林「情報法」(25)

「馬の法」か「サイバー法」か「情報法」か

  私は執筆の当初から一貫して「情報法」を対象に論じてきました。しかし、その定義は残念ながら一定ではなく、論者によってかなりの違いがあります。サイバー法、インターネット法、(電子)メディア法などの語を使用する論者もいますが、その差はあるのでしょうか? 決定的なことは言えませんが、どうやらアメリカでは「サイバー法」が一般的であるのに対して、わが国では「情報法」が好まれるようです。その理由を探っていくと、意外なことが分かってきます。

・サイバー法論争

  このテーマに関する論争として名高いのは、20世紀末にアメリカで交された、Frank Easterbrook(以下、E)とLawrence Lessigに(以下、L)による「サイバー法論争」です。Eは第7巡回区連邦控訴裁判所判事兼シカゴ・ロー・スクール客員教授で、彼が「サイバー空間と『馬の法』」(1996年)という挑戦的な論文を書いたのに対して、L(当時はスタンフォード・ロー・スクール教授)は、3年近い熟考の末「サイバー法が教えてくれるもの」という論文と、ベスト・セラーになった『コードその他のサイバースペースの法』という書物の2つの著作で対抗しました(共に1999年)。

 ここで提起され、反論にも使われたのが「サイバー法」という概念で、それは「サイバー空間という場所に適用される法」という含意を持っています。EもLも直接触れてはいませんが、伏線として、インターネットが商用化された(1994年か1995年を起点とするのが一般的です)直後の1996年にJohn Perry Barlowが書いて、EFF(Electronic Frontier Foundation)のサイトに掲載されて話題を呼んだ「サイバースペース独立宣言」があります(https://www.eff.org/ja/cyberspace-independence)。

 バーローが「サイバースペースは独立圏だ。既存の法は入るべからず」と主張したのに対して、最初にEが「サイバー法が特殊なものだと主張するのは『馬の法』が大切だと言うようなもので、既存の法が適用されるだけだ」と茶化した後で、Lが「しかしサイバー法には実空間の法とは違った側面がある」という別の視点を提供したわけです。しかし三者ともサイバーという「空間」に拘っているのは、法学ではjurisdictionといって法の適用領域が問題になることが多いので、どうしても「場所」のイメージから抜け出せないからです。

・馬の法(Law of the Horse)というネーミングの良さ

 Eは、「サイバー法は『馬の法』のようなもので、ロー・スクールで教える価値はない。馬の売買に関する法、馬に蹴られた人の補償に関する法、競馬の掛け率に関する法、競走馬の飼育に関する法などいろいろ考えられるが、どれ1つとして一般法にはなり得ない。新しく発展した概念として『法と経済学』があり、それはロー・スクールの正規の科目になったが、サイバー法にはそんな要素はない。院生には一般法を教えるべきだ」と主張しました。

  「馬の法」という表現自体は、1979年から87年までシカゴ・ロー・スクールの学科長であったCasperから借りてきたものですが、ネーミングと言い、タイミングと言い、挑戦的なEにふさわしいとも言えます。彼のパブリシティ感覚は大したものです。

 これに対してLは正面から反論するのではなく、サイバー空間に適用される法には実空間の法にはない特徴があるとし、その最大のものが「コンピュータ・コードに代表されるコードが事実上の規範力を得て、法と同じ効果を持つ」と指摘しました。ここでcodeという英語が、「技術的コード」であると同時に「法典」の意味も持っていることに注意してください。WordやPower Pointが市場を支配するようになると、ユーザはそこで使われる決め事に従うしかない、という事象は今では普通になっています。

 Lの指摘は大きな反響を呼び、サイバー法の権威者のように見られたこともありましたが、今ではハーバードに転じて腐敗や汚職の研究者になり、サイバーからは抜け出てしまいました。因みにEとLは「犬猿の仲」ではないようですが、Lの生徒が頭を撫でると予め指定した言葉を発するロボットを買ってきて、「イースターブルック」と名づけた上で、決め言葉として「efficiency」を与えたという逸話が “CODE” の中に出てきます。この逸話が示すように、Eは「法と経済学」の権威者の1人とみなされており、その学識を反映した判決を出すことでも知られています。

 しかし、それは彼に限ったことではなく、「法と経済学」を旨とする Richard Posner(第7巡回区控訴裁の先輩)、やGuido Calabresi (第2巡回区)などといった大御所に共通する特徴です。なぜ、もともとは経済学者である人たちが、連邦控訴裁判所の判事を勤めているかといえば、アメリカのロー・スクールは大学院レベルで、法学部という学部がないため、多くの院生が経済学部から入学するからです。そして、連邦控訴裁判所の判事は大統領が任命する(上院の承認は必要)ため、内部昇進ではなく中途採用が多いからです。

 ・どこに差があるのか

  このような論争から見えてくるアメリカ的発想はなんでしょうか? 実は米国の議論は、「サイバー法」というvirtual placeを前提にした議論であり、客体である情報を中心に据えた「情報法」という視点は希薄なのです。私は、この点こそが議論の混乱を招いているのではないかという疑問を払拭できないでいます。

 例を挙げてみましょう。「情報法」ではなく「サイバー法」を構想する論者が多い米国では、知的財産窃取というサイバー犯罪に対して、「知的財産を取り戻す」ことを主張する者も(必然的に)多いし、現にCommission on the Theft of American Intellectual Property (IP Commission) という組織があって、明確にその立場を採っています。中国との間の貿易戦争も辞さないという政策には、こうした発想が反映されていると思われます。

 また、わが国では個人情報保護法(私はこの法律の基本は「個人データ保護法」だと思っていますが)への過剰な反応もあって、個人データの漏えい・流出がメディアで頻繁に報じられますが、その後の窃用は「なりすまし」として区分しています。ところがアメリカでは漏えいと窃用を一体としてID theftと呼んでおり、上記のcommissionの名前もtheftとなっています。そのため「米国では情報窃盗という犯罪がある」と誤解する人もいますが、犯罪化されているのは窃用部分で、取得そのものに刑事罰を科しているのは知的財産法制だけです。

 そこで知財法を強化して刑事罰を厳罰化するベクトルが働くのですが、情報の価値はラベルに表示してある訳ではなく、売手と買手の関係性によって決まってくるので、厳罰化にも限界があると思います。つまり、サイバー法的発想ですべてを解決することはできず、「価値の不確定性」「複製による移転」と「情報流通の不可逆性」を与件とする「情報法」的な発想が必要になると考えています。結局、有体物のように完全に取り戻すことは、技術的にも法的にも不可能なのです。

・アナロジーやメタファーの限界

 しかし、サイバー法論者も、情報法論者も、共に気を付けなければならない点があります。それは、法学者が論理を組み立てるに当たって、先行事例のアナロジーやメタファーに依存する度合いが高いこと、特に新しい事象が起きた時には、その弊害が大きくなる危険を免れないことです。多くの点で、L(レッシグ)とタッグを組んでいる感のあるLemley教授(スタンフォード・ロー・スクール)は、「サイバー法」という概念化には反対しないものの、その適用には慎重であるべきだと警告しています。

 またKerr教授(ジョージ・ワシントン大学)は、「メタファーやアナロジーは有効な場合があるが、それらに過度に依存すると正しい姿が見えなくなることがある」と警告し、「物理世界のアナロジーをインターネットに適用すると破綻する」ことを率直に認めています。しかし、なお ‘any effective model for deterring computer crime must be rooted in the former rather than the latter’ と主張しています。司法省にもいたことがある彼の現実論としては評価すべきで、特に刑事法の分野では賛同する論者が多いかと思われます。

林「情報法」(24)

米国における「通信の秘密」の歴史

 前回までに、これまでの法体系は「物」つまり有体物を念頭においたもので、それには「所有権」という排他的権利を設定することが、有効だという点を見てきました。今回からは、「情報」という無体財を扱う際に、有体物アナロジーを用いることが「どこまで有効で、どこからは無効か」を見極める努力をしていきましょう。最初に取り上げる事例は、「通信の秘密」を基礎づける理論が、米国でどのような変遷を遂げたかです。なお今回分の説明は拙著『情報メディア法』(東大出版会、2005年、pp. 138-143)を要約したもので、情報の圧縮度が高いため理解が難しい場合は、拙著を直接参照してください。

・「住居侵入が許されない」のと「電話の盗聴が許されない」理由は同じ

 米国憲法は独立宣言(1776年)に続いて、翌年にまず統治機構を定めた部分が制定され、1779年にその補正(amendment)として基本的人権を定めた部分が付け加えられた、という歴史を持っています。その補正第4条は、以下のように定めています。

 The right of the people to be secure in their persons, houses, papers, and effects, against unreasonable searches and seizures, shall not be violated, and no warrants shall issue, but upon probable cause, supported by oath or affirmation, and particularly describing the place to be searched, and the persons or things to be seized.

 この条文のうち後段の捜査令状に関する部分は、わが国の憲法と似ており、あまり問題はないと思います。しかし前段の「不合理な捜索及び逮捕押収に対し、身体、住居、書類及び所有物の安全を保障される人民の権利は、これを侵害してはならない。」という部分は、「身体——–」の部分が制限列挙だとすると、「これ以外のものは保護されないのか」という疑問を生じさせます。

 19世紀半ばに電信が、次いで同世紀末に電話が発明され実用化された直後から、通信の当事者以外の者が通信回線に機器を接続し、無断で傍受するという例が現れました。幾つかの州では早くも19世紀中に、傍受を規制する法律を作りましたが、その重点は通信回線などへの物理的接触を禁止することにより、通信事業者の資産や通信サービスの提供を保護するという点におかれました。つまり「住居侵入」が違法であるのと同じ意味で、「盗聴」は財産権の侵害の一種とされたのです。

 20世紀に入ると通信自体の保護が主眼となり、通信の不正な傍受や傍受された通信内容の漏洩、使用が禁止されるようになりましたが、「法執行機関などによる傍受にも及ぶか否か」は必ずしも明確ではなく、実際にその違反により起訴・処罰がなされることはありませんでした。しかし電話などの傍受によって得られた情報が、刑事事件で証拠として使われるようになると、そのような手段による証拠の収集が、憲法の適正手続の保障に照らして許されるものであるか否かが(違法収集証拠という論点で)争われるようになり、連邦最高裁は1928年のオルムステッド事件の判決で初めて判断を示しました。

 事案は禁酒法違反の捜査の過程で、連邦の捜査官が被疑者らの住所や事務所の屋外や地下の電話線に、傍受装置を接続するという方法(wiretapping)で通信の内容を傍受し、速記で記録したというものでした。最高裁は、当該証拠は聴覚により捕捉されたにとどまり、「書類や有体物の押収」も「押収を目的にした住居(など)への現実の物理的侵入(actual physical invasion)」もなかった以上、不合理な捜査・押収の禁止と、令状要件を定めた憲法補正4条に違反するものではない、と判示しました。つまり保護すべきは「通信の内容」ではなく「住居や書類などの財産」だというのです。

・立法化から「プライバシーの合理的期待」へ

 ただオルムステッド判決も、電話による通信の秘密を保護するため、傍受された通信内容の証拠としての採用を、議会が立法によって否定することは可能であると示唆していました。そこで1934年に連邦議会が、通信規律の一元化を目的として「連邦通信法(Communications Act of 1934)」を制定した際「いかなる者も、(送信者の許可を得ずに)通信を傍受し、かつ傍受された通信の存在、内容、実質、趣旨、効果または意味を、漏洩しまたは公表してはならない」という規定をおきました 。

 もっとも、この規定は、文言上「傍受するだけでなく漏洩する」ことを禁ずるものであったことから、実務上は、傍受だけにとどまる限り同法の違反にはならないものと解釈され、電話傍受はその後も実施され続けました。時おりしも、第2次世界大戦に突入したこともあり、防諜活動にも拡張されたといいます。

 ところが最高裁は1950年以降、捜査官が被疑者の住居に侵入して盗聴器を設置したことを、「有体物の押収」を目的にした侵入ではなかったにもかかわらず、補正4条違反としました。また捜査官が、細長いマイクを被疑者宅の暖房用ダクトに接着させて、そのダクトを伝わってくる屋内の会話を傍受するとか、同じようなマイクを壁に僅かに差し込んだにとどまるような場合にも、補正4条の適用を認めるなど、オルムステッド判決の基準を緩和する形で、規制の下に取り込んでいきました。

 このような流れの末に連邦最高裁は、1967年の有名なカッツ事件判決(Katz v. United States, 389 U.S. 347 (1967))で、プライバシー権の観念に立脚する新たな考え方を基準に、「物理的侵入」を一切伴わない形での会話の傍受についても、補正4条の適用があることを認めるに至りました。ここで採用された概念はその後「プライバシーの合理的な期待」(reasonable expectation of privacy)として広く採用され、わが国でも早稲田大学江沢民講演会事件の判決(最判2003年9月12日)に影響を与えています。

 カッツ事件は、賭博に関連してFBIの捜査官が公衆電話ボックスの外側に盗聴器を設置し、被疑者の発信を傍受・録音したというものです。従来の基準の下では、公衆電話ボックス内部への物理的侵入はなかったのですから、補正4条の適用は否定されていたはずです。ところが最高裁は、被疑者の発した言葉を電子機器を用いて聴取し録音したのは、被疑者が公衆電話ボックスを利用している間確保されているものと「正当に信頼していた(justifiably relied)プライバシー」を侵害するもので、従って補正4条にいう「捜索・押収」に当たると判示したのです。

 同判決を受けて制定されたのが、「1968年包括的犯罪防止および街路安全法」の第3編「Wiretapping and Electronic Surveillance」で、口頭による会話または有線通信による会話の傍受によって入手された内容と、それを手掛かりにして入手された証拠を、連邦・州・州の下部組織の、立法・行政・司法のいずれの手続においても証拠として採用することを禁止し、また傍受内容の開示を違法としました。また連邦議会は、「1986年電子通信プライバシー法」で、68年法に ① Electronic Communicationを追加する、② 無線通信も加える、③ 個人的な通信にも保護を与えるという修正を加えました。

 このようにして、当初は「財産権侵害」の1類型とされていた「通信の秘密の侵害」が、「プライバシー侵害」の類型に組み替えられたのは、時代の流れというべきでしょう。しかし、それですべてがスッキリした訳ではありません。次回以降に紹介しますが、「財産権侵害」という確立された法理は、コモン・ローという判例法の中に「所有権信奉」としてしっかりと根付いており、実利的にもこれに乗った方が楽で、裁判で勝てる確率が高いのも否定できないからです。

 その意味では、ここで注目すべきは、むしろ1928年のオルムステッド判決から1967年のカッツ判決までに40年ほどを要したことの方かもしれません。さらに言えば、プライバシーの権利を初めて主張したWarren & Brandeis論文の公表が1890年ですから、「学者の主張が(どれほど優れたものであっても)現実に生かされるには1世紀近くかかる」という教訓を、読み取るべきかもしれません。

・法人の通信も守られるのか

 しかし、なお論点は残っています。「通信の秘密」を「プライバシー保護」の観点から理論づけるのは、今日の憲法学では通説となっています。しかし私のようなビジネス出身で、かつ「つむじ曲がり」から見れば、「法人の通信の秘密をプライバシーで根拠づけられるのか」という疑問を提起したくなるからです。

「法人にも自然人と同じような権利がある」という主張はあり得ますし、私もFloridiのInforg(Information Organism)の概念は自然人よりも法人にふさわしい、と考えています。事実、八幡製鉄事件判決(最大判1970年6月24日)は法人に、政治献金の自由を認めています。しかし「法人にもプライバシーがある」という議論は、共通番号に関する激しい議論の中でも聞いたことがありません。

 仮に「法人にはプライバシーがない」とすると、「通信の秘密」は個人対個人の交信(e-commerceでは C2Cと呼んでいます)だけが保護の対象で、B2Cは(Cの側しか)保護されず、B2Bの通信は全く保護されないのでしょうか。とすると、全体の通信料のうち何パーセントが保護されていることになるのでしょうか(実は、この種の統計が公表されなくなって久しいので、断定的なことは言えませんが、保護対非保護の比率は半々程度ではないでしょうか)。

 「財産権の保護」から「プライバシーの保護」へと発想の転換を図っても、なお残る課題がありそうです。

林「情報法」(23)

コースの定理と無体財への適用

 今回の情報通信学会のうち「国際コミュニケーション・フォーラム」の部分の統一テーマは「データが拓くAI・IoT時代」でした。私たちの基調講演が統一テーマにどれだけ貢献したかは、参加者の反応を待つしかありませんが、その後のパネルディスカッション(基調講演者は参加していません)の最後に、会場からの質問をめぐって意外な展開がありました。今回は、その含意を探ります。

・コースの定理とは

 質問の主旨は「パネリストの意見交換はそれなりに興味深かったが、多くのパネリストが指摘した『データのownershipが不明確』という点は、明確にすればよいだけのことではないか。コースの定理によれば、ownershipが取引当事者のいずれにあっても、取引費用がゼロなら交渉の結果、効率的な資源配分が達成される。取引費用がある場合には、ownershipの付与を前提にして、その分担を決めれば解決できるはず」というものでした。

 質問者は経済学者らしくコースの定理を前提にしていますが、本欄の読者が全員経済学に明るいとも言い切れないので、まずその定理について補足します。Ronald Coaseは、100歳を超える長生きをして数年前に亡くなったアメリカの経済学者で、1991年にノーベル経済学賞を受賞しています。あまり多作ではないのですが、少ない論文がことごとくユニークで、経済学の発想を根本から問い直すような変革をもたらしました。

 中でも有名なのがコースの定理として知られるものですが、それは経済学では「外部性」として、法学ではniusance(権利侵害)として知られるものをモデルにしています。昔の列車は石炭をたいて走行していたので、火の粉が沿線の松を枯らすことがありました。また作物を作る農家と家畜を育てる畜産家が隣人だと、家畜が作物を食べてしまうなどの被害が出ていました。この損害をどちらが負担するかによって、資源配分が適正になったり歪んだりすることがあるか、という問いが議論の出発点です。

 法学を学んだ読者なら、「なんということを議論しているのか。公害の分野では既にPPP(Polluter-Pay-Principle)が国際的合意になっており、原因者が費用を負担するのが公平である」と主張するでしょう。しかし、この論文が書かれたのは1960年で公害が世間の注目を集めるずっと前ですし、コースは法的な権利がどちらにあるかにかかわらず、(効率性を第一義とする)経済学ではどう考えるべきかを追求しました。

 ここでコースが出した回答が、世間を驚かせました。なんと「企業間に外部性が存在しても、もし取引費用がなければ、資源配分は損害賠償に関する法的制度によって影響されることはなく、また常に効率的なものが実現する」と言い切ったのです。法学者からすれば、「権利がどちらにあるかにかかわらず、経済学的に効率的な解決が可能なので、法学者の出番はない」と言われたように受けとめられた(現在でも、そのような誤解が無くならない)のも無理はありません。

・所有権の存在意義と「法と経済学」

 もちろん、これはトリックで、その鍵はアンダーラインを引いた「もし取引費用がなければ」という前提条件にあります。時間が経つにつれて、この定理の真の意味は「現実の世界では取引費用が存在するので、必要なのは、経済システムを構成する諸制度のあり方の決定において、取引費用が果たす(べき)基本的な役割を明らかにすることである」というように理解されるようになりました。

 そして、この認識が広がることによって、彼が1937年(コースの定理の論文より23年も早く)に提起した「法人は取引費用節減のために存在する」といった知見が再評価されるようになりました(彼以前には法人の存在を経済学で説明した人はおらず、経営学者が「組織の限界」を議論していました)。このような流れから「取引費用の経済学」という分野が生まれ、「契約の経済学」や「情報の経済学」にもつながっています。つまりコースは、これらの新しい経済学のすべてを生み出したのです。

 繰り返しますが、コースの定理は見かけとは反対に「取引費用が無視できない現実の世界では、なぜ非効率が発生し、市場メカニズムがうまく機能しないケースが起こるのか」を解明しようとしたものです。これを法学の面から見ると、「権利の設定が如何に大切か」を示している、と言い換えてもよいかもしれません。

 経済学では伝統的に「コモンズの悲劇」(誰も権利を行使できる人がいない共有地では、家畜が草を食べすぎる結果、維持できなくなる)を反証として「所有権」の必要性を正当化してきたのですが、コース以降は「権利の設定が取引費用を節減し、交渉を円滑化させる」とポジティブに説明できるようになりました。コースが「法と経済学」の始祖とされるのは、この面でも当然のことかと思われます。

 さて、ここで現実に戻って、先の情報通信学会における質疑です。質問者は、上記で長々と述べた事情を背景に質問したのですが、回答者に経済学者がいなかったこともあって、残念ながら質疑はかみ合いませんでした。そこで私は、極めて異例のことを承知の上で、懇親会の乾杯要員に指名されていた「職権」を乱用して、次のような挨拶をしました。

 「(紋切り型の挨拶の部分は省略)。ここでパネルディスカッションの最後にあった質問について一言付け加えることを、年寄りに免じてお許しください。残念ながらご質問者が本席におられませんが、私ならこのような回答をしたであろうということをご紹介します。質問は経済学の伝統に沿ったもので、核心を突いています。しかしコースの定理は情報社会の到来とともに、再検討を求められています。排他性・競合性(法学的には「占有」)が明確な有体物にはコースの定理がそのまま適用可能ですが、公共財的要素(非占有性)がある無体財についても同じように考えることができるでしょうか? 本学会の会員が、この問題に真摯に向き合ってくれることを期待して、乾杯しましょう。」

・若干の補足

 本ブログをお読みいただくか、拙著そのものをお読みいただいている読者には、以下のコメントは蛇足かもしれません。しかしマルクス流に言うならば、私たちが資本主義社会の中を、それも産業社会や工業社会の時代を長く生きてきたことは、私たちの思考様式を予想以上に規定しています。その代表格が「所有権信奉」です。インターネットの時代に入っても、いわゆる「サイバー法」を論ずる学者でさえ、その大部分がこの病気から逃れられないでいます。次回以降は、そうした事例を紹介することで、「所有権第一の発想から脱却する」必要性と困難性について、述べていきたいと思います。

 

林「情報法」(22)

情報通信学会にて

 6月30日の土曜日に、懐かしい慶應三田キャンパス(私は7年間勤務しました)で、情報通信学会の春季大会兼国際コミュニケーション・フォーラムが開催され、後者の基調講演として「情報社会(情報法)の主体と客体」と題して講演しました。併せて、翌日7月1日(日)の個別報告では、「情報の公正で適切な取扱いに関する考察―『情報の生理学』の構築に向けてー」というテーマの報告をし、続けて森田英夫さんの「情報デジタル化による社会的便益向上に関するオントロジー的考察」という報告の、討論者を勤めました。延べでは2日ですが、実質は6時間ほどの間に3つの役目をこなしたので、高齢者には酷でしたが、その苦労を上回る成果がありました。

・国領講演に共鳴

 私は意外にずぼらで、講演(口頭報告)の良さはそのアドリブ性にあると思い込み、これまではあまり準備時間をかけませんでした。しかし、恐らくこれが最後の基調講演になると思うと、今回ばかりは何度も練習し、基調講演にしては短い30分でどこまで聴衆に訴求できるか、シミュレーションをして臨みました。

 加えて、この連載では「その日その日」を事後的に振り返って感想を述べてきたのですが、折角このような機会があるなら、今回ばかりは予習に使ってみることにしました。読者は既にお見通しだったかもしれませんが、前2回の投稿は今回の発表用に書いたものです。その投稿にあるように、最も重点的に説明したのは「主体と客体と、その両者の関係」と「有体物の法と情報法とで、関係性にどのような差があるか」という2点でした。

 午後3時開始で、眠気を感じる時間帯ではなかったことに加え、最初の講演であったためか、聴衆(50名強だったと思います)は熱心に聞いてくれました。発表内容は、拙著『情報法のリーガル・マインド』に書いたことを、手を変え品を変えて説明したに過ぎないのですが、意外に反応は良かったように思いました(それだけ、著書が売れていない証拠かもしれません)。

 しかし、もっと嬉しかったのは、次の基調講演者である国領二郎さんの「情報の価値とビジネスモデルの進化」と題する発表の中に、私の指摘と交差する指摘を多数見出すことができたことです。彼の主張を私なりに要約すると、① 技術変化に伴う社会予測は間違うことが多い(自身も「コンピュータ導入でサプライ・チェーン全体の在庫は最小化される」「情報化で生産者と消費者が直結し、卸は中抜きされる」の2つの予測で大間違いをした)、② 変化の方向を決定づけるのは技術そのものではなくボトルネックが何処にあるかである、③ 近代社会のボトルネックは「信頼の創出と維持」であり、その具現化としての「所有権と貨幣による交換経済」である、④ しかし追跡可能性(traceability)が進展すれば、それも不要になりシェアリング・エコノミーなど新しいパラダイムが始まるかもしれない。

 国領さんの主張のうち ③ のボトルネックが「有体物の法」に対応するもので、④ の変化が「情報法」の必要性を(間接的に)述べたものだとすれば、私の指摘と符合する部分が多いことになります。しかし、経営学者である国領さんは ③ から ④ へとワープする企業が伸びると言えるかもしれませんが、保守性と継続性を重んずる法学者である私は、そこまで大胆にはなれません。

・斉藤報告は法学者の立場を代弁

 また国領講演は、シェアリング・エコノミーの可能性を紹介してくれる一方で、GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)と呼ばれるような大企業が、競って個人データ(特に購買履歴などの属性データ)の収集に血道を上げている理由をも、説明してくれます。しかし法学者としては、この点についてEUが極めて慎重で、GDPR(General Data Protection Regulation)という、指令(directive)よりも強く加盟国の国内法を許さない規則(regulation)を制定して、域外にも適用しようとしているのは何故かを考えねばなりません。

 このような法学者のdilemmaを紹介してくれた報告が、翌日の私の個別報告の直前になされた、斉藤邦史さん(慶應義塾大学)の「信認関係に基づく消費者プライバシーの保護」という発表だったと思います。斉藤報告は、わが国のプライバシー侵害訴訟を丹念に調査し、「プライバシーに属する情報」と「プライバシーに係る情報」の語が明確に使い分けられていること。これに対応して前者(プライバシー固有情報)については「人格的な権利利益」としての救済が、後者(プライバシー外延情報)については「情報の適切な管理についての合理的な期待」の保護が図られてきたとします。

 そして米国の近時の議論は、少なくとも後者については、英米法(英国由来)の「信認(Fiduciary)」理論の発展形として処理すべきだ、という主張が勢いを増していることを紹介し、法制の違うわが国においても参考にすべきではないかという紹介をしてくれました。この点は拙著でも主張してきたことなので、「わが意を得たり」の感がありましたが、またまた勉強すべきテーマが現れたという、一種の焦りも感じました。

 という訳で、その直後に行なった私の個別報告「情報の公正で適切な取扱いに関する考察―『情報の生理学』の構築に向けてー」は、斉藤報告のようなインパクトが無いので、ここでは以下の4点のみ摘記します。① 「情報の公正で適切な取扱い」はプライバシー保護のための手続的保証という側面のみならず、およそ「情報はこう扱うべきだ」という基本原則である、② わが国においては手続法よりも実体法が重視されがちだが、intangibleなものを扱う情報法では、due process こそ大切である、③ 情報セキュリティは、それが破られたときに問題になるので、病理学的側面が際立つが、そろそろ生理学としての「情報の公正で適切な取扱い」の構築を考える時期に来ている、④ そのためには知財的情報と同時に、秘密的情報の扱いをもっと学ぶ必要がある(わが国の研究者は少なすぎる)。

 このような私の主張に対して、討論者の林秀弥さん(名古屋大学)が、個別の手続きと同時に「疫学的対応も必要」との指摘をしてくれました。考えて見ればコンピュータ・ウイルスという喩えは、病気をもたらすウイルスとの共通性を示しており、また最近ではcyber hygieneという言葉もあるので、その点にも気を配るべきことを教示していただいたものと、感謝しています。

・森田報告へのコメント

 そして最後は、森田英夫さんの「情報デジタル化による社会的便益向上に関するオントロジー的考察」という報告です。この発表の討論者を依頼されたとき、私はかなり怖気づきました。私の知っているオントロジーは哲学用語で、情報科学のオントロジーについては全くと言って良いほど無知だったからです。しかし調べていくほどに、semantic webなどでは実装されている考えで、私の主張である「情報法の主体にはロボットなども含まれる」という仮説が成り立つためには、何らかの関係があると思うようになりました。また若い会員に討論者を依頼するのも酷なので、年長の私がお受けすることにしました。

 しかし何と言っても「泥縄」の準備であることは否めません。そこで、以下のような質問とコメントをしました。① シャノンの情報理論は、意味を捨象して構文にのみ着目することで発展したが、これからはコンピュータに意味を分からせることが大切になる。その面でオントロジーが必須であると理解して良いか、② 私は「情報法の主体」として、これまでの自然人と法人のほか、ロボットやAIなども含まれると理解している。その際、「主体性」の検証手段として、「オントロジー的な閾値」を設定して判断することが可能になる、と理解して良いか、③ この概念が役立ちそうなことは漠然と分かったが、特に文系の研究者にも理解してもらえるよう、説明方法を工夫されることを期待する。

 これら3点とも、森田さんからは同意の回答があったように思いますが、コメントした側に、ある種の「後ろめたさ」が残ったのも事実です。討論者はテーマをもっと掘り下げて、議論の核心を突いた質問なりコメントをすべきで、私のものは「無知の欠陥を発表者に転嫁する」ものではないかという自責の念です。学際的学会には良さもありますが、その運営は難しいものだということを痛感しました。

林「情報法」(21)

主体と客体に関する情報法の特異性

 前回の記述を、連載の初期に紹介した「情報法の客体である情報の特異性(ユニークさ)」と掛け合わせてみると、いよいよ情報法の真髄に迫れるように思います。情報通信学会での講演テーマ「情報社会(情報法)の主体と客体」は、そのような意図で選んだものですが、果たして聴衆に通ずるでしょうか。この歳になっても、多くの聞き手の前で話をするのは、緊張するものです。

・有体物の法と情報法の差異

 有体物の法は、主体として自然人と法人を、客体として有体物のみを扱うもので、シンプルな構造になっています。これに対して情報法の主体として、センサー・ロボット・自動運転車やAI(Artificial Intelligence)などが加わることは、前回述べたとおりです。また、その客体には、情報がコンテナとしての有体物に入れられた(法律用語では「化体された」と言いますが、法律以外では使わない言葉なので、判決では「体現された」と言い換えています)場合と、「情報」という無体財のまま流通する場合があります。 

 この両者の関係を、主体が客体をどこまで支配できるかを示す「権利」という法概念で整理できるでしょうか? 有体物は通常1つしかないので(量産品であっても、製造番号なので識別できれば、それぞれ1つと数えます)、「その権利は誰かに独占的に帰属する」と考えることは現実的です。「占有」(民法180条) とか「所有」(同206条) という法概念は、実際に情報社会以前の社会を効率的に規律してきました。

 ところが、情報には「占有」や「所有」といった概念はなじみません。なぜなら、情報は広く世界に存在しているので、共有する方が楽で(この性質を経済学では「情報の公共財的性格」と呼びます)、逆に独占的権利を割り当てる方がコストがかかるからです。しかも、有体物なら売手から買手に物自体と権利が移転しますが、情報の場合は「複製」という行為によって売手にも買手にも同じ情報が残ります。加えて、その取引は不可逆で「売りたくなかった」と思っても、取り戻すことができません。従って、情報に対して例外的に権利が付与されるのは、「知的財産」か「秘密」に該当する場合だけです。

 情報についてはもっと面倒な事態も起こります。それは「情報」が有体物に体現されることなく、インターネット等を介して非有体物のまま流通する場合です。有体物に体現されていれば、その有体物に着目して法制度を考えることができます(いわば有体物アナロジーです)が、情報が「生のまま」流通する場合には、有体物法とは違った、真の意味の「情報法」を構想する必要が生ずるのです。

個人的見方としては、「個人データ」と「個人情報」、それに「プライバイー」という概念を巡る混乱は、ここに原点があると思っていますが、この点は既にこの連載の第9回で述べましたので、ここでは繰り返しません。代わりに、ここまでの「主体・客体・権利」に関する議論をまとめてみると、次表のようになります。

表 主体・客体概念を中心にした有体物の法と情報法の差異

比較項目

有体物の法

情報法

主体

自然人と法人

自然人と法人に加え、センサー・ロボット・自動運転車やAI(Artificial Intelligence)など

客体

有体物。知的財産(という情報)も有体物に体現(固定)された状態を想定

広義の情報(データ、狭義の情報、知識)。占有できないし、意味の不確定性がある

権利

主体が客体に対して有する排他権として整理可能(所有権が代表例)

情報には排他性がなく、複製で容易に増えるので、知的財産か秘密に分類される場合以外は、排他権が付与できない。また、主体と客体を峻別できないほか、両者の逆転現象も

(注)主体・客体・権利に関するもの以外にも差異はあるが、ここでは省略している。

・情報機器に関して生ずる法律問題を、有体物の客体論で裁けるか?

 それでは、情報を扱うハードウェア(有体物)から生ずる問題を、従来の法的仕組みである「有体物アナロジー」で裁くことができるか、またそれは妥当か、を検証していきましょう。分かり易い「客体」の方から始めると、情報がコンテナとしての有体物に入れられた場合と、「情報」という非有体物のまま流通する場合があることは前述のとおりです。前者の「体現された」場合の例として、サーバへの無断クローリングや、それによる情報の窃取を検討してみましょう。

 有体物の所有権が侵害された例として、自分の土地に他人が勝手に入ってきた場合を想定するのは、分かり易いと思います。この行為に対して、わが国の法では「不法侵入」として、民事的(所有権に基づく妨害排除請求権。民法709条など)にも刑事的(刑法180条の住居侵入罪など)にも、権利者の救済が認められています。アメリカは法体系を異にする国ですが、trespassという概念で救済されるところは同じです。

 そのアメリカでは、eBayという著名なオークション・サイトが、競争相手(まとめサイトあるいは比較サイト)が無断クローリングを行なった(サーバの機能を著しく低下させた訳ではない)ケースで暫定的差止命令を求めたのに対して、trespass to chattel(動産に対する不法侵入)という法理を適用して、これを認めています(同様の事例が他にもあります)。trespassそのものは不動産に対するものですが、そのアナロジーを動産に適用したものです(eBay v. Bidder’s Edge、カリフォルニア北部連邦地裁、2000年判決)。

 この判決に対しては、無断でアクセスしただけでサーバの機能ダウンなどの実害が生じていないのに、差止を認めるのはおかしいという批判があります。現にインテルで業務中に自動車事故に遭い、5年経っても治癒しないとして同社を解雇された元社員が、かつての同僚に元・現従業員用メール・システムを通じてメールを送った件では、一審・二審とも差止を認めましたが、カリフォルニア州最高裁は4対3の僅差ながら、trespass to chattelに当たらないとして下級審の判断を覆しています(Intel v. Hamidi、2013年判決)。しかし今日でも、この法理は有効なアナロジーだとする有力な論者がいます。

 更に進んでそのサーバにある情報を窃取した場合はどうでしょうか? アメリカではinformation theftという表現はポピュラーですし、日本では「なりすまし」に該当するケースもidentity theftと呼ぶのが普通です。しかし、それは俗語であって法律用語ではありません。法律的には、一般的な「情報窃盗罪」は成り立たず、個別に法律に規定がある場合に限って営業秘密の窃取などとして罰せられるか、その前段であるコンピュータへのアクセスが、Computer Fraud and Abuse Act = CFCA法(わが国の不正アクセス禁止法に相当)違反に問われるだけです。つまり、情報が有体の機器に収められている場合にもアナロジーには限界があり、情報そのものを保護するには、別途の立法や理論建てが必要なのです。  

 ましてや、情報が有体物に体現されることなく、情報そのものとして流通する場合には、実務的には多くの困難を伴います。例えば知的財産の一種として、所有権に近い保護が揃っている著作権法でも、次のようなケースが考えられます。わが国の著作権法では、「固定」(先の「体現」に対応するものと考えて良いでしょう)は要件とされていませんから、ライブ中継のストリーミング情報にも著作権が成立しますが、セキュリティを破った侵害に対する救済は容易なことではないでしょう。

・情報機器に関して生ずる法律問題を、有体物の主体論で裁けるか?

 次に、主体論における有体物アナロジーに移りましょう。ここでは、自然人に適用される原理を、法人に適用してきた経緯と経験が生かせるでしょう。法人は、かつては「擬制」に過ぎないと捉える見方もありましたが、資本主義の発展には不可欠な仕組み(つまり資本調達とリスク分散の格好の手段)として「実在」するものと見られるようになりました。今日では、法の主体として自然人とともに、あるいは分野によってはそれ以上に、重要なプレイヤーと理解されています。

 そこで具体的には、自然人と法人に適用される原理を、センサー・ロボット・自動運転車やAIといった情報機器に関して生ずる法律問題に、アナロジーとして適用できるか否かが問題になりますが、私はそれは可能だと信じています。その根拠は、これらの情報機器の方こそ、人間の脳や情報処理のあり方をシミュレートして作り上げられた人工物に他ならないからです。これを別の面から見れば、自然人・法人・情報機器の間には、何らかの共通項があるのではないか、という仮説を示唆しています。

 そして私が読む限り、このような発想に最も近い書物は、Luciano Floridiの “The Forth Revolution” ではないかと思われます。彼は「人(自然人) はInformational Organism = Inforg だ」と言っていますが、その理論を延長すれば「自然人・法人・情報機器はすべてInforg だ」と言えないかというのが、私の仮説です。もっともFloridiでさえ、未だ「法人はInforgだ」とは言っていないので、私の道はなお遠いのかもしれません。

 

林「情報法」(20)

情報社会(情報法)の主体

 『情報法のリーガル・マインド』を出版し、幸いにも大川出版賞をいただいたことも手伝って、あちこちの会合に招かれるようになりました。6月30日(土)には、慶応三田キャンパスで開催される、情報通信学会の「国際コミュニケーション・フォーラム」の基調講演を依頼され、「お題は自由」ということだったので、連載に合わせて「情報社会(情報法)の主体と客体」とさせていただきました。講演では広く情報社会の特徴を述べる予定ですが、本連載ではやや狭く「情報法の主体」に絞って議論しましょう。

・ロボットや自動運転車も主体に

  この連載は、情報法の対象(客体)である「情報」には、「物(有体物)」にはない性質があり、それが「情報法」という独立の領域を形成する根拠になる、という認識からスタートしました。それは物事を簡素化する作戦として効果的でしたが、法学では「主体と客体」が一対として用いられることからも分かる通り、両者は連動しています。つまり、もう1つの重要な要素である「主体」の側にも、情報法に特有な性格があるのです。

 法学者が「主体」と言えば、存命中の人(自然人)と法人を示すのが普通で、有体物が中心の世界では、その両者以外に「主体」を観念することができません。自然人のうち未成年者や成年被後見人などは、自ら行使できる権利が制限されることがありますが、誰でも基本的人権の享受を妨げられることはありません。

 法人は法の定めに従って設立され登記されなければ、権利の主体になり得ないため、現実に存在していても法的な資格がない、いわゆる「権利能力無き社団」という鵺(ぬえ)的な存在が残ります。例えば、あなたが「釣り仲間の会」を作り規約通り運営していても、NPO法人などとして登記していない限り契約の当事者にはなり得ないので、その会が銀行から借り入れをしようとすれば、あなた個人が借りるしかありません。

 ところが「情報法」においては、自然人と法人に加え、センサー・ロボット・自動運転車やAI(Artificial Intelligence)など、幅広い主体が登場する可能性があります。もちろん自然人と法人だけが「主体」であり、それらはすべて「客体」でしかないと割り切ることもできなくはありません。しかし科学者が「シンギュラリティ」(AIの知的能力が人間を上回る特異点)と呼ぶ事象が起これば、人間よりも判断能力に優れたAI が登場することになる訳ですから、その「法的主体性」を否定しているだけでは済まないでしょう。

・自動運転車の場合

 具体例として、自動運転車が事故を起こした場合を考えてみましょう。「自動運転」と一言で言っても0~5までレベルがあり、レベル0は自動運転に関する装備が全くない通常の乗用車、レベル5になると乗用車がシステムによって自律的に走行するものという、アメリカのSAEインターナショナルが定めた「SAE J3016」が使われています(次表参照)。

表 自動運転車の自動化レベル

レベル

自動化の機能

具体的内容

レベル0

運転自動化なし

自動運転の機能がついていない乗用車(一般的な車)

レベル1

運転支援

ハンドル操作や加速・減速などの運転のいずれかを車が支援

レベル2

部分運転自動化

ハンドル操作と加速・減速などの複数の運転を車が支援。ACC(アダプティブ・クルーズ・コントロール)が進化したものだが、ドライバーは周囲の状況を確認する必要

レベル3

条件付き自動運転

このレベル以上が、本格的な自動運転になる。レベル3は、周りの状況を確認しながら運転をしてくれるが、緊急時はドライバーの判断が必要

レベル4

高度自動運転

レベル4になると、ドライバーが乗らなくてもOK。ただし、交通量が少ない、天候や視界がよいなど運転しやすい環境が整っているという条件が必要

レベル5

完全自動運転

どのような条件下でも、自律的に自動走行してくれる

 上記の分類で、レベル0からレベル2までは従来の交通事故の対応と変わりません。運転の主体は自然人ですから、運転者に注意義務違反があれば、過失責任を問われます(被害者にも過失があれば、過失相殺されます)。希に自動車の構造に欠陥があれば、自動車メーカーが製造物責任を負うことになるでしょう。

 しかし、レベル3以上では様相を異にします。運転している自然人がいる場合でも、彼(または彼女)は監視しているだけで、真の運転者は「自動運転ソフト」というソフトウェアです。ましてや運転席に誰も座っていない「完全自動運転」の場合には、法的責任を負う「主体」は、まぎれもなく「自然人以外」ということになるでしょう。

・ソフトウェア自体は製造物ではない

 それでは「自動運転ソフト」に責任を負わせることができるでしょうか? 現在の「製造物責任法」(Product Liability=PL法)では、「製造物」とは「製造又は加工された動産をいう」(2条1項)と定義されています。ここで「動産」とは有体物のことで、データやプログラムといった「無形物」は「製造物」とはみなされない、という理解が一般的です。受託開発したシステムの不具合でユーザー企業が被害を被っても、PL法の対象外となり、コンピュータにプリインストールされたOSやアプリケーション・ソフトも、PL法の対象とはならない。ただし組み込みソフトについては、機器に組み込まれた「部品」ととみなされるためPL法の対象となる、と理解されています。

 自動運転車の場合、この点の解釈が結論に直結するので、十分な検討を加える必要があります。まず、ソフトウェアにはバグが付き物ですから、製造物の品質保証のレベルに達していないし、近い将来にそのレベルに追い付く保証もありません。この面を強調すれば、ソフトを製造物責任の対象に加えることは、「不可能を求める」結果となって、産業の発展を阻害するおそれがあります。しかし他方で、完全自動運転車が事故を起こしても、誰も責任を負わなくてよい、という結論は常識的ではありません。

 ここで確認しておきたいことは、① 誰が運転するのであれ、事故をゼロにすることはできないこと、② 自動運転と人間の運転を比較すれば、前者の方が優位(たぶん桁違い)に安全であり、その差は今後拡大していくと見込まれること、の2点です。この2点の合意があれば、英知を絞って「事故の責任分配のあり方」として冷静な議論が可能ではないか、と私は考えますが、読者の皆さんはいかがでしょうか?

[ちょっと道草]

 この連載が掲載されているサイトは、矢野さんが主宰する「サイバー灯台」の「プロジェクト」の欄です。本日現在、名和小太郎さん・小林龍生さん・森治郎さんと私が執筆者として登録されています。そのうち矢野さん・小林さんと私が名和さん宅を訪問して歓談するという珍しい機会がありました。その時の話題を、小林さんが紹介してくれています(同氏の連載第6回「シャノンとウィーナー」から)が、そこでは今回のテーマに関して、次のような「緩やかな合意」に至っています。

(林コメント:本連載の号外「大川出版賞を受賞して」から)
 私が通信ビジネスに長く携わっていたので、シャノンとウィーナーは大先輩でもあるから、という理由だけではありません。一旦「意味」を捨象して「構文」に特化したことから情報科学が飛躍的な発展を遂げたのはシャノンのおかげですが、AI まで含めた新しい「法主体」(ある研究会では Legal Being と呼んでいます)を考えるには、ウィーナーのように「意味」を再度取り込む必要があるからです。
(小林さんのコメント)
 一旦「意味」を捨象して「構文」に特化した情報科学は、今こそ再度「意味」を取り込む必要がある、ということ。この必要性は、何も法学に限ったことではない。情報に関わる全ての分野において、そして情報に関わるすべての人が、真摯に考えなければならない問題なのだ。矢野さんがサイバーリテラシーを提唱する根幹の理由もここにある。

 連載が進むにつれて、執筆者間の交流が、もっと増えるかもしれません。

林「情報法」(19)

情報法的責任論のまとめ(2): 差止対自由な流通、加害者対被害者

 法律は複雑な利害関係の調整のためにあるので、「あちら立てれば、こちら立たず」というトレード・オフが頻繁に生じます。これは有体物の世界にもあることですが、非占有性・意味の不確定性・流通の不可逆性という特徴のある情報法(特に情報セキュリティ分野)では、決定的な意味を持つ場合があります。ここでは、差止と自由な流通のバランス、加害者の責任対被害者の防御義務という2つのケースを取り上げます。解決策は一筋縄ではいきませんが、民事法分野での「コミットメント責任」がヒントになりそうです。

 ・差止の現状維持機能と作為命令の妥当性

 前回は差止の必要性を強調しましたが、差止命令の一環として、裁判所が情報を削除する命令を安易に出すことには、十分な警戒も必要です。なぜなら、情報は私たちの社会生活に欠かせないものであり、個人の「言論の自由」にもつながるものですから、「情報の自由な流通」が大原則であり、その流れをせき止めるには「自由な流通」を上回る法的な利益が無ければならないからです。

 差止命令の根拠は法律に規定するのが原則と思われますが、児童ポルノの情報が拡散するのを防ぐため、DNS(Domain Name Server)ブロッキングという手法が「緊急避難」(刑法37条)を根拠にして以来、それに類する主張をする向きがあるのは要注意です。ごく最近では、漫画村など著作権侵害の作品を大量に掲載するサイトに対して、総務省がISPに対して自主的な削除を要請し、通信ビジネス最大手のNTTがこれに応ずることとしたため、賛否両論が戦わされています。本来、行政指導などで対応するのではなく、法制化を急ぐべきでしょうが、バランスの良い法律を作るのも簡単とは言えないようです。

 同じことは、Google やヤフーなど主要な検索事業者に対して、多くの「削除請求」(その実態は検索結果の非表示請求)がなされていることにも言えます。特にEUが「忘れられる権利」(the right to be forgotten)という言葉をGDPR(General Data Protection Regulation)の中に残した(反対意見があって条文そのものはthe right to eraseに代わったが、見出しとしては残っている)こともあって、2つの重要な誤解が生じています。1つは、これがあたかも「人格権にもとづく請求権」であるかの如く論じられていること。2つは、それが「作為命令」であると考えられていることですが、両者に共通なのは、これが差止という範疇に入るとの意識の欠如です。

 第1の誤解については、前述のとおり「情報の自由な流通」が原則であり、差止は例外なのですから、その根拠を明確にすべきでしょう。第2に関して、英米法には「作為命令としての差止」がありますが、わが国では差止は原則として「不作為命令」として運用されています。つまり、差止の基本的機能は「現状維持」(status quo)なのです。

 これらの諸点を含めて、いよいよ「救済手段としての差止のあり方」を抜本的に考える時期に来たようで、ここに「情報法」としての新しい芽吹きが感じられます。

 ・加害者の注意義務と被害者の防御(受忍)義務

  もう1つ注意を要するのは、有体物が中心の世界でも「加害者の過失」だけでなく「被害者の過失」を併せて考慮し、場合によっては両者を「過失相殺」することがあります(自動車事故などが典型例です)が、情報法においては両者を比較衡量することが常態化することです。なぜなら、情報には「価値の不確定性」という性質がありますから、誰に注意義務があるかも「時と場所と態様」によって幅広くならざるを得ず、「加害者の注意義務」と「被害者の防御義務」の両方を含む場合が多いからです(その極端な例は、サイバー・セキュリティ攻撃者と、防御者の間に生じます)。

 被害者に義務があるとは厳し過ぎるようにも見えますが、営業秘密の3要件として、① 有用性、② 非公知性に加えて、③ 秘密管理性が求められること(不正競争防止法2条6項)や、不正アクセス禁止法の「不正アクセス」に該当するには、防御側で「アクセス制御」がなされていなければならない点(不正アクセス禁止法2条3項、4項)等に、具体的に示されています。

 また個人情報保護法においては、個人情報取扱事業者に「安全管理措置」を取る義務(個人情報保護法20条)があるので、漏えい・窃用などがあれば、同事業者が違法行為者に対しては被害者であると同時に、当該個人情報が帰属する自然人に対しては加害者になります。以上の3つの秘密のほか、特定秘密の保護の場合も同様で、総じて「秘密」を保護する場合は、「自ら保護する手段を講じていなければ国家が保護してくれない」という見方は常識的とも言えます。

 実は、有体物の世界では「被害者の受忍限度」という似たような概念がありますが、それは上述した「能動的義務」に対して、あくまでも受動的な義務です。典型的な公害などのケースでは、「平均的な合理的自然人(average reasonable person = ARP)」を基準に、加害と受忍のバランスを考慮しているように思えます。しかしセクハラやパワハラなど、加害行為を有体物に還元しにくいケースでは、時代が進むにつれて被害者の「受忍重視」から「救済重視」へと移行しつつあるように見えます。ここ数か月で起きたセクハラ事案では、こうした時代の変化を知る世代と、それ以前の世代の感受性の差を垣間見る思いがします。

 情報法として、このバランス論を一挙に解決する名案はありませんが、これまでに議論してきた点を表にまとめれば、次のようになると思われます。

表。違法・不法行為と被害者の防御(受忍)義務

侵害の度合い

被害者の防御(受忍)義務なし

コンプライアンス・プログラムの機能

被害者の防御義務あり

可罰的違法(刑事)

いかなる場合も自力救済は許されず、被害者の行為態様は量刑で参酌されるのみ。逆に、加害者が正当防衛の場合は違法性が阻却されるが、過剰防衛は許されない

コンプライアンス・プログラムを遵守していれば、可罰的違法性が免責・軽減される場合がある

営業秘密は「秘密管理性」が欠けると保護されない(不正競争防止法)。コンピュータ・システムは適切なアクセス制御を施していないと保護されない(不正アクセス禁止法)など、無体財に関して

被害者に防御義務がある場合がある

違法(民事)

原則として賠償責任が生じ、その一部に差止が認められる

コンプライアンス・プログラムを遵守していれば、免責・軽減される場合がある

該当なし

不法(民事)

一般的に受忍義務があり、それを上回る(社会的に容認されない)

行為に損害賠償責任が

発生。差止は例外的

過失相殺の参考として、コンプライアンス・プログラムの遵守状況が反映される場合がある

個人データの関しては

個人情報取扱事業者に安全管理義務があり、被害者というよりも加害者になる

・ソフト・ローの規範力と民事法分野のコミットメント責任

 この表を見ながら、改めて私たちが主張している「コミットメント責任」の意義について考えていただきたいと思います。この連載の第14回で、セキュリティ分野のソフト・ローの代表格であるISMSを紹介し、第15回ではソフト・ローを守っていることを第三者に認証してもらうことが「責任を軽減する方向に働くべきか、その逆か」というケース・スタディを行ない、最後に私たちが提案する「コミットメント責任」という仮説を提起しました。

 この仮説は今後も検証していただく必要がありますが、今回述べたことで、その真意をある程度理解していただけたのではないかと、淡い期待を抱いています。

林「情報法」(18)

情報法的責任論のまとめ(1):責任とともに救済を

 前2回における責任論の記述は、原則として伝統的な「民事と刑事の峻別」を前提にしていましたが、どうやら情報法の分野では、その発想自体も見直す必要がありそうです。以下2回にわたって、その点に焦点を合わせて、「品質表示の偽装」から始まった議論をまとめます。今回は、情報財の特質から見て、救済の実を上げる必要性について。

・情報財の特徴を生かした救済

 まず、情報財には ① 非占有性・非移転性、② 意味の不確定性、③ 流通の不可逆性、という3大特徴があることを前提にしましょう。ここでは細部を省略しますが、これらの特徴に関しては、拙著の随所で触れています。

 ① の特性から、有体物の財産的扱いをそのまま延長できない(情報窃盗を観念することができないのが典型例)という教訓が導かれます。② の不確定性から、「個人データを定義し保護することはできるが、個人情報プライバシーそのものを事前に定義することはできず、事後救済にならざるを得ない」という知見が得られます(現行の個人情報保護法に関する過剰反応の問題は、この点を十分考慮して「個人データ保護法」として制定していれば、かなりな程度に軽減できたはずですが、この点に深入りする紙幅がありません、ぜひ拙著を参照してください)。また ③ の流通の不可逆性から、「損害賠償という事後救済では不十分で、差止や削除請求権が求められる」という立法論が生じます。

 ところが、従来の有体物中心の法体系では、これらの諸点は無視ないし軽視されてきました。しかし情報財では ①~③ の特性から、以下のような問題が生じています

 a) 侵害があったか否かを判定するには、「情報をどう取り扱うべきか」という手順に沿っていたかどうかで判断されるので、手続きが重視され
 b) そうした手続きは法定されることは希で、ソフト・ローに依存することが多い
 c) 「故意あるいは一方当事者の全面的過失」は裁きやすいが、a) b) のようなケースが多ければ双方過失が多くなる
 d) 責任の所在や範囲を定めるには、事前の意思表示を定型化することが望ましい
 e) 責任の存否や所在を突き詰めるよりも、公正妥当と思われる救済措置の早期実施が求められる場合がある

 純理論として考えれば、①~③の特質と、a)~e) の問題がどのように関連しているのかは興味深いテーマですが、ここでは ① と ② は解釈論でもある程度解決できるが、③ だけは立法に拠るのが妥当と思われることを確認して、以下はその点に焦点を絞りましょう。

・民事と刑事のグレイゾーン

 次の議論に進む前提として、刑事裁判と民事裁判との違いを理解することから始めましょう。両者の違いの主なものを表示すると、次のようになります。

項目

刑事裁判

民事裁判

グレイゾーン

目的

国家が一定の非違行為に対し刑罰をもって抑止する

私人間の紛争を国家が第三者として解決する

行政目的を達成するための規律違反(わが国には行政専門の裁判所はない)

憲法の人権保障との関係

刑事罰を科すため、人権保障の多くの規定が関連(憲法32条から40条)

「(公開)裁判を受ける権利」など基本的な原理が適用される(憲法32条、(82条))

特許や営業秘密の裁判では、非公開が求められる場合がある

当事者と裁判所

検察官対被告人という当事者主義、専門の裁判官による裁判のほか一部裁判員裁判も

原告対被告という当事者主義、専門の裁判官による裁判

刑事では被害者が「蚊帳の外」に置かれるのを防ぐため、被害者参加や意見陳述が制度化された

証明手続

無罪の推定、任意性に疑いがある自白・伝聞証拠・違法収集証拠等の排除、「合理的な疑い」を超える証明力を前提にした自由心証主義

証拠能力・証拠力とも刑事ほど厳密ではなく、「高度の蓋然性」のある証拠を前提にした自由心証主義

交通事故の場合などは例外的に、刑事裁判で和解調書に執行力を付与したり、損害賠償が命じられる場合がある

主たる救済手段

行為者(被告人)への刑事罰

損害賠償、一部差止

刑事罰である罰金と行政罰である課徴金。差止の一般法がない

和解の可否

不可

和解は常態

司法取引が導入されたが限定的

 しかし実行上は、表に「グレイゾーン」として掲げたような「融合領域」が生まれています。最も分かり易い例は、交通事故の被害者が損害賠償を請求するために、別個の民事訴訟を提起し、検察が持っている証拠の開示を改めて求めるのは負担が大きいとして、刑事裁判に「被害者損害賠償請求制度」(犯罪被害者保護法23条から28条)を設け、刑事と民事を一括した解決を可能にしたことが挙げられます。ただし、判決に異議があれば民事裁判に戻ります。

 また独占禁止法などの行政規制の分野では、刑事罰である罰金の他に課徴金という制度があり、その目的は違法行為の抑止という点で共通ですが、手段としては刑事罰的要素と民事賠償的側面が混ざり合っているように見えます。特に、違反行為を自己申告すれば当該事業者の違反行為に対する課徴金が、その申告した時期・順位に応じて免除(100%減額)または減額(30%もしくは50%の範囲)されるリニエンシー(leniency)という制度が注目されます。独禁法の場合、第一申告者は刑事罰も免れる運用がなされているので、実質的には「司法取引」の側面も持っています。

 また英米では、有罪を認める代わりに訴追を軽減してもらうplea bargainingとか、民事事件であっても懲罰的賠償制度や、裁判所の決定に反した場合には「法廷侮辱罪」という刑事罰が科せられる場合があります。前者については、日本人の感覚では「法廷は真実を発見する場」であり、取引というビジネスで使われる用語には、違和感があるかもしれません。しかし2018年6月からは、わが国でも限定的(経済犯や銃器・薬物犯罪の共犯者に限り、被疑者・被告人と弁護人のすべてが合意し、検察官を加えて合意文書を作成した場合のみ)に導入されるようになりました。前述のリニエンシーも、2006年の導入当初は「仲間を裏切るようなもので日本的風土になじまないのでは」と言われていましたが、10年余を経て定着してきたようです。

・手続法である救済制度の見直し

 伝統的な法学では実体法と手続法を区分し、学者は主として実体法を中心に論じてきました。刑事法の分野では、刑法(実体法)と刑事訴訟法(手続法)では前者の議論の方が相対的に多く、更に手続法の細部である「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」(2005年法律第50号)となると、実務家以外に関心を持つ人はごくわずかです。しかし刑事法には、「疑わしきは被告人に有利に(法の謙抑性)」や「法の適正手続(due process of law)」の原則が徹底しているので、手続法軽視に傾く危険は少ないと思われます。

 他方、民事法の分野はどうでしょうか? 民法の不法行為は多くの論者が議論しますが、損害の救済方法に関する議論は相対的に少なめです。特に、損害賠償が主たる手段とされ、差止は特別法に根拠規定がある場合(例えば著作権法112条)や、名誉毀損など人格権侵害の場合に例外的に認められるだけで、民法に一般的規定が置かれていません。

 ところが「流通の不可逆性」を有する情報に関して、違法または不法な内容の情報や、違法または不法な方法で情報が流通する場合、その法的救済が必要だとすれば、事後的な損害賠償ではなく差止を認めなければ、実効性を担保することができません。しかし、差止の論点を深掘りした議論としては、根本尚徳 [2011] 『差止請求権の理論』有斐閣、がほぼ唯一かと思われます。

 それには十分な歴史的事情もあります。近代法の発展に大きな影響を与えた英国では、国王が管轄するコモン・ロー裁判所が中世以降に確立していきましたが、そこでは裁ききれない例外的なケースについて、大法官(Lord Chancellor)に直訴するという道も開かれました。そして後者が発展してエクィティという法制度とエクィティ裁判所が成立するに至ったのです。そして損害賠償はコモン・ロー裁判所での救済手段であり、差止はエクィティ裁判所でのものとして、役割分担がなされていきました。従って差止は、通常の救済手段である損害賠償の例外であり、その判断は裁判官の裁量に大きく依存することになったのです。

 しかし、情報を守るという観点から新しい動きも見られます。営業秘密という有体物には固定しにくい情報に関して、従来は社内での共有を守るだけでした。しかし、サプライ・チェーンが国境を越えるほど長くなり、グループ経営が一般化した中では、企業をまたがる営業秘密の共有にも配慮せざるを得ません。そこで現在国会で審議中の不正競争防止法の改正案では、ID・パスワード等により管理しつつ相手方を限定して提供するデータを不正に取得、使用又は提供する行為を、新たに不正競争行為に位置づけ、これに対する差止請求権や損害賠償の特則等の民事上の救済措置を設けることとしています。

 

林「情報法」(17)

Inforg である法人の刑事責任と免責

 前回に続いて「法人の刑事責任」を取り上げますが、今回はその理論づけを含めて、主として英米法的な視点から論じます。この分野はわが国の学界でも議論が深まり、川崎友己『企業の刑事責任』(2004年、成文堂)や、樋口亮介『法人処罰と刑法理論』(2009年、東京大学出版会)といった良書が現れたので、それらに依拠して最近の動きを紹介します。

 ・代位責任説と同一視説

 「なぜ法人が刑事責任を負うのか?」という基本的疑問に対して、「代位責任説」と「同一視説」という2つの違った見方がありました。前者は、民法の「監督責任」と同じ発想で、本来自然人のみが違法行為の主体であり、法人は当該個人を適切に選任し監督する義務を怠ったとして、「代位責任」のみを負うものと捉えます。一方後者は、法人そのものが違法行為の主体になり得る(「法人の犯罪」という概念を想定し得る)と捉えますので、結果として「自然人と法人を同一視する」立場になります。

 法人の犯罪理論の長い歴史を突き詰めると、この両説の対立だったといえますが、これは理論を純化して敢えて対照的に描いたもので、この両者の中間的な立場が多いと思われます。例えば、行為は自律的な意思決定に基づくものでなければならないとして、法人の犯罪能力を原則として否定しつつも、一定の犯罪については法人を同時に処罰すべきとする政策論。あるいは、法人の受刑能力の視点から「法人は自由刑を受けることができない」ことを所与としつつ、罰金刑を高額にすることで抑止効果の実効性に期待するものなどがあります。

 一般的な傾向として見れば、当初は自然人のアナロジーに過ぎなかった法人の存在感が高まるにつれて、民事法における法人は確固たる地位を占めるようになり、刑事分野においても個人には還元できない「法人固有の犯罪」があり得るとの考えが、次第に強くなりました。

 そのきっかけは意外に早く、憲法学者として有名な美濃部達吉の『経済刑法の基礎理論』(有斐閣、1944年)における「監督過失の推定理論」でした。彼は一般の刑事犯の場合には、道徳的な意思決定ができることが要件で法人にはその能力がないが、行政犯は「(手続)義務違反」の要素が強い罰則だから、法人も対象になるとしました、そして両罰規定がある場合、監督過失は推定されるものとし、個人の責任が法人に容易に転嫁される解釈を導きました(樋口 [2009])。

 美濃部の理論は、解釈論を巧みに利用することで法人の責任範囲を拡大したものでしたが、戦後、法人処罰の発想は藤木英雄による『法人に刑事責任がありうるか』(『季刊現代経済』1974年)などの一連の著作によって、より明示的に提案されました。これは「監督責任」を介するまでもなく、法人の責任を直接的に追及する立場ですが、「同一視」の範囲は過失犯に限られ、故意犯(名誉毀損罪など)についての議論は未成熟でした。

・組織モデルからInforg 論へ

 しかし、板倉宏『企業犯罪の理論と現実』(1975年、有斐閣)が、「個人には可罰性がないとされる非違行為であっても、企業体の組織活動全体を見て処罰される場合があり得る」という「組織モデル」を提唱して以来、このモデルを認める学説が優勢になってきました。つまり、法人の行為を個人の行為と同列に論じ、故意・過失を問わず法人の刑事責任を問うことに、さほどの違和感がなくなってきたのです。前回紹介した「環境(犯)罪法」は、なお代位責任説に基づく両罰規制に留まっていますが、立法趣旨として法人自身による公害の防止が緊急の課題であることは、誰の目にも明らかでした。

 その後の展開を見ると、1980年代半ばのインターネットの商用化と1989年の東西冷戦の終結以降は、アメリカ企業の急成長が顕著で、一時「独り勝ち」の状態になりました。そして、新技術を駆使した法人の活動がより広範囲になり、グローバル企業が登場するにつれて競争も激化したので、レント(超過利潤)を求める企業の行動は法の網目をくぐるように精緻になり、不正経理が続出しました

 例えば、SOX法(Sarbanes-Oxley Act」。正式名称はPublic Company Accounting Reform and Investor Protection Act of 2002)を生むことになったエンロン事件は、単なる不正経理というよりも、電力供給事業という「お堅い」事業を、デリバティブの全面的な活用により「融通無碍」な金融事業に変えてしまった点に、問題の根幹があったと思われます。つまり、グローバル企業が後刻「強欲資本主義」(Greed Capitalism)と批判されるようになる動機と、何でも商品化することができるインターネットという「汎用技術」が結びついた結果、従来とは規模が格段に違った「企業犯罪」が可能になった、と捉えるべきでしょう。

 こうして今日では、「法人の犯罪行為」は自然人よる犯罪に擬制したものというよりも、法人の特性に合致した「実体を伴ったもの」と考えるのが一般的になったようです。この点について私は、フロリディが「人間は情報処理有機体(Informational Organism = Inforg)である」と説いているのを、自然人と法人の両方に適用可能なように拡張して、「個人も法人も Inforgである」と見ることによって、統一的な理解が可能ではないかと考えています。

 この考えは、Luciano Floridi [2014] “The Fourth Revolution”, Oxford University Press(春木良且・犬束敦史(監訳)先端社会科学技術研究所(訳)[2017]『第四の革命』新曜社、という邦訳があります)から借りたもので、拙著を構成する基本概念の1つです。

 ・コンプライアンス・プログラム遵守による免責

 法人も自然人と同様に犯罪の主体になり得るとの発想は、思弁的な大陸法よりもプラグマティックな英米法に、より適合したものです。しかも情報技術やファイナンス理論を使ったビジネスは英米両国の得意分野でもあり、この分野の犯罪が多発しているばかりか、銃社会の米国では、自然人による犯罪も頻度が高く、市民の不安を呼んでいました。

 このような流れに沿って米国では、「医療モデル」と呼ばれる教育刑主義から、「正義モデル」という名の応報主義に転換しました。包括犯罪規制法(Comprehensive Crime Control Act of 1984)がそれで、同じ年に制定された量刑改正法(Sentencing Reform Act of 1984)と相俟って、① 「適正な応報」思想の下で制裁の質と量を再検討し、② 量刑において裁判官の裁量を制限して透明性を高めるため「連邦量刑ガイドライン」を制定してポイント制により量刑を決定する、などの改正がなされました。なお連邦国家であるアメリカでは、刑法は州の権限の部分が多く、これが適用されるのは連邦が定める犯罪のみです。

 このガイドラインは当初自然人の犯罪に対処するものでしたが、1991年には「組織体に対する連邦量刑ガイドライン」が制定されました。そこでは「有効なコンプライアンス・倫理プログラム」を実施している企業については、量刑を軽減する規定を設けるとともに、このようなプログラムを構築していない企業には、罰金刑を宣告する前に猶予期間を与え、同プログラムを作成・実施することを前提に保護観察(probation)とすることができる、としていることが目を引きます。

 これは、「同一視説」「組織体説」のいずれに拠るのであれ、法人処罰の実効性が「企業の代表者や従業者などの個人とは切り離された企業自身のシステム面での注意義務を具体的に提示できるかどうかにかかっている」(川崎 [2004])と考えれば、納得がいくものと思われます。私のように、更に進んで「Inforg説」を採る者からすれば、「社内における情報処理過程を見える化して、どの段階でどのような注意義務が期待されているか」を定めて、リスクをその範囲内に留める努力をしていることを証明して初めて、免責されると考えるべきだと思います。

 刑事と民事は違った側面はありますが、第15回で紹介した「責任は加重されるのか、軽減されるのか、それとも影響がないのか」というケース・スタディは、このコンプライアンス・プログラムのことを念頭に置いたものでした。また同じく民事ですが、コーポレート・ガバナンス・コードで定められている「comply or explain」の原則も、コードの規定をデフォルト・ルールとしつつ、当該企業の事情が許さない場合には、「その理由を説明せよ」と求めているものと考えられます。

 このように英米の方式は、企業に対して強い姿勢で臨む一方で、企業には自治が必要であり、特にリスク管理に関しては「経営判断の原則」を尊重すべきことから、自主的に作成・運用するコンプライアンス・プログラムを免責条項としている点が特徴です。川崎は、この方式はわが国にも有効であるとしていますが、樋口はなお若干の留保が必要と考えているかに見えます。また、いずれの態度を採るにしても、業務が全面的にシステムに依存している以上、その基礎となるソフトウェアにはバグが避けられませんが、その責任問題は世界中どこでも未解決のままであることも、頭の片隅に覚えておかねばならないでしょう。

 

林「情報法」(16)

責任論に戻って:損害賠償(民事責任)と刑事罰

 本題に戻ります。第11回から第15回までは品質表示の偽装を巡って、情報法的に見てなぜそれが大切なのか、責任(民事責任)は誰が負うべきか、ISMSなどの認証と手続きを守っていれば責任は軽減されるのか、といった論点を議論してきました。そこでこの流れの最後に、民事責任(≒損害賠償責任)ではなく、刑事責任はどうなるのか、コンプライアンス・プログラムの遵守が免責事由になるのか、といって点を2回に分けて議論しましょう。

・法人の民事責任は「監督責任」だが、一次的な訴訟当事者でもある

  まず確認しておきたいことは、伝統的な法学(特に大陸法系)においては、法律的な効果が生ずる行為(法律行為)の主体は、原則として自然人であり、法人にはその「監督責任」という形で責任が生ずる、という2段階構成になることです。

 この点を、わが国の民法において見れば、違法行為の主体は自然人であり(民法709条)、その自然人を使用して事業を執行する者は「監督責任」を負いますが(同715条第1項)、「使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったとき」は免責されます(同項但し書き)。従って、ISMSを守っていれば責任が軽減されるか否かは、「監督責任」に係る議論だったのです。

 もっとも実際の訴訟においては、被害者は行為者を訴えることも、その者が雇われている会社を訴えることもできますが、法人の方が金持ちなので、法人を相手に訴訟を起こすのが普通です(法人が賠償額を支払えば、行為者に対する求償権が生じます。民法715条3項)。その結果、民事法の分野では、責任の主体が誰であるかの論議は、さほど厳格に考えられていません。

・刑事責任はより厳格で「両罰」が一般的

 一方、公害や品質表示の偽装などは、いわゆる「会社ぐるみ」で行なわれるので、庶民感情としては「会社が加害者」です。「会社自身の非違行為」に対しては、被害者が裁判を起こさねばならず時間と費用がかかる民事事案としてではなく、刑事事件として処理して欲しい、という見方が強いと思われます。現に相次ぐ公害事件を経て、「公害(犯)罪法」(正式の名称は「人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律」1970年法律第142号)が制定されましたが、そこでは以下のように規定されており、行為主体が自然人であるという原則は貫かれています。

(故意犯)
第2条 工場又は事業場における事業活動に伴つて人の健康を害する物質(カッコ内略)を排出し、公衆の生命又は身体に危険を生じさせた者は、3年以下の懲役又は300 万円以下の罰金に処する。
2 前項の罪を犯し、よつて人を死傷させた者は、7年以下の懲役又は500万円以下の罰金に処する。

(過失犯)
第3条 業務上必要な注意を怠り、工場又は事業場における事業活動に伴つて人の健康を害する物質を排出し、公衆の生命又は身体に危険を生じさせた者は、2年以下の懲役若しくは禁錮こ又は200万円以下の罰金に処する。
2 前項の罪を犯し、よつて人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮こ又は300万円以下の罰金に処する。

(両罰)
第4条 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関して前2条の罪を犯したときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対して各本条の罰金刑を科する。

 このように、刑を科されるべき者は実際に生きている人間、いわゆる自然人であることを前提としつつも、違反行為によって実際に利益を得るのは法人ですから、法人自身を別に処罰する旨の規定(「両罰規定」と呼んでいます)を置くことがあり、行政刑法と呼ばれる行政規則違反行為の面では多くなっています。

 両罰規定の中には、公害罪法4条のような規定の後に、「ただし、法人又は人の代理人、使用人その他の従業者の当該違反行為を防止するため、当該業務に対し相当の注意及び監督が尽くされたことの証明があったときは、その法人又は人については、この限りでない。」という但し書きのあるものがあります。立法技術的には、現在はこの但し書きは付けないことになっているので、判例に従えば、但し書きがなくても同様に解釈されることになります。

・法人処罰に関する考え方

 このように「法人の犯罪行為」を直接認めず、自然人の犯罪行為が認められることを前提に「両罰的」に認めることには、違和感を覚える読者もおられるかもしれません。しかし、それには以下のような理由があると考えられます。

 ① 法概念に厳格な大陸法系、特にドイツ法においては、法人実在説と法人擬制説が激しく争った歴史があり、法人実在説が通説となったとは言い難い状況にある。
 ② どちらの説に拠ったとしても、法人自身に「意思」があるとは言い切れず、会社にあっても取締役やその集合体である取締役会などが、実際の意思決定を行なっている。
 ③ 法人に刑罰を科すとしても、懲役や禁錮などの自由刑はあり得ず、罰金刑しか考えられない。
 ④ 私人間の紛争を法的に処理する民事法と、国家権力によって個人や社会全体の利益を保護する刑事法は、目的が異なることから、裁判も全く違った仕組みを取っている(「民事と刑事の峻別」という)。
 ⑤ 民事法と違って刑事法は刑罰という不利益を強制的に科す以上、法の適用にはより慎重であらねばならない(「法の謙抑性」と呼ぶ)。

 しかし実際には、法人の社会的存在意義が大きくなるに連れて、法人に対して刑事罰を科すための要件を緩和したり、罰金類似のサンクションを科すことが、特にプラグマティックな英米法を中心に顕著で、以下のような例があります。

  a) 法人内の意思決定や指揮命令過程は外からは分からないので、結果の発生を以って因果関係の証明があったものとするなど、要件を緩和している(先の公害罪法5条も、「工場又は事業場における事業活動に伴い、当該排出のみによつても公衆の生命又は身体に危険が生じうる程度に人の健康を害する物質を排出した者がある場合において、その排出によりそのような危険が生じうる地域内に同種の物質による公衆の生命又は身体の危険が生じているときは、その危険は、その者の排出した物質によつて生じたものと推定する。」との推定規定を置いている)。

 b) 独立行政委員会(わが国の公正取引委員会のモデルとされるアメリカのFTC = Federal Trade Commission など)が規則等に違反する行為を行なった企業等に課す課徴金は、刑事罰ではないとされるが、実効的には罰金と変わらない機能を果たしている。

 c) しかも、違反行為の発覚前に自主的に申告した企業には、刑事・民事の免責を予め制度に組み込むなどして、刑事罰の適用よりも実効性を上げる工夫をしている(なお、この減免制度 = leniency は、わが国の独禁法にも導入され、談合の自主申告などで効果を発揮している)。

 d) 同一の事案が民事でも刑事でも裁判になった場合に、両者で証拠を共有することが認められている(わが国でも交通事故の裁判などで、この点が認められるようになっている)。

 しかし、アメリカでは更に進んで、法人の刑事責任を厳しく追求する仕組みが検討されています。この点は、次回まとめて紹介しましょう。