新サイバー閑話(5)

「ジャーナル・ノベル」の試み第4弾

 7月の西日本豪雨をはじめ、たびかさなる台風襲撃、6月の大阪北部地震など、今年は大きな災害が日本列島を襲った。集中豪雨の特別警報で気象庁は「かつて経験したことのない大雨」といった表現を使うし、ゲリラ豪雨という呼び方もすっかり定着した。地球の生態系にかつてない異変が生じているのは明らかで、異常気象は今後も激しさを増すと覚悟すべきである。その原因は地球の温暖化であり、その元凶こそ化石燃料が生み出す二酸化炭素(温暖化ガスの最たるもの)である。

 しかし、自分たちの小さな行動が大きな結果に結びつく「リスク社会」の危険を肌身で感じることは難しい。それを避けるために何を心がけるべきなのか。その対策は国際会議などで検討されているとはいうものの、漠然とした数値基準で個々の人びとを具体的行動へと駆り立てることは至難である。「総論賛成、各論反対」、「現実の利益追求が第一」などと言っているうちに事態はどんどん悪化していく。

 ジャーナリストの畏友、北沢栄が11月下旬、『南極メルトダウン』という本を出した。地球温暖化の影響としては、北極の氷面積の縮小などがよく話題になるが、南極は大陸である。北極の氷はその9割がすでに海中にあるのに対し、南極大陸の上に乗っている数千メートルの氷の柱が海に流れ込めば、海面上昇に与える影響は甚大だろう。南極大陸の広さは日本の37倍ともいう。本書は、その南極の氷棚が次々と崩壊し、大津波が世界の沿岸部諸都市を襲うというアポカリプス(黙示、最後の審判)をテーマにしている。

 帯に「ジャーナル・ノベル―事実に基づく小説スタイル」とある。地球温暖化による破滅的危機が、ほとんどの人に見えない南極で静かに進行していることに警鐘を鳴らすのが本書のねらいである。その方便として小説の形を借りているが、背景説明などに使用した温暖化指標などのデータはすべて事実で、科学的な根拠に裏付けられているという。

 実はこの著者には、以前にも中小企業小説『町工場からの宣戦布告』(2013)、『小説・特定秘密保護法 追われる男』(2014)、『小説・非正規 外されたはしご』(2016、いずれも産学社)という連作がある。順にメインバンクの貸し渋り・貸し剥がしによる中小企業経営者の悪戦苦闘、特定秘密保護法が持つ危険性、新格差社会における青年たちの闘いというふうに、現代日本が直面する問題を扱っている。

 小説の語り口を借りることで、複雑な問題をやさしく理解できるための工夫をしているわけだが、私が感心するのは、広範なジャンルに一人で立ち向かっている雄々しきチャレンジ精神である。

 リスク社会の提唱者、ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックは2015年に亡くなったが、その遺稿『変態する世界』で、「『変態』は、現代社会の昔ながらの確実性がなくなって、新しい何かが出現してきているという、もっと急進的な変容を意味する」と書き、気候変動で言えば、「海面上昇は、不平等の新たな景観を生み出しつつある。従来の国家間に引かれた境界線ではなく、海抜何メートルかを示す線が重要になる新たな世界地図を描き出しつつあるのだ。それによって、世界を概念化する方法も、その中で私たちが生き残る可能性も、これまでとはまったく異なるものになる」と述べている。

 実は私も、サイバーリテラシーの提唱で「毛虫がみずからの内部諸器官をいったんどろどろに溶かしてサナギとなり、一定期間をへたあとチョウへと変身するように、現代社会もまた時代の転換点にある」と書いたけれど、現代社会の諸問題はそれぞれ複雑に絡み合っており、近視眼的な国家単位の弥縫策ですませられるものでは決してない。

北沢栄『南極メルトダウン』(産学社、2017)
南極メルトダウン
ウルリッヒ・ベック『変態する世界』(岩波書店、2017)
変態する世界

町工場からの宣戦布告小説・特定秘密保護法 追われる男小説・非正規 外されたはしご

新サイバー閑話(4)

ゲームおたくがアスリートになる日

 新聞に2024年パリ五輪組織委員会委員長が「eスポーツを追加種目には提案しない」と語ったという記事が出ていた。eスポーツとはエレクトロニック・スポーツ(electronic sports)のことで、会場に設けられた大きなディスプレイに映し出されるコンピュータゲームの〝闘い〟を観戦するものである。

 たしか今年はじめだったと思うが、eスポーツという言葉を最初に聞いた時は違和感をもった。陽光のもと、屋外で全身の筋肉を使って体力の限界に挑戦するのがスポーツとすれば、コンピュータゲームは暗い室内でただひたすら指だけを動かしているに過ぎない。そんなものをスポーツと呼べるのだろうか。

 しかし、あるゲームが行われ、それを多くの観客が入場料を払って観戦、多額の賞金も発生すれば、それは立派な「スポーツ」かもしれない。要は定義の問題で、「フィジカル(肉体の)スポーツ」に対して、チェス、ポーカー、囲碁、マージャンなどを「マインド(思考の)スポーツ」と呼ぶ例もあるから、「e(電子)スポーツ」があっていいということになる。

 1990年代後半から2000年代初頭にかけてオンライン上で対戦するゲームソフトが増えるにつれ、北米を中心とした海外で、eスポーツがブームになった。プロゲーマーの中には大会の賞金だけで年間数億円も稼ぐ人が大勢いるとか。ソフトとしては『Dota 2』(ドータ・ツー)という、2チームが5対5に分かれて戦うゲームが有名らしい。毎年8月にシアトルのキーアリーナで世界最高賞金額の大会が開かれている。会場の真ん中に設置されたディスプレイの巨大さは圧巻である。

 eスポーツはアメリカ、中国、韓国で盛んだというのも興味深い。今年ジャカルタで開かれたアジア大会ではデモ競技として実施され、サッカーゲームの部で日本チームが優勝している。次回の中国大会では正式競技に採用されるという。日本eスポーツ連合が2月に設立されている。今年秋からは地上波テレビもeスポーツ関連の番組を流し始めた。eスポーツという言葉は、2018年のユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに選ばれている。

 eスポーツをオリンピック競技に加えようという動きもあるが、トーマス・バッハ、オリンピック委員長は「オリンピックのプログラムに暴力や差別を助長する競技が入ることはありえません」と、今年9月に述べている。冒頭の話はパリ大会でもeスポーツ採用はないことを示唆したものである。

 しかし、しかし。

 自分の部屋にとじこもり、ゲームばかりしているやせ細った少年が、その後eスポーツのアスリート(スポーツマン)となり、野球選手やサッカー選手のような大金を稼ぎだす日も遠くなさそうである。

肉体に依存しなくとも、身体『脳』力  はアスリートの才能なのだ

新サイバー閑話(3)

改憲をめぐる風景

 安倍首相の執念とも言うべき憲法改革もまた今国会の焦点である。国の将来に大きな影響を与える改憲においてすら、政権側からの丁寧な説明がなく、国会で十分な議論も行われないままに、また数の力で押し切られる恐れが強い。

 いずれ実現する可能性のある国民投票を前に、国民一人ひとりが国の基本法たる憲法についてよく考えるべきときである。そういう思いから、サイバー燈台・プロジェクトコーナーでジャーナリストの森治郎氏に「日本国憲法の今」という連載をお願いした。第5回では「この際の憲法読書案内」も掲載している。これらの本をいくつか読んでくれることを願っている。

 さて、それらの作業を通じて、私がイメージした日本国憲法の今をめぐる風景は、以下のようなものである。

 眼前に「安倍改憲川」が流れている。上流に一つ、大きなダムがあり、そこでは長い間「原理主義的護憲派」が頑張っていたが、「非立憲政権」の上からのクーデターと、そこに「ポスト真実」的な世界的潮流も加わって、ダムそのものがほぼ崩壊しつつある。ダムの下流には小舟がいくつか浮かんでいるが、その一つに「護憲的改憲論者」が乗っている。それは呉越同舟、侃々諤々の趣でなかなか意見はまとまりそうにない。もう一つの舟に「修正主義的護憲派」が乗り、船頭は、次第に急になってくる流れに掉さしてバランスを取ろうと懸命に努力しているが、舟自体は川下に流されていく。

 川にはいろんな小舟が浮かんでいるが(「読書案内」参照)、川そのものにまったく無関心な人や、日々の生活に忙しくそれどこではないと思っている人も多い。岸から不安そうに眺めている人もいる。波を搔き立てて流れを楽しんでいる舟もあるけれど、今の流れを食い止めようとしている舟の方が多い。しかし、狂暴化する「安倍改憲川」の濁流を防ぐ有効策を探し得ず、舟はおしなべて下流へ下流へと流されていく。

 その下流に最後のダム、「国民投票」が待ち構えている。国民投票は果たしてこの流れを食い止められるのだろうか。あるいは、もっとうまい流れを作り上げるには、国民は何をすればいいのだろうか。濁流を生みだした安倍政権は、先手を打って、国民投票ダムそのものを自己に都合のいいように変えようとしている。

 現在、ダムの上にはあまり多くの姿が見えず、最後のダムが決壊する可能性もある。この局面でどう行動するかは国民一人ひとりの判断だが、今必要なのは、自分たちが近い将来そのダムの上に立たざるを得ないこと、そこでは大きな決断をせざるを得ないことを認識することではないだろうか。(「原理主義的護憲派」、「修正主義的護憲派」、「護憲的改憲論」といった用語の意味は、第5回の原稿をご覧ください)

 

新サイバー閑話(2)

「表現と言論の自由」のパラドックス

 米東部ペンシルベニア州ピッツバーグにあるシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)で10月27日午前10時ごろ、46歳の男が銃を乱射、11人が死ぬという痛ましい事件があった。容疑者はSNSに反ユダヤ主義的な書き込みをしていたが、30日のニューヨークタイムズ電子版によると、ピッツバーグ事件後、写真投稿サイトのインスタグラムには反ユダヤ主義的な写真や画像があふれているという(インスタグラムはフェイスブックの傘下)。

 犯人が利用していたSNSは開設してから2年、約80万人のユーザーがいるらしい。同社は事件後、テロや暴力には反対だとの声明を発表したが、過去に極右の著名人や陰謀論者に発言の場を提供していると批判もされていたらしい。

 ニューヨークタイムズの記事が指摘しているのは、SNSはこれまで社会の片隅に止まっていた極端な意見をメインストリームに引き出し、それがいま深刻な影響を与えるまでになったということである。

 だれにも発言の機会を与えた「福音」のツールのマイナス面が無視できないくらい大きくなりつつあるが、この点についてのIT企業の自覚はきわめて薄い。一般の反応もまた鈍いと思われる。

 問題のSNSサイトは「表現と言論の自由」が使命だと宣言しているけれど、かつては誰もがその価値を疑わなかった「表現と言論の自由」を文字通りには擁護できない逆転現象があるというのがきわめて現実的な問題である。

・ロングテールとヘイトスピーチ

 かつてアマゾンの黎明期にオンラインショッピングのあり方として「ロングテール」(長いしっぽ)ということが言われたが、その『ロングテール』という本を書いたクリス・アンダーソンは、こんなことを言っている。

 アメリカにはインド人が推定で170万人住んでおり、インドは毎年800点を超える長編映画を製作しているが、それらの映画はほとんどアメリカでは上映されない。なぜなら、映画館の客は周辺住民だけであり、そこでヒットするためには、みんなに喜ばれるハリウッド大作である必要があり、「地理的にばらばらと分散した観客は、いないも同じになってしまう」。ところが、インド映画のオンデマンド販売、あるいは上映になると、170万人は「顕在化」するわけである。

 つまり、どこかで反ユダヤ集会が開かれ、それが各地で同時開催されていたとしても、それは地域の壁に阻まれて、大きく広がることはなかった。これがサイバー空間にはない「現実世界の制約」であり、それが自ずからなる秩序を保っていた(サイバーリテラシー第1原則「サイバー空間には制約がない」)。少数の人が何を主張しようと、それは「言論および表現の自由」として保障されていたわけである。

 ニューヨークタイムズの記事によれば、「過去においては、彼らは自分たちの毒を味わう観客を見つけることができなかった。いまやそのアイデアを多くに人に広めるツールを得た」。

 政治の世界でも、かつてなら傍流にいた人びとがいま主流にのし上がっている例が多いが、その背景にはこういった社会システムの変化がある。

・在特会デモはネット活動の延長

 日本では2016年にヘイトスピーチ規制法(解消法とも呼ばれる。罰則なし)が成立して、在特会(在日韓国人の特権を許さない市民の会)の活動はいまどうなっているのか、よくわからないが、安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』には、興味深い在特会の事情が記されている。

 現実世界で鬱積した不満を抱えている人びとが、ネットの書き込みを見て在特会を知り、その主張をそのまま信じて、ネットの仮名のままでデモに参加、やはりネットで罵詈雑言を浴びせるのと同じように、街頭でののしっていると。彼らは「市民の会」と名乗っているけれど、現実世界における相互の連絡というかつながりはほとんどない。大半はユーチューブなどの動画を見て、おもしろそうだと思った人々が集まっているらしい。デモをして、過激、かつ下劣なシュプレヒコールを上げ、それで溜飲を下げている。後に「なんで在日韓国人があんなに憎いと思ったのか、自分でもわからない」と述懐している人もおり、かつて『IT社会事件簿』で取り上げたネットの誹謗中傷事件が、そのまま街頭にあふれてきたと言えるだろう。

 こういう現実世界の人的、地理的な制約がなく、周囲にブレーキ役もないネットの言動が、今度は逆に現実世界に流れ出て、大きな力になっている。あるいはなっているように見え、それが現実世界を実際に動かすようになっている。

 ここへ来てIT社会の矛盾が爆発的に拡大してきたと言っていい。

クリス・アンダーソン『ロングテール』(早川書房、2006)
ロングテール‐「売れない商品」を宝の山に変える新戦略 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社、2012)
ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)
矢野直明『IT社会事件簿』(ディスカヴァー携書、2015)
IT社会事件簿 (ディスカヴァー携書)

新サイバー閑話(1)

小説投稿サイトから将来、傑作は生まれるだろうか

 インターネット上で小説を投稿できるサイト「小説投稿サイト」で発表され、読まれている作品はウエブ小説、ネット小説などと呼ばれている。2007年にブームになった「ケータイ小説」の系譜を引くもので、題材は恋愛、異世界、ファンタジー、魔界転生、ゲーム、宇宙など多岐にわたるが、どちらかというとライトノベル系のものが多いようである。

 読むのも投稿するのも無料だが、人気のある作品は、書籍化、ゲーム化、ドラマ化への道も開かれており、一部で有名になったものもある。

 その代表的サイトが「小説家になろう」で、運営開始は2004年というから結構な〝歴史〟である。小説掲載数60万点を超え、小説を読みたい人、アマチュア作家、プロ作家、出版社の編集者など登録者数は137万人に及ぶという。このサイトから「なろう小説」という言葉も生まれている。ほかにも大手出版社であるKADOKAWAとインターネットサービス、はてなが共同で運営している「カクヨム」など多数のサイトがある。

 人びとはウエブ上で(スマートフォンから)これらの無料小説を読んでいる。いわゆる文芸誌(「文学界」、「新潮」、「群像」、「すばる」など)は、出版不況を反映して、いずれも実売1万部を切る中で、ワンクリックも計算のうちとは言え、この閲覧部数は脅威的である。

 読者の中に出版社の編集者が含まれているのも興味深い。かつての編集者はさまざまなアンテナを張り巡らして新人を発掘、その新人を一人前の小説家に育て上げた。いまは投稿サイトに目配りして、そこから大魚を釣り上げようとしている。

『読者の心をつかむ WEB小説ヒットの方程式』といった指南書も売られているが、手っ取り早くアクセス数を稼ぐためのノウハウで、「小説とは何か」、「何を書くのか」といった〝純文学〟的な問いかけは、当然ながらない。

 これとは性格がだいぶ違うが、かつて<いまIT社会で>の「今様メディア百鬼夜行」で取り上げたDeNAによるキュレーションサイト閉鎖事件(2016年暮れ)を思い出す。あそこには、ものを書き一般に提供するとはどういう意味を持つのかといった表現行為に対する思い入れは一切なく、かつてメディアというものが漠然とながら持っていた文化的な営みとのイメージは完全に消えていた。

 ここには、ユーチューブなどの動画投稿、インスタグラムなどの写真投稿ともならぶ、いわゆる「投稿サイト」としての新しい潮流が生まれていると言えるだろう。かつて書くことが、あるいは井戸端会議的な話題がそのまま「金稼ぎ」に結びつくことはなかった。いまはそれらの投稿がビジネスになる。表現する行為の意味がすっかり変わった。

 ところで、将来、小説投稿サイトから大作、名作、傑作が生まれる時代が来るのだろうか。もちろん可能性はゼロとは言えないし、多数の人がそこに押しかければ、量が質に転嫁することは起こり得るけれど、ウエブ小説は直接的、短期的な読者の関心を引こうとするものである。傑作が生まれる可能性は低いと私には思われる。

二匹目のドジョウを目指して、皆同じ方向に昇っていく『文豪』たち