人生の不思議さと厳しさ
農業には「苗半作」という言葉がある。自然農を教えてくれた故松尾靖子さんの実父、故家宇治守さんの口癖だった。丈夫な良い苗を育てたら収穫の半分は確保したのも同然。種をまき芽が出て苗になるまでの手助けが大事、そこが勝負だ。そうすれば、命は自然に育ち、よい命を全うする、と。
三島由紀夫(本名、広岡公威=きみたけ)は美学といわれるほどの華麗な文学世界を創造し、人にやさしく自分にも誠実に向き合った人だが、なぜ壮絶な自決をして自然な命、自然な死を全うすることが出来なかったのか。そこには普通とは異なる育て方をされた影響が多分にあったと思われてならない。
異常なほど感受性が鋭い子が、生まれるとすぐ母親から引き離された。時計を持って授乳時間を計るような祖母に見張られながら、わずかな時間だけ母の懐に抱かれた。母の倭文重(しずえ)は加賀前田家に仕えた儒学者の家系。父の梓(あずさ)は兵庫県の豪農の出で、東京帝大法科から内務官僚へ親子2代で同じコースを歩んだ。倭文重ら夫婦は東京四谷の女中6人と下男がいる広い屋敷に、梓の両親と同居、1階に祖父母、2階に夫婦が住んだ。公威は2階の両親と暮らさず、生まれるとすぐ1階の祖母に引き取られている。
祖母、夏子は気位が高く気性も激しかった。酒豪で家庭を顧みない夫の暴力でひどい坐骨神経痛を持ち、臥せってなければ、ヒステリックに平岡家を支配した。2階は危ないというその祖母の一声で両親から引き離されたのである。
・孤独で過酷な「苗の時代」
両親が会えるのは4時間ごとの授乳の時だけ。物差し、はたきを振り回して遊ぶようになると、危ないと没収された。育児の主導権は常に「お祖母様」であり、公威が「お母様」の方を大事にしたら、祖母の機嫌を損ねて叱られた。祖母が選んだ女の子とままごとや折り紙をし、男の子の遊びはいっさい許されず、書斎を埋める本だけが喜びになった。
祖母は言葉づかいなど厳しくしつける一方、好きな歌舞伎に連れて行ったりして孫をかわいがった。三島は幼時をほとんど語らないが、3歳にしてすでに、母親に会える時は思いきり甘えても、祖母の機嫌を損ねて母を困らせる言動はしなかったという。そのためか5歳の正月、自家中毒で危篤状態になった。祖母の強権は両親が転居する12歳まで続く。
終戦から間もなく、3歳下の妹が井戸水で腸チフスにかかった。三島は試験勉強のノートを病院に持ち込み、ベッド横の床に胡坐をかいてノートと妹の顔を見ながら看病を続けた。「お兄様アルガトウ」という細い声を残して死んだ妹に三島は号泣した。妹の死も生涯、陰を落としたようだ。
詩は5、6歳から書き始め、真っ先に母に読んでもらうのを何より喜んだが、縦横な空想力の詩を学習院初等科の先生は全く理解できず、欠点をつけた。役人に育てようとする父親も文学に興味はなく、中等科になって初めての小説『花ざかりの森』を書き始めたころ、徹夜して書き上げた原稿と白紙の原稿用紙を父親が破り捨てた。三島は涙でじっと耐えた。
それから間もなく、軍国日本は三島に戦場で死ぬ覚悟をさせたうえ、土壇場で彼を学徒動員の列からいわば、のけ者にした。その混乱、虚脱のまま価値観がひっくり返る自由と民主主義の戦後へ投げ出されたのである。真夏の悪夢のような感覚が敗戦から2、3年続いたと三島は告白している。
普通なら腕白な子どもとしてまず体が備わり、その肉体に知識や精神が育まれていく。しかし、三島の場合は、肉体がないまま理性、それも天才的な感受性と精神が育ち、成人になって初めて、肉体という怪奇な存在が立ち現れた。驚愕とともにそれを受け入れる葛藤を正直に告白したのがエッセイ『太陽と鉄』である。そこには彼がなぜ壮絶な自決を遂げたのかをうかがわせるものすらある。
・太宰治と川端康成
その三島と火花を散らすように交差した太宰治と、三島を世に送り出し生涯の恩人とされた川端康成の2人も、三島と前後し自死によって命を絶っている。
太宰と三島の初対面は、三島の文学仲間が当時、評判の新進作家である太宰に会わせようと連れ出して実現した。しかし三島は、亀井勝一郎の横に座る太宰に向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言って、座を凍らせている。三島は太宰の才能を認めながらも、露悪的な作風や自堕落な生活ぶりを生理的に嫌悪していた。
太宰治(本名、津島修治)の生家は北津軽郡金木村(現・五所川原市)の大地主。父の源右衛門は県会議員から衆議院議員になった「金木の殿様」。修治は6男、11人兄妹の10番目で何不自由なく甘やかされて育った。
しかし、母親が病弱だったため生まれるとすぐ乳母に預けられた。3歳から小学校へ上がる6歳までは子守奉公に来ていた女中が世話をした。母の胸からは離され、忙しい父は遠い存在だった。三島の厳格なしつけとは正反対の放任状態で「苗の時代」を過ごしている。
長じて結婚後、かつて交流があった愛読者の歌人と妻に隠れて会う仲となり、3月には美容師と深い関係になる。そして1年後にこの最後の女性と玉川上水で入水自殺した。この1年余の間に、酒と不眠で結核を悪化させながら『斜陽』、『人間失格』などの代表作を書いた。
三島が川端康成と会ったのは太宰より1年ほど早い。既に文壇の大御所的存在だった川端を、新作の短編などをもって鎌倉の私邸に訪ねている。川端は初対面の三島に親身な力添えをして、これが三島が本格的に世に出ていく転機になった。三島が生涯の恩人と大事にした人で、結婚式の媒酌人をつとめ、皮肉なことに葬儀委員長も引き受けた。川端の幼少期もまた孤独で過酷な「苗の時代」だった。
1歳7か月の時、大阪・天神橋で開業していた医師の父親が結核で死んだ。母もほどなく結核で死に、康成は父方の祖父母に、姉は母の妹に預けられ、姉弟は引き離された。祖母は康成を真綿でくるむ様に育てたが、康成が小学校に入学した秋に亡くなり、姉も翌年病死した。ただ1人の肉親となった祖父も病没、康成は15歳のときに天涯孤独の身となった。
作家を志し親戚の世話で勉学に励む少年に周囲は同情を寄せたが、川端は「心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した」と語っている(自伝『葬式の名人』)。そんな川端は三島だけでなく多くの文学者を世に送り出し、不遇の人にやさしく接したという。その一方で、どこか人を寄せ付けない冷徹さと蔑視と誤解される沈黙の凝視で人を恐れさせた。
三島の割腹から1年半後の昭和47年(1972年)4月、川端はガス自殺で人生を閉じている。日本人初のノーベル賞作家の寂しい72歳の死だった。太宰は、最後も女性に抱かれながら死に、川端はたったひとりで人生を閉じた。
文学界に偉大な業績を残した3人の作家に対して、川口自然農はためらわずダメ出しするだろう。奔放な女性遍歴ゆえにピカソ芸術を否定し、「私の母は仏のみ」と母親を追い返したブッダに対してすら、自然な人の道に反すると断ずるからである。仏も悪魔も棲む人の内奥に怯まず迫る作家の苦行の人生を論ずる力は、私にはない。そろって不遇だった幼少期に、「苗半作」の言葉を思い出すばかりである。
・あらためて振り返る三島の自決
なぜ最後があの制服、制帽だったのか。戦争で死んだ人たちへの強い共感があったからだと私は思う。三島は悲痛さを垣間見せた「わだつみのこえ」より、片鱗の私情も見せず、ただ黙って祖国を背負って死地に向かった同世代に、限りない愛着を示した。「経済繁栄にうつつをぬかし、ごまかしと自己保身の政治」と書き連ねた檄文は、彼らの声を代弁して、今を糾弾している様にも思える。
自決の前夜、三島はいつもの通りにお休みのあいさつを言いに父母の部屋にやって来た。「明日は早いからやすみます」と言葉少なに自室に戻る三島が寂しげに見え、母はじっとその後姿を見続けた。梓は煙草を少し控えるように注意した。それが今生の別れとなった。
築地本願寺で行われた三島の本葬には1万2000人から3000千人が参列したが、会葬者の多さが両親を驚かせた。喪服、正装は少なく仕事服、背広にノーネクタイ、下駄履き、サンダル履きの人たちが、悲しみながら焼香と献花をしてくれる姿に、父の梓は感涙にむせんだ。「赤ん坊を背負う下町のおばちゃんが目にいっぱい涙をためて合掌し、祭壇に千円札、5百円札を投げる中年男性がいた」と『伜・三島由紀夫』に書き留めている。
三島が武士のような最期を遂げたのに対し、彼が生涯の手本にした『葉隠』の常朝は切腹も切り死にもせず、畳の上で自然な死を全うした。仕えた藩主、鍋島光茂が、背けば家名を断絶すると厳しく殉死を禁じて死んだからだが、42歳で剃髪出家、隠棲して61歳の命を全うした。
◇
6月は田植えの季節。この半月は毎日、朝から日暮れまで田植えに明け暮れた。一本ずつの手植えは時間がかかる。この原稿は寝る時間を削って書き継いだ。自分の力で生きているようで、どこか生かされている命。個々別々のようで全てがつながり一体にめぐる宇宙と過去から未来へ刻々と流れる時間。そして、人は常に分かれ道とどれか一つの選択を迫られる。ただ一筋の人生しか歩めない人生の不思議さと厳しさを改めてかみしめている。