新サイバー閑話(56)<平成とITと私>⑤

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊦

・『おもいっきりPC-98』で好スタート

 ムックを出すと決まったとき、私たちがまずPC-98を取り上げようとしたのは、当時、パソコンと言えば、日本電気(NEC)のPC-98(キュウハチ)と相場が決まっていたからである。これからはパーソナル・コンピュータの時代だと、これまで大型コンピュータを作っていた日本の電機メーカーは、日本電気も富士通も東芝も日立もシャープも、そろってパソコンを出し始めたが、その中でPC-98は圧倒的シェアを誇っていた。その代表的機種がPC-9801シリーズだった。「パソコンと言えば98」の時代があったのである。

 ちなみに国立科学博物館は2016年、科学技術(産業技術を含む)の発達に貢献した「未来技術遺産(重要科学技術史資料)」として9801を選んでいる。「日本で最も普及した16ビットパソコン」というのが選考理由である。

 コンピュータの頭脳部分であるCPU(中央演算処理装置)が16ビットで、ディスプレイは活字しか映し出せなかったし、もちろんマウスもなかった。それでもパーソナル・コンピュータがホビーマシンやビジネスツールから誰もが使える文房具へと変遷しつつある節目に登場、同時にその趨勢を大きくリードした名機だった。98は他社機種に対してサードパーティから提供されたソフトの豊富さで群を抜き、国民的機種としての地位を築いた。

 PC-9801シリーズは1983年10月に発売され、当初は29万8000円だった。メディア(記憶装置)は8インチのフロッピーディスクでハードディスクは内蔵されていなかった。85年のVMシリーズが普及機として有名で、ジャストシステムの日本語ワープロ、一太郎はこのころに出ている。86年5月に発売されたUV2からディスクドライブが5インチになった。

 私たちはこのVM2とUV2の2機種を購入して作業を始めた。まだパソコンが文章を書いたり編集したりする道具だとの認識が会社になく、会計用の「事務合理化ツール」という名目で予算請求したのが懐かしい。98シリーズが累計販売台数100万台に達したのは87年3月、まさにムック編集中の出来事だった(写真は最初のPC-9801。未来技術遺産選定時の資料から。

群小メーカーのソフトが妍を競う

 ムックおよびその後の雑誌『ASAHIパソコン』のコンセプトは「これからはだれもが鉛筆や万年筆のような文豪具としてパソコンを使うようになる。そのやさしい使いこなしガイドブック」というもので、ムックにもたくさんの実用情報を詰め込んだ。

 目次には「フレッシュマンもOLもエグゼクティブも今日からPCライフ」という巻頭カラー、98の先駆的利用者を訪ねた「98の現場」、当時のOS(基本ソフトだった)MS-DOS(エムエスドス)のガイド「MS-DOSこれで十分」などが並んでいるが、力を入れたのがアプリケーション・ソフトのガイド、「こんなときこのソフト 失敗しないソフト選び」だった。これは三浦君がフリーライターを動員しつつ、実際にそのソフトを使ってみて作り上げた苦労の作で、この実用情報の徹底紹介はその後の『ASAHIパソコン』の基本的な手法となった。

 当時はCD-ROMはまだ普及しておらず、ワープロ、表計算、データベースなどのソフトがそれぞれ独立して1MB(メガバイト)のフロッピーディスク(以下FD)に収納して市販されており、高価なものになると、FD何枚組かになっていた。

 そのとき扱ったソフトのうちワープロ、表計算、データベースのみ表示したが(ソフト、販売会社、価格の順)、個別にソフトの本数をあげると、ワープロ16、表計算5、データベース10 、グラフィック8、通信7、エディターを初めとするユーティリティ11など、全部で約60本になる。これらのソフトを初心者、中級者、上級者、個人向け、オフィス向け、スペシャリスト向けなどのラベルとともに紹介した。

 ほかにもハードウェアとしてメモリー拡張用のRAMディスク、外付けのハードディスク、通信用モデム、ディスプレイ、プリンタ(ドットプリンタやインクジェットが主流だったが、132万円のレーザープリンタも)なども細かく紹介しているから、便利な98ハンドブックになった。

 いまのスマートフォン・ユーザーには何の感慨もないだろうが、当時を知る人にとっては懐かしい名前ではないだろうか。ソフトメーカーは、ジャストシステム、アスキー、大塚商会、エー・アイ・ソフト、管理工学研究所、ダイナウェア、日本マイコン販売、ビー・エス・シー、ロータス ディベロップメント、マイクロソフト、ハドソンなど、これもなつかしい名前が並ぶ。ソフトウェアの世界はまだ寡占が出現せず、小さな会社が特色あるソフトを工夫して出していたのである。基本的にはFDに収容して用途別に市販され、ユーザーもそれらのソフトをディスクに差し替えて使うというまことに牧歌的な時代だった(ちなみに2022年現在のスマートフォンiPhoneの容量は64㎇から1TBまで。1TBは約1000㎇、1㎇は約1000MB。半導体の集積度に関する「ムーアの法則」の驚くべき結果である)。『PC-98』は、ムックとしては異例とも言える8万8000部を刷り、ほどなく増刷した。

 大型コンピュータの雄、IBMがパソコンに進出したのは1981年で、そのときの基本ソフト(OS)の開発を依頼されたビル・ゲイツがMS-DOSでその後のマイクロソフト隆盛の基礎を作ったのは有名である。IBMパソコンとの互換機はDOSVマシンと呼ばれ、次第に市場シェアを握ることになり、NEC、富士通、シャープなどが競い合っていた日本オリジナルのパソコンはグローバル化の波に取り残されていく。デザインの世界などで早くから人気のあったアップルのマック(マッキントッシュ)は、絵も活字と同じように扱えるビットマップディスプレイ、画面上のアイコン、マウスなどの体裁も整い、日本でもアート系の人びとに人気があったが、DOSVマシンもマイクロソフトが1995年にウィンドウズ95を発売するにともない、ユーザーにやさしいインターフェースの時代が花開く(前回ふれた小田嶋君が愛用していたマックSEは当時の人気機種だった)。

・ムック編集作業の舞台裏

 ムック製作は私たち2人だけの作業だったから、筆者から始まり、レイアウター、校閲、カメラマン、イラストレーター、デザイナーに至るまで、すべての人材を社外に頼ることになった。『PC-98』の巻末に「編集に協力してくださった主な方々」として15人の名を上げているが、当時『初めてのパソコン』という本を書いて売り出し中だったライター、山田祥平さんが「編集協力」として名を連ねている。彼にいろんなライターを紹介してもらったのが、私たちのスタートだったわけである(彼にはMS-DOSの解説も書いてもらっている)。全体のアートディレクションをパワーハウスの熊沢正人さんに頼んだが、彼には引き続き『ASAHIパソコン』を引き受けていただいた。『アサヒグラフ』以来の岡田明彦カメラマンには、人物ものからパソコンのキーボードの精密写真など何でもござれの活躍をお願いした。

 パソコン誌を作るのだから、雑誌づくりにパソコンを最大限に利用したいと、ライターの入稿から印刷会社への出稿まで、パソコン通信を使ってすべてを電子化しようとしたが、これは、実に便利でもあり、大変でもあった。

 当時はまだ紙に書いた原稿をレイアウト用紙とともに印刷会社に出稿、それを活字に組んでゲラをつくり、そこに筆者が朱を入れるというのが普通の雑誌作りだった。電子出稿となると、ライターの原稿を直すのに、紙に印字したハードコピーと電子ファイルの両方を直さなくてはならないし、印刷会社への通信での出稿は、過度期だけにいろいろ予期せぬトラブルがあった。夜中の午前2時ごろ、パソコンとパソコンをつないで筆者から原稿を受け取り、「深夜でも原稿が受け取られるのは便利だ」などと言いながら、その原稿を翌日午後4時までにレイアウトして印刷会社に出稿するような、非人間的な生活を送っていたのである。

 出版局プロジェクト室の他の人びとは夕方になるとほとんど引き上げてしまうので、広い部屋を自由に使えるのはありがたかった。夕方や夜になるとフリーライターが打ち合わせや入稿のためにやってきた。私たちは連日、ライターやカメラマンとのやり取りに忙しく、だいたい午前5時ごろ、掃除のおばさんがやってくるころに簡易ベッドにもぐり込み、午前10時にはもう席についていた(三浦君は、朝は私より遅く寝て、その午前中、私より早く起きる大車輪の働きぶりだったが、「この職場は労働基準法はおろか、日本国憲法の保護下にもない」と言うのが口癖だった。私は三浦君に何かことがあったら、ムック制作を諦めようと何度も思ったものである)。

 ムックの第2号は『おもいっきりネットワーキング』、ようやく盛んになりつつあったパソコン通信ガイドだった。ネットワークとして、PC-VAN(ピーシーバン)やアスキーネット、日経MIXなどを紹介している最中に、NIFTY-Serve(ニフティサーブ)が発足した。草の根ネットワークとして、地方のBBS(Bulletin Board System パソコンをホストにした小規模パソコン通信ネット)が個性的な活動を展開しつつあり、大分のC0ARA(コアラ)が話題になっていた。この号はネットワーキングの世界で精力的に活躍していた会津泉さんに協力してもらった。

 彼はネットワーキングデザイン研究所の看板を掲げて、すでに『パソコンネットワーク革命』などの著書があったが、黎明期のインターネットの発達(セルフ・ガバナンス)に尽くした業績は大変大きい。後には、スティーブ・ジョブズによってアップルに招かれながら彼を追放するという皮肉な役回りを演じたペプシコーラの元社長、ジョン・スカリーの伝記『スカリー』も翻訳している。

 COARAも彼の紹介で、大分での研究報告会を取材したり、事務局長の小野徹さんに寄稿してもらったり、三浦君の司会でCOARA会員たちの楽しいネット生活座談会をしたりと、13ページの「COARA白書」を作ったのも懐かしい思い出である。

・フロッピーディスクは、便利だがおっかない

 さて、三浦君が『PC-98』のソフト紹介などで奮闘しているころ、私はいろんな雑務をこなしながら、次に迫っている『ネットワーキング』の準備をしていた(食事をする暇も惜しくて、日曜などは食品売り場で2人分の弁当を買っていった。社に来るライターに買ってきてもらうこともあった。自宅から弁当を持参しても食べる時間がなくて、取材先や広告会社を訪ねる社のハイヤーの中で食べたりした)。

 各地の草の根ネット、BBSから主な百ネットを選び、そこでどんな会話が行なわれているかを紹介する、これも24ページ特集をすることにし、これをあるパソコン雑誌編集部に依頼することにした。締め切り1ヵ月以上前に都内にある編集部を訪ねて、人の良さそうな編集長に趣旨を話すと、気持ちよく承知してくれ、若い担当者も決めてくれた。「力仕事ですが宜しく」と頼んで、綿密な打ち合わせを行い、締め切りも決めて、それで私はやはり安心して他の仕事に没頭していた。

  途中で一、二度は電話連絡したが、すっかり任せきっており、いよいよ締め切りの日、原稿は届かなかった。翌日も、翌々日も。編集長に電話しても「いま担当者がいないもんで」と歯切れが悪かったが、真相は何と、担当者が突如、蒸発してしまったのだった。これまでの作業で蓄積した全データを入れた1枚のフロッピーディスクを持ったままである。当然あるべき予備のバックアップコピーもなく、独身のその担当者の部屋はカギがかかったままだった。

  1MBのFDにはざっと50万文字、400字詰め原稿用紙にして1250枚、ムック1冊の原稿がすっぽり収まってしまう。今とは比較にならないけれど、あの丸いペラペラのFDに24ページ分の記事と、1か月かけてのぞいたBBSの中味がすべて入っていて、それが一瞬にしてなくなったのは、まさに驚天動地の出来事だった。

  個人の扱える情報量が飛躍的に増えたという便利さがかえって新しい危険を生むという、情報社会の強烈なパンチをくらって、「パソコン誌構想も、ムック2号にして挫折か」と、しばらくは誰にも言えず、眠れぬ日々を過した。

  しかし、さすがに気がとがめたのか、担当者が深夜ひそかにFDを編集部の郵便受けに返してくれた。責任を感じた編集長氏が何日かの徹夜作業をしてくれ事なきを得た。のちに聞いたところによると、その担当者は前夜まで変わった様子はなく、「明日締め切りの仕事が残っているが進んでいない。これから徹夜だ」といって同僚と別れたという。家に帰ってパソコンに向かったが、一日の徹夜ぐらいではどうしようもない絶望的な仕事の進行状況に、あっけなくプッツン。善後策を検討するとか、上司に相談するとか、そういう行動は一切とらずに、はいさようなら、だったようだ。

  ちょうどそのころ、ソフトウェア会社の社長をしている友人から、「受注したプログラムを制作中、担当者が蒸発して、何千万円の借金を背負い込むことになった」という話も聞いたけれど、「パソコン業界はまだ若いだけに、おもしろくもあり、またおっかない」というのが私の感想だった。

 仕事で誌面に穴をあけて蒸発、会社をやめた当の担当者は、さぞかし心に大きな傷を負って、もはや再起不能、場末の飲み屋あたりで酒に溺れているだろうと、私はかってに想像していたのだが、ある日、その本人が大手ネットの掲示板にのんびりと書き込みをしているのを見つけた。メールを出してみたら、ちゃんと返事が来て、「その節は迷惑をおかけしたが、いまは新しいソフトハウスで働いている」とあっけらかんとしていたのには、また驚かされた。

 その特集「草の根ネット100」だが、「広島のラーメンはここが一番」、「太田貴子ファンによるボード・ミュージック」「核は地球を灰にする」などの話題をピックアップしながら、全国100のBBSネットを紹介しており、パソコン通信初期の熱気と自由な空気がみなぎる貴重な資料になったと自負している。「年内には1000局の大台に乗る」との予想も掲げているが、時代はそのようには動かず、今ではフェイスブック、ツイッターなど、それこそグローバルなコミュニケーション・ツールが真っ盛りである。

・「分からない人は読まなくていい」じゃ困る

 特集の中には、パソコンを使った「BBSの作り方」という4ページものもあったが、編集長氏もそこまでは手が回らないと、別の筆者を紹介してくれた。その原稿はほどなく出稿されたが、難しくて素人にはさっぱり分からなかった。「これじゃ、分からないよ」と私が言うと、彼は「技術に関する記事は、分かる人が読めばいいので、分からない人は読んでくれなくていい」と答えた。

 なるほど、そうなのだった。パソコン誌の記事は専門用語が並び、素人にはちんぷんかんぷん、とても読む気がしなかったが、書く方が「そういう人に読んでもらう必要はない」と考えていたのだ。科学技術の筆者には今でもその傾向があるように思われる。

  私は「これから出すムックは、専門家向けのものではない。パソコンの初心者でも分かるように書いてもらわないと困る」と言ったが、筆者はなかなか自説を曲げない。彼が「分かった。書き直す」と折れたのは、例によって深夜だった。「それはありがたい。ついては締め切りは明日の昼まで」と私は言い、さすがにこれは無理かなと思ったが、日曜昼にはすっかり見違えるほどの、すばらしい原稿が届けられた。

 納得しない限りテコでも動かないが、分かったとなると、誇りをもって仕事に取り組む若い筆者の姿に感激したが、先方も気持ちよく「今後の記事づくりのために、いい経験になった」と言ってくれ、お互い、目をしょぼしょぼさせながら、気持ちよく別れたのだった。

 他のムック、『おもいっきりワープロ』はまだ利用する人の多かったワープロ専用機のガイド、『おもいっきり電子小道具』はラップトップパソコンから電子手帳、電卓、多機能電話、時計、おもちゃにいたるまでの、まさに電子小道具全カタログである。『ワープロ』では脚本家のジェームス三木のワープロ生活を紹介したり、演出家、鴻上尚史に「はじめてのワープロ通信」に挑戦してもらったりしている。それぞれハードやソフトの徹底紹介が基本だが、それでもいろいろ読み物に工夫しているのは、いま振り返るとほほえましくもある。それらの編集作業にも尽きぬ思い出があるけれど、今回はここまで。また別の機会に紹介することもあるだろう。

 多くの社外ライター、カメラマン、イラストレーター、デザイナーなどのおかげで、波乱万丈だったムックは5冊とも予定通り刊行できた。それは朝日新聞入社以来、私たちが一番よく働いたときだったのではないだろうか。各巻に「編集に協力してくださった主な人々」を紹介しているが、ほとんどが20代、30代である。40代はおそらく私だけだったと思う。ちなみに小田嶋君は30歳だった。みなさんにあらためて厚くお礼申し上げます。

 その結果、定期雑誌『ASAHIパソコン』が翌1988年から創刊されることになったのである。

 

 

新サイバー閑話(54)平成とITと私④

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊤

・小田嶋隆君の思い出

 軽妙洒脱な文章で世相を鋭利に切り取ることで人気があったコラムニスト、小田嶋隆さんが2022年6月24日、65歳で病没され、7月1日に送別会が行われ私も出席した。『アサヒグラフ』のあと出版局大阪本部に異動になり、そこでメディアとしてのパソコンをテーマとする新雑誌を構想、1986年から出版局プロジェクト室で準備を始めたが、そのとき小田嶋君(当時の呼び方に習い、以後「君」呼びさせていただきます)に会ったのだった。

 テクニカルライターふうではあるが、後年を思わせる達意の文章を書いているのに興味をもち、都内のアパートの一室に尋ねた35年前を今でもよく覚えている。たしか友人と同居していたが、アップルの最新機種、マッキントッシュSEが畳の上に無造作に転がっていた。

 <平成とITと私>はずいぶん間隔があいてしまったが、第4回は小田嶋君の死で突然蘇った辛く、懐かしく、また楽しかったムックの思い出を書くことにする。私よりははるかに年少の小田嶋君に先立たれるとは思ってもみなかったことである。

 アサヒグラフでコンピュータ取材をしたことをきっかけに私は「メディアとしてのパーソナル・コンピュータ」を対象とする新雑誌を構想、出版局プロジェクト室で同僚となった三浦賢一君(ずいぶん前に亡くなった)と2人で、『科学朝日』別冊として、5冊のムックを出すことになった。新しい分野にいきなり進出するよりは、まずムックを数冊つくって、販売、広告など業務も含めて、ならし運転しようというわけである。

 そのタイトルと刊行月日は以下の通りである。

『ASAHIパソコン・シリーズ』①おもいっきりPC-98(別冊科学朝日1987年5月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』②おもいっきりネットワーキング(別冊科学朝日6月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』③おもいっきりワープロ(別冊科学朝日7月号)
『ASAHIIパソコン・シリーズ』④おもいっきりデスクトップ・パブリッシング(別冊科学朝日10月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』⑤おもいっきり電子小道具(別冊科学朝日12月号)

・『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』

 これをたった2人で1987年4月から同年11月までの間に出した。社内にはパソコンに詳しい記者は皆無と言っていい状態だったから、私たちは編集者に徹して、執筆はほとんど社外のフリーライターに依頼することにした。このライターの1人が小田嶋君だった。

 このムックの売り上げが好調だったことが翌1988年からの『ASAHIパソコン』創刊に結びつくのだが、すでにマックに親しみパソコン通だっただけでなく、優秀な編集者にして科学ジャーナリストだった三浦君とシャカリキになって過ごした多忙な1年間はことさら思い出深い。先に記した熊沢正人さんも、このとき助っ人として参加してくれた。小田嶋君にまつわるほろ苦くも感動的な思い出は、4冊目の『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』をめぐってだった。

 いまはスマートフォンで音も映像も簡単に扱えるので、当時の状況はもはや想像するのも難しいが、1986年当時のパソコンは文字を編集するのが精いっぱいで、ようやく画像処理ソフトが市販され始めていた。パソコンにはまだ内臓ハードディスクがついておらず、画像ソフトもフロッピーディスクで提供されていたから、デスクトップ・パブリッシング(DTP、机上出版)という言葉はあったけれど、画像をそれなりに扱うためには大型コンピュータが必要だった。

 それでもパソコンの将来は画像処理が主役になるだろうという考えから、ムックの一環にデスクトップ・パブリッシングを取り上げたのだが、時代を先取りしすぎていたかもしれない。当時の有名な電子編集システムとしてEZPS(イージーピーエス、キアノン)を紹介しているが、パソコンより大型のワークステーションとレーザーコピア(レーザープリンタとイメージスキャナ)の組みあわせで598万円だった。

 さて、ムックをつくるにあたっては、市販のマシンやソフトを使って何ができるか、そのDTPサンプル集を目玉にすることにした。その作業を誰にまかせるか。いろいろ検討した結果、私たちが白羽の矢を立てたのが小田嶋君だった。彼はわりと簡単に「いいですよ。おもしろいですね」と請け合ってくれた。

 24ページの大特集を予定し、締め切り1か月前に発注した。私たちはそれで安心して他の作業に没頭していたのだが、締め切り日になっても原稿は来ず、電話すると、「1ページも書けていない」と言う。私は大いに慌てた。「すぐ社に来てほしい。これから24ページ作るのだから、1人じゃ無理だ。誰でもいいから、仲間を数人連れてくるように」。

 こうして小田嶋君は、3、4人の仲間を連れて編集部にやってきた。例によって、夜を撤しての突貫作業が始まったのである。ワイワイガヤガヤと話し合って、「一太郎と花子で作った短歌同人誌『蒼生』」、「EZPSで作った『足立銀河総合開発』会社案内」、「OASYSで作った『愛犬のDCブランド』広告企画書」、「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」、「NEWSで作った『ハイパーシャープペンシル』ユーザーズマニュアル」の5作品を、それぞれのシステムを紹介しながら作ることにした。

 仲間は入れ替わりがあったので正確な人数は覚えていないが、私は小田嶋君グループを「逃がさない」ことを第一義に、全員に社の簡易宿泊施設(2段ベッド)に泊まり込んでもらった。仮眠するときも警戒を怠ることなく(^o^)、3日ぐらい作業を続けたと思う。いまならブラック企業と批判されるところである。作業終了後、小田嶋君たちは不精ひげをはやしたまま、げっそりして帰っていったが、私たちとて同様だった。

  そして出来上がった作品は――、いずれもすばらしいものだったのである。私は小田嶋君およびその仲間の実力に心底感心した。本文の創作は言わずもがな、美しいカットやグラフ、写真、表をあしらった、立派なDTP文書が完成したのである。

 小田島君は「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」を担当してくれたが、本文、囲みインタビュー、イラストなどすべてに工夫が懲らされ、飲んべいの先輩記者が登場したり、怒ってばかりいる会長が登場したり、それは本人ふうであったり、編集者へのあてつけふうだったりしたが、なかなかの出来栄えでもあった。

・短歌同人誌『蒼生』

 私が感心したのは友人のK君が作った短歌同人誌『蒼生』だった。最初のページには、入道雲に朝顔をあしらったカットの下に「『蒼生』発刊の辞」がある。

   墨痕鮮やかという形容があります。私などは悪筆の方なので、人様から立派な書を見せて頂くのは大変嬉しいのですが、一筆お願いしますなどと頼まれると赤面せざるを得ません。
 歌は自身の内より湧き出てくるものですが、できればそこに詠み込んだ心のありかたというものを、人様にも知って頂きたい。そうすることで自らの感興をより深め、また歌として定着させることができる。
 今回、最先端技術であるデスクトップ・パブリッシングを採用して、町田短歌会同人誌『蒼生』を発刊しましたのは、より深く短歌を味わい、歌の心を知るためなのです。
 新しいモノ好きのお調子ものかもしれませんが、美しい文学、楽しい絵、美しい言葉を求めるのは当り前のことなのです。新しきを温ねて古きを知るというのも、決して無茶な話ではない。文化という範疇は広いですが、心と切り離して語ることはできないものなのです。

 いかにも短歌同人誌の主宰者が書きそうな文章で、しかもデスクトップ・パブリッシングという「課題」をうまく取り入れている。続いて、○○○○○選、▽▽▽▽▽選、歌枕再発見などが続くが、いずれも歌と選評が書かれている。その中の5首の項を紹介する。

五首 阪本耕平
 八月二十二日、勤めより帰りて深夜に読む。
 故郷ではもう草取りは終わりだと端末にむかい虫を取っている
 ぬばたまの闇夜となりて停電に書きかけの文の失われし
 ハンカチを濡らして瞼に乗せて冷やす熱暴走の葉月を過ぎて
 蝉の声にかぶさるようにディスク読む指先は湿るキーの固い冷たさ
 プログラム飛びし夕暮れ火もつけず我はひとつの80286となりぬ

選評 島原白山子
 藪入りは打ち水の道一人往く蝉しぐれにのみ送られて往く
 作者の阪本君は、大手コンピュータ会社のソフトウエア開発部門に勤務する弱冠二十三歳。当会には四カ月前より参加と、まだ経験は浅いが、歌に対する真摯な態度には古株の会員達からも好意が寄せられている。まだ歌の形を成していないと、彼の作首を切って捨てることは簡単だが、五音七音にはおさまらぬカタカナ言葉に囲まれた生活、日本語の外にある仕事と、日本人であるおのれとの溝を三十一文字によって埋めんと欲する創作態度には、歌上手の先輩達の失ってしまった必死の心が感じられる。
 ここで取り上げた五首は、納期の遅れのために盆休みも取れなかったという阪本君が、墓参り代わりに詠んだというもの。
 最初の一首を除いては、故郷への思いは直截には歌われず、仕事道具であるコンピュータとおのれとの間にふと生じる隙間を直視することで、その違和感の闇を故郷まで透視しようとしている。まだ十分に成功しているとは言えないが、刻苦勉励の跡を見るという意味で、今回取りあげた。これを励みに、より一層の努力を望みたい。
  なお最後の歌の80286は、コンピュータの中央演算処理装置の型番である由。破調もまた歌である。

   見事な芸に、私はほとほと感心してしまった。最後の編集後記はこうである。

 本誌は、老体に鞭打って、デスクトップ・パブリッシングなる手法を用いて、完璧なる編集実務OA化のもとに発刊を行うことと相成った。短歌が上代より時代の節目には必ず新たなる冒険を必要とした如く、同人誌も常に新たなる冒険に望まねばならない。また、これで今迄、何かと行き違いの多かった田中印刷所の面々にも、恩返しができたというものである。

 この横溢する遊び心。私は、DTPサンプル集の扉に「ご注意 サンプルの内容は、フィクションです。実在の個人、あるいは団体とはいっさい関係がありません」との断り書きを入れたが、発売後、編集部に「『蒼生』編集部の連絡先を教えてほしい」との問い合わせがあって、私を喜ばせたのだった。 そんなわけでムックづくりは、ほかにもハラハラドキドキの連続であり、体力的にはずいぶん辛い日々だったが、新しいことを始める創造的楽しさにも満ちており、たった2人の編集部ながら、社内外の多くの人びとに助けられ、何とか無事に乗り切ったのだった。他のムックについては次回に記す。

 小田嶋君の送別会の席で、奥さんに「『ASAHIパソコン』の初代編集長」と名乗ると、よく覚えていてくださり、「矢野さんにはたいへん迷惑をかけた、とよく言っていました」とのことだった。私は持参した『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』を見せながら思い出話をしたのだが、小田嶋君が「迷惑をかけた」と言ったのはこのムックのことではなく、その後創刊した『ASAHIパソコン』のことだと思う。

 月2回刊の『ASAHIパソコン』でも毎号コラムを書いてもらい、その秀逸な文章に見出しをつけるのが私の大いなる楽しみだったが、締め切りは基本的に守られなかった。そのたびに電話をかけて厳しく催促していたのである。そのため休載は一度もなかったけれど、私としてもいささか気になっており、後年、彼が有名になり朝日新聞紙上で大きく取り上げられたとき懐かしくなって思わず電話、「激しい催促で申し訳なかったねえ」と言うと、「何でこんなに怒られるのかと思ったが、今ではあれもよかったと思う」と言ってくれた。これが最後の対話になった。

 奥さんに『蒼生』の話をすると、Kさんは明日の葬儀に来るとかで、会えないのはちょっと残念だった。

 小田嶋隆のその後の活躍は多くのファンの知るところで、私も『わが心はICにあらず』、『仏の顔もサンドバッグ』、『ポエムに万歳!』など、単行本が出るたびに購入しては、にやにやしながら読んでいた。最近では『日経ビジネス』連載、<小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明>が秀逸だったが、2011年から20年に至る10年間のツイッター発言を集めた『災間の唄』(2020)」は、本人があとがきに書いているように、「芥川龍之介先生の『侏儒の言葉』以来の‣‣‣大傑作」だと、「今回ばかりは言わせてもら」っても、だれも文句は言わないだろう。私はツイッターをほとんどやらないが、ぱらぱらとページをめくるたびに、往年の朝日新聞夕刊の傑作コラム『素粒子』(筆者・斎藤信也)のような、「山椒は小粒でもピリッと辛い」冴えに感心しきりだった。本人はこれからもツイッターを続け、続集を刊行する予定だったらしい。反骨を小脇に抱え飄々と生きた名コラムニストの早すぎた死に、あらためて深く哀悼の意を表します。

新サイバー閑話(31) 平成とITと私③

最先端技術の世界に挑む

 『アサヒグラフ』のコンピュータ特集が好評だったことに気をよくした私たちはその後も、躍進するバイオテクノロジーの世界、コンピュータで武装するサイボーグ、進化するバーチャルリアリティとコンピュータ・ゲーム、巨大技術としてのロケット開発や核融合技術、がん治療最前線などの最先端技術の世界を立て続けに特集した。当時、ニュー・テクノロジーとかハイ・テクノロジーとかう言葉が盛んに喧伝されていた。

 全国の大学や民間の研究室、ロケット打ち上げ現場、国立がんセンターなどの病院をいろいろ取材したから、私と岡田カメラマンは一年中、全国を歩き回っていた。種子島宇宙センターにNⅠロケット打ち上げの取材に行って台風に遭遇、車を借りて〝強行取材〟、台風の写真で誌面を飾ったこともある。

 旅の先々でおいしそうなラーメン屋を勘で見つけて、ラーメン&餃子を食べるのが私たちの楽しみだった。しゃれた店構えや店頭に自動券売機を設置している店は避け、小さくて古い佇まいながら、これは良さそうだと思う店を選んで、それが成功したときは嬉しかったものである。

 巻頭カラーだけでなく、モノクロページでも、コンピュータ達人になった少年たち、町工場に進出しはじめたヒューマノイド・ロボット、土を忘れて〝翔ぶ〟農業(水耕栽培)、建設が急ピッチで進められる東北新幹線上野地下駅など、技術が変えていく社会の風景も取材した。

 これらの仕事は後にカラー版の旺文社文庫に『コンピューターの衝撃』(1983)、『現代医学の驚異』(同)、『巨大科学の挑戦』(1984)の三部作としてまとめられた。


 この取材を通して私は多くのことを学んだ。

 まず技術の目覚ましい躍進ぶりである。しかも技術現場のシステムは巨大化し、個々の技術者が全体を見ることはどんどん不可能になっていた。『巨大科学の挑戦』のあとがきでは「科学技術の営為が巨大プロジェクト化すればするほど、プロジェクト全体を掌握することは難しいし、また実際に現場の技術者たちは、自分たちに与えられた職務にのみ忠実で、その計画全体に思いをいたすことが少なくなっているようである」と書いている。

 当時、国家予算600億円を投じた原子力船「むつ」が放射能漏れ以来十年、東北―九州間を漂流したあげく廃船になるとのニュースが流れていた。

 もう一つは、技術の進歩は果たして人間を幸せにするだろうかという疑問だった。『現代医学の驚異』のあとがきで、がん取材でお会いしたある教授の言を紹介している。

「がんは簡単には撲滅できませんが、それでいいのかもしれません。もしがんが克服され、寿命が延びたとして、人類の未来はバラ色ですかね。ひとびとはますます子どもを産まなくなり、社会はそれだけ高齢化し、いよいよ活力がなくなるでしょう。それは灰色の世界かもわかりませんよ」

・日本情報社会の進展とパソコン

 最先端技術の世界を取材していたころは、日本が高度経済成長を謳歌していた時期であり、同時に社会が情報化へと向かう転換期でもあった。

 先にアルビン・トフラーの『第三の波』(1981)がコンピュータ取材を始めたきっかけだったことにふれたが、日本でも1980年以降、「高度情報化社会」という言葉が脚光を浴びるようになっていた。

 1980年には通産省(当時)産業構造審議会情報産業部会中間報告が「S家の一日」というエッセイ風の文書で、バラ色の情報社会の青写真を提示していたし(「団地」に代わって「ニュータウン」という言葉が登場していた。下図はそのイラスト)、雑誌『日経ビジネス』が「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集を組んだのは1982年だった。

 パソコン、ワープロ、電卓、軽自動車、携帯用ヘッドホンステレオ、ミニコンポステレオなど、当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという、鋭い洞察だった。

 日本情報社会論の古典とも言える増田米二『原典・情報社会 機会開発者の時代へ』(TBSブリタニカ)は1985年に出ている(サイバー燈台プロジェクト欄で小林龍生さんが梅棹忠夫『情報産業論』を読み解いているが、その1963年という発表年がいかに時代を先んじていたかは驚異的である)。

 情報社会出現を推進したのがコンピュータだったから、最先端技術シリーズの取材対象の中心には常にコンピュータがあった。特集「コンピューター」でもワープロ、パソコン、電卓を取り上げているが、パソコンはNECの8ビットマシン、8801シリーズであり、ワープロは小型化してきたとは言え、まだ50万円以上した。

 ちなみに私は1983年4月に富士通のワープロ、マイオアシスを86万1200円で買っている。「ザ文房具」というキャッチコピーで大相撲の高見山が宣伝していた機種である。これを月々1万5500円、ボーナス月6万5500円のリースにしていたのだが、ワープロもどんどん小型化、価格も安くなって、たしか85年ごろには1台10万円台の小型ワープロが登場、しかもより多機能になっていた。そのとき私のローン残高は20余万円、さすがに馬鹿らしくなって残金を一括で支払ってケリをつけた。コンピュータの小型化、それと同時の高機能化、低価格化を身をもって知った最初の出来事だった。

 さて海の向こうに話を移すと、世界最初のパーソナル・コンピュータは1974年に開発されたアルテアだと言われる。当時のアメリカは、ベトナム戦争をめぐって激しい反戦運動が巻き起こっていたころで、この小さなマシンは、IBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受け、そこからいくつかの成功物語が生まれた。

 学生だったビル・ゲイツと友人のポール・アレンは、アルテアを見て大いに驚くと同時に、大型コンピュータで使われている言語、BASICをアルテアでも使えるようにするビジネスを思いつく。同じころ、カリフォルニアのスティーブ・ウオズニアックとスティーブ・ジョブズという「2人のスティーブ」は、ガレージで「アップル」というパソコンを作り、1976年に同名の会社を起こした。

 大型コンピュータの雄、IBMも1981年にパーソナル・コンピュータIBM-PCを売り出し、時代はパソコンの時代へと移っていく。日本にも伝わっていたその一端を私は取材していたことになる。

・最先端技術シリーズとデスクの大崎紀夫さん

 ところで『アサヒグラフ』は週刊誌である。その1回の特集を作るために私たちは1カ月以上をかけて全国を取材した。当時のメディア業界、さらには朝日新聞という会社の鷹揚さを考えると隔世の感があるが、デスクにして名編集者だった大崎紀夫さんの存在なしには考えられない企画だった。

 彼はすでに大物編集者として社内外に知られた存在だったが、私たちのコンピュータ特集に巻頭25ページをあてがい、しかも大胆なレイアウトをしてくれたのである。社内モニターで高く評価されるなどの事情もあってシリーズ化へと結びついたけれど、いまでも彼には深く感謝している。

 編集局の出稿部(社会部)、整理部を経て、出版局『アサヒグラフ』にやってきた私は、希望して異動してきたとは言え、当初大いに戸惑った。新聞でももちろん写真は大きな力だが、やはり記事が中心だった。それがグラフでは「写真がつまらなければそれで企画は没」というふうに、記事と写真の関係は逆転した。大崎さんは常々「いい写真が撮れたらカメラマンの手柄。つまらない写真しか撮れなかったら編集者の責任」と言っていたが、写真と記事の関係ばかりでなく、私は大崎さんはじめアサヒグラフの先輩同僚から雑誌編集の基本を学んだ。

 記者と編集者とではまるで違う役割があることに気づかされたし、雑誌というメディアをどう作り上げていくかという編集ノウハウも学んだ。編集者としての私はアサヒグラフで、最先端技術シリーズで培われたのだった。

 日大全共闘の猛者だった岡田明彦カメラマンはずっと頼もしい相棒だった。「腰が痛い、腰が痛い」と言いながら、個々の対象物に鋭く迫って、豊穣なイメージを切り出す(紡ぎ出す)彼の写真が私は好きだった。シリーズ後半のころ、写真家団体の賞の新人賞候補になったと聞いたが、受賞を逸したのは少し残念だった。彼は無冠の帝王を標榜していたけれど……。

 こうして私は「メディアとしてのコンピュータ」をテーマにする雑誌を構想するようになる。

 

新サイバー閑話(30) 平成とITと私②

『アサヒグラフ』のコンピュータ特集

 これは平成というより昭和の話だが、私が『ASAHIパソコン』を構想するきっかけとなったのが『アサヒグラフ』のコンピュータ特集である。『ASAHIパソコン』前史として、このコンピュータ特集についてふれておきたい。

  1981年11月27日号で私は、大型コンピュータはもとより、登場しつつあったパーソナル・コンピュータ、さらにはすでに普及していた電卓まで、ハードウェアとしてのコンピュータのすべてを、全国の工場や店頭を隈なく取材して、巻頭25ページで特集した。

 パーソナル・コンピュータのもととなるIC(集積回路)の素材であるウエハーがシリコンの塊(インゴット)から作られる過程、小さなチップに複雑な回路が埋め込まれていく様子、そのチップの配線拡大図、されには使用済みコンピュータがうず高く積み上げられたコンピュータの墓場まで網羅したから、当時としては画期的なコンピュータ特集だったと自負している。トップページには、当時世界一計算が速いと言われたスーパーコンピュータ、クレイー1の写真を使った。当時のアサヒグラフは米誌「ライカ」のような大判だったから、裁ち落としの見開き写真が並ぶ巻頭25ページの特集は相当に迫力があった。

・後に日米特許紛争の舞台となったIBM3081

 技術には門外漢だった私がコンピュータを取材しようと思いたったのは、同じ年、アルビン・トフラーの『第三の波』 (1981年、NHK出版) が翻訳出版され、エレクトロニック・コテッジとかプロシューマ―という言葉が話題になるなど、これからはコンピュータが大きな力を発揮しそうだったからである。

 秋葉原には、「マイコンショップ」が雨後のタケノコのように開店し(当時はパソコンではなく、マイコンと呼ばれていた。マイクロチップ・コンピュータとマイ・コンピュータを掛け合わせたネーミングだった)、新宿では、中学生の講師が大人のサラリーマンにコンピュータの扱い方を教えていた。コンピュータにはたしかに世の中を変える力がありそうだった。「コンピュータって一体何なのか。物としてのコンピュータをきっちりカメラにおさめて、ずらりと並べてみたらイメージが湧いてくるのではないか」と思って取材を始めたのである。

 グラフ誌のメインは言うまでもなく写真である。その撮影をフリーカメラマンの岡田明彦さんに頼んだ。

 このコンピュータ特集にはいろんな思い出がある。そのいくつかを紹介しておこう。

 当時はまだメインフレーム(大型コンピュータ)の時代だった。その主力はIBMの3033シリーズで、最新機種として3081が売り出されていた。日本アイ・ビー・エムに取材を申し込むと「3081は受注生産を始めたばかりで企業秘密もあってお見せできません。ひとつ前の3033シリーズは、それこそ旧式で、お見せするほどのものではございません」とあっさり断られた。

 そこを粘って、「興味があるのはコンピュータそのもので、生産台数が分かる生産ラインなどは撮りませんから」と取材意図を説明して、結局、両機種とも見せてもらえることになり、我々はいそいそとIBMの滋賀県野洲工場に出かけた。

 雑誌には配線がびっしりと入り乱れた3033シリーズの中央演算処理装置や、逆にすべてがモジュール化されて金属の覆いが黒光りしている3081の中央演算処理装置が、ともに見開き写真として掲載されている。私たちは配線だらけの3033の方がいかにもコンピュータらしいと思っていたのだが、この3081はまさに最新機種で、後年、富士通との間で日米特許権争いが展開された機種だった。めくら蛇におじずというべきか、その核心部分を堂々と掲載していたのだが、もちろんハードウェアの写真だから、ソフトウェアは見えない(^o^)。

 ICチップ製作工程を熊本の九州日本電気で取材したのも楽しい思い出である。

 岡田君は別の仕事ですでに九州入りしており、当日午後1時に私が空路熊本に向かい、九州日本電気で落ち合うことにしていた。ところが当日は悪天候で熊本空港は閉鎖、私は福岡空港で下された。あわててタクシーを飛ばして現地に到着したのは午後3時である。簡単な打ち合わせはしてあったとは言うものの、何を撮るかまでは詰めてなかった。しかも共同取材を始めた初日である。結局、彼に2時間待ちぼうけをくわせることになった。

 いや、そう思っていたのだが、岡田君は広報担当者の案内で、どんどん撮影を進めていた。九州日本電気の鈴木政男社長のご協力もあり、撮影は私抜きでずいぶん進展していたのである。担当者が「ここの撮影は駄目です」と言う部屋にも、豪放磊落な社長決断で許可が下りたりした。最後の懇談の席で、鈴木社長が言った言葉が忘れられない。

「プロのカメラマンはさすがですねえ。私どもが見せたくないところの写真ばかり撮りたがるんですから」

 コンピュータ特集は岡田君と組んだ初めての仕事で、彼はそれこそコンピュータのコの字も知らなかった。彼の鋭いジャーナリスト感覚には私もすっかり感心、意気投合もして、その後、ずっと取材を続けるようになった。

・次いでソフトウェアに挑戦

 ハードウェアのコンピュータ特集が好評だったことを受けて、私たちは翌1982年4月30日号で、やはり巻頭25ページを使って、「特集コンピューター・イメージ 『幻視者』が生みだす衝撃の世界」を掲載した。

 前年は、三和銀行(当時)のベテラン女子行員がオンラインの端末を操作して1憶3000万円を詐取したのをはじめ、コンピュータを利用した犯罪が続発したため、雑誌もコンピュータ特集ばやり。単行本も続々刊行されていたが、ソフトの世界は絵になりにくく(写真に撮るのがむずかしく)、まともな写真はほとんどなかった。

「ソフトって何だ」
「プログラムのことだろう。計算式を撮ってもしょうがないなあ」
「ソフトってのはプログラマーの頭の中にあるんだから、プログラマーの頭のCT写真を撮れば、それがソフトだ」
「ソフトが、目に見えない『透明人間』だとしても、包帯を巻けば、見えてくるわけだなあ」

 などと言いながら、私たちは取材の焦点をコンピュータ・イメージに絞り、コンピュータが複雑な計算を経て作り出す画像の世界を見てまわることにした。

 取材を始めてみて驚いた。リモートセンシングの分野で、コンピュータ・グラフィックスやシミュレーションの世界で、あるいはがんなどの医療診断の最前線で、先端技術導入に意欲を燃やす技術者たちが、コンピュータを駆使して新しい画像を次々に作り出している最中だったのである。

 地球観測衛星ランドサットから見たカナダとアメリカの「国境」、日本列島の全容写真、気象衛星「ひまわり」が赤外線放射でみた地球の雲の動き、この年の台風1号の目、アンドロメダ大星雲、ようやく導入されつつあった航空自衛隊や日本航空のパイロット訓練用フライトシュミレータ、CT写真やサーモグラフィで見る人体などなど。

 今では日々の天気予報などでちっとも珍しくない写真だし、画面をそのままカラー印刷することもできる。しかし当時は、それらの画像をディスプレイに暗幕を張りつつ、アナログ写真に収めていたのである。しかし、これはこれで当時としては衝撃的で、けっこう話題にもなった。

 当時、日本電子専門学校の講師だった河口洋一郎さんのコンピュータ・グラフィックスも大々的に掲載した。彼はすでにわが国コンピュータ・グラフィックスの第一人者で、アメリカのSIGGRAPHで自己増殖する造形理論「グロースモデル(The GROWTH Model)」を発表し、話題になっていた。記事は「数学から美へ迫ろうというなんとも壮大な試みで、彼はコンピュータ―・グラフィックスを『画像表現の全過程を論理的に構築されたアルゴリズムに基づいて行う新しい芸術行為』と位置づけている」と書いている。

 後に川口氏本人が人懐こい笑顔に若干の口惜しさを交えて述懐したところによると、彼の作品を科学雑誌『ニュートン』が大々的に紹介してくれることになっていたのに、アサヒグラフに先行報道されたので、企画中止になったらしい。物心両面でずいぶん迷惑をかけた取材になった。

 活躍が日本でも評価されるにつれ、彼は筑波大学助教授、東京大学情報学環教授へと栄進した。2018年には東大教授を定年退官したというから、『アサヒグラフ』特集はずいぶん昔の話である。同誌は私が在籍中に判型が小振りになり、2000年には休刊している。

<新サイバー閑話>(24) 平成とITと私①

熊澤正人さんを悼む

 私が1988年にパソコン使いこなしブック『ASAHIパソコン』を創刊した際のアートディレクターで、それ以来の良き友であり、かけがえのない仕事仲間でもあった熊澤正人さんが2019年1月にがんのために亡くなり、彼の71歳の誕生日にあたる(はずだった)6月29日に家族、親族、デザイナー仲間、編集者などが集い「しのぶ会」が開かれた。 思えば、『ASAHIパソコン』創刊の翌年1月から平成が始まり、彼が去ったのは平成が終わる半年ほど前だった。彼とともに歩んだ平成という元号の区切りは、折しも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、まさにIT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。

 しのぶ会で挨拶する機会があり、その弔辞を読みながら、『ASAHIパソコン』創刊以来ずっとIT社会の変容を見つめてきた私自身の記録を残しておくのも、少しは意味があるように思われた。というわけで、この<新サイバー閑話>でも折々に「平成とITと私」と題するコラムを書きつけておこうと思う。

・<弔辞>

 熊澤正人さん、こと熊さんにはじめてお会いしたのは、私が朝日新聞出版局でムック『ASAHIパソコン』シリーズを創刊するためのアートディレクターを探していた時でした。たしか出版局プロジェクト室の先輩に紹介していただいたのだと思います。

 1987年初めでしたから、かれこれ30年も前のことです。そのときの熊さんのやさしい笑顔、穏やかな物腰は、その後の年月を通じて、がんに冒されて辛い闘病生活を続けた後年においても、ほとんど変わりませんでした。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

 最初はムックの第1号だけを引き受けてもらうことになっていたのですが、無理を言って5巻全部を担当してもらい、さらには、ムック成功を受けて創刊することになったパソコン使いこなしガイドブック『ASAHIパソコン』のデザイン全般もお願いすることになりました。その後、『月刊Asahi』、『DOORS』とおつきあいはずっと続いて、私が朝日新聞を去ってからも著書の装丁などでお世話になりました。

 『ASAHIパソコン』創刊の気勢を上げるために自宅裏の源氏山ではじめた花見宴も30年続きましたが、そこでも世話人として参加していただきました。その間に桜の木も参加者も老齢化し、花見は去年ではおしまいになりましたが、最初の年に熊さんが持って来てくれた紅白の垂れ幕が花見のシンボルとなり、今でも大事に保管してあります。

 さながら 

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

 というふうな面倒見のいい熊さんを、朝日新聞社の雑誌部門や書籍部門の人も頼りにするようになり、朝日新聞での輪もずいぶん広がったようでした。がん発症を聞いたのは8年半前で、すでに末期的だというのでたいへん驚きましたが、それからは果敢にがんと向き合うと同時に、オフィス、パワーハウスの運営にあたって来られました。ここでもイツモシヅカニワラッテヰル姿が印象的でした。

 装丁の最後の仕事は平成天皇御即位30年記念記録集『道』でしたが、2019年(平成31年)3月20日の刊行になっています。『ASAHIパソコン』創刊は1988年(昭和63年)11月1日号で、翌1989年1月から平成が始まりました。

 折しも神田川の桜が満開のころ、仏前にご挨拶にお伺いしたとき、身内の方が書かれたたという詩句が捧げられ、そこに「最も田舎の心を持つ弟」とあるのが目に止まりました。まったくそうだったと思います。「都会のマンションに住んでいる」とも書かれていましたが、そのマンションの外でも満開の桜が風に舞っていました。

 それにしても、長い闘病生活でした。いまは安らかな地で安住しておられることでしょう。ほぼ平成の期間とダブった30年をともに歩んだ思い出を噛みしめつつ。

2019年6月29日
 サイバーリテラシー研究所代表(元『ASAHIパソコン』編集長) 矢野直明

・目黒の旧宅に65人が集う

 会は目黒に残る旧宅を借りて、約65人の参加のもとに行われた。

 そこには『ASAHIパソコン』や『月刊Asahi』、『DOORS』の表紙ばかりでなく、熊さんが装丁した多くの書籍の写真が並べられていた。奥さんやご子息、親族、パワーハウスの面々も列席され、あるいは忙しそうに働いていたが、オフィス、パワーハウスは奥さんを中心として今後も活動を続けていかれるという。

 会場には歴代の『ASAHIパソコン』編集長や当時、世話になったデザイナー、イラストレーターなどの懐かしい顔もあり、熊さんの穏やかな人柄があらためてしのばれた。