新サイバー閑話(35)<よろずやっかい>②

「1人1票」のやっかい

 1人1票というのは選挙の基本である。男も女も、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、賢者も愚者も、すべての人に平等に1票が与えられる。これは民主主義の前提でもある。

 インターネットのおかげですべての人が自ら情報発信できるようになった。それ以前は、日本人の多くが年賀状ぐらいしか文章を書かず、自分の意見は新聞に投書するしかなかったことを考えると、画期的変化である。老人や子どもなどの例外はあるとはいえ、すべての人が情報発信できるということは、インターネット上(サイバー空間)でも「1人1票」が保証されるわけで、これはめでたいことである。

 いや、めでたいはずだった、というべきだろう。これまでの社会システムの不備やコミュニケーション不足をインターネットが是正してくれるだろうという多くの人の期待は、たしかに飛躍的にかなえられたが、その背後で新たな「やっかい」な問題を生んでいる。

 めでたさも中ぐらいなりインターネット

 「1人1票」のやっかいは、端的に言えば、考え抜かれた責任ある言論と無責任な付和雷同型意見、さらにはためにする書き込みや虚偽情報(フェイクニュースなど)の間の区別がつかない、あるいはつきにくいことに由来する。

・匿名発言に意義を見出す試み

 問題はやはり、インターネットの匿名性(ハンドル、仮名を含む)にある。

 かつて1990年代初頭、まだパソコン通信の時代に、ネットでの匿名発言に高い意味を認めようとした試みがあった。場所はニフティの「現代思想」フォーラムで、参加者の討議を経て作られ、フォーラムで公開された議論のためのルール(えふしそのルール)は、きわめて格調高いものだった。

 議論の原則は「自由に発言し、議論し、そしてその責任を個々の会員が自己責任として担う」ものとされ、発言はハンドルという愛称のもとに行われた。本名は名乗らない匿名主義を採用した理由は、「どこの誰の発言であるか」ではなく、「いかなる発言であるか」が重要だと考えられ、「議論内容を離れて、発言者の性別・門地・社会的身分等々を畏れたり侮(あなど)ったりする態度は、思想と最も遠いもの」とされたからである (ニフティ訴訟を考える会『反論』2000、光芒社)。

 匿名だからこそ、現実世界の権威などから離れた真摯な議論が可能だとする考えは、いま思うと、目がくらくらするほどの真摯さである。だが、このフォーラムの議論が名誉棄損訴訟に発展した経緯を見ても、その意図は当初から波乱含みだったし、パソコン通信というなかば閉じられた言語空間だからこそ実現可能な試みだったとも言える。理屈の上ではグローバルに展開するインターネット上で、このような思いで匿名発言する人は、少なくとも日本では、ほとんどいないだろう。

 もう一つ、インターネット初期には、匿名による発言に積極的な意味を認めようとする意見もあった。匿名だからこそ、現実世界のしがらみの中で抑えられがちな社会の底に鬱屈した意見をすくい出してくれるのだ、と(森岡正博『意識通信』1993、筑摩書房)。

 しかし現実は、面と向かっては言えない心の叫びが浮き彫りにされるのとはけた違いの規模で、匿名情報の毒があふれ、社会が窒息しかねない状況にある。

・無責任な匿名発言の氾濫

 ネットの匿名発言は、自分は安全な場所に身を隠して他人を攻撃するために使われることが多い。とりあえず、2つの事件を上げよう。

 2009年2月、お笑いタレントKさんのブログに「殺す」などと書き込んでいた女性会社員(29)ら19人が脅迫や名誉棄損の疑いで警察に摘発された。彼らは20年も前に起きた都内の女子高生コンクリート詰め殺人事件にKさんが関与したと決めつけて、インターネットの掲示板やKさんのブログに「人殺し」、「犯人のくせに」などと悪質な中傷記事を書き込んでいた。地域も年齢もさまざまな人びとで、半数近くは30代後半の男性だったが、女性も含まれていた。

 書き込みは「××(芸名を名指し)、許さねぇ、家族全員、同じ目に遭わす」、「××鬼畜は殺します」といった過激なもので、23歳の女性のものは、「てめーは いい死に方しねーよ 普通に死ねても 確実に地獄行き 一人の女を無惨に殺しておいて、てめーは行きつけのキャバクラかスナックで人殺しの自慢してたんだよな てめー人間としてどうなんだよ 人殺しを自慢してそれで何になんの? おしえろや おまえ狙ってんのたくさんいるぜ」という凄まじいものだった。

 身元がわかると思っていなかった彼女は警察の調べにびっくり仰天、「掲示板の書き込みを本気で信じてしまい、人殺しが許せなかった」と話し、さらに追及されると、「妊娠中の不安からやった」と供述した。摘発された19人は氷山の一角で、多くの同じような書き込みがKさんを恐怖に陥れたのである(矢野直明『IT社会事件簿』2013、ディスカヴァー21)。

 2017年には俳優の西田敏行さんが覚せい剤で近く逮捕されるという偽情報を流していた3人の立派な大人(40代から60代の男女)が、偽計業務妨害の容疑で書類送検されている。彼らは週刊誌記事の匿名容疑者を勝手に西田敏行と断定して、自分たちのブログに書き込んでいた。

 警察がこの種の事件を捜査、摘発すること自体がきわめて珍しいわけで、インターネット上にはこのような無責任な発言があふれている。もちろん顕名、あるいは匿名で、専門研究や趣味の分野で中身の濃い情報がアップされており、それが有益な役割を果たしているのも確かである。考えるべきなのは、匿名による無責任な発言の数の多さである。

・見ないですませるのは無理

 部屋が汚れているのが気になって仕方がないと悩む潔癖症の女性に高僧が「ゴミなど見なければいいのだ」と言ったという話があるが、サイバー空間では、見ないでいようとしても、あるテーマに沿った意見集約ということになると、それらのデマ情報も、付和雷同的な意見も、考え抜かれた専門家の意見も、一つのデータとして、1票は1票として集計されがちである。

 それらの意見の格付けをすることは難しいし、そういうことをやろうとすれば、その基準をめぐってより深刻な事態が発生するだろう。というわけで、暇な人に金を払って賛成、あるいは反対意見をどんどん投稿してもらおうとする人が出てくるし、それが技術の力で量産されたりもする。いろんなIDを作って「1人何票」の人もいるし、他人に成りすましている人もいる。そういうメカニズムの増幅作用で、これまでなら社会の片隅に潜んでいた極端な意見が主流に引き出され、大きな力になって社会を動かす。見ないですませておくのも無理なのである。

 行方昭夫『英文翻訳術』(DHC)の暗記用例文集に’That all men are equal is a proposition to which, at ordinary times, no sane human being has ever being given his assent’というのがあった。訳はこうである。「ひとはみな平等だという命題は、普通は、まともな人なら誰一人認めたことのないものです」。

 人間はみんな平等であるというのは、フランス革命の人権宣言でも、アメリカ独立宣言でも、日本国憲法においても、高らかに宣言されている。一方で、この例文にあるように、建て前や原則はそうであり、それは尊重すべきものではあるにしても、個々の人びとを見た場合、やはりすべて平等というわけはないという実感、というか暗黙の了解もまた多くの人が認めるところであろう。

 言葉の背後にある、曰く言いがたい暗黙の了解(含意)が社会を円滑に動かす妙薬というか潤滑油、英国風に言えば、コモンセンスだった。碩学や専門家の意見には一目置く。自分も勉強して一歩でも尊敬する人に近づく努力をする。立派な人が醸し出すオーラに接して、見習いたいと思う……。これは現実世界にただようエトスであり、明文化されてはいないものの、それなりに規範として機能していた。

 この妙薬、潤滑油がヒエラルキー秩序のないフラットな世界ではなかなか働かない。考え抜かれた碩学の言であろうと、専門知識に基づいた深い理解であろうと、自己の利益のみを考えた意見だろうと、自分では何も考えず、他人に付和雷同して叫んでいる書き込みであろうと、あるいはただためにする投稿だろうと、「1票の価値」は変わらない。顕名であろうと、匿名であろうと、1票は1票である。そして機械的に集計される時、そのデータ(票数)のみが大きな意味を持つ。

 情報の質的変化も見逃せない。「電子の文化」では、言葉に表せない意味やニュアンスは「文字の文化」(活字の文化)以上にこぼれ落ちていく。2019年のノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんがインタビューで「なまじネット社会になったことで、表面的な情報はみんなが共有しているけど、肝心な情報は意外とつかめていない。『世間ではこう言われているけど、実はこうなんだよ』というような情報を得られていない」と言ったあとで、「情報を出す側は差し障りのない情報は出すけれど、ひそかに自分で考えているアイデアなんて、絶対に出さないですよね。もし出すとしたら、夜の席でワインを傾けながらでしょう」とつけ加えているのは、この辺の機微を指しているだろう(朝日新聞 2019.12.4 朝刊)。肉体的コミュニケーションの重みである。

現代の特徴は、凡俗な人間が、自分は凡俗であることを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。

 100年近く前、スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが勃興する「大衆」を前に語った言葉である (『大衆の反逆』、1930、桑名一博訳、白水社)。これをそのままインターネット上の匿名発言に適用するつもりはないけれど、かつての哲学者が恐れた事態がサイバー空間上でより先鋭に現出しているのはたしかではないだろうか。

なにはともあれ、これぞ、やっかい

 これからインターネットにまつわるやっかいな現象をとりあげていく。やっかいとは厄介と書き、『広辞苑』によれば、もともとは「①他家に食客になっていること」を指すが(たとえば「厄介になる」というふうに)、ここでは、もっと一般的な「④面倒なこと。手数のかかること。迷惑なこと」くらいの意味で使っている。

 2002年に本サイトに掲げた「サイバーリテラシーの提唱」は今でもそのまま通用するし、サイバー空間のアーキテクチャーとしての「サイバーリテラシー3原則」もまた変更の必要を認めない。

サイバー空間には制約がない
サイバー空間は忘れない
サイバー空間は「個」をあぶり出す

 当初喧伝されたインターネットの長所はWeb2.0を通じて飛躍的発達を遂げ、私たちの生活はもはやインターネットなしでは考えられないが、一方で、それがもたらすメリットが無視できない悪影響を社会に及ぼすようになっている。2015年ころからそれが加速しているというのが私の見立てで、それを仮にWeb3.0と呼んでいる。長年、IT社会とつきあってきた身にとっては、「こんなはずではなかった」と当惑することも多い。

 便利さと不都合が表裏一体になって展開しているのが「やっかい」なのである。そして、本シリーズではインターネットの負の部分に焦点があてられる。「サイバーリテラシー」は、IT社会をインターネット上の情報環境(サイバー空間)と現実の物理的環境(現実世界)との相互交流する姿と捉えることで豊かなIT社会を実現しようという試みである。その原点を踏まえて、これからいくつかの問題を取り上げていきたい。解決策は容易には見いだせない。それが「やっかい」のやっかいなところである。

新サイバー閑話(34) <インターネット万やっかい>①

はじめに

 これから始めるシリーズ<インターネット万(よろず)やっかい>は、サイバーリテラシー提唱以来念頭にありながら、取り扱う範囲があまりに広く、浅学菲才の身ではとてもカバーできないと、長らく放置してきたものである。どこかの財団あたりが総力を上げて取り組んでしかるべき課題でもあると思うが、『ホモ・デウス』を読んだ時は一時的に大いに発奮し、サイバーリテラシー協会を組織し、ハラリを顧問に迎えたいなどと夢想したものでもある(ホモ・デウス⑭)。

 それぞれのテーマは複雑にからみあっており、いずれも個々の研究分野、あるいは専門家の見解としてはすでに指摘され、改善策が必要だともされているようだが、具体的な制度設計になると、どこからどう手をつけていいのか、関係者の意見もさまざまで、とりあえず問題の指摘だけに終わっている(問題を先送りにしている)ことも多いのではないだろうか。

 その現状を断片的ではあるが、俯瞰して提示できれば、少しは意味があるのではないかと、ぼつぼつ書き始めることにした。拙著『インターネット術語集』的な、エッセイに毛が生えた程度の読み物で、古風な表現を使えば一老書生の手慰みだが、コメント欄などを通して、最新事情にもとづくご意見なり、ご感想なりいただければ、大変ありがたく、また議論を深めることもできるだろうと思う。

 取り上げるのは以下のようなことがらである。

 それ自体は結構なことだけれど、それによって生じた新たな矛盾を解決できないことがら。
 技術(インターネット)が現実世界の長所を失わせ、矛盾を拡大することがら。
 本来取り組むべき課題がよく見えないために、あるいはあまりに多忙な日々の作業の中で、身近な小さな矛盾解消でお茶をにごしがちなことがら。
 地球温暖化のように個別に対応できず、また早急に対応しなくても当面生きていけるという安心感から、とかく等閑視されがちなことがら。
 既存の秩序に安住していても自分の代は大丈夫だろうと、支配層が真剣に取り組もうとしないことがら。
 サイバー空間(ネット)の行動様式が現実世界に持ち込まれ、既存の秩序が混乱していることがら。

<はじめに>

 2000年ごろのWeb2.0をインターネットが持っていた潜在的可能性が花開いた画期だとすると、2015年ごろ以降はインターネットの抱える潜在的問題点が顕在化しつつある時代と言えるのではないだろうか。本シリーズでは、これをWeb3.0と呼ぶことにする。

 2.0ではIT企業主導でインターネットのプラス面が強調されたが、3.0ではむしろインターネットが社会にもたらすマイナス面を見極め、それにどう対処すべきなのかを、周知をあげて考えるべき時だと思われる。

 2.0をあえて上からの動きだと考えれば、3.0は下からの動き、突き上げが必要になってくるだろう。巨大IT企業がいよいよ躍進する中で、社会に、学者や研究者や技術者に、あるいは現場で奮闘する人びとやユーザーである私たちに、3.0を遂行する力があるのかどうか。

 これはイスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で提起した問題とも重なる。本シリーズでは、折々の出来事を振り返りながら、IT社会のやっかいな問題とは何か、私たちはそこでどう生きればいいのかを少しずつ考えていきたい。 

新サイバー閑話(33)<令和と「新選組」>⑤

義を見てせざるは勇なきなり

 三重県伊勢市の市美術展で隅に小さく中国人の慰安婦像を組み込んだ「私は誰ですか」と題する作品が出展不許可になった。作者のグラフィックデザイナー、花井利彦さん(64)によれば、慰安婦像は最近の「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」の騒動を受けて制作したもので、クロを背景に赤く塗られた手のひらと白い石が大きく描かれ、左隅に慰安婦像が小さく配されている。

 この事件は地元の中日新聞が10月31日朝刊 1面で大きく報じたが、花井さんの言によれば、最初作品を持ち込んだ時は、主催関係者も慰安婦像とは気づかなかったらしい。彼が慰安婦像を挿入した意図を説明すると主催者側の態度が硬化、結局、10月29日から11月3日までの期間中に展示されることはなかった。花井さんは「市側の検閲で、憲法違反だ」と強く抗議している。

 同美術展は市、市教委などが主宰し、市民から絵画、書道、彫刻などの作品を募集、展示するもので、花井さんの作品は自らがつとめる運営委員作品として持ち込まれていた。

 芸術の秋である。

 全国各地で行われている、どちらかというと出品する人も見物する人も高齢者が多い、ささやかな展示会の話だが、市の言い分が大いに気になる。同紙によれば、市教委の課長は「あいちトリエンナーレで注目を集めた『平和の少女像』と、それに伴う混乱を予想させるとして、慰安婦像の写真の使用を問題視した」と言っている。11月2日付同紙では同展運営委員長が「市民の安全を第一とした市の判断に従わざるを得なかった」と述べている。

 あいちトリエンナーレでは脅迫やテロ予告などもあったけれど、今回はそういう動きはなかったようである。市は何を恐れ、何から市民を守ろうとしたのだろうか。

 美術展の意義は何か、地方自治体の文化的取り組みは如何にあるべきかといった本質的議論は抜きに、「市民の安全が脅かされる」というよくわからない漠然とした理由で、「臭いものにフタ」をした事大主義的発想が問題だと思われる。最近よく聞く「税金を投入したイベントだから政権の意向に反すべきではない」という、これも妙な考えも反映しているかもしれない。

 関係者の思惑を「忖度」すると、「慰安婦像を認めると、時節がら問題になるんじゃないの」、「とりあえずやめとこう」という軽い気持ちで、結局は、表現の自由を侵すような強権を発動したように思われる。この思考の軽さと結果の重さのアンバランス(その間のコミュニケーション不在)。これは安倍政権が推し進める諸政策の特徴でもあるが、それが「遠隔忖度」の波に乗って地方都市に押し寄せているということではないだろうか。

 今回は当の花井さんが強く抗議したから公になったけれど、彼が黙っていれば、それで終わった話でもあるだろう。安易に表現の自由を制限してしまうような、重苦しい「空気」はこれからどんどん各地に波及していく可能性が強い。これも前回の語り口を借りれば、「もうすでに一部で起こっているかもしれない」。

 表現の自由をめぐる一連の動きとしては、川崎市で開催した「KAWASAKIしんゆり映画祭」で、やはり旧日本軍の慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画の上映がいったん中止になったが、これをめぐる関係者討論会がきっかけで最終日の4日に一転、上映された経緯がある。

 どう考えてもおかしいと思う、あるいは自己の信念・信条に反することがらに対して、現場でひるまず立ち向かう勇気が、いま私たちに求められているのではないだろうか。「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」(論語)である。

新サイバー閑話(32) 令和と「新選組」④

トップから腐っていく社会

 ちょっと前になるけれど、10月4日の東京新聞一面が大見出しの記事3本だけでほとんど占められていた。

 トップが「関電金品受領 監査役、総会前に指摘 社長ら公表見送る」、肩4段が「トリエンナーレ補助金不交付 文化庁有識者委員が辞意『相談なく決定 納得できず』」、下方4段が「かんぽ報道 NHK会長、抗議影響否定『編集の自由損なわれず』」である。

 いずれも事件自体はあらためて説明するまでもないだろうが、トップ記事は、関電の金品授受問題を今年6月の株主総会を前に監査役が把握し、経営陣の対応に疑問を投げかけていたが、問題の公表は見送られたという話。トリエンナーレに関するものは、文化庁が補助金7000余万円を交付しないと決めたことに関し、採択の審査をした委員の一人が「不交付は委員に相談なく決定された。これでは委員を置く意味がない」として辞任を申し出たというもの。最後は「クローズアップ現代+」の報道に関して、日本郵政グループがNHK経営委員会に抗議、経営委員会が上田良一会長を厳重注意した問題で、当の上田会長が定例記者会見で「番組編集の自由が損なわれた事実はない」と述べたというものである。

 3本の記事には、はっきりした共通性がある。それは、社会制度が本来の趣旨にそって適正に運営されるために、あらかじめ設定されているチェック機能が無化(無効化)されていることである。

 何のための監査役か、何のための有識者委員会か、何のための経営委員会か。

・「非立憲」政権によるクーデター

 本来果たすべきチェック機能を崩していくのが安倍政権発足以来のやり方である。まず権力チェックの重要な機能を持つとも言われる新聞、テレビなどの報道機関を早々に切り崩しにかかった。アベノミクス実現の環境づくりとして日銀総裁を替え、安保法制強行のために憲法の番人とされてきた内閣法制局長官を替えた、などなど。

 この点について、改憲問題に関連して石川健治東大教授が書いた論考「『非立憲』政権によるクーデターが起きた」が実に明快に論じてくれている(長谷部恭男・杉田敦編『安保法制の何が問題か』所収、岩波書店、2015)。

 「現政権の全体的な政権運営の特徴として、ナチュラルに非立憲的な振る舞いをしてしまう傾向を上げることができます。もともと統治システムの中には内閣が独走できないように、いろいろな統制と監督の仕掛けが内蔵されているわけですね。ところが、安倍政権は、政権にとって、歯止めをかける対抗的な役割を果たしかねない要所要所に、ことごとく『お友達』を送り込んで、対抗勢力の芽を摘んでいく――、そういう手段を駆使していると思います。故・小松一郎内閣法制局長官の人事がそうでしたし、日銀総裁、NHK会長の人事の場合もそうです」、「たとえば、憲法は、内閣に国政の決定権の一部を委ねているかもしれませんが、コントラ・ロールとして、その責任を追及する立場にあるのが、いうまでもなく国会です。……。政府内部にも、伝統的に内閣法制局という、お目付け役を果たしてきたコントラ・ロールがいます(いました)。対抗的存在は、世論やメディアなど、制度外にもさまざまに用意されています。内からも外からも内閣が独走しないようコントロールしているのです。そのような存在が多重的に仕組まれていて、権力が暴走しないようにシステムができ上っています。ところが安倍政権は本来コントロールを受ける立場にありながら、自分から対抗的存在に圧力をかけたり、つぶしにかかったりします」、「恐らく安倍首相個人のパーソナリティによるとこころが大きいのだと思いますが、とにかく批判を受けるのを嫌がります。自らに対する批判を抑圧したいという動機がむき出しになっています。……。その姿勢そのものが、非立憲だといわざるを得ません。そういう政権に日本の行く末を委ねていいのか、直感的に不安を抱く人は多いのではないでしょうか」。

・「忖度」する人、「模倣」する人

 安倍政権の体質をもっともあからさまに浮き彫りにしたのが森友加計問題だろう。文書改竄を進めた財務省幹部は訴追を見送られ、あるいは海外に転出した。憲法問題においても、安保法に異議を唱える憲法学者の声やパブリックコメントでの国民の声に何の配慮も払わなかった。沖縄問題も同じで、要は異論の完全無視である。

 しかも安倍首相や菅官房長官は、事態を自らの問題として受け止めず、他人ごとのように答弁したり、問題の所在をはぐらかしたり、あっさりと、断定的に否定したりしてきた。「こんなことが許されるのか」と怒ったり、慨嘆したりする人も当然いるわけだけれど、逆にそういう(うまい)手があるのかと率先してまねる人が出てきても不思議ではない。手続きを無視したごり押し路線の「模倣」である。今回の関電幹部や文化庁(文部科学省)やNHK経営委員会がそうだと「断定」するわけではないが、そこには政権の〝得意芸〟も反映しているように思われる。

 ユーチューブの動画によると、10月9日の官邸記者会見で、例によって望月衣塑子記者が「森友加計問題など政府の疑惑に関しては何の第三者委員会も設置しなかったのに、関電に対しては第三者の徹底的な調査を求めるというのは整合性があるのか」という趣旨の質問をしたのに対し、菅官房長官は「まったく事案が違う」、「適切に対応したと考えている」、「何か勘違いしているのではないか」と木で鼻をくくったような答弁をし、それで記者会見は終わっている。

 国会やメディアも含めて、チェック機能がかくも働かなければ、人びとの政治不信、政治的無関心の流れはさらに加速するだろう。今回の組閣人事を見ても、ごり押し路線を強化、徹底しようとしているばかりで、いま進む深刻な事態(深い病)への認識、想像力はまるで見られない。政権中枢のモラル崩壊は確実に周辺に及び、それは国民全体にまで徐々に広がっていくだろう。それは、台風19号襲来時の気象予報官の語り口をまねれば、「もうすでに一部で起こっているかもしれない」。

 老子に「大道廃れて仁義あり」という言葉がある。大道が廃れるから仁義が出てくる(大道が行われていれば仁義などは無用である)と、儒教における仁義強調を批判したものとして知られているが、いまや大道廃れて仁義なし。

 この言葉は、「国家混乱して忠臣あり」と続いていて、これも国家が混乱すると忠臣が出てくる、国家が正しく運営されていれば忠臣など出てくる必要はない、という逆説的意味だけれど、これも今は、国家混乱して忠臣なし。

 老子のくだりを友人にメールしたら、「山本太郎こそ真の忠臣である」との返事が来た。彼は自分の会社の窓にれいわ新選組のポスターを張っている(下)。
 NHKのかんぽ報道に対して、逆ギレのように居丈高に抗議している日本郵政上級副社長は元総務省事務次官だが、彼が事務次官になったのは菅総務相(当時)に抜擢されたためらしい。そういう意味では、現政権は早くから「忠臣」の育成に乗り出していたようである。

 

新サイバー閑話(31) 平成とITと私③

最先端技術の世界に挑む

 『アサヒグラフ』のコンピュータ特集が好評だったことに気をよくした私たちはその後も、躍進するバイオテクノロジーの世界、コンピュータで武装するサイボーグ、進化するバーチャルリアリティとコンピュータ・ゲーム、巨大技術としてのロケット開発や核融合技術、がん治療最前線などの最先端技術の世界を立て続けに特集した。当時、ニュー・テクノロジーとかハイ・テクノロジーとかう言葉が盛んに喧伝されていた。

 全国の大学や民間の研究室、ロケット打ち上げ現場、国立がんセンターなどの病院をいろいろ取材したから、私と岡田カメラマンは一年中、全国を歩き回っていた。種子島宇宙センターにNⅠロケット打ち上げの取材に行って台風に遭遇、車を借りて〝強行取材〟、台風の写真で誌面を飾ったこともある。

 旅の先々でおいしそうなラーメン屋を勘で見つけて、ラーメン&餃子を食べるのが私たちの楽しみだった。しゃれた店構えや店頭に自動券売機を設置している店は避け、小さくて古い佇まいながら、これは良さそうだと思う店を選んで、それが成功したときは嬉しかったものである。

 巻頭カラーだけでなく、モノクロページでも、コンピュータ達人になった少年たち、町工場に進出しはじめたヒューマノイド・ロボット、土を忘れて〝翔ぶ〟農業(水耕栽培)、建設が急ピッチで進められる東北新幹線上野地下駅など、技術が変えていく社会の風景も取材した。

 これらの仕事は後にカラー版の旺文社文庫に『コンピューターの衝撃』(1983)、『現代医学の驚異』(同)、『巨大科学の挑戦』(1984)の三部作としてまとめられた。


 この取材を通して私は多くのことを学んだ。

 まず技術の目覚ましい躍進ぶりである。しかも技術現場のシステムは巨大化し、個々の技術者が全体を見ることはどんどん不可能になっていた。『巨大科学の挑戦』のあとがきでは「科学技術の営為が巨大プロジェクト化すればするほど、プロジェクト全体を掌握することは難しいし、また実際に現場の技術者たちは、自分たちに与えられた職務にのみ忠実で、その計画全体に思いをいたすことが少なくなっているようである」と書いている。

 当時、国家予算600億円を投じた原子力船「むつ」が放射能漏れ以来十年、東北―九州間を漂流したあげく廃船になるとのニュースが流れていた。

 もう一つは、技術の進歩は果たして人間を幸せにするだろうかという疑問だった。『現代医学の驚異』のあとがきで、がん取材でお会いしたある教授の言を紹介している。

「がんは簡単には撲滅できませんが、それでいいのかもしれません。もしがんが克服され、寿命が延びたとして、人類の未来はバラ色ですかね。ひとびとはますます子どもを産まなくなり、社会はそれだけ高齢化し、いよいよ活力がなくなるでしょう。それは灰色の世界かもわかりませんよ」

・日本情報社会の進展とパソコン

 最先端技術の世界を取材していたころは、日本が高度経済成長を謳歌していた時期であり、同時に社会が情報化へと向かう転換期でもあった。

 先にアルビン・トフラーの『第三の波』(1981)がコンピュータ取材を始めたきっかけだったことにふれたが、日本でも1980年以降、「高度情報化社会」という言葉が脚光を浴びるようになっていた。

 1980年には通産省(当時)産業構造審議会情報産業部会中間報告が「S家の一日」というエッセイ風の文書で、バラ色の情報社会の青写真を提示していたし(「団地」に代わって「ニュータウン」という言葉が登場していた。下図はそのイラスト)、雑誌『日経ビジネス』が「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集を組んだのは1982年だった。

 パソコン、ワープロ、電卓、軽自動車、携帯用ヘッドホンステレオ、ミニコンポステレオなど、当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという、鋭い洞察だった。

 日本情報社会論の古典とも言える増田米二『原典・情報社会 機会開発者の時代へ』(TBSブリタニカ)は1985年に出ている(サイバー燈台プロジェクト欄で小林龍生さんが梅棹忠夫『情報産業論』を読み解いているが、その1963年という発表年がいかに時代を先んじていたかは驚異的である)。

 情報社会出現を推進したのがコンピュータだったから、最先端技術シリーズの取材対象の中心には常にコンピュータがあった。特集「コンピューター」でもワープロ、パソコン、電卓を取り上げているが、パソコンはNECの8ビットマシン、8801シリーズであり、ワープロは小型化してきたとは言え、まだ50万円以上した。

 ちなみに私は1983年4月に富士通のワープロ、マイオアシスを86万1200円で買っている。「ザ文房具」というキャッチコピーで大相撲の高見山が宣伝していた機種である。これを月々1万5500円、ボーナス月6万5500円のリースにしていたのだが、ワープロもどんどん小型化、価格も安くなって、たしか85年ごろには1台10万円台の小型ワープロが登場、しかもより多機能になっていた。そのとき私のローン残高は20余万円、さすがに馬鹿らしくなって残金を一括で支払ってケリをつけた。コンピュータの小型化、それと同時の高機能化、低価格化を身をもって知った最初の出来事だった。

 さて海の向こうに話を移すと、世界最初のパーソナル・コンピュータは1974年に開発されたアルテアだと言われる。当時のアメリカは、ベトナム戦争をめぐって激しい反戦運動が巻き起こっていたころで、この小さなマシンは、IBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受け、そこからいくつかの成功物語が生まれた。

 学生だったビル・ゲイツと友人のポール・アレンは、アルテアを見て大いに驚くと同時に、大型コンピュータで使われている言語、BASICをアルテアでも使えるようにするビジネスを思いつく。同じころ、カリフォルニアのスティーブ・ウオズニアックとスティーブ・ジョブズという「2人のスティーブ」は、ガレージで「アップル」というパソコンを作り、1976年に同名の会社を起こした。

 大型コンピュータの雄、IBMも1981年にパーソナル・コンピュータIBM-PCを売り出し、時代はパソコンの時代へと移っていく。日本にも伝わっていたその一端を私は取材していたことになる。

・最先端技術シリーズとデスクの大崎紀夫さん

 ところで『アサヒグラフ』は週刊誌である。その1回の特集を作るために私たちは1カ月以上をかけて全国を取材した。当時のメディア業界、さらには朝日新聞という会社の鷹揚さを考えると隔世の感があるが、デスクにして名編集者だった大崎紀夫さんの存在なしには考えられない企画だった。

 彼はすでに大物編集者として社内外に知られた存在だったが、私たちのコンピュータ特集に巻頭25ページをあてがい、しかも大胆なレイアウトをしてくれたのである。社内モニターで高く評価されるなどの事情もあってシリーズ化へと結びついたけれど、いまでも彼には深く感謝している。

 編集局の出稿部(社会部)、整理部を経て、出版局『アサヒグラフ』にやってきた私は、希望して異動してきたとは言え、当初大いに戸惑った。新聞でももちろん写真は大きな力だが、やはり記事が中心だった。それがグラフでは「写真がつまらなければそれで企画は没」というふうに、記事と写真の関係は逆転した。大崎さんは常々「いい写真が撮れたらカメラマンの手柄。つまらない写真しか撮れなかったら編集者の責任」と言っていたが、写真と記事の関係ばかりでなく、私は大崎さんはじめアサヒグラフの先輩同僚から雑誌編集の基本を学んだ。

 記者と編集者とではまるで違う役割があることに気づかされたし、雑誌というメディアをどう作り上げていくかという編集ノウハウも学んだ。編集者としての私はアサヒグラフで、最先端技術シリーズで培われたのだった。

 日大全共闘の猛者だった岡田明彦カメラマンはずっと頼もしい相棒だった。「腰が痛い、腰が痛い」と言いながら、個々の対象物に鋭く迫って、豊穣なイメージを切り出す(紡ぎ出す)彼の写真が私は好きだった。シリーズ後半のころ、写真家団体の賞の新人賞候補になったと聞いたが、受賞を逸したのは少し残念だった。彼は無冠の帝王を標榜していたけれど……。

 こうして私は「メディアとしてのコンピュータ」をテーマにする雑誌を構想するようになる。

 

新サイバー閑話(30) 平成とITと私②

『アサヒグラフ』のコンピュータ特集

 これは平成というより昭和の話だが、私が『ASAHIパソコン』を構想するきっかけとなったのが『アサヒグラフ』のコンピュータ特集である。『ASAHIパソコン』前史として、このコンピュータ特集についてふれておきたい。

  1981年11月27日号で私は、大型コンピュータはもとより、登場しつつあったパーソナル・コンピュータ、さらにはすでに普及していた電卓まで、ハードウェアとしてのコンピュータのすべてを、全国の工場や店頭を隈なく取材して、巻頭25ページで特集した。

 パーソナル・コンピュータのもととなるIC(集積回路)の素材であるウエハーがシリコンの塊(インゴット)から作られる過程、小さなチップに複雑な回路が埋め込まれていく様子、そのチップの配線拡大図、されには使用済みコンピュータがうず高く積み上げられたコンピュータの墓場まで網羅したから、当時としては画期的なコンピュータ特集だったと自負している。トップページには、当時世界一計算が速いと言われたスーパーコンピュータ、クレイー1の写真を使った。当時のアサヒグラフは米誌「ライカ」のような大判だったから、裁ち落としの見開き写真が並ぶ巻頭25ページの特集は相当に迫力があった。

・後に日米特許紛争の舞台となったIBM3081

 技術には門外漢だった私がコンピュータを取材しようと思いたったのは、同じ年、アルビン・トフラーの『第三の波』 (1981年、NHK出版) が翻訳出版され、エレクトロニック・コテッジとかプロシューマ―という言葉が話題になるなど、これからはコンピュータが大きな力を発揮しそうだったからである。

 秋葉原には、「マイコンショップ」が雨後のタケノコのように開店し(当時はパソコンではなく、マイコンと呼ばれていた。マイクロチップ・コンピュータとマイ・コンピュータを掛け合わせたネーミングだった)、新宿では、中学生の講師が大人のサラリーマンにコンピュータの扱い方を教えていた。コンピュータにはたしかに世の中を変える力がありそうだった。「コンピュータって一体何なのか。物としてのコンピュータをきっちりカメラにおさめて、ずらりと並べてみたらイメージが湧いてくるのではないか」と思って取材を始めたのである。

 グラフ誌のメインは言うまでもなく写真である。その撮影をフリーカメラマンの岡田明彦さんに頼んだ。

 このコンピュータ特集にはいろんな思い出がある。そのいくつかを紹介しておこう。

 当時はまだメインフレーム(大型コンピュータ)の時代だった。その主力はIBMの3033シリーズで、最新機種として3081が売り出されていた。日本アイ・ビー・エムに取材を申し込むと「3081は受注生産を始めたばかりで企業秘密もあってお見せできません。ひとつ前の3033シリーズは、それこそ旧式で、お見せするほどのものではございません」とあっさり断られた。

 そこを粘って、「興味があるのはコンピュータそのもので、生産台数が分かる生産ラインなどは撮りませんから」と取材意図を説明して、結局、両機種とも見せてもらえることになり、我々はいそいそとIBMの滋賀県野洲工場に出かけた。

 雑誌には配線がびっしりと入り乱れた3033シリーズの中央演算処理装置や、逆にすべてがモジュール化されて金属の覆いが黒光りしている3081の中央演算処理装置が、ともに見開き写真として掲載されている。私たちは配線だらけの3033の方がいかにもコンピュータらしいと思っていたのだが、この3081はまさに最新機種で、後年、富士通との間で日米特許権争いが展開された機種だった。めくら蛇におじずというべきか、その核心部分を堂々と掲載していたのだが、もちろんハードウェアの写真だから、ソフトウェアは見えない(^o^)。

 ICチップ製作工程を熊本の九州日本電気で取材したのも楽しい思い出である。

 岡田君は別の仕事ですでに九州入りしており、当日午後1時に私が空路熊本に向かい、九州日本電気で落ち合うことにしていた。ところが当日は悪天候で熊本空港は閉鎖、私は福岡空港で下された。あわててタクシーを飛ばして現地に到着したのは午後3時である。簡単な打ち合わせはしてあったとは言うものの、何を撮るかまでは詰めてなかった。しかも共同取材を始めた初日である。結局、彼に2時間待ちぼうけをくわせることになった。

 いや、そう思っていたのだが、岡田君は広報担当者の案内で、どんどん撮影を進めていた。九州日本電気の鈴木政男社長のご協力もあり、撮影は私抜きでずいぶん進展していたのである。担当者が「ここの撮影は駄目です」と言う部屋にも、豪放磊落な社長決断で許可が下りたりした。最後の懇談の席で、鈴木社長が言った言葉が忘れられない。

「プロのカメラマンはさすがですねえ。私どもが見せたくないところの写真ばかり撮りたがるんですから」

 コンピュータ特集は岡田君と組んだ初めての仕事で、彼はそれこそコンピュータのコの字も知らなかった。彼の鋭いジャーナリスト感覚には私もすっかり感心、意気投合もして、その後、ずっと取材を続けるようになった。

・次いでソフトウェアに挑戦

 ハードウェアのコンピュータ特集が好評だったことを受けて、私たちは翌1982年4月30日号で、やはり巻頭25ページを使って、「特集コンピューター・イメージ 『幻視者』が生みだす衝撃の世界」を掲載した。

 前年は、三和銀行(当時)のベテラン女子行員がオンラインの端末を操作して1憶3000万円を詐取したのをはじめ、コンピュータを利用した犯罪が続発したため、雑誌もコンピュータ特集ばやり。単行本も続々刊行されていたが、ソフトの世界は絵になりにくく(写真に撮るのがむずかしく)、まともな写真はほとんどなかった。

「ソフトって何だ」
「プログラムのことだろう。計算式を撮ってもしょうがないなあ」
「ソフトってのはプログラマーの頭の中にあるんだから、プログラマーの頭のCT写真を撮れば、それがソフトだ」
「ソフトが、目に見えない『透明人間』だとしても、包帯を巻けば、見えてくるわけだなあ」

 などと言いながら、私たちは取材の焦点をコンピュータ・イメージに絞り、コンピュータが複雑な計算を経て作り出す画像の世界を見てまわることにした。

 取材を始めてみて驚いた。リモートセンシングの分野で、コンピュータ・グラフィックスやシミュレーションの世界で、あるいはがんなどの医療診断の最前線で、先端技術導入に意欲を燃やす技術者たちが、コンピュータを駆使して新しい画像を次々に作り出している最中だったのである。

 地球観測衛星ランドサットから見たカナダとアメリカの「国境」、日本列島の全容写真、気象衛星「ひまわり」が赤外線放射でみた地球の雲の動き、この年の台風1号の目、アンドロメダ大星雲、ようやく導入されつつあった航空自衛隊や日本航空のパイロット訓練用フライトシュミレータ、CT写真やサーモグラフィで見る人体などなど。

 今では日々の天気予報などでちっとも珍しくない写真だし、画面をそのままカラー印刷することもできる。しかし当時は、それらの画像をディスプレイに暗幕を張りつつ、アナログ写真に収めていたのである。しかし、これはこれで当時としては衝撃的で、けっこう話題にもなった。

 当時、日本電子専門学校の講師だった河口洋一郎さんのコンピュータ・グラフィックスも大々的に掲載した。彼はすでにわが国コンピュータ・グラフィックスの第一人者で、アメリカのSIGGRAPHで自己増殖する造形理論「グロースモデル(The GROWTH Model)」を発表し、話題になっていた。記事は「数学から美へ迫ろうというなんとも壮大な試みで、彼はコンピュータ―・グラフィックスを『画像表現の全過程を論理的に構築されたアルゴリズムに基づいて行う新しい芸術行為』と位置づけている」と書いている。

 後に川口氏本人が人懐こい笑顔に若干の口惜しさを交えて述懐したところによると、彼の作品を科学雑誌『ニュートン』が大々的に紹介してくれることになっていたのに、アサヒグラフに先行報道されたので、企画中止になったらしい。物心両面でずいぶん迷惑をかけた取材になった。

 活躍が日本でも評価されるにつれ、彼は筑波大学助教授、東京大学情報学環教授へと栄進した。2018年には東大教授を定年退官したというから、『アサヒグラフ』特集はずいぶん昔の話である。同誌は私が在籍中に判型が小振りになり、2000年には休刊している。

新サイバー閑話(29) 令和と「新選組」③

新聞はこれでいいのか

 消費税が10%に上がった10月1日、購読紙に「消費税軽減税率の適用にあたって」と題する3段抜きの社告が出ていた。日本新聞協会と当該紙の連名になっているから、ほとんどの新聞に同じ社告が載ったと思われる。

 新聞に軽減税率が適用され、8%に据え置かれたことを「報道・言論により民主主義を支え、国民に知識・教養を広く伝える公共財としての新聞の役割が認められたと受け止めています」と書き、「この期待に応えられるよう、責務を果たしていきます」と続けているのだが、昨今の新聞のあり方をふり返るとき、ずいぶん身勝手な見解だとシラケる人も多かったのではないだろうか。

 たとえば、以下のユーチューブの動画を見てほしい。

 東京新聞の望月衣塑子記者が官邸記者会見で萩生田光一氏が文部科学大臣になった件などを追求したときの菅義偉官房長官の記者をバカにしきった、いかにも醜い表情が映し出されているのだが、こんな記者会見を許している新聞が「公共財としての役割が認められた」とよく言えたものだと思う。

 すでに日常的な会見風景になっていると思われるが、仲間の新聞記者がこんなふうにあしらわれているのを他の記者が放任していること自体が信じがたい。ひと昔前なら、だれかが「国民の代表たる新聞記者に向かって何という態度だ」と、これもいささかどうかと思う発言ながら、とにかく為政者の横暴に抗議する、あるいはたしなめるような反骨精神が発揮されたはずである。

 そのひと声、その一突きが事態をがらりと変えると思われるが、そのひと声を発しようとせず、その一突きを繰り出す勇気がない。

 新聞よ、お前はもう死んでいる。

 もはや、そういう状況なのに、政府に公共財としての役割を認めていただきありがたい、と言わんばかりに軽減税率適用を喜んでいる(ように見える)のは、まことに恥ずかしいことではないだろうか。

新サイバー閑話(28)

オーラルヒストリーシリーズ 

情報法オーラルヒストリーシリーズ1 情報の法社会学 名和小太郎さんから『情報の法社会学』(翔泳社)という本をご寄贈いただいたが、それが「情報法オーラルヒストリーシリーズ1」(オンデマンド印刷版)と銘打たれているのが興味深く思われた。

 情報法、著作権、情報倫理などの分野で大きな功績を残した名和さんの足跡を、彼が歩いてきた現場、言わば生活史を通して記録したものである。どういう仕事を通してIT社会の諸問題にかかわることになったのか、当時の人びとは新しい問題にどう取り組もうとしたのか、どんな分野からどんな専門家が集まって来ていたのか――。聞き手は新潟大学法学部教授、鈴木正朝さんである。

 IT社会を牽引した方々はすでに老境にさしかかっているが、インターネットそのものが辺境から立ち上がり、主流へと躍り出た歴史を反映して、多彩な経歴の人が多い。学問的業績を上げた人も、多くは実務家だったり、後にアカデミズムに転じたりしている。その人生行路は、日本的タテ社会を上昇するよりも、むしろ異なる分野を横断してきた傾向も見られる。

 これら先人が悪戦苦闘した道そのものがIT社会発達史であり、情報法をはじめとする先端的学問分野の成長過程だった。既にそれぞれに学問的成果を公表しておられるし、回顧的な記録も残されているけれど、そういった体系的著作ではあまり触れられない、本人も忘れているような具体的事実や興味深いエピソードを聞き出し、それを一定の基準のもとに整理記録しておく「オーラルヒストリー」の意義は大きい。新しい学問分野、あるいは先端的事業であれば、なおさらである。名和さんの話にも、「そういうことだったのか」、「まるで知らない話だなあ」などと、思わず合点する読者も多いのではないだろうか。

 鈴木さんの話だと、とりあえず情報法の分野に限った企画のようで、林紘一郎さんが2番手、他に何人かの候補もリストアップされているという。企画を実現した関係者に敬意を表したい。

 ちなみに、名和さんには本サイバー燈台で「後期高齢者」というコラムを書いていただいている。林紘一郎さんにも「情報法のリーガル・マインド その日その日」で健筆を振るっていただいている。また、もう1人のサイバー燈台の筆者、小林龍生さんは「情報革命の時代にあっては、その動きの多くが、アカデミズムから少し外れた現場の知によって支えられ推し進められてきた。時の流れとともに忘れ去られてしまう危険性が大きいそれらの事実を記録に残していく意味は大きいのではないか」と、我が意を得たりの述懐をしておられる。

・日本パーソナル・コンピュータ発達史

 そのうえで思うのは、この企画を法や情報倫理など人文科学の分野に限らず、インターネット技術そのもの、パソコン、ベンチャー企業、文字コード、黎明期に雨後のタケノコのように現れたソフトウエア、メディアといったところまで広げられないかということである。

 実は、私は『ASAHIパソコン』編集長だったころ、「日本パーソナル・コンピュータ発達史」という連載を企画したことがある。筆者も念頭にあったのだが、実現せずに終わった。

 たとえば、『ASAHIパソコン』創刊前につくったムック『おもいっきりPC-98』(1987年、朝日新聞社)には、ワープロソフトと表計算ソフトだけでも、以下のものが掲載されている。

 【ワープロ】一太郎、The Word、オーロラエース、創文、ユーカラart、松86、デスクup、テラⅢ世、QUEEN-Ⅱ、小次郎98/武蔵98、美文、しのぶれど、HuWORD、弘法Ⅱ、TWINSTAR2
 【表計算】Lotus1-2-3、Microsoft Multiplan、SuperCalc3R2、HuCAL16、The File

 ハードウエアに関しても、これは白田由香利さんに聞いたのだが、彼女は大学院学生のころ、登山用リュックを背負って小田急線、百合丘にあったガレージ会社に出かけ、基本ソフトCP/Mで動くパソコンを買ったという。そういうパソコンの広告が当時の雑誌、『トランジスタ技術(トラ技)』にたくさん載っていたらしい(矢野直明編『パソコンと私』所収、1991年、福武書店)。ハードとソフトを組み合わせたソードという先端的なベンチャー企業もあった。

 当時、すでに百花繚乱だった初期の個性的なソフトウェアの多くは消え、大手IT企業の製品に取って代わられつつあったが、それぞれのソフトやハードに特有の歴史とドラマを丹念に取材して記録しておきたいというのが企画の意図だった。

 今回の企画「オーラルヒストリーシリーズ」に接して、昔を思い出すと同時に、これを他分野へももう少し広げられないかと思ったわけである。もちろん一出版社には荷が重い仕事だろう。だとすれば、こういう事業への公的援助があっていいし、それが無理なら、どこかのIT企業が大金を投じても良さそうに思うけれど、どうだろうか。

 

新サイバー閑話(27) 令和と「新選組」②

まかり通る理不尽 

 テレビ朝日が開局60周年夏の傑作選と銘打って、平成19(2007)年に制作したドラマ『点と線』の特別編集版(8月4日放映)を見た。松本清張の社会派推理小説の傑作で、制作当時も大いに感心したが、今回はまた別の意味で大いに考えさせられた。わずか十数年前にはテレビ局もこのような重厚な傑作を生みだしていたということである。原作、脚本、演出、鳥飼刑事を演じたビートたけしをはじめとする豪華出演陣、すべてにおいて今昔の感がある。その底には、巨悪を憎む市井の人々の素直な怒りがたぎっているように思われた。

 政官界の汚職を隠蔽するため、事情を知っている下級役人が心中と見せかけて殺される。警察の執拗な捜査で事が明るみに出そうになった時、殺人の実行犯は自殺するが、その間に隠蔽失敗の責任を問われて、某官庁局長が青酸カリで自殺することを迫られるシーンがあった。それを見ながら、森友疑惑で決裁文書を改竄したとされる財務省の佐川宣寿局長(その後国税庁長官)も怖い目にあったのではないかと想像していたら、今朝(8月10日)の新聞に大阪地検特捜部が佐川元国税庁長官らを再度不起訴にしたとの報道があった。これで佐川氏は司法的な責任追及を免れたわけである。 

「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止に関連しては、企画展の芸術監督をつとめたジャーナリストの津田大介が参加するという理由だけで、神戸市の外郭団体が企画していたシンポジウムが、やはり抗議を受けて中止に追い込まれている(9日)。

 理不尽なことへの怒りの声が市井からも衰退していくように思われる令和である。

新サイバー閑話(26) 令和と「新選組」①

幕開けは風雲急

 かつての新撰組は幕藩体制維持を掲げたが、れいわ新選組は安倍政権打倒を旗印としている。新撰組は剣を武器としたが、れいわ新選組はSNSというコミュニケーションツールを駆使する。声の広がりが武器である。山本代表は、「命をかけている」、「本気だ」という意思を「新選組」に託したのだろう。

 先日、れいわ新選組に寄付をしたとき、メッセージに「れいわ新選組は日本の希望です」と書いた。

 名古屋の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、開催3日で中止に追い込まれた事件は、名のある文士がお先棒を担ぎ、大物市長が騒ぎ、自治体の長や政権がここぞとばかりに同調するという、いかにも戦前の思想統制を思わせる不気味な事態である。ここで脅かされているのは、言うまでもなく「表現の自由」である。にもかかわらず、世論調査では安倍政権支持がむしろ増えているのだという(メディアも、何かあると、それに直接対決するよりも、民意は奈辺にありやと、世論調査をやって報道していればいいと安穏と構えている場合ではないように思われる)。

 悲憤慷慨メール 鳴きやまぬ 老いの夏(^o^)