ディストピア映画(~1980年)

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 どもども。kikです。今回は、特定の映画ではなく、ジャンル・ムービーについて書いてみようかなと。

 これまで、1980年より前の、つまりまだインターネットなんてものがなかった時代に作られた映画を題材に、ざっくりとですが、サイバーリテラシー的(?)なテーマを探ってきました。

 大半がSF映画でしたが、SFというのは単に Science Fiction の略だけでなく、Speculative(思弁、思索)Fiction としての側面もあるため、その時代に作られたSF映画から、当時の人々が(少なくとも映画人が)、どういった問題に関心を持っていたかが分かります。特に、悲観的な未来を描いた作品からは、当時の人々が未来に対して、どういう不安を感じていたかを(多少なりとも)窺い知ることができるわけです。

 そして、そのような悲観的な未来像=およそ「ユートピア(理想郷)」とは正反対の未来を描いた作品群を、フィクションの世界では「ディストピア」というジャンルに分類します。

 1980年より前の時代、このジャンルで多かったのは、やはり「核戦争後の世界」を描いた作品でした。二度の世界大戦や東西冷戦といった当時の世界情勢は、全面核戦争で世界が滅ぶ未来像に、リアルな説得力があったのでしょう。

 ただ、この種の映画は「ディストピア」の一種ではありますが、「ポスト・アポカリプス(終末後)」というジャンルにも分類されます(まあ、細かいジャンル分けをしだすとキリがないのですが)。

 なので、名作『渚にて』 (1959)を始め、『タイム・マシン 80万年後の世界へ』(1960)、 『タイム・トラベラーズ』(1964)、 『未来惑星ザルドス』(1974)、 『SF最後の巨人』(1975)、 『世界が燃えつきる日』(1977)等々、SFマニアには有名な作品も多い年代ながら、今回これらの作品には触れません。

 さて、ディストピア本来の定義からすると、ディストピア映画とは、基本的に全体主義管理社会監視社会を描いた作品が中心となります。

 まあ、同じ管理社会でも、何が管理されているかによって、描かれるテーマは変わります。70年代は、ちょっと特徴的なディストピア作品が増えた時代でもありました。

 この時代、人々の関心に「急激な人口増加」が加わったため、『赤ちゃんよ永遠に』(1972)、 『ソイレント・グリーン』(1973)、 『2300年未来への旅』(1976)といった、人口問題を扱った作品が多く発表されました。

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 それぞれ「人口爆発」への対処法が描かれますが、『赤ちゃんよ永遠に』の未来世界では、そもそもの出産が禁止されています。妊娠、出産をした者は死刑。子供が欲しい夫婦はロボットベビーを買って育てます。そんな世界で、どうしても本物の赤ちゃんが欲しくなったキャロル(ジェラルディン・チャップリン=チャーリー・チャップリンの娘)は、危険を覚悟の上で、ある決断をします。

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 『ソイレント・グリーン』の世界では、人口増加によって格差社会が広がっています。食糧不足のため、貧しい人々には、プランクトンを原料とした合成食品が配給されます。その合成食料を作っている会社の幹部が殺されたことで、捜査に当たったソーン刑事(チャールトン・ヘストン)は、恐るべき真実を目にするのでした。

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 一方、『2300年未来への旅』の世界では、出産制限も食料不足もありません。なぜなら、コンピュータで管理されたこの世界では、30歳になった人間は殺されるからです。

 当然、逃亡者も出てくるので、それを追うサンドマンという職業が存在します。サンドマンのローガン(マイケル・ヨーク)は、コンピュータの指令で逃亡者たちの聖地へ潜入しますが、そこで衝撃的な事実を知ります。

 いずれもエンターテインメントである以上、極端な世界を描きますが、問題の本質は現代にも通じます。人口問題もそうですが、命に対する権利について、改めて考えさせられます。

 さて、もう少しサイバーリテラシー的な視点のディストピア作品も挙げてみます(過去に紹介した『メトロポリス』『時計じかけのオレンジ』なんかもその一例ではありますが)。

 街のいたるところに監視カメラがあり、ネットを通じて様々な個人情報が吸い上げられ、何かあればSNSで全世界に身元を晒される現代では、「国家が国民のすべてを監視している世界」「情報統制によって人々が管理されている全体主義社会」というのはリアルな脅威ですが、実はこの時代にも、その種の作品が存在していました。

 というより、(映画に限らず)ディストピアというジャンルの生みの親のような小説があり、この時代にはもう、映像化を果たしていたのです。

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 その中で、まず取り上げたいのは、『1984』(1956・英)です。日本では劇場未公開でしたが、ジョージ・オーウェルの原作は広く知られていますね。映画は、ほぼ原作通りです(アメリカ公開版は結末が違いますが)。
※ 尚、本作は1984年にもリメイクされました。そちらの紹介はまたいずれ。

 ここでの世界は、絶対君主ビッグ・ブラザーによる完璧な監視体制によって、国民を管理・支配する全体主義国家です。主人公ウィンストン(エドモンド・オブライエン)は情報操作を行う「真実省」に勤務していますが、体制に疑問を持ったことで(当然ながら)破滅の道を歩きます。

 ちなみにこの小説、約70年前の作品ですが、トランプ大統領就任以降、アメリカ(Amazon)で、ベストセラーのトップに躍り出て話題となりました(売り上げ9500%増だそうです)。作中、国民の思考を制限するための「ニュースピーク」という架空言語が登場しますが、「オルタナティブ・ファクト」だと主張する政権に対し、多くの人が「ニュースピーク」を連想したとのこと(・∀・)

 また、ビッグ・ブラザーの監視体制は、スノーデン氏が告発した、アメリカ情報機関(NSA)による国民への監視をも連想させます。こうした監視は「テロ対策」が主な理由とされますが、「安全」との引き換えに、市民への監視や自由の制限は、どこまで許容すべきでしょうか。「安全か自由か」は、サイバーリテラシー的にも大きな問題の一つです。日本人は、個人情報漏洩は警戒するものの、監視社会についてはあまり気にしていないという調査結果があるようですが、もはや他人事ではありません。

 監視とサイバーセキュリティを専門とする弁護士、ジェニファー・グラニック氏は、「今や私たちは誰もが運動家です。つまり誰しも政府による監視を心配すべき何かがあるということです」と語ります。

 うん。それな(´ー`)σ 

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 次に挙げる作品は、『華氏451』(1966)です。レイ・ブラッドベリの同名原作をフランソワ・トリュフォーが監督した作品ですが、こちらの世界では、の所持が禁じられています。

 一見、平穏な社会が築かれていますが、市民が相互監視し密告しあう世界です。また、本を読んで考えることをしないので、住民は思考力が乏しく、記憶力も衰えています。そんな世界で、本の焼却を仕事としているモンターグ(オスカー・ウェルナー)は、偶然出会ったクラリス(ジュリー・クリスティ)から本の魅力を教えられていきます。

 この世界では、「本」が有害で、社会秩序を脅かす存在として扱われています。しかし、本を読まず、自ら考えることを放棄した人々は、無害だけど無能な、ただ管理されるだけの存在へと飼いならされているのでした。

 安全、秩序といった、誰もが反対しにくい言葉と引き換えに、監視・管理社会となっていく世界といえば、9・11後のアメリカ社会がまさにそうでしたね。日本のテロ等準備罪(共謀罪)も含め、注意すべき状況は常にあります。

 しかし、人間はそうした管理や抑圧に対して 必ず自由を希求するはず……という考え方は、今も昔も存在します。1967年、南カリフォルニア大学時代のジョージ・ルーカスは、『電子的迷宮/THX 1138 4EB』という短編映画で、恋愛さえ禁じられた世界から、主人公 に愛の脱走劇を演じさせましたし、ウディ・アレンは『スリーパー』(1973)で200年後に生き返り、未来の全体主義を笑いで打ち破っています(抱腹絶倒です)。

 ディストピア映画で、恐ろしい未来を描きながら、どこか希望の残るエンディングとなる場合が多いのは、作り手の、人間性への信頼なのかもしれません。この流れは、『未来世紀ブラジル』(1985)、『マトリックス(シリーズ)』(1999~)等へ受け継がれて、現在に至ります。

 もっとも、インターネット以降の時代に、人々を抑圧するのは、必ずしも国家権力とは限らなくなってきました。既存の権力を批判し、自由を追求してきたはずのネット企業が、自らが(一種の)権力となってしまい、ユーザの自由や権利を制限しはじめています。そのことが、場合によっては国家の権力を強化したり、有益な情報を発信しようとする人々の権利を阻害しているのです。なんとも複雑な時代ですね。

 しかし、CNNの元記者で北京支局長や東京支局長を務めたレベッカ・マッキノン氏は、「テロとの闘いで、権利を犠牲にする必要はない」と言い切ります。

 確かにその通りです。でも、もちろん、そのための「闘い」は必要でしょう。あらゆる平等、自由、権利は、それを理想とする人たちの長期間にわたる運動によって、ようやく勝ち得たものです。スピーチの中で彼女が言うように、公害を撒き散らしている企業の社長が、ある朝突然、「よし土地の汚染を取り除こう!」と思い立つことはありません。企業への規制も、市民の運動があってこそ。まさに、「沈黙を守っている知恵、あるいは 発言する力なき知恵は無益なり」(キルケ)ってとこでしょうか。

 映画は時に権力側のプロパガンダとしても利用されますが、それでも多くの示唆を与えてくれます。ディストピアというジャンルは、人類の未来に対する、最終的な希望のジャンルかもしれません。その希望に応えるには、やはりサイバーリテラシーこそ重要なのです(無理やり着地した感)。

 

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『カプリコン・1』(1977年 米)

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 ども。これまでの人生で、一度も嘘をついたことがない kik です。

 まず、右の写真を見て下さい。有名なアポロ計画による月面着陸の写真ですね。人類初の快挙を撮影した、歴史に残る一枚です。

 しかし、この写真、よく見ると背景が真っ黒です。宇宙空間なのに、星一つ見えません。おかしいですね。それに、なんとなく星条旗がはためいているように見えます。空気がない月面で、なんで旗が揺れるのでしょう。

 その答えは、これが実は月面で撮影された写真ではないからです。
 アポロ計画なんて嘘っぱち。人類は月になんて行ってません。『2001年宇宙の旅』の原作者、アーサー・C・クラークが脚本を書き、キューブリックが監督して、アリゾナで撮影したのです。この写真が何よりの証拠です。

 … という 「陰謀論」 があります。1969年の月面着陸は捏造だっただとする、この「アポロ計画陰謀論」を始め、NASAが絡む陰謀論は、70年代半ばから世界中で噂されていました。(上記の疑問に対する回答はこちら

 てなわけで、こうした陰謀論をヒントに作られたのが本作です。有人火星探査船の打ち上げに失敗したNASAが、火星に無人の宇宙船を送る一方、砂漠のセットで宇宙飛行士たちに火星着陸の演技をさせる、というお話です。

 その映像によって、計画は成功したかのように報道されますが、地球に帰還する宇宙船が爆発したことで事態が一変。公には死んだことになった宇宙飛行士たちは、身の危険を感じて…と、ここから先は観てのお楽しみですが、非常に良く出来た脚本です。

 映画はもちろんフィクションですが、こうした陰謀論は、現在でも(NASA絡み以外も)ネット上に溢れています。有名なところでは、「ケネディ暗殺陰謀論」(これはオリバー・ストーン監督の『JFK』で、日本でも有名になりました)や、2001年の「アメリカ同時多発テロ事件陰謀説」、「ユダヤ陰謀論」等々、びっくりするくらい沢山あります。どれも、「お話」としては大変面白いのですが、真偽のほどは、もちろん不明です。

 ただ、真偽はともかく、なぜこれほどまで多くの陰謀論が囁かれ、ネットで拡散されているのか…といった部分は、非常に重要な点かもしれません。それら陰謀論に共通するのは、権力とメディアへの不信だからです。確かに、権力がハリウッド(=メディア)と手を組めば、どんな「嘘の報道(フェイクニュース)」も簡単ですからね。

 いまや、メディア不信は世界中に拡がっています。メディア自身に責任があるのは言うまでもないことですが、ここ最近で影響が大きかったのは、やはり2016年の米大統領選挙でしょう。トランプ候補が、メディアへの不信を隠そうとしなかったのは、非常に印象的でした。

 ところが、権力の座に就いたトランプ氏は、大統領就任2日目に(就任式に過去最高の参加者がいたという)「嘘」の情報を発表します。この「嘘」は(ロイター通信の写真によって)即座に見破られたものの、トランプ支持者は「写真はメディアが加工したものだ」という陰謀論を展開し、今でもその情報を信じる人々が存在するそうです。

 まあ、「人間は自分が信じたいことを喜んで信じる」(シーザー)ので、特定の人々にとって、フェイクニュースとは、あくまでオルタナティブファクトであって、「嘘とは違う」のかもしれません。

 とはいえ、メディア不信によって権力側の嘘も暴けなくなる(信じられなくなる)としたら、僕らはいったい何を信じれば良いんでしょう。何も信じられない時代になるのでしょうか。最近思うのですが、この状況自体、メディア不信を広げることによって利益を得る誰かによって、こっそり仕組まれた陰謀なんじゃないでしょうか(笑)。

監督・脚本: ピーター・ハイアムズ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演: エリオット・グールド/ジェームズ・ブローリン/テリー・サバラス 他

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『時計じかけのオレンジ』(1972年 米)

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 ども。最近、腰が痛いkikです。歳のせいでしょうか。足底筋膜炎は三十年来の持病だし、肩こりは年々ひどくなるし、たまに膝も痛いし。うーむ。加齢とは、痛みが増えることと見つけたり。

 さて。痛いといえば、本作の主人公、15歳の不良少年アレックスも、相当「イタい奴」です。違う意味で。その純粋なまでの暴力衝動と酷薄さは、マジでヤバいです。正直、僕にとってはトラウマ映画です(少年時代に観てしまったので)。

 もちろん、ニューヨーク映画批評家協会の最優秀作品賞と監督賞を受賞しているくらいですから、映画としての完成度は高いですよ。未見の方には是非お薦めしたい傑作。いま見れば、その暴力描写も当時ほどのインパクトはありません。

 とはいえ、公開当時はその暴力描写に賛否が分かれ、いくつかの国では公開禁止になったほど。実際、イギリスやアメリカでは 本作に影響を受けた暴力事件 も発生し、キューブリック自身がイギリスでの公開を中止しました。アメリカでも一部のシーンを差し替えています。まあ、当時としては、それだけ衝撃作だったってことですね。

 本作に限らず、60年代後半から、ヘイズ・コードの呪縛から逃れたアメリカ映画界は、過激な暴力や性描写を許すようになってきました。こうした傾向は年々強まり、現代では、映画やゲーム、アニメ、コミック等、ありとあらゆるメディアで、過剰なまでの暴力やセックスが描かれています。未成年者への影響を危惧する声はどの時代にもありましたが、表現の自由との関係で、対応はそれほど進んでいません。

 このように、表現の自由と、「メディアが子どもたちに与える影響」は密接な関係にありますが(あるいは、密接な関係があると考える人が多いですが)、同時に極めてデリケートな問題でもあります。現代では「サイバー空間には制約がない」(サイバーリテラシー三原則)という事情が、問題を更にややこしくしていることも否めません。

 ちなみに僕は、「表現の自由」への規制には反対の立場です。暴力描写だろうが性描写だろうが、表現者の自由が縛られるべきじゃありません。そもそも、「描写」そのものは、問題の本質じゃないと思いますし。

 ただ、子供相手に、その手のコンテンツで商売をする「自由」 となると許容しがたい。この線引きは難しいですけどね。それに、なんというか、 自由vs規制 という対立軸に、安易に回収すべきじゃない問題もあような気もするんです。ここで語るつもりはありませんが。 とりあえず、エルサゲートとか作ってる連中は○ねばいいのに、とは思いますが。

 ちなみついでに。本作は、少年時代の僕にトラウマを残すくらいの衝撃作でしたが、怖かったのはアレックスの暴力だけではありません。劇中、逮捕されたアレックスは、政府機関の拷問(洗脳)によって、無抵抗で無気力な人間に変えられてしまいます。この「未来社会」に、僕は怯えました。

製作・監督・脚本:スタンリー・キューブリック
原作:アンソニー・バージェス
出演:マルコム・マクダウェル 他

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『2001年宇宙の旅』(1968年 米)

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 ども。違いの分かる男、kikです。

 我々はテクノロジーを使っているのか、それとも使われているのか…といった話は 『モダン・タイムス』 でも書いたような気がしますが(書いてなかったらごめんなさい)、更に進んでテクノロジー(人工知能)が意思を持って人類に反乱を起こす…てな話も、SF映画には昔からあるテーマです。

 でも、まあ、それって現在も未来も(文字通り)サイエンス・フィクションでの話でしょうね。だって、コンピュータはプログラミング通りに動く道具ですからね。別な言い方をすると、コンピュータはプログラミングされた通りにしか動けないわけで、プログラムがなければただの箱に過ぎません。

 SF映画史の金字塔として知られる本作でも、宇宙船のコンピュータHAL(アルファベットを1文字ずつずらすとIBMになる)が、乗組員に反逆するシーンが有名ですけど、この場合、HALは(人間のプログラマなのか宇宙の誰かなのかはともかく)、意思を持つ何者かによってそうプログラミングされていたことになるわけです。

 …という観方は本作の鑑賞法として邪道かもしれませんが、敢えてそう観てみると、なんか(コンピューターが勝手に意思を持つという話より)怖い話じゃありませんか? だって、それってサイバーテロ(攻撃)ですからね。一気にフィクションの枠を超えてきちゃう。

 ご存知の方も多いと思いますが、サイバーテロ(攻撃)は、既に世界中で起きています。核施設を狙ったStuxnetなどが有名ですが、コンピュータウィルスを含むサイバーテロ(攻撃)の被害は、年々増え続け、その規模も被害も深刻さを増しているのが現実です。

 我々が普段使っているパソコンやスマホも、常に攻撃の対象とされています。そういえば僕の友人は、某サイトでハンドルネームを入力しようとしている時に、飼い猫がキーボードの上を歩き回ったおかげで、ワケの分からないアルファベットの羅列がハンドルネームになってしまいました。これなんかは、猫によるサイバーテロと言っても過言ではないかもしれません(過言です)。

 冗談はともかく、一番の問題は、こうした攻撃のための道具=プログラム(武器)が、少しばかりの技術と、数万円程度のパソコンがあれば簡単に作れるってことです。そのためか、ウィルス作成者の数も日々増え続けているそうです。人類は、人類を攻撃することに余念がありません

 映画の冒頭、謎の物体モノリスが、ヒトザルに人類への進化を促すシーンがあります。すぐに道具=骨(武器)として認識したヒトザルが、その骨を空高く放り投げると、骨は最新の軍事衛星へと変ります。映画史に残る名シーンではありますが、人類の生まれ持った攻撃性を表現した、非常に哀しいシーンとも言えるでしょう(言わなくてもいいですが)。

 ちなみに、こんなに有名な本作も、公開当時は賛否両論相半ばし、興行的に大きな成功とはなりませんでした。興行的に最も成功した地域は日本で、この年の興行成績4位に入っています。日本の先見性恐るべし。

監督 スタンリー・キューブリック
脚本 スタンリー・キューブリック アーサー・C・クラーク
出演 キア・デュリア ゲイリー・ロックウッド 他

追記:上記を書いた後で、ネットを徘徊していたらこんな記事を見つけました。
『人工知能が人工知能をプログラムする時代がやってきた』
やっぱり、いずれ人工知能が意思を持つかもしれないなあ…。

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『ニッポン無責任時代』(1962年 日)

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 ども。平成の無責任男こと kik です。2ヶ月ぶりの更新になっちゃいましたが、どーせ誰も読んでないと思うので気にしません。

 さて、昨年末に某ネット配信で(久しぶりに)本作を観ましたが、やっぱ最高ですね、平均(たいら ひとし=植木等演じる本作の主人公)は。

 出張中の電車内で観てたんですが、笑いをこらえるのに苦労しました。 どこまでも無責任でC調だけど、突き抜けた開放感があって、観ているだけで元気が貰えます。 挿入歌 『無責任一代男』 でも、「こつこつやる奴は ごくろうさん♪」と歌われますが、身体壊すまでストレス溜めこむような仕事をするくらいなら、こういう生き方の方が、なんぼか まとも に思えます。仕事で悩んでいる人には、必見の癒やし映画ですよ。

 思えば、僕が本作を初めて観たのは、子供の頃のテレビ放送でした。公開年にはまだ生まれていなかったので、当然と言えば当然ですが、劇場公開 → しばらくしたらテレビ放映 という流れは、その頃すでに当たり前になっていましたからね。 もちろん、当時「テレビ」といえば、茶の間で家族と一緒に観るものでしたが、同じ作品を、昨年末は一人でスマホ鑑賞したわけです。なんつーか、時代ってやつを感じます。

 ただこの事実は、サイバーリテラシー的に(ていうか、ちょっぴりマクルーハン的に)考えてみると、けっこう象徴的だったりします。本作が生まれた1962年といえば、日本のテレビ受信契約数が、ついに1000台の大台に乗った年でもあります。それまで娯楽の王様といえば映画でしたが、この年を境に、メディアの中心は完全にテレビへと移ります。本作も、『シャボン玉ホリデー』というテレビ番組から生まれた作品でした。

 ちなみに、この年封切られた日本映画は375本で、前年比160本減。500館を超す映画館が消え、映画館入場者数は1960年と比較して、3億5000万人も減った年でした。

 テレビ時代になり、人は同じ映像コンテンツを楽しむにしても、映画館という「場所と時間」の制約から解放されました。その後、ビデオやDVDによって、「時間」の制約もなくなり、今や手の中でコンテンツを再生できるため、「場所」の制約すらありません。それによって、実は僕らの生活意識や感覚、社会の在り方まで、驚くほど大きく変化してきました。まあ、当たり前になりすぎていて、実感するのは意外と難しいですし、何がどう変わったかを論じるのは面倒くさいから書きませんけど。

 でも、メディアによって生活意識や感覚が変わっても、コンテンツ自体は昔からそれほど変わってない気がしますね。なんだかんだ言いつつ(言われつつ)も、映画は生き残ってきましたし(えらい!)。
 僕も、映画館に通う機会は減りましたが、「映画を観る」行為自体は今でも好きです。まあ正直、ここ最近の映画で感動することは滅多にないんですけどね。「わかっちゃいるけど、やめられない♪」ですわ。

監督 古沢憲吾
出演 植木等 ハナ肇 他

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『禁断の惑星』(1956年 米)

多くの人がサンドイッチを食べる前にその写真を撮ってネットにアップする時代になり、強烈なナルシシズムを持つことが異常とは言い切れないようになった。メディアを通して自我を拡大できるようになった社会において、ナルシシズムはむしろ、自分はつまらない存在だという感覚から逃れるための当たり前の要素なのかもしれない。(マイケル・ダントニオ : 『熱狂の王 ドナルド・トランプ』)

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 ども。「自分はつまらない存在だという感覚」から逃げられないkikです。サンドイッチの写真をアップしても、誰も見てくれません。ふん。

 さて、ネット上の「リア充自慢」(自我)が更に拡大していくと、人間や社会はどうなるんでしょうね。

 まあ、ふつーに考えると、「こうなりたい(こう見られたい)私」と、「現実の私」とのギャップが大きくなってくるんですかね。今でも、SNSの写真用に、友だちや恋人を代行するサービスがあるとか。…なんか哀しくなるサービスですが。 拡大するのは自我(エゴ)というより、厳密には欲動(イド)なのかもしれませんね。

 なんにせよ、現代のテクノロジーは、イドもエゴも拡大する「手段」を、日々作り続けています。そして、拡大された自我が、更にテクノロジーを進化させるという高速循環。

 それらのテクノロジーは、すごく便利なんですが、一方、人間の能力や自我(イド)を無制限に拡大し続けちゃって、本当に大丈夫なのかなあ、という不安もよぎります。

 だって、映画の中では、自我の拡大をコントロールできず、滅んじゃった種族が存在しますからね。惑星第4アルテアのクレール族がそうでした。

 クレール人は、潜在意識(欲望)を自由に具現化するという画期的テクノロジーを開発したものの、それを制御できずに怪物を生み出し、互いに殺し合って滅亡しました。

 その後、アルテアに移住した地球人も、モービアス博士とその娘以外は、謎の怪物に襲われ殺されてしまいます。映画史上最も愛されるロボット、ロビー(後に『スター・ウォーズ』でR2-D2-のモデルとなったことでも有名)ですら、その怪物には太刀打ちできませんでした。

 サイバーリテラシー三原則の一は「サイバー空間には制約がない」ですが、それは(概念的な)空間だけとは限りません。サイバー空間を構成する高度なテクノロジーは、人の欲求を、制約なく実現していきます。

 人類の果てしない欲望を実現し続けていくと、地球には、どんな怪物が生み出されるのでしょう。

 地球人の未来は分かりませんが、クレール人は滅亡しました。そして本作の最後、惑星第4アルテアそのものも、自爆しちゃいます。

監督 フレッド・マクラウド・ウィルコックス
出演 ウォルター・ピジョン レスリー・ニールセン 他

熱狂の王 ドナルド・トランプ

『モダン・タイムス』(1936 米)

モダン・タイムス Modern Times [Blu-ray]  ども。kikです。エマ・ワトソン主演の 『ザ・サークル』 を観てきました。アメリカ本国での興行実績から、あんまり期待せずに観たんですが、なんというか、本国で酷評された理由も含め、サイバーリテラシーを考える上では教科書みたいな作品でした。いろんな意味で。

 まあ、(『ザ・サークル』の主人公のように)自分のプライバシーを常時SNSで公開していたら、精神的に追い詰められていくのは当然です。エマ・ワトソン自身、Twitterで2500万人からフォローされているというから、かなり追い詰められているんじゃないでしょうか。この作品で。

 さて、最近は「SNS疲れ」という言葉をよく耳にしますが、人間、四六時中テクノロジーに囲まれていたら疲れるに決まってます。…と分かっていても、一度入り込んだら、なかなか抜け出せないのがSNS(情報)社会の怖いところ。

 だって、社会全体がその方向に流れちゃってるし。先輩から「友だち申請」来ちゃったし。あの娘の、どーでもいいランチ写真に「いいね!」しておかないと冷たい人と思われそうだし。上司の、会ったこともないクソガキ 子ども写真に「可愛いですね!」とかコメントしておくのも仕事の内だし。フォロワー数が少ないと、友だちいない奴って思われそうだし。

 そういう流れに逆らい、あるいは立ち止まって、「自分にとって本当に大切な/必要なモノは何か」なんて考え直すのは、そう簡単なことじゃないですからね。サイバーリテラシーの実践は、案外難しそうです。

 ところが。世の中には、そうした「心理的不可能の壁」を、あっさり乗り越える人もいます。本作のチャップリンもその1人。本人はそんなこと自覚していない(という役だ)から、その右往左往はメッチャ笑えますが、同時に、逃げ場のない(と思い込みがちな)社会に、思いがけない視点を与えてくれます。ほんと、「笑い(ユーモア)」 って大事ですよね。

 機械化社会に翻弄され、時代に取り残される主人公ですが、実は誰より 「テクノロジー社会の中で、いかに人間性を維持し、いかに幸福を見いだすか」 を考え、テクノロジーに縛られる社会の滑稽さを嗤います。

 巨大な歯車に巻き込まれるチャップリン同様、僕らも(好むと好まざると)この情報社会からは逃れられません。だからこそ、それらと上手に向き合い、追い詰められる前に、自分や社会を笑い飛ばす余裕が必要なんです。

 …という意見をTwitterに書いて、エマ・ワトソンから「いいね」を貰おうと思います。わははは。

 ちなみに。本作のエンディングで、全てを失った主人公が、未来を求め、大切な人と歩き始めます。
 流れる曲は、『スマイル』です。

監督 チャーリー・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン ポーレット・ゴダード 他
作曲 チャーリー・チャップリン

Smile

『牛泥棒』 (1943年 米)

牛泥棒 [DVD] kikです。先日、会社の下りエレベーターに乗ったら、ものすごく臭かったんです。それはもう、卵の腐ったような強烈なニオイでした。他に乗ってる人がいなかったので、たぶん上階で降りた人の忘れ形見だろうと、息を止めて我慢してました。

 ところが、次のフロアで別の社員たちが乗ってきたんです。しかも女性ばかり。誰もが無言でしたが、僕に非難の目が向けられたことは、ハッキリと感じました。痛いくらい。その場では何も言えなかったけど…

冤罪だからな!

 てことで、今回は冤罪(えんざい)に関する映画。

  1800年代後半のアメリカ西部、オックス・ボーとい小さな町(なので原題は『Ox-Bow INCIDENT』)が舞台。牧場主殺害と、牛泥棒を疑われた3人の男が、自警団に捕まります。無罪を訴える彼らですが、町の大多数が(怒りと正義感から)私刑を支持。正式な裁判を経ず、彼らは縛り首となります。しかしその直後、町の人々は、彼らが無実だったことを知るのでした…うわぁ…てな話。

 まあ、冤罪というテーマはドラマになりやすいので、昔から演劇や映画でよく扱われてきました。いわゆる「法廷モノ」の定番ですね。
 ただし、本作は法廷モノというより、前出『M』同様、群集心理の怖さを描き、『正義とは何か』を問いかける、より骨太な西部劇です。実話がベースの なんともやるせない話ですが、アカデミー賞候補にもなった名作。終盤にヘンリー・フォンダが読み上げる手紙が、ドスンと胸に響きます。

 現代では、さすがに私刑で縛り首…は聞かなくなりましたが、替わりに(?)「スマイリーキクチ中傷被害事件」のような、新たな形の冤罪が生まれています。そうした事件や、ネットで他人の非を執拗に難じている人たちを目にすると、本作で無実の男たちを吊し上げていた自警団を思い出します。インターネット時代になっても、人間の本質的な弱さ、愚かさ、恐ろしさは変わらないんですな。

 て、他人事みたいに言ってますが、多数派に属しているだけで、なんとなく自分が正しい気になったり、正しさへの過信から、集団の中に絶対的な正義が生まれてしまう状況って、日常生活の中でもありえますよね。エーリッヒ・フロム言うところの「匿名の権威」は、いつの時代もを支配してるんです。たぶん。

 しかも現代では、仮に冤罪が晴れたとしても、疑われたという事実がネット上に(ほぼ永遠に)残りますからね。二次被害というか、自分に非がなくても、ずっと嫌な思いをしなくちゃなりません。「忘れられる権利」が一般的な権利として、社会に浸透するのはいつの日なんでしょうか。

 そして願わくば、過日エレベーターに乗り合わせた女性たちの記憶から、僕が忘れられることを祈ります。

 だって、冤罪だもん。

監督 ウィリアム・ウェルマン
出演 ヘンリー・フォンダ 他

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『M』(1932年 独)

M (エム) CCP-271 [DVD]  ども。最近、政治家のスキャンダルが(呆れつつも)面白くて仕方ない kik です。今のところ、2017年1番のヒットは、ピンクモンスターこと、豊田真由子衆議院議員の「このハゲーーーッ!」絶叫。全国の薄毛の人を敵に回しましたよね、あの人。
 ちなみに友人があの音声をメールに添付してきたんですが、間違って電車内で再生しちゃって、一瞬死ぬかと思いました。そういうイタズラ、良くないです。

 ネット上では、そうした炎上騒ぎが次々起きていますが、中にはイジメというか、集団私刑(リンチ)を思わせる行為も目につきます。誹謗中傷を浴びせたり、個人情報を晒したり、更にはもっと直接的な行為に及んだりと、それ自体が犯罪に近い行為ってのは、どう考えてもやり過ぎ。義憤に駆られての行為なんでしょうが、それらが集団で行われるとなると、もはや集団私刑以外のなにものでもありません。後から「そんなつもりはないんですぅ~~♪」と歌っても許されません。

 1931年に製作された本作でも、連続幼女殺人事件の犯人が、犯罪者集団や一般市民の手によって追いつめられていきます。
 ちなみに犯罪者集団が犯人捜しをするのは、警官が町をうろついてる状況が迷惑だから。割と自分勝手な理由だったりします(少なくとも当初は)。

 まあ、警察が見つけられない犯人を、市民が協力して探しだす。それ自体は、何の問題もありません。
 でも、群集が地下室で人民裁判を開き、その場で犯人を処刑…となれば、話は別です。しかも犯人は「少女を見ると殺さずにはいられなくなる」という(映画史上初の)性的異常者なので、問題は更に複雑に。

 凶悪事件の犯人が精神鑑定によって刑事責任を減免されることに関しては、(少年犯罪と並んで)今なお議論がありますから、(心情的には)この群集を理解できる人もいるかもしれません。
 しかし、映画は人民裁判の様子を犯人の視点で展開していきます。これこそ本作の主眼なんですが、そこで観客が目にするのは、怒りと憎しみ、そして義憤に我を忘れ、醜く歪んだ群集の顔、顔、顔…。何より恐ろしいのは、その顔の中に自分自身を発見しちゃうことです。

 本作の本来のタイトルは、『殺人者は我々の中にいる』。ナチ批判と疑われてタイトルを変更しましたが、この『M』とは、MURDER(殺人者)の頭文字を指します。
 また、監督自身の説明によれば、我々の掌には、誰にでも『M』に似た手相があるとのこと。そう、我々は誰であれ、Mになる可能性を持っているわけです。実際、Mへの怒りや恐怖、時に正義感によってすら、我々は暴徒=殺人者(M)に変わり得ます。ネットの集団私刑も根本的には同じですが、匿名性によって、より無意識に暴徒側になりやすい。つまるところ、(これは今思いついたんですが)、『M』は、MAN(人間)の頭文字なんですよね。怖い話です。

 ちなみに監督は、前出『メトロポリス』撮影後、ナチスから逃れてアメリカに亡命した、天才フリッツ・ラング。

 ちなみついでに言うと、本作のモチーフ(というかアイデアの一部)になったのは、1920年代初期にドイツ全土を恐怖に陥れた、ペーター・キュルテン、ゲオルグ・カール・グロスマン、フリッツ・ハールマン、カール・デンケといったシリアルキラー(連続殺人犯)たち。第一次大戦直後のドイツに、なぜこれほど多くのシリアルキラーが出現したのか、といった話も興味深いんですが、それはまた別の機会に。

監督・脚本 フリッツ・ラング
出演 ピーター・ローレ 他

『メトロポリス』(1927年 独)

メトロポリス 完全復元版  (Blu-ray Disc) ども。某酒席で、「サイバーリテラシー的な問題点って、映画じゃ昔からテーマになってるんですよねー」なんて言ったら、(当サイト主宰者から)「じゃあそれ書け」と命じられた kik です。余計なこと言わなきゃ良かった…。

 まあ、そんなこんなで始まった当コラム。 『映画史に見る~』なんて仰々しいタイトルも頂いちゃいましたが、要は、古い映画をサイバーリテラシーにこじつけて…もとい、サイバーリテラシー的な視点で、(極私的に)考察してみようという気楽なコラムです。気楽にお付き合い頂ければ幸いです。

 さて。いきなりですが、どんなテクノロジーも諸刃の剣なんです。

 て、いきなり大上段に構えてみましたが、実際そうだと思います。インターネットだって、使い方によっては自由とか民主主義を拡散するテクノロジーになり得ますが、同時に、それらを阻みたい権力者にとっても便利なツールになりますからね。
 そして、テクノロジーを効率的に使うことに長けているのは、いつの時代も、権力者側じゃないのかな、と。

 SF映画黎明期の傑作として知られる本作でも、テクノロジーが、使う側の意図次第で、いかようにも変化することが描かれています。裕福な支配者階級と、貧しい労働者階級に二極化した未来社会で、支配者が用いるテクノロジーアンドロイド=マリアでした。ちなみにマリアは、アンドロイドだけど見た目は超美人。さすが権力者、その辺(どの辺か知りませんが)よく分かっていらっしゃる。労働者たちは、たちまち虜になります。

 権力者側の目的は、マリアを使い、ストライキを企てている労働者たちの団結を崩すことでした。今で言うところの情報操作ですね。インターネットなんてない時代から、権力者ってのは情報をコントロールしたがるもんです。
 しかし、マリアを作った科学者の真の目的は、階級闘争を扇動し、国家に混乱をもたらすことにありました。今で言えばサイバーテロですね。高度なテクノロジーってのは、悪意を持った技術者が一人いるだけで、エラいことになります。
 かくして、マリアに扇動された労働者たちは、やがて暴徒と化して街を破壊していきますが…。
 
 映画史的に見どころの多い本作ですが、個人的にモヤモヤしたのは、暴動によって自らの子どもたちを危険にさらした労働者たちが、支配者階級の青年に助けられる終盤シーンでした。青年が悪の科学者を倒し、支配者階級と労働者階級を和解させる…というエンディングは、どうにもスッキリしません。だって、階級格差はちっとも解消されないんだもの。

 その原因は、本作監督(フリッツ・ラング)の妻であった、テア・フォン・ハルボウの脚本のせいです。ラングは労働者側の勝利で終わる話にしたかったんですが、ハルボウは当時、ナチス思想に傾倒しており(それが原因でユダヤ人のラングとは離婚)、支配者階級をエリートとして礼賛こそすれ、一方的な悪者として描く気はなかったわけです。

 彼女に限らず、昔から映画はプロパガンダとして使われてきました。それは現代も変わりませんが、この時代は特に露骨というか、各国の権力者が、映画を「国策宣伝」のために利用していました。つまり、当時は映画こそが、最新のテクノロジーだったわけですね。

 ちなみに、本作に登場する映画史上初の(そして映画史上最も美しい)アンドロイド=マリアは、後に『スター・ウォーズ』のC3-POのモデルになったことでも有名です。(Kik)

監督 フリッツ・ラング
出演 アルフレッド・アベル 他