新サイバー閑話(48)<折々メール閑話>①

古典落語でござる

A 冒頭から嘆き節になりますが、日本人の劣化はここまで来たかと脱力しました。自民党議員が「ウクライナが日本に感謝していないのはけしからん」とツイッターした話です。みっともないの一言。これに対して、落語の「文七元結」を聞け!というきわめてもっともなツィートがあったのは救いでした。

 実はもう一つ、日本人の劣化を象徴する記事を先日の新聞で見つけました。どこかの地方自治体の担当者が困窮家庭向け支援金10万円、総額四千数百万をあやまってある個人の口座に振り込んでしまったのですが、その人はなんと変換を拒否していると。そもそも自治体職員の怠慢というか、無神経さに呆れるしかないのですが、この人にも志ん朝の「文七元結」を聞け!と言いたい。

 日本人は古典落語を聞かなくなってから、間違いなく馬鹿になりましたね。先程、改めて聞きましたが、ここにこそ、原日本人がいると思いました。

B この誤振込事件を聞いたとき思い出したのは、銀座で1億円だかの入った紙袋を拾って警察に届け、持ち主が半年たっても現れずに、そっくりもらえることになったタクシー運転手の話です。

 持ち主が現れた場合でも、慣行(どういう根拠かわからないけれど)によりその1割、1000万円はもらえるわけで、大金ではそうはいかないかもしれないが、とにかく、これは届けるに越したことはないわけですね。

 自分の通帳にたまたま1億円があやまって振り込まれたらどうするか、これを正直に申告した場合、送信した人は1割をくれるかどうか、ここは微妙ですね。そんなもの返すのが当たり前だと、左官の長兵衛さんなら言うだろうけれど、いまの役所の人が正直者の長兵衛さんにいたく感動して、「少ないですが、1割の謝礼を受け取ってください」、「べらぼうめ、国の大事なおかねじゃねえか、こちとら江戸っ子だい、そんなものを受け取ったら、近所の連中になんて言われるかわかっちゃもんじゃない」、「そう遠慮されても困ります。もともと私のお金でもないんで」、「じゃあ、家族会議をして‣‣‣、受け取ってもだれにも言わないでくださいよ。あっしが国のお金をくすねたなんて言われると、こまるんでねえ」‣‣‣、四千数百万円なら1割で四百数十万円だが、それを払うと役所が言えるようにも思えないし、まず何よりも、そういう素朴な道徳を失わせてしまう社会状況というのがあるのも確かですねえ。

 以前、白井聡が何かの本で「いまの若者は寅さんがおもしろいということがわからなくなっている」と書いているのを2人で話題にしたことがあったけれど、江戸っ子の啖呵の世界が懐かしいですね。ちなみに僕も「文七元結」は志ん朝ものを聞いているけれど、何度聞いても面白い。これを歌舞伎にした舞台を見たことがあるけれど、案外つまらないのでびっくりしたことがありました。

 おあとがよろしいようで。

新サイバー閑話(47)<令和と「新選組」>⑦

新庄剛志と山本太郎

 プロ野球日本ハムの新監督に新庄剛志が就任することになった。元阪神や日本ハム、米大リーグで活躍した個性豊かなこの人が「監督」になったのは大方の意表をつく出来事だと思うが、「正直、自分が一番びっくりしている。僕でいいのかなという思いの半面、僕しかいないなって。日本ハムも変えていくし、プロ野球も変えていくという気持ちで帰ってきた」という就任の弁はさわやかである。「これからは顔を変えずにチームを変えていきたい」とも言ったらしい。

 数年のブランクを経て国会に戻ってきた山本太郎には将来の総理をめざしてほしいが、新庄の語り口をまねれば、「ぼくでいいのかなという思いの半面、僕しかいないなって。国会も変えていくし、日本も変えていくと」という気構えで。

 前回、山本太郎およびれいわ新選組に対するメディアの取り上げ方がずいぶん控えめだったことにふれたけれど、11月6日の東京新聞におもしろい記事が出ていた。

 選挙期間中、ツイッターで各党首の投稿がどれだけリツイート(転載)されたかを調べた調査によると、れいわの山本太郎が18万7000回で圧倒的に多く、ついで共産党志位和夫委員長4万1000回、自民党岸田文雄首相3万6000回、国民民主党玉木雄一郎代表3万5000回などとなっている。立憲民主党の枝野幸男代表は1万8000回と少なかった。

 ツイッターに投稿した回数自体が、山本太郎167回、志位和夫120回、岸田文雄77回などと山本太郎が圧倒的だった面もあるし、転載は支持者間だけに止まっている傾向も強く、これらの数字が主張が広がったという意味での「拡散力」を示しているとは必ずしも言えないけれど、ネット空間におけるある程度の人気のバロメーターにはなっているだろう。

 新庄の去就に多くのメディアが集まったように、多くのメディアの目が今後は山本太郎およびれいわ新選組の行動に注がれてほしいとふと思ったのである(敬称略)。

新サイバー閑話(46)<令和と「新選組」>⑥

れいわの時代が始まる!

 今回の総選挙で、山本太郎をはじめとして、れいわ新選組の3人が議席を得たことは大いなる朗報だった。

 選挙結果全体をみれば、56%に満たない低い投票率はともかく、その中での自民党の安定多数確保、立憲民主党の大幅議席減、日本維新の会の議席3倍増と、野党共闘がさっぱり振るわず、むしろその票が維新に流れた構図で、維新を自民党の補完勢力と見れば、むしろ現政権の基盤は強まったとさえ言えるだろう。

 コロナ対策の不手際、相変わらずの金権体質、不誠実な政治姿勢などから、久しぶりに政権交代も話題になった選挙前の空気からすると、意外なほどの尻すぼみである。野党共闘不振の原因が野党第一党たる立憲民主党の枝野幸男代表にあるのは間違いないだろう。得難いチャンスを逸したわけだが、選挙直前にれいわの山本代表がいったん東京8区から立候補すると宣言しながら直後に取り消し、比例に回った経緯の中にも、枝野代表に野党共闘をまとめる度量も見識(ビジョン)もなかったことは明らかなように思われる(共産党との共闘が間違いだったわけではもちろんないが……)。

「枝野は野党のアンシャンレジーム(旧体制)」と言った友人もいた。いま野党(左派)に要請される資格として「想像力」と「創造力」をあげた文化人類学者がいるそうだが、これからの時代を見据えた想像力(イマジネーション)と創造力(クリエイティビティ)を兼ね備えたリーダーは、山本太郎以外にはいないように思われる。だからこそ、山本代表とれいわ新選組の活躍に期待したいが、それ以上に自民党に対抗する野党全体の戦線を組みなおすことが急務だろう。

 それにしても選挙前、選挙中を含めて、マスメディアの報道はれいわ新選組にずいぶん冷たかったように思われる。街頭活動の動画を見ていると、聴衆の山本太郎に対する熱い連帯が伝わってきたし、SNSではいろんなジャンルの識者、タレントがれいわへの応援メッセージを送っていたけれど、そして全体として(選挙区と比例あわせて)れいわは255万余票を獲得しているわけでもあるが、メディアでの露出はあまりにも少なかった。と言うより、れいわが担おうとしている政治活動に関する想像力自体が欠けているように思われた。

 私が駆け出し記者のころ、研修を受けた横浜支局の支局長から「ニュースとは時代の波がしらがはねたものである」と聞かされ、現役時代を通してそれを信条としてきたけれど、この波がしらがはねるのを目撃しながら、それを面白がる野次馬精神がまったく感じられなかったし、ましてや「波がしらをはねようとする」迫力はまるでなかったようである。

 立憲民主党の枝野代表は11月2日の党執行委員会で、敗北した責任をとり辞任する意向を表明、同党は執行部を刷新することになった(3日追記)。

新サイバー閑話(45)

新サイバー閑話再開

 お久しぶり。新サイバー閑話1年余ぶりの再開です。

 もっともここ1年は<Zoomサロン>でOnlineシニア塾活動の報告を行ってきたので、<サイバー燈台>の活動は続けてきました。それはともかく、この激動する社会のただ中で、本流の<新サイバー閑話>のコラムも再開しようと思います。

 とりあえず2つの報告から。

<1> 東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』の出版

 インプレスのネクパブ・オーサーズプレスを利用して東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』(サイバーリテラシー研究所)を出版しました。

 これはプロジェクト・コーナーの東山明「禅密気功な日々」を再編集して書籍化したものですが、やはりオンラインと書籍との違いもまた明瞭なようです。このシステムを利用すると、やや割高になりますが、自分でWordだけで編集して、それが本になりアマゾンから出版されるというのは、やはりありがたいです。

 私は2009年に『総メディア社会とジャーナリズム』(知泉書館、大川出版賞受賞)を出し、「総メディア社会におけるジャーナリズム」のあり方を考察したことがありますが、当サイバー燈台の情報発信とともに、今回のように、そこにある原稿の書籍化もまたその実践だと考えています。

 ご興味のある方は、ぜひアマゾンでご購入ください。都内神田の三省堂書店などでも販売されます。
健康を守り 老化を遅らせ 若返る | 東山明 |本 | 通販 | Amazon

 なお本書は<サイバー燈台叢書>第1号です。「サイバーリテラシー研究所」を出版元に、これから同種の書物発行を続けたいと思っています。とりあえず私が雑誌『広報』で連載してきたコラムのバックナンバーや、Onlineシニア塾の記録などを再編集することを考えています。

<2>Onlineシニア塾の発足と拡大

 本ウエブ「Zoomサロン」をご覧いただければ一目瞭然ですが、昨年5月からOnlineシニア塾を開設しています。

 講座<若者に学ぶグローバル人生>、<気になることを聞く>、<とっておきの話>の3本柱でこれまでに約25回の授業を開きました。<若者に学ぶグローバル人生>では中国、ベトナム、ミャンマー、ネパール、タイなどのアジア諸国やナイジェリア、シェラレオネ、セネガルなどアフリカ諸国の若者などの話を聞き、ほかにミャンマー支援をめぐる討議、アメリカ最新授業報告などの授業も行っています。

 メンバーはメディア関係者、日本語教育指導者、IT起業家、IT専門家、教育関係者、学生など30人近くになります。10月には東京新聞神奈川版で紹介もされています。

 シニアばかりでなく若者のメンバーも増えつつあります。ウエブ上の「Onlineシニア塾への招待」の趣旨に賛同してくださる方は、簡単なプロフィルを送っていただくだけで無料で参加できます。ご興味のある方はinfo@cyber-literact,comまで。

新サイバー閑話(44)

林さんの「情報法」連載ピリオド 

 本サイバー燈台プロジェクト欄の長期連載、林紘一郎さんの「情報法のリーガル・マインド その日その日」が奇しくもこの6月4日、第64回をもって終了しました。私がウエブをサイバー燈台としてリニューアルしたのと、林さんが『情報法のリーガル・マインド』(勁草書房)を上梓したのが同じころで、その機をとらえて、サイバー燈台に寄稿をお願いしたのがきっかけです。原稿料なし、まったくのボランティアというまことに図々しい申し出を快諾してくれたころを懐かしく思い出します。たしかにお互い、歳をとりました(^o^)。

 タイトルに「情報法のリーガル・マインド その日その日」と付けたのは、新著にまつわるエピソードのようなものを気軽に書いていただければと思ったからですが、「闘魂の人」林さんは過去をのんびり振り返ることを潔しとせず、本では十分書けなかったことを敷衍したり、新たに起こった事態に題材を求めたりと、情報法研究の最先端をさらに究めるべく、毎回、大原稿を書いてくださいました。そういう意味では、まさに「情報法 その日その日」の記録ともなりました。まことにありがたく、厚く感謝しています。

 途中で著書が大川出版賞を受賞したときの挨拶や、「法と経済」などさまざまな学会にパネリストやコメンテーターとして参加した報告、さらには長らく学長を勤められた情報セキュリティ大学院大学の最終講義の様子なども挿入されていますから(後半では私の連載、「インターネット万やっかい」に関しても言及していただきました)、硬軟取り混ぜた内容になっていますが、ここには「情報法の現在」が詰まっていることは、ご愛読いただいた方にはご理解いただけると思います。

 林さんは情報法の今後を若い研究者に託したい意向を末尾に添えられていますが、サイバー燈台主宰者としては、アフターコロナの激動が林さんの知的好奇心をさらに刺激し、折に触れて投稿していただける機会もあるのではないかと、勝手に期待している次第です。

 長い間、精力的にご寄稿いただき、ほんとうにありがとうございました。ときどき打ち合わせと称して横浜北口の中華レストランで食べたランチも懐かしい思い出です。

新サイバー閑話(43)<よろずやっかい>⑨

加速する時間のやっかい

 今回のやっかいは、高速で動くコンピュータおよびインターネットの恩恵を受けながら、そのスピードがあまりに速いために私たちの日常的なリズムが追いつけないことに起因する。コンピュータを使いこなすというより、むしろそのスピードに振り回される「やっかい」である。

 その1つの例が、<よろずやっかい>⑥でふれた「等身大精神の危機」だろう。一瞬のケアレスミスが何百億円に上る被害をもたらしたわけで、軽い「引き金」が重大な「結果」を引き起こす高速コンピュータの〝暴走〟。これにどう対すればいいのか。

 個人的にはコンピュータの扱いにもっと慎重になる、画面の警告音を見逃さないという心構えが大事であり、社会工学的には、1つのアクションをより肉体感覚と連動するものにするといったシステム設計が必要になるだろう。

 コンピュータの誤作動を引き起こすバグはなくしてもらわないと困るが、そうでなくても、スマートフォンで住所録の他の宛名にひょっとふれて間違い電話をしてしまったり、翌日になれば怒りがおさまるほどの些細なことがらを感情の赴くままに書きつけ、そのまま送信して炎上という事態を招いたり……、電子の文化のスピードにはついていけないとつぶやく人(とくに高齢者)も多いはずである。やっかいと言えば、まことにやっかいである。

 サイバーリテラシーに引き寄せて言えば、コンピュータをどう使いこなすかという知識(スキル)だけでなく、コンピュータとはどういうものか、それを扱うにはどのような心構えが必要か、コンピュータにまかせない方がいい領域は何か、というリテラシー(基本素養)教育が必要ということにもなる。

 私は林紘一郎さんに誘われて、横浜の情報セキュリティ大学院大学の経壇に立ったことがあるが、当時、こういうことをすると危険である、それは法に違反するという「脅しのセキュリティ」だけでなく、こうすれば快適なIT生活が送れるという「明るいセキュリティ」も大事ではないか、という話をしたことを思い出す。

 このシリーズは「インターネット徒然草」と自認するエッセイ集みたいなものである。「つれづれなるまゝに、ひぐらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。そして、前回の⑧は「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ」という思いが強かったけれど、今回、念頭に浮かんだのは、芥川龍之介の『侏儒の言葉』の一節である。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。

 対象が自然と技術の違いはあるけれども。インターネットを無視して生きていくことはできない。もっとも後段でこうも言っている。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

・『ネットスケープタイム』

 以下、コンピュータおよびインターネットがもたらした時間の変化、加速するスピードについて考えてみる。 

 インターネット初期に「ドッグイヤー」ということが言われた。IT企業1年の成長発展は従来の企業の7年分に相当するという意味である。今はもっと速くなっているかもしれない。

 1995年はインターネットが社会に普及したという意味で「インターネット元年」と呼ばれるが、そのころ活躍したジム・クラークという一起業家が書いた自伝的書物は、ITがもたらしたスピードの変化の生々しい記録である。

 インターネットで扱える情報を活字(テキスト)だけの世界から絵や動画まで拡大した閲覧ソフト、ブラウザーの発明こそインターネット飛躍の原動力だったが、最初のブラウザーはイリノイ大学の学生、マーク・アンドリーセンによって開発され、モザイクと名づけられた。

 クラークは、自分が創業したシリコングラフィックス社を退任に追い込まれた1994年、アンドリーセンの名を聞き、直ちにこの若者に電子メールを出して、2人で新会社を作る。モザイクという名は使えなくないので、同じようなブラウザーを開発してネットスケープと名づけた。マイクロソフトのビル・ゲイツもモザイクをもとにしたブラウザー、インターネット・エクスプローラーを開発して追撃、1995年は2つのブラウザーの機能拡張競争が繰り広げられた年でもあった。

 同年、私はインターネット情報誌『DOORS』を創刊し、付録CD-ROMに両ブラウザーのプラグインソフトを収録していたが、毎月、新たな機能追加が行われ、その対応にてんてこ舞いしたものである。最終的にネットスケープはエクスプローラーに負けてしまうが、クラークの本のタイトルはNetcapeTimeだった(邦題は『起業家 ジム・クラーク』水野誠一監訳、2000、日経BP社)。

 ネットスケープタイム。加速する時間こそが勝負だったわけで、彼は「我々のビジネスでは、安定性や安全は、スピードから生まれる。つまり、競争相手より早く製品を市場に出せということである」、「私の頭の中を占領していたのは、スピードそれ自体ではなく、加速のスピード、特に企業のライフサイクルのペースが加速していることであった」と書いている。

 彼によれば、創業から株主公開までの期間は以下のように短縮した。

ヒューレットパッカード 創業1939 株式公開1957(18年後)
マイクロソフト 創業1975 株式公開1986(11年後)
アップル 創業1976 株式公開(4年半後)
ネットスケープ 創業1994 株式公開1995(1年4ヶ月後)

 製品のバージョンアップについて、こんなことも書いている。「ソフトウェアに問題があっても、ちょっと改良したバージョンとして発表し、後はこれを繰り返せばいい。車が衝突すれば、人が死ぬが、ソフトがクラッシュしてもリスタート・ボタンを押せばよいだけなのだから」、「いつも火を噴くようなトースターを製造している家電メーカーは長く生き残ることはできない。だが、バグだらけで有名な製品を市場に送り出すことでマイクロソフト社は大成功を収めている。発展初期の段階にあるテクノロジーでは、その技術の新しさ故に不完全さの苦労が許される猶予期間があるものだ」。

 ビル・ゲイツには散々煮え湯を飲まされたらしく、「私は、個人的に、ビル・ゲイツは、その一見陽気なオタク的外見の下に、殺人的な本能と、飽くことのない攻撃性を抱いていると確信している。彼の反応は、常に凶暴性を帯びているからだ」、「他社より優れた製品をつくることで競争に勝つというやり方でマイクロソフト社がトップに立ったことは一度もない。なぜなら同社は他社より優れた製品を他に先駆けて世に出したことがほとんどないからである」などと非難している。「今日では、世界を変えようとするのでもなく、何か新しいエキサイティングなことを起こそうというのでもなく、マイクロソフト社に一日も早く買収されるという目的のみを持つスタートアップ企業が増えている」とも。

 このネットスケープタイムがIT企業のみならず、多くの企業のものになった。企業経営ばかりでなく、コンピュータシステムがそれこそ急速に社会に広まるにつれ、私たちの日々の生活もスピード化の波に呑み込まれた。実際、コンマ0秒をはるかに上回る電子の速度で金融取引が行われ、そこでは人間の判断が介入する余地さえない。時間がどんどんスピードアップするのはもはや止めようがない状況である。

・自然農と経頭蓋直流刺激装置

 現代IT社会における時間はいかにあり得るのか。一端に自然のリズムのままに生きる時間があり、他端にコンピュータのスピードと共生する生き方がある。

 本サイバー燈台で古藤宗治氏に「自然農10年」という連載を続けてもらっているが、自然農というのは土地を耕さず、肥料をやらず、ほとんど機械も使わず、土地が持っている本来のエネルギーのおすそ分けで作物を収穫する。生産量は限られているし、1年のサイクルに縛られる。それ以上のことを求めない生き方の典型が第10回で紹介されている。

 私もある初夏、畑を見せてもらったが、むんむんとする草いきれと、農作物のまわりを飛び交うチョウの群舞に懐かしい思いがした。弥生式農業以前の農業と言ってもいい。ここには現代においても経験できるのどかな時間がある。

 その対極にあるのが、コンピュータの力を借りたスピードの世界である。ハラリの『ホモ・デウス』に、米軍が訓練と実践の両方で兵士の集中力を研ぎ澄まし、任務遂行能力を高めるためにやっている実験が出ている。経頭蓋直流刺激装置という、いくつもの電極がついたヘルメットをかぶると、微弱な電磁場が生じ、脳の活動を盛んにさせたり抑制したりするのだという。

 某誌の記者がその実験を体験した話が出ている。

 最初はヘルメットをかぶらずに戦場シミュレーターに入ったら、自爆爆弾を装着し、ライフル銃で武装した覆面男性20人がまっしぐらに向かってきて、「なんとか1人撃ち殺すたびに、新たに3人の狙撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった」。そのあとヘルメットをつけると、「20人の襲撃者が武器を誇示しながらこちらに駆けてくるなか、私は落ち着き払って自分のライフル銃を向け、間を取って深呼吸し、最寄りの敵を狙い撃ちにしたかと思うと、そのときにはもう、静かに次の標的を見極めていた」、ほんの一瞬の出来事のように思われたが、すでに20分が過ぎ、彼女は敵20人全員を倒していた。

 コンピュータを使えば、通常の頭の回転スピードを上回る速度を獲得できるということだろう。こういう装置はどんどん開発が進み、私たちはそれらで武装し、いよいよ「ホモ・デウス(神の人)」になっていく、というのがハラリの予想だった(博学の発明家、レイ・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン」が典型的である)。

 コンピュータに限らず、文明の発展にともなって私たちの時間が加速しているのは間違いない。足で歩く→自転車に乗る→鉄道を利用する→車→飛行機と、交通手段の発達はまさにスピードアップの歴史であり、電信、電話などの通信手段もまた時間の克服に大きく貢献した。

 スティーヴン・カーンはTHE CULTURE OF TIME AND SPACE(1880-1918)(1983、翻訳は『時間の文化史』『空間の文化史』の2分冊、浅野敏夫他訳、法政大学出版局)で、「1881年頃から第1次大戦が始まる時期において、科学技術と文化に根本的な変化が見られた。これによって時間と空間についての認識と経験にかかわる、それまでにない新しい様態(モード)が生まれる。電話、無線、X線、映画、自転車、飛行機などの新しい科学技術が、この新しい方向づけの物的基盤となった。一方で、意識の流れの文学、精神分析、キュビズム、相対性理論といった文化の展開がそれぞれに、人の意識を直接形成することになった」と述べている。

 私は常々、サイバー空間の登場は人類史を2分できるほどの出来事である(BC=Before CyberspaceとAC=After Cyberspace)と述べてきたが、その最大の特徴は飛躍的スピードの増大にこそ求められるかもしれない。

・快適な時間とはどのようなものか

 IT社会を快適(幸福)に生きるためには、結局、高速化する社会(サイバー空間)との距離をうまく取る才覚が必要だということになりそうである。

 個人にとって快適な時間とはどのようなものか。

 のんびり屋、せっかちなどの性格にもよるし、年齢にもよる。年齢にはその人が生きてきた時代の時間が大きく影響しているだろう。若いころ感激し、あるいは血沸き肉躍る経験をしたハリウッド映画を見直してみると、やはりかったるい思いをする。私自身、学生時代に感激した『ウエストサイド物語』にそれを強く感じた。一方で、ゲームをしている孫の手の動きを見ていると、驚くほど速い。

 これは一部のSFファンの間では有名な話のようだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』などの作者が提唱した「ダグラス・アダムスの法則」というのがある。

人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる。

 年代区分はともかく、マーシャル・マクルーハン的な警句として興味深い。たしかに、インターネットはもはや大半の人には技術というより所与の環境になっている。この説に言及した「いまIT社会で」は異論も紹介しているが、これも時代とともに快適な時間が変わっていくことと関係しているだろう。

 個人差はあるけれど、個々の人間にとってそれぞれの快適な時間、速度(スピード)があるというのも確かだと思われる。

 たとえば、バイオレゾナンスというドイツ発祥の治療法では、病気の原因となる体内の気(エネルギー)には固有の周波数の波動があり、同じ周波数の波動で共鳴を起こすと、気の滞りが解消、病気が治ると言っている。「滞りと同じ周波数の波動による共鳴現象によって滞りが消えて再び気が活発に流れるようになる、これが健康を取り戻すということだ」(ヴィンフリート・ジモン『「気と波動」健康法』2019、イースト・プレス)。

 個人差もあり、それは日によっても異なるけれど、その人固有のリズムというものを大事にすることが、目まぐるしく変化するIT社会においてはとくに重要である。それが才覚である。そのためには、四六時中、つまりひぐらしパソコンやスマートフォンにかじりついて、サイバー空間の影響を受け続けるのではなく、一定の距離を置く。つまり、日々の生活の軸足を現実世界に置く意識を忘れない。そうすれば、インターネットの影響を少しは対象化して考えることもできよう。ファーストフードに対してスローフードの運動もあるように、人それぞれに自分にあうスピードを大事にするしかない。

 <よろずやっかい>➆の最後にふれたように、技術がもたらした問題の多くは技術によって解決できるはずである。サイバー空間と現実世界の接点における快適な時間の確保ということに関しても、秀逸な<よろずやっかい解決アイデア>が求められるとも言えよう。ノーベル賞級か、あるいはイグノーベル賞級の。

 ちょっと話がそれるが、この稿を書き上げたころ、友人が「最近の政治の動きは腹立たしいばかりで、ときどき藤沢周平の小説や小津安二郎の映画を見るようにしている」と言っていた。たしかに小津安二郎の映画にはゆっくりした時間が流れている。「君、どうなの?」、「どうってこともありませんわ」、「そうかねえ」、「そうですよ」なんていうセリフも懐かしい。

 当面は才覚で切り抜けるしかない、やっかい

 

新サイバー閑話(42)<よろずやっかい>⑧

日本社会特有のやっかい

 インターネットは世界同時に進行する情報革命だから、その影響もグローバルに現れるわけだが、やはりその国の従来の社会構造によって変化の態様は異なってくる。私はかつて「IT技術は日本人にとって『パンドラの箱』?」というタイトルで、インターネットが与える日本特有の影響について考えたことがある。そのとき念頭にあったのは、日本人とインターネットの相性は必ずしもよくないということだった。

 日本社会はインターネットによってどのように変化しつつあるのかを、日本社会をめぐる典型的な2つの見解、社会人類学者、中根千枝の「タテ社会」と、歴史学者、阿部謹也の「世間」を手がかりに考えてみよう。

 中根千枝は1967年に『タテ社会の人間関係:単一社会の理論』(講談社現代新書、初出は「日本的社会構造の発見」雑誌『中央公論』1964年5月号所収)を発表し、日本社会は欧米などとは違うタテ型の人間関係によって成り立っていると述べた。「世間」は古くからある言葉だが、阿部謹也は『「世間」とは何か』(1995、講談社現代新書)、『「世間」論序説』(1999、朝日選書)、『日本人の歴史意識』(2004、岩波新書)などの著作で「世間」がいかに日本人の行動を規定してきたかを論じた。

 本稿のテーマは、その後のインターネット発達によって日本社会はタテ型からヨコ型(ネットワーク型)にシフトしつつあるのか。「世間」はインターネットによってどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか。そして、それらの事情が日本社会にどのような影響を与えているのか、ということである。

 結論的に言えば、日本社会はインターネットがもたらす変革の波に真正面から向き合ってこなかったために根底から揺るがされ、①その過程で社会の長所は失われ、逆に短所は増幅されている、②しかも変革の時代に対応する新しい社会システムはいまだ生み出されておらず、日本社会はいよいよ混迷の度を深めている、ということである。<よろずやっかい>⑥の最後に「古い秩序が持っていた長所もまた消えていく」と書いたけれど、その根はきわめて深い。ここに「日本社会特有のやっかい」がある。

・「タテ型」はだらしなくゆるんでいる

 欧米では(アジアのインドなどでも)「資格」が問題とされるのに対して、日本では「場」が問題とされる――これがタテ社会論の骨子である。タテにつながる序列が重視される結果、日本企業の終身雇用制、年功序列賃金、家族ぐるみの労務政策、企業内組合などの特徴が生まれた。

 『タテ社会の人間関係』には「一体感によって養成される枠の強固さ、集団の孤立性は、同時に、枠の外にある同一資格者の間に溝をつくり、一方、枠の中にある資格の異なる者の間の距離をちぢめ、資格による同類集団の機能を麻痺させる役割をなす」、(年功序列制に関係して)「個人の集団成員との実際の接触の長さ自体が個人の社会的資本となっている……、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAからBに変わるということは、個人にとって非常な損失となる」という、ある程度年配の人なら(とくにタテ社会をヨコに生きようとした私の場合)身につまされる記述もある。

 この辺の事情は、当然のことながら、インターネットによって劇的とも言えるほどに変わった。いまや終身雇用制は崩れつつあり、転職する人は増え、ヘッドハンティングもめずらしくない。資格が重視されるようになった面もあり(資格取得が一種の流行ともなっている)、「枠」集団としての一族郎党、あるいは家の求心力は減退している。つい最近まで「社畜」だと揶揄されていた企業従業員も、いまでは非正規雇用が4割を占め、家族ぐるみの雇用形態はほとんど消えつつある。

 日本人を縛る「場」の力は明らかに弱まっている。転職すれば必ず給料が下がることもないし、上司が仕事帰りに部下を赤ちょうちんに誘う行為もときにパワハラであると非難される。会社主催の忘年会、新年会もだいぶ様子が変わってきた。

 日本社会がヨコ型にシフトしているのはたしかだが、問題は、タテ社会の絆が緩んだ割にはヨコ型の連携、あるいは競合が密になったようには思えないことである。タテ社会という基本構造(骨組みとしての枠)は残っているが、だらしなくゆるんで形骸化しつつある。その結果、組織のタガは緩み、働く人びとのアイデンティティは薄れがちである。

 内部はシロアリに食い尽くされながら外見は保っているマホガニーのドアのようで、一蹴りすれば一挙に崩れそうで、しかもなかなか崩れない。その間に食品の不当表示、製品の検査結果改竄などの企業不祥事が多発している。

 中根は、連帯性のない無数の大小の孤立集団を束ねるものとして中央集権的政治組織、いわゆる官僚機構に着目し、「日本社会における社会組織の貧困が政治組織の発達をもたらした」と述べているが、それを支える官僚たちの使命感はすっかり薄れ、省益と天下りと政権への忖度だけが幅を利かせている。タテ社会空洞化の象徴とも言えよう。

・「世間」という身の回りの世界

 日本社会の宙ぶらりんな現状は「世間」を通して、よりはっきり見えてくる。

 世間という言葉はもともと、移り変わる世をさす仏教用語だが、私たちの回りを取り囲むぼんやりとした集団として、万葉の昔から意識されていた。阿部謹也は「仕事や趣味や出身地や出身校などを通して関わっている、互いに顔見知りの人間関係」だと述べている。

 ひと昔風に言えば、地域の青年団だったり、学校共同体だったり、会社組織だったり、あるいは作家などの文壇だったり、企業内組合だったり、弁護士団体だったり……、私たちはいくつもの世間に取り囲まれて生活してきた。この世間という場がタテ社会を形づくってきたとも言えよう。

 個人(individual)も社会(society)も明治初年に外来語として輸入され、社会科(公民)教科書などでは、個人が集まって社会を構成するという西欧的な考えが教えられたけれど、それを教える教師も、教えられる生徒も、彼らの家族も、地域の人びとも、自分たちは世間を生きていると感じてきた。世間は学問の対象にならず、それゆえにかえって強い力を発揮した。

 世間の特徴の最たるものは、個人が存在しないこと、内と外を区別することである。身内にはやさしく、他人には冷たい(あるいはよそ者として無視する)。内と外に対しては異なった道徳が適用され、欧米流の個人は社会を作り、社会はどこまでも広がっていくという発想は育たなかった。世間は「差別の道徳」、内と外のダブルスタンダードである。また世間は生まれ落ちた時から身の回りにあり、したがってそれを変えるという発想も育たず、「長いものには巻かれろ」式の事大主義的発想が強かった。

 阿部は「日本人は一般的にいって、個人として自己の中に自分の行動について絶対的な基準や尺度をもっているわけではなく、他の人間との関係の中に基準をおいている。それが世間である」と言っている。

 中根の本に、日本の学者が海外で同僚研究者に言及されたとき「彼は私の後輩である」と言ったとかいうエピソードが紹介されているが、彼もまた世間の住人だったわけである。

 世間論が話題になった二十数年前、阿部謹也や佐藤直樹のような人が強調していたのは、戦後日本においても世間は衰えるどころかかえって強固になって、高度経済成長を支えてきたということだった。

 さて、インターネットと世間はどう関係しているのだろうか。

 若い人が世間を意識することはあまりないと思うが、それでも「世間の目」とか、「世間体が悪い」とか、「世間に対して申し訳ない」というような言い方は聞いているだろう。ここに世間が残っている。

・「世間」が「社会」への目を曇らす

 1対多の関係で個人が社会と向き合わざるを得ないIT社会は、日本人が個としての主体性を確立できるチャンスかもしれないと私は思ってきたが、期待は裏切られたようである。ここに世間が強い影を落としている。

 問題は、グローバルに開かれているはずのインターネット上にも世間は存在するということである。むしろ、しぶとく生き残っていると言った方がいい。世間は主として顔見知りの人びとからなる比較的小さな集団だから、「サイバー空間における世間」というのは理屈の上でも、規模から見ても矛盾だが、サイバー空間上でいびつに変容した「世間」がその良さを失うととともに、日本人の「社会」への関心を曇らせている、というのが私の見方である。<よろずやっかい>➆でふれた「サイバー空間の行動様式が現実世界に逆流する」傾向のために、これが現実世界にも無視できない影響を及ぼしている。

 Web2.0でブログが話題になったころ、日本の多くのブログは必ずしも社会に向かって何かを発言し、それについて意見を交換するという構えをとらず、むしろ仲間うちのおしゃべり道具として使われた。「眞鍋かをりのココだけの話」というタイトルが象徴的だが、井戸端会議の延長のように考えられたのである。また、はてなとかニフティとかいったIT企業が日本人のために用意したブログサイトには、ネット上に「共同住宅(世間)の心地よさ」を保証する工夫もほどこされていた。人びとは原則的には開かれた場所で情報発信しながら、ある程度隔離された仲間内の空間にいる幻想を与えられたと言っていい。

 若い人の場合、ブログが社会に開かれているという意識すら希薄だった。文章も第三者が読んでもチンプンカンプンの場合が多く、仲間(身内)に伝わりさえすればいいので、もともと第三者(他人、よそ者)に読んでもらおうと思っていない。

 それは、インターネットというメディアに対する無知、あるいは無関心に基づいていたが、当の本人たちはそれでいっこう差し支えなかった。もちろんブログの性格はさまざまで、堂々たる論陣を張ったり、自分の知見を惜しげもなく公開したりして、多くの人に読まれている質の高いブログもある。また、仲間うちのおしゃべりがいけないわけでもない。<よろずやっかい>⑤で紹介した梅田望夫の「日本のWebは残念」という感想は、「サイバー空間における世間」によってもたらされたと言えるだろう。

 この「開かれたインターネット」上の「閉ざされた空間」という矛盾(というか幻想)は、日本社会に何をもたらしたか。

 第1は、世間がいびつに変容する過程で、身内だけに限られていたとはいえ、それなりに機能を果たしていた内なる道徳も失われたことである。外からの闖入者に対してまともに対応しない。あるいは外から傍若無人に侵入する。そこでは「炎上」は起こっても対話は行われない(村八分的ないじめはなお猛威をふるっている)。

 世間の内と外を区別するダブルスタンダードはなし崩し的に溶融し、スタンダードなしという無法状態が出現している。タテ型の仲間内の道徳は消え、しかもヨコ型の普遍的倫理は生まれない。そこでは、道徳的な身のこなしそのものが消えている。

 そして第2が、より重要だと思われるが、サイバー空間上に居座る「世間」が、日本人から「社会」に向かう視点をますます奪っていることである。そのため、グローバルな社会を生きていくための行動基準が生まれない。かくして「何をやってもよい、何も禁止されていない」という「何でもあり」社会が出現し、「禁止事項が破られ、事実上無法状態」に陥っている。

 社会心理学者の山岸俊夫は1998年の時点で『信頼の構造』(東京大学出版会)を書き、日本人は世間の中で「安心」を調達するのではなく、グローバル化する社会を生き抜くための「信頼」を勝ち取る生き方に踏み出すべきだと説いた。彼は「世間」という言葉は使っていないが、論旨は、世間という集団主義的な社会に生きる日本人に世間からの脱却を促したものと言っていい。そのブースター(推進力)として彼が力説したのが「信頼」という行為である。

 その主張はこうである。

集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する。日本人は内部の人間関係に安心を見出しているが、外部の人間は他者として排除する(信頼しない)。
流動性が高まるこれからの社会においては、安心という消極的な態度ではなく、信頼(する)というより積極的な態度をとることが賢明な生き方になる。このような社会の変化に直面して、どうしたら集団の枠にとどまらない広い一般的信頼を人々の間に醸成することができるかを考えることは、現在の社会科学あるいは人間科学に与えられた重要な課題の1つである。

 彼は、他人を信頼するという行為が所属する集団を離れた新しい人間関係を築くのに役立つという「信頼の解き放ち理論」も提唱した。日本人らしさは日本社会を生き抜くための戦略だったに過ぎず(「日本人は集団主義的な心の持ち主であるというのは「神話」である」)、だから社会システムを変えれば日本人の行動スタイルも変えられるとも主張した。

 その社会システムを変えようとする発想が日本社会からなかなか生まれない。世間はしぶとく生き残っているとも、すでに溶融しつつありながら、残滓(残骸)がなお威力を発揮しているとも言えるだろう。

 なぜ安倍首相は身内(世間)本位の政治を強行しながら、その異常さをたしなめる声が周辺(家族、派閥、支持者など)から上がらないのか、国民はなぜそのような政権をいまだに支持しているのか。ここに「世間」をめぐる日本社会の宙ぶらりんな状況が反映している。

 これは<よろずやっかい>④で取り上げた「人間フィルタリングの解体」とも関係するが、昨今の政治状況の混乱は、「変容する世間の悪影響」を通して考えないと、説明がつきににくい。

 ひと昔前まで不祥事を起こした企業経営者や政治家は記者会見で口をそろえて「世間を騒がせて申し訳ない」と謝った。自分の罪を認めるのではないが、新聞紙上で取り上げられたり、逮捕者が出たりして、世間(会社、派閥、役所など)に迷惑をかけた責任を取るという論法だった。ところが森友・加計問題、桜を見る会などの疑惑に関して、安倍首相から「世間を騒がせる」という表現すら聞いたことがない(「安倍首相」&「世間」で検索したかぎりでは、本人の発言と世間を結びつけるものはなかった)。「世間」にどっぷりつかった政治をしながら、頭の中では「世間」が消えているようなのだ。

 日本人論の古典、ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、日本文化の型を「恥の文化」と規定した。欧米型の罪の文化は内面的な規範に従おうとするが、恥の文化は外面を保つことを優先すると言ったわけで、恥の文化を生んだのも世間だったと言える。しかしいま、一部の日本人から恥の文化も消えつつあるのは確かである。

 阿部謹也は世間の意義をそれなりに認め、世間を個人と社会の媒介項にできないかと提言したことがある。「現在、私たちは『世間』という観念を相対化しなければいけない状況にあります。『世間』のなかに個が縛られている状況を脱却しなければいけないと私は考えていますが、しかしそれと同時に『世間』が持っていたかつての公共性的機能を失うことなく保持することができるかどうかも大問題です」。残念ながら、世間は個人と社会の媒介項にはなりえなかったのではないだろうか。

 また、山岸は後に書いた『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(2008、集英社)で、「戦後日本で長らく続いてきた集団主義の『安心社会』はもはや時代遅れのものとなり、日本もまたアメリカのような開放的な『信頼社会』へと変化しつつあるという印象を受けます」と述べる一方で、「残念ながら、今の日本人は信頼社会にうまく適応できているとはとうてい言いがたい状況であると考えます」、「本来ならば、安心社会の崩壊は既得権益を持った大人たちの危機であり、信頼社会の成立は未来ある若者たちにとっての福音であるはずです。それなのに、その若者たちが信頼社会への変化を嫌い、身の回りにある友人関係という小さな安心社会にしがみつき、その中での『平安』を求めているとしたら―これは日本の将来にとっても、また若者たち自身の未来にとってもゆゆしいことと言わざるを得ません」とも述懐している。

 まことに悩ましい日本の現状がここにある。

・「社会」に目を向けない政治

 世間も一つの社会資本(ソーシャルキャピタル)だと考えると、現下の政治や経済の動きは、従来世間が持っていた長所を積極的に解体しながら、それに代わる新たな社会資本は築こうとしない、というより深刻な問題が浮かび上がる。

 個人の視点で考えると、世間に包まれていた安心は無残に奪われ、IT社会に剥き出しで放り出されるようなものだが、皮肉なことに、こういう政治状況を私たちがむしろ支えているわけである。

 今春闘を前に経団連(経済団体連合会)が発表した「2020年版 経営労働政策特別委員会報告」は「新卒一括採用や終身雇用、年功型賃金を特徴とする日本型の雇用システムは転換期を迎えている。専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要」と述べている。 

 日本型雇用システムの見直しという提言自体、すでに新味がないとも言えるが、従来の企業経営が引き受けてきた従業員丸抱え雇用のくびきから解放されたいという思いが前面に出ている。メンバーシップ型(新卒者を定期採用して社内教育によって一人前に育てる)からジョブ型(すでにスキルを持っている人材を採用する)に変えようというのは、一見、時代の波に適合しているように見える。しかし会社ぐるみの教育や福祉政策は重荷なのでやめたいと言っているに等しく、それに代わる社会的な教育方法、労働市場、あるいは福祉政策をどう進めるかについては言及がほとんどない。

 国内労働力が不足なら安い外国人労働者を雇えばいいとか、かけ声だけの「一億総活用社会」とか「働き方改革」などみな同工異曲である。日本の古いしがらみ(社会資本)は捨てるけれど、IT社会の今後にどう取り組めばいいのか、新しい社会資本をどう築き上げるべきなのか、日本はグローバル時代をどう生きてくのか、といったことへの真摯な取り組みは見られない。

 自分の仲間だけが、あるいは自分の任期中(生きている間)さえよければいいという、まさに阿部の言う「歴史意識の欠如」がいよいよ如実である(「政治家達も日本の将来などと口にするが、決して日本の将来を自分の今日の行動の中で考えているわけではない。彼らが考えているのは彼らの『世間』の中で今日をどう生きるかということだけである)。

 冒頭でも述べたが、日本人はインターネットの波にうまく乗ろうとするだけで、それが日本社会にもたらす影響に真剣に対応してこなかった。私は「IT技術は日本人にとって『パンドラの箱』?」の最後を、「社会システム全体が『組織』から『個』へと大きくシフトするとき、この新しい道具(インターネットのこと:引用時注)は日本人の『個』を育てないのみならず、かえって全体の『空気』を一方的に拡大する奇妙な装置として働きかねない。ITを金儲けの道具や便利さ追求の観点のみで使っていると、そこに出現するのは、『オープンな道具を使った不寛容な日本』という悪夢である」と書いたけれど、日本社会はいよいよ混迷の度を深めていると言っていい。

 ハラリの言うデータ至上主義によって、私たちの「個」そのものがばらばらに解体され、西欧的な個人主義の考え方そのものが試練に立たされている今、私たち日本人は待ったなしの状況に追い込まれている。

         混迷の度をいよいよ深める、やっかい

新サイバー閑話(41)<よろずやっかい>➆

ネットの行動様式が現実世界に逆流するやっかい

 私は、在特会(在日韓国人の特権を許さない市民の会) の参加者が、聞くに堪えないような激しく下品な言葉を投げつける心理がよくわからなかった。あんなことを面と向かってよく言えるものだと思っていたのである。

 その謎は、安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(2012、講談社)というすぐれたドキュメンタリーを読んで解けた。在特会の参加者たちは、ネットを通して集まり、ネットで悪口雑言を書きつけると同じ感覚で、目の前の人びとに過激かつ下劣な発言を浴びせていた。目前の在日韓国人を「見て」いるわけではなく、自らの内なるルサンチマン(憤り・怨恨・憎悪などの感情)を見て、と言うか、それに駆り立てられて、ただ闇雲に叫んでいるようである。

 本書によれば、在特会のデモに参加するのは日ごろから自分の境遇に強い不満を持っている人が多く、「市民の会」と名乗っているけれど、現実世界における相互の連絡というか、つながりはほとんどない。ネットのみを介して広がった団体で、彼らは現実の集会でも、ネットと同じように仮名しか使わない。

 社会から取り残されて行き場のない不安や怒りを抱えた人びとが、その怒りの矛先を自分よりも恵まれない在日韓国人などにぶつけている。いや、自分たちより恵まれないはずなのに、特権を得てぬくぬく生きているという誤った情報をもとに、それを仲間内で拡散しながら、デモに参加、うっぷんを晴らしている。

 彼ら自体、生活基盤をほとんと喪失しているので、言動はネットの書き込み同様、激越なものになる。現実世界ではほとんど惰性で生き、在特会デモという特殊な空間でのみ過激に生きる、そしてデモが終わると、すっきりした気分になって、たとえば、淋しいアパートの一室に帰っていく。パソコンやスマートフォンの電源を切ればすべてが消えていくように、自分の行動も忘れていくように思われる。

 こんな参加者の感慨も記されている。「はっきり言えば……酔いました。自分は大きな敵と闘っているのだという正義に酔ったんですよ。いまとなってみれば、なぜに在日を憎んでいたのかは自分でもよくわかりません」、「在日が、なんとなく羨ましかった。……僕らが持っていないものを、あの連中は、すべて持っていたような気がするんです」。

・現実世界で孤立した人びと

 著者は「私が接した在特会の会員は、友人や家族には活動のことを隠していたり、または最初から理解させる努力を、なかばあきらめているケースがほとんどだった。この運動は、あくまでもネットを媒介として進められる。けっしてリアルな人間関係から生まれたものではない」、「事件当日の様子はすべて在特会側によってビデオに撮影され、動画投稿サイト『YouTube』『ニコニコ動画』に即日アップされている。それらを映した動画は大量にコピーされ、一時期はネット上を埋め尽くす」、「恐ろしいことに、このような『在特特権』のデマは、何の検証もなしにネットでどんどん拡散されていく。それを見て『真実を知った』と衝撃を受け、在日を憎む人々が増えている」などと記している。

 だから彼らは、ネットの中(サイバー空間)と同じように現実世界で過激にふるまう。現実世界の人的、地理的な制約がなく、周囲にブレーキ役もないネットの言動が、現実世界に流れ出て、大きな力になり、それが現実世界を動かしている。在日韓国人たちに肌で接触することも、直接の悩みを聞くことも、彼らの存在についてゆっくり考えることもない。

 著者は在特会の現、あるいは元活動家にも果敢にインタビューし、次のような興味深い発言を引き出している。

「ネット言論をそのまま現実世界に移行させただけなんですよ。要するにネットと現実との区別がついていないんです」、「在特会ってのは疑似家族みたいなもんだね」、「地域のなかでも浮いた人間、いや地域のなかで見向きもされていないタイプだからこそ、在特会に集まってくるんです。そして日の丸持っただけで認めてもらえる新しい〝世間〟に安住するんです。……。朝鮮人を叩き出せという叫びは、僕には『オレという存在を認めろ!』という叫びにも聞こえるんですね」、「連中は社会に復讐しているんと違いますか?私が知っている限り、みんな何らかの被害者意識を抱えている。その憤りを、とりあえず在日などにぶつけているように感じるんだな」。

・日本人の行為から消えた「佇まい」

 在特会に集う人びとは、現実世界のどちらかというと下層に住む「うまく行かない人」(一登場人物の表現)、屈折した信条をもつ人、社会にもやもやとした不満と憎悪を持つ人びとであり、それがネット内の書き込みを通じて在特会に引き寄せられた。彼らはスケープゴートとして在日韓国人とその「特権」を見つけたのである。

 著者は「在特会を透かして見れば、その背後には大量の〝一般市民〟が列をなしているのだ。私が感じる『怖さ』はそこにある」、「在特会は『生まれた』のではない。私たちが『産み落とした』のだ」とも述べている。

 2016年のアメリカ大統領選でトランプ大統領に投票したと言われる、東部から中西部に広がる「ラストベルト」(さびついた工業地帯)の白人労働者の心情ともダブるところがあるように思われる。

 ついでながら<よろずやっかい>⑤に関係することとして、「ネット言論では〝激しさ〟〝極論〟こそが支持を集める」と述べた後で、リベラル派の退場について、「彼らはそうした〝大衆的な〟舞台から降りることで、いわばネット言論をバカにした。いや、見下ろした。結果、大衆的、直情的な右派言論がネット空間の主流を形成していく」という興味深い指摘もあった。

 在特会はネット社会の落とし子である。現実世界で孤立していた人びとがネットで結びついて街頭に出てきた。その時にネットでの行動様式をそのまま現実世界に持ち込んだ。聞くに耐えないような罵詈雑言の温床はネットにあったというべきである。

 少し古いが、一時期、出版危機について精力的な発言を続けていた小田光雄(『出版社と書店はいかにして消えていくか』や『ブックオフと出版業界』)は日本人の行動がかつて持っていた「佇まい」について、以下のように記している。

昔でしたら、駅弁を買うとフタの裏側についている御飯を食べることからはじめるというのが当り前で、駅弁を食べる姿にもそれなりの佇まいがありました。それがひとつの食の文化ではなかったでしょうか。……。食べ物が捨ててある風景も日常茶飯事のものとなりました。食事なら捨てられませんが、エサだから捨てるんではないでしょうか。……読書が精神の営みではなく、単なる消費的行為になった。本が精神にかかわるものなら捨てられないが、消費財や単なる情報だったら簡単に捨てることができる。

「佇まい」という言葉はすでに死語になったようだが、昨今における国会論議(首相答弁)の殺伐とした光景を見ると、ここにもネットの行動様式が現実世界に逆流している影響を感じざるを得ない。

 かつて私はすべての人が情報発信できる時代には、万人が「情報編集の技術」を身につけ、ネットの環境を美しくすべきだと主張してきたが、ネットの情報環境がどこまで美しくなっているかはともかく、サイバー空間における悪しき行動様式が現実世界に逆流し、それが現実世界をいよいよとげとげしいものにしている。

 ここにもIT社会の深い闇がある。何もかもインターネットのせいにするのは技術決定論だと批判されるかもしれないが、インターネットという技術はそれほどの強い力を持っている。

 そして、在特会を力で押さえつけても、あるいは現実に彼らの行動を規制できたとしても、問題を根本的に解決するのは難しい。ここには政治の貧困が横たわっているが、在特会に集うかなりの人びとが、これら底辺の社会問題を正面から解決しようとしているとは思えない安倍政権に抗議せず、むしろ支持さえしているのは皮肉である。

 ネットの行動様式が現実世界に逆流し、それが現実世界を動かすパターンの変種としては、以下のようなケースもある。

 政権シンパがネットを使って、自分たちの気に入らないイベントを「税金を使って〝非中立的な〟政権批判するのは許されない」などと騒ぎ立て、それを一部の政治家や著名人が受け、あるいはそれを扇動して、イベントを主催する役所や管轄官庁に圧力をかける。それに役人が唯々諾々と従う。

 こういう風景は日常茶飯になっているようだが、その変種、と言うより亜種について、<令和と「新撰組」⑤>で取り上げているので参照してほしい。

見れども見ない、やっかい

 恒例となった冬の避寒旅行で、今年はマレーシアのペナン島に来ている。到着早々、インターネットの配車サービスを使ったら、近くでコールを受けてくれたドライバーが「耳が不自由だけれどいいですか」と聞いてきて、了解の返事を出すと、ほどなくやってきた。しゃべることもできないが、インターネットならそれでつとまるわけである。乗車地も降車地もスマートフォン上の地図に表示されるし、代金も自動決済、何の問題もない。ドライバーは実に気のいい若者だった。

 ちなみに宿はインターネットの宿泊施設斡旋サイトで探した。コンドミニアムには日本各局のテレビ番組も配信されているから、日本にいたときと同じように「カラオケバトル」や「ポツンと一軒家」などを見ている。インターネットの便利さを十分に堪能しているわけである。

 それでも書きつける<インターネット万やっかい>である。

 読者(がいるとして)の中には、インターネットの影ばかりでなく、光についても言及すべきであるという意見が、あるいはあるかもしれない。たしかに、やっかいな問題を解決することこそがサイバーリテラシーの使命だが、何がやっかいなのかを明らかにするのが先決である。だからこのシリーズはなお続けるつもりだが、その後で、あるいはそれと並行する形で<よろずやっかい解決アイデア集>のようなものも始めたいと考えている。

 技術がもたらした問題の多くは技術で解決することが可能だろう。法による規制も有効である。ローレンス・レッシグがかつて述べたように、コンピュータのプログラム(アーキテクチャー)で工夫することも試みるべきだし、市場が解決に一役買うチャンスもある。さらに言えば、IT社会を生きるための基本素養(リテラシーと処世訓)を教える教育の役割も大きいと思われる。 

 これこそ周知を集めるべきテーマである。知人や読者の皆さんからもアイデアを教えていただき、それを紹介できればと思っている。堂々たる論考をお寄せいただけると望外の幸せでもある。以上、今後の心づもりを述べつつ、ご協力をお願いする次第です。

 

新サイバー閑話(40)<よろずやっかい>⑥

既存秩序の崩壊とアイデンティティ喪失のやっかい

 トランプ米大統領の突然のイラン攻撃とかカルロス・ゴーン元日産自動車会長の劇的日本脱出などに比べると、話は一気に小さくなるが、新年20日の通常国会での安倍晋三首相の施政方針演説はひどかった。

 昨年後半の大きな政治問題となった首相主催の「桜を見る会」に関しては、年をまたいでも関連文書の廃棄をめぐり内閣府の歴代担当者が処分されるなど紛糾しているのに、これに関して一切ふれず、政権が成長戦略の柱に位置づけてきたカジノを含む統合型リゾート施設(IR)に関しても、元内閣府副大臣(衆院議員)らが汚職をめぐり逮捕、起訴されているのに、これにもいっさいふれなかった。

 多くの国民が桜を見る会の首相説明は不十分と考え、IR推進に関しては強い異論もあるのだから、まずこのことにふれ、真相究明への努力を約束するなり、混乱に対する責任に言及するなり、何らかの態度を表明するのが一国の首相としてやるべきことだと思われる。

 安倍首相は、それをしない。

 その代わりに、今夏開催される東京オリンピック、パラリンピックを成功させようと訴え、日米安全保障条約署名60年の節目にふれて、日米同盟の強いきずなを誇示した。あとは政権のスローガンを羅列しただけとも言えるが、最後に改憲にふれている。意外なほどのわずかな分量だが、意欲が減退したと言うよりも、大事なことをさりげなく、かつ電撃的に、あっさり強行する「衣の下の鎧」が透けていると見るべきだろう。しかもそこで、あろうことか「未来に向かってどのような国を目指すのか。その案を示すのは国会議員の責任ではないでしょうか」と、野党議員の〝奮起〟を促した。

 盗人猛々しいと言うべきだろう。

 国会を無視、とまで言わなくても、軽視してきた当の本人が、自らの「悲願」である改憲に関してのみ、国会議員の責任を果たせなどと言う神経は常人には理解できないことである。

 安倍政権は発足以来、既存制度に組み込まれていた、民主主義を健全に運営するためのチェック機能を解体し、多くの憲法学者が違憲とする集団的自衛権容認を閣議決定するなど、自らの政策を強引に推し進めてきた。一方で森友、加計問題などの不祥事に関しては、のらりくらりと他人ごとのような答弁を繰り返し、挙句の果ては、肝心の証拠書類を官僚に改竄させている(官僚が勝手にやったことになっているけれど、忖度の任を果たした彼らにはその後の処遇で応えた)。こういった政権のあり方を「『非立憲』政権によるクーデター」と批判した石川健治東大教授の論考については、本<新サイバー閑話>の別稿でふれたのでそちらを参照してほしい。

 盗人猛々しいと言えば、自民党が昨年暮れ税制改正大綱を提示したとき、三木義一・青山学院大学長は、桜を見る会で税金の使い方が問題にされているときだっただけに、「税を公正に使ったことを証明できない人たちが税制を『改正』する」ことの不条理を指摘していた(東京新聞2019.12.13)。

 問題はこういうことではあるまいか。

 平気で嘘をつき、国会での野党質問に誠実に答えないような人物がなぜ総理大臣なのか、さまざまな不祥事にもかかわらず、なぜいまだに独裁的な力を誇示できているのか、安倍政権の閣僚たる人びとはなぜ「安倍首相はポツダム宣言を当然読んでいる」「安倍首相の妻・昭恵氏は公人ではなく私人」などという奇妙な閣議決定を連発しているのか、官僚たちはなぜ唯々諾々と政権の意向を忖度し、それに従うのか。野党の反撃はなぜかくも手ぬるいのか、メディアはなぜ問題の所在を的確に報道しないのか。それより何より、なぜ今なお、かなり多くの人びとが安倍政権を支持し、これでいいのだと思い続けているのか。

 この現代日本の深い病根の背景にも「デジタルの影」がある、というのが今回の<よろずやっかい>のやっかいなテーマである。

 ここにはインターネット発達以来、現実世界と並行するように、あるいはこれと入り混じるように成立したサイバー空間が既存秩序を突き崩しつつある現状が反映されている。もちろんその崩壊には、改善されてしかるべきものも多かったが、一方で人びとが長い間の生活で守り育ててきた地道でまっとうな生き方もまた同時に失われた。安倍政権をめぐる政治状況はその象徴のように思える。

 これは必ずしも日本だけの話ではない。世界中で、倫理観など持ち合わせていないような指導者が権力を私物化し、政治の理念を語るより権力闘争に明け暮れている。大国の指導者の中には安倍首相のお手本になりそうな人もいる。

 前回にも引用したカナダのメディア研究家、マーシャル・マクルーハンは、ラジオというメディアがなかったら、ヒットラーは歴史の舞台に登場しなかっただろうと言った(「ヒットラーの統治下にテレビが大規模に普及していたら、彼はたちまち姿を消していたことだろう。テレビが先に登場していたら、そもそもヒットラーなぞは存在しなかったろう」『メディア論』、原著1964、栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房)。そのひそみに倣えば、トランプ大統領も安倍首相もインターネットがなければ、現在のような〝活躍〟はできなかなかったように思われる。

 もちろん、彼らがインターネットをうまく利用して権力を握ったとだけ言っているわけではない(たしかにトランプ大統領はツイッターをよく使うけれど)。インターネットが人びとに与えた衝撃(驚きや歓喜だったり、逆に当惑と失望だったりしたけれど)がもたらしたかつて経験したことのない変化のうねりが私たちの足元を洗い、思わずふらついたその不意を突くような形で、現代の政治状況は成立しているのではないだろうか。

・「何でもあり」の風潮

 ここではその当惑と失望についてふれたい。パチンと割れる風船というよりも、音もなく消えてしまうシャボン玉に似て、ほんのかすかなものであろうと、それは全世界の片隅で、四六時中起こっている。そして塵も積もれば山となり、コロナウイルのように私たちを襲いつつあるのではないだろうか。以下はその塵の一部を素描したものである。

 私がまだ新聞社に在籍していたころの経験だが、1999年3月、広告会社・電通の発案で新聞の全国紙、ブロック紙、地方紙91紙を使って「意見広告キャンペーン」、題して「ニッポンをほめよう」キャンペーンが行われた。全国・ブロック紙では2ページ見開きで、左側に吉田茂元首相の顔写真が大きく載り、右側には「ニッポンをほめよう。」との大きな活字。本文は「『ニッポンをほめよう』は、わたしたち60の企業が発信する、共同声明です」で終わっており、59の企業名の最後に、朝日新聞には朝日新聞社、読売新聞には読売新聞社、日経新聞には日経新聞社というふうに、それぞれの掲載紙の会社名が載った。

 本文にはこう書いてあった。「政治が悪い、官僚が悪い、上司が悪い、教育が悪いと、戦犯さがしに明けくれるのは、もうよそう。ダメだダメだの大合唱からは、何も生まれはしないのだから」。

 まるでジャーナリズムを否定するかのような文言が含まれている意見広告に新聞社自らが名を列ねていることに対しては、当然、私の職場でも異論が出された。そのとき社員の1人から「今は何でもありだから」という発言を聞いた。折しも新聞産業はネットなどの新興メディアに押されて、部数も広告も減少しつつあった。発言の裏には「こんなうまい(おいしい)広告はめったにない」という気持ちが込められていただろう。今は何でもあり、できることは何でもして生き延びるしかないという諦観でもあったと思う。

 私は社外にも公表しているレポートで「現下のマスメディアに顕著に見られるのが『アイデンティティの喪失』である。多メディア化は、一方では新しいメディア企業による娯楽、スポーツ、生活情報など『売れる実用情報』提供を促進しつつ、他方では既存マスメディアにおけるジャーナリズム精神を衰退させているが、残念ながらその構図は、巨大資本の攻勢にたじたじとなり、あるいはそれに煽られて、マスメディアがジャーナリズム性を手放しつつある姿と捉えられるのかもしれない」と書いた(『表現の自由』の現代的危機について―インターネット規制と『サイバーリテラシー』」『朝日総研リポート』1999.6 NO.138)。

 インターネットが既存社会を破壊していくことに対しては、プラスマイナスの両面があるだろう。シュンペーターではないが、創造的破壊を通して経済(社会)は発展する。まず創造があって、ついで破壊が行われるのである。しかしインターネット(コンピュータ)という強力なイノベーションは、内部的な「創造」の契機が生ずるより先に、既存産業の「破壊」をもたらす。メディアに関して言えば、各企業はジャーナリズム機能を拡充するためのITを自ら開発するというよりも、シリコンバレー出来合いの技術を何とか利用して生きのびることしか考えるゆとりがなかった。

 外部からやってきた思わぬ破壊に直面した企業が、当の外部技術であるITを使って延命をはかろうとすれば、ITが持つ力にすがるのが精いっぱいで、自らのアイデンティティを保ちつつ、真の創造的発展を達成するのは難しい。そこではITの専門家、技術コンサルタントがもてはやされるばかりである。これは、多かれ少なかれ、他の産業の技術革新や異分野転出にも言えるのではないだろうか。

 ちなみに「何でもあり」という言葉は一般の辞書には載っていないようだが、オンラインで見つけた「実用日本語表現辞典」には「何をやってもよい、何も禁止されていない、といった状況を指す語。禁止事項が破られ、事実上無法状態に陥っているさまなどを指すことも多い」と説明されている。

・「等身大精神」の危機

 2005年に起きたみずほ証券の株誤発注事件も象徴的である。同証券の社員が人材派遣会社株の売り注文を「61万円で1株」とすべきところを「1円で61万株」と入力ミスしただけで、みずほ証券は約400億円の損害を受けた。

 ここで特筆すべきなのは、ほんのちょっとした、だれにでも起こりがちなコンピュータ入力ミスで、あっという間に会社に400億円の損害を与えてしまった社員はどう責任をとればいいのかということである。会社にかけた損害を賠償するという、ある意味でまっとうな考えはまったく意味をなさない。

 一方で誤発注を奇禍とした投資会社は多いところで120億円という大儲けをした。個人で20億円儲けた人もいた。20億円といえば、これまたサラリーマンが一生に稼ぐ額の十数倍である。

 かつてエコロジーの世界で、「等身大の技術」ということが言われた。過剰な技術によって自然を破壊するのではなく、ほどよい技術を使うことが大事だという考えで、たとえば、大型船でマグロを一網打尽にするのではなく、食べるに必要な分だけ一本釣りしながら自然のおすそわけにあずかるという共生の知恵だった。

 いまはコンピュータという精神機能拡張の道具が、私たちの知能の限界を打ち破る途方もない世界をもたらしている。こういうシステムに支えられていると、コツコツものを作り上げるといった仕事のありようが、どうにも馬鹿らしくなってくる。そこでは「等身大の精神」、別の表現を使えば、人間的なまっとうな生き方が危機に瀕していると言っていい。

 同じ年に起こったマンション耐震強度偽装事件は、設計の中核部分である「構造計画書」の数値が偽造され、震度5程度の地震がくれば倒壊の危険があるマンションやホテルが全国規模で建てられていたことが発覚したものだが、ここでも、一つの行為がもたらす結果があまりに膨大なために、建築士にしても、欠陥マンション量産業者にしても、犯した罪の責任をとりようがない状況が生まれている。

 逆に言うと、責任のとりようのないことを何の痛痒も感じずに行える状況に置かれている。両事件に共通するのは、「引き金の軽さ」と、それがもたらす「結果の重さ」である。

・盥の水といっしょに赤子を流す

 制度設計された当初の意図が空洞化し、恣意的に運営されがちな例は今に始まったことではない。問題はそのタガが完全に外れ、恣意的運営でどこが悪いというほどの野放図なものになっていることである。

 2つの事例を通して浮かび上がるやっかいな「塵」は、安倍政権、およびその周辺、さらには私たちにも大量に降りかかっている。

 先に上げた「何でもあり」の説明、「何をやってもよい、何も禁止されていない、といった状況を指す語。禁止事項が破られ、事実上無法状態に陥っているさまなどを指すことも多い」は、いかにも〝安倍〟的である。また「重大な結果」を熟議もせず、国民の声も聞かずに決めてしまう「引き金の軽さ」もまた安倍政権に特徴的である。

「サイバーリテラシーの提唱」で私は「毛虫がみずからの内部諸器官をいったんどろどろに溶かしてサナギとなり、一定期間をへたあとチョウへと変身するように、現代社会もまた時代の転換点にある」と書いた。既存秩序の崩壊は歴史が進むべきサナギ化の過程であるのは確かだが、問題はいま現代、どこにもチョウへと変身するきっかけが見えないことである。

 為政者、官僚、あるいは経営者、企業従業員、さらにはメディア企業、教育現場に至るまで、これまで営々と築いてきた価値を臆面もなくないがしろにする傾向が見られる。「決める政治」も、規制改革やイノベーションも、「盥の水といっしょに赤子を流す」結果になりがちで、古い秩序が持っていた長所もまた消えていく。

気が重い、我らが内なるやっかい

新サイバー閑話(39)謹賀新年

あけましておめでとうございます。

 正月5日に「男はつらいよ お帰り寅さん」を見てきました。平日とはいえ、劇場は高齢者でほぼ満席、パンフレットを買おうとしたら、売り切れでした。

 記念の50作目は寅さんの甥の満男とかつての恋人、泉が再開する3日間の出来事からなっており、その間にかつてのマドンナたちやいくつかの名シーンが織り込まれ、懐かしくもあり、楽しくもありました。マドンナではリリーを演じた浅丘ルリ子だけが登場しています。

 私は公開された49作は全部見ています。昨年夏、本サイバー閑話<平成とITと私>で『ASAHIパソコン』創刊をめぐる思い出を記録するため古い書類を整理していたら、まだ新聞社の整理部時代(1970年代中ごろ)に書いた、忘年会用寸劇のシナリオが出てきました。地元の大学の女子大生に助演を頼み、参加者に寅さん役を演じてもらったのですが、セピア色した用紙の手書き文字を見ていると、「当時、こんなことをしていたのか」と懐かしくなりました(登役は幹事がつとめた)。

 新年のご挨拶代わりに、そのシナリオを仮名遣いもそのままに復刻して、ここに紹介しておきます。まさにご笑覧ください。

男はつらいよ

西部整理部忘年会脚本復刻

 物のはじまりが一ならば、国のはじまりが大和の国、島のはじまりが淡路島。泥棒のはじまりが五右衛門なら、博奕打ちのはじまりが熊坂長範。ねえ兄さんは、寄ってらっしゃいの吉原のカブ。産で死んだか三島のおせん。四谷からこうじ町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、粋な姐さん立ち小便……

寅次郎 どうぞ近くによって見てやって下さい。結構毛だらけ猫灰だらけ、これまた結構な××新聞だよ。

女学生A トラさん、いつから新聞売りはじめたの。

寅次郎 今は情報化社会。地道に勉強しないと時勢に遅れるからね。(観衆に向って)やあ、××新聞の労働者諸君、ごくろうさん。あぶらと汗とインクにまみれて、一生懸命働いているかい。そう、赤えんぴつ握って、めしも食わずに訂正出して……。考えてみれば君たちも貧しい人たちだなあ。

女学生B そんなこと言うもんじゃないわ、トラさん。ではあなたは一体何階級の人なの。

寅次郎 そうだなあ、まあ中流じゃないの。

女学生B 中流ってのは、カラーテレビとか、ステレオとか持っていないとだめなの。あなたが持ってるのは四角いトランクだけじゃないの。

女学生A 物を持っているから偉いという考えはちょっとおかしいわ。大きな屋敷で鯉飼っててもくだらない人はいるのよ。財産がない人にこそ本当に立派な人がいるものよ。

寅次郎 いいこというねえ、学生さん。たいしたもんだよ、カエルのションベン。今のこと、何という本に出てるの?

女学生A トラさんはカラーテレビやステレオは持ってないけど、そのかわり、誰にも負けない、すばらしいものを持ってるわ。

寅次郎 えっ、何だって。俺のカバンあけて見たのか。

女学生A 形のあるものじゃないわ。

寅次郎 屁みたいなものか。

女学生A 違うわよ。つまり愛よ。人を愛する気持ちよ。

女学生B そんな高級なものを持っているとしたら、トラさん、さしずめ上流階級ね。

寅次郎 上流階級? 俺が? 気がつかなかったなあ。上流階級ねえ、この僕が……。では、今夜はこの辺でお開きにするか。

<カネの音>

寅次郎 鐘の音か。貧しい人びとがやすらかに眠りにつくんだろうなあ。

(おしまい)