新サイバー閑話(43)<よろずやっかい>⑨

加速する時間のやっかい

 今回のやっかいは、高速で動くコンピュータおよびインターネットの恩恵を受けながら、そのスピードがあまりに速いために私たちの日常的なリズムが追いつけないことに起因する。コンピュータを使いこなすというより、むしろそのスピードに振り回される「やっかい」である。

 その1つの例が、<よろずやっかい>⑥でふれた「等身大精神の危機」だろう。一瞬のケアレスミスが何百億円に上る被害をもたらしたわけで、軽い「引き金」が重大な「結果」を引き起こす高速コンピュータの〝暴走〟。これにどう対すればいいのか。

 個人的にはコンピュータの扱いにもっと慎重になる、画面の警告音を見逃さないという心構えが大事であり、社会工学的には、1つのアクションをより肉体感覚と連動するものにするといったシステム設計が必要になるだろう。

 コンピュータの誤作動を引き起こすバグはなくしてもらわないと困るが、そうでなくても、スマートフォンで住所録の他の宛名にひょっとふれて間違い電話をしてしまったり、翌日になれば怒りがおさまるほどの些細なことがらを感情の赴くままに書きつけ、そのまま送信して炎上という事態を招いたり……、電子の文化のスピードにはついていけないとつぶやく人(とくに高齢者)も多いはずである。やっかいと言えば、まことにやっかいである。

 サイバーリテラシーに引き寄せて言えば、コンピュータをどう使いこなすかという知識(スキル)だけでなく、コンピュータとはどういうものか、それを扱うにはどのような心構えが必要か、コンピュータにまかせない方がいい領域は何か、というリテラシー(基本素養)教育が必要ということにもなる。

 私は林紘一郎さんに誘われて、横浜の情報セキュリティ大学院大学の経壇に立ったことがあるが、当時、こういうことをすると危険である、それは法に違反するという「脅しのセキュリティ」だけでなく、こうすれば快適なIT生活が送れるという「明るいセキュリティ」も大事ではないか、という話をしたことを思い出す。

 このシリーズは「インターネット徒然草」と自認するエッセイ集みたいなものである。「つれづれなるまゝに、ひぐらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。そして、前回の⑧は「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ」という思いが強かったけれど、今回、念頭に浮かんだのは、芥川龍之介の『侏儒の言葉』の一節である。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。

 対象が自然と技術の違いはあるけれども。インターネットを無視して生きていくことはできない。もっとも後段でこうも言っている。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

・『ネットスケープタイム』

 以下、コンピュータおよびインターネットがもたらした時間の変化、加速するスピードについて考えてみる。 

 インターネット初期に「ドッグイヤー」ということが言われた。IT企業1年の成長発展は従来の企業の7年分に相当するという意味である。今はもっと速くなっているかもしれない。

 1995年はインターネットが社会に普及したという意味で「インターネット元年」と呼ばれるが、そのころ活躍したジム・クラークという一起業家が書いた自伝的書物は、ITがもたらしたスピードの変化の生々しい記録である。

 インターネットで扱える情報を活字(テキスト)だけの世界から絵や動画まで拡大した閲覧ソフト、ブラウザーの発明こそインターネット飛躍の原動力だったが、最初のブラウザーはイリノイ大学の学生、マーク・アンドリーセンによって開発され、モザイクと名づけられた。

 クラークは、自分が創業したシリコングラフィックス社を退任に追い込まれた1994年、アンドリーセンの名を聞き、直ちにこの若者に電子メールを出して、2人で新会社を作る。モザイクという名は使えなくないので、同じようなブラウザーを開発してネットスケープと名づけた。マイクロソフトのビル・ゲイツもモザイクをもとにしたブラウザー、インターネット・エクスプローラーを開発して追撃、1995年は2つのブラウザーの機能拡張競争が繰り広げられた年でもあった。

 同年、私はインターネット情報誌『DOORS』を創刊し、付録CD-ROMに両ブラウザーのプラグインソフトを収録していたが、毎月、新たな機能追加が行われ、その対応にてんてこ舞いしたものである。最終的にネットスケープはエクスプローラーに負けてしまうが、クラークの本のタイトルはNetcapeTimeだった(邦題は『起業家 ジム・クラーク』水野誠一監訳、2000、日経BP社)。

 ネットスケープタイム。加速する時間こそが勝負だったわけで、彼は「我々のビジネスでは、安定性や安全は、スピードから生まれる。つまり、競争相手より早く製品を市場に出せということである」、「私の頭の中を占領していたのは、スピードそれ自体ではなく、加速のスピード、特に企業のライフサイクルのペースが加速していることであった」と書いている。

 彼によれば、創業から株主公開までの期間は以下のように短縮した。

ヒューレットパッカード 創業1939 株式公開1957(18年後)
マイクロソフト 創業1975 株式公開1986(11年後)
アップル 創業1976 株式公開(4年半後)
ネットスケープ 創業1994 株式公開1995(1年4ヶ月後)

 製品のバージョンアップについて、こんなことも書いている。「ソフトウェアに問題があっても、ちょっと改良したバージョンとして発表し、後はこれを繰り返せばいい。車が衝突すれば、人が死ぬが、ソフトがクラッシュしてもリスタート・ボタンを押せばよいだけなのだから」、「いつも火を噴くようなトースターを製造している家電メーカーは長く生き残ることはできない。だが、バグだらけで有名な製品を市場に送り出すことでマイクロソフト社は大成功を収めている。発展初期の段階にあるテクノロジーでは、その技術の新しさ故に不完全さの苦労が許される猶予期間があるものだ」。

 ビル・ゲイツには散々煮え湯を飲まされたらしく、「私は、個人的に、ビル・ゲイツは、その一見陽気なオタク的外見の下に、殺人的な本能と、飽くことのない攻撃性を抱いていると確信している。彼の反応は、常に凶暴性を帯びているからだ」、「他社より優れた製品をつくることで競争に勝つというやり方でマイクロソフト社がトップに立ったことは一度もない。なぜなら同社は他社より優れた製品を他に先駆けて世に出したことがほとんどないからである」などと非難している。「今日では、世界を変えようとするのでもなく、何か新しいエキサイティングなことを起こそうというのでもなく、マイクロソフト社に一日も早く買収されるという目的のみを持つスタートアップ企業が増えている」とも。

 このネットスケープタイムがIT企業のみならず、多くの企業のものになった。企業経営ばかりでなく、コンピュータシステムがそれこそ急速に社会に広まるにつれ、私たちの日々の生活もスピード化の波に呑み込まれた。実際、コンマ0秒をはるかに上回る電子の速度で金融取引が行われ、そこでは人間の判断が介入する余地さえない。時間がどんどんスピードアップするのはもはや止めようがない状況である。

・自然農と経頭蓋直流刺激装置

 現代IT社会における時間はいかにあり得るのか。一端に自然のリズムのままに生きる時間があり、他端にコンピュータのスピードと共生する生き方がある。

 本サイバー燈台で古藤宗治氏に「自然農10年」という連載を続けてもらっているが、自然農というのは土地を耕さず、肥料をやらず、ほとんど機械も使わず、土地が持っている本来のエネルギーのおすそ分けで作物を収穫する。生産量は限られているし、1年のサイクルに縛られる。それ以上のことを求めない生き方の典型が第10回で紹介されている。

 私もある初夏、畑を見せてもらったが、むんむんとする草いきれと、農作物のまわりを飛び交うチョウの群舞に懐かしい思いがした。弥生式農業以前の農業と言ってもいい。ここには現代においても経験できるのどかな時間がある。

 その対極にあるのが、コンピュータの力を借りたスピードの世界である。ハラリの『ホモ・デウス』に、米軍が訓練と実践の両方で兵士の集中力を研ぎ澄まし、任務遂行能力を高めるためにやっている実験が出ている。経頭蓋直流刺激装置という、いくつもの電極がついたヘルメットをかぶると、微弱な電磁場が生じ、脳の活動を盛んにさせたり抑制したりするのだという。

 某誌の記者がその実験を体験した話が出ている。

 最初はヘルメットをかぶらずに戦場シミュレーターに入ったら、自爆爆弾を装着し、ライフル銃で武装した覆面男性20人がまっしぐらに向かってきて、「なんとか1人撃ち殺すたびに、新たに3人の狙撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった」。そのあとヘルメットをつけると、「20人の襲撃者が武器を誇示しながらこちらに駆けてくるなか、私は落ち着き払って自分のライフル銃を向け、間を取って深呼吸し、最寄りの敵を狙い撃ちにしたかと思うと、そのときにはもう、静かに次の標的を見極めていた」、ほんの一瞬の出来事のように思われたが、すでに20分が過ぎ、彼女は敵20人全員を倒していた。

 コンピュータを使えば、通常の頭の回転スピードを上回る速度を獲得できるということだろう。こういう装置はどんどん開発が進み、私たちはそれらで武装し、いよいよ「ホモ・デウス(神の人)」になっていく、というのがハラリの予想だった(博学の発明家、レイ・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン」が典型的である)。

 コンピュータに限らず、文明の発展にともなって私たちの時間が加速しているのは間違いない。足で歩く→自転車に乗る→鉄道を利用する→車→飛行機と、交通手段の発達はまさにスピードアップの歴史であり、電信、電話などの通信手段もまた時間の克服に大きく貢献した。

 スティーヴン・カーンはTHE CULTURE OF TIME AND SPACE(1880-1918)(1983、翻訳は『時間の文化史』『空間の文化史』の2分冊、浅野敏夫他訳、法政大学出版局)で、「1881年頃から第1次大戦が始まる時期において、科学技術と文化に根本的な変化が見られた。これによって時間と空間についての認識と経験にかかわる、それまでにない新しい様態(モード)が生まれる。電話、無線、X線、映画、自転車、飛行機などの新しい科学技術が、この新しい方向づけの物的基盤となった。一方で、意識の流れの文学、精神分析、キュビズム、相対性理論といった文化の展開がそれぞれに、人の意識を直接形成することになった」と述べている。

 私は常々、サイバー空間の登場は人類史を2分できるほどの出来事である(BC=Before CyberspaceとAC=After Cyberspace)と述べてきたが、その最大の特徴は飛躍的スピードの増大にこそ求められるかもしれない。

・快適な時間とはどのようなものか

 IT社会を快適(幸福)に生きるためには、結局、高速化する社会(サイバー空間)との距離をうまく取る才覚が必要だということになりそうである。

 個人にとって快適な時間とはどのようなものか。

 のんびり屋、せっかちなどの性格にもよるし、年齢にもよる。年齢にはその人が生きてきた時代の時間が大きく影響しているだろう。若いころ感激し、あるいは血沸き肉躍る経験をしたハリウッド映画を見直してみると、やはりかったるい思いをする。私自身、学生時代に感激した『ウエストサイド物語』にそれを強く感じた。一方で、ゲームをしている孫の手の動きを見ていると、驚くほど速い。

 これは一部のSFファンの間では有名な話のようだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』などの作者が提唱した「ダグラス・アダムスの法則」というのがある。

人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる。

 年代区分はともかく、マーシャル・マクルーハン的な警句として興味深い。たしかに、インターネットはもはや大半の人には技術というより所与の環境になっている。この説に言及した「いまIT社会で」は異論も紹介しているが、これも時代とともに快適な時間が変わっていくことと関係しているだろう。

 個人差はあるけれど、個々の人間にとってそれぞれの快適な時間、速度(スピード)があるというのも確かだと思われる。

 たとえば、バイオレゾナンスというドイツ発祥の治療法では、病気の原因となる体内の気(エネルギー)には固有の周波数の波動があり、同じ周波数の波動で共鳴を起こすと、気の滞りが解消、病気が治ると言っている。「滞りと同じ周波数の波動による共鳴現象によって滞りが消えて再び気が活発に流れるようになる、これが健康を取り戻すということだ」(ヴィンフリート・ジモン『「気と波動」健康法』2019、イースト・プレス)。

 個人差もあり、それは日によっても異なるけれど、その人固有のリズムというものを大事にすることが、目まぐるしく変化するIT社会においてはとくに重要である。それが才覚である。そのためには、四六時中、つまりひぐらしパソコンやスマートフォンにかじりついて、サイバー空間の影響を受け続けるのではなく、一定の距離を置く。つまり、日々の生活の軸足を現実世界に置く意識を忘れない。そうすれば、インターネットの影響を少しは対象化して考えることもできよう。ファーストフードに対してスローフードの運動もあるように、人それぞれに自分にあうスピードを大事にするしかない。

 <よろずやっかい>➆の最後にふれたように、技術がもたらした問題の多くは技術によって解決できるはずである。サイバー空間と現実世界の接点における快適な時間の確保ということに関しても、秀逸な<よろずやっかい解決アイデア>が求められるとも言えよう。ノーベル賞級か、あるいはイグノーベル賞級の。

 ちょっと話がそれるが、この稿を書き上げたころ、友人が「最近の政治の動きは腹立たしいばかりで、ときどき藤沢周平の小説や小津安二郎の映画を見るようにしている」と言っていた。たしかに小津安二郎の映画にはゆっくりした時間が流れている。「君、どうなの?」、「どうってこともありませんわ」、「そうかねえ」、「そうですよ」なんていうセリフも懐かしい。

 当面は才覚で切り抜けるしかない、やっかい

 

新サイバー閑話(42)<よろずやっかい>⑧

日本社会特有のやっかい

 インターネットは世界同時に進行する情報革命だから、その影響もグローバルに現れるわけだが、やはりその国の従来の社会構造によって変化の態様は異なってくる。私はかつて「IT技術は日本人にとって『パンドラの箱』?」というタイトルで、インターネットが与える日本特有の影響について考えたことがある。そのとき念頭にあったのは、日本人とインターネットの相性は必ずしもよくないということだった。

 日本社会はインターネットによってどのように変化しつつあるのかを、日本社会をめぐる典型的な2つの見解、社会人類学者、中根千枝の「タテ社会」と、歴史学者、阿部謹也の「世間」を手がかりに考えてみよう。

 中根千枝は1967年に『タテ社会の人間関係:単一社会の理論』(講談社現代新書、初出は「日本的社会構造の発見」雑誌『中央公論』1964年5月号所収)を発表し、日本社会は欧米などとは違うタテ型の人間関係によって成り立っていると述べた。「世間」は古くからある言葉だが、阿部謹也は『「世間」とは何か』(1995、講談社現代新書)、『「世間」論序説』(1999、朝日選書)、『日本人の歴史意識』(2004、岩波新書)などの著作で「世間」がいかに日本人の行動を規定してきたかを論じた。

 本稿のテーマは、その後のインターネット発達によって日本社会はタテ型からヨコ型(ネットワーク型)にシフトしつつあるのか。「世間」はインターネットによってどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか。そして、それらの事情が日本社会にどのような影響を与えているのか、ということである。

 結論的に言えば、日本社会はインターネットがもたらす変革の波に真正面から向き合ってこなかったために根底から揺るがされ、①その過程で社会の長所は失われ、逆に短所は増幅されている、②しかも変革の時代に対応する新しい社会システムはいまだ生み出されておらず、日本社会はいよいよ混迷の度を深めている、ということである。<よろずやっかい>⑥の最後に「古い秩序が持っていた長所もまた消えていく」と書いたけれど、その根はきわめて深い。ここに「日本社会特有のやっかい」がある。

・「タテ型」はだらしなくゆるんでいる

 欧米では(アジアのインドなどでも)「資格」が問題とされるのに対して、日本では「場」が問題とされる――これがタテ社会論の骨子である。タテにつながる序列が重視される結果、日本企業の終身雇用制、年功序列賃金、家族ぐるみの労務政策、企業内組合などの特徴が生まれた。

 『タテ社会の人間関係』には「一体感によって養成される枠の強固さ、集団の孤立性は、同時に、枠の外にある同一資格者の間に溝をつくり、一方、枠の中にある資格の異なる者の間の距離をちぢめ、資格による同類集団の機能を麻痺させる役割をなす」、(年功序列制に関係して)「個人の集団成員との実際の接触の長さ自体が個人の社会的資本となっている……、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAからBに変わるということは、個人にとって非常な損失となる」という、ある程度年配の人なら(とくにタテ社会をヨコに生きようとした私の場合)身につまされる記述もある。

 この辺の事情は、当然のことながら、インターネットによって劇的とも言えるほどに変わった。いまや終身雇用制は崩れつつあり、転職する人は増え、ヘッドハンティングもめずらしくない。資格が重視されるようになった面もあり(資格取得が一種の流行ともなっている)、「枠」集団としての一族郎党、あるいは家の求心力は減退している。つい最近まで「社畜」だと揶揄されていた企業従業員も、いまでは非正規雇用が4割を占め、家族ぐるみの雇用形態はほとんど消えつつある。

 日本人を縛る「場」の力は明らかに弱まっている。転職すれば必ず給料が下がることもないし、上司が仕事帰りに部下を赤ちょうちんに誘う行為もときにパワハラであると非難される。会社主催の忘年会、新年会もだいぶ様子が変わってきた。

 日本社会がヨコ型にシフトしているのはたしかだが、問題は、タテ社会の絆が緩んだ割にはヨコ型の連携、あるいは競合が密になったようには思えないことである。タテ社会という基本構造(骨組みとしての枠)は残っているが、だらしなくゆるんで形骸化しつつある。その結果、組織のタガは緩み、働く人びとのアイデンティティは薄れがちである。

 内部はシロアリに食い尽くされながら外見は保っているマホガニーのドアのようで、一蹴りすれば一挙に崩れそうで、しかもなかなか崩れない。その間に食品の不当表示、製品の検査結果改竄などの企業不祥事が多発している。

 中根は、連帯性のない無数の大小の孤立集団を束ねるものとして中央集権的政治組織、いわゆる官僚機構に着目し、「日本社会における社会組織の貧困が政治組織の発達をもたらした」と述べているが、それを支える官僚たちの使命感はすっかり薄れ、省益と天下りと政権への忖度だけが幅を利かせている。タテ社会空洞化の象徴とも言えよう。

・「世間」という身の回りの世界

 日本社会の宙ぶらりんな現状は「世間」を通して、よりはっきり見えてくる。

 世間という言葉はもともと、移り変わる世をさす仏教用語だが、私たちの回りを取り囲むぼんやりとした集団として、万葉の昔から意識されていた。阿部謹也は「仕事や趣味や出身地や出身校などを通して関わっている、互いに顔見知りの人間関係」だと述べている。

 ひと昔風に言えば、地域の青年団だったり、学校共同体だったり、会社組織だったり、あるいは作家などの文壇だったり、企業内組合だったり、弁護士団体だったり……、私たちはいくつもの世間に取り囲まれて生活してきた。この世間という場がタテ社会を形づくってきたとも言えよう。

 個人(individual)も社会(society)も明治初年に外来語として輸入され、社会科(公民)教科書などでは、個人が集まって社会を構成するという西欧的な考えが教えられたけれど、それを教える教師も、教えられる生徒も、彼らの家族も、地域の人びとも、自分たちは世間を生きていると感じてきた。世間は学問の対象にならず、それゆえにかえって強い力を発揮した。

 世間の特徴の最たるものは、個人が存在しないこと、内と外を区別することである。身内にはやさしく、他人には冷たい(あるいはよそ者として無視する)。内と外に対しては異なった道徳が適用され、欧米流の個人は社会を作り、社会はどこまでも広がっていくという発想は育たなかった。世間は「差別の道徳」、内と外のダブルスタンダードである。また世間は生まれ落ちた時から身の回りにあり、したがってそれを変えるという発想も育たず、「長いものには巻かれろ」式の事大主義的発想が強かった。

 阿部は「日本人は一般的にいって、個人として自己の中に自分の行動について絶対的な基準や尺度をもっているわけではなく、他の人間との関係の中に基準をおいている。それが世間である」と言っている。

 中根の本に、日本の学者が海外で同僚研究者に言及されたとき「彼は私の後輩である」と言ったとかいうエピソードが紹介されているが、彼もまた世間の住人だったわけである。

 世間論が話題になった二十数年前、阿部謹也や佐藤直樹のような人が強調していたのは、戦後日本においても世間は衰えるどころかかえって強固になって、高度経済成長を支えてきたということだった。

 さて、インターネットと世間はどう関係しているのだろうか。

 若い人が世間を意識することはあまりないと思うが、それでも「世間の目」とか、「世間体が悪い」とか、「世間に対して申し訳ない」というような言い方は聞いているだろう。ここに世間が残っている。

・「世間」が「社会」への目を曇らす

 1対多の関係で個人が社会と向き合わざるを得ないIT社会は、日本人が個としての主体性を確立できるチャンスかもしれないと私は思ってきたが、期待は裏切られたようである。ここに世間が強い影を落としている。

 問題は、グローバルに開かれているはずのインターネット上にも世間は存在するということである。むしろ、しぶとく生き残っていると言った方がいい。世間は主として顔見知りの人びとからなる比較的小さな集団だから、「サイバー空間における世間」というのは理屈の上でも、規模から見ても矛盾だが、サイバー空間上でいびつに変容した「世間」がその良さを失うととともに、日本人の「社会」への関心を曇らせている、というのが私の見方である。<よろずやっかい>➆でふれた「サイバー空間の行動様式が現実世界に逆流する」傾向のために、これが現実世界にも無視できない影響を及ぼしている。

 Web2.0でブログが話題になったころ、日本の多くのブログは必ずしも社会に向かって何かを発言し、それについて意見を交換するという構えをとらず、むしろ仲間うちのおしゃべり道具として使われた。「眞鍋かをりのココだけの話」というタイトルが象徴的だが、井戸端会議の延長のように考えられたのである。また、はてなとかニフティとかいったIT企業が日本人のために用意したブログサイトには、ネット上に「共同住宅(世間)の心地よさ」を保証する工夫もほどこされていた。人びとは原則的には開かれた場所で情報発信しながら、ある程度隔離された仲間内の空間にいる幻想を与えられたと言っていい。

 若い人の場合、ブログが社会に開かれているという意識すら希薄だった。文章も第三者が読んでもチンプンカンプンの場合が多く、仲間(身内)に伝わりさえすればいいので、もともと第三者(他人、よそ者)に読んでもらおうと思っていない。

 それは、インターネットというメディアに対する無知、あるいは無関心に基づいていたが、当の本人たちはそれでいっこう差し支えなかった。もちろんブログの性格はさまざまで、堂々たる論陣を張ったり、自分の知見を惜しげもなく公開したりして、多くの人に読まれている質の高いブログもある。また、仲間うちのおしゃべりがいけないわけでもない。<よろずやっかい>⑤で紹介した梅田望夫の「日本のWebは残念」という感想は、「サイバー空間における世間」によってもたらされたと言えるだろう。

 この「開かれたインターネット」上の「閉ざされた空間」という矛盾(というか幻想)は、日本社会に何をもたらしたか。

 第1は、世間がいびつに変容する過程で、身内だけに限られていたとはいえ、それなりに機能を果たしていた内なる道徳も失われたことである。外からの闖入者に対してまともに対応しない。あるいは外から傍若無人に侵入する。そこでは「炎上」は起こっても対話は行われない(村八分的ないじめはなお猛威をふるっている)。

 世間の内と外を区別するダブルスタンダードはなし崩し的に溶融し、スタンダードなしという無法状態が出現している。タテ型の仲間内の道徳は消え、しかもヨコ型の普遍的倫理は生まれない。そこでは、道徳的な身のこなしそのものが消えている。

 そして第2が、より重要だと思われるが、サイバー空間上に居座る「世間」が、日本人から「社会」に向かう視点をますます奪っていることである。そのため、グローバルな社会を生きていくための行動基準が生まれない。かくして「何をやってもよい、何も禁止されていない」という「何でもあり」社会が出現し、「禁止事項が破られ、事実上無法状態」に陥っている。

 社会心理学者の山岸俊夫は1998年の時点で『信頼の構造』(東京大学出版会)を書き、日本人は世間の中で「安心」を調達するのではなく、グローバル化する社会を生き抜くための「信頼」を勝ち取る生き方に踏み出すべきだと説いた。彼は「世間」という言葉は使っていないが、論旨は、世間という集団主義的な社会に生きる日本人に世間からの脱却を促したものと言っていい。そのブースター(推進力)として彼が力説したのが「信頼」という行為である。

 その主張はこうである。

集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する。日本人は内部の人間関係に安心を見出しているが、外部の人間は他者として排除する(信頼しない)。
流動性が高まるこれからの社会においては、安心という消極的な態度ではなく、信頼(する)というより積極的な態度をとることが賢明な生き方になる。このような社会の変化に直面して、どうしたら集団の枠にとどまらない広い一般的信頼を人々の間に醸成することができるかを考えることは、現在の社会科学あるいは人間科学に与えられた重要な課題の1つである。

 彼は、他人を信頼するという行為が所属する集団を離れた新しい人間関係を築くのに役立つという「信頼の解き放ち理論」も提唱した。日本人らしさは日本社会を生き抜くための戦略だったに過ぎず(「日本人は集団主義的な心の持ち主であるというのは「神話」である」)、だから社会システムを変えれば日本人の行動スタイルも変えられるとも主張した。

 その社会システムを変えようとする発想が日本社会からなかなか生まれない。世間はしぶとく生き残っているとも、すでに溶融しつつありながら、残滓(残骸)がなお威力を発揮しているとも言えるだろう。

 なぜ安倍首相は身内(世間)本位の政治を強行しながら、その異常さをたしなめる声が周辺(家族、派閥、支持者など)から上がらないのか、国民はなぜそのような政権をいまだに支持しているのか。ここに「世間」をめぐる日本社会の宙ぶらりんな状況が反映している。

 これは<よろずやっかい>④で取り上げた「人間フィルタリングの解体」とも関係するが、昨今の政治状況の混乱は、「変容する世間の悪影響」を通して考えないと、説明がつきににくい。

 ひと昔前まで不祥事を起こした企業経営者や政治家は記者会見で口をそろえて「世間を騒がせて申し訳ない」と謝った。自分の罪を認めるのではないが、新聞紙上で取り上げられたり、逮捕者が出たりして、世間(会社、派閥、役所など)に迷惑をかけた責任を取るという論法だった。ところが森友・加計問題、桜を見る会などの疑惑に関して、安倍首相から「世間を騒がせる」という表現すら聞いたことがない(「安倍首相」&「世間」で検索したかぎりでは、本人の発言と世間を結びつけるものはなかった)。「世間」にどっぷりつかった政治をしながら、頭の中では「世間」が消えているようなのだ。

 日本人論の古典、ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、日本文化の型を「恥の文化」と規定した。欧米型の罪の文化は内面的な規範に従おうとするが、恥の文化は外面を保つことを優先すると言ったわけで、恥の文化を生んだのも世間だったと言える。しかしいま、一部の日本人から恥の文化も消えつつあるのは確かである。

 阿部謹也は世間の意義をそれなりに認め、世間を個人と社会の媒介項にできないかと提言したことがある。「現在、私たちは『世間』という観念を相対化しなければいけない状況にあります。『世間』のなかに個が縛られている状況を脱却しなければいけないと私は考えていますが、しかしそれと同時に『世間』が持っていたかつての公共性的機能を失うことなく保持することができるかどうかも大問題です」。残念ながら、世間は個人と社会の媒介項にはなりえなかったのではないだろうか。

 また、山岸は後に書いた『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(2008、集英社)で、「戦後日本で長らく続いてきた集団主義の『安心社会』はもはや時代遅れのものとなり、日本もまたアメリカのような開放的な『信頼社会』へと変化しつつあるという印象を受けます」と述べる一方で、「残念ながら、今の日本人は信頼社会にうまく適応できているとはとうてい言いがたい状況であると考えます」、「本来ならば、安心社会の崩壊は既得権益を持った大人たちの危機であり、信頼社会の成立は未来ある若者たちにとっての福音であるはずです。それなのに、その若者たちが信頼社会への変化を嫌い、身の回りにある友人関係という小さな安心社会にしがみつき、その中での『平安』を求めているとしたら―これは日本の将来にとっても、また若者たち自身の未来にとってもゆゆしいことと言わざるを得ません」とも述懐している。

 まことに悩ましい日本の現状がここにある。

・「社会」に目を向けない政治

 世間も一つの社会資本(ソーシャルキャピタル)だと考えると、現下の政治や経済の動きは、従来世間が持っていた長所を積極的に解体しながら、それに代わる新たな社会資本は築こうとしない、というより深刻な問題が浮かび上がる。

 個人の視点で考えると、世間に包まれていた安心は無残に奪われ、IT社会に剥き出しで放り出されるようなものだが、皮肉なことに、こういう政治状況を私たちがむしろ支えているわけである。

 今春闘を前に経団連(経済団体連合会)が発表した「2020年版 経営労働政策特別委員会報告」は「新卒一括採用や終身雇用、年功型賃金を特徴とする日本型の雇用システムは転換期を迎えている。専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要」と述べている。 

 日本型雇用システムの見直しという提言自体、すでに新味がないとも言えるが、従来の企業経営が引き受けてきた従業員丸抱え雇用のくびきから解放されたいという思いが前面に出ている。メンバーシップ型(新卒者を定期採用して社内教育によって一人前に育てる)からジョブ型(すでにスキルを持っている人材を採用する)に変えようというのは、一見、時代の波に適合しているように見える。しかし会社ぐるみの教育や福祉政策は重荷なのでやめたいと言っているに等しく、それに代わる社会的な教育方法、労働市場、あるいは福祉政策をどう進めるかについては言及がほとんどない。

 国内労働力が不足なら安い外国人労働者を雇えばいいとか、かけ声だけの「一億総活用社会」とか「働き方改革」などみな同工異曲である。日本の古いしがらみ(社会資本)は捨てるけれど、IT社会の今後にどう取り組めばいいのか、新しい社会資本をどう築き上げるべきなのか、日本はグローバル時代をどう生きてくのか、といったことへの真摯な取り組みは見られない。

 自分の仲間だけが、あるいは自分の任期中(生きている間)さえよければいいという、まさに阿部の言う「歴史意識の欠如」がいよいよ如実である(「政治家達も日本の将来などと口にするが、決して日本の将来を自分の今日の行動の中で考えているわけではない。彼らが考えているのは彼らの『世間』の中で今日をどう生きるかということだけである)。

 冒頭でも述べたが、日本人はインターネットの波にうまく乗ろうとするだけで、それが日本社会にもたらす影響に真剣に対応してこなかった。私は「IT技術は日本人にとって『パンドラの箱』?」の最後を、「社会システム全体が『組織』から『個』へと大きくシフトするとき、この新しい道具(インターネットのこと:引用時注)は日本人の『個』を育てないのみならず、かえって全体の『空気』を一方的に拡大する奇妙な装置として働きかねない。ITを金儲けの道具や便利さ追求の観点のみで使っていると、そこに出現するのは、『オープンな道具を使った不寛容な日本』という悪夢である」と書いたけれど、日本社会はいよいよ混迷の度を深めていると言っていい。

 ハラリの言うデータ至上主義によって、私たちの「個」そのものがばらばらに解体され、西欧的な個人主義の考え方そのものが試練に立たされている今、私たち日本人は待ったなしの状況に追い込まれている。

         混迷の度をいよいよ深める、やっかい

新サイバー閑話(41)<よろずやっかい>➆

ネットの行動様式が現実世界に逆流するやっかい

 私は、在特会(在日韓国人の特権を許さない市民の会) の参加者が、聞くに堪えないような激しく下品な言葉を投げつける心理がよくわからなかった。あんなことを面と向かってよく言えるものだと思っていたのである。

 その謎は、安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(2012、講談社)というすぐれたドキュメンタリーを読んで解けた。在特会の参加者たちは、ネットを通して集まり、ネットで悪口雑言を書きつけると同じ感覚で、目の前の人びとに過激かつ下劣な発言を浴びせていた。目前の在日韓国人を「見て」いるわけではなく、自らの内なるルサンチマン(憤り・怨恨・憎悪などの感情)を見て、と言うか、それに駆り立てられて、ただ闇雲に叫んでいるようである。

 本書によれば、在特会のデモに参加するのは日ごろから自分の境遇に強い不満を持っている人が多く、「市民の会」と名乗っているけれど、現実世界における相互の連絡というか、つながりはほとんどない。ネットのみを介して広がった団体で、彼らは現実の集会でも、ネットと同じように仮名しか使わない。

 社会から取り残されて行き場のない不安や怒りを抱えた人びとが、その怒りの矛先を自分よりも恵まれない在日韓国人などにぶつけている。いや、自分たちより恵まれないはずなのに、特権を得てぬくぬく生きているという誤った情報をもとに、それを仲間内で拡散しながら、デモに参加、うっぷんを晴らしている。

 彼ら自体、生活基盤をほとんと喪失しているので、言動はネットの書き込み同様、激越なものになる。現実世界ではほとんど惰性で生き、在特会デモという特殊な空間でのみ過激に生きる、そしてデモが終わると、すっきりした気分になって、たとえば、淋しいアパートの一室に帰っていく。パソコンやスマートフォンの電源を切ればすべてが消えていくように、自分の行動も忘れていくように思われる。

 こんな参加者の感慨も記されている。「はっきり言えば……酔いました。自分は大きな敵と闘っているのだという正義に酔ったんですよ。いまとなってみれば、なぜに在日を憎んでいたのかは自分でもよくわかりません」、「在日が、なんとなく羨ましかった。……僕らが持っていないものを、あの連中は、すべて持っていたような気がするんです」。

・現実世界で孤立した人びと

 著者は「私が接した在特会の会員は、友人や家族には活動のことを隠していたり、または最初から理解させる努力を、なかばあきらめているケースがほとんどだった。この運動は、あくまでもネットを媒介として進められる。けっしてリアルな人間関係から生まれたものではない」、「事件当日の様子はすべて在特会側によってビデオに撮影され、動画投稿サイト『YouTube』『ニコニコ動画』に即日アップされている。それらを映した動画は大量にコピーされ、一時期はネット上を埋め尽くす」、「恐ろしいことに、このような『在特特権』のデマは、何の検証もなしにネットでどんどん拡散されていく。それを見て『真実を知った』と衝撃を受け、在日を憎む人々が増えている」などと記している。

 だから彼らは、ネットの中(サイバー空間)と同じように現実世界で過激にふるまう。現実世界の人的、地理的な制約がなく、周囲にブレーキ役もないネットの言動が、現実世界に流れ出て、大きな力になり、それが現実世界を動かしている。在日韓国人たちに肌で接触することも、直接の悩みを聞くことも、彼らの存在についてゆっくり考えることもない。

 著者は在特会の現、あるいは元活動家にも果敢にインタビューし、次のような興味深い発言を引き出している。

「ネット言論をそのまま現実世界に移行させただけなんですよ。要するにネットと現実との区別がついていないんです」、「在特会ってのは疑似家族みたいなもんだね」、「地域のなかでも浮いた人間、いや地域のなかで見向きもされていないタイプだからこそ、在特会に集まってくるんです。そして日の丸持っただけで認めてもらえる新しい〝世間〟に安住するんです。……。朝鮮人を叩き出せという叫びは、僕には『オレという存在を認めろ!』という叫びにも聞こえるんですね」、「連中は社会に復讐しているんと違いますか?私が知っている限り、みんな何らかの被害者意識を抱えている。その憤りを、とりあえず在日などにぶつけているように感じるんだな」。

・日本人の行為から消えた「佇まい」

 在特会に集う人びとは、現実世界のどちらかというと下層に住む「うまく行かない人」(一登場人物の表現)、屈折した信条をもつ人、社会にもやもやとした不満と憎悪を持つ人びとであり、それがネット内の書き込みを通じて在特会に引き寄せられた。彼らはスケープゴートとして在日韓国人とその「特権」を見つけたのである。

 著者は「在特会を透かして見れば、その背後には大量の〝一般市民〟が列をなしているのだ。私が感じる『怖さ』はそこにある」、「在特会は『生まれた』のではない。私たちが『産み落とした』のだ」とも述べている。

 2016年のアメリカ大統領選でトランプ大統領に投票したと言われる、東部から中西部に広がる「ラストベルト」(さびついた工業地帯)の白人労働者の心情ともダブるところがあるように思われる。

 ついでながら<よろずやっかい>⑤に関係することとして、「ネット言論では〝激しさ〟〝極論〟こそが支持を集める」と述べた後で、リベラル派の退場について、「彼らはそうした〝大衆的な〟舞台から降りることで、いわばネット言論をバカにした。いや、見下ろした。結果、大衆的、直情的な右派言論がネット空間の主流を形成していく」という興味深い指摘もあった。

 在特会はネット社会の落とし子である。現実世界で孤立していた人びとがネットで結びついて街頭に出てきた。その時にネットでの行動様式をそのまま現実世界に持ち込んだ。聞くに耐えないような罵詈雑言の温床はネットにあったというべきである。

 少し古いが、一時期、出版危機について精力的な発言を続けていた小田光雄(『出版社と書店はいかにして消えていくか』や『ブックオフと出版業界』)は日本人の行動がかつて持っていた「佇まい」について、以下のように記している。

昔でしたら、駅弁を買うとフタの裏側についている御飯を食べることからはじめるというのが当り前で、駅弁を食べる姿にもそれなりの佇まいがありました。それがひとつの食の文化ではなかったでしょうか。……。食べ物が捨ててある風景も日常茶飯事のものとなりました。食事なら捨てられませんが、エサだから捨てるんではないでしょうか。……読書が精神の営みではなく、単なる消費的行為になった。本が精神にかかわるものなら捨てられないが、消費財や単なる情報だったら簡単に捨てることができる。

「佇まい」という言葉はすでに死語になったようだが、昨今における国会論議(首相答弁)の殺伐とした光景を見ると、ここにもネットの行動様式が現実世界に逆流している影響を感じざるを得ない。

 かつて私はすべての人が情報発信できる時代には、万人が「情報編集の技術」を身につけ、ネットの環境を美しくすべきだと主張してきたが、ネットの情報環境がどこまで美しくなっているかはともかく、サイバー空間における悪しき行動様式が現実世界に逆流し、それが現実世界をいよいよとげとげしいものにしている。

 ここにもIT社会の深い闇がある。何もかもインターネットのせいにするのは技術決定論だと批判されるかもしれないが、インターネットという技術はそれほどの強い力を持っている。

 そして、在特会を力で押さえつけても、あるいは現実に彼らの行動を規制できたとしても、問題を根本的に解決するのは難しい。ここには政治の貧困が横たわっているが、在特会に集うかなりの人びとが、これら底辺の社会問題を正面から解決しようとしているとは思えない安倍政権に抗議せず、むしろ支持さえしているのは皮肉である。

 ネットの行動様式が現実世界に逆流し、それが現実世界を動かすパターンの変種としては、以下のようなケースもある。

 政権シンパがネットを使って、自分たちの気に入らないイベントを「税金を使って〝非中立的な〟政権批判するのは許されない」などと騒ぎ立て、それを一部の政治家や著名人が受け、あるいはそれを扇動して、イベントを主催する役所や管轄官庁に圧力をかける。それに役人が唯々諾々と従う。

 こういう風景は日常茶飯になっているようだが、その変種、と言うより亜種について、<令和と「新撰組」⑤>で取り上げているので参照してほしい。

見れども見ない、やっかい

 恒例となった冬の避寒旅行で、今年はマレーシアのペナン島に来ている。到着早々、インターネットの配車サービスを使ったら、近くでコールを受けてくれたドライバーが「耳が不自由だけれどいいですか」と聞いてきて、了解の返事を出すと、ほどなくやってきた。しゃべることもできないが、インターネットならそれでつとまるわけである。乗車地も降車地もスマートフォン上の地図に表示されるし、代金も自動決済、何の問題もない。ドライバーは実に気のいい若者だった。

 ちなみに宿はインターネットの宿泊施設斡旋サイトで探した。コンドミニアムには日本各局のテレビ番組も配信されているから、日本にいたときと同じように「カラオケバトル」や「ポツンと一軒家」などを見ている。インターネットの便利さを十分に堪能しているわけである。

 それでも書きつける<インターネット万やっかい>である。

 読者(がいるとして)の中には、インターネットの影ばかりでなく、光についても言及すべきであるという意見が、あるいはあるかもしれない。たしかに、やっかいな問題を解決することこそがサイバーリテラシーの使命だが、何がやっかいなのかを明らかにするのが先決である。だからこのシリーズはなお続けるつもりだが、その後で、あるいはそれと並行する形で<よろずやっかい解決アイデア集>のようなものも始めたいと考えている。

 技術がもたらした問題の多くは技術で解決することが可能だろう。法による規制も有効である。ローレンス・レッシグがかつて述べたように、コンピュータのプログラム(アーキテクチャー)で工夫することも試みるべきだし、市場が解決に一役買うチャンスもある。さらに言えば、IT社会を生きるための基本素養(リテラシーと処世訓)を教える教育の役割も大きいと思われる。 

 これこそ周知を集めるべきテーマである。知人や読者の皆さんからもアイデアを教えていただき、それを紹介できればと思っている。堂々たる論考をお寄せいただけると望外の幸せでもある。以上、今後の心づもりを述べつつ、ご協力をお願いする次第です。

 

新サイバー閑話(40)<よろずやっかい>⑥

既存秩序の崩壊とアイデンティティ喪失のやっかい

 トランプ米大統領の突然のイラン攻撃とかカルロス・ゴーン元日産自動車会長の劇的日本脱出などに比べると、話は一気に小さくなるが、新年20日の通常国会での安倍晋三首相の施政方針演説はひどかった。

 昨年後半の大きな政治問題となった首相主催の「桜を見る会」に関しては、年をまたいでも関連文書の廃棄をめぐり内閣府の歴代担当者が処分されるなど紛糾しているのに、これに関して一切ふれず、政権が成長戦略の柱に位置づけてきたカジノを含む統合型リゾート施設(IR)に関しても、元内閣府副大臣(衆院議員)らが汚職をめぐり逮捕、起訴されているのに、これにもいっさいふれなかった。

 多くの国民が桜を見る会の首相説明は不十分と考え、IR推進に関しては強い異論もあるのだから、まずこのことにふれ、真相究明への努力を約束するなり、混乱に対する責任に言及するなり、何らかの態度を表明するのが一国の首相としてやるべきことだと思われる。

 安倍首相は、それをしない。

 その代わりに、今夏開催される東京オリンピック、パラリンピックを成功させようと訴え、日米安全保障条約署名60年の節目にふれて、日米同盟の強いきずなを誇示した。あとは政権のスローガンを羅列しただけとも言えるが、最後に改憲にふれている。意外なほどのわずかな分量だが、意欲が減退したと言うよりも、大事なことをさりげなく、かつ電撃的に、あっさり強行する「衣の下の鎧」が透けていると見るべきだろう。しかもそこで、あろうことか「未来に向かってどのような国を目指すのか。その案を示すのは国会議員の責任ではないでしょうか」と、野党議員の〝奮起〟を促した。

 盗人猛々しいと言うべきだろう。

 国会を無視、とまで言わなくても、軽視してきた当の本人が、自らの「悲願」である改憲に関してのみ、国会議員の責任を果たせなどと言う神経は常人には理解できないことである。

 安倍政権は発足以来、既存制度に組み込まれていた、民主主義を健全に運営するためのチェック機能を解体し、多くの憲法学者が違憲とする集団的自衛権容認を閣議決定するなど、自らの政策を強引に推し進めてきた。一方で森友、加計問題などの不祥事に関しては、のらりくらりと他人ごとのような答弁を繰り返し、挙句の果ては、肝心の証拠書類を官僚に改竄させている(官僚が勝手にやったことになっているけれど、忖度の任を果たした彼らにはその後の処遇で応えた)。こういった政権のあり方を「『非立憲』政権によるクーデター」と批判した石川健治東大教授の論考については、本<新サイバー閑話>の別稿でふれたのでそちらを参照してほしい。

 盗人猛々しいと言えば、自民党が昨年暮れ税制改正大綱を提示したとき、三木義一・青山学院大学長は、桜を見る会で税金の使い方が問題にされているときだっただけに、「税を公正に使ったことを証明できない人たちが税制を『改正』する」ことの不条理を指摘していた(東京新聞2019.12.13)。

 問題はこういうことではあるまいか。

 平気で嘘をつき、国会での野党質問に誠実に答えないような人物がなぜ総理大臣なのか、さまざまな不祥事にもかかわらず、なぜいまだに独裁的な力を誇示できているのか、安倍政権の閣僚たる人びとはなぜ「安倍首相はポツダム宣言を当然読んでいる」「安倍首相の妻・昭恵氏は公人ではなく私人」などという奇妙な閣議決定を連発しているのか、官僚たちはなぜ唯々諾々と政権の意向を忖度し、それに従うのか。野党の反撃はなぜかくも手ぬるいのか、メディアはなぜ問題の所在を的確に報道しないのか。それより何より、なぜ今なお、かなり多くの人びとが安倍政権を支持し、これでいいのだと思い続けているのか。

 この現代日本の深い病根の背景にも「デジタルの影」がある、というのが今回の<よろずやっかい>のやっかいなテーマである。

 ここにはインターネット発達以来、現実世界と並行するように、あるいはこれと入り混じるように成立したサイバー空間が既存秩序を突き崩しつつある現状が反映されている。もちろんその崩壊には、改善されてしかるべきものも多かったが、一方で人びとが長い間の生活で守り育ててきた地道でまっとうな生き方もまた同時に失われた。安倍政権をめぐる政治状況はその象徴のように思える。

 これは必ずしも日本だけの話ではない。世界中で、倫理観など持ち合わせていないような指導者が権力を私物化し、政治の理念を語るより権力闘争に明け暮れている。大国の指導者の中には安倍首相のお手本になりそうな人もいる。

 前回にも引用したカナダのメディア研究家、マーシャル・マクルーハンは、ラジオというメディアがなかったら、ヒットラーは歴史の舞台に登場しなかっただろうと言った(「ヒットラーの統治下にテレビが大規模に普及していたら、彼はたちまち姿を消していたことだろう。テレビが先に登場していたら、そもそもヒットラーなぞは存在しなかったろう」『メディア論』、原著1964、栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房)。そのひそみに倣えば、トランプ大統領も安倍首相もインターネットがなければ、現在のような〝活躍〟はできなかなかったように思われる。

 もちろん、彼らがインターネットをうまく利用して権力を握ったとだけ言っているわけではない(たしかにトランプ大統領はツイッターをよく使うけれど)。インターネットが人びとに与えた衝撃(驚きや歓喜だったり、逆に当惑と失望だったりしたけれど)がもたらしたかつて経験したことのない変化のうねりが私たちの足元を洗い、思わずふらついたその不意を突くような形で、現代の政治状況は成立しているのではないだろうか。

・「何でもあり」の風潮

 ここではその当惑と失望についてふれたい。パチンと割れる風船というよりも、音もなく消えてしまうシャボン玉に似て、ほんのかすかなものであろうと、それは全世界の片隅で、四六時中起こっている。そして塵も積もれば山となり、コロナウイルのように私たちを襲いつつあるのではないだろうか。以下はその塵の一部を素描したものである。

 私がまだ新聞社に在籍していたころの経験だが、1999年3月、広告会社・電通の発案で新聞の全国紙、ブロック紙、地方紙91紙を使って「意見広告キャンペーン」、題して「ニッポンをほめよう」キャンペーンが行われた。全国・ブロック紙では2ページ見開きで、左側に吉田茂元首相の顔写真が大きく載り、右側には「ニッポンをほめよう。」との大きな活字。本文は「『ニッポンをほめよう』は、わたしたち60の企業が発信する、共同声明です」で終わっており、59の企業名の最後に、朝日新聞には朝日新聞社、読売新聞には読売新聞社、日経新聞には日経新聞社というふうに、それぞれの掲載紙の会社名が載った。

 本文にはこう書いてあった。「政治が悪い、官僚が悪い、上司が悪い、教育が悪いと、戦犯さがしに明けくれるのは、もうよそう。ダメだダメだの大合唱からは、何も生まれはしないのだから」。

 まるでジャーナリズムを否定するかのような文言が含まれている意見広告に新聞社自らが名を列ねていることに対しては、当然、私の職場でも異論が出された。そのとき社員の1人から「今は何でもありだから」という発言を聞いた。折しも新聞産業はネットなどの新興メディアに押されて、部数も広告も減少しつつあった。発言の裏には「こんなうまい(おいしい)広告はめったにない」という気持ちが込められていただろう。今は何でもあり、できることは何でもして生き延びるしかないという諦観でもあったと思う。

 私は社外にも公表しているレポートで「現下のマスメディアに顕著に見られるのが『アイデンティティの喪失』である。多メディア化は、一方では新しいメディア企業による娯楽、スポーツ、生活情報など『売れる実用情報』提供を促進しつつ、他方では既存マスメディアにおけるジャーナリズム精神を衰退させているが、残念ながらその構図は、巨大資本の攻勢にたじたじとなり、あるいはそれに煽られて、マスメディアがジャーナリズム性を手放しつつある姿と捉えられるのかもしれない」と書いた(『表現の自由』の現代的危機について―インターネット規制と『サイバーリテラシー』」『朝日総研リポート』1999.6 NO.138)。

 インターネットが既存社会を破壊していくことに対しては、プラスマイナスの両面があるだろう。シュンペーターではないが、創造的破壊を通して経済(社会)は発展する。まず創造があって、ついで破壊が行われるのである。しかしインターネット(コンピュータ)という強力なイノベーションは、内部的な「創造」の契機が生ずるより先に、既存産業の「破壊」をもたらす。メディアに関して言えば、各企業はジャーナリズム機能を拡充するためのITを自ら開発するというよりも、シリコンバレー出来合いの技術を何とか利用して生きのびることしか考えるゆとりがなかった。

 外部からやってきた思わぬ破壊に直面した企業が、当の外部技術であるITを使って延命をはかろうとすれば、ITが持つ力にすがるのが精いっぱいで、自らのアイデンティティを保ちつつ、真の創造的発展を達成するのは難しい。そこではITの専門家、技術コンサルタントがもてはやされるばかりである。これは、多かれ少なかれ、他の産業の技術革新や異分野転出にも言えるのではないだろうか。

 ちなみに「何でもあり」という言葉は一般の辞書には載っていないようだが、オンラインで見つけた「実用日本語表現辞典」には「何をやってもよい、何も禁止されていない、といった状況を指す語。禁止事項が破られ、事実上無法状態に陥っているさまなどを指すことも多い」と説明されている。

・「等身大精神」の危機

 2005年に起きたみずほ証券の株誤発注事件も象徴的である。同証券の社員が人材派遣会社株の売り注文を「61万円で1株」とすべきところを「1円で61万株」と入力ミスしただけで、みずほ証券は約400億円の損害を受けた。

 ここで特筆すべきなのは、ほんのちょっとした、だれにでも起こりがちなコンピュータ入力ミスで、あっという間に会社に400億円の損害を与えてしまった社員はどう責任をとればいいのかということである。会社にかけた損害を賠償するという、ある意味でまっとうな考えはまったく意味をなさない。

 一方で誤発注を奇禍とした投資会社は多いところで120億円という大儲けをした。個人で20億円儲けた人もいた。20億円といえば、これまたサラリーマンが一生に稼ぐ額の十数倍である。

 かつてエコロジーの世界で、「等身大の技術」ということが言われた。過剰な技術によって自然を破壊するのではなく、ほどよい技術を使うことが大事だという考えで、たとえば、大型船でマグロを一網打尽にするのではなく、食べるに必要な分だけ一本釣りしながら自然のおすそわけにあずかるという共生の知恵だった。

 いまはコンピュータという精神機能拡張の道具が、私たちの知能の限界を打ち破る途方もない世界をもたらしている。こういうシステムに支えられていると、コツコツものを作り上げるといった仕事のありようが、どうにも馬鹿らしくなってくる。そこでは「等身大の精神」、別の表現を使えば、人間的なまっとうな生き方が危機に瀕していると言っていい。

 同じ年に起こったマンション耐震強度偽装事件は、設計の中核部分である「構造計画書」の数値が偽造され、震度5程度の地震がくれば倒壊の危険があるマンションやホテルが全国規模で建てられていたことが発覚したものだが、ここでも、一つの行為がもたらす結果があまりに膨大なために、建築士にしても、欠陥マンション量産業者にしても、犯した罪の責任をとりようがない状況が生まれている。

 逆に言うと、責任のとりようのないことを何の痛痒も感じずに行える状況に置かれている。両事件に共通するのは、「引き金の軽さ」と、それがもたらす「結果の重さ」である。

・盥の水といっしょに赤子を流す

 制度設計された当初の意図が空洞化し、恣意的に運営されがちな例は今に始まったことではない。問題はそのタガが完全に外れ、恣意的運営でどこが悪いというほどの野放図なものになっていることである。

 2つの事例を通して浮かび上がるやっかいな「塵」は、安倍政権、およびその周辺、さらには私たちにも大量に降りかかっている。

 先に上げた「何でもあり」の説明、「何をやってもよい、何も禁止されていない、といった状況を指す語。禁止事項が破られ、事実上無法状態に陥っているさまなどを指すことも多い」は、いかにも〝安倍〟的である。また「重大な結果」を熟議もせず、国民の声も聞かずに決めてしまう「引き金の軽さ」もまた安倍政権に特徴的である。

「サイバーリテラシーの提唱」で私は「毛虫がみずからの内部諸器官をいったんどろどろに溶かしてサナギとなり、一定期間をへたあとチョウへと変身するように、現代社会もまた時代の転換点にある」と書いた。既存秩序の崩壊は歴史が進むべきサナギ化の過程であるのは確かだが、問題はいま現代、どこにもチョウへと変身するきっかけが見えないことである。

 為政者、官僚、あるいは経営者、企業従業員、さらにはメディア企業、教育現場に至るまで、これまで営々と築いてきた価値を臆面もなくないがしろにする傾向が見られる。「決める政治」も、規制改革やイノベーションも、「盥の水といっしょに赤子を流す」結果になりがちで、古い秩序が持っていた長所もまた消えていく。

気が重い、我らが内なるやっかい

新サイバー閑話(38)<よろずやっかい>⑤

「良識派」がネットから撤退するやっかい

 ここで「良識派」というのは、ものごとをまじめに考えようとしている人びとという程度の意味である。リベラルな人もいるし、保守的思考の持ち主もいる。要はまっとうな人生を生きようとしている人びとである。

 そういう人びとが、かつてインターネットに希望を見出した。彼らにとってネット上のサイバー空間は現実世界のかなたに広がるフロンティアであり、ユートピアだった。よく言及されるロックバンドの作詞家、ジョン・バーロウの「サイバースペース独立宣言」(A Declaration of the Independence of Cyberspace、1996)はその記念碑的文書である。サイバー空間は現実世界と離れた別の世界と思われていたが、インターネットの飛躍的発展によって、両者は分かちがたく結ばれるようになった。本サイトに掲載している「サイバー空間と現実世界の交流史」はそれを時系列で図示したものである。

 そして、インターネットの可能性を高らかに歌いつつ、その明るい未来をも唱導しようとしたのが2000年ごろから活発化したWeb2.0の動きである。合言葉は「誰もが情報発信できる」ということであり、ウェブの世界は「見る」ものから「使う」ものに変わった。象徴的ツールはブログであり、ケータイだったし、グーグル、アマゾン、アップルといったIT企業がこれを牽引した。それはシリコンバレー躍動の時でもあった。

・梅田望夫の失望と退場

 日本においてWeb2.0を唱道した典型的書物が梅田望夫『ウェブ進化論』(2006、ちくま新書)である。彼はシリコンバレーの熱気にふれて感激、この本を書いた。「米国が圧倒的に進んでいるのは、インターネットが持つ『不特定多数無限大に向けての開放性』を大前提に、その『善』の部分や『清』の部分を自動抽出するにはどうすればいいのかという視点で、理論研究や技術開発や新事業創造が実に活発に行われているところ」である、と彼は羨望の念をこめて書いた。根底にはアメリカ人特有の技術楽観主義が流れており、彼は同じような動きを日本の若者に期待したわけである(「彼はシリコンバレーに行って、結局アメリカ人になった」というのが私の読後感だった)。

 そして、期待は完全に裏切られたようである。彼は2009年、ITmediaのインタビューで「日本のWebは『残念』」という言葉を残して以降、少なくとも日本のネットでの発言を控えているように思われる。

 こんなことを話している。「残念に思っていることはあって。英語圏のネット空間と日本語圏のネット空間がずいぶん違う物になっちゃったなと」、「英語圏の空間というのは、学術論文が全部あるというところも含めて、知に関する最高峰の人たちが知をオープン化しているという現実もあるし。……。頑張ってプロになって生計を立てるための、学習の高速道路みたいなのもあれば、登竜門を用意する会社もあったり。そういうことが次々起きているわけです。……。日本のWebは、自分を高めるためのインフラになっていない」。

 彼はどちらがいいとか悪いとか言っているわけではないが、日本のウェブのあり方に失望した様子が随所に読み取れる。日本のネットが英語圏のものとはずいぶん違うものになっているのは事実だと私にも思われる。

・東浩紀の深い徒労感

 東浩紀もまたネットの可能性に強く期待し、それを育てるために積極的に行動してきた人である。私はウェブ2.0が喧伝されていた2005年に彼にインタビューしているが、当時まだ33歳の若手哲学者で、グローコムを拠点にサイバー空間の制度設計や情報倫理の確立にエネルギッシュに活動していた。

 インタビュー冒頭で彼はこう語っていた。「いまの情報社会をめぐる論議はビジネスと政策が中心で、あとは技術的な視点が加わるぐらいで、人文科学的もしくは社会学的視点が少ないと感じています。僕としては従来の社会学、哲学、思想の文脈の上に、いままでの情報社会論の蓄積をうまく接続し、過去との差異を明らかにしつつ、情報社会論という学問領域の輪郭をはっきりさせたいと思っています。例えば『情報倫理』と言ったとき、いままで言われてきた倫理とどこが違うのかということですね」。

 「情報がネット上にないと、存在しないと同じになってしまう」というラディカルな発言もあった。

 彼のその後の活動は多くの人が知るところで、2011年には「この国の情報社会の経験を生かして、民主主義の理念を新しいものへとアップグレード」することを夢見た『一般意志2.0』(2011、講談社)という意欲的著作も世に問うている。その東が2017年には雑誌『AERA』で「ユーストリームが終了 『ダダ漏れ民主主義』の曲がり角」という原稿を書くに至った。

 動画にかぎらず、情報技術はつねに社会改革への希望と結びついてきた。WWWもブログもSNSも、出現当初は新たな公共や民主主義の担い手として期待を集めていた。しかし普及とともに力を失い、単なる娯楽の場所に変わる。いまやネットはフェイクニュースと猫動画ばかりだ。
 昨年の米大統領選は、まさにネットの限界を感じさせた出来事だった。その翌年にユーストリームの名が消えることは、じつに象徴的に思える。ぼくたちはそろそろ、ネットが人間を賢くしてくれるという幻想から卒業しなくてはならない。

 最後の「ネットが人間を賢くしてくれるという幻想から卒業しなくてはならない」という箇所に彼の深い徒労感と失望が表明されているだろう。

 何が起こったのか。

 ここには、いまの(日本の)ネットではまっとうな議論ができにくいという彼の気持ちが表明されている。この辺の心境の変化は、それより少し前に出版された小林よしのり、宮台真司、東浩紀『戦争する国の道徳 安保・沖縄・福島』(2015、幻冬舎新書)という、一見インターネットとは無関係なタイトルの本に興味深く記されている。

 この本は東が主宰する「ゲンロンカフェ」が小林、宮台という従来なら保守とリベラルを代表する論客を招いて、東が司会をした記録をもとに出来ている。ここでかつて論敵だった小林と宮台は完全に共闘モードに入っているが、そういう歴史的推移もまた興味深い。いまの日本でまともにものごとを考えようとすれば、自然に同じ土俵に乗ってしまうということだろう。

 3人に共通しているのが、インターネットが日本社会にもたらした負の側面を強く意識していることである。東だけの発言を拾えば、「人びとは共同体から剥ぎ取られ、都市に集められ、流動するアトム化した個人と化した。その状況を土壌として、いまや大衆迎合的なポピュリズムや全体主義の危険が無視できないレベルにまで高まっている」、「この数年で、インターネットというものに対する希望がかなりなくなってしまいました」、「いまの若い人は、とにかく、なにか問題がおきるとすぐにネットに書いちゃうんですね。『ネットで騒げば勝ち』という発想が刷り込まれている。……。内容が正しければまだいいけれど、さんざん膨らませて書く。こちらがそれに反応すると、また騒ぐ。『最近の若者は』的な愚痴にしかならないけれど、苦労してます」。

 同じような感慨は他の2人からも聞かれるが、3人が異口同音に「これからの社会を維持していくためにはインターネットと離れたコミュニケーションが大事」だと言っているのは少し意外な感じがする。もちろん、サイバー空間と現実世界の共存の道を探ってきた私としては同感するところがあるけれど、インターネットの旗手とも目されてきた東、宮台両氏にして、こういう感慨を抱くに至ったというのが興味深い。

 宮台はユーチューブでの動画配信などの啓蒙活動は続けているが、ネットでのコミュニケーションにはやはり愛想をつかし、現実世界に回帰しようとする気持ちが強くなっているようである。

 今度は宮台の発言を拾おう。「意味のある仲間との深い関係を築こうとするなら、ネットから見えないようにするほかはない」、「ネットでは議論をしてもしょうがないと思います。ツイッターでもブロックばかりしている」、「マクロにはもうどうにもならないと思う。そうであれば、マクロなこういう劣化現象から、自分の周囲にいる子どもたちを守るべく、インターネットから自立した『見えないコミュニティ』を作った上、子どもを『立派な人』―先生だったり先輩だったり近所の人だったり―の影響下に置くほかない」、「いまはネットでバカが大手を振る。『摩擦係数が小さい』がゆえに万人が平等な発言権を持って参加できるネット空間を、再構造化して、権威の階層システムをつくり直さなくちゃダメだと思うな」。

・「ネット上の争いでは、リベラルは99%負ける」

 もう一つ、ネット上の議論に関して言えば、いわゆるリベラルより保守の方が攻勢に出やすい面もありそうである。これもネット上で活躍してきたジャーナリストの津田大介はこの点に関して、「ネット上の争いでは、リベラルは99%負ける」と言っている。

 彼はネット上の言論でリベラルが守勢に立たされがちな理由として、①保守の人のほうがマメで、自分たちはどういう思想で、何を目指しているのかをちゃんと主張する、②本来は「革新」であるにも関わらず、リベラルな人のほうがスマホ率やSNS利用率が低い。日本の労働運動はテクノロジーを敵視してきた一面があった、③中道的な意見は左右両方から叩かれ、過激な意見を持つ人に支持が集まっていく結果、普通の人が発言をしなくなっていく、などを上げている。「リベラルが『多様であることがいい』、『多文化であることがいい』と訴えると、保守派の言っていることも認めなきゃいけないが、保守派はリベラルの主張を認めないから、その点がそもそも非対称なんです」とも言っている。

 フランスの思想家、ボルテールではないが、ネット上で「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」などと悠長なことを言っていれば、「お前の言っていることは間違いだ」と一刀両断する言論には歯が立たないわけである。

 これは、わずか140文字(英語などでは280字に拡大)のツイッターのつぶやきやスマートホンの小さな画面でのやりとりが多いというメディアの制約にも大きく関係している。マーシャル・マクルーハンにならえば、「メディアはメッセージである」。あるメディアを使うことが伝えるメッセージのありように影響を与える。

 宮台が最後にいった発言は<よろずやっかい>②「1人1票のやっかい」そのものだが、現在のネット上の言論が大きなバイアスを加えられているのは明らかだろう。もっとも、グループによって、あるいはジャンルによって、そして国際的なオンライン会議などでは、有益な議論が積み重ねられているはずだし、そのことを否定しているわけではもちろんない。

 一時(2008年ごろ)、生まれながらにインターネットに親しむ世代として「デジタルネイティブ」という言葉が話題になった。これら若者たちが、金儲けのビジネスではなく、国際的な社会貢献にインターネットを駆使している姿も報道された。ここにはインターネットの大きな利点が示されている。

 また、欧米はさておき、韓国でもユーチューブ上の政治番組が大流行しているというニュースを聞いた。日本でも自らの主張を直接ユーザーに届けるやり方として動画配信が盛んになりつつあり、それなりの効果を上げているように思われる。ただ、本シリーズの意図は現下のネット状況にはやっかいな問題があることを指摘するところにある(蛇足ながら、私自身「インターネット徒然草」と自認するほどの拙文をここにアップしているのは、見知らぬ誰かがひょっとして読んでくれるのではないかと期待してのことである(^o^))。

・サイバー空間の再構築と現実世界の復権

 私はサイバーリテラシーの課題として以下の3点を上げている(『サイバーリテラシー概論』2007、知泉書簡)。

①デジタル技術でつくられたサイバー空間の特質を理解する
②現実世界がサイバー空間との接触を通じてどのように変容しているかを探る
③サイバー空間の再構築と現実世界の復権

 いま大事なのは③ではないだろうか。サイバー空間再設計の努力であり、現実世界の重要さを見つめ直し、それを復権することである。言葉を変えて言えば、現実世界に軸足を置きつつ、インターネットを便利な道具として使う知恵を紡ぎ出すことだと思われる。

 ところで、この原稿を書いているまさに最中、ニュースサイト・BLOGOSのコメント欄が2020年1月をもって廃止される(正確には匿名コメントができないようにする)という報に接した。まともな意見、反論より、匿名による誹謗中傷、罵詈雑言が氾濫しているからである。

 今年(2019年)暮には、多くの人に利用されてきたフリーウェアのML(メーリングリスト)サービス、freemlも閉鎖した。ジャンルごとに息の長い議論を積み重ねていく仕組みや、書いたメールの内容を送稿前にチェックできる機能なども用意されたすぐれものだった。私も多くの恩恵を受けてきたが、実際の参加者はあまり議論することには使わず、ただの連絡用に重宝することが多かった。閉鎖の報を聞いたとき私は、インターネット上のコミュニケーションのあり方が大きく変わり、メーリングリストそのものが役目を終えたのだと悟らされた。

こんなはずではなかった、やっかい

 

新サイバー閑話(37)<よろずやっかい>④

「人間フィルタリング」が効かないやっかい

 2019年11月17日(日曜)、大阪市で行方不明になった小学6年生の女児(12)が約1週間後に栃木県小山市で保護された。この事件で印象深いのは、女児も、未成年者誘拐容疑で逮捕された容疑者A(35)も、先に容疑者宅に〝監禁〟されていた茨城県の家出女子中学生(15)も、いずれも周囲の環境から切り離されていた印象を受けることである。

 女児には兄姉がおり、母親との4人家族だった。彼女が家を出た午前中のひととき、姉も兄も家にいたというが、とくに気にもとめなかったらしい。母親は忙しい仕事の合間に仮眠していたようである。容疑者の方は立派な大人ではあるが、父親が早くに死亡、母親は親の看護で別居しており、一軒家に一人で住んでいた。3人兄弟で弟と妹がいるという。

 同月29日には東京・八王子市の会社員B(43)が愛知県内の女子中学生(14)を自宅に誘い出したとして未成年者誘拐容疑で逮捕されている。彼もまた一人暮らしだった。

・#(ハッシュタグ)家出少女

 少女と容疑者の中を取り持ったのはオンラインゲームやSNSだった。

 小学生とAはオンラインゲームで知り合い、その後の連絡は、ツイッターの当事者だけでメール交換できる(一般には非公開の)ダイレクトメッセージを使った。最初の接触から容疑者が少女を迎えにくるのに10日ほどしかたっていない。 

 A宅には先に中学生もいて、Aは彼女ともSNSで知り合った。その中学生の話し相手として小学生を誘い出したらしい。中学生の父親から出された行方不明届を受けて、茨城県警がA宅を訪れたことがあったが、その時、中学生は床に隠れていたというから、彼女の場合は監禁とは言い切れないようだ。小学生は、スマートフォンを使えなくされたり、脅されたり、1日1回しか食事がなかったりした環境に嫌気して逃げ出し、警察に駆け込んで事実が明るみに出た。

 八王子市の例では、各種報道によれば、中学生がまず「部屋を貸してくれる人いませんか」とツイッターし、Bが「のんびりしてください」、「ワンルームマンションなので一緒に寝ることになりますが大丈夫ですか」などと応答し、23日ごろに女子中学生を自分の部屋に住まわせたという。中学生と同居する祖母が行方不明届を出して保護されたが、彼女はB宅を自由に出入りしていたというから、これも監禁容疑で立件するのは難しいだろう。

 実はSNS上には家出少女の書き込みがいっぱいある。ツイッターのジャンル、たとえば#(ハッシュタグ)家出、あるいは#家出少女で検索すると、虚実とりまぜて、「家出したので(しようとしているので)誰か泊めてくれませんか」といったメッセージがたくさんあり、それに男たちが「とめよーか?」、「泊まる場所、決まっちゃいました?」、「お近くですけど、お助けしましょうか」などと答えている。その後に両者がダイレクトメッセージで交信すれば、あとはだれにも気づかれず話が進むわけである。

 ちなみに某日、ツイッターで検索してみると、「今日、家出しました。 誰か家に泊めてくださる方いませんか?1日だけでもいいので 性別問わないです。 盛って18歳の女子高生です。 助けてください。あと出来たらお酒を少々。つまみはなんでもいいです」などというのがあった。まじめな相談なのか、男を誘おうとしているのか、真偽は不明だが(盛ってはバストが大きいという意味)、こういう深刻度のあまりないメッセージがあふれているのが実態である。そして、子どもと大人が、女と男が気楽に会い、悲惨な事件が起き、あるいは犯罪とまではいかないようなアブノーマルな事態が発生している。

・フィルタリング&人間フィルタリング

 インターネットには危険がいっぱいだから、安易に異性と付き合わないように、知らない人にはついて行かないように、保護者はケータイにフィルタリングを設定するように、などと、かつては私も呼びかけたりしたものだが(『子どもと親と教師のためのサイバーリテラシー ネット社会で身につける正しい判断力』2007、合同出版)、スマートフォンが小学生の間でも広まり、フィルタリング機能を利用しないケースも多く、インターネットは子どもにとってまさに〝危険〟な道具になっている。

 今回の事件で思うのは、ケータイやスマートフォンの技術的なフィルタリング以前の問題、子どもたちを守るべき周囲の環境(人間フィルタリング)がほころびつつあることである。「人間フィルタリング」という言葉は、下田博次『ケータイ・リテラシー』(2004、NTT出版)から借用した。

 彼によると、インターネット以前は子どもの周囲に親、家族、学校、地域などがあり、大人たちが子どもに有害な情報をうまくより分けていた(フィルタリングしていた)が、いまは有害情報が子どもたちに直接入り込んでくる。

 いま有害情報のフィルタリング機能を強化することがあらためて叫ばれているわけだが、むしろ人間環境の側に大きな問題が生じている。人間フィルタリングが介在していないというより、フィルタリング機能を果たすべき、しっかりした大人が周囲にいない。「人間フィルタリングの不在」と言うより、「人間フィルタリングそのものの解体」である。

 それは言い古された表現ではあるが、家庭、地域、教育、あるいは会社という既存秩序の崩壊である。2つの事件を見てみても、子どもたちを取り巻く環境はまことにお寒い。大阪の女児はゲームにふけるようになって以降、不登校気味だったというし、周囲に「家も学校も嫌や」と話していたらしい。茨城の女子中学生も保護されたあと、「家には帰りたくない」と言ったという。容疑者の側にしても、2人とも一人暮らし、Aの場合は、父親の死をきっかけに生活の歯車が狂ったようである

 家庭の紐帯がゆるむ一方で、インターネットを通して外界との接触は容易になった。地に足がつかない状態の子どもたちは、大人たちの誘いにふらふらとさまよい出て行く。

・「第三の郊外化」

 家族の崩壊や教育現場の荒廃は、日本社会全体から見るとまだ一部で、その背後には健全な市井の社会が広がっているという見方もあるだろう。人気テレビ番組の「カラオケバトル」などを見ていると、家族ぐるみで参加者を応援する微笑ましい風景、親子の断絶とは無縁の世界が繰り広げられている。どちらが現在日本社会の縮図なのか、それを見極めるのは難しいが、両者の間に深い亀裂が存在するのは確かだろう。

 ここでこのシリーズの視点について、ふれておきたい。

 私は「小さな事実に注目しつつ、その裏に潜んでいる大きな問題を掘り起こす」手法を「一点突破豪華絢爛」と呼んで、ひとにも推奨してきた(『情報編集の技術、2002、岩波アクティブ新書)。新聞より雑誌向きだが、あえて1本の木を通して森全体を浮かび上がらせようとするものである。

 日本広報協会の月刊誌『広報』で12年以上、「現代社会に潜むデジタルの『影』を追う」という連載を続けてきた。デジタルの「光」の部分はむしろ他にまかせ、「影」の部分を追ってきたのも同じ考えからである(本サイバー燈台の「サイバー閑話」や「いまIT社会で」参照)。

 閑話休題。

 今夏は、かつて経験したことのないような集中豪雨が長野、千葉などを襲ったが、それが地球温暖化による天候異変のせいであるのは間違いないだろう。この地球全体の難題の被害が一部に集中して現れる。それと同じように、インターネットの抱える問題が「人間フィルタリングの解体」として目に見えるかたちで、ここに先駆的に現れているのではないだろうか(もちろん経済的、政治的、社会的な要因が絡んでいる)。

 社会学者の宮台真司は『日本の難点』(2009、幻冬舎)で、日本社会の「郊外化」について書いている。彼によれば、日本の郊外化は、1960年代の「団地化」と80年代の「ニュータウン化」の2段階に分けられる。団地化は専業主婦化に象徴され、その特徴は地域の空洞化と家族への内閉化(閉じこもり)だった。一方、ニュータウン化はコンビニ化に象徴され、ここでの特徴は家族の空洞化と市場化&行政化だという。

 宮台は郊外化の特徴を「<システム(コンビニ・ファミレス的なもの)>が<生活世界(地元商店的なもの)を全面的に席巻していく動き」だと述べているが、この言を借りると、ソーシャルメディア、スマートフォン、クラウド・コンピューティングと、パーソナルなデジタル機器が生活にすっかり浸透した現在は「第三の郊外化」と言っていいだろう(『IT社会事件簿』前掲)。

 第三の郊外化は、現実の都市の周辺に新たな物理的空間が出現する従来の郊外化とは違い、郊外は「サイバー空間」上にある。現実とサイバー空間が渾然一体となったことで、生活世界は根こそぎ空洞化し、社会そのものの風景が一変している。今回の事件はその象徴ではないだろうか。

・「データ至上主義」の予兆?

 サイバーリテラシー第3原則は「サイバー空間は『個』をあぶり出す」である。

 サイバーリテラシーの提唱では「水が水蒸気となって空中にただようように、私たちもまた既存の組織から解き放たれ、社会に浮遊する存在となる。家族の壁も、学校や企業の壁も、国境や民族の壁も突き破って、世界中の人びとと自由に交流できるようになるが、一方で、浮遊する自由のたよりなさは、人びとを困惑させ、孤独感や不安定さをも生んでいる」と書いたが、事態はいよいよ深刻になったとの思いが強い。

 やっかいなことに、今やその「個」が解体されて、個人のアイデンティティが喪失しかねない状況にある。ビッグデータは、さまざまな機会に個別に集められた個人のデータが、アルゴリズムで処理され、まったく別の用途に使われることだが、いつの間にかデータだけでなく、生身の個人がエキスを抜かれて腑抜けになっていく。だから、このような犯罪というか不祥事を解決するために、技術の力を借りて、スマートフォンのフィルタリング機能を強化しようとするのは、場当たり的な解決にすぎないだろう。

 現代社会の行く先に待ち受けているのは何なのか。それを鋭く洞察したのが世界的ベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』(㊤㊦、原著2015、河出書房新社)だったのだと私には思われる。

 ハラリは「外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能」になれば、「個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへ移る」と述べている。

 日本で個人主義が育っていたかどうかは大いに疑問で、この点については後にふれるつもりだが、日本人の伝統的な行動基準枠だった「世間」がインターネットによっていびつに変容しつつ、なお(かえって)根強く生き残っていることが、より一層、日本人のアイデンティティ喪失を早めているように見える。

 ハラリによれば、個人主義に対する従来の信念が揺らいだ後に待ち受けるものこそ「データ至上主義」である。そこでは、人間の心そのものが無視される。そういう観点で見ると、「人間フィルタリングの解体」をデータ至上主義の予兆、あるいはそれへの一里塚と見ることはあながち突飛なことではないだろう(ハラリのデータ至上主義に関しては<新サイバー閑話>(17)ホモ・デウス⑧を参照してください)。

やっかいなうえにも、やっかい

 

新サイバー閑話(36)<よろずやっかい>③

情報発信が金になるやっかい

 情報発信が金になるのがなぜやっかいなのだろうか。

 情報社会を成り立たせているのは商品としての情報と言ってもいい。情報を提供することで対価を得ること自体はふつうに行われてきた。新聞もそうだし、テレビもそう、出版活動も例外ではない。新聞はニュースを提供することで購読料を得、その大部数ゆえの広告収入も得てきた。テレビは企業からの広告料だけで成り立っている。そして作家たちはベストセラーを書けば、膨大な印税を得ることができた。

 だから普通の人がインターネットで情報を発信して、対価を得たとしても、それ自体は従来となんら変わらない。だれもが情報発信できる道具を得て、才覚のある人が、テレビ会社や出版社という既存のメディア産業と縁のないところで、ユニークな動画を配信したり、おもしろいブログを書いたりして、金を稼いでどこが悪いのか。悪いことなどあるわけがない、はずである。

・ケータイ小説・ユーチューバー・ピコ太郎

 2007年前後にケータイ小説ブームがあった。ケータイの投稿サイトで書きつけた若者の小説が人気になり、それを出版する業者が現れた。そのなかの『恋空』(美嘉、2006、スターツ出版)などは上下2冊で200万部を売り、映画にもなった。だれもが作家になれる時代が来たと言えなくもない。

 動画投稿サイトのユーチューブで人気の動画をアップすると、閲覧回数に応じて相応の収入を得ることができる。基準は1再生=0.1円とも言われ、ユーチューブの動画収入だけで生活する「ユーチューバー」が話題になったのも、もう「昔」のことである。月2000万円以上、年にすると1億円以上稼いでいる人もいるらしい。動画の再生回数を見ると、何万回、何千万回というのがけっこうあるから、塵も積もれば山となる計算だ。そのほかに自分のブログや動画に添付された広告収入も入る。

 サイバー燈台の<いまIT社会で>では、「ペンパイナッポーアッポーペン」(PPAP)という動画で世界的ブームを起こしたピコ太郎を紹介しているが、ある時点での再生回数は9467万回だった。彼の場合は、あっという間に人気者となり、テレビ出演や関連グッズ販売などの収入も大きかった。制作費10万円以下の動画で、1億円以上は雄に稼いだはずである。人気アーチストのジャスティン・ビーバーのように、ユーチューバーからメジャーに躍り出た人もいる。

 広告王手の電通が毎年2月に発表している「日本の広告費」によると、2018年は、毎年増え続けているインターネット広告が1兆7589億円で、テレビとほぼ拮抗するまでになった。既存マスコミ4媒体の中のラジオ、雑誌を抜き、ついで新聞を抜き、いまやテレビも凌駕する趨勢である。この広告費がクリック連動型広告などによって情報発信する個人にも配分されているのだが、これが「やっかい」な問題を生んでいる(追記参照)。

・広告のために事実をあっさり曲げる

 前回、匿名発言に関連して、2つの事例を紹介したけれど、両者には大きな違いがある。最初の例では、発信者は他人の発言を信じ、うっぷん晴らしに、それに輪をかけた激しい書き込みをしていた。それだけと言えば、それだけである。後者の場合には金がからんでいた。摘発された3人は警察の調べに対して、「広告収入を得るためだった」、「ブログを読んでほしかった」と述べたのである。

 ブログのアクセス数を高めることで、広告収入を稼いだり、ブログ運営者からの見返り収入を期待したりする背景がここに示されている。多くの人に読んでもらおうとすれば、事実よりも話題性に関心が向かう。だから週刊誌の記事では匿名だった人物を勝手に西田敏行と断定したように、どうしても表現は過剰になり、極端な場合、嘘でもいい。フェイクニュースが頻発する原因はこういう事情にもよる。

 既存雑誌などのイエロージャーナリズムとの境界をどこで引くかという問題はあるけれど、出版社やテレビ会社が社(組織)の責任において情報をコントロールしようとするのと、何もチェックする者がない個人との間ではどうしても差が出る。新聞で1本の記事が掲載されるまでには、筆者、デスク、整理部、校閲部など多くの人の目が通っており、それなりに正確さや文章などがチェックされている。

 今回も2つの事例を上げよう。

 2016年のアメリカ大統領選挙の際、ヨーロッパの小国マケドニアで10代の少年がつくったサイトが話題になった。彼がトランプ大統領に関するいい加減な記事を自分のウェブにアップしてフェイスブックにリンクを張ったら、思いのほかの反響があり、グーグルのオンライン広告でいくらかの収入も得た。これに味を占めた少年はサイトの名前もそれらしいものにして、トランプ支援の右派サイトから適当に記事をカットアンドペースト(コピペ)するようになる。大統領選が過熱していた16年8月から11月の4カ月間で、マケドニアの平均月収の40倍以上、16000ドルの収入を得たという。

 実情をルポした記事によれば、彼は「トランプが勝とうとクリントンが勝とうと興味はなかった。ただ車、時計、スマートフォンを買うお金やバーの飲み代がほしかった」と述べている。他国の話だから当然とも言えるが、それではなぜトランプ支援を選んだのか。そちらの方がアクセス数を稼げた、すなわち金になったからである。コピペする材料には事欠かなかったから、英語の能力が貧弱でも支障はなかったのだとか。

 次は国内、キュレーションサイトをめぐる事件である。

 ここでキュレーションサイト(まとめサイト)というのは、医術、健康、ファッションといったジャンルごとにインターネット上にあふれている情報を適当にまとめて読者の便宜をはかろうとするサイトで、2016年にDeNAが閉鎖した10サイトの実態を見ると、インターネット上で書くことがいかに事実、あるいは真実とかけ離れた行為だったかがよくわかる。

 記事の眼目は読者に正しい情報を届けるところにはなく、インターネット上の情報を適宜つなぎあわせた記事を量産して検索エンジンの上位に表示させ、そのことで莫大な広告料を稼ぐことだった。

 紙の新聞などでは記事と広告は分離されており、あくまで記事が中心、広告はサブ的扱いだけれど、インターネットでは当初から記事と広告は同居していた。キュレーションサイトはそれをさらに推し進め、記事は広告を集めるための手段にすぎず、だから情報の真偽はほとんど問題にされなかった。

 記事の多くを書いたフリーライターは、「知識のない人でもできる仕事です」としてクラウドソーシング(インターネットを通した求人)を通じて集められた。彼らは取材するよりもインターネット上の情報を適当に張り合わせることに専念、原稿料は異常なほど安く、比較的単価の高い医療系でも1文字当たり0.5円程度だったという。まるで記事を大量生産するブロイラー工場のようで、誤りも散見されたし、著作権侵害も頻発していた。それでも〝頑張る〟ライターの中には月収30万円という人もいたらしい。

 ここでは、かつてメディアというものが漠然とではあるが持っていた「正しい事実を伝える」といった姿勢そのものが消えている。それまでいわゆる「メディア産業」とは縁のなかったインターネット・ベンチャー大手、DeNAは、これら広告本位のサイトを有望事業と考えて大金を投じて買収、運営していた。個人のみならず、IT企業そのものも、インターネット上の情報が陥りやすい危険を体現していたことになる。

・「書く」という行為の変遷

 ネットの大半がどのような情報で占められているかは、たとえば中川淳一郎『ネットは基本、クソメディア』(2017、角川新書)に具体的事例をあげて紹介されている。

 ちょっと対象が限定されるけれど、彼によると、それほど知られていない某芸能人ってどういう人なのか、グーグルで検索すると、まず出てくるのが公式サイト、公式ブログというPRページであり、ついでウィキペディア、最近のニュースの順になる。そのあとにずらりと出てくるのが、彼が「勝手サイト」と名づける「『とにかく人々の興味を持ちそうなネタを網羅し、検索上位に表示させよう』といった意図を持ったサイト群」である。

 要は金稼ぎが目的で、従来の記事づくりが「足で稼ぐ」ものだったとすれば、これはインターネット上の情報をコピペするだけの「コタツ」記事だと彼は言っている。こうしてコピペ転がしの類似情報が氾濫する(中川の初期の著作は『ウェブはバカと暇人のもの』という直截的なものだった)。昨今では芸能、話題になった事件などをめぐるニュース仕立てのサイトでも同じ手法が踏襲されている。

 一時「ブログの女王」と言われたタレントの眞鍋かをりが「眞鍋かをりのココだけの話」というブログを始めたのが2004年、有吉弘行のツイッターフォロワー数が孫正義を抜いて日本1位になったのが2012年である。タレント、芸能人がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム、あるいはサービス)を使っていっせいに情報発信を始め、それへの応答が増えたことが、ネットの風景をだいぶ変えたのも確かなようだ。

 かつて清水幾太郎は「書く」という行為について、以下のように語っていた(『論文の書き方』1959、岩波新書)。

読む人間から書く人間へ変るというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻すことである。書こうと身構えたとき、精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で、人間は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことができる。しかも、同時に、自分の精神の奥へ深く入って行くことが出来る。対象と精神とがそれぞれの深いところで触れ合う。書くことを通して、私たちは本当に読むことが出来る。表現があって初めて本当の理解がある。

 ケータイやスマートフォンの書き込みは、書き言葉ではなく話し言葉で、文章は短く、断片的、断定的になりがちである。その極限が絵文字で、隠語めいたものもある。書くという行為の内実がずいぶん変わってきたわけで、こういうやりかたでコミュニケーションしていれば、思考方法もまた変わってくるだろう。そこに安易に金が稼げるという事情が覆いかぶさり、表現をめぐる状況自体が大きく変わってきた。

 フェイクニュースが量産されるのもやっかいだが、美しい文章への心配りが失われていくのもまたやっかいである。昔は一定年齢になると、『文章読本』などで書き方を学んだものだが、今はそういう教育はどうなっているのだろうか。

 これはたしかに、やっかい

 

追記 2020.3.13

   電通が2020年3月に発表した「日本の広告費」によると、インターネット広告費は、テレビメディア広告費を超え、初めて2兆円を超えた。「デジタルトランスフォーメーションがさらに進み、デジタルを起点にした既存メディアとの統合ソリューションも進化、広告業界の転換点となった」としている。

 

新サイバー閑話(35)<よろずやっかい>②

「1人1票」のやっかい

 1人1票というのは選挙の基本である。男も女も、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、賢者も愚者も、すべての人に平等に1票が与えられる。これは民主主義の前提でもある。

 インターネットのおかげですべての人が自ら情報発信できるようになった。それ以前は、日本人の多くが年賀状ぐらいしか文章を書かず、自分の意見は新聞に投書するしかなかったことを考えると、画期的変化である。老人や子どもなどの例外はあるとはいえ、すべての人が情報発信できるということは、インターネット上(サイバー空間)でも「1人1票」が保証されるわけで、これはめでたいことである。

 いや、めでたいはずだった、というべきだろう。これまでの社会システムの不備やコミュニケーション不足をインターネットが是正してくれるだろうという多くの人の期待は、たしかに飛躍的にかなえられたが、その背後で新たな「やっかい」な問題を生んでいる。

 めでたさも中ぐらいなりインターネット

 「1人1票」のやっかいは、端的に言えば、考え抜かれた責任ある言論と無責任な付和雷同型意見、さらにはためにする書き込みや虚偽情報(フェイクニュースなど)の間の区別がつかない、あるいはつきにくいことに由来する。

・匿名発言に意義を見出す試み

 問題はやはり、インターネットの匿名性(ハンドル、仮名を含む)にある。

 かつて1990年代初頭、まだパソコン通信の時代に、ネットでの匿名発言に高い意味を認めようとした試みがあった。場所はニフティの「現代思想」フォーラムで、参加者の討議を経て作られ、フォーラムで公開された議論のためのルール(えふしそのルール)は、きわめて格調高いものだった。

 議論の原則は「自由に発言し、議論し、そしてその責任を個々の会員が自己責任として担う」ものとされ、発言はハンドルという愛称のもとに行われた。本名は名乗らない匿名主義を採用した理由は、「どこの誰の発言であるか」ではなく、「いかなる発言であるか」が重要だと考えられ、「議論内容を離れて、発言者の性別・門地・社会的身分等々を畏れたり侮(あなど)ったりする態度は、思想と最も遠いもの」とされたからである (ニフティ訴訟を考える会『反論』2000、光芒社)。

 匿名だからこそ、現実世界の権威などから離れた真摯な議論が可能だとする考えは、いま思うと、目がくらくらするほどの真摯さである。だが、このフォーラムの議論が名誉棄損訴訟に発展した経緯を見ても、その意図は当初から波乱含みだったし、パソコン通信というなかば閉じられた言語空間だからこそ実現可能な試みだったとも言える。理屈の上ではグローバルに展開するインターネット上で、このような思いで匿名発言する人は、少なくとも日本では、ほとんどいないだろう。

 もう一つ、インターネット初期には、匿名による発言に積極的な意味を認めようとする意見もあった。匿名だからこそ、現実世界のしがらみの中で抑えられがちな社会の底に鬱屈した意見をすくい出してくれるのだ、と(森岡正博『意識通信』1993、筑摩書房)。

 しかし現実は、面と向かっては言えない心の叫びが浮き彫りにされるのとはけた違いの規模で、匿名情報の毒があふれ、社会が窒息しかねない状況にある。

・無責任な匿名発言の氾濫

 ネットの匿名発言は、自分は安全な場所に身を隠して他人を攻撃するために使われることが多い。とりあえず、2つの事件を上げよう。

 2009年2月、お笑いタレントKさんのブログに「殺す」などと書き込んでいた女性会社員(29)ら19人が脅迫や名誉棄損の疑いで警察に摘発された。彼らは20年も前に起きた都内の女子高生コンクリート詰め殺人事件にKさんが関与したと決めつけて、インターネットの掲示板やKさんのブログに「人殺し」、「犯人のくせに」などと悪質な中傷記事を書き込んでいた。地域も年齢もさまざまな人びとで、半数近くは30代後半の男性だったが、女性も含まれていた。

 書き込みは「××(芸名を名指し)、許さねぇ、家族全員、同じ目に遭わす」、「××鬼畜は殺します」といった過激なもので、23歳の女性のものは、「てめーは いい死に方しねーよ 普通に死ねても 確実に地獄行き 一人の女を無惨に殺しておいて、てめーは行きつけのキャバクラかスナックで人殺しの自慢してたんだよな てめー人間としてどうなんだよ 人殺しを自慢してそれで何になんの? おしえろや おまえ狙ってんのたくさんいるぜ」という凄まじいものだった。

 身元がわかると思っていなかった彼女は警察の調べにびっくり仰天、「掲示板の書き込みを本気で信じてしまい、人殺しが許せなかった」と話し、さらに追及されると、「妊娠中の不安からやった」と供述した。摘発された19人は氷山の一角で、多くの同じような書き込みがKさんを恐怖に陥れたのである(矢野直明『IT社会事件簿』2013、ディスカヴァー21)。

 2017年には俳優の西田敏行さんが覚せい剤で近く逮捕されるという偽情報を流していた3人の立派な大人(40代から60代の男女)が、偽計業務妨害の容疑で書類送検されている。彼らは週刊誌記事の匿名容疑者を勝手に西田敏行と断定して、自分たちのブログに書き込んでいた。

 警察がこの種の事件を捜査、摘発すること自体がきわめて珍しいわけで、インターネット上にはこのような無責任な発言があふれている。もちろん顕名、あるいは匿名で、専門研究や趣味の分野で中身の濃い情報がアップされており、それが有益な役割を果たしているのも確かである。考えるべきなのは、匿名による無責任な発言の数の多さである。

・見ないですませるのは無理

 部屋が汚れているのが気になって仕方がないと悩む潔癖症の女性に高僧が「ゴミなど見なければいいのだ」と言ったという話があるが、サイバー空間では、見ないでいようとしても、あるテーマに沿った意見集約ということになると、それらのデマ情報も、付和雷同的な意見も、考え抜かれた専門家の意見も、一つのデータとして、1票は1票として集計されがちである。

 それらの意見の格付けをすることは難しいし、そういうことをやろうとすれば、その基準をめぐってより深刻な事態が発生するだろう。というわけで、暇な人に金を払って賛成、あるいは反対意見をどんどん投稿してもらおうとする人が出てくるし、それが技術の力で量産されたりもする。いろんなIDを作って「1人何票」の人もいるし、他人に成りすましている人もいる。そういうメカニズムの増幅作用で、これまでなら社会の片隅に潜んでいた極端な意見が主流に引き出され、大きな力になって社会を動かす。見ないですませておくのも無理なのである。

 行方昭夫『英文翻訳術』(DHC)の暗記用例文集に’That all men are equal is a proposition to which, at ordinary times, no sane human being has ever being given his assent’というのがあった。訳はこうである。「ひとはみな平等だという命題は、普通は、まともな人なら誰一人認めたことのないものです」。

 人間はみんな平等であるというのは、フランス革命の人権宣言でも、アメリカ独立宣言でも、日本国憲法においても、高らかに宣言されている。一方で、この例文にあるように、建て前や原則はそうであり、それは尊重すべきものではあるにしても、個々の人びとを見た場合、やはりすべて平等というわけはないという実感、というか暗黙の了解もまた多くの人が認めるところであろう。

 言葉の背後にある、曰く言いがたい暗黙の了解(含意)が社会を円滑に動かす妙薬というか潤滑油、英国風に言えば、コモンセンスだった。碩学や専門家の意見には一目置く。自分も勉強して一歩でも尊敬する人に近づく努力をする。立派な人が醸し出すオーラに接して、見習いたいと思う……。これは現実世界にただようエトスであり、明文化されてはいないものの、それなりに規範として機能していた。

 この妙薬、潤滑油がヒエラルキー秩序のないフラットな世界ではなかなか働かない。考え抜かれた碩学の言であろうと、専門知識に基づいた深い理解であろうと、自己の利益のみを考えた意見だろうと、自分では何も考えず、他人に付和雷同して叫んでいる書き込みであろうと、あるいはただためにする投稿だろうと、「1票の価値」は変わらない。顕名であろうと、匿名であろうと、1票は1票である。そして機械的に集計される時、そのデータ(票数)のみが大きな意味を持つ。

 情報の質的変化も見逃せない。「電子の文化」では、言葉に表せない意味やニュアンスは「文字の文化」(活字の文化)以上にこぼれ落ちていく。2019年のノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんがインタビューで「なまじネット社会になったことで、表面的な情報はみんなが共有しているけど、肝心な情報は意外とつかめていない。『世間ではこう言われているけど、実はこうなんだよ』というような情報を得られていない」と言ったあとで、「情報を出す側は差し障りのない情報は出すけれど、ひそかに自分で考えているアイデアなんて、絶対に出さないですよね。もし出すとしたら、夜の席でワインを傾けながらでしょう」とつけ加えているのは、この辺の機微を指しているだろう(朝日新聞 2019.12.4 朝刊)。肉体的コミュニケーションの重みである。

現代の特徴は、凡俗な人間が、自分は凡俗であることを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。

 100年近く前、スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが勃興する「大衆」を前に語った言葉である (『大衆の反逆』、1930、桑名一博訳、白水社)。これをそのままインターネット上の匿名発言に適用するつもりはないけれど、かつての哲学者が恐れた事態がサイバー空間上でより先鋭に現出しているのはたしかではないだろうか。

なにはともあれ、これぞ、やっかい

 これからインターネットにまつわるやっかいな現象をとりあげていく。やっかいとは厄介と書き、『広辞苑』によれば、もともとは「①他家に食客になっていること」を指すが(たとえば「厄介になる」というふうに)、ここでは、もっと一般的な「④面倒なこと。手数のかかること。迷惑なこと」くらいの意味で使っている。

 2002年に本サイトに掲げた「サイバーリテラシーの提唱」は今でもそのまま通用するし、サイバー空間のアーキテクチャーとしての「サイバーリテラシー3原則」もまた変更の必要を認めない。

サイバー空間には制約がない
サイバー空間は忘れない
サイバー空間は「個」をあぶり出す

 当初喧伝されたインターネットの長所はWeb2.0を通じて飛躍的発達を遂げ、私たちの生活はもはやインターネットなしでは考えられないが、一方で、それがもたらすメリットが無視できない悪影響を社会に及ぼすようになっている。2015年ころからそれが加速しているというのが私の見立てで、それを仮にWeb3.0と呼んでいる。長年、IT社会とつきあってきた身にとっては、「こんなはずではなかった」と当惑することも多い。

 便利さと不都合が表裏一体になって展開しているのが「やっかい」なのである。そして、本シリーズではインターネットの負の部分に焦点があてられる。「サイバーリテラシー」は、IT社会をインターネット上の情報環境(サイバー空間)と現実の物理的環境(現実世界)との相互交流する姿と捉えることで豊かなIT社会を実現しようという試みである。その原点を踏まえて、これからいくつかの問題を取り上げていきたい。解決策は容易には見いだせない。それが「やっかい」のやっかいなところである。

新サイバー閑話(34) <インターネット万やっかい>①

はじめに

 これから始めるシリーズ<インターネット万(よろず)やっかい>は、サイバーリテラシー提唱以来念頭にありながら、取り扱う範囲があまりに広く、浅学菲才の身ではとてもカバーできないと、長らく放置してきたものである。どこかの財団あたりが総力を上げて取り組んでしかるべき課題でもあると思うが、『ホモ・デウス』を読んだ時は一時的に大いに発奮し、サイバーリテラシー協会を組織し、ハラリを顧問に迎えたいなどと夢想したものでもある(ホモ・デウス⑭)。

 それぞれのテーマは複雑にからみあっており、いずれも個々の研究分野、あるいは専門家の見解としてはすでに指摘され、改善策が必要だともされているようだが、具体的な制度設計になると、どこからどう手をつけていいのか、関係者の意見もさまざまで、とりあえず問題の指摘だけに終わっている(問題を先送りにしている)ことも多いのではないだろうか。

 その現状を断片的ではあるが、俯瞰して提示できれば、少しは意味があるのではないかと、ぼつぼつ書き始めることにした。拙著『インターネット術語集』的な、エッセイに毛が生えた程度の読み物で、古風な表現を使えば一老書生の手慰みだが、コメント欄などを通して、最新事情にもとづくご意見なり、ご感想なりいただければ、大変ありがたく、また議論を深めることもできるだろうと思う。

 取り上げるのは以下のようなことがらである。

 それ自体は結構なことだけれど、それによって生じた新たな矛盾を解決できないことがら。
 技術(インターネット)が現実世界の長所を失わせ、矛盾を拡大することがら。
 本来取り組むべき課題がよく見えないために、あるいはあまりに多忙な日々の作業の中で、身近な小さな矛盾解消でお茶をにごしがちなことがら。
 地球温暖化のように個別に対応できず、また早急に対応しなくても当面生きていけるという安心感から、とかく等閑視されがちなことがら。
 既存の秩序に安住していても自分の代は大丈夫だろうと、支配層が真剣に取り組もうとしないことがら。
 サイバー空間(ネット)の行動様式が現実世界に持ち込まれ、既存の秩序が混乱していることがら。

<はじめに>

 2000年ごろのWeb2.0をインターネットが持っていた潜在的可能性が花開いた画期だとすると、2015年ごろ以降はインターネットの抱える潜在的問題点が顕在化しつつある時代と言えるのではないだろうか。本シリーズでは、これをWeb3.0と呼ぶことにする。

 2.0ではIT企業主導でインターネットのプラス面が強調されたが、3.0ではむしろインターネットが社会にもたらすマイナス面を見極め、それにどう対処すべきなのかを、周知をあげて考えるべき時だと思われる。

 2.0をあえて上からの動きだと考えれば、3.0は下からの動き、突き上げが必要になってくるだろう。巨大IT企業がいよいよ躍進する中で、社会に、学者や研究者や技術者に、あるいは現場で奮闘する人びとやユーザーである私たちに、3.0を遂行する力があるのかどうか。

 これはイスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で提起した問題とも重なる。本シリーズでは、折々の出来事を振り返りながら、IT社会のやっかいな問題とは何か、私たちはそこでどう生きればいいのかを少しずつ考えていきたい。