人は努力する限り悩む、これが修行である
『禅密気功』会報第121号の原稿を再掲。
あしかけ4年余りをかけて禅密気功の動功編、および静功編について、朱剛先生のお話を聞きながら、自分なりの実践結果をまとめてきた。執筆、編集、レイアウトまですべてが自作で、書籍流通ルートを介さないアマゾンだけの販売である。第1作が東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』(2019)、第2作が東山明『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』(2023)で、サイバー燈台叢書(サイバーリテラシー研究所刊)の一環である。このたび会報に執筆の機会をいただいたので、よしなしごとを書かせていただいた。
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前著でふれた鍼灸師の山本エリさんが、東京から逗子まで居眠りしながら毎日通勤している人の首にコブが出来ていたという話をしてくれたことがある。しょっちゅう前かがみになっているためである。そのコブがあるからといって、肩が凝りやすいという程度で、日常生活にそれほどの支障があるわけではないだろう。老化の一種と考えて自然に任せていればいいとも言えるが、それは必ずしも健康な姿とは言えない。ならば、思い立ってそのコブを取ろうとすると、かえってやっかいなことになる。本来の健康を取り戻そうとすることがかえって別の悪さをするからである。コブ(滓)解凍の副作用が生じたり、やり方によっては他の部位に支障が出たりする(コブを外科的に切除すればいいとは思えない)。ここが健康になるための修行の難しさである。
昔は年齢とともに「枯れていく」のが自然であるとされてきた。悠々自適、あくせくせずに老いに身をゆだね、枯れ木が朽ちるように死を迎える方がいいのだと。いわゆる「老境」である。その人の考え方次第だが、私はどちらかというと、その老いに逆らい、若さを保つことを心がけてきた。そして、「健康を守り 老化を遅らせ 若返る」ための功法こそ禅密気功だと思ってきたのである。
修業するから悩みが起こる。努力する限り悩みは尽きない、と言ってもいい。これにどう対応するか、それが『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』のテーマでもあった。先生の瞑想教室に何度目かの参加をした後、「身と心の滓が ほぐれて下る 瞑想の淵」という駄句が浮かんだ。淵とは気海・丹田のつもりである。これを第1作にあわせて瞑想編のタイトルにしようとしたが、抽象的でわかりにくいと思ってやめた。気を気海・丹田に下ろすことで、身心の滓をほぐすのが健康法だというのが、私の当面の〝悟り〟である。
練習(修業) は、事情が許す限り、毎日やるのがいい。これも昔話で、名前は忘れたが、有名な歌手が「1日練習を怠ると、自分にわかる、2日怠るとマネージャーにわかる、3日怠ると、観客にわかる」と言ったらしい。1日、練習をさぼると自分にわかるところが肝心である。すべては体が教えてくれる。悩んだ時も自分の体に訊く、そうすれば今何をすべきか、教えてくれるだろう。
先生の本(『気功瞑想でホッとする』春風社)に、雑念に寄りかかるのはそれが気持ちがいいからだが、雑念や眠気を乗り越えたら、それとは較べられないほどの良い気持ちを味わうことができる、と書いてある。「辛さが消えるのではない。辛くなくなるのだよ」という禅僧の言葉もある。
「血が上る」と言う。「心火」もまた上ってくる。「上虚下実」こそ健康な状態であり、後書で紹介した白隠禅師は、観想するとき「およそ生を保つの要は気を養うにしかず、気、尽くる時は身死す」と3度唱えることを勧めている。
先生の教えの中でとくに重要だと思うのが、この気の下ろし方である。意識して気を下ろす状態(意領気行)から気が自然に下りて意識がそれに従うよう(随意気功)になり、最後に意と気が一体化する(15P参照)。そのとき、身体の荒れた状態が細やかなものに変わるようで、これを私は「粗触」から「細触」への変化ではないかと思っている。
いずれにしろ、そうして坐っていると、身心の滓がほぐれて下っていき、穏やかな気持ちになる。そして、その先に真の瞑想状態が訪れるだろう。朱剛先生によれば、そのとき、その人の「人間性」が変る。もっとも、これはただいま現在、修業中である(^o^)。