新サイバー閑話(63)<折々メール閑話>⑬

自民党&日本に深くたくみに潜行した統一教会

B 安倍元首相の銃撃事件をきっかけに、統一教会(旧統一教会と現世界平和統一家庭連合を一括してこう表記)は、信者の世界だけでなく政治の世界にも深くたくみに潜行していたことが、日に日に明らかになっています。
 若いころ水中ダイビングで比較的浅い海底に立った時、ふと前の岩場を見ると穴から大きなウツボがこちらをにらんでいた。あの獰猛な面構え。目を移すとそこにも、振り向いた背中の後ろにもウツボがいて、ゾッとしてあわてて浮上したことがあります。その恐怖に似た感覚を今回、思い出しました。統一教会はこんなに日本社会にひたひたと浸透していたのか、と。長期に及ぶ異常とも言える安倍政権を支えていた構図の一断面がはっきり見えたようにも思います。

A 統一教会と議員に対する自民党の調査は相変わらずおざなりで、本丸ともいうべき安倍元首相、細田衆院議長などは調査の対象外、数々の関連が明らかになっている山際大志郎経済再生担当相も閣僚に居座ったままですね。
 岸田首相は最近の国会で統一教会に対する宗教法人法に基づく調査を「質問権」を行使してやると言ったものの、解散命令請求が認められる法令違反として刑法だけでなく民法まで含まれると答弁するのに、1日の朝令暮改がありました。こんな腰の軽さでは、本気で解散命令を考えているようにも思えません。世論調査の内閣支持率急減にあわてふためき、この場をなんとか切り抜けようという魂胆が見え見えではないですか。

B 国政選挙で選挙の手助けをする見返りとして、統一教会側が自民党国会議員に対して教団の政策を推進するよう「推薦確認書」を提示し、署名を要求していたことも明らかになりました。そりゃそうでしょう、選挙事務所に教団員を無償で応援にかけつけさせ、雑務や電話応対をさせていた教団側からすれば、当然の見返りだったとも言えます。しかしこれは教会が日本の政治に影響を与えようとしていた証拠としてきわめて重要です。この事実は自民党調査では表に出てこなかったですね。自らの恥部を隠そうとしたのだと思えます。

A 統一教会と自民党議員の癒着は地方議会も例外ではありません。教団員の一票の重みは地方自治体選挙でこそ増すわけだから当然でもあります。妙なツイート発言をめぐって紛糾した小林貴虎三重県議の統一教会との深い関係はすでに明らかですが、自民党富山県連会長は10日、国会議員や県議を集めた会議で「統一教会と県内議員との関りについて調査しないことに決めた」との方針を明らかにしました。
 日刊ゲンダイDIGITALが「調査したら大混乱となり、有権者の支持を失うと恐れて、調査しないと決定した可能性がある」と書いています。こういう「臭いものにふた」というのは、政界のみならず日本社会の悪弊だと思いますが、もはや悪臭芬々、すべてを明るみに出すべきときだと思います。
 富山県では県知事や富山市長の統一教会との関係も指摘されています。これも保守王国の岐阜県では、中日新聞調査によると、県政自民クラブの19人が統一教会や関連団体のイベントに出席したと回答したようです。この種の例は各県で見られるのでは。

B 推して知るべし、でしょうね。

A 統一教会の地方への浸透ぶりを示す一つの指標として、2012年以来、地方議会で成立している「家庭教育支援条例」の広がりがあります。財団法人、地方自治研究機構の調べだと、2022年9月現在で、都道府県条例が10、市町村条例が6成立しています(表)。
 提案者は議員や市長となっていますが、各種報道によれば、提案を働きかけた人物に統一教会(勝共連合も含む)関係者の影が見え隠れしています。提案議員と統一教会の直接的な関係が指摘されている例もあります。最初の熊本県条例が成立した2012年は第2次安倍内閣が発足した年でもあります。
 これとは別に、国レベルの家庭教育支援法を制定しようとする動きがあり(野党の反対で現在は棚上げ)、全国34の地方議会が家庭教育支援法の制定を求める意見書を可決しています。ここでもたとえば熊本県や神奈川県などで統一教会の関与が指摘されています。

B これは2006年、第1次安倍政権下で実現した教育基本法改正と歩調をあわせた動きです。いじめ、登校拒否、虐待などの原因は親の責任だとして、公権力の家庭への介入をめざしています。その背景には伝統的な家族観があり、核家族、共稼ぎ、貧困家庭、不十分な福祉政策など現在の家庭を取り巻く環境は捨象したままです。ジェンダーフリー・バッシングの動きとも軌を一にしており、個人(子どもや障碍者、性的マイノリティーなど)の基本的人権への配慮が極めて希薄です。
 実はこれは自民党改憲草案に脈々と流れる考え方でもあり、安倍政権や自民党、公明党、さらには維新などの保守勢力が推進しようとしている政策を、同じ考えに立つ統一教会が支援しているとも言えます。二人三脚と言ってもいいし、政権側が統一教会の強力なエネルギーを利用し、運動の下支えどころか実質的な駆動力にしているとも言えるでしょう。

A 統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改称したように、「家庭」、「家族」が教えのキーワードで、その家族観は、創始者の故・文鮮明氏を「真のお父さま」と呼び「神様の下に人類が一つの家族である世界」を理想に掲げており、自由恋愛や婚前交渉は論外、信者には合同結婚式で相手が選ばれます。社会の構成単位が個人ではなく、教主を頂点とする家族なわけですね。個人の自由をまったく尊重していない。むしろ否定している。生まれた2世へのしばりもそうですね。

B 家庭が大事だというのはその通りで、子どもの教育には親もあずかってしかるべきですね。たしかに安倍元首相のふるまいを見ていると、この「金持ちのお坊ちゃん」は家庭でどういうしつけを受けてきたのかと不思議に思うことが多かったですね。その人が家庭教育が大事だというのも不思議と言えば不思議です。
 冗談はさておき、一連の動きの背景には国や地方自治体が家庭に介入する国家統制的な考えが潜んでいます。「法は家に入らず」という格言もあり、この種の立法には慎重でなくてはいけません。
 自民党と統一教会の癒着は、選挙で協力してもらう見返りに社会的認知と広報㏚をするというだけに止まらず、もっと深いところで結びついている。もはや同根と言ってもいいでしょう。来年4月に設置予定の「子ども家庭庁」の名称は、元は「子ども庁」だったらしい。統一教会側が自らの働きかけの成果として報告しているほどです。

A 統一教会は、「山上家の悲劇」に象徴されるように、家庭を破壊しつつ、家族愛を訴える。大いなる矛盾を抱えた組織です。

・「ウツボの恐怖」と闇を払う覚悟

B 問題を広げると、自民党改憲草案と統一教会の政治組織、国際勝共連合の見解が「緊急事態」や「家族条項」などでほとんど一致していることが指摘されています。ニワトリが先か卵が先か、この辺は何とも言えないけれど、結果的に、統一教会の意向が陰に陽に最高法規にまで忍び寄ってきている感じがしますね。
 統一教会と政権与党の考えが一致しているから統一教会の影響を受けているとはもちろん言えませんが、統一教会の考えと家庭教育支援条例の内容が似ていることは確かで、自民党議員と統一教会のどちらが主導しているのかは非常にあいまいです。

A 暴力的とも言える献金などを強要していた「反社会的集団」の統一教会と政権与党が手を組んでいたと。

B 前回も言及しましたが、世耕参議院議員は「この団体の教義に賛同する我が党議員は1人もいない。我が党の政策に教団が影響を与えたことはない」と語ったけれど、語るに落ちるというか、影響を受けたのではなく、もともと同じ考えだと言うつもりでしょうか。その類似点、および相違点についても釈明してほしいですね。
 これに関連して、「文春オンライン」(9月22日)は下村博文衆院議員が政調会長時代、統一教会の関連団体幹部から陳情を受け、党の公約に反映させるよう指示を出していた疑いを報じています。統一教会の改称が認められた2015年の文科大臣は下村氏でした。

A 自民党の野田聖子・前男女共同参画担当大臣が超党派の女性議員らでつくる勉強会で、「伝統的な価値観を重視する宗教団体が自民のジェンダー政策に一定の影響を与えた可能性がある」という認識を示したとも報道されました。

B すなおに見ればこういうことだと思いますね。ここ十数年、戦前への回帰の動きが強まってきていますが、保守政治の着々とした動きの背後、少なくともその一部に、統一教会の存在があることがしだいに明らかになってきたということでしょう。
 それは安倍政治がめざしていたものであり、さらに言えば、彼が念願していた憲法改正への下準備でもあったように思われます。国会で改憲する、改憲すると言いつつ、裏ではなし崩し的な〝改憲〟状態を進めようとした面を否定できないですね。

A 自民党議員たちが選挙協力を受けることで、統一教会に隠れ蓑を貸したり広告塔になったりすること自体が大いに問題だけれど、自らの政策遂行のために反社会集団と手を組んでいる実態こそをより深刻に受け取るべきですね。まるで同じ穴のムジナではないですか。

B 自民党議員が統一教会との関係をあいまいにしようとしている真意は、どうやらそこにありそうです。冒頭でムジナならぬ「ウツボの恐怖」と言ったのは、統一教会がいつの間にか日本の深部に深く浸透してきていることへの驚きです。これが安倍政治の本質だったと思いますが、いま岸田政権はその安倍政治を踏襲すると言っています。
 この日本社会に広がる「深く暗い」闇を払うには、野党も、メディアも、私たち自身も、相当の覚悟が必要ではないでしょうか。

新サイバー閑話(62)<折々メール閑話>⑫

世襲議員の跋扈が日本政治をダメにする

A 国葬強行に加えて統一教会と自民党議員の関係清算に対するヌエな態度が岸田内閣の支持率をどんどん下げていますが、その折も折、岸田首相はわずか31歳の長男、翔太郎氏の首相秘書官起用を決めました。
 岸田首相は祖父の代から数えて衆議院議員3代目ですが、将来を見越して4代目後継を養成するためだとも言われており、日本の政治家、とくに自民党に顕著な世襲議員の跋扈、それを当たり前のように認めてきた国民の政治感覚の異常さが改めてクローズアップされています。安倍元首相も「光り輝く」3代目で、彼亡き後、家族や地元の関心は安倍後継選びだそうです。

B 日本では地方議会も含めて、2世、3世議員がけっこう目立ちます。ウィキペディアのデータをもとに、代表的な国会議員3代目の一覧を表にしてみましたが、国政の中心が3代目によって占められるという〝壮観〟ぶりです。2世まで範囲を広げると、世襲議員は野党も含めてけっこう多いですね。
A 政治をあたかも家業のように考えているのでしょうね。過去の偉大な政治家に「世襲」がいたとは聞いたことがありません。2代目3代目は政治的信念を継承するのではなく、ただ地盤と利権を継承するだけ。そもそも彼らに成し遂げたい政治的信念があるとは思えない。人望や実力がなければなれないヤクザの2代目3代目の方がまだ筋が通っていますね。もちろん、例外がないわけではない。

B 世襲議員について、日本総合研究所の寺島実郎が評論家、佐高信と行った対談『戦後日本を生きた世代は何を残すべきか(河出書房新社、2019)でこう言っています。

いま日本人が気づかなければいけないのは、続々と登場してくるリーダーが、まず政治家の2世3世ばかりだということです。日本のさまざまな現場で歯を食いしばって支えた人がリーダーになっていくのではなく、多くは家業として代々政治家をやっているからそういうものだろうというレベルでいる。そういう人たちが、政治家で飯を食っている人の大部分を占めている状況は、世界広しといえども日本にしかない。これは端的に、戦後日本の歴史が新しい方向感覚を見失って劣化しているということです。この国の政治に対する期待がどんどん低減している。

A 「家業」としての政治家が日本政治を壟断していることについて、そろそろ選挙民も考えるべきです。政治家を地盤、看板、鞄によって占おうとする報道の仕方そのものを改めないと。

B 主宰するOnline塾DOORSで、衆議院での一票の格差是正運動に取り組んでいる升永英俊弁護士の話を聞いたことがあります。なぜ国民に平等な一票を割り振る作業が進まないかというと、それは立法者である国会議員が自分の不利になるような選挙区改正に反対するからです。今の一票の不平等な制度では、国民の過半数が国会議員の過半数を選ぶというふうにはなっておらず、だから升永弁護士は日本を「国民主権国家」ではなく「国会議員主権国家」だと言っていました。
 そこで羽振りを利かしているのが地盤、看板、鞄という従来の選挙方式だから、国民の真の代表として国会議員を選ぶことができず、したがって議会の多数を占めた政党から出た総理は国民の総意とは違うものになる。
 日本の国会議員の数は人口比で見ると、アメリカの3倍とも言われています。しかも人口が減っているのに国会議員は減らない。こういういびつな選挙制度そのものを変えていくような議論、例えば議員定年や任期制限、さらには世襲制限を、現制度で選ばれた現国会議員が真剣に議論するのは難しい。ここが大きなネックです。

A 毎回、世襲議員を唯々諾々と選んできた選挙民に問題があるのも確かですね。だからこそ選挙では投票すべきだと思うけれど、若者の投票率はきわめて低い。かつて某首相が「若者は眠っていてくれた方がいい」と言ったことがありましたが‣‣‣。

・それにつけても質の悪さよ

B いまの政治家の質の低さには驚きますね。
 自民党の世耕弘成参院幹事長は6日の参院本会議で安倍晋三元首相は「教団とは真逆」の考え方の持ち主だ、と臆面もなく言ったようです。その理由が、旧統一教会は「『日本人は謝罪を続けよ』と多額の献金を強いてきた団体」だが、安倍元首相は首相時代の2015年に発表した戦後70年談話で次世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と主張しているのではないか、だから「この教団とは真逆の考えに立つ政治家だった」というわけです。
 強弁もいいところです。安倍首相は表では韓国を過度に貶める発言をしながら、あるいはそういう行動をとりながら、裏では自分の選挙に有利になる統一教会とむしろ手を組むというダブルスタンダード、恥ずべき背信をしていたわけです。表の発言を通して裏の実態を否定する世耕氏の発言は誤り、というよりきわめて悪質なものです。世耕議員も祖父が衆議院議員です。

A これを正面から反論しない国会も情けないが、それをそのまま報じるだけのメディアもどうですか。世耕議員は「この団体の教義に賛同する我が党議員は一人もいない。我が党の政策に教団が影響を与えたことはない」とも語ったようです。それにはさすがに本会議場でどよめきが起きたらしいが、それを報じたオンライン上の記事では<インターネット上では、『ズバッと言ってくれてすっきり』と評価するコメントがある一方、「『我が党に一人もいない』とか寝言を言ってた」、「自民党の政策、改憲草案は、統一教会の教義と一緒ですが!偶然とは言わせませんよ」との声もあった>とネットの発言を紹介するだけで終わっている。ここはきちんと事の本質を指摘すべきだと思いますね。

B 寺島実郎は『シルバー・デモクラシー』という本では、「現下の日本で、政治で飯を食う人たちと向き合えば、その人間としての質の劣悪さに驚く。戦後日本の上澄みだけを吸ってきた愚劣で劣悪な政治家・指導者を拒否する意志、この緊張感が代議制民主主義を錬磨するのである」とも言っています。先の本ではこういう話も紹介していました。
 幕末の幕臣、勝海舟がアメリカに行ったとき、帰国後、老中にどうだったか聞かれて、「あの国では賢い人が上に立っています」と答えた。国父ともいうべきジョージ・ワシントンの子孫はどうしているかと聞いても、だれもが「さあ、どうでしょうか」としか答えられなかった。勝は驚きつつ「民主主義とはこういうものか」と思ったというんだが‣‣‣。

A 政治家の責任、倫理ということで言うと、なぜ山際大志郎経済再生担当相はいまだにやめないのか。

B それについては、文芸評論家の斎藤美奈子が12日の東京新聞「本音のコラム」で面白いことを書いていました。

これだけやり込められたら普通なら自分から辞めるだろうし、そうでなければ首相が引導を渡すはずだが、何のお咎めもなし。そこで思い出したのが海抜より低い国、オランダの堤防で水漏れを発見して、その穴に自分の腕を突っ込み、我が身を犠牲にして国を守った少年の話である。少年が手を抜いたらたちまち堤防が決壊する。それと同じで、他の統一教会がらみの議員に〝類〟が及ぶから手を抜くわけにもいかず、必死で頑張っている。しかし、もう「栓は限界だ。諦めてはどうか」と。

 山際議員はだれのために頑張っているのか。もちろん国民のためではなく、仲間の自民党議員を守るためです。改めて調べてみたら、同議員は世襲議員ではない。東京大学大学院を出た獣医学博士です。本コラムで取り上げた<⑨まともな人間を育てない「教育」>の成果というか、犠牲というか。現在の政治の退廃が世襲議員を減らせばすべて解決といかないこともまた事実ですね。

A れいわ新選組が進めている来期統一地方選に向けての候補者募集では、それこそ「まっとう」な人材が応募してほしいですね。ここから新しい政治家が生まれることを祈りたいです。

新サイバー閑話(65)<折々メール閑話>⑪

「国葬強行」転じて日本再生のテコとする

B 安倍政治の8年余をふりかえれば、彼が政治的にも、経済的にも、社会的にも、日本を徹底的に破壊したことは明らかでしょう。その異常さは、彼がとりもった統一教会と自民党議員の抜き差しならぬ関係が明らかになったことで、ようやく多くの人の認識するところとなりました。反日を掲げる勢力と裏で手を組みながら、表では不必要なまでの韓国敵視政策をとり、アジアにおける日本の地位をいよいよ孤立させました。また「異次元金融緩和」を柱とするアベノミクスで見せかけの高株価を演出、実体経済をむしろ著しく損なったと言えます。もたらしたのは、政治の腐敗であり、経済の衰退であり、倫理道徳の崩壊でした。
 我々が「アベノウイルス」と呼んできた腐臭芬々(ふんぷん)たる元首相およびその政権の体質が、7月8日の銃撃から9月27日の国葬に至る80日余の間に、徐々に明るみに出たことは一つの救いです。安倍政権の痛手を克服し、日本社会を改善していくという視点に立つとき、国葬の意味をきちんと総括することは不可欠です。国葬を強行した岸田政権が安倍路線の延長上で将来を考えているのは明らかだからです。
 平成の30年間はひと口に「失敗の時代」だったと言われますが、それを最終段階で徹底的に推し進めたのが安倍政権だったわけで、岸田政権は国葬を強行したために国民の信を失い失墜したということにしないとダメだと思いますね。

A 安倍国葬は自民党(岸田政権)にとって「成功」と言えるのかどうか。新聞報道によれば、国内の参列者3400人は歴代首相の葬儀に比べても少なく、9番目と言います。国内6000人に招待状を出し、4割超が欠席したとも。弔問外交という点では、Gセブン現職首脳の出席はゼロ。安倍首相が「同じ夢を見ている」と仲良しぶりを吹聴したロシアのプーチン大統領はもとより、アメリカのトランプ元大統領、ドイツのメルケル元首相などは最初から出席の意向がなかったようですね(まあ、プーチンは当然だけれど)。
 一般献花に2.5万人が訪れたことをもって成功と強弁する余地はあるかもしれないが、これも統一教会の動員ということかも。安倍政権の官房長官だった菅元首相の歯の浮くような弔辞は、誰が書いたのか知らないけれど、虫唾が走るもので、吐き気をもよおすというか、安倍政権の腐臭を感じさせられました。あんなものを全文、新聞に載せる必要があるのか。日本の恥さらしです。前の方しか読んでいないけれど‣‣‣。

B 国葬に反対する側としては、それを強行されたこと自体「敗北」とも言えるけれど、はたしてそうか。国葬までの間に次々に明るみに出た自民党議員と統一教会の癒着ぶり、国葬前夜の抗議行動、国葬をめぐるさまざまなシンポジウム開催、世論調査における反対の声の拡大と岸田政権の支持率低下など、少なくとも国民総意で弔意を示したと、政権側に言わせないだけの成果はあったと言えますね。

A 国葬問題でまともな国民がさすがに覚醒したのではないかとも思いますね。自民党改憲草案と統一教会の政治組織、国際勝共連合の見解が「緊急事態」や「家族条項」などでほとんど一致していることが公然と指摘されるようになったのも、馬鹿げた改憲に対する一定の歯止めになったとも言えますね。改憲するなら、もっとまともなたたき台を出してこい、ということです。憲法を時代にあわせてどう変えるのか、日本の安全保障をどう再構築するのか、それをきちんと議論する姿勢がまるでない。これは野党も含めてだけれど、国の最高法規をどう定めるのか、広い構想力が求められます。議論などどうでもいい、とにかく自衛隊という文字を憲法に入れようというような態度では憲法が泣く。インテリジェンスのかけらもない。

B いまが綱引きの正念場で、ここで手を緩めては相手の思うツボです。今後の課題として思いつくことを数点上げてみます。

①国葬は成功だったと吹聴(強弁)させない歯止めを常に指摘していく。
②山際、萩生田、下村、細田(衆院議長として一時的に党籍離脱)といった統一教会ズブズブの自民党議員に何らかの制裁を課す。個人的に言えば今回の参院選で、何の定見もないのに統一教会に支援されて東京選挙区で当選した女性タレント議員には「愚かだった私」という国民としての反省の弁がほしい。どこかの雑誌で手記をとってもらいたいですねえ。
③野田元首相が葬儀に参列することを許し、国会でも有効な反論もできなかった立憲民主党の出直し的改革。芳野友子という奇妙な女傑に牛耳られている連合とは縁を切るべきです。

A 当面の関心事は、五輪汚職捜査で検察庁がどこまで安倍政権下の膿を出し切れるかですね。注目されるのは森喜朗元首相と竹中平蔵元内閣府特命担当大臣です。金が動いていると噂されていた通り、あるいはそれ以上に五輪は金権まみれだったわけで、五輪を踏みにじられたスポーツ選手はもっと声を上げるべきです。政権に取り込まれた橋本聖子東京五輪組織委会長など情けないほどダメですね。正々堂々のスポーツマン(ウーマン)シップに反するというか。

B 安倍政権下の検察庁を覆っていた政治圧力の重しが突然外れたような捜査の進展です。逆に言うと、あれだけの威圧感を安倍元首相はなぜ持てたのか。中身は空洞なのに「大いなる暗闇」として君臨できた謎を解くカギは、本コラムで指摘した「アベノウイルス」しかないと思います。安倍政権との癒着が問題となった黒川弘務東京高検検事長、中村格警察庁長官などは姿を消していますが‣‣‣。傍若無人、何をするかわからない「金持ちのお坊ちゃん」的体質が政界、官界、経済界、さらにはメディアを金縛りにし、忖度に次ぐ忖度の輪を築かせ、それが途方もなく膨れ上がった。

A いまの検察には期待するところ大ですね!検察の正義を国民に示して欲しい。心からのエールを送りたいです。

B 今回の安倍銃撃から国葬に至る経過を、日本再生のきっかけにしなくては、日本の将来はいよいよ危うくなるでしょう。<折々メール閑話>はいつの間にか10回を超えました。最初は山本太郎とれいわ応援一色だったけれど、安倍銃撃、国葬と事態が目まぐるしく進展するにつれて、こちらも「安倍元首相銃撃事件と言論の力」、「『安倍国葬』」にみる現代日本の『明るい』闇」、「日本を深く蝕んでいた『アベノウイルス』」、「まともな人間を育てない『教育』」、「『まっとうな人間』を政治の世界に送る秋」と現代日本批判的な様相を強めてきました。というわけで、もう少し続けることにしましょう。

新サイバー閑話(64)<折々メール閑話>⑩

「まっとうな人間」を政治の世界に送る秋

A 新聞各社が定期的に実施している世論調査では、そのすべてで安倍国葬反対が賛成を上回っているし、同時に岸田内閣への支持率は急激に低下しています。しかも調査が新しくなるほど支持率が低下している。最新の毎日新聞調査(9月17~18日実施)では、内閣支持率は29%とついに30%を切りました。不支持率は64%。国葬「反対」は62%、「賛成」は27%でず。自民党支持層でも2割超が「反対」だったようです。
 同時期に行われた共同通信調査でも支持は40.2%、不支持が46.5%、やはり不支持が支持を上回り、しかもこれまでの趨勢を逆転しています。もう一つ上げれば、時事通信調査(9~12日実施)では岸田内閣支持が32.3%、不支持が40.0%です。安倍国葬については「反対」が51.9%で、「賛成」は25.3%です(添付のグラフは時事通信調査における支持・不支持率の推移です)。 岸田首相の国会での「丁寧な説明」もこれまでの繰り返しに過ぎず、逆効果だったようですね。

B 地元の鎌倉市議会と隣の葉山町議会が国葬に反対する意見書提出を可決しました。鎌倉は9月12日、葉山は7日です。鎌倉で住民運動にかかわっている友人が「粘り強くやれば、なんとかなることあり」という感慨とともに教えてくれたのだが、ほかにも同様の決議をする自治体が出ていますね。このたび再選を果たした沖縄の玉城デニー知事も国葬欠席を表明したけれど、他の自治体のトップからも国葬への疑問が相次いでいます。

A 安倍元首相の地元でも来月15日に予定されている県民葬に関して、市民団体から反論がでているし、県知事たちが公費で国葬に参加することに対して、首都圏の弁護士らが公費支出指し止めを求める住民監査請求をしています。もはや、国葬反対は世論の大勢だと言っていいでしょうね。

B 国葬に反対する人たちは国葬が予定されている27日に向けて国会周辺などで波状デモを行う計画ですが、これからも地方議会で国葬反対決議が出されることを期待したいですね。ちなみに統一教会関係者の自民党、国会、地方議会などへの働きかけはすさまじいほどです。自民党改憲草案の「緊急事態条項」や「家族条項」などの文面が統一教会の政治部門、国際勝共連合の改憲案と似ていることが指摘されていますし、下村博文衆院議員が政調会長時代に統一教会の関連団体幹部から陳情を受け、それを党の公約に反映させるよう指示していた疑いが『週刊文春』で報じられました。
 その癒着ぶりはともかく、統一教会の精力的な働きかけそのものには感心します。野党陣営にもそれに匹敵する執拗さがほしいと言うと語弊があるが、この点は見習うべきだと思いました。

A 国葬を言い出したのは麻生副総裁で、それに岸田首相が飛びついたというのが真相のようで、今では「だれがこんなこと言い出したのだ」とぼやいているというのだが、これほど無責任な話はないですね。結局は、自分でも納得いかない国葬を行い、税金を使うわけです。政治の堕落ですね。「過ちては改むるに憚ることなかれ」、あるいは「過ちて改めざる、これを過ちという」。岸田首相に『論語』を贈ろうかしらん。

B 折からイギリスではエリザベス女王が亡くなり、その国葬が19日に行われます。エリザベス女王は多くの国民に慕われており、女王の喪に服する英国民の行動をテレビで見ていると、これぞ国葬という感じです。それにくらべて日本は、問題が多く、さしたる実績もない政治家を、国民の多数意見にそむいて国葬にする国だということになると、彼我の差は著しい。

A 安倍元首相と親しかったというデビ夫人も、国葬に反対する意見をインスタグラムに上げ、はっきりと「彼には何の政治的実績もなかった」と指摘しています。こういう人を国葬にすること自体、国民として恥ずかしいですね。岸田首相は日本の国威を著しく損なったとさえ言えます。

B それでも国葬を止められない日本の現状をあらためて考える必要があります。日本共産党、れいわ新選組、社会民主党は早くから国葬欠席を表明しており、立憲民主党も15日の臨時執行役員会で、「執行部全員の欠席」を決めました。ずいぶんもたもたした決断だったけれど、野党第一党が欠席することの意味は必ずしも小さくはない。まさに国論の分裂を象徴しています。岸田政権は国葬決定を国会にはからなかったばかりか、裏での野党根回しもしていなかった。野党が完全になめられている現実も浮き彫りになりました。

A 維新、国民民主党などは出席の意向らしいですね。いまこそ野党再編が喫緊の課題になってきたと思います。独立言語フォーラム(Independent Speech Forum)のシンポジウムで、山本太郎れいわ代表と鳩山由紀夫元首相がエールを交換していたけれど、今後の政局はこの山本・鳩山を軸に進むのが理想的だと思いました。

B そこに日本共産党や社民党も結集してほしいですね。立憲民主党はこの際分裂して、まともな勢力はこちらに合流すべきじゃないでしょうか。同党は今回の決定にあたっても、党所属議員の国葬への出欠は個々の判断に委ねました。以前から思っているのだが、立憲民主党は労働組合の連合と手を切らないとダメですね。

A 連合の芳野友子会長は国葬出席の意向です。労働組合の最王手が連合だというのも不思議です。

・正しい行為をする人が正しい人である

B これからの結集の軸は「まっとうな政治家」対「そうでない政治家」というふうに区分けするのがいいですね。まっとうとは何を意味するのか。ずいぶんあいまいな基準で、誤解、あるいは曲解されるおそれもあるけれど、床屋談義ふう「常識」ということで言えば、大筋において正直であること(平気でうそをつかないこと)、利他的というほどでなくても利己主義に凝り固まっていないこと、金や権力より大事にしているものがあること、今だけでなく将来を見据えている、というようなことですね。

A 「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」幹事長の河合弘之弁護士が岸田首相の原発再稼働の推進策に反対するインタビューで、原子力ムラの行動原理は、「今だけ、金だけ、自分だけ」であると批判していましたが、今さえよければいい、金さえもうかればいい、自分の所属する組織さえ安泰ならいい、もっと言えば、自分が役職についているときだけうまく行けばいいという、きわめて利己的、短絡的な発想があらゆる組織に蔓延しています。後は野となれ山となれという発想が強すぎる。「国士よ、出でよ」と言いたいところですね。

B 古代ギリシャの哲学者、アリストテレスはこう言っています。「われわれはもろもろの正しい行為をなすことによって正しいひととなり、もろもろの節制的な行為をなすことによって節制的なひととなり、もろもろの勇敢な行為をなすことによって勇敢なひととなる」(『ニコマコス倫理学』岩波文庫版)。アリストテレスにとって政治は、善く生きる術を学ぶためにあり、善とは、善き市民を育成し、善き人格を養成することです。
 小さな規模の都市国家の理想をIT社会でどう実現するかはたしかに難しいけれど、サイバー空間の登場によって根こそぎ破壊されつつある既存秩序の長所を復活させ、さらには新しい秩序を生み出すためには、温故知新も必要です。いまこそ彼の素朴とも言える意見に耳を傾けたいと思うわけですね。

A 安倍襲撃から国葬決定に至るこの間の騒動をめぐって発言している中に、「まっとうな意見」を言う人がけっこういます。そういう人びとが、一時的であろうと、いったん政治の場に参加してくれるとずいぶん政治が変わるでしょうねえ。

B 具体名を上げるのは避けますが、大学の先生とか、評論家とか、ジャーナリストとか、あるいは政治家とか、ちょっと頭に浮かぶ人が結構います。それぞれに考えもあり、立場もあり、現実のしがらみもあるだろうけれど、希望としてはそういう方に政治の世界に、一時的でもいいから参加してほしい気がします。無名でも政治に関心をもつ「まっとうな人」は、いまこそ政治の場に進出してほしいし、我々有権者はそういう人に投票するようにしたいですね。

A 今回の参院選でれいわ新選組から大阪選挙区で出馬した八幡愛さんの母、「八幡おかん」が姫路市議選に立候補するとのことです。

B 冒頭の毎日新聞調査による政党支持率は、自民23、日本維新の会13、立憲民主10、共産5、れいわ新選組5、国民民主党4、公明4(各%)などで、「支持政党はない」と答えた無党派層は29%でした。自民支持率は前回の29から6ポイント下落している。

A ちなみに共同調査による政党別支持率は、自民39.3、立憲民主9.9、日本維新の会9.8、共産4.3、公明3.5、国民民主2.9、れいわ新選組2.3、社民1.2(各%)という順です。

B 相変わらず自民が断トツで、我らがれいわの支持者はまだ少ない。しばらく国政選挙はない予定ですから、来年の統一地方選挙を「まっとう人間」が大躍進する画期的なものにできればいいですね。

A れいわでも統一地方選での候補者探しを進めているようです。玉城さんが当選した沖縄県知事選と同時に行われた宜野湾市議選ではプリティ宮城ちえさんが2番手で当選しました。統一地方選を党勢拡大のチャンスにつなげてほしいと思います。

 

新サイバー閑話(63)<折々メール閑話>⑨

まともな人間を育てない「教育」

A 旧統一教会問題、安倍国葬、コロナ第7波、そして岸田政権の迷走、立憲民主党のグダグダ――、このところのニュースを見るにつけ、怒りを感じるより、むしろ脱力感に襲われます。このまま、国会も開かれず、統一教会問題もフタをされ、国葬実施となりそうな‣‣‣、これだけの不条理に対して、国民の自浄作用が働かないのは何故なんでしょうね?
 日々起こる政治的事件を追いかけるのにいささか疲れて、久しぶりに池田晶子さんの『人生のほんとう』という本を開いてみました。「人間が崩れてきた」と書いています。拝金主義が横行してきたというのがメインの主張ですが、16年前にこういうことを述べているのはさすがです。

B まず自民党議員が崩れ、野党議員も崩れ、岸田政権はまさに崩壊寸前、しかし、しぶとく持ちこたえている。自民党議員有志の会が「安倍元首相を『永久顧問』にした」という報道がありましたが、死者を「永久顧問」にするというのはどういうことでしょうか。ここでは日本語も崩れていますね。

A 何もしない岸田内閣なのに、なんと原発を再稼働し、新設も視野に入れると報じられました。東京新聞&中日新聞社説が「あの悲惨な原発事故をなかったことにしようというのか」と強烈に一発かましていましたが、岸田首相の背後にいるのは誰でしょうね。

B 古代ギリシャの哲学者、ディオゲネスは真昼間からランプをともして、行きかう人びとの顔を照らしていたらしい。「何をしているのか」と問われたとき、彼は「人間を探している」と答えたと言います。昔から「まともな人間」はなかなかいなかったということなんだろうけれど、当今の日本の現状を見ると、「まともな人間」が、とくに自民党周辺では絶滅した印象を受けますね。「アベノウィルス」、恐るべしです。

A 国民はどうかというと、さすがに報道各社の世論調査では国葬反対が賛成を大きく上回り、岸田内閣支持率も急落していますが、岸田内閣を打倒するような国民運動までには至っていない。メディアの追及も手ぬるい。国民の間の「まともな人間」の比率も低下しているようです。

B とくに若い層で内閣支持率が高いし、国葬賛成者も多い。これこそ安倍政権8年余の「成果」ではないかと思わされます。すっかり従順に飼いならされ、物事を批判的に見る力がなくなっている。ここに「失われた教育」が大きな影を投げかけていると言えるでしょう。
 もっとも、若い人だけの傾向でもないですね。自分の歳がら、高齢者専門の精神科医、和田秀樹さんの本をいくつか読んでみたけれど、その中に「テレビを見て、『そうだったのか!』と感心しているだけでは老後は心配と言えるでしょう」と書いてあった(^o^)。池上さんはそう言うが、私の経験ではそうとは言えないというふうに考える力が必要だと。そう言われると、池上彰がもてはやされる現状も変ですね。教育とはただ物事を知っているということではない。

A 池上彰がもてはやされるのは、彼の訳知り顔の能書きにころりと騙される手合いが多いからではないでしょうか? 池田晶子さんが『14歳からの哲学』以来言い続けたように、自分の頭で考えることが必要なんですね。

B 全般的に「知性の劣化」は否定しがたいですね。エマニュエル・トッドの『大分断』(PHP新書、2020)という本には「教育がもたらす新たな階級社会」という副題がついており、教育が知性を育むことから離れて、ただの「資格」取得のためとなり、物事を考える暇もなく学歴を積み上げていくだけの「自分でものを考えない」、「愚かな」人びとが指導層を生み出していると書いてあります。
 教育の変貌は世界共通のようですが、それにしても日本の現状はひどい。自民党政治家や評論家の中に、東大&ハーバード大卒などと経歴はずいぶん立派だが、なんと馬鹿なことを言うものかとあきれる人がけっこういる。教育と知性が切り離されているばかりか、高等教育を受けている過程でむしろ知性を失っていく恐れさえある。
 そのいい例が統一教会との関係をめぐる山際大志郎経済再生担当大臣です。2016年にネパールで統一教会系団体の国際会議に出席しスピーチもしているのにこれを否定し、報道でその証拠を突き付けられると「明確に覚えていないが、報道を見る限り出席したと考えるのが自然だと思う」と、まるで子どもの言い逃れのような発言をした(後に写真を見せられて「明確に出席した」と認めた)。この人は以前にも「我々は野党の人からくる話は何一つ聞きませんよ」と臆面もなく民主主義のたてまえを否定しています。大学院まで行って専門知識以外には何も学ばなかったようですね。
 ここにはもはや一片の「知性」もない。知的劣等生で悪ガキのような人間を党首にかつぎ、8年余も首相として君臨させた自民党集団にこそ知性の鈍化は否めないですね。山際大臣を依然として閣内にとどめている岸田首相も例外ではない。

A 信者から半ば強制的に大金を差し出させたり、壺などの霊感商法で法外な金を巻き上げたりしていた反社会的集団である統一教会と、なぜかくも多くの議員が関係をもっていたのか。自民党ばかりでなく、立憲民主党など野党にも毒牙は伸びていたらしいが、そのことが明らかになったあとの各議員の対応そのものがまことに「まとも」でない。ひと昔前なら内閣総辞職ものなのに、その元凶ともいうべき安倍前首相を国葬にしようという驚くべき事態です。

・「お前、さしずめインテリだな」

B コラム⑦でふれた「明るい闇」とも関係しますね。安倍元首相の献花にきた若い母親が理由を尋ねられて、小さな子どもを見ながら「この子が(首相を)好きだったもんで‣‣‣」と答える。今回当選した元タレントは選挙期間中も、当選後もほとんど発言していないようだけれど、要は自分に関わる問題にすら意見を言えない。統一教会の後押しがあったとはいえ、こういう人間を選ぶ有権者も情けない。
 一時「反知性主義」というのが話題になったけれど、それには2つの側面がありますね。1つは知性をふりかざす人間に対する批判、あるいは揶揄です。寅さんの「お前、さしずめインテリだな」に象徴される、むしろ健全な精神です。ここには「嘘を100回もついたら地獄で閻魔さまに舌を抜かれるよ」という庶民の知恵もあります。
 もう1つが知性そのものへの無関心、反抗、蔑視です。これはアメリカなんかで顕著なようだけれど、知性全般の否定で、これが日本に入ってくると、「ものを知らなくても平気」という態度になる。
 大学生が「高校で世界史を取らなかったから、ナポレオンって知らないんだよね」などと言います。昨今の教育は無知で大勢順応的な人間や、知識はあっても人間的にどうかと思うような人材を育ててきた。安倍政権が進めてきた教育改革の本質でしょう。

A バラエティー番組のコメンテイターの多くがいわゆるタレントで大勢順応的な発言が多いけれど、「お前、さしずめインテリだな」ぐらいの芸人としての矜持をもってほしいですね。

B 立身出世主義のころから学問を出世の方便にしてきた人は多く、東大法学部などはその最先端だったけれど、それとは違い、人格の陶冶をめざすとか、社会のために尽くす、あるいはそのような発見をするとか、まあ、ふつうに学問とか教育という言葉で頭に浮かぶような学問をめざす人も一定数いました。社会そのものがそういう人への尊敬の気持ちをもっていたわけですね。

A 教育の産業化なんてあり得ないですよ。ところが「人文系の学問はいらない」などとわけのわからないことを言う政治家がいる。2019年のれいわ街宣で応援弁士として登場した前川喜平さんが「自民党政治は印度哲学を学びたい学生にはまるでお金を出さない政治ですよ」と警告していたのを思い出します。

B 最近は子どもに投資の勉強をさせようとまじめに言っている人がいて、実際、そのような施設もあるようですね。

A 狂っているとしか言いようがない。池田晶子さんが指摘していますよ。小さな子どもまで「お金が欲しい、金儲けをしたい」と、夢ではなくて欲望を語る時代だけれど、「たとえ世界をわがものにしたとしても、心を失えば終わり」だと。五輪汚職で逮捕された電通の高橋治之元専務は年収4億円(?)だとか聞きましたが、彼が子どもの理想ということになると、これは恐ろしい。

B ハーバード大学教授のマイケル・サンデルは『それをお金で買えますか』という本で、市場が入り込むべきでない分野に市場が介入することで道徳、規範に変化が生じることを強調しました。たとえば本を読む習慣をつけるために、子どもに1冊本を読んだらなにがしの小遣いか褒美をやると、本を読むという行為が小遣い稼ぎに変質する。それでも読むようになればいいという面もあるが、結局、本を楽しんで読むという習慣が失われる。すなわち価値観が変わる。「生きていくうえで大切なものに値段をつけると、それが腐敗してしまうおそれがある」と言っています。

A 教育を市場原理にゆだねることが問題ですね。

B 空気、水、電力といった本来、人類共有の財産(コモン)であるべきものが資本に取り込まれて価値を付加され、そのことで人々の生活が脅かされている現状があるわけです。

A 岸田首相の「新しい資本主義」は官僚の入れ知恵だと思いますね。最近は資産倍増計画などと言い出した。「所得」ではなく「資産」です。どこまで行っても金のことばかり。子どもの投資の勉強は「新しい資本主義」にとって不欠欠だなんて言いだしそうですね。ちなみに高橋元電通専務がつくった会社の名は「コモンズ」なんですね。人類の共有財産までしゃべりつくそうという決意ですかね。

B そもそも学ぶということは人格を陶冶するというか、「まともな人間」になるためだったはずだが、教育が社会の底辺にまで広がると同時に、教育の質が変化して、本来の趣旨から外れてきているのはまことに皮肉です。そういうふうに育った人が社会の指導層になり、「教育」をはき違えたような教育改革に奔走、統一教会や国葬問題を生み出している。先のトッドも「今後は名誉がインセンティブとなるシステムに戻していかないと、社会が立ちいかなくなる」と言っています。まったく、「武士は食わねど高楊枝」とうそぶくほどの人材がほしいですね。池田晶子さんが「人間が崩れてきた」と言ったのはそういうことでしょうね。

新サイバー閑話(62)平成とITと私⑩

いざ鎌倉、源氏山大花見宴

 『ASAHIパソコン』創刊前の1988年春、外からの助っ人ばかりからなる編集部の気勢をあげるために、わが家の裏の源氏山で、「いざ鎌倉 大花見宴」を始めた。適当に酒と肴をもちより、家族や友人、知り合いを誘って、三々五々、毎年同じ桜のもとに集まる。紅白の垂れ幕を張って、粋な芸者?が歌って踊る、ちょっとドはでな花見だが、友が友を呼び、参加者が100人規模になることもあった。雨の日も最初から我が家で「花より酒」の宴を絶やさず、花見は2018年まで続いた。

 二十年見れども見れども桜かな

という小林一茶の句があったと思うが、まことに「三十年見れども見れども桜かな」の年月だった。花見は日曜と決めていたから、一週間日取りをあやまると、まだ五分咲きだったり、すでに花吹雪が舞ったり――、前日は満開だった桜が夜半の嵐で花の絨毯になってしまったこともある。花は真っ盛り、しかも晴天という年もけっこうあり、澄んだ青空をバックに桜が揺れるのを見ていると、新人として盛岡支局に赴任した翌5月1日、メーデー取材に同行して見た岩手公園のみごとな桜を思い出したりした。公園わきに石川啄木の、

 不来方のお城の草に寝転びて空にすはれし十五のこころ

の歌碑があった。春になると、何度も山に登って挙行日を決めるのは私の仕事だったが、そんなときは在原業平の、

 世中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

を思い出したりもした。

 冒頭の写真は2011年のもので、夕方だからすでに帰った人も結構いたが、ゴザや垂れ幕も片付けたあと、思い立って記念撮影したものである。

・花見宴実行委員会と若者3人組

 岡田明彦、熊沢正人の『ASAHIパソコン』創刊の大助っ人が花見でも実行委員となってくれ、熊沢さんは紅白の垂れ幕を用意し、パワーハウスの若手も動員、岡田君は地元の仲間たちを招いて大いに気勢を上げてくれた。家族が参加することもあった。我が家では近くの畳屋から大枚の畳表を調達、そのゴザが垂れ幕と並ぶシンボルになった。

 最初のころの顔ぶれには村瀬さん、おてもりさん、斎藤さん、編集部の宮脇、見沢両君、「あむ」の荒瀬君、小本さんなどの姿も見え、まさに『ASAHIパソコン』気勢会の趣で、当時の出版局次長、柴田鉄治さん、三浦君なども参加してくれている。その後はときに地元鎌倉の作家、井上ひさしさん、CGの大家、河口洋一郎君なども顔を見せた。雨の日に若い女性陣が気を利かせて持って来てくれたぬいぐるみで大いに盛り上がったこともある。明治大学の夏井高人さんも一度来て、しこたま酔っぱらって帰っていった。法政大学の白田秀彰さんが他の人とは群を抜いた伊達姿で若い女性と写っている写真も残っている。

 手元のノートに「週刊読書人」1999年2月5日号にライフワーク総合研究所の鈴木隆さんが書いた「わが交遊」というコラムのコピーが残っていた。花見宴を紹介したものだが、私が鈴木さんと知り合ったのは彼が大修館書店の編集者、私が『アサヒグラフ』編集部員の時で、徒歩で描き出した壮大な絵地図の作者を紹介してもらったのがきっかけだった。

 近所の井上ひさしさんのお宅を訪れた時、彼が「創刊以来のバックナンバーを揃えている」と合掌造りの2階の書棚にずらりと並ぶ『ASAHIパソコン』を見せてくれたときは、ちょっと感激した。北九州から中国文学者の林田慎之介さんがやってきて、朗々たる歌声を披露してくれたこともある。林田さんとは『月刊Asahi』時代に三国志特集をするときに寄稿していただいて以来の仲だが、その縁で知り合った知泉書館の小山光夫さんも常連の花見仲間で、彼にはその後、私のサイバーリテラシー3部作を出版していただくことにもなった。同書館の高野文子さんが一緒だったこともある。

 花見のアルバムを見ていると思い出はつきない。

 この花見で大活躍してくれたのが梶原巧、伊東文武、田村良作の若者3人組だった。彼らとの出会いは、ムック『おもいっきり電子小道具』のころに遡る。例によって助っ人探しに明け暮れていたころ、女性編集者が有能な学生がいると言って、連れてきたのが梶原君だった。

 彼は職場にやって来るなり、「もしかすると『アサヒグラフ』の矢野さんではないですか」と言った。手にはアサヒグラフ時代の私の名刺も持っていた。「そうだよ」、「やっぱりそうですか」。

 私が『アサヒグラフ』時代に取材したマイコン少年の1人が、まだ高校生だった彼だった。押し入れをマイコン部屋にしてゲームに興じていたが、「マイコンもだんだん自分に似てくる」などとしゃれたことを言って私を喜ばせたのである。その日は偶然の再会を祝してすぐ食事に出かけ、乾杯した(写真は『アサヒグラフ』1981.4.17号)。

 彼は工学院大学の学生で、すぐ仲間2人を連れてやってきて、3人の学生はそれ以後、『ASAHIパソコン』の強力な戦力になった。もちろん花見においても。

 最初の花見では前夜から泊まり込みで席取りになり、めざす一本の桜の下で寝ずの番までしてもらった。私が朝方山に登っていくと、隣に同じように寝転んでいる人がおり「ここは俺たちの陣地だ」と言った。「ほら、そっちの隅に靴が脱ぎ捨ててあるだろう。あっちには小枝がある」。「そんなに広い必要はないんじゃないの。半分譲ってくださいよ」と話は簡単についた。寝そべっていた人はすでに相当酒が入っていたが、すぐ仲間によって樽酒が届けられた。我々の方は昼まで酒はなく、ブルーシートの上に用意のゴザを強いたり、紅白の垂れ幕をかけたりと、花見ムードをつくりあげた。すると男性が「やっぱり花見はゴザじゃないとねえ」とやってきて、樽酒をふるまってくれた。鎌倉市内の飲み屋の仲間がやはり毎年、ここで花見をしているらしく、男性は高校の美術の先生で大変な酒好きだった。

 そんなことで昼過ぎになると、両グループはすっかり打ち解け、にぎやかな花見が始まった。梶原君は今でも「あのときほど酔っぱらったことはない」と回想している。我々は重い発動機を山に持ち上げ、レンタルのカラオケマシンで景気をつけたが、先方の飲み屋の女将が「花見にカラオケなんて無粋なものは持ち込んじゃダメ」と制止するのも聞かず、仲間から飛び入りも出て、花見は大いに盛り上がった。

 3人組はほぼ毎年花見に参加、そのうち彼女を連れてくるようになり、結婚して(私は2組の仲人をした)子どもが生まれ、家族ぐるみで参加するようになった。サイバー燈台の<Zoomサロン>ではOnline塾DOORSの履歴を紹介しているが、第14回にスピーカーとして出演してもらったのが伊東君の長男、直基君である。若かった3人ももう50代半ばである。

・花見に妍を添えた梅里桃太郎、そして西田グループ

 『ASAHIパソコン』創刊前だったと思うが、中江さんに六本木のピアノバーに連れてもらったとき、そこでピアノを引いていた梅里桃太郎こと芳賀敏さんに会った。音大ピアノ科出身で女装好き、花見をすると言ったらさっそく、出演してくれることになった。我が家に衣装を持ち込んで身支度を整え、しゃなりしゃなりと山に登る。「よっ!桃太郎」と拍手喝采で、通行の花見客からおひねりも飛んだ。あいにく雨の日に、敏ちゃんがせっかく用意したのに、と夕方になって鶴岡八幡宮の段かずらまで繰り出したこともあった。

 もう1人のVIPが入門講座や辛口コラムを書いてくれた西田雅昭さんである。彼はたしか2回目から最終回まで毎回、参加してくれたばかりか、コンピュータ仲間の黒岩潤司、久米正浩、市川剛、橘静枝、倉田彰敏、大江富夫、松島好則といったコンピュータやインターネットの猛者をどんどん誘い、それらの人びとがまた常連になって、花見グループの一大勢力を築くにいたった。みんな飲んベイかつうるさ型で、花見はいよいよ盛り上がった。『DOORS』を手伝ってもらった加藤泰子さんが顔を見せたこともある。

 そのうち岡田君が「春が源氏山の花見なら、正月はうちで新年会をやる」と言い出し、こちらも大井町で毎年3日に開かれ、花見を終えたあとまで続いたと思う。北海道出身の岡田君らしく炉に備えた石狩鍋が毎年の定番で、友人の劉宏軍さんが民俗笛の演奏をしてくれるなど、こちらもにぎやかな新年会だった。

 さらにある時、西田グループから夏は我々で合宿を計画するとの提案がなされ、黒岩さんのあっせんで高原の別荘で合宿したり、久米さんが地元の静岡の農家を借り切るなど、花見の輪は大きく広がりもしたのである。

 西田さんは現在、ライフワークとも言える『治安維持法検挙者の記録―特高に踏みにじられた人々』(小森恵著、西田義信編、文生書院)のデータベース作りに取り組んでおられる。恩師の小森恵さんが手がけた治安維持法検挙者のデータを引き継ぎ、2016年に大部の書物を刊行したが、そのデータをより完璧なものにすることにほとんど独力で取り組んでおられる。こういうことにこそ国(デジタル庁)の補助がほしいものだとつくづく思う。

 さて花見だが、我が家でも妻は敏ちゃんの着付けや定番となったタケノコと牛肉の煮物作りに忙しかったし、最初はまだ中小学生だった娘や息子も成人して社会人になり、家族で参加したり、友人を呼んできたりするようになった。いつの間にか、我々夫婦も「じいじ」、「ばあば」と呼ばれるようになっていた。

 後半には、サイバー大学の教え子で後にサイバーリテラシー研究所を助けてくれるようになった安田央、渡邊淳、新井健太郎、西岡恭史各君、やはりサイバーリテラシー研究所仲間の齊藤航君や藤岡福資郎君たちが参加するなど、メンバーも大きく移り変わったが、初期の参加者の輪はずっと続いた。ライターの吉村克己君や『月刊Asahi』で一緒だった高野博昭君は初期から参加してくれたし、朝日新聞の同期で大妻女子大学教授になった松浦康彦、『DOORS』で一緒だった鎌倉在住の角田暢夫両君も後半の常連だった。元NECの後藤富雄さんもその1人で、玄関にびっしり並んだ別人の靴を履いて帰ったこともある。

 30年の年月は重い。気持ちはあっても身体がままならぬ人も出て、山にまで登らず我が家に直行する人も増えた。お目当ての桜も老化し花ぶりも衰えたこともあり、2018年を最後に31年の幕を下ろした。この記録をきっかけに、Zoomで同窓会をするのもいいかと思ったりするが、花も酒もないような会ではだれも満足しないであろう(写真は2018年、最後の花見宴の一コマ)。

 

新サイバー閑話(61)平成とITと私⑨

私がインタビューした人びと

 創刊号から私は毎回、インタビューを続けてきた。パソコン発達に貢献した人びとの想像力と熱意あふれる話を聞いたり、パソコン使いの達人に極意を伺ったり、不自由な体でパソコンを駆使し新しい人生を切り開いた人の苦労話を聞いたり、パソコン通信を利用して二人三脚で小説を書く方法を尋ねたり、農家のパソコン利用について取材したりと、私自身がパソコンという道具について日ごろ考えていることを、その折々に来日した外国人も含めて、さまざまな分野の人に聞いたものである。有名人もいれば、無名の人もいた。

 写真を担当してくれたのは、かねてコンビの岡田明彦君である。かつて『アサヒグラフ』で全国の最先端技の現場を訪ねたように、私たちは月に2度、インタビューのために各地を回った。彼の人物の内面を映し出すようなすばらしい写真が紙面を飾ってくれた。この回に掲載した写真はすべて岡田君が当時撮影したものである。

・ニコラス・ネグロポンテが夢見た世界

 創刊号はかねて予定のニコラス・ネグロポンテ所長だったが、彼の「収縮する3つの輪」についてはすでに説明したので、ここではエピソードをいくつか紹介しておこう。

 彼はインタビュー前の講演で、こういう話をしていた。

 ウイズナー教授といっしょに、日本人実業家から箱根の別荘に招かれたとき、ウイズナー教授が、庭に飾られた彫刻を、その配置に触れながら具体的にほめたのに対し、当の実業家は「うーん」とだけ応えた。そうしたら通訳が、主人は、かくかくの点においてウイズナー氏の考えに賛成だといっております、とずいぶん長い英語に翻訳したので驚いた。コンピュータに「うーん」というと、私たちの感情をちゃんと解釈した言葉が出てくるようになることこそ、パーソナル・コンピュータの理想である、と。

  インタビューしたとき、彼はその話に触れて「通訳は主人のことがよく分かっていたので、発言の裏にある意味を汲み取って、具体的に相手に伝えた。パソコンはまだ月から突然やってきたみたいなもので、人間とは共通体験をほとんど持っていませんが、将来は、人間にとって親密な存在となり、通訳が会話の欠けていた部分を補ったように、あなたがコンピュータに『うーん』というと、そこに含まれた感情までも解釈して、相手に伝えてくれるようになるんですよ」と語った。

 私がテクノストレスなどの問題を持ち出して、コンピュータ社会の弊害に水を向けると、彼は「コンピュータが導入されると、人間が神経質になり、ストレスが増えるという考えも間違っています。現実はその反対で、コンピュータを使うことで生活を便利なものにし、そのおかげで、自分や家族のために使う時間を増やすことができるということなのです」と、いかにもコンピュータ伝道師らしい答えだった。

 彼は当時から、まだ重くはあったが、携帯パソコンを持ち歩いていた。コンピュータへの情熱がひと一倍強いからだろう、その将来にはきわめて楽観的だが、彼もまた明快なビジョンによって、メディアラボを引っ張り、パーソナル・コンピュータ発達史に大きな足跡を残した人である。雑誌『Wired(ワイアード)』創刊にも深く関わり、そこでコラムを書き続けている。

 ネグロポンテさんは、建築科の学生だったころ、よりよい設計のために建築家を助けるマシンがほしいと考え、アーキテクチャーマシン・グループを設立している。25歳でMIT教授に就任、メディアラボ所長になったのが32歳の時である。端正な顔立ち、スマートな物腰、やわらかな語り口、「先端的なコンピュータの仕事をしている科学者・学者というより、洗練され、成功したインターナショナル・エグゼクティブのよう」と言われていた。新分野に果敢に取り組む若い人たちの才能を見つけ出し、引き上げていく新人発掘の名手でもあった。

 後に『DOORS』時代、私はメディアラボ准教授である石井裕さんから、その具体例を聞いた。石井さんはNTTヒューマンインターフェース研究所でグループウエアを研究し、コンピュータとビデオと通信技術を利用した画期的な仮想共同作業システム「チームワークステーション」開発などで高い評価を受けていた。メディアラボに招かれる経緯はこうだった。

 94年に、それまで一面識もなかったアラン・ケイから電子メールで、コラボレーション(共同作業)をテーマにしたアトランタ会議への参加要請を受ける。会議にはネグロポンテ所長も来ていて、会議後、いきなり「メディアラボに来ないか」との誘いを受けた。アラン・ケイは口説き文句として、「メディアラボは、技術やシステムではなく、あなたのエステティックス(美学)を求めている」と言ったという。「日本では技術や開発だけが科学者の研究対象だとみなされて、コンセプトや美学・哲学の研究はあまり認められなかった。それをアラン・ケイが初めて評価してくれてたいへん感動した」。彼はこの申し出を受け翌95年、MITで面接試験代わりの講演をし、10月から准教授に就任した。

 MITは石井さんが発表する論文などを通して、その才能に目をつけ、デモをする機会を与え、合格となると、その場で彼を招聘してしまったのである。経歴重視や根回し本位の人事では、こういう芸当はできない。MITに多くの才能が集まる秘密の一端がそこにあるだろう。後にやはりネグロポンテさんの強い推挽でメディアラボ所長となった伊藤穣一君の場合は、本人から事情を聞く機会がなかったが、よく似た経緯だったのではないだろうか。

・梅棹忠夫「情報理論」の世界的先駆性

 創刊1周年を記念して満を持してインタビューしたのが、国立民族学博物館長だった梅棹忠夫さんである。専門の文化人類学はともかく、情報に関する分野で言えば、1969年に書いた『知的生産の技術』(岩波新書)が有名だが、それより前の1963年に発表した「情報産業論」は、短い論文ながら、世界に先駆けて情報社会の到来を予言した画期的なものである。

 そこにはこう書かれている。

 「情報産業は工業の発達を前提としてうまれてきた。印刷術、電波技術の発展なしでは、それは、原始的情報売買業以上には出なかったはずである。しかし、その起源については工業におうところがおおきいとしても、情報産業は工業ではない。それは、工業の時代につづく、なんらかのあたらしい時代を象徴するものなのである。その時代を、わたしたちは、そのまま情報産業の時代とよんでおこう。あるいは、工業の時代が物質およびエネルギーの産業化が進んだ時代であるのに対して、情報産業の時代には、情報の産業化が進行するであろうという予感のもとに、これを精神産業の時代とよぶことにしてもいい」

 梅棹さんは、農業の時代、工業の時代、情報産業の時代という「産業史の3段階」を、有機体としての人間の機能の段階的な発展と関連づけ、それぞれ内胚葉産業の時代、中胚葉産業の時代、外胚葉産業の時代とも呼んでいる。「農業の時代は、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官の機能充足の時代であり、その意味で、これを内胚葉産業の時代とよんでもよい」「工業の時代を特徴づけるものは、各種の生活物質とエネルギーの生産である。それは、いわば人間の手足の労働の代行であり、より一般的にいえば、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の拡充である。その意味で、この時代を中胚葉産業の時代とよぶことができる」「(最後は)外胚葉産業の時代であり、脳あるいは感覚器官の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける中心的課題である」。そして、コンピュータは「外胚葉産業時代における脳あるいは感覚器官の機能の充足手段」として位置づけられ、その役割が期待されていた。

 発表当時、大いに話題になったはずだが、トフラーの『第三の波』から遡ること20年というのはすごい。これらの論考を集めた『情報の文明学』『情報論ノート』(いずれも中央公論社)が1980年代末に出版されているが、いま読み返してみても、新鮮な驚きに打たれる(「情報産業論」の先駆性については、本サイバー燈台所収の小林龍生「『情報産業論』1963/2017」』の一読をお薦めしたい)。

 『知的生産の技術』は、発売当時ベストセラーになったから、多くの説明はいらないと思うが、今の若い人で知っている人は少ないかもしれない。知的生産とは「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報―を、ひとにわかるかたちで提出すること」と定義されている。これからは「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになる」との認識のもとに、その具体的技術を紹介したものだ。「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである」とも書いている。

 『ASAHIパソコン』創刊号の特集は「めいっぱいパソコン情報整理術」だった。あのころに私たちが見た夢は、いまはスマートフォンではすでに当たり前になっている。情報を扱う技術の発達には、まことに時代の進化を痛感させられる。

 梅棹さんは、1986年3月に突然視力を失うという不幸に見舞われ、不自由な生活を強いられていたが、杖をつきながら民族学博物館を案内してくださった。そこで「知的生産の巨大技術の開発と実行」でもあった民族学博物館づくりの苦労話を聞いたのだが、巨大コンピュータ・システムに支えられた博物館を作る際、「『文科系の研究所になぜコンピュータがいるんだ』とよく言われました。それに対して私は『考え方が反対で、需要に応じて機械を入れるのでなく、まず機械を入れれば、需要が出てくる』といったんです。博物館自体がそうで、世論調査をいくらやっても、博物館を作れというニーズなんか出てきません。だけど作れば、喜んで利用する。需要が供給を呼ぶのではなく、供給が需要を呼び起こす。新しいものはすべてそうです」と話してくれたのが、とくに印象的だった。

・木村泉・森毅・佐伯眸

 創刊前の1988年3月、木村泉『ワープロ徹底入門』(岩波新書)が出版され、たちまちベストセラーになったことが私に大きな自信を与えてくれたのだった。そのころすでに十数万部が売れていた。コンピュータという専門領域の話をやさしく語った文章、「とことん派」を自称する著者の徹底した実証精神が、多くの人に、この本を手にとらせたのである。

 冒頭で、木村さんは「ワープロは洗濯機や電子レンジと同じようなものでね。ま、食わずぎらいしないでつきあってやって下さいよ」と読者に呼びかけ、その気のある人には「若いもんにばかにされないように、ワープロとの具体的なつき合い方を伝授する」と約束していた。さらに著者としてやりたいこととして、「ワープロがわれわれの生活にさいわいをもたらし、災いをもたらさぬようにするための手だてをさぐりたい」と、社会的影響にも言及していた。「ワープロ」を「パソコン」に置き換えれば、私が『ASAHIパソコン』でやりたいと思っていることではないか。

  先輩に会いに行くようなワクワクした気分で東京工業大学に木村教授を訪ねた日が、つい最近のように思い出される。「パソコン徹底入門」のさわりを聞きに行ったのである。

 「パソコンはワープロと比べて、まだ前もって説明しなければならないお流儀が、傷口として残っています。いろんなことができるんだが、それをなめらかに行うための工夫がない」「エムエスドスは傷口だらけとも言えます」という木村さんに「現段階ではパソコンよりもワープロの方が便利ですか」と恐る恐るたずねると、「これは、何をおっしゃるウサギさんでありまして、実はパソコン入門の本を書きたい」との答えで、私は大いに意を強くした。

 いろんなキーボードの話、文章を書く道具としてのワープロの利点などを聞いたが、「ソフトの違法コピーはどうしたらなくせるか」という私の質問に対して、木村さんは「よくわからないんだけれど、いままでの日本の国民性の中ではあり得るように思います。宮沢賢治の『オッペルと象』の象ではないけれど、世間さまに対して、ひとつ生きてる間は耕してがんばろうと、安楽とはいわないまでもそこそこ食えて、働いて、『ああつかれたな、うれしいな、サンタマリア』とオッペルの像が言うわけでしょう。あんな感じの雰囲気が常識になればいいと思いますね」と答えた。ソフトウエアを作る人は楽しみながらも一生懸命働く、それにユーザーがきちんと応えるような社会を期待しての発言だったのだが、さて、日本の現状はどうだろうか。

 数学の森毅・京大教授には、1990年初頭に会っている。専門の数学を離れて、文学、評論の分野でも活躍、その飄々として、しかも歯に衣着せぬ発言で「森一刀斎」とも称されていた森さんに、パソコンよもやま話、情報社会とのつきあい方を聞いた。話は多岐にわたり、いずれもおもしろかったが、プライバシー問題にからんでの「情報社会とバグ」の発言を紹介しておく。まことに含蓄深いというべきだろう。

 「バグなしの情報というのは無理なんでね。こっちもバグがあると思いながら付き合うよりしょうがないんじゃないかな。コンピュータ科学者たちと話していて感心したことがあるんです。プログラムにはバグは、虫はいるんやと。虫はおってもええけれども、あまり暴れたら困るんで、なるべく小さな所に関門があって、遠くまで影響を及ぼさないようにしておく。虫が異常発生して変なことが起こると、遠くからでも分かるようになってるのがいいプログラムやというんですね。コンピュータの虫のエコロジーです。われわれだって、適当に虫を飼いながら健康に生きとるわけで、うっかり抗生物質を使いすぎて虫がいなくなると、逆に変なことが起こったりします。今の比喩で言うと、健康であるよりしょうがないんですね」
 「虫がいる方がたぶん自然なんでしょうね。情報の世界を変な清潔幻想と同じ感じでとらえるのは無理じゃないかな。いま、教科書が非常につまらないのは、虫がいたらいけないことになってるからでね。それで、しょうもないところにうるさいんですよ。だけど、間違いを見つけた方にしてみれば、楽しいですからね。間違いぐらいあったっていいと思うんですよ。大学の教科書ぐらいになると、図々しいのがたまにあって、この本にあるミスプリを発見するのは諸君の勉学になるだろう、なんて書いてあります。情報とのつきあい方というのは、本来はそういうものだと思うんです。相手の権威を信用してはいけない。自分で判断せんといかんわけですね。短期的には、いろいろ規制せざるをえないかも分からないけれど、規制することがいいことだということになったら、これはもう情報自身と矛盾しますね」

 『教育とコンピュータ』(岩波新書)の佐伯眸・東大教育学部教授には、コンピュータのシミュレーション機能を中心に話を聞いた。佐伯さんは、コンピュータが経験代行的なシミュレーションに使われていることに疑問を呈し、「シミュレーションといわれているものの何がおかしいかというと、シミュレーションを作ったプログラマーのコンセプト、目的意識、メタ理論などを隠すところです。舞台の前面だけを見せて、すべてを描き出しているがごとく見せて、われわれを受け身の観客にしてしまう。代行させようとしている人の意図が浅い場合、一見うまくいっているように見えても深まりがないし、またほんものそっくりになってしまったら、現実を力学の対象としてみるのか、美術の対象としてみるのか、それらが全部はいってしまい、ということは、結局、何にも見えなくなってしまう」と言った。

 「ある分子構造だとか流体力学だとか、実際に手で触れるような経験ができないものをシミュレーションしていくのは分かるけれど、そうだとすれば、ある構造をどう探索しようとしているのか、どういう方向で意味を抽出しようとしているのか、いつもユーザーとインタラクションできるような構えがなくてはいけない。そのとき重要なのが『略図性』という概念です。略図では、裏にある意図、目的、方向づけなどがはっきり見えるからこそ、ユーザーとのインタラクションできるのです」

 佐伯さんは、「コンピュータを経験代行的に使うのではなく、さまざまな活動を触発するために使うことが大切」といい、教育現場で実際に行なわれている例をいくつかあげてくれた。また、コンピュータをグループ・インタラクションの媒体として利用するグループウエアが、これから教育現場でコンピュータを活用するための一つの方法だと話してくれた。

・ハイパーテキストとネルソン、そしてアトキンソン

 テッド・ネルソンはパーソナル・コンピュータ黎明期に『コンピュータ・リブ』と『ホームコンピュータ革命』を出版し、いち早くその知的ツールとしての可能性を予言、多くの人々に強力な影響を与えた。1989年9月、国際シンポジウムに出席するために来日した「伝説の人」に会った。

 ジャケットにジーパンというラフな姿。しかし、ネクタイを締めていた。髪はふさふさと、足は長く、軽快そうな靴をはいて、とても50歳過ぎには見えなかった。目はやさしく、いたずらっぽく、笑っていた。ハワード・ラインゴールドは『思考のための道具』でネルソンについて「社会的おちこぼれで、うるさ型の自称天才である。……。野性的で活気があり、想像力が豊かで、神経過敏であるためか職につくのに問題を起こしがちで、同僚とトラブルが多い。彼こそ、数年前は10代前半で自作のコンピュータやプログラムに夢中で、現在はパーソナル・コンピュータ産業での立て役者である世代の隠れた扇動者である」と書いている。インタビューした感想で言えば、才気にあふれ、上品なユーモアセンスを身につけた、実に魅力的な人だった。父親は『ソルジャー・ブルー』などで有名な映画監督、ラルフ・ネルソンで、母親も女優だった。

  ハイパーテキストについて、ネルソンさん本人はこんなふうに語った。

 「ハイパーテキストの考え方は、さまざまな文書をいかにして相互に関係づけるかということです。あるテキストに出てくる言葉を知りたければ、すぐそちらに飛び、そこで出てくる動物を知りたいと思えば、またその絵が出てくるテキストに飛ぶ、といったふうに、一瞬にして相互に関連付けられるテキストです。ハイパーテキストは文章、映像、グラフィックスなど、どんな形式の情報でも取り込むことができるし、その情報を相互に関連付けることもできます」

 学生時代につけていた厖大なメモの山を前に、押しつぶされそうな気分になり、どうしたらそれらメモ同士を関連づけられるかを考える中で育まれたアイデアらしいが、「紙のメディアは文章を秩序だって整理するにはいいけれども、直線的で、硬直的である。もっと自由な発想、ひらめきがほしい」ということでもあった。

 ハイパーテキストという考えをはじめて提示した『コンピュータ・リブ』は、のちにアップデート版が市販され、私もそれを入手したが、その実験的試みとしてだろう、表紙が前と後の二つあり、どちらからでも読める、いや、本全体のどこからでも読めるという新しいテキスト形式の実験にもなっている。

 このハイパーテキストの考えを具体化するためのプロジェクトが「ザナドゥー(Xanadu)」である。人びとのさまざまな見方、考え方を一堂に集めた共通の場をつくるのがねらいで、「ザナドゥーでは、全世界の著作物をオンラインで結び、すべての人がそのシステムを利用して情報交換する」ことをめざした。ザナドゥーは、オーソン・ウエルズの映画『市民ケーン』に出てくる新聞王の大邸宅の名でもあるが、ネルソン氏によれば、「原典は、英国の詩人コールリッジの『クブラカーン』で歌われている桃源郷」なのだという。彼は「この詩はアメリカやイギリスではよく知られていて、表現が非常に美しいので、ザナドゥーという言葉を聞くと、みなが文学的響きを感じます」といって、その詩の一節を朗々と暗唱してくれた。

 ザナドゥーでは、著作権を保護するための仕組みも考えられ、全世界を情報ネットワークで覆おうという壮大なものだが、「世界で最も長いプロジェクト」とも呼ばれ、構想から4半世紀たった当時、なお実現のメドはたっていなかった。ネルソンさん自身、「このプロジェクトは、蒸気のような、上にのぼっていくけれど、どこに行くのかわからないベイパーウエア(Vaporware)です」と笑い、「アラン・ケイの『ダイナブック』、ニコラス・ネグロポンテの『アーキテクチャー・マシン』、私の『ザナドゥー』、この3つがベイパーウエアと呼ばれている」とつけ加えた。

 ハイパーテキストは、いくつかの枝分かれ構造と対話型の応答を基本にしているが、そういった考えを最初に商品化したソフトが、マッキントッシュ用の「ハイパーカード」だった。ハイパーカードの開発者、ビル・アトキンソンさんは、絵を描くソフト「マックペイント」の開発者でもある。

 私は、インタビューの前文で「ハイパーカードは、文書やグラフィックスばかりでなく、ビデオ、音声、アニメなどあらゆる情報を自由にコントロールできる新しい情報ツール・キットである。初心者が使いやすいように、さまざまな工夫もしている」と紹介している。ハイパーカードは、最初からマッキントッシュに標準装備(バンドリング)されており、すでにハイパーカードを使った「マルチメディアの新しい本」も発売されていた。

 アトキンソンさんは、「自転車のような道具が人間の肉体的な力を増大させたように、パーソナル・コンピュータは、創造力とか学習、記憶などの精神的な力を増大させてくれる。1984年に世に送り出したマッキントッシュのデザインの基本は、この『精神のための車(Wheels for the mind)』であり、わたしたちの夢の第2弾が、1987年に完成したハイパーカードだ」と語った。

 ハイパーカードを起動すると、ホームカードという最初のページが現れ、そこにカレンダー、予定表、住所録、電話帳といったアイコンが並んでいる。それぞれの項目に入力したデータは、「ボタン」によって相互に関連付けられるのが「ハイパーテキスト」的だったのである。

 私は「こういったシンプルで美しいプログラムは、どのようにして作られるのか」を聞いてみた。アトキンソンさんの答えは、なかなか感動的だった。

 「最初の一年間はたった1人の人間、すなわち、わたしが手がけました。アイデアを錬っていたんですね。その後で人びとが入ってきて約40人のチームになりましたが、プログラマーは5人程度です。あまり多くの人が1つのプログラムにかかわるとかえってだめになってしまいます。ビジョンを打ち立てるメインデザイナーは1人で、何人かのアシスタント・プログラマーと密接な関係をもって動くのが基本です」「ソフトウエアの開発は、自分のほしいもののおぼろげなアイデア、大きな霧のようなものからスタートします。それをしだいに雲のように輪郭を明らかにしていく。一歩下がって眺めているうちに、自分はこういうものを作っていたんだということを『発見』するのです。なるほどこれはあれだったのか、あれじゃだめだと、それを捨て去って、また最初から始めます。それを何度も繰り返す。作り上げたものを捨て去り、作りなおす過程で、作ろうとしているものがより明確に見えてくる。目指すものができあがると、テストしてもらう。予想通り動くかどうか調べてもらって、そこにいろんなものをつけ加えていく。それで形がデコボコになると、もっとシンプルなものに整えなおす。そうして、しだいによりシンプルになり、いよいよ本質に近づいていく。だからソフト開発はずいぶん時間がかかるし、試行錯誤が何度も繰り返されるのです」。

・知的生産の技術としてのパソコン―紀田順一郎・石綿敏男

 梅棹さんのところでふれたけれど、私の興味は知的生産の技術としてのパソコンだったから、文芸評論家ですでに『ワープロ考現学』、『パソコン宇宙の博物誌』などの著書もあった紀田順一郎さん、『電子時代の整理学』の著者で放送教育開発センター所長だった加藤秀俊さん、推理小説作家でパソコン通信をフル活用して作品を書き上げていた2人合作のペンネーム、岡嶋二人さん、能の権威ながら電子小道具の達人で『システム文具術』の著書もあった武蔵野女子大学教授、増田正造さん、『ウィザードリィ日記』、『怒りのパソコン日記』などで知られた翻訳家、作家の矢野徹さんなどにもインタビューしている。

 そのうち紀田順一郎さんと、横書きのカタカナ表記の基準を聞いた言語学者の石綿敏男茨城大学教授のさわりの部分だけ紹介しておこう。

 紀田順一郎さんは仕事に趣味にパソコンをフル活用し、「パソコンが文字通りパーソナルな道具になれば、個人の知的生活はより豊かになるだろう」と考え、実践もしていた「パソコンの達人」で、話を聞いて楽しく、また同感することも多かった。当時紀田さんが使っていたソフトは、ワープロが一太郎、データベースがdBASEⅢ、表計算がエクセル(マックⅡで使用)。ワープロ辞書についてとくに話がはずんだ。

 当時、ワープロの辞書については2つの考えがあった。1つは梅棹忠夫さんに代表される「ワープロは何でもかんでも漢字に変換してしまうから、文章に漢字が増えた。すぐに漢字に変換しないソフトを作れ」という意見。もう1つは紀田さんのように「推挽、杜撰、憂鬱、冤罪、隔靴掻痒、一瀉千里など、ちょっと特殊な文字になると辞書に入っていないことが多い。もっと辞書を充実すべきだ」という意見。

 紀田さんは「日本文化のためには旧仮名遣いで変換する辞書を作れば、研究者や図書館員が助かるから、モード切替でやれるようにしてほしい」と述べ、私も「紀田順一郎の辞書」とか「大阪弁の辞書」があっていいなどと述べているが、この辺もまた時代の進歩はすさまじく、コンピュータ能力と記憶容量の飛躍的増加で、いまではほとんど解決されている。たとえばWordで自前の辞書を作るのは当たり前になっている。

 もっともこれは辞書作りや文字コードづくりに懸命に取り組んだ文科系、技術系の先達が取り組んだ苦闘の歴史を背景としている。文字コードの世界標準、ユニコード策定に貢献した小林龍生さんとは後に知り合い、別の機会にインタビューしているが、それは後述したい。小林さんは一時、一太郎で有名なジャストシステムに在籍し、そこで紀田さんたちと辞書作りに取り組んだ人でもある。

 石綿さんは、『ASAHIパソコン』の表記基準策定にあたってのお知恵拝借インタビューだった。たとえば、『アサヒグラフ』では、朝日新聞でふつう使われているように、コンピューターと音引きを入れていたが、『ASAHIパソコン』では、専門誌の立場から、コンピュータ業界でふつうに使われるコンピュータと音引きなしに統一し、そのように表記していた。

 専門用語の扱い、とくに外国語のカタカナ表記は、常に頭の痛い問題で、エレベーターは音引きがあるのに、コンピュータがないのはどうしてか。メモリー、メーカー、メンバーはどうするか、スキャナ、ドライバは、となるとこれまた微妙で、5音以上は音引きなし、3音以下は音引きを入れる、4音は慣用による、などと校閲担当の大塚信廣さんと相談しながら「本誌のルール」を作ったりしたが、慣用の基準が時期がたつと変わったりで、なかなか始末が悪く、「最終的には編集長の気持ち次第」となったりもした。

 そこでコンピュータを使った自動翻訳のための自然言語辞書作りに取り組んでおられた石綿さんに、パソコン、ワープロなどの和製英語、フロッピーディスクドライブ、パブリックドメインソフトなどと3つの単語をつなげるときの・の入れ方、外来語と言語の意味のズレなどについて話を聞いたのである。

 結果は「基準を2つに分けた方がいいかもしれませんね。エスカレーターとかエレベーターとかいう、ふつうの言葉はふつうの表記法を尊重する。コンピュータ、ディレクトリなどは、専門知識を一般の人に伝える専門誌の立場として、専門用語、その述語の表記法を尊重する」という常識的な線におちついた。しかし、言葉は生き物である。コンピュータやインターネットの普及で、この種の専門用語もいつのまにか普通用語になっているし、言葉の基準作りはなかなか難しい。マイクロソフトのブラウザーは当初、エキスプローラと表記されていたが、後にエキスプローラーと変わったという具合である(もっともエキスプローラーは今ではエッジに変わっている)。

 インタビューしたのは総勢44人で、ほかにもこんな方々がいた。事故で手足の自由を失いながら持ち前のがんばり精神でパソコンに挑戦、CG(コンピュータ・グラフィックス)で作品を発表したり、パソコン通信で同じような仲間に夢を与えたりしていた上村数洋さん。金春流家伝の太鼓の手付きをワープロで表記していた金春惣右衛門さん。パソコン通信、琵琶COM.NETで活躍していた陶工の神崎紫峰さん、神崎さんは古信楽焼を再興した人で、私は その苦労話に大いに感激、誌面もそちらの話が多くなった。秋葉原電気街の知る人ぞ知る「本多通商」の本多弘男さん。「マイコン乙女」にして「UNIX解説者」の白田由香利さん。

 日本の電卓メーカーから米インテル社に派遣され、世界初のマイクロプロセッサ開発に大きな役割を果たした嶋正利さん。『思考のための道具』の著者で、その後もたびたび来日していたハワード・ラインゴールドさん。NECでパソコン事業部立ち上げに貢献した渡辺和也さん、彼は「物事を始めるベストタイミングは80%の人が反対している時だといいますよね」と思わず膝を叩きたくなるようなことを言った。当時放送教育研究センター助教授で、後に東京大学大学院教授となった浜野保樹さん、『ハイパーメディア・ギャラクシー』や『同Ⅱコンピュータの終焉』などの意欲作で、コンピュータが中心となって推し進める将来像を洞察しようとしていた。情報法の権威で、高度情報社会のプライバシー問題に取り組んでいた一橋大学教授の堀部政男さん、など。

 このインタビューをふりかえって思うことは、1つには『ASAHIパソコン』の仕事が、私にとって常に新しいことへの挑戦だったことである。もう1つはこの35年におけるコンピュータ、およびインターネットの発達のすさまじさである。かなりの人が話してくれた将来の夢は現在ではほとんどかなえられている。テッド・ネルソンさんが言っていたベイパーウエアがいつの間にかインターネットの現実になっているのである。一方で、当時は想像もしていなかった新しい事態がいま人類全体を深く覆っている。私は2000年ごろからIT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱するようになった。

 このインタビューは、のちに『パソコンと私』(福武書店、1991)として出版された。装丁は熊沢さんで、美しくかつ重厚な本に仕立ててくれた。私の本格的著作の第1号でもある。1991年8月2日、仲間が『パソコンと私』出版と『月刊Asahi』異動をかねたパーティを開催してくれ、インタビューした人びとも含め多くの知人、友人から祝福を受けた。

新サイバー閑話(60)平成とITと私⑧

相棒にして畏友、三浦賢一君の思い出

 やっと故三浦賢一君について話す時がきた。これまでも折々に彼のこと記してきたけれど、私がプロジェクト室でパソコン誌の準備を始めたとき、局長室がパソコンに詳しい三浦君を相棒としてつけてくれたのがまさに天の配剤で、『ASAHIパソコン』の成功はそのときに約束されたと言っていい。彼と過ごした3年半は、朝日新聞に入社以来最も忙しい日々だったけれど、一方でそれは、大袈裟に言えば、至福の期間でもあった。彼は頼りがいのある相棒であり、すぐれた科学ジャーナリストであり、たぐいまれな編集者だった(写真は仕事中の三浦君。創刊2年目を迎える前)。

 私のコンセプトを肉付けして誌面化するにあたって、三浦君はその編集マインドをいかんなく発揮して、彼の個性をうまくまぶしつつ、すばらしい形にしてくれた。三浦君は私より7歳、熊沢さんは5歳年少だったが、その2人とも今はこの世にない。そういうこともあって、この記録を書く気にもなったのである。

 三浦君は東北大学大学院理学研究科の出身である。本来なら学者の道をめざすはずだったのだろうが、途中で方針転換、朝日新聞に入社した。ごく普通に支局勤務を2つ経て、1979年に科学朝日編集部員に。その後、週刊朝日編集部を経て1986年秋に出版プロジェクト室に配属となった。

・すぐれた科学ジャーナリストにして卓越した編集者

 ムック5冊を出し終えてほっと一息ついたころ、出版されたばかりのロジャー・レウィン著、三浦賢一訳『ヒトの進化 新しい考え』(岩波書店)という本の献呈を受けた。サインの日付が1988.1.18となっている。三浦君の専門は生物学であり、めざしたのは科学ジャーナリストだったのである。

 『科学朝日』時代には世界のノーベル賞学者20余人にインタビューした『ノーベル賞の発想』(朝日選書、1985)を世に問い、科学ジャーナリストとしての高い評価を受けていた。この本のあとがきで彼は「ノーベル賞を受賞するような飛躍は、守備範囲を狭く限定したような研究からは、なかなか生まれにくいようにみえる。守備範囲を限定しているようにみえても、広い範囲の知識を吸収し、広い視野を持っていた人が飛躍を成し遂げたというパターンがありそうに思われる」と、いかにも彼らしい控えめな表現ながら、意味深長な「真理」を語っている。

 彼自身にもそのような広い視野への関心が強く、だから学者よりジャーナリストを選んだのだろうと、私は推測していた。すぐれた編集者、小宮山量平(理論社社長)は、編集者の心得として以下の3点を上げている(『編集者とは何か―危機の時代の創造―』日本エディタースクール出版部)

第1は、つねに総合的認識者という立場を持続できること。森羅万象にすなおに驚き感動する心をもち、しかも1つの専門にかたよらない、むしろ専門自体になることを拒否することで総合的認識の持続をつらぬく気概をもつこと。
第2は、知的創造の立会人という役割に徹すること。それはアシスタントであり、ときにアドバイザーでもある。そのためには、あらゆるものの存在理由について無限の寛容性をもつ「惚れやすさ」、著者の創造過程に同化しつつ、著者を励ます「聞き上手」、そして相対的批判者の立場から誉め批評ができる「ほめ上手」の3つの役割を、うまく果たさなければならない。
第3は、自分が制作する出版物を広く普及するため、特有の見識をそなえ、力倆を発揮しうること。

 編集という職業に惚れぬいた人の、思わず襟を正してしまう指摘だが、三浦君はまさに小宮山量平の望む編集者の資質をよく具えていた。初対面からウマがあった理由ではないかと思う。彼はあるとき、千葉支局時代に支局長から「簡単に出来ることではなく、むしろ出来そうもないことを考えろ」と言われた、と話したことがあった。困難に挑戦する気概が名著『ノーベル賞の発想』を生んだと言っていい。新聞記者にとって最初の4~5年、ほとんどの人が配属される支局勤務は、かつては「記者の学校」だった。私自身も新米時代に横浜支局や佐世保支局で新聞記者の原点とも言うべき多くのことを学んだ。

 作業はさっそく二人三脚で動き出した。意見が食い違うことはほとんどなく、忙しいけれども充実した、楽しくもあった数年だった。ムックのタイトルを「おもいっきり」にしようと提案したのも三浦君であり、ムック『おもいっきりPC-98』のところでも述べたが、実用情報誌の情報の扱い方についての基本フォーマットづくりにも貢献してくれた。

 私はパソコンガイド誌ではあっても、新聞社から出す以上、ジャーナリズム性を失ってはいけないと考えていた。新聞社内にはまだ新聞記者は大所高所から世界国家を論ずべきで、パソコンのガイド誌などもってのほかとの空気が強かったが、それは大きな勘違いだと私は思っていたのである。

 これはすでに述べたことだが、雑誌『日経ビジネス』の「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集がその例である。当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという鋭い洞察は、具体的な物を徹底的に分析することから生まれた。これぞジャーナリズムであり、編集マインドである。立花隆が1974年に文藝春秋で特集した「田中角栄の研究―その金脈と人脈」も同じである。メーカーの資料を丸写ししてただ並べるだけのガイドではなく、その並べ方や説明の仕方に工夫がほしい。記事の背後に記者の、編集者の目が光っているような実用情報を私は求めた。

・すべてはパロアルトから始まった

 創刊から4カ月ほどたった2月15日号から3回にわたって「すべてはパロアルトから始まった」というルポが掲載された。筆者は三浦賢一君である。パソコンに向かいっぱなしのデスクワークから少し離れてのんびりしてもらいたいという気持ちもあって、パソコン発祥の地、アメリカ西海岸を訪ねてもらったのである。

 息抜きになったかどうかはわからない。しかしパークとその周辺を訪ね、ロバート・テイラーやアラン・ケイ、ダグラス・エンゲルバートなど、パソコン黎明期の伝説的人物にインタビューする旅は、けっこう楽しかったのではないかと私は想像している。『ASAHIパソコン』としてはぜひとも紹介しておきたい話だったし、読者にとっても興味深い読み物にもなったのではないだろうか。

 三浦君について今でも思い出すことが2つある。

 私は三浦君を便利に使いすぎているのではないかと思うことがときどきあったが、ある時カメラマンの岡田明彦君から「三浦君と雑談していた時、彼が「『矢野さんは僕を利用したが、僕もまた矢野さんを利用した』と言っていた」という話を聞いた。彼は彼で『ASAHIパソコン』で自分のやりたいことをやっていたんだなあ、と心和む思いがした。

 もう1つ、これは少し後の話だが、『DOORS』が廃刊になり、私が熊沢さんに愚痴とも怒りとも言えない感情をぶちまけていたとき、そばにいた三浦君がそっと寄ってきて、「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれた。そのときは思わず目頭が熱くなった。

 創刊2周年が近づいていたころ、三浦君は「そろそろ解放してほしい」との希望を示すようになった(前から言ってはいたけれど)。あれだけ働いてくれたのだから、それに応えない選択肢は、当時の私にはなく、局長室にかけあって彼の希望通り、当時動物シリーズを刊行していた週刊百科編集部への異動が実現した。しかし好事魔多し。異動直後に週刊百科が組合役員選出のローテーションにあたり、1年間、組合専従に出るめぐりあわせとなった。

 その後、『科学朝日』副編集長、『ASAHIパソコン』編集長、『アエラ』編集長代理などを経て、2000年暮れに『ASAHIパソコン』から生まれた超初心者向けの『ぱそ』編集長になった。『ぱそ』立て直しの期待を担っての人事らしいが、『ASAHIパソコン』創業の功績にも報いない、何をいまさらと思わされる人事である。三浦君のやさしい性格が災いしたと言うか。そして、あろうことか、そこでの心労が重なり、2001年5月に発作的とでもいうように、自死するに至った。

 火葬場で用務員の女性が「亡くなったのはどういう方だったんですか。骨がしっかりしていてどこも悪い所などなさそうですね」と言った。肉体的にはきわめて健康だったのである。

 そのころ私は出版局を外されて調査研究室勤務となっており、彼の死はまったく寝耳に水だった。異変に気づき相談に乗ることもできなかった境遇をうらめしくも思った。出版局執行部への新たな怒り、それと同時に、デジタル時代の出版活動にまるで無知な人材を天下り的に出版局に送り続けた社執行部に対する憤懣も湧き起った。

 メディア激変の時代における出版の可能性についての持論は、私の失敗も含めて後に『DOORS』の項で詳しくふれるが、ここにはデジタル時代に翻弄され本来のジャーナリズム性すら捨て去った社の歴史が凝縮されているだろう。まだまだやりたいことがあった私を出版局から外し、ほかにやりたいことがあった三浦君を無遠慮にデジタルに張り付けた。私が出版局に残っていれば、強引にでも阻止したものをと、まことに臍を噛む思いだった。

 そんなことなら最初から私の後任を「押しつけて」おけば、『ASAHIパソコン』のためにも、本人のためにも、社のためにも良かったのではないだろうか。彼にはその後もいろいろ協力してもらいたかったし、朝日新聞としても、まことに惜しい人材を失った。すまじきものは宮仕えではないが、悔やんでも悔やみきれない痛恨事である。

・アサヒパソコン編集部を去る

 少し話が先に進みすぎた。創刊1周年を迎える少し前、『ASAHIパソコン』とほぼ同じコンセプトで体裁も同じ、やはり月2回刊のパソコン初心者向け雑誌『EYE.COM(アイコン)がアスキーから発売された。またビジネス・ユース誌としては最大部数を誇る日本ソフトバンクの『Oh!PC』も月刊から月2回刊に切り替えた。パソコン誌の流れは「むつかしい専門用語が詰まった月刊のパソコン専門誌」から「だれもが読める月2回刊のやさしいパソコン情報誌」へと移り始めた。それこそ『ASAHIパソコン』が切り開いたパソコン誌の新しい流れで、私は「追随誌が現れてこそ本物」といささか鼻高々だったが、編集部の状態はあまり変わっていなかった。

 創刊1周年を祝うパーティが1989年10月16日夕、新聞社内レストラン「アラスカ」で開かれ、社内外から130人が集まった。「出版局報」に、その年8月に配属されたばかりの勝又ひろし君がそのレポートを書いている。要するに相変わらず忙しかったのである。社内のパソコン編集部を見る目は「パソコンオタクがそろう特殊技能ハッカー集団と見られがち」で、知人に局内を案内している人が「ここは人間より機会が威張っている所だから、近づかないようにしている」という声を聞いて反発もしている(ちなみに勝又君は創刊から20年近くたった2006年、パソコンガイド誌としての役目を終えて休刊したときの最後の『ASAHIパソコン』編集長である)。

 それから2周年を迎えるころにかけて鍛冶信太郎、藤井千聡、見沢康、福沢恵子といった人びとが編集部に参加している。見沢君は朝日広告社から出向してもらい後に正式部員となった。福沢さんは夫婦別姓の実践者かつ活動家で、激務をリゲインを飲んでしのいでいると「リゲイン福沢」を名乗っていた。出自も個性もさまざまな部員がとにもかくにも頑張ってくれていたのである。三浦君の後任として科学部から大塚隆君に来てもらった。彼にはちょっと回り道をさせてしまったが、後に科学部長に就任した報を聞いてほっとしたものである。

 創刊2周年を終えるころから、私はやるべきことはやったという思いが強くなり、1991年7月、後事を週刊朝日副編集長から来てもらった森啓次郎君に託して『ASAHIパソコン』を去り『月刊Asahi』に移った。

 

 

新サイバー閑話(59)平成とITと私⑦

『ASAhIパソコン』創刊、即日増刷

 1988年10月14日 (15日が土曜なので前日の金曜発売となった)、『ASAHIパソコン』創刊号(11月1日号)が発売された。この日は朝から雲一つない快晴で、ある先輩が「ついてるな。晴れてると雑誌は売れる」と言ってくれたのをよく覚えている。その予言通り、『ASAHIパソコン』は予想を上回る売れ行きで、創刊当日の夕方には増刷が決まり、数日後には3刷りをするなど、実に好調なスタートとなった。

 A4変形判、中綴じ。本文横組み、112ページ(カラー80ページ)。1日、15日発行の月2回刊。 定価340円だった。創刊号は16万3000部刷り、その日のうちに売れ切れる書店が続出した。

 特徴は、まずその薄さだった。これまでのパソコン誌はたいてい月刊で、しかも背表紙のある無線綴じ、厚いページに広告がいっぱい詰まっていた。『ASAHIパソコン』は、ページの真ん中をホッチキスで止める中綴じで、丸めれば手軽に持って歩ける軽装判、当時話題のニュース週刊誌『フォーカス』によく似た体裁にした。

 3人で雑談しているとき、三浦君がふと「月2回刊というのはどうかな」と言い、「それなら1回分の厚さを半分にできるねえ」と私、それに熊沢さんが「1日と15日の2回刊にするなら表紙のロゴを金赤と黒で色分けするのはどうか」と応じ、こうして「新しい酒を盛る新しい皮袋」ができあがった。

 表紙ロゴは、柔らか味を出すために『ASAhIパソコン』と、ASAHIのHだけを小文字にして、ASAhIを大きく、パソコンを小さく配して、その下に、ヒューマン・ネットワーキングの思いを込めて、男女が街角で立ち話をしているスナップ写真を扱った(とくにロゴを意識した場合以外、表記はこれまで通り『ASAHIパソコン』とする)。ロゴは金赤(15日号は黒)。従来のパソコン誌はコンピュータ・グラフィックスやイラストを使ったものが多く、パソコン本体や周辺機器を配するのが普通だったから、異色のパソコン雑誌と言えた。そこには、私たちがムック『ASAHIパソコン・シリーズ』を作りながら試行錯誤してきた新しいパソコン誌のあり方、大げさに言えば、哲学が具現化されていた。

 表紙写真はオリジナル写真を撮る経済的ゆとりがなかったための熊沢さん苦肉の策だった。私は『ASAHIパソコン』を通して雑誌作りにおけるアートディレクターの重要さを思い知った。ムックの『思いっきりPC-98』のグラビアでプロの女性モデルを起用するなど、彼に教えられたことは多い。折々に起用したイラストレーターもたいてい「熊さん」に紹介してもらったものである。三浦君に続いての熊沢さんの参加が『ASAHIパソコン』成功の大きな要因だった。いまその幸運を深く噛みしめている。

 彼は長年、ガンをわずらったあと2019年に他界した(<平成とITと私>①参照)。その死がこの記録の執筆を思い立たせたのだが、彼の常に笑みをたたえた物腰柔らかな姿が懐かしい。

・目玉は「村瀬康治の入門講座」

  創刊号の主な目次をならべてみよう。

特集 めいっぱいパソコン情報整理術
アプリ探検隊①「Z’sWORD JGでパンフレットを作る」  国友正彦
村瀬康治の入門講座①「ためらうことなんかありません さあ、ワープロから始めましょう
ハードディスクで世界が変わる  山田隆裕
インタビュー①ニコラス・ネグロポンテMITメディアラボ所長「コンピュータに『うーん』といえば あなたの思いを伝えてくれる」
海外リレーエッセー①グローバル・ネットワークの共有  室謙二
COMPUTER博物誌①
MPU電脳絵師養成講座①パソコンを画材に/自由な発想に期待  古川タク+岩井俊雄
ネットワーキング・フォーラム
    慈子のおしゃべりネット   高橋慈子
    九郎のネットワーキング讃  高橋九郎
PDSマインド  山田祥平
パソコン何でも相談  斎藤孝明
小田嶋隆の「路傍のIC」  小田嶋隆

 ほかに、ニュース、追跡「ついに発生、国産ウイルスの正体を追う」、ハードウエア、ソフトウエア、電子小道具、本、情報ページ、辛口時評。創刊をきっかけに片貝システム研究所の協力で電話無料相談も行い、その縁で片貝孝夫さんにコンピュータ業界全般を見渡した「辛口時評」もお願いすることになったのである。

 目玉は何といっても、村瀬康治の「入門講座」だった。村瀬さんはアスキーから出版されていた超ロングセラー『入門MS-DOS』、『実用MS-DOS』、『応用MS-DOS』のMS-DOS3部作などの著者として、この世界では知らぬ人のない人だった。村瀬さんに入門講座を引き受けていただけたのがラッキーだった。

  当時のパソコンの主流は「16ビットMS-DOSマシン」だった。すでに述べたように、MS-DOS(エムエスドス)はマイクロソフトが開発した基本ソフトで、当時のパソコンのほとんどがMS-DOSを採用、ワープロとか表計算とかいったアプリケーション・ソフトは、この基本ソフトの上で動いていた。パソコンを動かすには最低、MS-DOSの知識が必要で、それがパソコンの垣根を高くしていたといえる。まだマウスでアイコンをクリックして操作できる時代でなく、ファイルの中味を見たいなら「DIR」、文書をコピーするなら「COPY」と、いちいちコマンドを打ち込まなくてはならなかった。

 だから、パソコン入門の筆者を、MS-DOSのガイドで定評のあった村瀬さんにお願いしたのである。創刊準備中のある日、私は三浦君をともなって村瀬さんの職場を訪ね、入門講座の執筆をお願いした。最初は「昼に仕事を持っている身であり、締め切りが定期的にやってくる雑誌への連載はしないことにしている」と丁寧に断わられたが、私たちが出そうとしている雑誌については、「これからは若者だけでなく、実際に仕事を持っている中年・実年の方々がパソコンを使うようになる時代。いま朝日新聞社がガイドブックを出すのはたいへんすばらしいことだ」と、まさに諸手を上げて賛成してくれた。

 私は話しているうちに「入門講座はこの人に頼むしかない」と強く思い込むようになり、村瀬さんも「仕事のことを考えると、月に1回ならともかく2回の原稿を書く余裕はない」というところまで軟化してくれたが、結局は確約を得られずに帰った。その後、村瀬さんから「やってみてもいい」という返事をもらったときの嬉しさは忘れられない。

 村瀬さんは、入門講座の対象読者を、パソコン初心者ではあるが、社会の一線で活躍する実務のプロと定めて、パソコンはどういう道具で、何ができるのか、パソコンを使うとはどういうことか、何をしてはいけないか、いまマシンは何を買うべきか、といったことを丁寧に、しかも村瀬さんの考えをはっきりと提示しつつ、分かりやすく説明してくれた。これも熊沢さんの紹介でおてもりのぶお(小手森信夫)さんにイラストを頼んだ。彼はこれまでパソコンに触ったこともない初心者だったが、テクニカルな話題を日常生活レベルに翻案して、美しく、大胆なタッチで、すばらしいカットを添えてくれた。この入門講座(写真は第1回の誌面)は、またたくうちに『ASAHIパソコン』の目玉企画になった。

 アプリ探検隊を率いてくれたのは国友正彦さんで、毎号、「ロータス1-2-3」のアドインソフト、「シルエット」でクリスマスカードを作る、「毛筆わーぷろ」で年賀状を書く、などさまざまなアプリケーション・ソフトを具体的用途に沿って丁寧にガイドしてくれた。それぞれハードな仕事で、これも目玉企画の一つだった。

 海外リレーエッセーを担当してくれた室謙二さんは『アサヒグラフ』時代の同僚に紹介したもらったが、会って『ASAHIパソコン』の話をした途端に、「それはすばらしい。必ず成功する。できるだけの協力をする」と言ってくれたのが忘れられない。室さんは市民運動の活動家としても知られていたが、早くからワープロやパソコンの電子道具に親しみ、すでに『室謙二 ワープロ術・キーボード文章読本』(晶文社)などの著書もあった(『メディアラボ』の訳者でもある)。米カリフォルニア州に生活の拠点をおき、日米をまたにかけて活躍する「コンピュータ・メディア界の風雲児」といった感じだった。室さんにはリレーエッセーでアメリカの最先端事情を書いていただくと同時に、編集部員たちがアメリカ取材するときの拠点として、さまざまな便宜をはかっていただいた。室さんのやわらかい文章が、パソコン誌の堅苦しさを補ってくれた面があったと思う。このリレーエッセーは西海岸から室さんに、東海岸からはMIT在籍中の服部桂君に交互で執筆してもらい、いい息抜きのコラムになったと思う。

 小さいながらも個性的だったコラムが、小田嶋隆の「路傍のIC」と山田祥平の「PDSマインド」だった。

 ムックのところで紹介した小田嶋君には、パソコン雑誌のライターらしからぬ、ものの見方、身の処し方が気に入って、「路傍のIC(石)」連載となった。実は、小田嶋君には創刊前に作った㏚版(ダミー版)で、特集の「徹底活用をめざして あなたのパソコン度チェック」を手伝ってもらい、コラムとして「追いつめられるパソコン・ビギナーの憂鬱」も書いてもらっている。

 ムックの「苦難」でとりつかれたというか、その才能に魅了されというか、私たちはすっかり小田嶋ファンになり、いろいろ手伝ってもらおうとしたのである。特集は編集部との合作で、適性度、親密度、習熟度、中毒度の4レベルにあわせてそれぞれ20のチェック項目をつくり、質問に答えてもらって、そのパソコン度をチェックした。「片手で食べられるものが好きだ」(適性度)、「98といえば、パソコンとわかる」(親密度)、「DIR/Wを知っている」、「『我が心はICにあらず』の著者を知っている」(以上習熟度)、「音引きのあるカタカナは気持ちが悪い」、「2の乗数に愛着を感じる」(以上中毒度)などのユニークな項目と寸評、最後に掲げた「快適パソコン・ライフのための格言」まで、ダミー版には惜しい内容だった(古川タクさんのイラストが来るべき雑誌のパソコン初心者にやさしい特徴をうまく表現してくれた)。コラムもまた秀逸で、本人とも相談した結果、『ASAHIパソコン』本誌ではコラムを担当してもらうことになった。

 原稿取り立てはもっぱら私の仕事で、前にも書いたが、原稿を読みながら見出しをつけるのは、毎号の楽しみでもあった。当時から話はパソコンを離れがちで、それが私の意にも沿い、また魅力でもあった。筆者が描いたカットも添えられている。

 山田祥平君は、PDS(パブリックドメインソフト)という、ネットワーク上で、主として無料で提供されているソフトのあり方、その善意の文化に強い関心を示しており、毎回、広い視野のもとに、新しいPDSを紹介してくれた。ムック時代の「編集協力」者の肩書きに恥じぬ良好な出稿ぶりで、彼のパソコンに対する思い入れがすなおに受け取れる好読みものだった。

 後半のNetworking FORUMでは、パソコン通信などから拾った話題を紹介しつつ、当時すでにこの世界で有名人だった高橋慈子、高橋九郎の両高橋さんにエッセーをお願いした。本誌らしい企画として、情報ページには、小さいながら、高齢者のパソコン・ユーザーを紹介する「Silver」、パソコンが身体不自由者に福音を与える可能性を追求する「Handicap」のコーナーも設けた。中和正彦君はこのハンディキャップのコーナーを15年以上担当して、この分野における専門ライターに育った。

 創刊当時の誌面を眺めていると「あの人はああして口説いたんだ」、「彼にはずいぶん面倒をかけた」などなど思い出すことが多く筆が止まらなくなるが、とりあえずこの辺で止めておこう。

・修羅場に放り込まれた編集部員の奮闘

 雑誌と言えば、それまで週刊誌か月刊誌しかなかったところに、月2回刊という、しかもテーマがパソコンというまったく新しい雑誌が誕生したわけで、そこに有無を言わさず異動させられたというか、いきなり修羅場に放り込まれた若い部員たちの驚きは、いまになると十分想像できる。当時は忙しいばかりで、その辺への配慮が足りなかったのを申し訳なく思うほどである。

 アサヒパソコン編集部が1988年5月に発足したとき、配属されたのは間島英之君と西村知美さんだった。創刊時には宮脇洋、工藤誠君が加わった。この6人態勢で月2回の雑誌を出したのだから並みの忙しさではなかった。それぞれ連載を担当しつつ誌面の目玉ともなる特集づくりに翻弄された。出版局内の広報誌「出版局報」で宮脇君や間島君に「2人でムックを年5巻も出したりするから、こんな過酷な状況になった」と怒られている、と書いている。筆者を社外に頼るしかない事情のせいもあったが、編集部員の数で言うと、月刊の『科学朝日』と比べても、彼我の差は歴然としていた。

 創刊直前の「出版局報」では、「『ASAHIパソコン』、やるっきゃないと、いざ船出」という2ページ見開きの記事が載っている。その一部を紹介しつつ、いくつか補足しておこう(写真も「出版局報」から)。

 デスク(副編集長)の三浦君は、創刊号の13ページ特集、「めいっぱいパソコン情報整理術」を何人かのフリーライターの協力のもとに精魂を込めて作り上げた。梅棹忠夫『知的生産の技術』ではないが、ここにはパソコンこそ知的生産の技術であるという私たちの思いが込められていた。彼が本誌の特集づくりの路線を敷いてくれたと言ってもいいが、そのねらいを説明しながら、「毎日、忙しい。『ラ・ボエーム』の公演は9月25日の日曜日だ」と結んでいる。オペラの大ファンで、ときどき来日するオペラ公演を見るのが数少ない息抜きだったようだ。

 宮脇君は編集部に配属になって初めてパソコンと付き合うことになったが、「パソコンは苦手、とおっしゃる方にはキーボードに対する拒否反応があると思います」、「私はキーボードにはほぼ3日で慣れました」と『入門講座』担当にふさわしい早速のパソコン伝道師ぶりで、最後は「『これから』組の方々が、次々とキーボードに取り組む姿を見ることが、われわれにとって何よりの励みになります」とすでに優秀なパソコン編集部員ぶりでもある。

 彼は部員の最年長だったが、その明るく穏やかな人柄、目配りの利く仕事ぶり、新しいことに挑戦する熱意と意欲で、あっという間に部員、と言うより部全体のまとめ役になると同時に、特集づくりにさまざまなアイデアを投入、誌面作りもリードしてくれる頼もしい存在だった。

 間島君はすでにかなりのパソコン・ユーザーだったらしい。学生時代には「制服少女図鑑」(?)とかいう雑誌だか単行本だかを出していたようで、すでに雑誌のプロでもあった。三浦君とは兄弟分のような親密さで、彼の参加もまた当編集部にとって大きな力になった。「出版局を見回すと、当編集部のほかには、いまだに2、3台しかパソコンが見られません。パソコンが1台あれば、情報収集や、データ整理などがずっと楽になります。各編集部に1台はほしいところです。信じられない方は編集部に遊びに来てください」と、こちらも仕事の忙しさはおくびにも出さない優等生ぶりである。

 工藤君は政策局から助っ人としてやってきたシステムエンジニアである。パソコンやワークステーションをそろえた編集支援システム構築に威力を発揮してくれた。「雑誌作りには携わる必要がない」と言われてきたらしいが、そのすぐれた編集マインドをたちどころに見抜いた我々が放っておくわけがなく、「PDSマインド」や「パソコン相談」の担当から特集づくりに至るまで予想を超えた仕事を押しつけられて「とにかく忙しい」、「目新しいことばかりで、無我夢中で毎日を送っている」と書いているが、「入社わずか2年目でこのような大きな仕事をさせていただき、非常にありがたいと思っています」と編集長を泣かせるようなことも書いている。

 西村さんは『ASAHIパソコン』創刊にあたって他のパソコン雑誌編集部からスカウトされ、慣れない環境にずいぶん心労もあったようだが、「Networking FORUM」担当として、「今日はPC-VAN、明日は地方のネットと、編集部を拠点として全国各地を飛び回っている」、「こうやって、通信にのめり込みながらも、『ASAHIパソコン』は10月14日創刊です』という宣伝を忘れない」と健気に書いてくれている。

 以上、スタート時の編集部員の横顔を紹介したが、誰も愚痴をこぼさず、『ASAHIパソコン』の成功と、社内への宣伝を忘れず、まことにすばらしい面々だった。部員にも恵まれたのである。もう1人、大事な人を忘れていた。編集部の庶務係として出版庶務部から派遣されてきたアルバイトの小本恵さんである。愛くるしい笑顔でてきぱきと事務を処理してくれる彼女の存在は、隣に陣取る編集長にとってはもちろん、すべての編集部員のマドンナだった。

 フリーの方々も例外ではなかった。何度もふれたデザイナーの熊沢さんと彼のプロダクション「パワーハウス」のデザイナーたち。特集づくりにあたっては、何度もレイアウトをやり直してもらうなど、本当に迷惑をかけた。多くのライター、岡田君をはじめとするカメラマン、おてもりさんなどのイラストレーターなどなど。本文レイアウトを手伝ってもらった荒瀬光治君と彼のプロダクション「あむ」の面々。『ASAHIパソコン』専属の校閲マンとして契約したフリーの校閲マン、大塚信廣君。後にも触れるが、横書きのローマ字表記の統一など、いっしょになって「『ASAHIパソコン』の表記基準」を作ったのも懐かしい思い出である。

 私は編集部員に対して、常々、「この編集部にいると他の部の2~3倍は忙しいが、年季が明ける時には4~5倍の実力がつく」などと言って発破をかけていたが、それにしてもずいぶんこき使ったものだと、今思い出しても冷や汗ものである。三浦君は相変わらず、冗談交じりに「この部は労働基準法どころか日本国憲法の保護下にもない」と言っていた。(写真は「出版局報」のものだからちょっと見にくいが、右から宮脇、西村、小本、三浦、矢野、2人おいて熊沢、間島、工藤)

・創刊当日のパーティと増刷の報

 創刊の日の夕方、社屋2階のロビーで開かれた創刊記念パーティには社内外から300人以上の人が集まってくれ、そこで創刊号増刷の決定が知らされた(写真は社内報の『朝日人』から)。多くの人から祝福され、それまでの苦労が、ともかくも報いられた瞬間だった。

 創刊号をあらためて手にとってみると、薄いわりに中味が詰まっているし、協力してくださった社外の方々の多彩さに改めて驚かされる。これだけの人が協力してくれたのは、まぎれもなく朝日新聞社のブランドの力だっただろう。新聞社がパソコン誌を出すことへの世間の期待が強かったということでもある。筆者の多くが老舗『アスキー』でも仕事をしていた関係から、これも三浦君と2人でアスキー本社に郡司明郎、西和彦、塚本慶一郎のトップスリーを訪ね、創刊の挨拶をしたこともあるが、彼らもまた大いに励ましてくれたのだった。

 当時の出版担当は『週刊朝日』の名編集長としてならした涌井昭治さん、出版局長は川口信行、局次長が柴田鉄治(編集)、安倍哲麿(業務)の各氏だったが、この執行部が『ASAHIパソコン』を世に送り出してくれたわけである。柴田さんは東京本社社会部長と科学部長を歴任したすでに名の知られたジャーナリストだったが、『ASAHIパソコン』創刊に率先して努力してくれた。広告(君島志郎部長)、販売(西村章部長)、刊行(山崎卓部長)といった業務各部の働きも目を見張るものだった。

 広告部はコンピュータ専門誌という朝日新聞としては異色の雑誌への広告集稿に取り組んだ。自らラップトップパソコンを購入した吉岡秀人君のような献身的働きもあった。販売は篠崎充君などが書店への売り込みに奮闘(担当は水沼裕明君)、宣伝企画課の久和俊彦君はキャッチコピーに頭をひねってくれた。刊行部は入社早々の朝田勝也君が月2回刊という新しい発行スタイル確立に努力してくれた。月2回刊は曜日単位で刊行スケジュールを組めないので、印刷を担当してくれた凸版印刷との交渉も大変だったようだ。業務各部との交渉も編集長の大きな仕事で、彼らとの侃々諤々の議論もまた懐かしい思い出である。

 創刊数か月後、私は前出版担当、中村豊さんから一通の手紙を受け取った。中村豊さんこそが『ASAHIパソコン』生みの親である。私がまだ出版局大阪本部にいてパソコン誌創刊の提案をしたとき、興味をもってより詳しい説明のために私をわざわざ上京させてくれたのだった。彼の配慮がなければパソコン誌の誕生もなかったし、これまでの社の前例を破って、言い出しっぺがそのまま編集長になることもなかったのだと思う。手紙では『ASAHIパソコン』の順調な滑り出しを喜んでくれる文面のあとに、「3年前の打ち合わせから、よくぞ、ここまで、周囲のケツをたたいて、引っ張ってきたものだと感心しています。この雑誌は、きみの情熱と力が生み出したものだと言ってよいでしょう」と書いてくれていた。この手紙は私の宝物である。

・ASAHIパソコン・ネット、俵万智のハイテク日記、西田雅昭の入門講座

  創刊時に、朝日新聞社内では、電子計算室の島戸一臣室長らが中心になってパソコン通信ネットを立ち上げる話があり、こちらも創刊と同時にネットワークを利用したいと思っていたので、相互に協力しあうことになった。このネットはほどなく朝日新聞社から独立したアトソン(島戸一臣社長)が経営するASAHIネットへと発展するが、当初はASAHIパソコン・ネット」として、『ASAHIパソコン』読者を対象に始まったのである。そのように社告でも告知、『ASAHIパソコン』誌上でも、「読者と編集部を結ぶASAHIパソコン・ネット」のコーナーを設けた。

 最初のスタートがよかったため、部数的には順調だったが、少人数の編集部は、相変わらず忙しかった。雑誌の売り上げを左右する特集の作り方には毎号苦労したが、編集部内での自由闊達な議論と何度かの試行錯誤の末に、夏と冬のボーナス時期にあわせた「パソコン買い方ガイド」、春、秋の「ゼロからのパソコン」シリーズなどが定番として確立された。1989年秋に、これまでのラップトップ型よりも一回り小型で軽量のブックパソコン(ブック型、あるいはノート型パソコン)が登場してからは、「これぞ『ASAHIパソコン』に対応したマシン、『思考のための道具』」とばかり、ブックパソコン・ガイドの連載を始めた。

 そんな日々の中で、思い出深い出来事が2つある。

  1つはベストセラー歌集『サラダ記念日』で一躍有名になった佳人、いや打ち間違った、歌人の俵万智さんがマッキントッシュに挑戦した記録を「俵万智のハイテク日記」として連載したことである。2年目から約2年間続いた。この見開きページだけは、やわらかいフォント(書体)を使い、縦組みにし、万智さんの写真を毎号、大きく扱った。

 「自他ともに認める機械オンチ」だった万智さんが「短歌のためならエーンヤコラ」と一大決心をしてパソコンに挑戦、悪戦苦闘しながらも、「さまざまなハイテク・ランドをめぐりながら、『言葉』について考えた」楽しいエッセーは、新たな魅力をつけ加えてくれた。万智さんが言っているように、それは、「万智さんの私生活が少しわかる欄」であり、「初心者に勇気を与えるページ」でもあった。担当した間島君の指導よろしきを得た結果でもあった。

 もう1つは西田雅昭さんとの出会いである。2年目に入ったとき、村瀬さんから「連載を続けてもいいが、月1回にならないか」と相談を受け、別の筆者による入門講座を併設、隔号ごとに掲載することになった。その筆者が西田さんだった。このころには勝又ひろし君が編集部に加わっており、彼が西田さんに白羽の矢を立て、快く引き受けていただいたのだが、実は私は西田さんとは旧知だった。「『おもいっきりネットワーキング』データ蒸発」事件の雑誌編集部で、編集長に紹介されたとき、まったく肩書のない名刺をもらったのでよく覚えていた。

 西田さんは、知る人ぞ知るパソコン界の大権威で、著書も多く、『パソコン救急箱』(技術評論社)、『プログラミング「基本」の本』(翔泳社)=いずれも共著=などがある。パーソナル・コンピュータの健全な普及を願う熱血漢、いやオールドボーイで、長らく都下の区営中小企業センターOA相談室で、中小企業の経営者たちのよきアドバイザー役をつとめておられた。

 タイトルを「西田雅昭のパソコン独立独歩」とし、パソコンの置き方、パソコンに向かう基本姿勢といった基本の基本からスタートした。西田さんの口癖はパソコミである。「パソコミは、パソコミは」と言うのだが、それは「マスコミにも劣るパソコン雑誌」という意味なのである。「パソコミは雑誌を売ることばかり考えて、メーカーのいいなりで、本当にユーザーが知りたいことを知らせない。まことにパソコミの罪は大きい」と、早い話が、私が叱られているのであった。「なるほど、もっとも」と思うことが多く、「じゃ、言いたいことを書いてください」とお願いして、後に「西田雅昭の直言・苦言・提言」という連載を始めたりした。「パソコン業界の常識は、世間の非常識」というのも西田語録の1つだった。

 「パソコミ」という蔑称は、「マスコミ」はまだしっかりしてるという前提で生まれているが、これもまた時代を感じさせられる話である。

・社長賞受賞と「天の時、地の利、人の和」

 『ASAHIパソコン』は創刊1周年後に、その功績により社長賞を受賞した。当時の社長は東京大学社会学科の先輩でもあった中江利忠さんだった。1983年に職場ローテーションの関係で『アサヒグラフ』から朝日新聞労組の本部書記長に担ぎ出されたとき、中江さんがたまたま労坦(労務担当重役)になり、労使の関係で緊張した1年を過ごした。その1年間は団体交渉の席以外ではいっさい接触しなかったが、任期を終えての懇親会のとき、初めて親しく話して、その後学科の同窓会の世話役をしたこともあった。その中江さんから社長賞をもらうことになっためぐりあわせも感慨深い。中江さんはカラオケの名手で90歳を超えた今も元気にカラオケに興じておられるとか。

 社長賞受賞は編集部員、関係者の頑張りへのご褒美であると大変うれしく、また晴れがましくもあったが、社長賞受賞挨拶の中でも人と金の手当てを執拗に要求しているのはいささか可愛げがなかった。

 私は『朝日人』に「天の時、地の利、人の和の三拍子そろって成功した」という一文を寄せた。「天の時」とは、「ビジネス・ユース一辺倒ではなく、パーソナル・ユースに的を絞った新しいパソコン雑誌」というコンセプトが読者に受け入れられたことである。「地の利」とは、朝日の看板である。誌名でも「朝日」を打ち出したが、朝日新聞社がパソコン初心者向けガイド誌を出すことへの好感があったと思われる。初心者でも読めそうだという安心感があり、またそれに応えられた。私としては、「朝日」のブランドと「パソコン誌」の親和性の高さが証明されて、賭に勝ったような気分だった。

 そして、最後は「人の和」。これこそが成功の最大要因である。このことについてはすでに述べたが、編集部員の頑張り。レイアウター、校閲マン、社外ライター、カメラマン、イラストレーターなどの献身的協力。そして出版局内の販売、広告、宣伝、刊行といった業務各部の熱気―いろんな人との折々の出来事が、今でも走馬燈の如く思い出される。局内ばかりではなく、電子計算室、ニューメディア本部、制作局など、社内の多くの人の世話にもなったのである。

 出版局大阪本部からプロジェクト室への人事が発令された直後、私は東大阪市に作家の司馬遼太郎さんを訪ね、転勤の挨拶をした。『週刊朝日』で長らく続いていた「街道をゆく」の前線本部としての縁があったからである。パソコン誌を出す準備をするという私の話を聞きながら、司罵さんは、「僕にはさっぱり分からん雑誌のようだが、思うところを大いにやるといい」と激励してくれながら、最後に、「新しいことをしようとすると、それはまず社内で潰される」とおっしゃった。いろんな出版社での見聞を踏まえての司馬さんの忠告だったが、この短い一言を、私は後に何度も思い出し、かみしめることになった。

 その詳細はともかく、いま少し距離を置いて言えば、大組織は動き出すまでは梃子でも動かぬところがあり、新しい芽を摘むことも多いが、いったん動き出すと、地力を発揮しすばらしい成果を上げる、といったところだろうか。

新サイバー閑話(58)平成とITと私⑥

パソコン黎明期の熱気と『ASAHIパソコン』

 ムックの好評を受け、1988年秋からパソコン誌が正式にスタートすることになったが、出版局内に編集部が発足するのは同年5月。それまでの間に三浦賢一君と2人で『ASAHIパソコン』の誌名、判型、刊行スタイル、基本コンセプトなどを検討する作業に入った。相談相手はムックに引き続いて雑誌のアートディレクターを担当してくれることになった熊沢正人さんであり、『アサヒグラフ』以来のカメラマン、岡田明彦君だった。朝日新聞社内のパソコン先駆者を訪ねたり、私が出版局に移る前に長く勤務していた西部本社の旧友にパソコン雑誌を出すことについての意見を聞いたりもした。

 かつての親友が「記者がワープロで原稿を書くようになって、机に向かうばかりで足で取材をすることがおろそかになっている。農業における農薬と同じで、新聞記者にとってはパソコンはむしろ害である。お前は農薬雑誌を作りたいのか」と鋭い意見を述べて、なるほどそういう面は否定できないと思ったこともあった。

 当時、ムックを作りながら、あるいは雑誌の準備の合い間に読んで、元気づけられた本が2冊あった。スチュアート・ブランド『メディアラボ』(室謙二、麻生九美訳、原著1987、福武書店、1988)と、ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(栗田昭平監訳、原著1985、パーソナルメディア、1987)である。

・「収縮する3つの輪」の予言

  MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。

 『メディアラボ』という本は、アメリカ・カウンターカルチャーの世界的ベストセラーとして有名な『ホールアースカタログ』の編集発行人でもあるスチュアート・ブランドが、パーソナル電子新聞、秘書の代わりをする留守番電話、パーソナル・テレビ、リアルタイムで動くアニメーション、バイオリンの伴奏をする自動ピアノなどなど、当時メディアラボで行なわれていた、活字、音声、映像、さらにはイベントといった、あらゆるメディアの領域に及んだ最先端研究を紹介したものだ。ここには黎明期のパーソナル・コンピュータをめぐる熱気が横溢していた。

 私の興味を惹いたのは、この書に掲載されていた次の図である。

 描かれた3つの輪は<放送・映画 Broadcast & Motion Picture>、<印刷・出版 Print & Publishing><コンピュータ Computer>からなり、これらは当初は独立した世界を築いていたが(1978年時点)、最近では相互に近付き、重なり合う部分が増えてきた。いずれは1つのメディアに統合され、その中心がコンピュータである、との説明がついていた。

  このメディアラボのトレードマーク、「収縮する3つの輪(three overlapping circles)」は、ネグロポンテ所長がひんぱんに言及するので、「ネグロポンテのおしゃぶり」と言われていたが、当時のメディア状況を考えると、まさにこの予言通りに事態は進んでいた。コンピュータという技術が、自らの姿を背後に隠しながら、そのことでかえって全メディアを大きく呑み込んでしまうというイメージで、それはまさに現在の状況を的確に表していた。私はこの図を見たとき、自分がつくろうとしている雑誌のバックボーンを見つけたようで、実に力強く思ったものである(将来の区切りが2000年というのが興味深い)。

・コンピュータは「思考のための道具」

 ラインゴールドの『思考のための道具』は、パーソナル・コンピュータを「人間の知性における最も創造的な局面を強化する」、「人びとがこれまで用いてきた思考、学習、および意思疎通の方法を決定的に変える」道具と位置づけ、「コンピュータとは数値の計算に用いられる装置」としか思われていなかった時代に、「人間とコンピュータを結びつける技術の創造に貢献した少数派」の思想を追った本である。スチュアート・ブランドと同じく、ラインゴールドもまたジャーナリストであり、偉大なる先達を足で訪ね、まとめ上げた取材力、構想力に私は舌をまいた。

 この本には、チャールズ・バベッジ、アラン・チューリング、ジョン・フォン・ノイマン、ノーバート・ウィーナー、クロード・シャノンといったコンピュータや情報理論の巨人たち(開祖 patriarchs)も取り上げられているが、重点は、その後の「コンピュータを知的能力を飛躍させるための『てこ』にできないかと努力した」パーソナル・コンピュータのパイオニア(pioneers)と、現にいま、さまざまな試みに挑戦している若者たち(情報航海者 infonauts)に置かれている。

 パーソナル・コンピュータ発達史に興味のある人ならほとんどの人が知っているロバート・テイラー、J・C・R・リックライダー、ダグ・エンゲルバート、アラン・ケイいった逸材たちが続々と登場し、それぞれの夢と汗と涙の織りなす開発秘話が、興味深い写真とともに、愛情をこめて記述されていた。

 簡単に説明しておくと、リックライダーは、MITの実験心理学者から国防省の高等研究計画局(ARPA、アーパ)情報処理研究技術部長になり、人間とコンピュータの新しいコミュニケーションを可能にする「対話型コンピュータ」を実現すべく、多くの研究者に豊富な資金を提供し、コンピュータ・サイエンスを新たなレベルに持ち上げた先駆者である。

 エンゲルバートは、リックライダーの資金援助を受けた1人で、早くから思考増幅装置に興味を持ち、マウス、マルチウインドウ、電子メールなど、現在のパソコンの重要なインターフェースを開発した人として知られる。

 ロバート・テイラーは、リックライダーのあとを継いでアーパの情報処理研究技術部長になり、主流からは無視されていても、コンピュータ・システムの技術を飛躍的に押し上げるアイデアを持つ研究者の「ヘッド・ハンター」となった。そのため、多くのすぐれた人材がアーパに集まり、彼が責任者となって構築した「全国のコンピュータを接続する対話型コンピュータ・ネットワーク」システム、アーパネットは、のちのインターネットへと発展していく。

 彼は、1970年には西海岸のゼロックス社パロアルト研究センター(PARC、パーク)に移り、ここでもトップレベルのコンピュータ・システム設計者を集めたから、パークは一時、パーソナル・コンピュータ研究のメッカとなった。「コンピュータはメディアである」ことをいち早く見抜き、「パーソナル・コンピュータ」という考えを定着させた人として知られるアラン・ケイが活躍したのもパークである。

 アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。

 いま見ると、これはまさに子どもがタブレット端末で遊んでいるありふれた姿である。アラン・ケイは、MITメディアラボに在籍したこともあり、アップル社の研究フェローもつとめた。「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」というのは、彼のいかにも天才らしい発言である。

・メディアラボやシリコンバレーを見て回る

 私のパーソナル・コンピュータに対するイメージは、それらの本を読みながら、しだいにはっきりした形をとっていった。『ASAHIパソコン』創刊前の夏、ボストンで開かれたマッキントッシュのイベント「MACWORLD」に出席がてら、MITメディアラボを見学し、帰りに西海岸のシリコンバレーを駆け足で回った。

 ボストンはハーバード大学とMITをかかえた静かな学園都市である。MITでは、当時朝日新聞社からメディアラボに派遣されていた服部桂君に案内してもらって、最先端の研究現場をまわった。瀟洒なラボの建物と同時に、教授や学生たちが和気あいあいと進めている自由な研究風景に心を奪われた。「ハッカー」とは、俗に言われるようなコンピュータ犯罪者ではなく、コンピュータを愛する技術者集団、魅力的な若者たちの総称だということを身をもって体験した。私は創刊号インタビューで、ネグロポンテ所長を取り上げることに決めた。

 西海岸、サンフランシスコ湾の南に位置するシリコンバレーは、谷というよりも、小高い山に囲まれた平野だ。車で走ると、松林が続き、樫の木が茂る牧歌的な風景の中に、ハイテク企業群が蝟集していた。といって、狭い場所にひしめきあっているわけではない。クパチーノのアップル社などは、オフィスがいくつかの建物に別れていて、ビルもあるが、こじんまりした住宅のような建物も多く、それが新鮮な印象を与えていた。展示室で、小さなトランクにむき出しのワンボードマイコンが詰まった最初のアップル、ぐっとスマートになったアップルⅡ、そしてリサ、マッキントッシュと、さまざまなマシンやいくつかのデモビデオを見た

 バレー西部に広大な敷地を有するスタンフォード大学があり、その近くの小高い丘に、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)がある。パークの果たした役割についてはすでに述べたが、ゼロックスはそこで培ったノウハウをオフィス用ワークステーション「スター(Star))」開発に振り向けたが、パーソナル・コンピュータ市場には進出していかなかった。

 いま私たちがパソコンでやっている日常作業そのままが「スター」によって1981年の段階で提示されていたにもかかわらず、そのノウハウがパソコン開発へと進まなかったのは、それなりの理由があってのことだろうが、歴史の皮肉とも言えよう。企業経営の観点からすると、これは一種の「失敗」だと言っていい。パークが現在のパソコンを生み出したと言えなくもないのである。

・パソコン黎明期の天才、ジョブズとゲイツ

 パークはアルトを公開し、多くの人にデモを見せたが、その中にアップルのジョブズがいた。アルトに啓示を得たジョブズは、さっそく自分がリーダーになって新しいマシン開発に乗り出し、パークから技術者も引き抜いて、1984年にマッキントッシュを発売する。「電話帳の上に乗るパソコン」というジョブズの希望に沿った縦型の斬新なデザインだった。ビットアップ・ディスプレイを採用して、マウスでディスプレイ上のアイコンを操作すれば、初心者でもパソコンを手軽に扱えるようになっていた。

 このグラフィカル・ユーザーズ・インターフェース(GUI)は、まもなくビル・ゲイツのマイクロソフトが開発した基本ソフト、ウィンドウズにも採用される。私たちがムックで紹介したPC-98とはパソコンの姿が大きく変わったのである。とは言いながらウィンドウズ95が発売されるのは1995年であり、アップル・コンピュータは別にして、日本のパソコンは長らくMS-DOSの時代が続いた。

 GUIに関するおもしろいエピソードを紹介しておこう。

 ジョブズがウインドウズ・システムについて「アイデアをマックから盗んだ」と批判したとき、ゲイツは「いや、スティーブ、そうじゃないさ。むしろ、近所にゼロックスという金持ちがいて、そこに僕がテレビを盗みに入ったら、もう君が盗んだ後だったということじゃないかな」と言ったという。

 『アサヒグラフ』の項で紹介したように、パソコンはこれまでIBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受けて登場したが、その黎明期の天才がスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツだった。

 IBMも1981年にパーソナル・コンピュータに参入したことはすでに述べたが、そのときジョブズは「IBM、ようこそ(Welcome IBM Seriously)」と自信満々に迎え撃ったのだった。またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。

 ジョブズはアップルを巨大なものにするために、東部エスタブリッシュメント企業からペプシコーラ社長、ジョン・スカリーを「あなたは人生の残りの日々を、ただ砂糖水を売って過ごすんですか。世界を変えようというチャンスに賭ける気はないんですか」という殺し文句でCEOにスカウトするが、その後、スカリーにアップルを追われる。しばらく教育用ワークステーション、ネクスト(Next)の開発などに携わっていたが、その後、マイクロソフトからすっかり水をあけられたアップルに呼び戻される。

 ジョブズがやった復帰第1弾がしゃれたパソコン、アイマックiMAcの開発であり、CEOに返り咲いて以降、小型端末のiPod 、iPad、iPhoneを次々と市場に投入、パソコンからモバイル端末(スマートフォン)へとIT社会の歯車を大きく回転させる偉業を成し遂げる(これについては後にふれる機会があるだろう)。

 私はネクスト売り込みに来日した1989年7月、ジョブスに会っている。前日に幕張メッセで一大デモンストレーションを行ったときは、タキシード姿をばっちり決め、まさに達者なエンターテイナーぶりだったが、インタビューでは、ネクストの販促に関連しない質問には一切ノーコメントを通す徹底ぶりで、これに手を焼いて(?)、私は記事を断念したのを思い出す。

  よく言われるようにジョブズは、自らは技術者でなかったが、技術者を動かして自分の、そして彼らの夢を実現することができた「芸術家」だった。彼はパソコンを電話機の後釜的な存在だと考え、電話機をずっと見て暮らしたらしい。そして、電話機がたいてい電話帳の上に乗せられているのに気付き、ある日、技術者を集めて、「マックは電話帳に乗る大きさでなくてはいけない」と言ったのだそうである。

 1991年5月にはゲイツにも会った。ウインドウズ95に先立つMS-WINDOWS(ウインドウズ3.0)の㏚にやってきたときで、その画期的機能について丁寧に説明すると同時に、パークに関する私の不躾な質問にも、嫌な顔をせずに答えてくれた。発言、大略、こんなふうだった。

 「たしかにこの件でアップルと訴訟にはなっていますが、多くの面で協力しあっています。マイクロソフトがウインドウズ・システムを発表したのは1983年で、マッキントッシュより先でした。まあ類似点についていろいろ不平があったとしても、似ているところはすべてゼロックスから来ているわけです。彼の方が先に入っていろいろ取っていったとしても、あとから入った私に不満を言うとか、占有権を主張できるわけはないだろと言ったんですね。私はジョブズとは友好的な関係を保っていて、お互いにオープンでした」。彼もまたジョブズと同じように「技術者」ではないようだが、こちらはすでに才覚あふれる青年「実業家」の風貌を築きつつあった。

・『ASAHIパソコン』の基本コンセプト―パソコン誌の3段階理論

  いろんな本を読んだり、多くの人にあったりして、私は『ASAHIパソコン』の基本コンセプトを固めていった。当時、日本でもグラフィックデザインや出版分野でマッキントッシュの人気は高かったけれど、日本語化の問題もあり、趨勢はまだコマンドをキーボードから打ち込んで動かすMS-DOSの世界だった。

 雑誌としての定期化をめざす過程で、私が出版局内や広告代理店、取次などの書店関係者に新雑誌の構想を説明するとき、「ネグロポンテのおしゃぶり」よろしく繰り返していたのが、「パソコン雑誌の3段階理論」なるものだった。だいたい以下のようなことである。

 パソコン誌は、パソコンの社会的あり様にともなって変わる。 1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。

 『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。

 そして『日経パソコン』から5年後の1988年11月、『ASAHIパソコン』創刊。本誌はこれからはじまる、誰もが文房具としてパソコンを使うようになる時代の、便利でやさしい使いこなしガイドブックである。ソフトやハードのガイドはもちろん、より大きな視野から情報社会のあり方にも目配りしていきたい。これを私は、「ホビー・ユース」から「ビジネス・ユース」を経て「パーソナル・ユースへ」と呼んだ(象徴的マシンとして、私は創刊ほどなく発売されたノートパソコンを想定した)。

 もっとも、ムックから雑誌への道のりは、そう平坦ではなかった。パソコンのやさしいガイド誌というのが、ニュースを売り物にする新聞社の出版物としてはなじまない、と思われがちなのも事実だった。当時、社内はニュース週刊紙『アエラ』創刊の話で持ちきりだったし、『ASAHIパソコン』の直後には総合月刊誌『月刊Asahii』も創刊されている。

 「氷海を行く砕氷船の如く、悪戦苦闘の6ヶ月が過ぎたが、ともかくも動き始めた船が、果たして氷海を脱出できるのかどうか、乗り込んだ2人の船員にもまだ確たる見当がついていない」。ムック制作中にはこんな感慨も漏らしている。

 『ASAHIパソコン』創刊に反対する意見、あるいは態度の中で、私が興味深いと思ったのは、次の2つである。これも今となっては懐かしい思い出で、ことさら取り上げることもないのだが、おもしろいと思うので簡単に触れておこう。

  1つはこういう声だった。「矢野さんはパーソナル・ユース、パーソナル・ユースと言うけれど、いまは『日経パソコン』のようなビジネス・ユースの雑誌が主流である。パーソナル・ユースのパソコン誌に対するニーズがあるのなら、すでにどこかの社が出しているはずだ。そういう雑誌がないことが、すなわち需要のないことを証明している」。

 これだと、新しい雑誌は我が社からは永久に生まれない理屈だが、それでも、こういう意見を論破することは難しい。いや至難と言っていい。結果で勝負するしかないのだが、結果を出すのをあらかじめ拒否されているようなものだからだ。

 もう1つは、広告関係者が正直にもらした感慨である。「私たちはいま『週刊朝日』の広告を一生懸命にとっている。何でこの上、パソコンなどという扱ったこともない雑誌のために広告をとらなくてはならないのか。誰も、そんな雑誌なんかほしくないですよ」。

 私は、「これからもずっと『週刊朝日』に頼っていけるとは思えないから、頑張ってでも新しい雑誌を作ろうとしているのだ」と反論したけれど、彼らの本音は分からないでもなかった。

 新聞社内の人間を説得するためにもう一つ、私が言ったのは「社会部が作るパソコン雑誌」だった。パソコンはまだ扱うのが大変で、パソコン雑誌も専門用語が多く、素人には取っつきにくかった。技術解説ではなく、使う人を重視したパソコン雑誌をアピールしたくて、「科学部ではなく、社会部が作る雑誌」という言い方をしたのである。

 とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。

 ちょっと『ASAHIパソコン』創刊前後のIT事情をふりかえっておこう。

 ジョージ・オーウェルの有名なディストピア小説『1984年』が書かれたのは1949年という早い時期だったし、オルダス・ハックスリイの『すばらしい新世界』はそれ以前の1932年である。コンピュータが普及するにつれて、その弊害を指摘する声も多く、有名なジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(1976)は1977年には邦訳されている。

 先にもふれたように、アルビン・トフラーの『第三の波』は1980年の発売、増田米二『原典・情報社会』は1985年だが、世界に先駆けて梅棹忠夫が「情報産業論」を書いたのは1963年だった。ダニエル・ベルは1973年に『脱工業化社会の到来』を書き、来るべき「情報化社会」の出現を予言した(物の生産から情報の生産へ)。

 日本社会は、私たちが『ASAHIパソコン』を創刊した1980年代に情報社会から高度情報社会へと移行しつつあったと言える。当時は情報技術がもたらすバラ色の未来が喧伝されていたから、『ASAHIパソコン』はその波にうまく乗り、高度経済成長にも助けられて、高度情報社会を促進する役割を担ったと言えるかもしれない。

 ちなみに任天堂の家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売されたのは1983年である。我が家もそうだったが、子どもたちは、そして大人も、タッカタッカタッタカタッタカのロードランナーやスーパーマリオなどのゲームに興じ始めた。

 この記録<平成とITと私>は私の後半生を振り返りつつ、IT社会がどのように変遷して今に至ったかをできるだけ客観的に叙述したいと考えている。あえて名づければ『私家版・日本IT社会発達史―ASAHIパソコンからOnline塾DOORSまで』である。第1回で書いたように、『ASAHIパソコン』の創刊後ほどなく時代は昭和から平成に移り、平成の30年間はくしくも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、IT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。当座のタイトルを「平成とITと私」としたのもそのためである。

 Zoomサロン<Online塾DOORS>を主宰している2022年の時点から見ると、当初はアメリカ西海岸の若者たちのパーソナル・コンピュータにかけた熱気に深く同感しつつ、パソコンが切り開く未来に希望を求め、それをむしろ促進したいと夢見ていたと言えるが、その後のパソコンの歴史が必ずしもその夢のようにはならず、当時は思っても見なかった便宜、そしてそれとは裏腹の深い難題を人類に与えるようになった。私がIT社会を生きるための基本素養として「サイバーリテラシー」を唱えるようになるのは2000年初頭だが、IT技術の予想を上回る発展とそれに対する私見もおいおい述べていくつもりである。

 記述になるだけ客観性をもたせるため、当時の関係者の発言も記録に残っているものはそれを参照していくつもりだが、そうはいかない部分も結構あり、筆が主観に走ることもあるかもしれない。関係者の実名を記している点も含め、諸兄姉のご寛恕をお願いしたい。関係者にはすでに他界された方も多いが、特別な場合以外、その後の人生についてはふれていない。

 <平成とITと私>は本サイバー燈台の<新サイバー閑話>に収容されている。他の原稿との区別がなく時系列に並んでいるので、通しで見る場合は、サイトにアクセスした後、右側にあるサイト内検索の窓に「平成とITと私」と打ち込んでいただけると、記事一覧が表示されるので、そこから好みの項をお読みください。