新サイバー閑話(46)<令和と「新選組」>⑥

れいわの時代が始まる!

 今回の総選挙で、山本太郎をはじめとして、れいわ新選組の3人が議席を得たことは大いなる朗報だった。

 選挙結果全体をみれば、56%に満たない低い投票率はともかく、その中での自民党の安定多数確保、立憲民主党の大幅議席減、日本維新の会の議席3倍増と、野党共闘がさっぱり振るわず、むしろその票が維新に流れた構図で、維新を自民党の補完勢力と見れば、むしろ現政権の基盤は強まったとさえ言えるだろう。

 コロナ対策の不手際、相変わらずの金権体質、不誠実な政治姿勢などから、久しぶりに政権交代も話題になった選挙前の空気からすると、意外なほどの尻すぼみである。野党共闘不振の原因が野党第一党たる立憲民主党の枝野幸男代表にあるのは間違いないだろう。得難いチャンスを逸したわけだが、選挙直前にれいわの山本代表がいったん東京8区から立候補すると宣言しながら直後に取り消し、比例に回った経緯の中にも、枝野代表に野党共闘をまとめる度量も見識(ビジョン)もなかったことは明らかなように思われる(共産党との共闘が間違いだったわけではもちろんないが……)。

「枝野は野党のアンシャンレジーム(旧体制)」と言った友人もいた。いま野党(左派)に要請される資格として「想像力」と「創造力」をあげた文化人類学者がいるそうだが、これからの時代を見据えた想像力(イマジネーション)と創造力(クリエイティビティ)を兼ね備えたリーダーは、山本太郎以外にはいないように思われる。だからこそ、山本代表とれいわ新選組の活躍に期待したいが、それ以上に自民党に対抗する野党全体の戦線を組みなおすことが急務だろう。

 それにしても選挙前、選挙中を含めて、マスメディアの報道はれいわ新選組にずいぶん冷たかったように思われる。街頭活動の動画を見ていると、聴衆の山本太郎に対する熱い連帯が伝わってきたし、SNSではいろんなジャンルの識者、タレントがれいわへの応援メッセージを送っていたけれど、そして全体として(選挙区と比例あわせて)れいわは255万余票を獲得しているわけでもあるが、メディアでの露出はあまりにも少なかった。と言うより、れいわが担おうとしている政治活動に関する想像力自体が欠けているように思われた。

 私が駆け出し記者のころ、研修を受けた横浜支局の支局長から「ニュースとは時代の波がしらがはねたものである」と聞かされ、現役時代を通してそれを信条としてきたけれど、この波がしらがはねるのを目撃しながら、それを面白がる野次馬精神がまったく感じられなかったし、ましてや「波がしらをはねようとする」迫力はまるでなかったようである。

 立憲民主党の枝野代表は11月2日の党執行委員会で、敗北した責任をとり辞任する意向を表明、同党は執行部を刷新することになった(3日追記)。

新サイバー閑話(33)<令和と「新選組」>⑤

義を見てせざるは勇なきなり

 三重県伊勢市の市美術展で隅に小さく中国人の慰安婦像を組み込んだ「私は誰ですか」と題する作品が出展不許可になった。作者のグラフィックデザイナー、花井利彦さん(64)によれば、慰安婦像は最近の「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」の騒動を受けて制作したもので、クロを背景に赤く塗られた手のひらと白い石が大きく描かれ、左隅に慰安婦像が小さく配されている。

 この事件は地元の中日新聞が10月31日朝刊 1面で大きく報じたが、花井さんの言によれば、最初作品を持ち込んだ時は、主催関係者も慰安婦像とは気づかなかったらしい。彼が慰安婦像を挿入した意図を説明すると主催者側の態度が硬化、結局、10月29日から11月3日までの期間中に展示されることはなかった。花井さんは「市側の検閲で、憲法違反だ」と強く抗議している。

 同美術展は市、市教委などが主宰し、市民から絵画、書道、彫刻などの作品を募集、展示するもので、花井さんの作品は自らがつとめる運営委員作品として持ち込まれていた。

 芸術の秋である。

 全国各地で行われている、どちらかというと出品する人も見物する人も高齢者が多い、ささやかな展示会の話だが、市の言い分が大いに気になる。同紙によれば、市教委の課長は「あいちトリエンナーレで注目を集めた『平和の少女像』と、それに伴う混乱を予想させるとして、慰安婦像の写真の使用を問題視した」と言っている。11月2日付同紙では同展運営委員長が「市民の安全を第一とした市の判断に従わざるを得なかった」と述べている。

 あいちトリエンナーレでは脅迫やテロ予告などもあったけれど、今回はそういう動きはなかったようである。市は何を恐れ、何から市民を守ろうとしたのだろうか。

 美術展の意義は何か、地方自治体の文化的取り組みは如何にあるべきかといった本質的議論は抜きに、「市民の安全が脅かされる」というよくわからない漠然とした理由で、「臭いものにフタ」をした事大主義的発想が問題だと思われる。最近よく聞く「税金を投入したイベントだから政権の意向に反すべきではない」という、これも妙な考えも反映しているかもしれない。

 関係者の思惑を「忖度」すると、「慰安婦像を認めると、時節がら問題になるんじゃないの」、「とりあえずやめとこう」という軽い気持ちで、結局は、表現の自由を侵すような強権を発動したように思われる。この思考の軽さと結果の重さのアンバランス(その間のコミュニケーション不在)。これは安倍政権が推し進める諸政策の特徴でもあるが、それが「遠隔忖度」の波に乗って地方都市に押し寄せているということではないだろうか。

 今回は当の花井さんが強く抗議したから公になったけれど、彼が黙っていれば、それで終わった話でもあるだろう。安易に表現の自由を制限してしまうような、重苦しい「空気」はこれからどんどん各地に波及していく可能性が強い。これも前回の語り口を借りれば、「もうすでに一部で起こっているかもしれない」。

 表現の自由をめぐる一連の動きとしては、川崎市で開催した「KAWASAKIしんゆり映画祭」で、やはり旧日本軍の慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画の上映がいったん中止になったが、これをめぐる関係者討論会がきっかけで最終日の4日に一転、上映された経緯がある。

 どう考えてもおかしいと思う、あるいは自己の信念・信条に反することがらに対して、現場でひるまず立ち向かう勇気が、いま私たちに求められているのではないだろうか。「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」(論語)である。

新サイバー閑話(32) 令和と「新選組」④

トップから腐っていく社会

 ちょっと前になるけれど、10月4日の東京新聞一面が大見出しの記事3本だけでほとんど占められていた。

 トップが「関電金品受領 監査役、総会前に指摘 社長ら公表見送る」、肩4段が「トリエンナーレ補助金不交付 文化庁有識者委員が辞意『相談なく決定 納得できず』」、下方4段が「かんぽ報道 NHK会長、抗議影響否定『編集の自由損なわれず』」である。

 いずれも事件自体はあらためて説明するまでもないだろうが、トップ記事は、関電の金品授受問題を今年6月の株主総会を前に監査役が把握し、経営陣の対応に疑問を投げかけていたが、問題の公表は見送られたという話。トリエンナーレに関するものは、文化庁が補助金7000余万円を交付しないと決めたことに関し、採択の審査をした委員の一人が「不交付は委員に相談なく決定された。これでは委員を置く意味がない」として辞任を申し出たというもの。最後は「クローズアップ現代+」の報道に関して、日本郵政グループがNHK経営委員会に抗議、経営委員会が上田良一会長を厳重注意した問題で、当の上田会長が定例記者会見で「番組編集の自由が損なわれた事実はない」と述べたというものである。

 3本の記事には、はっきりした共通性がある。それは、社会制度が本来の趣旨にそって適正に運営されるために、あらかじめ設定されているチェック機能が無化(無効化)されていることである。

 何のための監査役か、何のための有識者委員会か、何のための経営委員会か。

・「非立憲」政権によるクーデター

 本来果たすべきチェック機能を崩していくのが安倍政権発足以来のやり方である。まず権力チェックの重要な機能を持つとも言われる新聞、テレビなどの報道機関を早々に切り崩しにかかった。アベノミクス実現の環境づくりとして日銀総裁を替え、安保法制強行のために憲法の番人とされてきた内閣法制局長官を替えた、などなど。

 この点について、改憲問題に関連して石川健治東大教授が書いた論考「『非立憲』政権によるクーデターが起きた」が実に明快に論じてくれている(長谷部恭男・杉田敦編『安保法制の何が問題か』所収、岩波書店、2015)。

 「現政権の全体的な政権運営の特徴として、ナチュラルに非立憲的な振る舞いをしてしまう傾向を上げることができます。もともと統治システムの中には内閣が独走できないように、いろいろな統制と監督の仕掛けが内蔵されているわけですね。ところが、安倍政権は、政権にとって、歯止めをかける対抗的な役割を果たしかねない要所要所に、ことごとく『お友達』を送り込んで、対抗勢力の芽を摘んでいく――、そういう手段を駆使していると思います。故・小松一郎内閣法制局長官の人事がそうでしたし、日銀総裁、NHK会長の人事の場合もそうです」、「たとえば、憲法は、内閣に国政の決定権の一部を委ねているかもしれませんが、コントラ・ロールとして、その責任を追及する立場にあるのが、いうまでもなく国会です。……。政府内部にも、伝統的に内閣法制局という、お目付け役を果たしてきたコントラ・ロールがいます(いました)。対抗的存在は、世論やメディアなど、制度外にもさまざまに用意されています。内からも外からも内閣が独走しないようコントロールしているのです。そのような存在が多重的に仕組まれていて、権力が暴走しないようにシステムができ上っています。ところが安倍政権は本来コントロールを受ける立場にありながら、自分から対抗的存在に圧力をかけたり、つぶしにかかったりします」、「恐らく安倍首相個人のパーソナリティによるとこころが大きいのだと思いますが、とにかく批判を受けるのを嫌がります。自らに対する批判を抑圧したいという動機がむき出しになっています。……。その姿勢そのものが、非立憲だといわざるを得ません。そういう政権に日本の行く末を委ねていいのか、直感的に不安を抱く人は多いのではないでしょうか」。

・「忖度」する人、「模倣」する人

 安倍政権の体質をもっともあからさまに浮き彫りにしたのが森友加計問題だろう。文書改竄を進めた財務省幹部は訴追を見送られ、あるいは海外に転出した。憲法問題においても、安保法に異議を唱える憲法学者の声やパブリックコメントでの国民の声に何の配慮も払わなかった。沖縄問題も同じで、要は異論の完全無視である。

 しかも安倍首相や菅官房長官は、事態を自らの問題として受け止めず、他人ごとのように答弁したり、問題の所在をはぐらかしたり、あっさりと、断定的に否定したりしてきた。「こんなことが許されるのか」と怒ったり、慨嘆したりする人も当然いるわけだけれど、逆にそういう(うまい)手があるのかと率先してまねる人が出てきても不思議ではない。手続きを無視したごり押し路線の「模倣」である。今回の関電幹部や文化庁(文部科学省)やNHK経営委員会がそうだと「断定」するわけではないが、そこには政権の〝得意芸〟も反映しているように思われる。

 ユーチューブの動画によると、10月9日の官邸記者会見で、例によって望月衣塑子記者が「森友加計問題など政府の疑惑に関しては何の第三者委員会も設置しなかったのに、関電に対しては第三者の徹底的な調査を求めるというのは整合性があるのか」という趣旨の質問をしたのに対し、菅官房長官は「まったく事案が違う」、「適切に対応したと考えている」、「何か勘違いしているのではないか」と木で鼻をくくったような答弁をし、それで記者会見は終わっている。

 国会やメディアも含めて、チェック機能がかくも働かなければ、人びとの政治不信、政治的無関心の流れはさらに加速するだろう。今回の組閣人事を見ても、ごり押し路線を強化、徹底しようとしているばかりで、いま進む深刻な事態(深い病)への認識、想像力はまるで見られない。政権中枢のモラル崩壊は確実に周辺に及び、それは国民全体にまで徐々に広がっていくだろう。それは、台風19号襲来時の気象予報官の語り口をまねれば、「もうすでに一部で起こっているかもしれない」。

 老子に「大道廃れて仁義あり」という言葉がある。大道が廃れるから仁義が出てくる(大道が行われていれば仁義などは無用である)と、儒教における仁義強調を批判したものとして知られているが、いまや大道廃れて仁義なし。

 この言葉は、「国家混乱して忠臣あり」と続いていて、これも国家が混乱すると忠臣が出てくる、国家が正しく運営されていれば忠臣など出てくる必要はない、という逆説的意味だけれど、これも今は、国家混乱して忠臣なし。

 老子のくだりを友人にメールしたら、「山本太郎こそ真の忠臣である」との返事が来た。彼は自分の会社の窓にれいわ新選組のポスターを張っている(下)。
 NHKのかんぽ報道に対して、逆ギレのように居丈高に抗議している日本郵政上級副社長は元総務省事務次官だが、彼が事務次官になったのは菅総務相(当時)に抜擢されたためらしい。そういう意味では、現政権は早くから「忠臣」の育成に乗り出していたようである。

 

新サイバー閑話(29) 令和と「新選組」③

新聞はこれでいいのか

 消費税が10%に上がった10月1日、購読紙に「消費税軽減税率の適用にあたって」と題する3段抜きの社告が出ていた。日本新聞協会と当該紙の連名になっているから、ほとんどの新聞に同じ社告が載ったと思われる。

 新聞に軽減税率が適用され、8%に据え置かれたことを「報道・言論により民主主義を支え、国民に知識・教養を広く伝える公共財としての新聞の役割が認められたと受け止めています」と書き、「この期待に応えられるよう、責務を果たしていきます」と続けているのだが、昨今の新聞のあり方をふり返るとき、ずいぶん身勝手な見解だとシラケる人も多かったのではないだろうか。

 たとえば、以下のユーチューブの動画を見てほしい。

 東京新聞の望月衣塑子記者が官邸記者会見で萩生田光一氏が文部科学大臣になった件などを追求したときの菅義偉官房長官の記者をバカにしきった、いかにも醜い表情が映し出されているのだが、こんな記者会見を許している新聞が「公共財としての役割が認められた」とよく言えたものだと思う。

 すでに日常的な会見風景になっていると思われるが、仲間の新聞記者がこんなふうにあしらわれているのを他の記者が放任していること自体が信じがたい。ひと昔前なら、だれかが「国民の代表たる新聞記者に向かって何という態度だ」と、これもいささかどうかと思う発言ながら、とにかく為政者の横暴に抗議する、あるいはたしなめるような反骨精神が発揮されたはずである。

 そのひと声、その一突きが事態をがらりと変えると思われるが、そのひと声を発しようとせず、その一突きを繰り出す勇気がない。

 新聞よ、お前はもう死んでいる。

 もはや、そういう状況なのに、政府に公共財としての役割を認めていただきありがたい、と言わんばかりに軽減税率適用を喜んでいる(ように見える)のは、まことに恥ずかしいことではないだろうか。

新サイバー閑話(27) 令和と「新選組」②

まかり通る理不尽 

 テレビ朝日が開局60周年夏の傑作選と銘打って、平成19(2007)年に制作したドラマ『点と線』の特別編集版(8月4日放映)を見た。松本清張の社会派推理小説の傑作で、制作当時も大いに感心したが、今回はまた別の意味で大いに考えさせられた。わずか十数年前にはテレビ局もこのような重厚な傑作を生みだしていたということである。原作、脚本、演出、鳥飼刑事を演じたビートたけしをはじめとする豪華出演陣、すべてにおいて今昔の感がある。その底には、巨悪を憎む市井の人々の素直な怒りがたぎっているように思われた。

 政官界の汚職を隠蔽するため、事情を知っている下級役人が心中と見せかけて殺される。警察の執拗な捜査で事が明るみに出そうになった時、殺人の実行犯は自殺するが、その間に隠蔽失敗の責任を問われて、某官庁局長が青酸カリで自殺することを迫られるシーンがあった。それを見ながら、森友疑惑で決裁文書を改竄したとされる財務省の佐川宣寿局長(その後国税庁長官)も怖い目にあったのではないかと想像していたら、今朝(8月10日)の新聞に大阪地検特捜部が佐川元国税庁長官らを再度不起訴にしたとの報道があった。これで佐川氏は司法的な責任追及を免れたわけである。 

「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止に関連しては、企画展の芸術監督をつとめたジャーナリストの津田大介が参加するという理由だけで、神戸市の外郭団体が企画していたシンポジウムが、やはり抗議を受けて中止に追い込まれている(9日)。

 理不尽なことへの怒りの声が市井からも衰退していくように思われる令和である。

新サイバー閑話(26) 令和と「新選組」①

幕開けは風雲急

 かつての新撰組は幕藩体制維持を掲げたが、れいわ新選組は安倍政権打倒を旗印としている。新撰組は剣を武器としたが、れいわ新選組はSNSというコミュニケーションツールを駆使する。声の広がりが武器である。山本代表は、「命をかけている」、「本気だ」という意思を「新選組」に託したのだろう。

 先日、れいわ新選組に寄付をしたとき、メッセージに「れいわ新選組は日本の希望です」と書いた。

 名古屋の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、開催3日で中止に追い込まれた事件は、名のある文士がお先棒を担ぎ、大物市長が騒ぎ、自治体の長や政権がここぞとばかりに同調するという、いかにも戦前の思想統制を思わせる不気味な事態である。ここで脅かされているのは、言うまでもなく「表現の自由」である。にもかかわらず、世論調査では安倍政権支持がむしろ増えているのだという(メディアも、何かあると、それに直接対決するよりも、民意は奈辺にありやと、世論調査をやって報道していればいいと安穏と構えている場合ではないように思われる)。

 悲憤慷慨メール 鳴きやまぬ 老いの夏(^o^)