林「情報法」(6) 

「使用と利用」「フェア・ユース」「権利を専有する」という3つのキーワード

 情報ネットワーク法学会の討論(11月12日)が近づきましたので、いよいよ情報財を律する法的な基本概念を探るため、「使用と利用の区分」「フェア・ユースの意味」「権利を専有する」の3点を検討してみましょう。

・「自分で使用する」と「他人に利用させる」

 第4回の「所有から利用へ」で議論してきたところは、情報法の文脈で見ても重要な暗示を含んでいます。それは著作権法で、著作物の「使用」と「利用」という2つの概念を、明確に使い分けていることと関係しています。著作権法30条の「私的使用」と32条の「引用して利用」を比較してみてください。

 すると、著作権法で著作物を「使用」するとは、本を読む、CDを聴くといった行為、すなわち「自分で使用する」ことが分かります。他方、著作物を「利用」するとは、「引用」などに該当し誰でもできる例外(後述する「権利の制限」)を別にして、著作物を複製する、公衆送信するといった、原則として著作(権)者の許諾がなければできない行為をすること、すなわち著者(権)者から見れば「他人に利用させる」ことを意味します。したがって世間で広く使われている「著作物の使用許諾」という表現は間違いで、「利用許諾」が正しいことになります。

 このように両者を峻別した上で「使用」の概念を考え直すと、当該著作物が格納された媒体である本やCDやソフトウェア・パッケージを、購入するという事前の行為が無ければ実現できません(オンライン配信を除きます)。つまり「使用者」は通常「有体物の所有者」でもあったのです。

 著作権を含む知的財産の存在理由については、「インセンティブ論」と「自然権論」の2つの対立する見方があります。インセンティブ論とは、創作者の経済的利益を保護することで、創作活動を誘引・奨励するため、本来は誰もができる創作物を活用する行為を、立法的・政策的に制約している(「許諾権」あるいは「禁止権」)と考える理論です。知的財産制度を、国家により社会全体の利益と創作者の経済的利益のバランスを取る人工的なものと考えるもので、英米法系の諸国では、このような説明が一般的です。

 一方「自然権論」とは、創作物は作者の精神が発露したものと考え、それに対する権利は、人工的なものではなく自然的に発生する権利と考える理論です。従って原理的には、人が努力して創作した作品について、他人がこれを無断で活用するのは自然法ないし正義に反するとします。大陸法系の諸国では通説的な考えでした。

 しかし、どちらの説を採ったとしても「使用」と「利用」が区分できれば、媒体の所有者がその内容である「情報」を活用する場合と、所有者でない人が著作(権)者の許諾を得て、その内容である「情報」を活用する場合を明確に分けられるので、すっきりするように思われます。

 ところがソフトウェアのユーザ・ライセンスは、複製や公衆送信を許諾しているわけではないので、「利用許諾」ではなく「使用許諾」で、既に先の分類とは違っています。ソフトは無体財の代表格ですので、オンライン配信が一般化するにつれて、有体物との関連を重視した分類は、意味が薄れていくでしょうから、この区分が有効なのは、以下の2点についてだけと考えた方が良さそうです。

①  「使用する」は、有体物に対する権利の基本とも言えるが、情報が媒体に固定されていれば、情報財についても相当程度当てはまるようである。
②  「利用する」は、情報財に特有の要素があり、また情報を含む無体財の権利の基本とも言えそうで、有体物とは別の扱いを検討すべきである。

・「フェア・ユース」の意味するもの

 次に、フェア・ユースの規定の位置づけに注目してください。実はフェア・ユースは、二重の否定型になっているので、理解しにくいのですが、下図を元に、次のように考えれば分かりやすいと思います。まず大原則(デフォルト)が「情報の自由な流通」(Free Flow of Information = FFI)で、それに対する例外措置として、特定者にのみ利用を許す制度(図の塗りつぶした部分)が著作権などの知的財産制度であることを確認しましょう。そして、その例外として、一定の条件を満たした「公正な利用」(Fair Use of Information = FUI)の場合は、仮に著作権者の事前の承諾を得なくても「大原則に戻る」こと、つまり例外の例外として「情報の自由な流通」として許される(図において白抜きになっており、デフォルトと変わらない)、と理解すれば納得がいくかと思います。

 わが国の法制では「フェア・ユース」と呼ばず、「権利の制限」と呼んでいますが、「インセンティブを付与するために一定期間の排他的利用を認める」という著作権法の原則に対して、その「権利を(文字どおり)制限する」と考えれば、図が示すところと全く同じ構造です。このような枠組み(今風に言えば architecture)を理解することが、情報に関する権利設定を考えるための第一歩となることは、間違いないでしょう。

・「権利の専有」がもう一つの鍵

 第3のカギになるのは、第5回で説明を留保していた「権利の専有」という概念ではないかと思います。この用語は1887(明治20)年の版権条例まで遡る古い歴史を持ち(野一色勲 [2002]「特許権の本質と『専有』の用語の歴史」『知的財産法の系譜』青林書院)、他の知的財産制度と共有されています(特許法68条など)。ところが学説的には、排他的支配権であることを示す以上に特別な意味があるとは解されていない(加戸[2013]『著作権法逐条講義(六訂新版)』)、という不思議な存在です。事実、三省堂『知的財産権辞典』にも、標準的教科書の索引にも収録されていません。

 これは一体どうしたことでしょうか? 著作権は(所有権と同じ)物権の一種とされ、物権と債権を峻別するわが国(あるいは大陸法系)の法制にあっては、物権には対世的(世間一般に対する)排他性があり、それが制限されるのは例外だという大原則を貫かざるを得ません。そのような中で、例えば「複製する権利を専有する」とせず、「複製権を有する」とすれば、著作権の物権的性格が更に強くなり、物権そのもの(第4回で図示した排他性のスペクトラムの100%)になってしまい、some rights reserved が必要であっても、入り込む余地がなさそうです。それを避けるために「権利を専有する」という語を用いたということは、十分あり得るかと思います。

 しかし、このような説明をすると、かつて民法学界で議論になった「権利は占有(こちらのセンユウは、民法180条以下に規定されている一般的なものです)の対象か」という論争を蒸し返すことになるかもしれません。さらに言えば、ローマ法以来の難問といわれる「占有と所有の関係」についても、整理する必要が生ずるでしょう。実は、『情報法のリーガル・マインド』では、そこまでの深い検証をしないまま、情報については「占有権」に代わる「帰属権」がふさわしい、という提案をしました。

 ところが、気鋭の民法学者に教えを乞いに伺ったところ、「あなたが主張する帰属とは、占有と同じような状態を示すのか、所有に対応するような権利を示すのか」という基本的な質問を受けてしまいました。そこで西洋法制史の研究者である旧友に「読むべき論文は何か」と問うたところ、鷹巣信孝 [2001]「占有権とはどのような権利か(1)-(4)」『佐賀経済論集』33巻3・4号~34巻2号、を推薦されました。

 これを通読して感じたのは、「なるほど占有という概念は難しい」ということでした。先に述べた「準占有」(民法205条)に関する論考が少ないのも、無理からぬところです。しかし、一貫して「情報」という難題に向かい合ってきた私からすれば、この難題を克服しなければ道が開けないだろうことを、痛感しています。

 実は当初、5回目までの連載で、私が新たに主張する「帰属」という概念まで辿り着く予定したが、あと一歩及びませんでした。不安なまま学会発表を迎えますが、この議論の続きは、その後で。

林「情報法」(5)

「知的財産」を経済学で考える

 第3回と第4回で述べたことに若干の補足を加味し、主として経済学の用語で説明し直すと、次のようになります。

 情報財は、① 排他性(他人の利用を排除することができる)も、② 競合性(私が使っていれば他の人は使えない)も欠いており、むしろ「公共財」に近い。加えて、③「占有」状態も不確かで、その移転(内容が受け手に移転され、渡し手には残らない)も起きず、④ 財貨としての取引は「引き渡し」ではなく「複製」という行為を通じてなされ、⑤ デジタル化されていれば複製は簡単で、費用はゼロに近く、また品質も劣化せず、⑥ 一旦(意に反して)流出したら、これを取り戻すことはできない(流通の不可逆性)し、⑦ どこに複製物があるかも分からないので削除も効果がない。そのため、所有権に近い排他性を付与することは難しいばかりか、有効性も疑わしいのです。

・知的財産権と知的所有権

 このように情報という財貨には、旧来の所有権をそのまま適用することができないこともあって、先進諸国では19世紀の末頃から「知的財産権」という、新しい法制度が導入されました。この制度の本質は、経済的価値を持つ「情報」に、所有権に類似した権利(=排他性)を付与して、円滑な経済取引を促進することにありました(それが回りまわって、創作者や発明家を経済的に潤すことにもなります)。既に確立していた「所有権」になぞらえることで、その試みは成功した感があります。

 世間では知的財産権のほかに知的所有権という表現もあり、どちらを使うかは人さまざまです。しかし意外に知られていませんが、立法者(特に、わが国の立法者)は、所有権アナロジーは「擬制」に過ぎず、両者の間には明確な差があることを、忘れていなかったと思われます。というのも、所有権の前提になる状態は「占有」ですが、知的財産制度には「占有」の用語は一切出てこないからです。例えば著作権法は、「占有」概念を避け、「権利の専有」の語を用いています(著作権法21条「著作者は、その著作物を複製する権利を専有する」など)。

 恥をさらせば、私は最初にこの条文を読んだとき、意味を正しく理解するまでに時間がかかりました。「権利を専有する」って、一体どういうこと? 「専有する」権利は自分で実行することしか許されないの? 著作者が自分で複製するケースは希だから、「複製を許諾する権利を専有する」なら分かるのだけれど、などなど。

 しかし、ここで用語法に深入りすると、読者の皆様を混乱させることが懸念されますので、別途まとめて議論します。ここでは代わりに、1点だけ強調しておきましょう。それは、立法者の慎重な配慮にもかかわらず、所有権の「擬制」が実際には「限りなく所有権に近い」解釈を呼んでいること(これが第3回で、所有権を妖怪になぞらえた所以)です。

 著作権をはじめとした知的財産権は(所有権と同じ)物権の一種とされ、物権と債権を峻別するわが国(あるいは大陸法系)の法制にあっては、物権には対世的(世間一般に対する)排他性があり、それが制限されるのは例外だという大原則を貫かざるを得ません。それゆえ英米法的なフェア・ユースの規定を設けて、裁判所の判断に委ねるという方式を取らず、「著作権の制限」(同法2章3節5款)という分かりにくい表現をしています。その実態は、公共財的性格を有する情報財に排他権を設定する以上、権利者と利用者との間の利益のバランスを取ろうとする点(比較衡量)にあるのですが、その限界も内包していることになります。

・著作権保護期間に見る所有権アナロジーの限界

 「知的所有権」という表現を好む人は、「知的財産権も所有権のアナロジーで処理可能だし、また処理すべきだ」と信じている人が多いようですが、所有権アナロジーには限界があります。それを端的に示しているのは、法改正のたびに長くなっている著作権保護期間です(以下の記述は、拙著 [2004]『著作権の法と経済学』勁草書房と、田中辰雄・林紘一郎 [2008]『著作権保護期間』勁草書房、のエキスを要約したものです)。

 まず著作権は、政府に登録するなどの一切の手続きを取らなくても、創作と同時に自動的に成立することを確認しましょう(無方式主義、著作権法17条2項)。これは著作物が「言論の自由」の発露であるため、検閲を避ける有効な仕組みですが、特許など登録を要する他の知的財産と違って、権利の存在を不明確にする欠点があります。

 その欠点が顕在化しているのが、孤児作品(orphan works権利者が不明なため利用許諾が取れずに死蔵されたままの著作物)の存在です。著者の死亡後50年未満の場合、国会図書館でデジタル化して配信しようとしても、権利の相続者やその所在が不明のため作業が進まないことがあると言います。文化庁による裁定(著作権法67条以下)という救済制度もありますが、認められる例はごく限られています(2001年の著作権法改正を機にかなりの改善がなされましたが、なお潜在需要とは隔たりがあります)。

 このような中で保護期間を延長すると、どういうことが起きるでしょうか? 著作者には創作のインセンティブが効きますので、新しい創作の量は従来より増えるでしょう。しかも保護期間を延長した分だけ、著者の死後も権利が継続する著作物の比率は高まります。この2つの要素が掛け算されるので、孤児作品は指数関数的に増える恐れがあります。

 孤児作品が利用されないまま放置されるのは社会的損失なので、各国とも対策を講じていますが、「保護期間を短縮しよう」という動きは目立ちません。おそらく「保護期間の短縮が全体最適である」という主張よりも、「保護期間を延ばす方が創作のインセンティブが高まる」という主張の方が、直感的に理解し易いからでしょう。その結果、保護期間は延長される一方で、わが国でも死後33年から始まり、35年、37年、38年と延長されて、現在の50年になっています。そしてTTP(Trans Pacific Partnership)協定がアメリカ抜きで成立すれば、死後70年となる見込みです。

 しかし、よくよく考えて見ると、現代はドッグ・イヤーとかマウス・イヤーと呼ばれ、1年の間にかつての7~8年分の変化が生ずる時代です。つまり形式的な1年(ドッグ・イヤー)が、実質的には7~8年分(ヒト・イヤー)と同等なのですから、死後70年は実質的には死後500年程度に相当します。これだけ長い保護期間を設定するのが妥当かどうか、直感的にも疑問符が付くのではないでしょうか? 特許権(保護期間は出願後20年)について保護期間の長さが問題とならないのは、ある種の妥当性を持っているからでしょう。

・小さな改善で現行制度の弱点を補う

 「柔らかな著作権制度」を主張する私からすれば、死後70年も市場価値が続く著作物は稀なのですから、例外として「文化財保護法」的な処理をすべきだと思います。現に丹治さんの労作によれば、わが国の書籍の場合「没後51~60年に出版されるものは全体の1.3%、同61~70年に出版されるものは0.87%」とごく少数です(丹治吉順「本の滅び方:書籍が消えてゆく過程と仕組み」田中・林 [2008] 所収).

 しかし、このような主張は権利者やその団体のロビーイング力には適いませんので、すぐ実現する見込みはありません。「反著作権」ではなく「補著作権」の立場に立つ私としては、以下のような小さな改善の積み重ね(piecemeal engineering)で、現行制度の弱点を補う努力も必要かと考えます。

 ① クリエイティブ・コモンズや ⓓ マークは、「権利表明制度」という一種の自主登録制度でもあるから、孤児作品を生まない工夫として推進したい、

 ② 著作権制度を創作にインセンティブを与える制度と捉えるなら(現代の法理論では、このような説明=インセンティブ論が通説です)、検閲につながらないよう工夫した登録制度を新設して、登録を訴訟要件とするなどの改善が望まれる(現にアメリカでは、登録を訴訟要件としている)、

 ③ さらに進んで、特許の登録料が時間の経過とともに逓増する例に倣って、「登録する価値がある著作物だけが登録される」ような仕組みを組み込むべきであろう、

 ④ ドッグ・イヤーの影響は情報技術関連分野に顕著なので、プログラムの著作物については全面的に見直し、かつての「プログラム権法」(中山信弘 [1986]『ソフトウェアの法的保護』有斐閣)に近い制度を創設してはどうか。

林「情報法」(4)

所有から利用へ?

 有体物の世界では所有権が有効に機能し、有体物ではない世界、特に情報の世界では必ずしも有効ではないとすれば、それはどういう事情によるのでしょうか。その答えは単純で、有体物は「一物一権」(1つの物に1つの権利が対応する)が可能だが、非有体物(無体財)では、「一財多権」(情報の場合、1つの情報に複数の権利が重畳的に存在する)にならざるを得ないからです。私たちの身の回りを見ても、特定の少数者が排他的に利用できる情報(営業秘密のように「秘密」として管理されている情報)は少なく、不特定または多数がアクセスできる情報が圧倒的に多いのを、実感されていることでしょう。

・情報は「占有」できないから「所有」もできない

 これを法律的に言い直せば、有体物には「占有」を観念することができるが、無体財(特に情報財)を占有することは不可能である(非占有性)ことを意味します。現行の法律はこの点を良くわきまえています。「占有」とは、「自己のためにする意思をもって物を所持する」(民法180条)ことで、「物」とは有体物です。反対解釈をすれば、無体財には占有の規定がそのまま適用されることはないのです。もっとも「例外のない規則はない」の喩えどおり、「準占有」(民法205条)という規定がありますが、この点には深い含意が隠されていますので、次の機会まで取っておきましょう。

 情報を「占有」できないということは、情報には 100% の排他性を持たせることが難しいことと同義です。また「一財多権」にならざるを得ないことは、「占有の移転」を観念できないこととパラレルです。有体物を譲渡すれば私の手元には何も残りません(占有の移転)ので、これを盗む行為(窃盗)に刑事罰を科すことで違法な移転を抑止し、また民事的に取り戻すこと(返還請求権)で法的秩序を保つこともできます。

 ところが情報の場合は、私がある情報を誰かに伝えた後も、私は同じ情報を持ち続けています(非移転性)。つまり情報は、占有の移転ではなく「複製」(著作権法2条1項15号参照)という行為を通じて拡散していきます。また、一旦複製を許せば「そうするつもりではなかった」と言って取り消しても、情報は戻ってきません(流通の不可逆性)。

 情報に対しても窃盗に類似する行為があり(いわゆる「情報窃盗」)、これを処罰してもらいたいところですが、どの情報を対象にするかを決めるのは、とても難しい。下手に「情報窃盗罪」を作ると、うかつに情報を取得できない事態になって、日常生活に支障をきたしかねません。したがって、現在「情報の違法な取得・窃用・漏示行為」として刑事罰が科せられるのは、「特定秘密」の漏示(特定秘密保護法23条以下)や、不正な手段による「営業秘密」の取得(不正競争2条1項4号)、医師など特定職業従事者による秘密漏示(刑法134条)など、対象がごく限られています。

 それでは、このように情報に対して所有権の有効性が失われる場合に、それに代わる適切な法的制御の方法はあるでしょうか? 多くの経済学者が主張しているのは、「所有から利用へ」というトレンドと、「共同利用」という仕組みです。経済全体がシェア(sharing economy)やフリー・エコノミー(この場合のフリーには、自由とタダの両方が含意されています)に向かっていると主張する学者もいます。確かに、民泊のインターネット版ともいえる Airbnb や、自家用車をタクシー代わりに相乗りする UBER の隆盛を見ると、そのような時代が来そうな気もします。

 ところが、どっこい。「所有」という妖怪は、この程度で衰退してしまうような「ヤワ」なものではありません。人間の「所有欲」はかなり根源的なもので、「人は経済原理だけで動く訳ではない」という心理の好例とされているほどです。ブランド品や別荘などは、経済計算では「ムダ」と判定されるでしょうが、購入者は後を絶ちません。ですから「利用」が「所有」に全面的に取って替わることはなく、せいぜい補完するものだと思われます(タイトルに?を付けたのは、その気持ちを表すためです)。

・排他性のスペクトラム

 そのように考えるには、法的な理由もあります。前回の議論で、「所有権は絶対的排他権」と説明しましたが、これを排他性のスペクトラムとして表示すれば、次のようになります。左端は、著作権等の知的財産権において、all rights reserved と表記されることと符合しています。つまり100% の絶対的排他権が認められるのです。一方、右端にあるのはno rights reserved = 誰が使っても自由、つまり純粋なコモンズという位置づけです。

 排他性の強度
<------------------------------->
排他性100%                       排他性0%
All rights reserved            No rights reserved
            Some rights reserved

 現在の知的財産制度は、所有権になぞらえたものですので、「権利があるかないか」つまりスペクトラムの両極端に分かれています。しかし現実の世界は複雑なので、中間的扱いが望ましい場合があり得ます。著作権の例では、「創作者が私であることは表記して欲しいが、コンテンツは無料で自由に使ってもらって構わない」とか、「改変も含め、どんどん使って宣伝して欲しい」といった要望があり得ます(極端な例だと思われるかもしれませんが、売れない創作者が第1作から儲けることは難しいので、まずはタダで利用してもらって名前が知られることが大切なのです)。

 するとここに、some rights reserved の需要が出てきますが、現在の法律は100% か 0%かのデジタル的割り切りをしているので、何らかの工夫が必要です。ローレンス・レッシグたちが考えた Creative Commons(以下 CC) は、こうした需要に応えようとするもので、attribution(氏名表示)を必須とし、これとnon-commercial(非商用利用なら自由)、no  derivatives(改変禁止)、share-alike(改変後シェアする義務がある) の3つの権利表示マークの組合せにより、6種類の権利処理の選択を可能にしています(原語は私流に訳していますので、クリエイティブ・コモンズの公定訳とは異なることに、ご留意ください。レッシグ他 [2005]『クリエイティブ・コモンズ』NTT出版、参照)。

 実は私も、ほぼ同時期にⓓ マークというアイディアを出したのですが、レッシグの案が優勢になったので、私はこの運動を日本でサポートし、「アメリカ以外では最初」と言われたCC の契約書等を翻訳して、サイトを開設するなどの協力をしました。CC は現在ではWikipediaの標準利用方式となっていますので、ある種の感慨を覚えます。

 しかし、個人的感慨を離れて本題に戻れば、ここで改めて強調しておきたいのは、CC やⓓ マークが目指したものは「反著作権」ではなく「補著作権」だということです。これは時として誤解されやすいのですが、仮に著作権法が無ければ、CCも ⓓ マークも機能しなくなる(誰も実効性を担保してくれないので自滅する)ことは明らかでしょう。権利者を中心に、私たちを白い目で見る方々がいますが、よくよく考えていただければ、私たちの提案は「排他性が100% か0% か」という硬直的な仕組みでは救済できない、ニッチな需要に対応するもので、かえって現行制度を助けているのではないでしょうか。

林「情報法」(3)

所有権という妖怪

『情報法のリーガル・マインド』で強調したように、私は「情報法は有体物の法と連続している部分がある」と同時に、「有体物の法とは断絶した部分もある」と考えています。それを象徴する例として、まず所有権について「物を所有するのと同様に、情報も所有することができるのか」という視点から、数回に分けて整理しておこうと思います。情報ネットワーク法学会のプレゼンテ―ションも「情報は誰のものか、どこまで排他性を主張できるのか?」をテーマにする予定です。

・「所有権」は資本主義社会の基本

 「物を所有する」という事実を社会的にどう位置づけるかは、古代から人間社会の秩序を形成する基本的な枠組みでした。生産手段や市場機能の発展と密接な関係にあり、「所有権」概念が成立するまでの過程は国や風土により、文化や生産方式によって多様で、「所有」をめぐる言説は経済学や法学にとどまらず、人文・社会科学全般に広く行き渡っています(大庭健・鷲田清一 [2000]『所有のエチカ』ナカニシヤ出版)。

 現在、私たち日本人が住んでいる「資本主義社会」では、各人が自己の財産(私有財産)を持ち、それに対して「排他的支配」を及ぼすことを基礎として、経済活動が営まれます。ですから理想型としての資本主義社会では、皆が生活を維持できるだけの私有財産を持ち、経済的に平等に近いことが想定されています。資本主義と民主主義(自立した個人による統治)が同一視される場合が多いのは、そのためです。

 ここで権利の基本となるのは「所有権」で、私有財産を「使用・収益・処分」する自由が、すべて含まれます(民法206条)。自分で使おうが、他人に利用させて対価を貰おうが、焼いたり捨ててしまおうが、原則として自由です(法に触れたり、社会秩序に反してはいけませんが)。つまり、一旦「所有権」を得たら、それに関する限り政府その他の干渉を受けることがないので、絶対的排他性があると言えるでしょう(もっとも、法律でその権利を制限する場合はあります)。

 これこそ、近代市民の理想像とする「自己決定」(自分のことは自分で決める)を実現するものです。封建社会のように生まれた時から人生が決まるのではなく、才覚と運に恵まれればどのような人生も選べるには、「自己決定」が不可欠です。近代社会における私法の原則として「契約自由の原則」「過失責任の原則」とともに、あるいはそれに先立つものとして「所有権の絶対性」が挙げられるのは、理に適ったことでした。

・「所有権=排他性」の限界

 しかし、20世紀後半から21世紀にかけての時代の変化の中で、「所有権」の有効性にも疑問が投げかけられています。それには、所有権に代わる新しいテーゼの追究と、所有権では裁けない事象の顕在化という、2つの全く違った側面があります。

 前者の先駆けは「共産主義」の登場です。しかし、当初「ヨーロッパに幽霊が出る」(マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』冒頭の有名な言葉)として華々しく登場した理論も、結局は昔からある数多の独裁国家と変わらぬ制度と化して、20世紀末には衰退しました。

 このようにして、20世紀後半の「資本主義対共産主義」の大論争は、前者の圧勝に終わったかに見えました。ところが歴史の皮肉か、勝者のはずの資本主義の側が、現在存立の危機に立たされているようで、しかもその主因は意外なことに、前述の「所有権の絶対性」そのものなのです。つまり妖怪化した絶対的な権利には歯止めがないことが、致命傷になりそうなのです。

 その顕著な例は、資本主義がグローバル化を深める中で、貧富の差が拡大して解決策が見出せないことです。白人の貧者の支持で当選したトランプ大統領が、自身は大富豪であるというのは何とも皮肉ですし、所有権が絶対視される一方で「寄付文化」が根付いている国でも(例えば、ビル・ゲイツがいくら寄付しても)、医療保険の恩恵を受けられない国民をすべて寄付で救済することはできません。わが国の格差はアメリカほどではありませんが、それでもじわじわと拡大していますし、高齢化は更なる負担増をもたらします。

 このように、所有者の自己決定権を尊重するだけでは解決できない問題は、随所に見られます。わが国での具体例を上げれば、次のような事象です。① 排他性が絶対視されると公益が阻害される(市街地の景観維持や地震で機能不全になったマンションの建て替えが進まない、空き地・空き家問題が深刻になっている)、② 個を尊ぶことが行き過ぎると他人への配慮を欠いた無縁社会につながる(災害時の「共助」は言うは易く行なうは難い、老人の孤独死も「助け合い」精神の衰退と無縁ではない)。いずれも皆さんの身近で起こっている事柄ではないでしょうか。

 これらの問題は、「所有権」信奉が情報法を考える上でネックになっている事象につながっています。その例をいくつか挙げておきましょう。③ 生命情報の扱いをめぐって自己決定をどこまで認めるべきかの規範が定まっていない(臓器移植の意思表示なしに死去した場合誰が決定するのか、DNA情報は誰が取り扱いを決定するのが妥当か)、④「会社は株主のもの」という論理を徹底し過ぎると利潤が自己目的化する(リーマン・ショック以降「強欲資本主義」が批判されていますが、「自己決定」と「強欲」の境目はあるのでしょうか)、⑤ 知的財産も「所有できる」こととし他人の利用を排除すると、全体最適にならない(フェア・ユースなどの利用に対して敵対的になる)ことがある。

・たかが「所有権」、されど「所有権」

 しかし、このような欠陥を内包しつつも、「所有権」はなお、私権の基本としての地位を保ち続けるでしょう。物=有体物(民法85条は、「この法律において『物』とは、有体物をいう。」と定めています)は私たちの生活に不可欠で、製造業などの伝統的な産業が無くなってしまうことはないからです。しかし、有体物ではないサービスや情報が経済活動の中で比重を高めることは間違いなく、これらの活動を有体物中心の「所有権」で裁くことができるのか、また裁くことが効率的かは、まだまだ検討の余地があります。

(なお今回から数回分の原稿は、お断りしない限り書き下ろしですが、このような考えをまとめる機会を得たのは、丸善から7月に出版された『社会学理論応用事典』の1項目として「情報の所有と専有」という項目の執筆を、拙著の執筆に先立って依頼されたからです。編集幹事の1人である遠藤薫教授に感謝します。)

 

林「情報法」(2) 

「群盲象を撫でる」と「木を見て森を見ず」の微妙な差

 「情報法の現状」を端的に表す格言を上げるとすれば、「群盲象を撫でる」が一番良いのではないかと、かねてから考えていました。そこで、最初の原稿においては、この言葉を使っていたのですが、書きながら「言葉の使い方に厳しい世論を考えると、避けた方が良いかも」という逡巡を少しは感じていました。

 本書編集者の鈴木クニエさんは、更に厳しい見方をされていたようで、最初の校正段階で「木を見て森を見ずでは、いかがでしょうか?」とやんわり提案されてしまいました。私も上記のような感触を持っていましたので、安全策をとることになりましたが、出版後になっても「やはり当初案で行くべきだったのでは?」という気持ちを捨てきれないでいます。その心は何でしょうか。自問自答してみましょう。

 私がもともと「群盲象を撫でる」に親しみを感じたのは、「健常者にはゾウの全体像が見えるが、盲者には見えない」という意味でも、「(健常者であっても)視野が狭い人には全体像が見えない」という意味でもありません。私たちは誰でも「目が曇っている」ので、「全体を把握するには相当の努力を要し、通常は多くの人の多様な視点の分析を総合しないと全体像にならない」というのが実態だと思えたからです。

 それを「木を見て森を見ず」に代えてしまうと、「誰もが限界を持っている」という見方が抜け落ちてしまい、「部分に拘泥する人は全体が見えない」という側面だけが強調されることになってしまいます。つまり「立派な人には全体像が見えるが、そうでない人には無理だ」という、認識者のレベル差を前提にした表現になります。これを更に「井の中の蛙大海を知らず」と替えると、その差はますます広がっていくでしょう。

 つまり「群盲象を撫でる」の場合には、人は皆「群盲」であること、すなわちハーバート・サイモンが言った「限定合理性」(Bounded Rationality)しか持ち合わせていないことを前提にしているのに対して「木を見て森を見ず」の場合には、「木も森も見る」ことが出来る人は存在し得ること、にもかかわらす一般人にはそれができないことを前提にしているように思えるのです。

・ひとはみな「郡盲」である

 こうした視点は、法学の場合特に大切なように思われます。というのも、法律は原則としてあらゆる国民に平等に適用されるものですから、誰もが「合理的な判断ができる個人」(a reasonable person)であることを前提に、その平均値(an average reasonable person = ARP)を基準に判断しているからです。例えば、自動車事故を起こした時の責任を論ずる場合は、「平均人にはこの程度の注意義務が期待されている」という尺度を使って、過失のあるなしが判断されます。

 これは大量の法的処理(この例では、交通事故に関する裁判)が必要で、かつ近代法の大前提である「個人の平等」を旨とする限り、維持すべき大原則のように思われます。確かにその側面はありますが、矢野さんのライフワークである「サイバーリテラシー」の視点から見ると、リテラシーに著しい差がある個々人を「平均値管理」することの問題点も浮かび上がってきます。そして何よりも、「人は合理的な判断をする」という仮説そのものが疑わしくなっています。

 社会が高度化・複雑化を遂げた現代では、判断の合理性が疑われる事例が多くなっています。専門分野においても「日光浴は大切だ」と言っていたのが「紫外線は健康に悪い」という見方に変わり、「タバコは嗜好品の代表」と思われていたのが「タバコは百害あって一利なし」に近い理解になったのは、ここ半世紀以内のことです。つまり「常識」が覆される事例が増えており、私たちは「合理的な判断ができる」ほど優秀ではなく、「誤り易い個人」(an error-prone person = EPP)と捉えた方が、事実に近いのではないでしょうか?

 このように考える私は、有体物の世界では「ARP 仮説」が有効かもしれないが、情報を扱う分野では、「EPP 仮説」を部分的に組み込まないと、法体系として欠陥を内包することになるという懸念を捨てきれません。そして、ここまでの含意をも使う格言としては、やはり「群盲象を撫でる」しかあり得ないように思います。

 このような考えをする人が、法学以外にもいるのではないかとネット検索をしたところ、倉田祥一朗氏が葛飾北斎(北斎漫画第8編)の教えのとおり「一つの大きなことを理解するためには、多様な視点から見ることが大事であることを教えていると理解している」(倉田祥一朗「科学屋」)と述べている文章がありました。

 このような見方からすれば、「群盲象を撫でる」の方が「人は皆限定合理性しか持ち合わせていない」という平等主義で、「木を見て森を見ず」の方が逆に「全体が見える人と部分しか見えない人がいる」という差別的な表現だとも言えそうです。ただ、ネット上の論争を見ていると、このような冷静な議論は望むべくもなく、「群盲象を撫でる」=差別発言として切ってしまわれそうです(炎上するかもしれません)。

・「YAHOO ! 知恵袋」と「教えて! Goo」

 しかし半面で、ネット上の反応は意外に冷静かもしれません。「YAHOO ! 知恵袋」のベスト・アンサーに、次のようなやり取りがありました。

rsvp878さん2006/9/13 09:31:25
「群盲象を撫でる」という慣用句は差別的であるため使ってはならないのでしょうか?

 ベストアンサーに選ばれた回答
kanariakajinさん 2006/9/13 10:39:34
「群盲象を撫ず」「群盲象を評す」「群盲象を模す」ともいいます。
意味するところは、平凡な人が大事業や大人物を批評しても、その一部だけにとどまって全体を見渡すことができないことです。
元来は、人々が仏の真理をなかなか正しく知りえないことをいったものです。
このような意味を思えば、差別的な部分はありませんので「盲」という語はあっても、使用に差し支えありません。

 次に、2つの格言の差について、「教えて! Goo」というサイトのやり取りを見ておきましょう。

質問者:yanku質問日時:2001/02/08 00:15回答数:6件
「群盲象をなでる」ということわざがあります。
多くの盲人が象を撫でて、それぞれ自分の手に触れた部分だけで巨大な象を評するように、凡人が大事業や大人物を批評しても、単にその一部分にとどまって全体を見渡すことができないことです。
同じような意味のことわざを探しています。
日本のものでも、外国のものでも、どちらでもOKです!

 No.5回答者: martinbuho#2 回答日時:2001/02/08 08:04
もっとも近いのは[木を見て森を見ず]でしょう。英語からの意訳といわれます。
(You cannot see the forest for the tree.)
群盲という言葉は差別用語の危険があり、この諺も使いづらい世の中になりましたので、少し意味は違いますが、木を見て・・を使われたらいいと思います。諺は時とともに応用(用例)が変るものです。昔は盲人を大切にして、生計が成り立つように一種の特権が認められていました。(目明きが同じ職に就けないなど)従って、盲人の中にはそれを悪用して庶民を困らせるものもいたといいます。群盲・・の諺には、庶民が日ごろのうっぷんを晴らす気持ちが込められていたようです。
凡人は大人物の心は分からないと解釈するのは拡大解釈ではないでしょうか。その意味なら[燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや](えんじゃくいずくんぞこうこくの・・)がぴったりです。ツバメやスズメに大鳥の心など分かるもんかといった意味です。

NO.6 回答者: earlybird 回答日時:2001/02/08 18:41
「木を見て森を見ず」なら、ドイツ語に、このような言い回しがあります。
“den Wald vor lauter Baeumen nicht sehen” 意訳すると「目の前の木々ばかりにこだわって森が見えない」といったところでしょうか。

 しかし、いわゆる『いいね』に類するマークはNo.6 に2つ付いていますが、No.5を含め他の回答には1つも付いていない点が気になっています。情報法の特質の1つに「不確定性」という性質がありますが、ある格言を使うか否かや、ある格言と同値とされるものが本当にそうであるかについても、かなりの「不確定性」がありそうです(この言葉については、拙著の重要なタームの1つですので、いずれ本稿で議論する予定です)。

 

林「情報法」(1)

執筆のご挨拶

 今回、旧友矢野さんのサイトをお借りして、この2月に上梓した『情報法のリーガル・マインド』(勁草書房)のその後の展開を「つれづれなるままに」、つまり不定期に、分量も定めず、しかも「その日の気分の赴くままに」書いても良いという、願ってもないお申し出を喜んでお受けすることにしました。

 私のこれまでの経験では、1冊の本を書き終えた後は虚脱感に襲われ、自著を素材にして次の文章を書く気にならない、つまり「少し休憩」したいところです。しかし今回は、やや異質の経験もしているので、矢野さんのオファーを素直にお受けする気持ちになりました。今回も「売れない本」を書いたことに変わりなく、少しでも売り上げを伸ばそうと、こちらからお願いして小グループの読書会的な会合を幾つか設定していただきましたが、その延長線上で学会のミニ・シンポジウムとして、この本を取り上げていただく企画が進んでいるからです。

 情報ネットワーク法学会の研究大会 (11月11日・12日、名古屋大学) の分科会の1つとして、偶然今年の2月にほぼ同時に発売された、松尾陽(編)『アーキテクチャと法』(弘文堂)と水野祐『法のデザイン』(フィルムアート社)に拙著を加えた3つの著作を俎上に上げて、多角的な議論を展開しようとする企画です。

 実は、これら3著に先行して1年前に出た、曽我部真裕・林秀弥・栗田昌裕『情報法概説』(有斐閣、2016年1月刊)や、上記企画のコーディネータである成原慧『表現の自由とアーキテクチャ』(勁草書房、2016年6月刊)を加えると、少なくとも「情報法」に関連する分野が、それ以前とは比較にならないほどのホットな話題になっていることだけは、疑いありません。

 このような変化の原動力は、言うまでもなく情報通信技術(ICT)の驚くべき進化と、それと裏腹の「法学の立ち遅れ」への気づき(awareness)でしょう。法学は、ことが起きてから(事後的に)対応するのがこれまでの伝統でしたが、ICTがドッグ・イヤーで進展を続けるとすれば、「事前的」(proactive)な対応を考えざるを得ないからです。これらの書物に共通する、アーキテクチャとかデザインという言葉は、事後対応で良ければ出てくるはずのない言葉で、そこに法学者の「あせり」と同時に、「何とかしたい」という気概も見て取ることができそうです。

 折角執筆の機会をいただいたので、11月の学会までは、その準備作業として検討する事項をリアル・タイムでお伝えし。分科会以降は、その模様を事後検証することで、とりあえず「その日暮らし」の本稿の、おおまかな予定としておきましょう。