呼んでいる。「農業の時代は、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官の機能充足の時代であり、その意味で、これを内胚葉産業の時代とよんでもよい」「工業の時代を特徴づけるものは、各種の生活物質とエネルギーの生産である。それは、いわば人間の手足の労働の代行であり、より一般的にいえば、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の拡充である。その意味で、この時代を中胚葉産業の時代とよぶことができる」「(最後は)外胚葉産業の時代であり、脳あるいは感覚器官の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける中心的課題である」。そして、コンピュータは「外胚葉産業時代における脳あるいは感覚器官の機能の充足手段」として位置づけられ、その役割が期待されていた。

 発表当時、大いに話題になったはずだが、トフラーの『第三の波』から遡ること20年というのはすごい。これらの論考を集めた『情報の文明学』『情報論ノート』(いずれも中央公論社)が1980年代末に出版されているが、いま読み返してみても、新鮮な驚きに打たれる(「情報産業論」の先駆性については、本サイバー燈台所収の小林龍生「『情報産業論』1963/2017」』の一読をお薦めしたい)。

 『知的生産の技術』は、発売当時ベストセラーになったから、多くの説明はいらないと思うが、今の若い人で知っている人は少ないかもしれない。知的生産とは「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報―を、ひとにわかるかたちで提出すること」と定義されている。これからは「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになる」との認識のもとに、その具体的技術を紹介したものだ。「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである」とも書いている。

 『ASAHIパソコン』創刊号の特集は「めいっぱいパソコン情報整理術」だった。あのころに私たちが見た夢は、いまはスマートフォンではすでに当たり前になっている。情報を扱う技術の発達には、まことに時代の進化を痛感させられる。

 梅棹さんは、1986年3月に突然視力を失うという不幸に見舞われ、不自由な生活を強いられていたが、杖をつきながら民族学博物館を案内してくださった。そこで「知的生産の巨大技術の開発と実行」でもあった民族学博物館づくりの苦労話を聞いたのだが、巨大コンピュータ・システムに支えられた博物館を作る際、「『文科系の研究所になぜコンピュータがいるんだ』とよく言われました。それに対して私は『考え方が反対で、需要に応じて機械を入れるのでなく、まず機械を入れれば、需要が出てくる』といったんです。博物館自体がそうで、世論調査をいくらやっても、博物館を作れというニーズなんか出てきません。だけど作れば、喜んで利用する。需要が供給を呼ぶのではなく、供給が需要を呼び起こす。新しいものはすべてそうです」と話してくれたのが、とくに印象的だった。

・木村泉・森毅・佐伯眸

 創刊前の1988年3月、木村泉『ワープロ徹底入門』(岩波新書)が出版され、たちまちベストセラーになったことが私に大きな自信を与えてくれたのだった。そのころすでに十数万部が売れていた。コンピュータという専門領域の話をやさしく語った文章、「とことん派」を自称する著者の徹底した実証精神が、多くの人に、この本を手にとらせたのである。

 冒頭で、木村さんは「ワープロは洗濯機や電子レンジと同じようなものでね。ま、食わずぎらいしないでつきあってやって下さいよ」と読者に呼びかけ、その気のある人には「若いもんにばかにされないように、ワープロとの具体的なつき合い方を伝授する」と約束していた。さらに著者としてやりたいこととして、「ワープロがわれわれの生活にさいわいをもたらし、災いをもたらさぬようにするための手だてをさぐりたい」と、社会的影響にも言及していた。「ワープロ」を「パソコン」に置き換えれば、私が『ASAHIパソコン』でやりたいと思っていることではないか。

  先輩に会いに行くようなワクワクした気分で東京工業大学に木村教授を訪ねた日が、つい最近のように思い出される。「パソコン徹底入門」のさわりを聞きに行ったのである。

 「パソコンはワープロと比べて、まだ前もって説明しなければならないお流儀が、傷口として残っています。いろんなことができるんだが、それをなめらかに行うための工夫がない」「エムエスドスは傷口だらけとも言えます」という木村さんに「現段階ではパソコンよりもワープロの方が便利ですか」と恐る恐るたずねると、「これは、何をおっしゃるウサギさんでありまして、実はパソコン入門の本を書きたい」との答えで、私は大いに意を強くした。

 いろんなキーボードの話、文章を書く道具としてのワープロの利点などを聞いたが、「ソフトの違法コピーはどうしたらなくせるか」という私の質問に対して、木村さんは「よくわからないんだけれど、いままでの日本の国民性の中ではあり得るように思います。宮沢賢治の『オッペルと象』の象ではないけれど、世間さまに対して、ひとつ生きてる間は耕してがんばろうと、安楽とはいわないまでもそこそこ食えて、働いて、『ああつかれたな、うれしいな、サンタマリア』とオッペルの像が言うわけでしょう。あんな感じの雰囲気が常識になればいいと思いますね」と答えた。ソフトウエアを作る人は楽しみながらも一生懸命働く、それにユーザーがきちんと応えるような社会を期待しての発言だったのだが、さて、日本の現状はどうだろうか。

 数学の森毅・京大教授には、1990年初頭に会っている。専門の数学を離れて、文学、評論の分野でも活躍、その飄々として、しかも歯に衣着せぬ発言で「森一刀斎」とも称されていた森さんに、パソコンよもやま話、情報社会とのつきあい方を聞いた。話は多岐にわたり、いずれもおもしろかったが、プライバシー問題にからんでの「情報社会とバグ」の発言を紹介しておく。まことに含蓄深いというべきだろう。

 「バグなしの情報というのは無理なんでね。こっちもバグがあると思いながら付き合うよりしょうがないんじゃないかな。コンピュータ科学者たちと話していて感心したことがあるんです。プログラムにはバグは、虫はいるんやと。虫はおってもええけれども、あまり暴れたら困るんで、なるべく小さな所に関門があって、遠くまで影響を及ぼさないようにしておく。虫が異常発生して変なことが起こると、遠くからでも分かるようになってるのがいいプログラムやというんですね。コンピュータの虫のエコロジーです。われわれだって、適当に虫を飼いながら健康に生きとるわけで、うっかり抗生物質を使いすぎて虫がいなくなると、逆に変なことが起こったりします。今の比喩で言うと、健康であるよりしょうがないんですね」
 「虫がいる方がたぶん自然なんでしょうね。情報の世界を変な清潔幻想と同じ感じでとらえるのは無理じゃないかな。いま、教科書が非常につまらないのは、虫がいたらいけないことになってるからでね。それで、しょうもないところにうるさいんですよ。だけど、間違いを見つけた方にしてみれば、楽しいですからね。間違いぐらいあったっていいと思うんですよ。大学の教科書ぐらいになると、図々しいのがたまにあって、この本にあるミスプリを発見するのは諸君の勉学になるだろう、なんて書いてあります。情報とのつきあい方というのは、本来はそういうものだと思うんです。相手の権威を信用してはいけない。自分で判断せんといかんわけですね。短期的には、いろいろ規制せざるをえないかも分からないけれど、規制することがいいことだということになったら、これはもう情報自身と矛盾しますね」

 『教育とコンピュータ』(岩波新書)の佐伯眸・東大教育学部教授には、コンピュータのシミュレーション機能を中心に話を聞いた。佐伯さんは、コンピュータが経験代行的なシミュレーションに使われていることに疑問を呈し、「シミュレーションといわれているものの何がおかしいかというと、シミュレーションを作ったプログラマーのコンセプト、目的意識、メタ理論などを隠すところです。舞台の前面だけを見せて、すべてを描き出しているがごとく見せて、われわれを受け身の観客にしてしまう。代行させようとしている人の意図が浅い場合、一見うまくいっているように見えても深まりがないし、またほんものそっくりになってしまったら、現実を力学の対象としてみるのか、美術の対象としてみるのか、それらが全部はいってしまい、ということは、結局、何にも見えなくなってしまう」と言った。

 「ある分子構造だとか流体力学だとか、実際に手で触れるような経験ができないものをシミュレーションしていくのは分かるけれど、そうだとすれば、ある構造をどう探索しようとしているのか、どういう方向で意味を抽出しようとしているのか、いつもユーザーとインタラクションできるような構えがなくてはいけない。そのとき重要なのが『略図性』という概念です。略図では、裏にある意図、目的、方向づけなどがはっきり見えるからこそ、ユーザーとのインタラクションできるのです」

 佐伯さんは、「コンピュータを経験代行的に使うのではなく、さまざまな活動を触発するために使うことが大切」といい、教育現場で実際に行なわれている例をいくつかあげてくれた。また、コンピュータをグループ・インタラクションの媒体として利用するグループウエアが、これから教育現場でコンピュータを活用するための一つの方法だと話してくれた。

・ハイパーテキストとネルソン、そしてアトキンソン

 テッド・ネルソンはパーソナル・コンピュータ黎明期に『コンピュータ・リブ』と『ホームコンピュータ革命』を出版し、いち早くその知的ツールとしての可能性を予言、多くの人々に強力な影響を与えた。1989年9月、国際シンポジウムに出席するために来日した「伝説の人」に会った。

 ジャケットにジーパンというラフな姿。しかし、ネクタイを締めていた。髪はふさふさと、足は長く、軽快そうな靴をはいて、とても50歳過ぎには見えなかった。目はやさしく、いたずらっぽく、笑っていた。ハワード・ラインゴールドは『思考のための道具』でネルソンについて「社会的おちこぼれで、うるさ型の自称天才である。……。野性的で活気があり、想像力が豊かで、神経過敏であるためか職につくのに問題を起こしがちで、同僚とトラブルが多い。彼こそ、数年前は10代前半で自作のコンピュータやプログラムに夢中で、現在はパーソナル・コンピュータ産業での立て役者である世代の隠れた扇動者である」と書いている。インタビューした感想で言えば、才気にあふれ、上品なユーモアセンスを身につけた、実に魅力的な人だった。父親は『ソルジャー・ブルー』などで有名な映画監督、ラルフ・ネルソンで、母親も女優だった。

  ハイパーテキストについて、ネルソンさん本人はこんなふうに語った。

 「ハイパーテキストの考え方は、さまざまな文書をいかにして相互に関係づけるかということです。あるテキストに出てくる言葉を知りたければ、すぐそちらに飛び、そこで出てくる動物を知りたいと思えば、またその絵が出てくるテキストに飛ぶ、といったふうに、一瞬にして相互に関連付けられるテキストです。ハイパーテキストは文章、映像、グラフィックスなど、どんな形式の情報でも取り込むことができるし、その情報を相互に関連付けることもできます」

 学生時代につけていた厖大なメモの山を前に、押しつぶされそうな気分になり、どうしたらそれらメモ同士を関連づけられるかを考える中で育まれたアイデアらしいが、「紙のメディアは文章を秩序だって整理するにはいいけれども、直線的で、硬直的である。もっと自由な発想、ひらめきがほしい」ということでもあった。

 ハイパーテキストという考えをはじめて提示した『コンピュータ・リブ』は、のちにアップデート版が市販され、私もそれを入手したが、その実験的試みとしてだろう、表紙が前と後の二つあり、どちらからでも読める、いや、本全体のどこからでも読めるという新しいテキスト形式の実験にもなっている。

 このハイパーテキストの考えを具体化するためのプロジェクトが「ザナドゥー(Xanadu)」である。人びとのさまざまな見方、考え方を一堂に集めた共通の場をつくるのがねらいで、「ザナドゥーでは、全世界の著作物をオンラインで結び、すべての人がそのシステムを利用して情報交換する」ことをめざした。ザナドゥーは、オーソン・ウエルズの映画『市民ケーン』に出てくる新聞王の大邸宅の名でもあるが、ネルソン氏によれば、「原典は、英国の詩人コールリッジの『クブラカーン』で歌われている桃源郷」なのだという。彼は「この詩はアメリカやイギリスではよく知られていて、表現が非常に美しいので、ザナドゥーという言葉を聞くと、みなが文学的響きを感じます」といって、その詩の一節を朗々と暗唱してくれた。

 ザナドゥーでは、著作権を保護するための仕組みも考えられ、全世界を情報ネットワークで覆おうという壮大なものだが、「世界で最も長いプロジェクト」とも呼ばれ、構想から4半世紀たった当時、なお実現のメドはたっていなかった。ネルソンさん自身、「このプロジェクトは、蒸気のような、上にのぼっていくけれど、どこに行くのかわからないベイパーウエア(Vaporware)です」と笑い、「アラン・ケイの『ダイナブック』、ニコラス・ネグロポンテの『アーキテクチャー・マシン』、私の『ザナドゥー』、この3つがベイパーウエアと呼ばれている」とつけ加えた。

 ハイパーテキストは、いくつかの枝分かれ構造と対話型の応答を基本にしているが、そういった考えを最初に商品化したソフトが、マッキントッシュ用の「ハイパーカード」だった。ハイパーカードの開発者、ビル・アトキンソンさんは、絵を描くソフト「マックペイント」の開発者でもある。

 私は、インタビューの前文で「ハイパーカードは、文書やグラフィックスばかりでなく、ビデオ、音声、アニメなどあらゆる情報を自由にコントロールできる新しい情報ツール・キットである。初心者が使いやすいように、さまざまな工夫もしている」と紹介している。ハイパーカードは、最初からマッキントッシュに標準装備(バンドリング)されており、すでにハイパーカードを使った「マルチメディアの新しい本」も発売されていた。

 アトキンソンさんは、「自転車のような道具が人間の肉体的な力を増大させたように、パーソナル・コンピュータは、創造力とか学習、記憶などの精神的な力を増大させてくれる。1984年に世に送り出したマッキントッシュのデザインの基本は、この『精神のための車(Wheels for the mind)』であり、わたしたちの夢の第2弾が、1987年に完成したハイパーカードだ」と語った。

 ハイパーカードを起動すると、ホームカードという最初のページが現れ、そこにカレンダー、予定表、住所録、電話帳といったアイコンが並んでいる。それぞれの項目に入力したデータは、「ボタン」によって相互に関連付けられるのが「ハイパーテキスト」的だったのである。

 私は「こういったシンプルで美しいプログラムは、どのようにして作られるのか」を聞いてみた。アトキンソンさんの答えは、なかなか感動的だった。

 「最初の一年間はたった1人の人間、すなわち、わたしが手がけました。アイデアを錬っていたんですね。その後で人びとが入ってきて約40人のチームになりましたが、プログラマーは5人程度です。あまり多くの人が1つのプログラムにかかわるとかえってだめになってしまいます。ビジョンを打ち立てるメインデザイナーは1人で、何人かのアシスタント・プログラマーと密接な関係をもって動くのが基本です」「ソフトウエアの開発は、自分のほしいもののおぼろげなアイデア、大きな霧のようなものからスタートします。それをしだいに雲のように輪郭を明らかにしていく。一歩下がって眺めているうちに、自分はこういうものを作っていたんだということを『発見』するのです。なるほどこれはあれだったのか、あれじゃだめだと、それを捨て去って、また最初から始めます。それを何度も繰り返す。作り上げたものを捨て去り、作りなおす過程で、作ろうとしているものがより明確に見えてくる。目指すものができあがると、テストしてもらう。予想通り動くかどうか調べてもらって、そこにいろんなものをつけ加えていく。それで形がデコボコになると、もっとシンプルなものに整えなおす。そうして、しだいによりシンプルになり、いよいよ本質に近づいていく。だからソフト開発はずいぶん時間がかかるし、試行錯誤が何度も繰り返されるのです」。

・知的生産の技術としてのパソコン―紀田順一郎・石綿敏男

 梅棹さんのところでふれたけれど、私の興味は知的生産の技術としてのパソコンだったから、文芸評論家ですでに『ワープロ考現学』、『パソコン宇宙の博物誌』などの著書もあった紀田順一郎さん、『電子時代の整理学』の著者で放送教育開発センター所長だった加藤秀俊さん、推理小説作家でパソコン通信をフル活用して作品を書き上げていた2人合作のペンネーム、岡嶋二人さん、能の権威ながら電子小道具の達人で『システム文具術』の著書もあった武蔵野女子大学教授、増田正造さん、『ウィザードリィ日記』、『怒りのパソコン日記』などで知られた翻訳家、作家の矢野徹さんなどにもインタビューしている。

 そのうち紀田順一郎さんと、横書きのカタカナ表記の基準を聞いた言語学者の石綿敏男茨城大学教授のさわりの部分だけ紹介しておこう。

 紀田順一郎さんは仕事に趣味にパソコンをフル活用し、「パソコンが文字通りパーソナルな道具になれば、個人の知的生活はより豊かになるだろう」と考え、実践もしていた「パソコンの達人」で、話を聞いて楽しく、また同感することも多かった。当時紀田さんが使っていたソフトは、ワープロが一太郎、データベースがdBASEⅢ、表計算がエクセル(マックⅡで使用)。ワープロ辞書についてとくに話がはずんだ。

 当時、ワープロの辞書については2つの考えがあった。1つは梅棹忠夫さんに代表される「ワープロは何でもかんでも漢字に変換してしまうから、文章に漢字が増えた。すぐに漢字に変換しないソフトを作れ」という意見。もう1つは紀田さんのように「推挽、杜撰、憂鬱、冤罪、隔靴掻痒、一瀉千里など、ちょっと特殊な文字になると辞書に入っていないことが多い。もっと辞書を充実すべきだ」という意見。

 紀田さんは「日本文化のためには旧仮名遣いで変換する辞書を作れば、研究者や図書館員が助かるから、モード切替でやれるようにしてほしい」と述べ、私も「紀田順一郎の辞書」とか「大阪弁の辞書」があっていいなどと述べているが、この辺もまた時代の進歩はすさまじく、コンピュータ能力と記憶容量の飛躍的増加で、いまではほとんど解決されている。たとえばWordで自前の辞書を作るのは当たり前になっている。

 もっともこれは辞書作りや文字コードづくりに懸命に取り組んだ文科系、技術系の先達が取り組んだ苦闘の歴史を背景としている。文字コードの世界標準、ユニコード策定に貢献した小林龍生さんとは後に知り合い、別の機会にインタビューしているが、それは後述したい。小林さんは一時、一太郎で有名なジャストシステムに在籍し、そこで紀田さんたちと辞書作りに取り組んだ人でもある。

 石綿さんは、『ASAHIパソコン』の表記基準策定にあたってのお知恵拝借インタビューだった。たとえば、『アサヒグラフ』では、朝日新聞でふつう使われているように、コンピューターと音引きを入れていたが、『ASAHIパソコン』では、専門誌の立場から、コンピュータ業界でふつうに使われるコンピュータと音引きなしに統一し、そのように表記していた。

 専門用語の扱い、とくに外国語のカタカナ表記は、常に頭の痛い問題で、エレベーターは音引きがあるのに、コンピュータがないのはどうしてか。メモリー、メーカー、メンバーはどうするか、スキャナ、ドライバは、となるとこれまた微妙で、5音以上は音引きなし、3音以下は音引きを入れる、4音は慣用による、などと校閲担当の大塚信廣さんと相談しながら「本誌のルール」を作ったりしたが、慣用の基準が時期がたつと変わったりで、なかなか始末が悪く、「最終的には編集長の気持ち次第」となったりもした。

 そこでコンピュータを使った自動翻訳のための自然言語辞書作りに取り組んでおられた石綿さんに、パソコン、ワープロなどの和製英語、フロッピーディスクドライブ、パブリックドメインソフトなどと3つの単語をつなげるときの・の入れ方、外来語と言語の意味のズレなどについて話を聞いたのである。

 結果は「基準を2つに分けた方がいいかもしれませんね。エスカレーターとかエレベーターとかいう、ふつうの言葉はふつうの表記法を尊重する。コンピュータ、ディレクトリなどは、専門知識を一般の人に伝える専門誌の立場として、専門用語、その述語の表記法を尊重する」という常識的な線におちついた。しかし、言葉は生き物である。コンピュータやインターネットの普及で、この種の専門用語もいつのまにか普通用語になっているし、言葉の基準作りはなかなか難しい。マイクロソフトのブラウザーは当初、エキスプローラと表記されていたが、後にエキスプローラーと変わったという具合である(もっともエキスプローラーは今ではエッジに変わっている)。

 インタビューしたのは総勢44人で、ほかにもこんな方々がいた。事故で手足の自由を失いながら持ち前のがんばり精神でパソコンに挑戦、CG(コンピュータ・グラフィックス)で作品を発表したり、パソコン通信で同じような仲間に夢を与えたりしていた上村数洋さん。金春流家伝の太鼓の手付きをワープロで表記していた金春惣右衛門さん。パソコン通信、琵琶COM.NETで活躍していた陶工の神崎紫峰さん、神崎さんは古信楽焼を再興した人で、私は その苦労話に大いに感激、誌面もそちらの話が多くなった。秋葉原電気街の知る人ぞ知る「本多通商」の本多弘男さん。「マイコン乙女」にして「UNIX解説者」の白田由香利さん。

 日本の電卓メーカーから米インテル社に派遣され、世界初のマイクロプロセッサ開発に大きな役割を果たした嶋正利さん。『思考のための道具』の著者で、その後もたびたび来日していたハワード・ラインゴールドさん。NECでパソコン事業部立ち上げに貢献した渡辺和也さん、彼は「物事を始めるベストタイミングは80%の人が反対している時だといいますよね」と思わず膝を叩きたくなるようなことを言った。当時放送教育研究センター助教授で、後に東京大学大学院教授となった浜野保樹さん、『ハイパーメディア・ギャラクシー』や『同Ⅱコンピュータの終焉』などの意欲作で、コンピュータが中心となって推し進める将来像を洞察しようとしていた。情報法の権威で、高度情報社会のプライバシー問題に取り組んでいた一橋大学教授の堀部政男さん、など。

 このインタビューをふりかえって思うことは、1つには『ASAHIパソコン』の仕事が、私にとって常に新しいことへの挑戦だったことである。もう1つはこの35年におけるコンピュータ、およびインターネットの発達のすさまじさである。かなりの人が話してくれた将来の夢は現在ではほとんどかなえられている。テッド・ネルソンさんが言っていたベイパーウエアがいつの間にかインターネットの現実になっているのである。一方で、当時は想像もしていなかった新しい事態がいま人類全体を深く覆っている。私は2000年ごろからIT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱するようになった。

 このインタビューは、のちに『パソコンと私』(福武書店、1991)として出版された。装丁は熊沢さんで、美しくかつ重厚な本に仕立ててくれた。私の本格的著作の第1号でもある。1991年8月2日、仲間が『パソコンと私』出版と『月刊Asahi』異動をかねたパーティを開催してくれ、インタビューした人びとも含め多くの知人、友人から祝福を受けた。

新サイバー閑話(60)平成とITと私⑧

相棒にして畏友、三浦賢一君の思い出

 やっと故三浦賢一君について話す時がきた。これまでも折々に彼のこと記してきたけれど、私がプロジェクト室でパソコン誌の準備を始めたとき、局長室がパソコンに詳しい三浦君を相棒としてつけてくれたのがまさに天の配剤で、『ASAHIパソコン』の成功はそのときに約束されたと言っていい。彼と過ごした3年半は、朝日新聞に入社以来最も忙しい日々だったけれど、一方でそれは、大袈裟に言えば、至福の期間でもあった。彼は頼りがいのある相棒であり、すぐれた科学ジャーナリストであり、たぐいまれな編集者だった(写真は仕事中の三浦君。創刊2年目を迎える前)。

 私のコンセプトを肉付けして誌面化するにあたって、三浦君はその編集マインドをいかんなく発揮して、彼の個性をうまくまぶしつつ、すばらしい形にしてくれた。三浦君は私より7歳、熊沢さんは5歳年少だったが、その2人とも今はこの世にない。そういうこともあって、この記録を書く気にもなったのである。

 三浦君は東北大学大学院理学研究科の出身である。本来なら学者の道をめざすはずだったのだろうが、途中で方針転換、朝日新聞に入社した。ごく普通に支局勤務を2つ経て、1979年に科学朝日編集部員に。その後、週刊朝日編集部を経て1986年秋に出版プロジェクト室に配属となった。

・すぐれた科学ジャーナリストにして卓越した編集者

 ムック5冊を出し終えてほっと一息ついたころ、出版されたばかりのロジャー・レウィン著、三浦賢一訳『ヒトの進化 新しい考え』(岩波書店)という本の献呈を受けた。サインの日付が1988.1.18となっている。三浦君の専門は生物学であり、めざしたのは科学ジャーナリストだったのである。

 『科学朝日』時代には世界のノーベル賞学者20余人にインタビューした『ノーベル賞の発想』(朝日選書、1985)を世に問い、科学ジャーナリストとしての高い評価を受けていた。この本のあとがきで彼は「ノーベル賞を受賞するような飛躍は、守備範囲を狭く限定したような研究からは、なかなか生まれにくいようにみえる。守備範囲を限定しているようにみえても、広い範囲の知識を吸収し、広い視野を持っていた人が飛躍を成し遂げたというパターンがありそうに思われる」と、いかにも彼らしい控えめな表現ながら、意味深長な「真理」を語っている。

 彼自身にもそのような広い視野への関心が強く、だから学者よりジャーナリストを選んだのだろうと、私は推測していた。すぐれた編集者、小宮山量平(理論社社長)は、編集者の心得として以下の3点を上げている(『編集者とは何か―危機の時代の創造―』日本エディタースクール出版部)

第1は、つねに総合的認識者という立場を持続できること。森羅万象にすなおに驚き感動する心をもち、しかも1つの専門にかたよらない、むしろ専門自体になることを拒否することで総合的認識の持続をつらぬく気概をもつこと。
第2は、知的創造の立会人という役割に徹すること。それはアシスタントであり、ときにアドバイザーでもある。そのためには、あらゆるものの存在理由について無限の寛容性をもつ「惚れやすさ」、著者の創造過程に同化しつつ、著者を励ます「聞き上手」、そして相対的批判者の立場から誉め批評ができる「ほめ上手」の3つの役割を、うまく果たさなければならない。
第3は、自分が制作する出版物を広く普及するため、特有の見識をそなえ、力倆を発揮しうること。

 編集という職業に惚れぬいた人の、思わず襟を正してしまう指摘だが、三浦君はまさに小宮山量平の望む編集者の資質をよく具えていた。初対面からウマがあった理由ではないかと思う。彼はあるとき、千葉支局時代に支局長から「簡単に出来ることではなく、むしろ出来そうもないことを考えろ」と言われた、と話したことがあった。困難に挑戦する気概が名著『ノーベル賞の発想』を生んだと言っていい。新聞記者にとって最初の4~5年、ほとんどの人が配属される支局勤務は、かつては「記者の学校」だった。私自身も新米時代に横浜支局や佐世保支局で新聞記者の原点とも言うべき多くのことを学んだ。

 作業はさっそく二人三脚で動き出した。意見が食い違うことはほとんどなく、忙しいけれども充実した、楽しくもあった数年だった。ムックのタイトルを「おもいっきり」にしようと提案したのも三浦君であり、ムック『おもいっきりPC-98』のところでも述べたが、実用情報誌の情報の扱い方についての基本フォーマットづくりにも貢献してくれた。

 私はパソコンガイド誌ではあっても、新聞社から出す以上、ジャーナリズム性を失ってはいけないと考えていた。新聞社内にはまだ新聞記者は大所高所から世界国家を論ずべきで、パソコンのガイド誌などもってのほかとの空気が強かったが、それは大きな勘違いだと私は思っていたのである。

 これはすでに述べたことだが、雑誌『日経ビジネス』の「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集がその例である。当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという鋭い洞察は、具体的な物を徹底的に分析することから生まれた。これぞジャーナリズムであり、編集マインドである。立花隆が1974年に文藝春秋で特集した「田中角栄の研究―その金脈と人脈」も同じである。メーカーの資料を丸写ししてただ並べるだけのガイドではなく、その並べ方や説明の仕方に工夫がほしい。記事の背後に記者の、編集者の目が光っているような実用情報を私は求めた。

・すべてはパロアルトから始まった

 創刊から4カ月ほどたった2月15日号から3回にわたって「すべてはパロアルトから始まった」というルポが掲載された。筆者は三浦賢一君である。パソコンに向かいっぱなしのデスクワークから少し離れてのんびりしてもらいたいという気持ちもあって、パソコン発祥の地、アメリカ西海岸を訪ねてもらったのである。

 息抜きになったかどうかはわからない。しかしパークとその周辺を訪ね、ロバート・テイラーやアラン・ケイ、ダグラス・エンゲルバートなど、パソコン黎明期の伝説的人物にインタビューする旅は、けっこう楽しかったのではないかと私は想像している。『ASAHIパソコン』としてはぜひとも紹介しておきたい話だったし、読者にとっても興味深い読み物にもなったのではないだろうか。

 三浦君について今でも思い出すことが2つある。

 私は三浦君を便利に使いすぎているのではないかと思うことがときどきあったが、ある時カメラマンの岡田明彦君から「三浦君と雑談していた時、彼が「『矢野さんは僕を利用したが、僕もまた矢野さんを利用した』と言っていた」という話を聞いた。彼は彼で『ASAHIパソコン』で自分のやりたいことをやっていたんだなあ、と心和む思いがした。

 もう1つ、これは少し後の話だが、『DOORS』が廃刊になり、私が熊沢さんに愚痴とも怒りとも言えない感情をぶちまけていたとき、そばにいた三浦君がそっと寄ってきて、「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれた。そのときは思わず目頭が熱くなった。

 創刊2周年が近づいていたころ、三浦君は「そろそろ解放してほしい」との希望を示すようになった(前から言ってはいたけれど)。あれだけ働いてくれたのだから、それに応えない選択肢は、当時の私にはなく、局長室にかけあって彼の希望通り、当時動物シリーズを刊行していた週刊百科編集部への異動が実現した。しかし好事魔多し。異動直後に週刊百科が組合役員選出のローテーションにあたり、1年間、組合専従に出るめぐりあわせとなった。

 その後、『科学朝日』副編集長、『ASAHIパソコン』編集長、『アエラ』編集長代理などを経て、2000年暮れに『ASAHIパソコン』から生まれた超初心者向けの『ぱそ』編集長になった。『ぱそ』立て直しの期待を担っての人事らしいが、『ASAHIパソコン』創業の功績にも報いない、何をいまさらと思わされる人事である。三浦君のやさしい性格が災いしたと言うか。そして、あろうことか、そこでの心労が重なり、2001年5月に発作的とでもいうように、自死するに至った。

 火葬場で用務員の女性が「亡くなったのはどういう方だったんですか。骨がしっかりしていてどこも悪い所などなさそうですね」と言った。肉体的にはきわめて健康だったのである。

 そのころ私は出版局を外されて調査研究室勤務となっており、彼の死はまったく寝耳に水だった。異変に気づき相談に乗ることもできなかった境遇をうらめしくも思った。出版局執行部への新たな怒り、それと同時に、デジタル時代の出版活動にまるで無知な人材を天下り的に出版局に送り続けた社執行部に対する憤懣も湧き起った。

 メディア激変の時代における出版の可能性についての持論は、私の失敗も含めて後に『DOORS』の項で詳しくふれるが、ここにはデジタル時代に翻弄され本来のジャーナリズム性すら捨て去った社の歴史が凝縮されているだろう。まだまだやりたいことがあった私を出版局から外し、ほかにやりたいことがあった三浦君を無遠慮にデジタルに張り付けた。私が出版局に残っていれば、強引にでも阻止したものをと、まことに臍を噛む思いだった。

 そんなことなら最初から私の後任を「押しつけて」おけば、『ASAHIパソコン』のためにも、本人のためにも、社のためにも良かったのではないだろうか。彼にはその後もいろいろ協力してもらいたかったし、朝日新聞としても、まことに惜しい人材を失った。すまじきものは宮仕えではないが、悔やんでも悔やみきれない痛恨事である。

・アサヒパソコン編集部を去る

 少し話が先に進みすぎた。創刊1周年を迎える少し前、『ASAHIパソコン』とほぼ同じコンセプトで体裁も同じ、やはり月2回刊のパソコン初心者向け雑誌『EYE.COM(アイコン)がアスキーから発売された。またビジネス・ユース誌としては最大部数を誇る日本ソフトバンクの『Oh!PC』も月刊から月2回刊に切り替えた。パソコン誌の流れは「むつかしい専門用語が詰まった月刊のパソコン専門誌」から「だれもが読める月2回刊のやさしいパソコン情報誌」へと移り始めた。それこそ『ASAHIパソコン』が切り開いたパソコン誌の新しい流れで、私は「追随誌が現れてこそ本物」といささか鼻高々だったが、編集部の状態はあまり変わっていなかった。

 創刊1周年を祝うパーティが1989年10月16日夕、新聞社内レストラン「アラスカ」で開かれ、社内外から130人が集まった。「出版局報」に、その年8月に配属されたばかりの勝又ひろし君がそのレポートを書いている。要するに相変わらず忙しかったのである。社内のパソコン編集部を見る目は「パソコンオタクがそろう特殊技能ハッカー集団と見られがち」で、知人に局内を案内している人が「ここは人間より機会が威張っている所だから、近づかないようにしている」という声を聞いて反発もしている(ちなみに勝又君は創刊から20年近くたった2006年、パソコンガイド誌としての役目を終えて休刊したときの最後の『ASAHIパソコン』編集長である)。

 それから2周年を迎えるころにかけて鍛冶信太郎、藤井千聡、見沢康、福沢恵子といった人びとが編集部に参加している。見沢君は朝日広告社から出向してもらい後に正式部員となった。福沢さんは夫婦別姓の実践者かつ活動家で、激務をリゲインを飲んでしのいでいると「リゲイン福沢」を名乗っていた。出自も個性もさまざまな部員がとにもかくにも頑張ってくれていたのである。三浦君の後任として科学部から大塚隆君に来てもらった。彼にはちょっと回り道をさせてしまったが、後に科学部長に就任した報を聞いてほっとしたものである。

 創刊2周年を終えるころから、私はやるべきことはやったという思いが強くなり、1991年7月、後事を週刊朝日副編集長から来てもらった森啓次郎君に託して『ASAHIパソコン』を去り『月刊Asahi』に移った。

 

 

新サイバー閑話(59)平成とITと私⑦

『ASAhIパソコン』創刊、即日増刷

 1988年10月14日 (15日が土曜なので前日の金曜発売となった)、『ASAHIパソコン』創刊号(11月1日号)が発売された。この日は朝から雲一つない快晴で、ある先輩が「ついてるな。晴れてると雑誌は売れる」と言ってくれたのをよく覚えている。その予言通り、『ASAHIパソコン』は予想を上回る売れ行きで、創刊当日の夕方には増刷が決まり、数日後には3刷りをするなど、実に好調なスタートとなった。

 A4変形判、中綴じ。本文横組み、112ページ(カラー80ページ)。1日、15日発行の月2回刊。 定価340円だった。創刊号は16万3000部刷り、その日のうちに売れ切れる書店が続出した。

 特徴は、まずその薄さだった。これまでのパソコン誌はたいてい月刊で、しかも背表紙のある無線綴じ、厚いページに広告がいっぱい詰まっていた。『ASAHIパソコン』は、ページの真ん中をホッチキスで止める中綴じで、丸めれば手軽に持って歩ける軽装判、当時話題のニュース週刊誌『フォーカス』によく似た体裁にした。

 3人で雑談しているとき、三浦君がふと「月2回刊というのはどうかな」と言い、「それなら1回分の厚さを半分にできるねえ」と私、それに熊沢さんが「1日と15日の2回刊にするなら表紙のロゴを金赤と黒で色分けするのはどうか」と応じ、こうして「新しい酒を盛る新しい皮袋」ができあがった。

 表紙ロゴは、柔らか味を出すために『ASAhIパソコン』と、ASAHIのHだけを小文字にして、ASAhIを大きく、パソコンを小さく配して、その下に、ヒューマン・ネットワーキングの思いを込めて、男女が街角で立ち話をしているスナップ写真を扱った(とくにロゴを意識した場合以外、表記はこれまで通り『ASAHIパソコン』とする)。ロゴは金赤(15日号は黒)。従来のパソコン誌はコンピュータ・グラフィックスやイラストを使ったものが多く、パソコン本体や周辺機器を配するのが普通だったから、異色のパソコン雑誌と言えた。そこには、私たちがムック『ASAHIパソコン・シリーズ』を作りながら試行錯誤してきた新しいパソコン誌のあり方、大げさに言えば、哲学が具現化されていた。

 表紙写真はオリジナル写真を撮る経済的ゆとりがなかったための熊沢さん苦肉の策だった。私は『ASAHIパソコン』を通して雑誌作りにおけるアートディレクターの重要さを思い知った。ムックの『思いっきりPC-98』のグラビアでプロの女性モデルを起用するなど、彼に教えられたことは多い。折々に起用したイラストレーターもたいてい「熊さん」に紹介してもらったものである。三浦君に続いての熊沢さんの参加が『ASAHIパソコン』成功の大きな要因だった。いまその幸運を深く噛みしめている。

 彼は長年、ガンをわずらったあと2019年に他界した(<平成とITと私>①参照)。その死がこの記録の執筆を思い立たせたのだが、彼の常に笑みをたたえた物腰柔らかな姿が懐かしい。

・目玉は「村瀬康治の入門講座」

  創刊号の主な目次をならべてみよう。

特集 めいっぱいパソコン情報整理術
アプリ探検隊①「Z’sWORD JGでパンフレットを作る」  国友正彦
村瀬康治の入門講座①「ためらうことなんかありません さあ、ワープロから始めましょう
ハードディスクで世界が変わる  山田隆裕
インタビュー①ニコラス・ネグロポンテMITメディアラボ所長「コンピュータに『うーん』といえば あなたの思いを伝えてくれる」
海外リレーエッセー①グローバル・ネットワークの共有  室謙二
COMPUTER博物誌①
MPU電脳絵師養成講座①パソコンを画材に/自由な発想に期待  古川タク+岩井俊雄
ネットワーキング・フォーラム
    慈子のおしゃべりネット   高橋慈子
    九郎のネットワーキング讃  高橋九郎
PDSマインド  山田祥平
パソコン何でも相談  斎藤孝明
小田嶋隆の「路傍のIC」  小田嶋隆

 ほかに、ニュース、追跡「ついに発生、国産ウイルスの正体を追う」、ハードウエア、ソフトウエア、電子小道具、本、情報ページ、辛口時評。創刊をきっかけに片貝システム研究所の協力で電話無料相談も行い、その縁で片貝孝夫さんにコンピュータ業界全般を見渡した「辛口時評」もお願いすることになったのである。

 目玉は何といっても、村瀬康治の「入門講座」だった。村瀬さんはアスキーから出版されていた超ロングセラー『入門MS-DOS』、『実用MS-DOS』、『応用MS-DOS』のMS-DOS3部作などの著者として、この世界では知らぬ人のない人だった。村瀬さんに入門講座を引き受けていただけたのがラッキーだった。

  当時のパソコンの主流は「16ビットMS-DOSマシン」だった。すでに述べたように、MS-DOS(エムエスドス)はマイクロソフトが開発した基本ソフトで、当時のパソコンのほとんどがMS-DOSを採用、ワープロとか表計算とかいったアプリケーション・ソフトは、この基本ソフトの上で動いていた。パソコンを動かすには最低、MS-DOSの知識が必要で、それがパソコンの垣根を高くしていたといえる。まだマウスでアイコンをクリックして操作できる時代でなく、ファイルの中味を見たいなら「DIR」、文書をコピーするなら「COPY」と、いちいちコマンドを打ち込まなくてはならなかった。

 だから、パソコン入門の筆者を、MS-DOSのガイドで定評のあった村瀬さんにお願いしたのである。創刊準備中のある日、私は三浦君をともなって村瀬さんの職場を訪ね、入門講座の執筆をお願いした。最初は「昼に仕事を持っている身であり、締め切りが定期的にやってくる雑誌への連載はしないことにしている」と丁寧に断わられたが、私たちが出そうとしている雑誌については、「これからは若者だけでなく、実際に仕事を持っている中年・実年の方々がパソコンを使うようになる時代。いま朝日新聞社がガイドブックを出すのはたいへんすばらしいことだ」と、まさに諸手を上げて賛成してくれた。

 私は話しているうちに「入門講座はこの人に頼むしかない」と強く思い込むようになり、村瀬さんも「仕事のことを考えると、月に1回ならともかく2回の原稿を書く余裕はない」というところまで軟化してくれたが、結局は確約を得られずに帰った。その後、村瀬さんから「やってみてもいい」という返事をもらったときの嬉しさは忘れられない。

 村瀬さんは、入門講座の対象読者を、パソコン初心者ではあるが、社会の一線で活躍する実務のプロと定めて、パソコンはどういう道具で、何ができるのか、パソコンを使うとはどういうことか、何をしてはいけないか、いまマシンは何を買うべきか、といったことを丁寧に、しかも村瀬さんの考えをはっきりと提示しつつ、分かりやすく説明してくれた。これも熊沢さんの紹介でおてもりのぶお(小手森信夫)さんにイラストを頼んだ。彼はこれまでパソコンに触ったこともない初心者だったが、テクニカルな話題を日常生活レベルに翻案して、美しく、大胆なタッチで、すばらしいカットを添えてくれた。この入門講座(写真は第1回の誌面)は、またたくうちに『ASAHIパソコン』の目玉企画になった。

 アプリ探検隊を率いてくれたのは国友正彦さんで、毎号、「ロータス1-2-3」のアドインソフト、「シルエット」でクリスマスカードを作る、「毛筆わーぷろ」で年賀状を書く、などさまざまなアプリケーション・ソフトを具体的用途に沿って丁寧にガイドしてくれた。それぞれハードな仕事で、これも目玉企画の一つだった。

 海外リレーエッセーを担当してくれた室謙二さんは『アサヒグラフ』時代の同僚に紹介したもらったが、会って『ASAHIパソコン』の話をした途端に、「それはすばらしい。必ず成功する。できるだけの協力をする」と言ってくれたのが忘れられない。室さんは市民運動の活動家としても知られていたが、早くからワープロやパソコンの電子道具に親しみ、すでに『室謙二 ワープロ術・キーボード文章読本』(晶文社)などの著書もあった(『メディアラボ』の訳者でもある)。米カリフォルニア州に生活の拠点をおき、日米をまたにかけて活躍する「コンピュータ・メディア界の風雲児」といった感じだった。室さんにはリレーエッセーでアメリカの最先端事情を書いていただくと同時に、編集部員たちがアメリカ取材するときの拠点として、さまざまな便宜をはかっていただいた。室さんのやわらかい文章が、パソコン誌の堅苦しさを補ってくれた面があったと思う。このリレーエッセーは西海岸から室さんに、東海岸からはMIT在籍中の服部桂君に交互で執筆してもらい、いい息抜きのコラムになったと思う。

 小さいながらも個性的だったコラムが、小田嶋隆の「路傍のIC」と山田祥平の「PDSマインド」だった。

 ムックのところで紹介した小田嶋君には、パソコン雑誌のライターらしからぬ、ものの見方、身の処し方が気に入って、「路傍のIC(石)」連載となった。実は、小田嶋君には創刊前に作った㏚版(ダミー版)で、特集の「徹底活用をめざして あなたのパソコン度チェック」を手伝ってもらい、コラムとして「追いつめられるパソコン・ビギナーの憂鬱」も書いてもらっている。

 ムックの「苦難」でとりつかれたというか、その才能に魅了されというか、私たちはすっかり小田嶋ファンになり、いろいろ手伝ってもらおうとしたのである。特集は編集部との合作で、適性度、親密度、習熟度、中毒度の4レベルにあわせてそれぞれ20のチェック項目をつくり、質問に答えてもらって、そのパソコン度をチェックした。「片手で食べられるものが好きだ」(適性度)、「98といえば、パソコンとわかる」(親密度)、「DIR/Wを知っている」、「『我が心はICにあらず』の著者を知っている」(以上習熟度)、「音引きのあるカタカナは気持ちが悪い」、「2の乗数に愛着を感じる」(以上中毒度)などのユニークな項目と寸評、最後に掲げた「快適パソコン・ライフのための格言」まで、ダミー版には惜しい内容だった(古川タクさんのイラストが来るべき雑誌のパソコン初心者にやさしい特徴をうまく表現してくれた)。コラムもまた秀逸で、本人とも相談した結果、『ASAHIパソコン』本誌ではコラムを担当してもらうことになった。

 原稿取り立てはもっぱら私の仕事で、前にも書いたが、原稿を読みながら見出しをつけるのは、毎号の楽しみでもあった。当時から話はパソコンを離れがちで、それが私の意にも沿い、また魅力でもあった。筆者が描いたカットも添えられている。

 山田祥平君は、PDS(パブリックドメインソフト)という、ネットワーク上で、主として無料で提供されているソフトのあり方、その善意の文化に強い関心を示しており、毎回、広い視野のもとに、新しいPDSを紹介してくれた。ムック時代の「編集協力」者の肩書きに恥じぬ良好な出稿ぶりで、彼のパソコンに対する思い入れがすなおに受け取れる好読みものだった。

 後半のNetworking FORUMでは、パソコン通信などから拾った話題を紹介しつつ、当時すでにこの世界で有名人だった高橋慈子、高橋九郎の両高橋さんにエッセーをお願いした。本誌らしい企画として、情報ページには、小さいながら、高齢者のパソコン・ユーザーを紹介する「Silver」、パソコンが身体不自由者に福音を与える可能性を追求する「Handicap」のコーナーも設けた。中和正彦君はこのハンディキャップのコーナーを15年以上担当して、この分野における専門ライターに育った。

 創刊当時の誌面を眺めていると「あの人はああして口説いたんだ」、「彼にはずいぶん面倒をかけた」などなど思い出すことが多く筆が止まらなくなるが、とりあえずこの辺で止めておこう。

・修羅場に放り込まれた編集部員の奮闘

 雑誌と言えば、それまで週刊誌か月刊誌しかなかったところに、月2回刊という、しかもテーマがパソコンというまったく新しい雑誌が誕生したわけで、そこに有無を言わさず異動させられたというか、いきなり修羅場に放り込まれた若い部員たちの驚きは、いまになると十分想像できる。当時は忙しいばかりで、その辺への配慮が足りなかったのを申し訳なく思うほどである。

 アサヒパソコン編集部が1988年5月に発足したとき、配属されたのは間島英之君と西村知美さんだった。創刊時には宮脇洋、工藤誠君が加わった。この6人態勢で月2回の雑誌を出したのだから並みの忙しさではなかった。それぞれ連載を担当しつつ誌面の目玉ともなる特集づくりに翻弄された。出版局内の広報誌「出版局報」で宮脇君や間島君に「2人でムックを年5巻も出したりするから、こんな過酷な状況になった」と怒られている、と書いている。筆者を社外に頼るしかない事情のせいもあったが、編集部員の数で言うと、月刊の『科学朝日』と比べても、彼我の差は歴然としていた。

 創刊直前の「出版局報」では、「『ASAHIパソコン』、やるっきゃないと、いざ船出」という2ページ見開きの記事が載っている。その一部を紹介しつつ、いくつか補足しておこう(写真も「出版局報」から)。

 デスク(副編集長)の三浦君は、創刊号の13ページ特集、「めいっぱいパソコン情報整理術」を何人かのフリーライターの協力のもとに精魂を込めて作り上げた。梅棹忠夫『知的生産の技術』ではないが、ここにはパソコンこそ知的生産の技術であるという私たちの思いが込められていた。彼が本誌の特集づくりの路線を敷いてくれたと言ってもいいが、そのねらいを説明しながら、「毎日、忙しい。『ラ・ボエーム』の公演は9月25日の日曜日だ」と結んでいる。オペラの大ファンで、ときどき来日するオペラ公演を見るのが数少ない息抜きだったようだ。

 宮脇君は編集部に配属になって初めてパソコンと付き合うことになったが、「パソコンは苦手、とおっしゃる方にはキーボードに対する拒否反応があると思います」、「私はキーボードにはほぼ3日で慣れました」と『入門講座』担当にふさわしい早速のパソコン伝道師ぶりで、最後は「『これから』組の方々が、次々とキーボードに取り組む姿を見ることが、われわれにとって何よりの励みになります」とすでに優秀なパソコン編集部員ぶりでもある。

 彼は部員の最年長だったが、その明るく穏やかな人柄、目配りの利く仕事ぶり、新しいことに挑戦する熱意と意欲で、あっという間に部員、と言うより部全体のまとめ役になると同時に、特集づくりにさまざまなアイデアを投入、誌面作りもリードしてくれる頼もしい存在だった。

 間島君はすでにかなりのパソコン・ユーザーだったらしい。学生時代には「制服少女図鑑」(?)とかいう雑誌だか単行本だかを出していたようで、すでに雑誌のプロでもあった。三浦君とは兄弟分のような親密さで、彼の参加もまた当編集部にとって大きな力になった。「出版局を見回すと、当編集部のほかには、いまだに2、3台しかパソコンが見られません。パソコンが1台あれば、情報収集や、データ整理などがずっと楽になります。各編集部に1台はほしいところです。信じられない方は編集部に遊びに来てください」と、こちらも仕事の忙しさはおくびにも出さない優等生ぶりである。

 工藤君は政策局から助っ人としてやってきたシステムエンジニアである。パソコンやワークステーションをそろえた編集支援システム構築に威力を発揮してくれた。「雑誌作りには携わる必要がない」と言われてきたらしいが、そのすぐれた編集マインドをたちどころに見抜いた我々が放っておくわけがなく、「PDSマインド」や「パソコン相談」の担当から特集づくりに至るまで予想を超えた仕事を押しつけられて「とにかく忙しい」、「目新しいことばかりで、無我夢中で毎日を送っている」と書いているが、「入社わずか2年目でこのような大きな仕事をさせていただき、非常にありがたいと思っています」と編集長を泣かせるようなことも書いている。

 西村さんは『ASAHIパソコン』創刊にあたって他のパソコン雑誌編集部からスカウトされ、慣れない環境にずいぶん心労もあったようだが、「Networking FORUM」担当として、「今日はPC-VAN、明日は地方のネットと、編集部を拠点として全国各地を飛び回っている」、「こうやって、通信にのめり込みながらも、『ASAHIパソコン』は10月14日創刊です』という宣伝を忘れない」と健気に書いてくれている。

 以上、スタート時の編集部員の横顔を紹介したが、誰も愚痴をこぼさず、『ASAHIパソコン』の成功と、社内への宣伝を忘れず、まことにすばらしい面々だった。部員にも恵まれたのである。もう1人、大事な人を忘れていた。編集部の庶務係として出版庶務部から派遣されてきたアルバイトの小本恵さんである。愛くるしい笑顔でてきぱきと事務を処理してくれる彼女の存在は、隣に陣取る編集長にとってはもちろん、すべての編集部員のマドンナだった。

 フリーの方々も例外ではなかった。何度もふれたデザイナーの熊沢さんと彼のプロダクション「パワーハウス」のデザイナーたち。特集づくりにあたっては、何度もレイアウトをやり直してもらうなど、本当に迷惑をかけた。多くのライター、岡田君をはじめとするカメラマン、おてもりさんなどのイラストレーターなどなど。本文レイアウトを手伝ってもらった荒瀬光治君と彼のプロダクション「あむ」の面々。『ASAHIパソコン』専属の校閲マンとして契約したフリーの校閲マン、大塚信廣君。後にも触れるが、横書きのローマ字表記の統一など、いっしょになって「『ASAHIパソコン』の表記基準」を作ったのも懐かしい思い出である。

 私は編集部員に対して、常々、「この編集部にいると他の部の2~3倍は忙しいが、年季が明ける時には4~5倍の実力がつく」などと言って発破をかけていたが、それにしてもずいぶんこき使ったものだと、今思い出しても冷や汗ものである。三浦君は相変わらず、冗談交じりに「この部は労働基準法どころか日本国憲法の保護下にもない」と言っていた。(写真は「出版局報」のものだからちょっと見にくいが、右から宮脇、西村、小本、三浦、矢野、2人おいて熊沢、間島、工藤)

・創刊当日のパーティと増刷の報

 創刊の日の夕方、社屋2階のロビーで開かれた創刊記念パーティには社内外から300人以上の人が集まってくれ、そこで創刊号増刷の決定が知らされた(写真は社内報の『朝日人』から)。多くの人から祝福され、それまでの苦労が、ともかくも報いられた瞬間だった。

 創刊号をあらためて手にとってみると、薄いわりに中味が詰まっているし、協力してくださった社外の方々の多彩さに改めて驚かされる。これだけの人が協力してくれたのは、まぎれもなく朝日新聞社のブランドの力だっただろう。新聞社がパソコン誌を出すことへの世間の期待が強かったということでもある。筆者の多くが老舗『アスキー』でも仕事をしていた関係から、これも三浦君と2人でアスキー本社に郡司明郎、西和彦、塚本慶一郎のトップスリーを訪ね、創刊の挨拶をしたこともあるが、彼らもまた大いに励ましてくれたのだった。

 当時の出版担当は『週刊朝日』の名編集長としてならした涌井昭治さん、出版局長は川口信行、局次長が柴田鉄治(編集)、安倍哲麿(業務)の各氏だったが、この執行部が『ASAHIパソコン』を世に送り出してくれたわけである。柴田さんは東京本社社会部長と科学部長を歴任したすでに名の知られたジャーナリストだったが、『ASAHIパソコン』創刊に率先して努力してくれた。広告(君島志郎部長)、販売(西村章部長)、刊行(山崎卓部長)といった業務各部の働きも目を見張るものだった。

 広告部はコンピュータ専門誌という朝日新聞としては異色の雑誌への広告集稿に取り組んだ。自らラップトップパソコンを購入した吉岡秀人君のような献身的働きもあった。販売は篠崎充君などが書店への売り込みに奮闘(担当は水沼裕明君)、宣伝企画課の久和俊彦君はキャッチコピーに頭をひねってくれた。刊行部は入社早々の朝田勝也君が月2回刊という新しい発行スタイル確立に努力してくれた。月2回刊は曜日単位で刊行スケジュールを組めないので、印刷を担当してくれた凸版印刷との交渉も大変だったようだ。業務各部との交渉も編集長の大きな仕事で、彼らとの侃々諤々の議論もまた懐かしい思い出である。

 創刊数か月後、私は前出版担当、中村豊さんから一通の手紙を受け取った。中村豊さんこそが『ASAHIパソコン』生みの親である。私がまだ出版局大阪本部にいてパソコン誌創刊の提案をしたとき、興味をもってより詳しい説明のために私をわざわざ上京させてくれたのだった。彼の配慮がなければパソコン誌の誕生もなかったし、これまでの社の前例を破って、言い出しっぺがそのまま編集長になることもなかったのだと思う。手紙では『ASAHIパソコン』の順調な滑り出しを喜んでくれる文面のあとに、「3年前の打ち合わせから、よくぞ、ここまで、周囲のケツをたたいて、引っ張ってきたものだと感心しています。この雑誌は、きみの情熱と力が生み出したものだと言ってよいでしょう」と書いてくれていた。この手紙は私の宝物である。

・ASAHIパソコン・ネット、俵万智のハイテク日記、西田雅昭の入門講座

  創刊時に、朝日新聞社内では、電子計算室の島戸一臣室長らが中心になってパソコン通信ネットを立ち上げる話があり、こちらも創刊と同時にネットワークを利用したいと思っていたので、相互に協力しあうことになった。このネットはほどなく朝日新聞社から独立したアトソン(島戸一臣社長)が経営するASAHIネットへと発展するが、当初はASAHIパソコン・ネット」として、『ASAHIパソコン』読者を対象に始まったのである。そのように社告でも告知、『ASAHIパソコン』誌上でも、「読者と編集部を結ぶASAHIパソコン・ネット」のコーナーを設けた。

 最初のスタートがよかったため、部数的には順調だったが、少人数の編集部は、相変わらず忙しかった。雑誌の売り上げを左右する特集の作り方には毎号苦労したが、編集部内での自由闊達な議論と何度かの試行錯誤の末に、夏と冬のボーナス時期にあわせた「パソコン買い方ガイド」、春、秋の「ゼロからのパソコン」シリーズなどが定番として確立された。1989年秋に、これまでのラップトップ型よりも一回り小型で軽量のブックパソコン(ブック型、あるいはノート型パソコン)が登場してからは、「これぞ『ASAHIパソコン』に対応したマシン、『思考のための道具』」とばかり、ブックパソコン・ガイドの連載を始めた。

 そんな日々の中で、思い出深い出来事が2つある。

  1つはベストセラー歌集『サラダ記念日』で一躍有名になった佳人、いや打ち間違った、歌人の俵万智さんがマッキントッシュに挑戦した記録を「俵万智のハイテク日記」として連載したことである。2年目から約2年間続いた。この見開きページだけは、やわらかいフォント(書体)を使い、縦組みにし、万智さんの写真を毎号、大きく扱った。

 「自他ともに認める機械オンチ」だった万智さんが「短歌のためならエーンヤコラ」と一大決心をしてパソコンに挑戦、悪戦苦闘しながらも、「さまざまなハイテク・ランドをめぐりながら、『言葉』について考えた」楽しいエッセーは、新たな魅力をつけ加えてくれた。万智さんが言っているように、それは、「万智さんの私生活が少しわかる欄」であり、「初心者に勇気を与えるページ」でもあった。担当した間島君の指導よろしきを得た結果でもあった。

 もう1つは西田雅昭さんとの出会いである。2年目に入ったとき、村瀬さんから「連載を続けてもいいが、月1回にならないか」と相談を受け、別の筆者による入門講座を併設、隔号ごとに掲載することになった。その筆者が西田さんだった。このころには勝又ひろし君が編集部に加わっており、彼が西田さんに白羽の矢を立て、快く引き受けていただいたのだが、実は私は西田さんとは旧知だった。「『おもいっきりネットワーキング』データ蒸発」事件の雑誌編集部で、編集長に紹介されたとき、まったく肩書のない名刺をもらったのでよく覚えていた。

 西田さんは、知る人ぞ知るパソコン界の大権威で、著書も多く、『パソコン救急箱』(技術評論社)、『プログラミング「基本」の本』(翔泳社)=いずれも共著=などがある。パーソナル・コンピュータの健全な普及を願う熱血漢、いやオールドボーイで、長らく都下の区営中小企業センターOA相談室で、中小企業の経営者たちのよきアドバイザー役をつとめておられた。

 タイトルを「西田雅昭のパソコン独立独歩」とし、パソコンの置き方、パソコンに向かう基本姿勢といった基本の基本からスタートした。西田さんの口癖はパソコミである。「パソコミは、パソコミは」と言うのだが、それは「マスコミにも劣るパソコン雑誌」という意味なのである。「パソコミは雑誌を売ることばかり考えて、メーカーのいいなりで、本当にユーザーが知りたいことを知らせない。まことにパソコミの罪は大きい」と、早い話が、私が叱られているのであった。「なるほど、もっとも」と思うことが多く、「じゃ、言いたいことを書いてください」とお願いして、後に「西田雅昭の直言・苦言・提言」という連載を始めたりした。「パソコン業界の常識は、世間の非常識」というのも西田語録の1つだった。

 「パソコミ」という蔑称は、「マスコミ」はまだしっかりしてるという前提で生まれているが、これもまた時代を感じさせられる話である。

・社長賞受賞と「天の時、地の利、人の和」

 『ASAHIパソコン』は創刊1周年後に、その功績により社長賞を受賞した。当時の社長は東京大学社会学科の先輩でもあった中江利忠さんだった。1983年に職場ローテーションの関係で『アサヒグラフ』から朝日新聞労組の本部書記長に担ぎ出されたとき、中江さんがたまたま労坦(労務担当重役)になり、労使の関係で緊張した1年を過ごした。その1年間は団体交渉の席以外ではいっさい接触しなかったが、任期を終えての懇親会のとき、初めて親しく話して、その後学科の同窓会の世話役をしたこともあった。その中江さんから社長賞をもらうことになっためぐりあわせも感慨深い。中江さんはカラオケの名手で90歳を超えた今も元気にカラオケに興じておられるとか。

 社長賞受賞は編集部員、関係者の頑張りへのご褒美であると大変うれしく、また晴れがましくもあったが、社長賞受賞挨拶の中でも人と金の手当てを執拗に要求しているのはいささか可愛げがなかった。

 私は『朝日人』に「天の時、地の利、人の和の三拍子そろって成功した」という一文を寄せた。「天の時」とは、「ビジネス・ユース一辺倒ではなく、パーソナル・ユースに的を絞った新しいパソコン雑誌」というコンセプトが読者に受け入れられたことである。「地の利」とは、朝日の看板である。誌名でも「朝日」を打ち出したが、朝日新聞社がパソコン初心者向けガイド誌を出すことへの好感があったと思われる。初心者でも読めそうだという安心感があり、またそれに応えられた。私としては、「朝日」のブランドと「パソコン誌」の親和性の高さが証明されて、賭に勝ったような気分だった。

 そして、最後は「人の和」。これこそが成功の最大要因である。このことについてはすでに述べたが、編集部員の頑張り。レイアウター、校閲マン、社外ライター、カメラマン、イラストレーターなどの献身的協力。そして出版局内の販売、広告、宣伝、刊行といった業務各部の熱気―いろんな人との折々の出来事が、今でも走馬燈の如く思い出される。局内ばかりではなく、電子計算室、ニューメディア本部、制作局など、社内の多くの人の世話にもなったのである。

 出版局大阪本部からプロジェクト室への人事が発令された直後、私は東大阪市に作家の司馬遼太郎さんを訪ね、転勤の挨拶をした。『週刊朝日』で長らく続いていた「街道をゆく」の前線本部としての縁があったからである。パソコン誌を出す準備をするという私の話を聞きながら、司罵さんは、「僕にはさっぱり分からん雑誌のようだが、思うところを大いにやるといい」と激励してくれながら、最後に、「新しいことをしようとすると、それはまず社内で潰される」とおっしゃった。いろんな出版社での見聞を踏まえての司馬さんの忠告だったが、この短い一言を、私は後に何度も思い出し、かみしめることになった。

 その詳細はともかく、いま少し距離を置いて言えば、大組織は動き出すまでは梃子でも動かぬところがあり、新しい芽を摘むことも多いが、いったん動き出すと、地力を発揮しすばらしい成果を上げる、といったところだろうか。

新サイバー閑話(58)平成とITと私⑥

パソコン黎明期の熱気と『ASAHIパソコン』

 ムックの好評を受け、1988年秋からパソコン誌が正式にスタートすることになったが、出版局内に編集部が発足するのは同年5月。それまでの間に三浦賢一君と2人で『ASAHIパソコン』の誌名、判型、刊行スタイル、基本コンセプトなどを検討する作業に入った。相談相手はムックに引き続いて雑誌のアートディレクターを担当してくれることになった熊沢正人さんであり、『アサヒグラフ』以来のカメラマン、岡田明彦君だった。朝日新聞社内のパソコン先駆者を訪ねたり、私が出版局に移る前に長く勤務していた西部本社の旧友にパソコン雑誌を出すことについての意見を聞いたりもした。

 かつての親友が「記者がワープロで原稿を書くようになって、机に向かうばかりで足で取材をすることがおろそかになっている。農業における農薬と同じで、新聞記者にとってはパソコンはむしろ害である。お前は農薬雑誌を作りたいのか」と鋭い意見を述べて、なるほどそういう面は否定できないと思ったこともあった。

 当時、ムックを作りながら、あるいは雑誌の準備の合い間に読んで、元気づけられた本が2冊あった。スチュアート・ブランド『メディアラボ』(室謙二、麻生九美訳、原著1987、福武書店、1988)と、ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(栗田昭平監訳、原著1985、パーソナルメディア、1987)である。

・「収縮する3つの輪」の予言

  MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。

 『メディアラボ』という本は、アメリカ・カウンターカルチャーの世界的ベストセラーとして有名な『ホールアースカタログ』の編集発行人でもあるスチュアート・ブランドが、パーソナル電子新聞、秘書の代わりをする留守番電話、パーソナル・テレビ、リアルタイムで動くアニメーション、バイオリンの伴奏をする自動ピアノなどなど、当時メディアラボで行なわれていた、活字、音声、映像、さらにはイベントといった、あらゆるメディアの領域に及んだ最先端研究を紹介したものだ。ここには黎明期のパーソナル・コンピュータをめぐる熱気が横溢していた。

 私の興味を惹いたのは、この書に掲載されていた次の図である。

 描かれた3つの輪は<放送・映画 Broadcast & Motion Picture>、<印刷・出版 Print & Publishing><コンピュータ Computer>からなり、これらは当初は独立した世界を築いていたが(1978年時点)、最近では相互に近付き、重なり合う部分が増えてきた。いずれは1つのメディアに統合され、その中心がコンピュータである、との説明がついていた。

  このメディアラボのトレードマーク、「収縮する3つの輪(three overlapping circles)」は、ネグロポンテ所長がひんぱんに言及するので、「ネグロポンテのおしゃぶり」と言われていたが、当時のメディア状況を考えると、まさにこの予言通りに事態は進んでいた。コンピュータという技術が、自らの姿を背後に隠しながら、そのことでかえって全メディアを大きく呑み込んでしまうというイメージで、それはまさに現在の状況を的確に表していた。私はこの図を見たとき、自分がつくろうとしている雑誌のバックボーンを見つけたようで、実に力強く思ったものである(将来の区切りが2000年というのが興味深い)。

・コンピュータは「思考のための道具」

 ラインゴールドの『思考のための道具』は、パーソナル・コンピュータを「人間の知性における最も創造的な局面を強化する」、「人びとがこれまで用いてきた思考、学習、および意思疎通の方法を決定的に変える」道具と位置づけ、「コンピュータとは数値の計算に用いられる装置」としか思われていなかった時代に、「人間とコンピュータを結びつける技術の創造に貢献した少数派」の思想を追った本である。スチュアート・ブランドと同じく、ラインゴールドもまたジャーナリストであり、偉大なる先達を足で訪ね、まとめ上げた取材力、構想力に私は舌をまいた。

 この本には、チャールズ・バベッジ、アラン・チューリング、ジョン・フォン・ノイマン、ノーバート・ウィーナー、クロード・シャノンといったコンピュータや情報理論の巨人たち(開祖 patriarchs)も取り上げられているが、重点は、その後の「コンピュータを知的能力を飛躍させるための『てこ』にできないかと努力した」パーソナル・コンピュータのパイオニア(pioneers)と、現にいま、さまざまな試みに挑戦している若者たち(情報航海者 infonauts)に置かれている。

 パーソナル・コンピュータ発達史に興味のある人ならほとんどの人が知っているロバート・テイラー、J・C・R・リックライダー、ダグ・エンゲルバート、アラン・ケイいった逸材たちが続々と登場し、それぞれの夢と汗と涙の織りなす開発秘話が、興味深い写真とともに、愛情をこめて記述されていた。

 簡単に説明しておくと、リックライダーは、MITの実験心理学者から国防省の高等研究計画局(ARPA、アーパ)情報処理研究技術部長になり、人間とコンピュータの新しいコミュニケーションを可能にする「対話型コンピュータ」を実現すべく、多くの研究者に豊富な資金を提供し、コンピュータ・サイエンスを新たなレベルに持ち上げた先駆者である。

 エンゲルバートは、リックライダーの資金援助を受けた1人で、早くから思考増幅装置に興味を持ち、マウス、マルチウインドウ、電子メールなど、現在のパソコンの重要なインターフェースを開発した人として知られる。

 ロバート・テイラーは、リックライダーのあとを継いでアーパの情報処理研究技術部長になり、主流からは無視されていても、コンピュータ・システムの技術を飛躍的に押し上げるアイデアを持つ研究者の「ヘッド・ハンター」となった。そのため、多くのすぐれた人材がアーパに集まり、彼が責任者となって構築した「全国のコンピュータを接続する対話型コンピュータ・ネットワーク」システム、アーパネットは、のちのインターネットへと発展していく。

 彼は、1970年には西海岸のゼロックス社パロアルト研究センター(PARC、パーク)に移り、ここでもトップレベルのコンピュータ・システム設計者を集めたから、パークは一時、パーソナル・コンピュータ研究のメッカとなった。「コンピュータはメディアである」ことをいち早く見抜き、「パーソナル・コンピュータ」という考えを定着させた人として知られるアラン・ケイが活躍したのもパークである。

 アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。

 いま見ると、これはまさに子どもがタブレット端末で遊んでいるありふれた姿である。アラン・ケイは、MITメディアラボに在籍したこともあり、アップル社の研究フェローもつとめた。「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」というのは、彼のいかにも天才らしい発言である。

・メディアラボやシリコンバレーを見て回る

 私のパーソナル・コンピュータに対するイメージは、それらの本を読みながら、しだいにはっきりした形をとっていった。『ASAHIパソコン』創刊前の夏、ボストンで開かれたマッキントッシュのイベント「MACWORLD」に出席がてら、MITメディアラボを見学し、帰りに西海岸のシリコンバレーを駆け足で回った。

 ボストンはハーバード大学とMITをかかえた静かな学園都市である。MITでは、当時朝日新聞社からメディアラボに派遣されていた服部桂君に案内してもらって、最先端の研究現場をまわった。瀟洒なラボの建物と同時に、教授や学生たちが和気あいあいと進めている自由な研究風景に心を奪われた。「ハッカー」とは、俗に言われるようなコンピュータ犯罪者ではなく、コンピュータを愛する技術者集団、魅力的な若者たちの総称だということを身をもって体験した。私は創刊号インタビューで、ネグロポンテ所長を取り上げることに決めた。

 西海岸、サンフランシスコ湾の南に位置するシリコンバレーは、谷というよりも、小高い山に囲まれた平野だ。車で走ると、松林が続き、樫の木が茂る牧歌的な風景の中に、ハイテク企業群が蝟集していた。といって、狭い場所にひしめきあっているわけではない。クパチーノのアップル社などは、オフィスがいくつかの建物に別れていて、ビルもあるが、こじんまりした住宅のような建物も多く、それが新鮮な印象を与えていた。展示室で、小さなトランクにむき出しのワンボードマイコンが詰まった最初のアップル、ぐっとスマートになったアップルⅡ、そしてリサ、マッキントッシュと、さまざまなマシンやいくつかのデモビデオを見た

 バレー西部に広大な敷地を有するスタンフォード大学があり、その近くの小高い丘に、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)がある。パークの果たした役割についてはすでに述べたが、ゼロックスはそこで培ったノウハウをオフィス用ワークステーション「スター(Star))」開発に振り向けたが、パーソナル・コンピュータ市場には進出していかなかった。

 いま私たちがパソコンでやっている日常作業そのままが「スター」によって1981年の段階で提示されていたにもかかわらず、そのノウハウがパソコン開発へと進まなかったのは、それなりの理由があってのことだろうが、歴史の皮肉とも言えよう。企業経営の観点からすると、これは一種の「失敗」だと言っていい。パークが現在のパソコンを生み出したと言えなくもないのである。

・パソコン黎明期の天才、ジョブズとゲイツ

 パークはアルトを公開し、多くの人にデモを見せたが、その中にアップルのジョブズがいた。アルトに啓示を得たジョブズは、さっそく自分がリーダーになって新しいマシン開発に乗り出し、パークから技術者も引き抜いて、1984年にマッキントッシュを発売する。「電話帳の上に乗るパソコン」というジョブズの希望に沿った縦型の斬新なデザインだった。ビットアップ・ディスプレイを採用して、マウスでディスプレイ上のアイコンを操作すれば、初心者でもパソコンを手軽に扱えるようになっていた。

 このグラフィカル・ユーザーズ・インターフェース(GUI)は、まもなくビル・ゲイツのマイクロソフトが開発した基本ソフト、ウィンドウズにも採用される。私たちがムックで紹介したPC-98とはパソコンの姿が大きく変わったのである。とは言いながらウィンドウズ95が発売されるのは1995年であり、アップル・コンピュータは別にして、日本のパソコンは長らくMS-DOSの時代が続いた。

 GUIに関するおもしろいエピソードを紹介しておこう。

 ジョブズがウインドウズ・システムについて「アイデアをマックから盗んだ」と批判したとき、ゲイツは「いや、スティーブ、そうじゃないさ。むしろ、近所にゼロックスという金持ちがいて、そこに僕がテレビを盗みに入ったら、もう君が盗んだ後だったということじゃないかな」と言ったという。

 『アサヒグラフ』の項で紹介したように、パソコンはこれまでIBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受けて登場したが、その黎明期の天才がスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツだった。

 IBMも1981年にパーソナル・コンピュータに参入したことはすでに述べたが、そのときジョブズは「IBM、ようこそ(Welcome IBM Seriously)」と自信満々に迎え撃ったのだった。またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。

 ジョブズはアップルを巨大なものにするために、東部エスタブリッシュメント企業からペプシコーラ社長、ジョン・スカリーを「あなたは人生の残りの日々を、ただ砂糖水を売って過ごすんですか。世界を変えようというチャンスに賭ける気はないんですか」という殺し文句でCEOにスカウトするが、その後、スカリーにアップルを追われる。しばらく教育用ワークステーション、ネクスト(Next)の開発などに携わっていたが、その後、マイクロソフトからすっかり水をあけられたアップルに呼び戻される。

 ジョブズがやった復帰第1弾がしゃれたパソコン、アイマックiMAcの開発であり、CEOに返り咲いて以降、小型端末のiPod 、iPad、iPhoneを次々と市場に投入、パソコンからモバイル端末(スマートフォン)へとIT社会の歯車を大きく回転させる偉業を成し遂げる(これについては後にふれる機会があるだろう)。

 私はネクスト売り込みに来日した1989年7月、ジョブスに会っている。前日に幕張メッセで一大デモンストレーションを行ったときは、タキシード姿をばっちり決め、まさに達者なエンターテイナーぶりだったが、インタビューでは、ネクストの販促に関連しない質問には一切ノーコメントを通す徹底ぶりで、これに手を焼いて(?)、私は記事を断念したのを思い出す。

  よく言われるようにジョブズは、自らは技術者でなかったが、技術者を動かして自分の、そして彼らの夢を実現することができた「芸術家」だった。彼はパソコンを電話機の後釜的な存在だと考え、電話機をずっと見て暮らしたらしい。そして、電話機がたいてい電話帳の上に乗せられているのに気付き、ある日、技術者を集めて、「マックは電話帳に乗る大きさでなくてはいけない」と言ったのだそうである。

 1991年5月にはゲイツにも会った。ウインドウズ95に先立つMS-WINDOWS(ウインドウズ3.0)の㏚にやってきたときで、その画期的機能について丁寧に説明すると同時に、パークに関する私の不躾な質問にも、嫌な顔をせずに答えてくれた。発言、大略、こんなふうだった。

 「たしかにこの件でアップルと訴訟にはなっていますが、多くの面で協力しあっています。マイクロソフトがウインドウズ・システムを発表したのは1983年で、マッキントッシュより先でした。まあ類似点についていろいろ不平があったとしても、似ているところはすべてゼロックスから来ているわけです。彼の方が先に入っていろいろ取っていったとしても、あとから入った私に不満を言うとか、占有権を主張できるわけはないだろと言ったんですね。私はジョブズとは友好的な関係を保っていて、お互いにオープンでした」。彼もまたジョブズと同じように「技術者」ではないようだが、こちらはすでに才覚あふれる青年「実業家」の風貌を築きつつあった。

・『ASAHIパソコン』の基本コンセプト―パソコン誌の3段階理論

  いろんな本を読んだり、多くの人にあったりして、私は『ASAHIパソコン』の基本コンセプトを固めていった。当時、日本でもグラフィックデザインや出版分野でマッキントッシュの人気は高かったけれど、日本語化の問題もあり、趨勢はまだコマンドをキーボードから打ち込んで動かすMS-DOSの世界だった。

 雑誌としての定期化をめざす過程で、私が出版局内や広告代理店、取次などの書店関係者に新雑誌の構想を説明するとき、「ネグロポンテのおしゃぶり」よろしく繰り返していたのが、「パソコン雑誌の3段階理論」なるものだった。だいたい以下のようなことである。

 パソコン誌は、パソコンの社会的あり様にともなって変わる。 1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。

 『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。

 そして『日経パソコン』から5年後の1988年11月、『ASAHIパソコン』創刊。本誌はこれからはじまる、誰もが文房具としてパソコンを使うようになる時代の、便利でやさしい使いこなしガイドブックである。ソフトやハードのガイドはもちろん、より大きな視野から情報社会のあり方にも目配りしていきたい。これを私は、「ホビー・ユース」から「ビジネス・ユース」を経て「パーソナル・ユースへ」と呼んだ(象徴的マシンとして、私は創刊ほどなく発売されたノートパソコンを想定した)。

 もっとも、ムックから雑誌への道のりは、そう平坦ではなかった。パソコンのやさしいガイド誌というのが、ニュースを売り物にする新聞社の出版物としてはなじまない、と思われがちなのも事実だった。当時、社内はニュース週刊紙『アエラ』創刊の話で持ちきりだったし、『ASAHIパソコン』の直後には総合月刊誌『月刊Asahii』も創刊されている。

 「氷海を行く砕氷船の如く、悪戦苦闘の6ヶ月が過ぎたが、ともかくも動き始めた船が、果たして氷海を脱出できるのかどうか、乗り込んだ2人の船員にもまだ確たる見当がついていない」。ムック制作中にはこんな感慨も漏らしている。

 『ASAHIパソコン』創刊に反対する意見、あるいは態度の中で、私が興味深いと思ったのは、次の2つである。これも今となっては懐かしい思い出で、ことさら取り上げることもないのだが、おもしろいと思うので簡単に触れておこう。

  1つはこういう声だった。「矢野さんはパーソナル・ユース、パーソナル・ユースと言うけれど、いまは『日経パソコン』のようなビジネス・ユースの雑誌が主流である。パーソナル・ユースのパソコン誌に対するニーズがあるのなら、すでにどこかの社が出しているはずだ。そういう雑誌がないことが、すなわち需要のないことを証明している」。

 これだと、新しい雑誌は我が社からは永久に生まれない理屈だが、それでも、こういう意見を論破することは難しい。いや至難と言っていい。結果で勝負するしかないのだが、結果を出すのをあらかじめ拒否されているようなものだからだ。

 もう1つは、広告関係者が正直にもらした感慨である。「私たちはいま『週刊朝日』の広告を一生懸命にとっている。何でこの上、パソコンなどという扱ったこともない雑誌のために広告をとらなくてはならないのか。誰も、そんな雑誌なんかほしくないですよ」。

 私は、「これからもずっと『週刊朝日』に頼っていけるとは思えないから、頑張ってでも新しい雑誌を作ろうとしているのだ」と反論したけれど、彼らの本音は分からないでもなかった。

 新聞社内の人間を説得するためにもう一つ、私が言ったのは「社会部が作るパソコン雑誌」だった。パソコンはまだ扱うのが大変で、パソコン雑誌も専門用語が多く、素人には取っつきにくかった。技術解説ではなく、使う人を重視したパソコン雑誌をアピールしたくて、「科学部ではなく、社会部が作る雑誌」という言い方をしたのである。

 とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。

 ちょっと『ASAHIパソコン』創刊前後のIT事情をふりかえっておこう。

 ジョージ・オーウェルの有名なディストピア小説『1984年』が書かれたのは1949年という早い時期だったし、オルダス・ハックスリイの『すばらしい新世界』はそれ以前の1932年である。コンピュータが普及するにつれて、その弊害を指摘する声も多く、有名なジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(1976)は1977年には邦訳されている。

 先にもふれたように、アルビン・トフラーの『第三の波』は1980年の発売、増田米二『原典・情報社会』は1985年だが、世界に先駆けて梅棹忠夫が「情報産業論」を書いたのは1963年だった。ダニエル・ベルは1973年に『脱工業化社会の到来』を書き、来るべき「情報化社会」の出現を予言した(物の生産から情報の生産へ)。

 日本社会は、私たちが『ASAHIパソコン』を創刊した1980年代に情報社会から高度情報社会へと移行しつつあったと言える。当時は情報技術がもたらすバラ色の未来が喧伝されていたから、『ASAHIパソコン』はその波にうまく乗り、高度経済成長にも助けられて、高度情報社会を促進する役割を担ったと言えるかもしれない。

 ちなみに任天堂の家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売されたのは1983年である。我が家もそうだったが、子どもたちは、そして大人も、タッカタッカタッタカタッタカのロードランナーやスーパーマリオなどのゲームに興じ始めた。

 この記録<平成とITと私>は私の後半生を振り返りつつ、IT社会がどのように変遷して今に至ったかをできるだけ客観的に叙述したいと考えている。あえて名づければ『私家版・日本IT社会発達史―ASAHIパソコンからOnline塾DOORSまで』である。第1回で書いたように、『ASAHIパソコン』の創刊後ほどなく時代は昭和から平成に移り、平成の30年間はくしくも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、IT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。当座のタイトルを「平成とITと私」としたのもそのためである。

 Zoomサロン<Online塾DOORS>を主宰している2022年の時点から見ると、当初はアメリカ西海岸の若者たちのパーソナル・コンピュータにかけた熱気に深く同感しつつ、パソコンが切り開く未来に希望を求め、それをむしろ促進したいと夢見ていたと言えるが、その後のパソコンの歴史が必ずしもその夢のようにはならず、当時は思っても見なかった便宜、そしてそれとは裏腹の深い難題を人類に与えるようになった。私がIT社会を生きるための基本素養として「サイバーリテラシー」を唱えるようになるのは2000年初頭だが、IT技術の予想を上回る発展とそれに対する私見もおいおい述べていくつもりである。

 記述になるだけ客観性をもたせるため、当時の関係者の発言も記録に残っているものはそれを参照していくつもりだが、そうはいかない部分も結構あり、筆が主観に走ることもあるかもしれない。関係者の実名を記している点も含め、諸兄姉のご寛恕をお願いしたい。関係者にはすでに他界された方も多いが、特別な場合以外、その後の人生についてはふれていない。

 <平成とITと私>は本サイバー燈台の<新サイバー閑話>に収容されている。他の原稿との区別がなく時系列に並んでいるので、通しで見る場合は、サイトにアクセスした後、右側にあるサイト内検索の窓に「平成とITと私」と打ち込んでいただけると、記事一覧が表示されるので、そこから好みの項をお読みください。

 

新サイバー閑話(57)<折々メール閑話>⑧

日本を深く蝕んでいた「アベノウイルス」

B 安倍元首相襲撃事件をきっかけにカルト教団、旧統一教会(以下、統一教会と表記)と自民党の深い関係が浮かび上がっていますが、それを自民党が極力隠そうとしたり、メディアも政治と宗教のいかがわしい癒着に及び腰だったり、そういう状況のままに安倍元首相の国葬予定だけは進むという、相変わらずすっきりしない日本社会の現状です。
 銃撃犯の山上徹也は選挙期間中に犯行を行ったために、当初は「民主主義へのテロ」かと思われましたが、動機が明らかになるにつれて、統一教会への私的な復讐、単なる「親の仇討」とみなされるようになりました。ところが、統一教会と自民党議員を取り持っていたのが一国の首相だったことがはっきりして、事態はさらに一転、銃撃犯本人も意図せざる「日本社会へのテロ」的側面がクローズアップされてきました。彼は8年余も首相をつとめた安倍晋三およびその政権のもたらしたおどろおどろしい社会の恥部を撃ったと言っていいですね。言葉を換えて言うと、日本の深層に侵食していた病根、「アベノウイルス」を抉り出したわけです。

A 猛威をふるうコロナウイルスの亜型「BA・5」のそのまた亜型じゃないですよね。「アベノウイルス」って、「アベノミクス」、あるいは「アベノマスク」への皮肉ですね。

B 「アベノミクス」や「アベノマスク」が政治の表舞台での話だとすると、「アベノウイルス」は今まで表に出てこなかった、安倍元首相政権下を通じて日本の政治、経済、社会生活のすべてにおいて深く静かに潜行していた害毒のことを指します。まあ、根っこは同じですが‣‣‣。

A ウイルス「アベノドク」と呼んでいたこともありましたね。

B 前にもふれたけれど、安倍元首相は違憲の閣議決定、森友加計問題をめぐる公文書改竄、桜を見る会の各種法律違反など、政治の表舞台で臆面もなく立憲政治をずたずたにしたけれど、その政治手法の異常さに含まれていた毒が、統一教会問題をきっかけに大きく浮上してきたわけです。一国の首相の与える影響は大きい。日本社会全体が大きく汚染されていたことも明るみに出ました。

A その一番の害毒はあらゆる分野の倫理、行動規範をそれこそ根こそぎ破壊してしまったことです。銃撃事件当時、捜査当局は統一教会の名を公表しようとしませんでしたが、おそらく本能的に問題の核心に気づいたからでしょうね。

B なぜ安倍政治は短期間の間に日本をかくも無残な状態に陥れることができたのか。それは安倍晋三という個人の資質と大いに関係があります。一方に愚鈍というほどの無神経があり、他方に一国の首相という絶大な権力があった。この不幸な組み合わせが、他の人ならさすがにここまではやらないと思うような事柄を臆面もなく実行させ、しかもそれが実行された暁には、多くの人が「そういうことも許されるのか」、「それもありか」と安易に追随するという連鎖が起こった。それが「決断する政治」の内実です。ここには既成事実に弱い日本人の特性が大きく影響していると言えるでしょう。この結果、政治の世界のみならず、日本社会の隅々までアベノドクが蔓延しましたが、銃撃事件によってそれが国民の目に可視化されたわけです。

A 森友加計問題もそうですね。安倍首相は国会で森友学園に関する国有地払い下げに関して「私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい」と答弁しました。こんな答弁、普通の人ならしませんね。まさに盗人猛々しいというか、厚顔無恥というか。しかし、それをきっかけに(総理の発言を覆すことになる公文書の)改竄が始まりました。

B 「安倍の口から出た災」だった。そのために死者まで出たわけです。彼には一国の首相であることに伴う責任の自覚がなく、そのためにすべてが歪んでいったと言えるでしょう。衆院調査局によれば、安倍元首相が2019年11月~20年3月にした事実と異なる国会答弁は118回だとされていますが、こういうことが許されてきたわけです。

A この118回という異常さに国民がまるで反応しないことこそが異常ですね。いまようやく「王様の耳はロバの耳」という声が聞こえるようになった。

B 安倍首相の横暴はときに非難され、国会で糾弾されることもありましたが、安倍首相は馬耳東風、自民党議員も右に倣えの反応でした。首相自らが国会でヤジを飛ばしていたわけですからね。このアベノウイルスがもっと深いところで国の中枢機関を汚染していたことが今回の統一教会問題で明らかになったわけです。
 さまざまな報道を勘案すると、統一教会と自民党議員を取り持っていたのが、祖父である岸信介元首相以来の岸・安倍家と統一教会の深い関係です。統一教会は韓国生まれの宗教で、その根底には戦前の日本の植民地支配への憎悪を抱えていたようですが、文鮮明教主と岸首相は反共ということで結びついた。統一教会はその強引な布教活動と献金強要で日本の信者から莫大な金を集め、それは韓国、アメリカにまたがる全教団の収入の7割に当たるとも言われています。もちろん信者がいくら献金しようとそれは本来なら問題ありませんが、その強制的なやり方が「山上家の悲劇」も生んでいたわけです。霊感商法に関しては社会問題にもなりました。近年はあまり話題になりませんでしたが、その間も実態はあまり変わらず、安倍政権誕生をきっかけに次第に自民党政治家との関係が深まったようです。
 一国の政治を担う者が反社会的教団を支援することはおかしいのだが、安倍首相はそれをほとんど意に介さず、隠しもせず、一部報道によれば、統一教会票を自民党議員に配分するようなこともしていたようです。彼はそれを臆面もなくやったから、自民党議員がどんどんそれになびいていった。ウイルスのウイルスたるゆえんです。
 統一教会は霊感商法などで騒がれた反社会的なカルト宗教であり、本来であれば、規制されてしかるべき団体であるにもかかわらず、ほとんど野放しにされてきた理由もまた安倍首相に起因すると推察されています。統一教会が現在の「世界平和統一家庭連合」と改名する申請が文科省によって認められたのも2015年の安倍政権下です。
 なぜ安倍首相は統一教会との関係を隠しもせず、自民党議員と統一教会の関係を深めるようなことをしてきたのか。これも普通の人なら、ここまで大々的な関係は自制するはずなのに、彼の場合はブレーキが効かない。そしてここでも、首相がOKと言っているのだから、と多くの人が関係をもつようになったし、それらの議員が安倍内閣で重用もされてきたわけです。

A しかも、岸・安倍家の血脈を岸防衛大臣の三男だかに継がせようとしているそうですよ。そんなことが平然と行われたら、日本は国家として終わりじゃないですか。
 自民党議員と統一教会との癒着関係は、教会側は選挙における人的支援などを行い、議員側は統一教会の集会に出かけて挨拶するなど布教へのお墨付きを与えるということのようですね。霊感商法の被害者の会などは何度も自粛を要請してきましたが、安倍首相の威光の前にはあまり効果がなかったと言いますね。

 ・「満足しきったお坊ちゃん」のふるまい

B こういう奇妙なことがまかり通ってきた遠因は、安倍首相のパーソナリティにあるとしかいいようがない。まさにアベノウイルスです。
 これは時々引用されることですが、1930年というはるか昔、しかもスペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが書いた『大衆の反逆』という本があります。これまで貴族が支配してきた西欧の政治の世界に「大衆」が出現してきたという悲観的考察の書ですが、ここに安倍首相を彷彿させるような「凡庸人」の記述があります。以下の特徴が見いだされると書いてあるんですね。①生は容易であり、あり余るほど豊かであると考えている、②他人の言葉に耳を傾けず、自分の意見を疑ってみることもなく、他人の存在を考慮せず、この世には彼と彼の同類しかいないかのように振る舞う、③あらゆることに介入し、なんらの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、自分の低級な意見を押しつける。
 どうですか。これは白水社版(桑名一博訳)の文章そのものです。オルテガは新しい凡庸人の特徴を「満足しきったお坊ちゃん」とも形容しています。それは、「自分がしたいことをするために生まれてきた人間」、「家庭内においてはあらゆることが、大きな罪までもが結局は罰せられずにすむ」、「家の外でも家の内と同じように振る舞うことができると信じている」と、いよいよさもありなんという記述が続きます。西洋の分析がなぜかくも日本の首相に符合するのかは、別途考察に値するかもしれません。
 安倍首相は「金持ちのお坊ちゃん」であり、その出自が彼の性格や行動に大きく影響したのはまちがいないでしょう。一口で言うと、総理になどなってはいけない人が総理になってしまったわけですね。

A 2017年ころツイッターで故後藤田正晴官房長官の言葉として「安倍晋三だけは首相にしてはならない。あいつは岸の血が流れている。みんなは岸の恐ろしさを知らない」と言っていたという情報が流れました。真偽のほどはわからないようだけれど、正鵠を得た発言のように思われます。彼には「アベノウイルス」の怖さが見えていたというか。アベノドクはこれまで顕在化してこなかったけれど、火のないところに煙は立たぬ、オフレコでは番記者にそんなことを言っていたようにも思います。後藤田いまありせば、の感も強いですね。

B さて国葬です。自民党内に潜伏していたウイルスが、銃撃事件のおかげでようやく顕在化したと言えますが、なぜ岸田首相は早々と安倍元首相を国葬にする決定をしたのでしょうね。安倍元首相が不幸な死を迎えたことは確かで、その死を近親者、友人、自民党、さらには国民が悼むのはもっともなことだけれど、「国葬」の法的基準はあいまいで、しかも彼の政治上の実績が国葬に値しないことは、歴代首相との比較からみても、はっきりしています。それを国葬にする裏には、とりあえずポスト安倍時代に安倍系議員の関心を引こうという保身から出た党内事情があったと考えるしかないですね。

A 岸田首相が属する宏池会で統一教会に関係している議員はほとんどいないようですね。だったらこの際、アベノドクを一掃し、自民党を浄化すると同時に、自己の権力基盤を確固たるものにする千歳一遇のチャンスではないですか。アベノドクを退治するより、むしろその上で保身をはかろうとするのは政治的判断としてもどうですか。この首相もダメだな、と思いますね。岸田はやはり岸田でしかなかった、というか。
 何事も「検討する、検討する」で、リアクションを見てから判断するのが得意の「検討使」なら、いまこそ国葬をやめる決断をすべきだと思います。

 B 自民党の茂木敏充幹事長が「統一教会と自民党とは組織的関係はない」と強弁しているのはまったく理解に苦しみます。まるで自民党は組織でないような。

A 同じ自民党の福田達夫総務会長は、記者会見で統一教会と自民党の関係について「正直に言う。何が問題か、僕はよく分からない」と言い放ちました。政治家として驚くべき発言です。ツイッターで「何が問題か分からないお坊ちゃまは、国会議員やっても仕事できないから当選させるべきではない」などと非難の声が相次ぎました。
 福田総務会長も安倍元首相も祖父からの三世議員ですね。しかも名門。彼の場合、安倍元首相に勝るとも劣らない経歴で、祖父も父も総理大臣でした。2人の出自はよく似てますねえ。だから「一般国民がカルトに騙されて破産しようが、自己責任だから知ったこっちゃないんだよ」という非難もありました。売り家と唐様で書く三代目。三代目は三代目らしく家業を潰す、っていうのがむしろ自然なんじゃないですか(^o^)。

B 国会議員に世襲が多いのも大いに問題ですね。政治家が家業になっているのは現選挙制度の大きなガンです。政治家稼業のポスト安倍を誰に継がせるかが問題になるわけで、それが異常と感じられないのがおかしいですね。
 国会周辺ばかりでなく、国民のかなりの層にアベノウイルスが浸透しているのも事実です。最近の共同通信調査によると、国民の53%が国葬に反対しているといい、内閣支持率も急落しているようですが、これはむしろ低い。賛成する人がけっこういるのがむしろ不思議で、賛成する人たちは国葬というものがどういうものか、安倍首相は国葬に値するような政治をしたのか、ということをよく考えているんでしょうか。
 アベノウイルスはそれをはぐくむ土壌がなければもちろん発生しないし、増殖もできない。日本の土壌にその苗床になる条件が整っていた面は無視できません。そこには戦後日本の歩みそのものが反映しているでしょう。戦後民主主義で育った世代としては、その民主主義の底が浅かったのだという思いが強い。
 そこで思い出すのは十数年前にアメリカの歴史学者、ジョン・ダワーが書いた『敗北を抱きしめて』(三浦陽一他訳)の一節です。マッカーサーの民主主義的占領政策について述べた部分ですが、「この『上からの革命』のひとつの遺産は、権力を受容するという社会的態度を生きのびさせたことだったといえるだろうう。すなわち、政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、ふつうの人にはことの成り行きを左右することなどできないのだという意識の強化である。‣‣‣。それがあまりにもうまくいったために、アメリカ人が去り、時がすぎてから、そのアメリカ人を含む多くの外国人が、これをきわめて日本的な態度とみなすようになったのである」。
 まるで戦前と変わらない「中立公正とは政権の言うことに従うことである」、「憲法に反対するような集会を税金で運営する公的施設で行うことは許されない」などなどの意見をよく聞きますが、こういう考えもまた「日本を、取り戻す」ことをめざした安倍政権下において国民の間に急速に広まったわけです。日本社会にアベノウイルスが発生し、猛威を振るう条件があり、そこから生まれ、あだ花のように咲き誇ったウイルスによって、その傾向が一層促進されたということだと思います。

A 戦後日本は再び落ちるところまで落ちた感じですね。

B ここには、批判勢力としてのメディアの劣化も見られます。この間、朝日新聞の川柳投稿欄に載った川柳がみな国葬を批判したり揶揄したりするものだったことで、一部で激しい批判が出ました。たとえば、疑惑あった人が国葬そんな国、利用され迷惑してる「民主主義」、死してなお税金使う野辺送り、と言ったきわめて健全な在野の批判精神が横溢したものです。柄井川柳の昔から川柳というのは諷刺、諧謔が命だったわけです。役人はにぎにぎをよく覚え、とか。
 それに対して戦前の国防団体を思わせるような、けたたましい非難が起こっており、これに対するメディア(朝日新聞)の反応も鈍い。胸を張り、いい機会だからと読者に新聞の役割を「啓蒙」するようなそぶりは一切ない。まことに情けない状況です。

A お互い、嘆き節はつきないですねえ。日本社会に依然として蔓延するアベノウイルスだけれど、「鬼退治」ならぬ「ウイルス退治」もまた、山本太郎率いるれいわ新選組に期待したい、ということでお開きにしますか(^o^)。

 

 

新サイバー閑話(56)<平成とITと私>⑤

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊦

・『おもいっきりPC-98』で好スタート

 ムックを出すと決まったとき、私たちがまずPC-98を取り上げようとしたのは、当時、パソコンと言えば、日本電気(NEC)のPC-98(キュウハチ)と相場が決まっていたからである。これからはパーソナル・コンピュータの時代だと、これまで大型コンピュータを作っていた日本の電機メーカーは、日本電気も富士通も東芝も日立もシャープも、そろってパソコンを出し始めたが、その中でPC-98は圧倒的シェアを誇っていた。その代表的機種がPC-9801シリーズだった。「パソコンと言えば98」の時代があったのである。

 ちなみに国立科学博物館は2016年、科学技術(産業技術を含む)の発達に貢献した「未来技術遺産(重要科学技術史資料)」として9801を選んでいる。「日本で最も普及した16ビットパソコン」というのが選考理由である。

 コンピュータの頭脳部分であるCPU(中央演算処理装置)が16ビットで、ディスプレイは活字しか映し出せなかったし、もちろんマウスもなかった。それでもパーソナル・コンピュータがホビーマシンやビジネスツールから誰もが使える文房具へと変遷しつつある節目に登場、同時にその趨勢を大きくリードした名機だった。98は他社機種に対してサードパーティから提供されたソフトの豊富さで群を抜き、国民的機種としての地位を築いた。

 PC-9801シリーズは1983年10月に発売され、当初は29万8000円だった。メディア(記憶装置)は8インチのフロッピーディスクでハードディスクは内蔵されていなかった。85年のVMシリーズが普及機として有名で、ジャストシステムの日本語ワープロ、一太郎はこのころに出ている。86年5月に発売されたUV2からディスクドライブが5インチになった。

 私たちはこのVM2とUV2の2機種を購入して作業を始めた。まだパソコンが文章を書いたり編集したりする道具だとの認識が会社になく、会計用の「事務合理化ツール」という名目で予算請求したのが懐かしい。98シリーズが累計販売台数100万台に達したのは87年3月、まさにムック編集中の出来事だった(写真は最初のPC-9801。未来技術遺産選定時の資料から。

群小メーカーのソフトが妍を競う

 ムックおよびその後の雑誌『ASAHIパソコン』のコンセプトは「これからはだれもが鉛筆や万年筆のような文豪具としてパソコンを使うようになる。そのやさしい使いこなしガイドブック」というもので、ムックにもたくさんの実用情報を詰め込んだ。

 目次には「フレッシュマンもOLもエグゼクティブも今日からPCライフ」という巻頭カラー、98の先駆的利用者を訪ねた「98の現場」、当時のOS(基本ソフトだった)MS-DOS(エムエスドス)のガイド「MS-DOSこれで十分」などが並んでいるが、力を入れたのがアプリケーション・ソフトのガイド、「こんなときこのソフト 失敗しないソフト選び」だった。これは三浦君がフリーライターを動員しつつ、実際にそのソフトを使ってみて作り上げた苦労の作で、この実用情報の徹底紹介はその後の『ASAHIパソコン』の基本的な手法となった。

 当時はCD-ROMはまだ普及しておらず、ワープロ、表計算、データベースなどのソフトがそれぞれ独立して1MB(メガバイト)のフロッピーディスク(以下FD)に収納して市販されており、高価なものになると、FD何枚組かになっていた。

 そのとき扱ったソフトのうちワープロ、表計算、データベースのみ表示したが(ソフト、販売会社、価格の順)、個別にソフトの本数をあげると、ワープロ16、表計算5、データベース10 、グラフィック8、通信7、エディターを初めとするユーティリティ11など、全部で約60本になる。これらのソフトを初心者、中級者、上級者、個人向け、オフィス向け、スペシャリスト向けなどのラベルとともに紹介した。

 ほかにもハードウェアとしてメモリー拡張用のRAMディスク、外付けのハードディスク、通信用モデム、ディスプレイ、プリンタ(ドットプリンタやインクジェットが主流だったが、132万円のレーザープリンタも)なども細かく紹介しているから、便利な98ハンドブックになった。

 いまのスマートフォン・ユーザーには何の感慨もないだろうが、当時を知る人にとっては懐かしい名前ではないだろうか。ソフトメーカーは、ジャストシステム、アスキー、大塚商会、エー・アイ・ソフト、管理工学研究所、ダイナウェア、日本マイコン販売、ビー・エス・シー、ロータス ディベロップメント、マイクロソフト、ハドソンなど、これもなつかしい名前が並ぶ。ソフトウェアの世界はまだ寡占が出現せず、小さな会社が特色あるソフトを工夫して出していたのである。基本的にはFDに収容して用途別に市販され、ユーザーもそれらのソフトをディスクに差し替えて使うというまことに牧歌的な時代だった(ちなみに2022年現在のスマートフォンiPhoneの容量は64㎇から1TBまで。1TBは約1000㎇、1㎇は約1000MB。半導体の集積度に関する「ムーアの法則」の驚くべき結果である)。『PC-98』は、ムックとしては異例とも言える8万8000部を刷り、ほどなく増刷した。

 大型コンピュータの雄、IBMがパソコンに進出したのは1981年で、そのときの基本ソフト(OS)の開発を依頼されたビル・ゲイツがMS-DOSでその後のマイクロソフト隆盛の基礎を作ったのは有名である。IBMパソコンとの互換機はDOSVマシンと呼ばれ、次第に市場シェアを握ることになり、NEC、富士通、シャープなどが競い合っていた日本オリジナルのパソコンはグローバル化の波に取り残されていく。デザインの世界などで早くから人気のあったアップルのマック(マッキントッシュ)は、絵も活字と同じように扱えるビットマップディスプレイ、画面上のアイコン、マウスなどの体裁も整い、日本でもアート系の人びとに人気があったが、DOSVマシンもマイクロソフトが1995年にウィンドウズ95を発売するにともない、ユーザーにやさしいインターフェースの時代が花開く(前回ふれた小田嶋君が愛用していたマックSEは当時の人気機種だった)。

・ムック編集作業の舞台裏

 ムック製作は私たち2人だけの作業だったから、筆者から始まり、レイアウター、校閲、カメラマン、イラストレーター、デザイナーに至るまで、すべての人材を社外に頼ることになった。『PC-98』の巻末に「編集に協力してくださった主な方々」として15人の名を上げているが、当時『初めてのパソコン』という本を書いて売り出し中だったライター、山田祥平さんが「編集協力」として名を連ねている。彼にいろんなライターを紹介してもらったのが、私たちのスタートだったわけである(彼にはMS-DOSの解説も書いてもらっている)。全体のアートディレクションをパワーハウスの熊沢正人さんに頼んだが、彼には引き続き『ASAHIパソコン』を引き受けていただいた。『アサヒグラフ』以来の岡田明彦カメラマンには、人物ものからパソコンのキーボードの精密写真など何でもござれの活躍をお願いした。

 パソコン誌を作るのだから、雑誌づくりにパソコンを最大限に利用したいと、ライターの入稿から印刷会社への出稿まで、パソコン通信を使ってすべてを電子化しようとしたが、これは、実に便利でもあり、大変でもあった。

 当時はまだ紙に書いた原稿をレイアウト用紙とともに印刷会社に出稿、それを活字に組んでゲラをつくり、そこに筆者が朱を入れるというのが普通の雑誌作りだった。電子出稿となると、ライターの原稿を直すのに、紙に印字したハードコピーと電子ファイルの両方を直さなくてはならないし、印刷会社への通信での出稿は、過度期だけにいろいろ予期せぬトラブルがあった。夜中の午前2時ごろ、パソコンとパソコンをつないで筆者から原稿を受け取り、「深夜でも原稿が受け取られるのは便利だ」などと言いながら、その原稿を翌日午後4時までにレイアウトして印刷会社に出稿するような、非人間的な生活を送っていたのである。

 出版局プロジェクト室の他の人びとは夕方になるとほとんど引き上げてしまうので、広い部屋を自由に使えるのはありがたかった。夕方や夜になるとフリーライターが打ち合わせや入稿のためにやってきた。私たちは連日、ライターやカメラマンとのやり取りに忙しく、だいたい午前5時ごろ、掃除のおばさんがやってくるころに簡易ベッドにもぐり込み、午前10時にはもう席についていた(三浦君は、朝は私より遅く寝て、その午前中、私より早く起きる大車輪の働きぶりだったが、「この職場は労働基準法はおろか、日本国憲法の保護下にもない」と言うのが口癖だった。私は三浦君に何かことがあったら、ムック制作を諦めようと何度も思ったものである)。

 ムックの第2号は『おもいっきりネットワーキング』、ようやく盛んになりつつあったパソコン通信ガイドだった。ネットワークとして、PC-VAN(ピーシーバン)やアスキーネット、日経MIXなどを紹介している最中に、NIFTY-Serve(ニフティサーブ)が発足した。草の根ネットワークとして、地方のBBS(Bulletin Board System パソコンをホストにした小規模パソコン通信ネット)が個性的な活動を展開しつつあり、大分のC0ARA(コアラ)が話題になっていた。この号はネットワーキングの世界で精力的に活躍していた会津泉さんに協力してもらった。

 彼はネットワーキングデザイン研究所の看板を掲げて、すでに『パソコンネットワーク革命』などの著書があったが、黎明期のインターネットの発達(セルフ・ガバナンス)に尽くした業績は大変大きい。後には、スティーブ・ジョブズによってアップルに招かれながら彼を追放するという皮肉な役回りを演じたペプシコーラの元社長、ジョン・スカリーの伝記『スカリー』も翻訳している。

 COARAも彼の紹介で、大分での研究報告会を取材したり、事務局長の小野徹さんに寄稿してもらったり、三浦君の司会でCOARA会員たちの楽しいネット生活座談会をしたりと、13ページの「COARA白書」を作ったのも懐かしい思い出である。

・フロッピーディスクは、便利だがおっかない

 さて、三浦君が『PC-98』のソフト紹介などで奮闘しているころ、私はいろんな雑務をこなしながら、次に迫っている『ネットワーキング』の準備をしていた(食事をする暇も惜しくて、日曜などは食品売り場で2人分の弁当を買っていった。社に来るライターに買ってきてもらうこともあった。自宅から弁当を持参しても食べる時間がなくて、取材先や広告会社を訪ねる社のハイヤーの中で食べたりした)。

 各地の草の根ネット、BBSから主な百ネットを選び、そこでどんな会話が行なわれているかを紹介する、これも24ページ特集をすることにし、これをあるパソコン雑誌編集部に依頼することにした。締め切り1ヵ月以上前に都内にある編集部を訪ねて、人の良さそうな編集長に趣旨を話すと、気持ちよく承知してくれ、若い担当者も決めてくれた。「力仕事ですが宜しく」と頼んで、綿密な打ち合わせを行い、締め切りも決めて、それで私はやはり安心して他の仕事に没頭していた。

  途中で一、二度は電話連絡したが、すっかり任せきっており、いよいよ締め切りの日、原稿は届かなかった。翌日も、翌々日も。編集長に電話しても「いま担当者がいないもんで」と歯切れが悪かったが、真相は何と、担当者が突如、蒸発してしまったのだった。これまでの作業で蓄積した全データを入れた1枚のフロッピーディスクを持ったままである。当然あるべき予備のバックアップコピーもなく、独身のその担当者の部屋はカギがかかったままだった。

  1MBのFDにはざっと50万文字、400字詰め原稿用紙にして1250枚、ムック1冊の原稿がすっぽり収まってしまう。今とは比較にならないけれど、あの丸いペラペラのFDに24ページ分の記事と、1か月かけてのぞいたBBSの中味がすべて入っていて、それが一瞬にしてなくなったのは、まさに驚天動地の出来事だった。

  個人の扱える情報量が飛躍的に増えたという便利さがかえって新しい危険を生むという、情報社会の強烈なパンチをくらって、「パソコン誌構想も、ムック2号にして挫折か」と、しばらくは誰にも言えず、眠れぬ日々を過した。

  しかし、さすがに気がとがめたのか、担当者が深夜ひそかにFDを編集部の郵便受けに返してくれた。責任を感じた編集長氏が何日かの徹夜作業をしてくれ事なきを得た。のちに聞いたところによると、その担当者は前夜まで変わった様子はなく、「明日締め切りの仕事が残っているが進んでいない。これから徹夜だ」といって同僚と別れたという。家に帰ってパソコンに向かったが、一日の徹夜ぐらいではどうしようもない絶望的な仕事の進行状況に、あっけなくプッツン。善後策を検討するとか、上司に相談するとか、そういう行動は一切とらずに、はいさようなら、だったようだ。

  ちょうどそのころ、ソフトウェア会社の社長をしている友人から、「受注したプログラムを制作中、担当者が蒸発して、何千万円の借金を背負い込むことになった」という話も聞いたけれど、「パソコン業界はまだ若いだけに、おもしろくもあり、またおっかない」というのが私の感想だった。

 仕事で誌面に穴をあけて蒸発、会社をやめた当の担当者は、さぞかし心に大きな傷を負って、もはや再起不能、場末の飲み屋あたりで酒に溺れているだろうと、私はかってに想像していたのだが、ある日、その本人が大手ネットの掲示板にのんびりと書き込みをしているのを見つけた。メールを出してみたら、ちゃんと返事が来て、「その節は迷惑をおかけしたが、いまは新しいソフトハウスで働いている」とあっけらかんとしていたのには、また驚かされた。

 その特集「草の根ネット100」だが、「広島のラーメンはここが一番」、「太田貴子ファンによるボード・ミュージック」「核は地球を灰にする」などの話題をピックアップしながら、全国100のBBSネットを紹介しており、パソコン通信初期の熱気と自由な空気がみなぎる貴重な資料になったと自負している。「年内には1000局の大台に乗る」との予想も掲げているが、時代はそのようには動かず、今ではフェイスブック、ツイッターなど、それこそグローバルなコミュニケーション・ツールが真っ盛りである。

・「分からない人は読まなくていい」じゃ困る

 特集の中には、パソコンを使った「BBSの作り方」という4ページものもあったが、編集長氏もそこまでは手が回らないと、別の筆者を紹介してくれた。その原稿はほどなく出稿されたが、難しくて素人にはさっぱり分からなかった。「これじゃ、分からないよ」と私が言うと、彼は「技術に関する記事は、分かる人が読めばいいので、分からない人は読んでくれなくていい」と答えた。

 なるほど、そうなのだった。パソコン誌の記事は専門用語が並び、素人にはちんぷんかんぷん、とても読む気がしなかったが、書く方が「そういう人に読んでもらう必要はない」と考えていたのだ。科学技術の筆者には今でもその傾向があるように思われる。

  私は「これから出すムックは、専門家向けのものではない。パソコンの初心者でも分かるように書いてもらわないと困る」と言ったが、筆者はなかなか自説を曲げない。彼が「分かった。書き直す」と折れたのは、例によって深夜だった。「それはありがたい。ついては締め切りは明日の昼まで」と私は言い、さすがにこれは無理かなと思ったが、日曜昼にはすっかり見違えるほどの、すばらしい原稿が届けられた。

 納得しない限りテコでも動かないが、分かったとなると、誇りをもって仕事に取り組む若い筆者の姿に感激したが、先方も気持ちよく「今後の記事づくりのために、いい経験になった」と言ってくれ、お互い、目をしょぼしょぼさせながら、気持ちよく別れたのだった。

 他のムック、『おもいっきりワープロ』はまだ利用する人の多かったワープロ専用機のガイド、『おもいっきり電子小道具』はラップトップパソコンから電子手帳、電卓、多機能電話、時計、おもちゃにいたるまでの、まさに電子小道具全カタログである。『ワープロ』では脚本家のジェームス三木のワープロ生活を紹介したり、演出家、鴻上尚史に「はじめてのワープロ通信」に挑戦してもらったりしている。それぞれハードやソフトの徹底紹介が基本だが、それでもいろいろ読み物に工夫しているのは、いま振り返るとほほえましくもある。それらの編集作業にも尽きぬ思い出があるけれど、今回はここまで。また別の機会に紹介することもあるだろう。

 多くの社外ライター、カメラマン、イラストレーター、デザイナーなどのおかげで、波乱万丈だったムックは5冊とも予定通り刊行できた。それは朝日新聞入社以来、私たちが一番よく働いたときだったのではないだろうか。各巻に「編集に協力してくださった主な人々」を紹介しているが、ほとんどが20代、30代である。40代はおそらく私だけだったと思う。ちなみに小田嶋君は30歳だった。みなさんにあらためて厚くお礼申し上げます。

 その結果、定期雑誌『ASAHIパソコン』が翌1988年から創刊されることになったのである。

 

 

新サイバー閑話(55)<折々メール閑話>⑦

「安倍国葬」にみる現代日本の「明るい」闇

B なかなか終われない<折々メール閑話>です。安倍元首相銃撃事件に対するメディアの見当違いとも思える「暴力に屈するな」、「言論を守れ」というご都合主義的な「軽さ」については前回ふれたけれど、その後の調べで、犯行はカルト宗教、旧統一教会(現在は世界平和統一家庭連合、以下統一教会と表記)に絡むことがわかりました。母親が同教会にのめり込んで多大な献金をしたために家庭が崩壊、そのうらみをはらすために元首相を襲った。同教会と安倍元首相の深い関係はぼ公然の秘密、というより、安倍氏本人は隠しもしていなかったわけですね。
 彼のこれまでの政治的実績、およびその責任については前回書いたのでくり返さないけれど、犯人は元首相の主張とは無関係に、ただ「親の仇討ち」の一目標として銃撃したようです。

A その元首相を岸田首相は国葬にすると決めました。銃弾に倒れたというのが大きなきっかけですが、むしろその不幸な死を最大限に利用して、自民党支配を徹底しようという思惑がはっきり出ています。今に来ての自民党の安倍絶賛モードは恐ろしいほどです。
 岸田首相は国葬にする理由として8年8か月という憲政史上最長の首相在任期間を上げていますが、その間に安倍元首相がやった諸政策への検証はまったくない。不慮の死を遂げた安倍元首相を祭り上げて、あらゆる批判を封じるとともに、そのことで岸田内閣の安定を図ろうとする「元首相の政治利用」の魂胆が見え見えです。
 戦後、国葬をしたのは敗戦直後の吉田茂だけで佐藤栄作、大平正芳、中曽根康弘、みんな国葬ではなかったですね。
 政党で国葬にはっきり反対しているのは日本共産党、れいわ、社会民主党だけです。共産党はすぐ志位委員長談話を発表し、「安倍元首相を、内政でも外交でも全面的に礼賛する立場での『国葬』を行うことは、国民の間で評価が大きく分かれている安倍氏の政治的立場や政治的姿勢を、国家として全面的に公認し、国家として安倍氏の政治を翼賛・礼賛することになる」と厳しく批判しています。れいわも「国葬という形でこれまでの政策的失敗を口に出すことも憚れる空気を作り出し、神格化されるような国葬を行うこと自体がおかしい」との声明を発表しています。

B これらの意見はまっとうですね。ジャーナリストの佐藤章がツイッターで実に明快な批判をしています。「安倍は日本国に殉じたのでも功績を残したのでもない。国に残したものは国民の分裂と混乱、行政の堕落と経済の泥沼。しかも最期は霊感商法の『守護神』として霊感商法被害者の家族に復讐された。国葬とするなら文字通り日本国の『国葬』となろう」と。
 元首相は森加計問題、桜を見る会などで司直の捜査を受け、罪に服すべき人間でもあったわけで、凶弾に倒れたことでそれらがすべて反故にされ、祭り上げられるというのはまことに皮肉です。
 死者への哀悼と彼の政治的責任がごっちゃにされている昨今の風潮にこそ、現代日本のおぞましい状況を感じざるを得ません。それは必ずしも岸田政権だけの話でもなく、それになびきがちのメディアもそうだけれど、もっと深刻なのは、かなりの国民がそのことを不思議とも思わず、なんとなく認めてしまっているように見えることです。
 テレビニュースでこんな画面を見ました。
 事件現場の奈良市や都内に設けられた献花台にけっこう若い人も参列しており、奈良では若い母親がインタビューされて、「この子が(元首相を)好きだったので」と幼稚園児らしい子どもを指さして話していました。東京ではパート従業員という若い女性が「日本のためにがんばってくれていたのに」と涙ながらに語っていました。
 奈良の母親は子どもになぜ「ウソをついたら地獄で閻魔さまに舌を抜かれるよ。この人は国会でウソを100回以上もついていた人ですよ」と教えないのか。パート従業員の女性はなぜ自分の給与が低く、ここ数十年、暮らしが楽にならないのは政治のせいではないかと考えないのか。
 ここには、ものをまともに考えなくなっている日本の「明るく」、それ故に底なしに「深い」奇妙な闇が広がっていると思います。こういう人を選んだかのようにテレビで流して平気な放送局も同じです。
 安倍政権(を始めとする自民党政権)は、長い時代に大勢順応的で政権批判をすることは中立的ではないと思う人びとを育ててきたわけですね。その「遺産」を岸田政権は踏襲し、日本をますます劣化させていきたい、そのための国葬と言ってもいいでしょう。

A 前回は参院選投票前日だったわけですが、選挙の結果は、「嬉しさも中くらいなりおらが春」という感じでした。れいわの熱狂的支持者の間では「れいわ旋風」が起こったとの声まで上がっていましたが、もともと選挙にあまり関心を持たない層には、それこそどこ吹く風なんだということも感じさせられました。少なくとも比例で長谷川うい子、大島九州男、高井たかしは通るのではないかと思っていましたが、ふたを開ければ特定枠の天畠大輔と水道橋博士のみ。大阪のやはた愛、埼玉の西みゆかなどよく健闘したとは思いますが‣‣‣。

B 水道橋博士の滑り込み当選は、前回衆院選での大石あき子に次ぐ「滑り込み快挙」で、選挙運動の進展に伴いぐんぐん成長していった彼の今後は大いに楽しみです。
 しかし、全体的に見ると、投票率は相変わらず低く52%、自民圧勝、維新も伸びるという今後の政局に暗雲が漂う結果でしたが、その「暗雲」がさっそく垂れこめたのが岸田内閣による「安倍元首相国葬」の決定と、それを陰で支えるメディア、そしてかなりの数の国民の存在です。
 今回の国葬騒ぎを見ていると、残る50%が投票に行けば、野党の票が伸びるとも言えない感じですね。投票に行かない層や若年層も含めて、一億総自民化が進んでいるように思われます。与党は憲法改正を発議する両議院での3分の2の勢力を大きく上回ったわけで、実際に改憲が発議されるのも遠くないでしょう。
 ここで心配なのは国会での改憲論議が、憲法はいかにあるべきかという原理論はすべて棚上げ、沖縄県知事が望んでいるような「改憲よりも先に地位協定改定」といった切実な声もまったく顧慮されないまま、ただ「自衛隊」という文字を憲法に書き加えるという、国の最高法規である「憲法が泣く」とでも言うべき、みすぼらしい改憲案となり、それがまた国民投票であっさり承認される(過半数の賛成を得る)のではないか、という悪夢です。

A れいわ「苦戦」の背景もこれですね。

B 選挙における1人1票運動に取り組んでいる升永英俊弁護士に話を聞く機会がありましたが、「選挙は国会の多数を獲得するための国民の戦争である」というのが升永さんの考えです。彼は「そのことがよくわかっているのが自民党で、多数を獲得するためにあらゆる努力をし、そして成功している」とも言っていました。今度、東京選挙区で当選した自民党の新人タレント議員は、選挙期間中もほとんどテレビ局の取材を受けなかったけれど、巷間伝えられるところによると、「今はまだ勉強不足でお話できることはない」のが理由だったとか。こういう人が当選するわけですが、これが「議員に見識など不用。法案審議のとき、あるいは憲法改正発議のとき、議会で1票を投じてくれればいい。余計な考えはむしろ邪魔」とでも言うような自民党の選挙戦略なわけですね。そして当選した人は、自分の起用のされ方を恥ずかしいとも思わず、「安倍さんの志を受けついで日本のために頑張りたい」と言うわけです。
 こういう状況に対して野党はどう戦うべきか。互いに足の引っ張り合いばかりして、大きな視野を持っていない現状では、選挙で負けるのも当然と思われます。また国民はどう行動すればいいのか。自民党も嫌だけれど、野党も頼りない、と棄権したり、消去法で自民党を選んだりしてきた結果がいまの政治を生んでいるという冷厳なる事実をもっとよく考えるべきですね。

A 維新も議席を増やしましたが、維新は明らかに自民党の選挙戦略をまねていますね。参院選前に山本太郎が衆議院のバッジをわざわざ外し(次点の櫛渕万里に議席を譲り)参院選に打って出たのは、彼にはその現状がよく見えており、それに対するあせりがあったからだと思いますが、その不退転の決意は、むしろ「明るい闇」の壁に阻まれたとも言えます。結成わずか3年で、衆参合わせて8議席を獲得したのは上出来と言えなくもないですが‣‣‣。

B この日本を本当の意味で「取り戻す」ためには、これからも長く辛い戦いが続くでしょう。我々としては、なお「貧者の一灯」を掲げて、大石あき子が言うような「頼りがいのある野党」をつくりあげるために出来ることをしていきましょう(^o^)。

 

新サイバー閑話(54)平成とITと私④

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊤

・小田嶋隆君の思い出

 軽妙洒脱な文章で世相を鋭利に切り取ることで人気があったコラムニスト、小田嶋隆さんが2022年6月24日、65歳で病没され、7月1日に送別会が行われ私も出席した。『アサヒグラフ』のあと出版局大阪本部に異動になり、そこでメディアとしてのパソコンをテーマとする新雑誌を構想、1986年から出版局プロジェクト室で準備を始めたが、そのとき小田嶋君(当時の呼び方に習い、以後「君」呼びさせていただきます)に会ったのだった。

 テクニカルライターふうではあるが、後年を思わせる達意の文章を書いているのに興味をもち、都内のアパートの一室に尋ねた35年前を今でもよく覚えている。たしか友人と同居していたが、アップルの最新機種、マッキントッシュSEが畳の上に無造作に転がっていた。

 <平成とITと私>はずいぶん間隔があいてしまったが、第4回は小田嶋君の死で突然蘇った辛く、懐かしく、また楽しかったムックの思い出を書くことにする。私よりははるかに年少の小田嶋君に先立たれるとは思ってもみなかったことである。

 アサヒグラフでコンピュータ取材をしたことをきっかけに私は「メディアとしてのパーソナル・コンピュータ」を対象とする新雑誌を構想、出版局プロジェクト室で同僚となった三浦賢一君(ずいぶん前に亡くなった)と2人で、『科学朝日』別冊として、5冊のムックを出すことになった。新しい分野にいきなり進出するよりは、まずムックを数冊つくって、販売、広告など業務も含めて、ならし運転しようというわけである。

 そのタイトルと刊行月日は以下の通りである。

『ASAHIパソコン・シリーズ』①おもいっきりPC-98(別冊科学朝日1987年5月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』②おもいっきりネットワーキング(別冊科学朝日6月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』③おもいっきりワープロ(別冊科学朝日7月号)
『ASAHIIパソコン・シリーズ』④おもいっきりデスクトップ・パブリッシング(別冊科学朝日10月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』⑤おもいっきり電子小道具(別冊科学朝日12月号)

・『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』

 これをたった2人で1987年4月から同年11月までの間に出した。社内にはパソコンに詳しい記者は皆無と言っていい状態だったから、私たちは編集者に徹して、執筆はほとんど社外のフリーライターに依頼することにした。このライターの1人が小田嶋君だった。

 このムックの売り上げが好調だったことが翌1988年からの『ASAHIパソコン』創刊に結びつくのだが、すでにマックに親しみパソコン通だっただけでなく、優秀な編集者にして科学ジャーナリストだった三浦君とシャカリキになって過ごした多忙な1年間はことさら思い出深い。先に記した熊沢正人さんも、このとき助っ人として参加してくれた。小田嶋君にまつわるほろ苦くも感動的な思い出は、4冊目の『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』をめぐってだった。

 いまはスマートフォンで音も映像も簡単に扱えるので、当時の状況はもはや想像するのも難しいが、1986年当時のパソコンは文字を編集するのが精いっぱいで、ようやく画像処理ソフトが市販され始めていた。パソコンにはまだ内臓ハードディスクがついておらず、画像ソフトもフロッピーディスクで提供されていたから、デスクトップ・パブリッシング(DTP、机上出版)という言葉はあったけれど、画像をそれなりに扱うためには大型コンピュータが必要だった。

 それでもパソコンの将来は画像処理が主役になるだろうという考えから、ムックの一環にデスクトップ・パブリッシングを取り上げたのだが、時代を先取りしすぎていたかもしれない。当時の有名な電子編集システムとしてEZPS(イージーピーエス、キアノン)を紹介しているが、パソコンより大型のワークステーションとレーザーコピア(レーザープリンタとイメージスキャナ)の組みあわせで598万円だった。

 さて、ムックをつくるにあたっては、市販のマシンやソフトを使って何ができるか、そのDTPサンプル集を目玉にすることにした。その作業を誰にまかせるか。いろいろ検討した結果、私たちが白羽の矢を立てたのが小田嶋君だった。彼はわりと簡単に「いいですよ。おもしろいですね」と請け合ってくれた。

 24ページの大特集を予定し、締め切り1か月前に発注した。私たちはそれで安心して他の作業に没頭していたのだが、締め切り日になっても原稿は来ず、電話すると、「1ページも書けていない」と言う。私は大いに慌てた。「すぐ社に来てほしい。これから24ページ作るのだから、1人じゃ無理だ。誰でもいいから、仲間を数人連れてくるように」。

 こうして小田嶋君は、3、4人の仲間を連れて編集部にやってきた。例によって、夜を撤しての突貫作業が始まったのである。ワイワイガヤガヤと話し合って、「一太郎と花子で作った短歌同人誌『蒼生』」、「EZPSで作った『足立銀河総合開発』会社案内」、「OASYSで作った『愛犬のDCブランド』広告企画書」、「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」、「NEWSで作った『ハイパーシャープペンシル』ユーザーズマニュアル」の5作品を、それぞれのシステムを紹介しながら作ることにした。

 仲間は入れ替わりがあったので正確な人数は覚えていないが、私は小田嶋君グループを「逃がさない」ことを第一義に、全員に社の簡易宿泊施設(2段ベッド)に泊まり込んでもらった。仮眠するときも警戒を怠ることなく(^o^)、3日ぐらい作業を続けたと思う。いまならブラック企業と批判されるところである。作業終了後、小田嶋君たちは不精ひげをはやしたまま、げっそりして帰っていったが、私たちとて同様だった。

  そして出来上がった作品は――、いずれもすばらしいものだったのである。私は小田嶋君およびその仲間の実力に心底感心した。本文の創作は言わずもがな、美しいカットやグラフ、写真、表をあしらった、立派なDTP文書が完成したのである。

 小田島君は「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」を担当してくれたが、本文、囲みインタビュー、イラストなどすべてに工夫が懲らされ、飲んべいの先輩記者が登場したり、怒ってばかりいる会長が登場したり、それは本人ふうであったり、編集者へのあてつけふうだったりしたが、なかなかの出来栄えでもあった。

・短歌同人誌『蒼生』

 私が感心したのは友人のK君が作った短歌同人誌『蒼生』だった。最初のページには、入道雲に朝顔をあしらったカットの下に「『蒼生』発刊の辞」がある。

   墨痕鮮やかという形容があります。私などは悪筆の方なので、人様から立派な書を見せて頂くのは大変嬉しいのですが、一筆お願いしますなどと頼まれると赤面せざるを得ません。
 歌は自身の内より湧き出てくるものですが、できればそこに詠み込んだ心のありかたというものを、人様にも知って頂きたい。そうすることで自らの感興をより深め、また歌として定着させることができる。
 今回、最先端技術であるデスクトップ・パブリッシングを採用して、町田短歌会同人誌『蒼生』を発刊しましたのは、より深く短歌を味わい、歌の心を知るためなのです。
 新しいモノ好きのお調子ものかもしれませんが、美しい文学、楽しい絵、美しい言葉を求めるのは当り前のことなのです。新しきを温ねて古きを知るというのも、決して無茶な話ではない。文化という範疇は広いですが、心と切り離して語ることはできないものなのです。

 いかにも短歌同人誌の主宰者が書きそうな文章で、しかもデスクトップ・パブリッシングという「課題」をうまく取り入れている。続いて、○○○○○選、▽▽▽▽▽選、歌枕再発見などが続くが、いずれも歌と選評が書かれている。その中の5首の項を紹介する。

五首 阪本耕平
 八月二十二日、勤めより帰りて深夜に読む。
 故郷ではもう草取りは終わりだと端末にむかい虫を取っている
 ぬばたまの闇夜となりて停電に書きかけの文の失われし
 ハンカチを濡らして瞼に乗せて冷やす熱暴走の葉月を過ぎて
 蝉の声にかぶさるようにディスク読む指先は湿るキーの固い冷たさ
 プログラム飛びし夕暮れ火もつけず我はひとつの80286となりぬ

選評 島原白山子
 藪入りは打ち水の道一人往く蝉しぐれにのみ送られて往く
 作者の阪本君は、大手コンピュータ会社のソフトウエア開発部門に勤務する弱冠二十三歳。当会には四カ月前より参加と、まだ経験は浅いが、歌に対する真摯な態度には古株の会員達からも好意が寄せられている。まだ歌の形を成していないと、彼の作首を切って捨てることは簡単だが、五音七音にはおさまらぬカタカナ言葉に囲まれた生活、日本語の外にある仕事と、日本人であるおのれとの溝を三十一文字によって埋めんと欲する創作態度には、歌上手の先輩達の失ってしまった必死の心が感じられる。
 ここで取り上げた五首は、納期の遅れのために盆休みも取れなかったという阪本君が、墓参り代わりに詠んだというもの。
 最初の一首を除いては、故郷への思いは直截には歌われず、仕事道具であるコンピュータとおのれとの間にふと生じる隙間を直視することで、その違和感の闇を故郷まで透視しようとしている。まだ十分に成功しているとは言えないが、刻苦勉励の跡を見るという意味で、今回取りあげた。これを励みに、より一層の努力を望みたい。
  なお最後の歌の80286は、コンピュータの中央演算処理装置の型番である由。破調もまた歌である。

   見事な芸に、私はほとほと感心してしまった。最後の編集後記はこうである。

 本誌は、老体に鞭打って、デスクトップ・パブリッシングなる手法を用いて、完璧なる編集実務OA化のもとに発刊を行うことと相成った。短歌が上代より時代の節目には必ず新たなる冒険を必要とした如く、同人誌も常に新たなる冒険に望まねばならない。また、これで今迄、何かと行き違いの多かった田中印刷所の面々にも、恩返しができたというものである。

 この横溢する遊び心。私は、DTPサンプル集の扉に「ご注意 サンプルの内容は、フィクションです。実在の個人、あるいは団体とはいっさい関係がありません」との断り書きを入れたが、発売後、編集部に「『蒼生』編集部の連絡先を教えてほしい」との問い合わせがあって、私を喜ばせたのだった。 そんなわけでムックづくりは、ほかにもハラハラドキドキの連続であり、体力的にはずいぶん辛い日々だったが、新しいことを始める創造的楽しさにも満ちており、たった2人の編集部ながら、社内外の多くの人びとに助けられ、何とか無事に乗り切ったのだった。他のムックについては次回に記す。

 小田嶋君の送別会の席で、奥さんに「『ASAHIパソコン』の初代編集長」と名乗ると、よく覚えていてくださり、「矢野さんにはたいへん迷惑をかけた、とよく言っていました」とのことだった。私は持参した『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』を見せながら思い出話をしたのだが、小田嶋君が「迷惑をかけた」と言ったのはこのムックのことではなく、その後創刊した『ASAHIパソコン』のことだと思う。

 月2回刊の『ASAHIパソコン』でも毎号コラムを書いてもらい、その秀逸な文章に見出しをつけるのが私の大いなる楽しみだったが、締め切りは基本的に守られなかった。そのたびに電話をかけて厳しく催促していたのである。そのため休載は一度もなかったけれど、私としてもいささか気になっており、後年、彼が有名になり朝日新聞紙上で大きく取り上げられたとき懐かしくなって思わず電話、「激しい催促で申し訳なかったねえ」と言うと、「何でこんなに怒られるのかと思ったが、今ではあれもよかったと思う」と言ってくれた。これが最後の対話になった。

 奥さんに『蒼生』の話をすると、Kさんは明日の葬儀に来るとかで、会えないのはちょっと残念だった。

 小田嶋隆のその後の活躍は多くのファンの知るところで、私も『わが心はICにあらず』、『仏の顔もサンドバッグ』、『ポエムに万歳!』など、単行本が出るたびに購入しては、にやにやしながら読んでいた。最近では『日経ビジネス』連載、<小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明>が秀逸だったが、2011年から20年に至る10年間のツイッター発言を集めた『災間の唄』(2020)」は、本人があとがきに書いているように、「芥川龍之介先生の『侏儒の言葉』以来の‣‣‣大傑作」だと、「今回ばかりは言わせてもら」っても、だれも文句は言わないだろう。私はツイッターをほとんどやらないが、ぱらぱらとページをめくるたびに、往年の朝日新聞夕刊の傑作コラム『素粒子』(筆者・斎藤信也)のような、「山椒は小粒でもピリッと辛い」冴えに感心しきりだった。本人はこれからもツイッターを続け、続集を刊行する予定だったらしい。反骨を小脇に抱え飄々と生きた名コラムニストの早すぎた死に、あらためて深く哀悼の意を表します。

新サイバー閑話(53)<折々メール閑話>⑥

安倍元首相銃撃事件と言論の力

B この<折々メール閑話>は5回で終わる予定だったけれど、参院選投票日直前の8日になって奈良県下で応援演説中の安倍晋三元首相が凶弾に倒れるというきわめてショッキングな事件が起こりました。戦前には犬養毅、浜口雄幸といった現職首相が軍部によって倒された例があるけれど、元首相が白昼、銃撃され死亡するというのはまさに驚きです。犯人は元海上自衛隊員でその場で逮捕されましたが、犯行の動機に思想的、あるいは政治的背景があるというより、2021年に大阪で起こった精神クリニック放火殺人のような、私的なうらみからだとも報道されています。標的がたまたま元首相であり、選挙運動中に犯行が行われただけだとすると、動機の究明はこれからとしても、今回の事件は「テロ」というより、むしろきわめて現代的な悲劇のようにも思われます。
 亡くなった安倍元首相や関係者のみなさまに深く哀悼の意を表します。

A 事件の一報を聞いたときはフェイクニュースかと思いました。詳しいことを知りたいと今朝は、近くの駅の売店に新聞各紙を買いに行きました。

B 各紙とも2段ぶち抜き程度の大見出しで、まったく同じ「安倍元首相撃たれ死亡」。その論調は「民主主義への愚劣な挑戦」、「言論は暴力に屈しない」といった暴力(テロ)への強い批判になっています。その論調そのものには異論はないし、現段階の見出しとしてはそうならざるを得ない面もあるけれど、その上で、どこかしっくりこないものが残ります。それはなぜでしょうか。
 こういうことではないかと思います。
 安倍元首相は「日本を取り戻す」という掛け声のもとに戦前日本への回帰を訴えてきたわけですが、その政治手法は、既存制度に組み込まれていた民主主義を健全に運営するためのチェック機能を事前に解体し(法制局長官や日銀総裁を仲間内で固めて)、自説を強行するものでした。多くの憲法学者が違憲とする集団的自衛権容認を閣議決定したのがその最たるものですが、一方で森友、加計問題、あるいは桜を見る会などの不祥事に関しては、のらりくらりと他人ごとのような答弁を繰り返し、挙句の果ては、自分の国会答弁に符合しない証拠書類を官僚に改竄させ、自殺者まで出しています。
 衆院調査局によれば、安倍首相(当時)が行った事実と異なる国会答弁は、2019年11月~20年3月の間で118回だとされています。安保法論議のころ石川健治東大教授(憲法)が安倍政権の手法を「『非立憲』政権によるクーデター」と批判したのはこのことを指しています。
 政治に嘘はつきものと言われれば、身も蓋もないけれど、何の抵抗もなく嘘をついてそれで平気という精神は尋常でなく、そういう首相をもった国民がモラル崩壊に向かうのもけだし当然と言えるでしょう。
 彼の暴走ぶりは体調不良を理由に首相を退いてからも続き、最近のロシアのウクライナ侵攻を受けて、防衛費増強を強く訴えていました。「日銀は政府の子会社」との発言もありました。長い安倍政権下において、国会も、検察庁を含む官僚機構も、安倍元首相の暴走を止められなかったけれど、それはメディアも同罪ではなかったのか、と思うわけですね。新聞やテレビは言論の力を駆使して安倍政治の暴走に有効な歯止めをかけられなかったばかりか、いたずらにその意向を忖度してきたのではないでしょうか。これはあくまで全般的な傾向を述べているもので、そうでない記事や主張があったことはもちろんです。戦うべき時に武器としての言論を使ってこなかったメディアが、これからは闘えるのか、いや闘う気があるのか。そう考えると、選挙中の元首相銃撃という修羅場を〝奇禍〟として、「言論こそ大事だ」と大見えを切ることに、タテマエに寄りかかった気楽なご都合主義を感じざるを得ません。これが違和感の正体ではないかと思うわけですね。動機が私的なうらみということになると、いよいよその感を深くします。

A この事件は明日の投票にどう影響するのか、心配な面もあります。保守の論客、中島岳志は「日本の未来のために自民党の方々にお願いしたいのは、明日の選挙戦最終日を『弔い合戦』にもちこまないでいただきたいという点です。テロと選挙結果に因果関係が生まれると、さらなるテロを誘発しかねません。野党が敗北した場合、野党側も敗因を『弔い』に求め、真の敗因に向き合わなくなります」とツイートしていました。投票日までもはや1日も残っていないけれど、安倍元首相の非業の死が政治のあり方をゆがめないようにしてほしいですね。

B 死者にムチ打つことをしないのが日本的美風だと言われるし、それはそれで悪いことでもないけれど、不慮の死を遂げたからといって生前に政治家としてやってきた行為の責任は反故にはできないですね。

A れいわは街頭選挙運動でこれまでのイベントのようなにぎやかな催しをやめましたが、これは節度というものでしょう。事件当日のれいわ候補者の街頭活動をユーチューブで見ていましたが、党代表であり東京選挙区で厳しい戦いを続けている山本太郎は、安倍元首相の冥福を祈りつつ、「言論、主張の場である選挙期間中に言論を封殺するような事件が起こったことに強い憤りを感じる。街頭活動をやめるという党もあるようだが、選挙はまさに言論を戦わせる場所だから、れいわとしては、音楽入りなどお祭りムードのイベントは自粛させていただくが、街頭活動は明日も続けるつもりです」と毅然として語り、全国比例から出ている長谷川うい子は「積極財政で民主的で平和な道を歩んでいきましょう」といつも通りの主張を力強く繰り返していました。
 まだ若い大阪選挙区のやはた愛は「起きてはいけないことが起きてしまった」と訃報に動揺を隠せないようでしたが、参院選候補の応援に駆けずり回っている衆院議員、大石あき子は、山本太郎を国会に戻す一心で奮闘していました。彼女がツイートした「野党というものを、もっと強い野党にしないといけない。本当にこいつらならやれるなっていうガチの野党を作るしかない」という意気込みはたいしたものだと思います。4人4様の対応で、これこそがれいわの多様性を象徴しているでしょう。

B 我々としては、固唾を飲んで明日の投票結果を待ちましょう。れいわの躍進を期待したいですね。(敬称略)

新サイバー閑話(52)<折々メール閑話>⑤

山本太郎・水道橋博士・キムテヨン――

 B 山本太郎の出馬は東京選挙区からと決まりました(よだかれんは全国比例区に)。ここは改選議席6だけれど、立憲民主党の蓮舫、日本共産党の山添拓のほかに自民、公明からもそれぞれ有力議員が立候補する予定で、そこに「五体不満足」の乙武洋匡も無所属から出馬、立候補予定者が20人以上という大激戦区になりました。

A 友人はこの選挙区での山本太郎の参戦は野党勢力の票の食い合いになるだけだと警戒感を示しているけれど‣‣‣。

B 激戦区になるとは思うけれど、今の政治の沈滞、腐敗を糾弾するにはもってこいの選挙区だと思いますね。立憲民主、共産、れいわで最低3議席を獲得する勢いで頑張らないと、いまの沈滞した政治は変えられないんじゃないでしょうか。

A 全国比例区からはタレントの水道橋博士も立候補、日本国籍の在日韓国人、キムテヨンも出馬する予定です。水道橋博士はれいわの演説会にふらっと現れて、自分が維新に訴えられた「スラップ訴訟」について山本太郎に訴えているうちに、「あなたが立候補しませんか」と言われて、一瞬ひるんだようだけれど、わりとすんなり出馬を決めました。

B ここに我々が忘れてしまった選挙の原点があるように思いますね。訴えたいことがある人が選挙に出て、それを選挙民に訴える。水道橋博士は「供託金は借りますが必ず返します」と宣言して、さっそく選挙活動を始めました。彼の目標は「スラップ訴訟廃止」法の成立です。

A 師匠のビートたけしの許可も得たと言っていました。大物師匠が応援してくれればな〜とも思いますが‣‣‣。
 キムテヨンは東洋大学教授。専門は社会学で、多文化共生を唱えており、柔和な話し方で学生にも人気があるみたいですね。「お前は日本人か!」と罵られるくらい日本に対する愛情が深く、「在日が日本を変革して何が悪い」とも発言しているとか。
 全国比例区は早くから大島九州男が立候補を表明しているし、幹事長の高井たかし、弁護士のつじ恵、長谷川うい子、よだかれんも含めてにぎやかになりました。愛知選挙区からは、がきや宗司も名乗りを上げています。
 れいわの候補者のレベルはほんとに高いですね。知性があり、志も高い。他党とはここが断然違う。組織も応援してくれる企業もなく、すべての活動を支えているのは全国の勝手連、つまりボランティアです。三重県の例でも、今日の「ねこちゃんず」のグループトークは36件です。ポス活(ポスター張りのボランティア活動)のやり方を先輩が伝授しています。こっちの方はまだ実践できていないけれど(^o^)、こんな政党が天下を取ればまさに前代未聞。世界でも例がないんじゃないですかね。

B 日本の空全体をいま重く淀んだ空気が覆っていて、自公維という与党勢力ばかりでなく、立憲を始めとする野党も、そしてメディアも、国民も、みんなその空気の中でアップアップしているように見えます。しかも自分がアップアップしているとは思っていない。
 山本太郎率いるれいわは、こういった日本の現状と将来をしっかりと見ているように思われるが、濁った眼にはそれが見えないか、あるいは異形なもの、ピエロ的に映っている。しかもそういう連中が「野党は頼りないから自民、あるいは維新に入れるしかない」などと訳知り顔をしているわけです。山本太郎はそういう沈滞状況にカツを入れようとしている。そのためにこそ我々ロートルも「貧者の一灯」を掲げて頑張ろうではござらぬか(^o^)。

A ユーチューブにれいわ応援のために建て看板を自作し、それを街路に設置する姿だけを映している動画がアップされています。まだ若い女性だと思いますが、ハンパない熱の入れようですね。しかも楽しそう。こういう一人ひとりの行動が大きな成果を生むんだと明るい気持ちになりました。

B ウエブで見つけたので、真偽のほどはわからないけれど、本家新撰組の副長、土方歳三のセリフに「喧嘩ってのは、おっぱじめるとき、すでに我が命ァない、と思うことだ。そうすれば勝つ」というのがあるらしい。
 山本太郎が激戦の東京選挙区で打って出る覚悟を決めたのも、そういう切羽詰まった気持ちからだと思いますね。

A 「来た、見た、勝った」といきたいですね。

B 古代ローマのジュリアス・シーザーね。さらば、こっちは源義経。平家との屋島の合戦で、義経は戦いに利あらずとなったときに逃げやすいための「逆艪」を用意しなかった。梶原景季が無謀だとなじったときに、義経は「いくさはただひらぜめにせめて勝ったるぞ心地はよき」と言ったというのだが、山本太郎の気迫もここにあるのでしょう。屋島の合戦というか、関ヶ原というか、いまの局面においては、これだけの迫力がないといけないということですね。

A 天下分け目の関ヶ原というほどではないけれど、この選挙は日本の将来に大きな影響を与えると思います。

B そのことを理解して、多くの人が投票し、かつ、れいわに票を入れてほしいと思いますね。せっかく衆議院で獲得した議席を次点だった櫛渕万里に譲り、自ら参院選に打って出るという不退転の決意は、遠方から傍観している人には、なかなか理解できないし、ピエロ的行動のようにも見えるでしょうが‣‣‣。

A ピエロの仮面に隠された決意を、有権者がわがものとしてくれれば、参院でれいわが現新あわせて10議席を獲得するのも夢ではないと思います。

B れいわというれっきとした政党(野党)があり、相当な人材がその旗の下に集まり、腐りきった政治に真剣に立ち向かおうとしているのに、多くの人にそれが「見えない」のはなぜか。見ようとしないから見えないわけだけれど、彼らの目を曇らせているものの正体が問題です。

A やはた愛の「おかん」が言ってましたよ。「なぜみんな選挙に行かないのか? えらい人たちがそれを望んでいるからです」。マジでポイント突いていると思いました。